「山月記」はなぜ国民教材となったのか

私は中島敦が好きなのでこの本を読ませてもらったのだが、まず、高校国語教師というのは、おおよそただの人である。指導要領もなしに授業などできない。では指導要領を作るひとたちはどうかと言えば、別に彼らが特に中島敦を理解できるわけではないだろう。だから「山月記」が高校の国語の教材として採録されれば、このような「誤読」や間違った「教育」が行われうるのは当たり前であって、国語教育批判はたとえば丸谷才一の『日本語のために』などが古くからあるのに、今更わざわざ怒ってどうするのかと思う。

次にこの作者は『山月記』がわかっていてこれを書いているのか。いや、わかる必要はない。自分なりの解釈、自分なりの思い込みがあればそれでよい。しかし、結局言っていることはこれは古潭という連作の中から切り取られて、わざと短編小説となって、わざとらしいお説教臭い教材に仕立てられたというだけだ。

中島敦生誕百年やガス抜きとしての中島敦に書いた通りだが、ドナルド・キーンがなんといおうと中島敦の作品は戦争小説ではない。あれは、南洋の現地人に日本語を教育するための教科書の教材として自ら書いてみたものだ。

「山月記」がなんで漢文調かっていえば、それは漢文をいきなり教えるのは難しいが、
漢文は日本語教育に不可欠だから、わざと漢文調の文章をこさえたのである。

それからみんなだまされているが中島敦は必ずしも漢文は得意じゃない。漢学の家に生まれたわけでもない。商人の祖父が趣味で漢詩をかじってただけで、中島敦よりも漢詩がうまい人は明治時代にはざらにいるし、江戸時代ならもっといる。昭和だとそんな多くなかったかもしれないが、少なくとも永井荷風は中島敦よりちゃんとした漢詩を作った。中島敦も彼の叔父も漢詩は平仄がむちゃくちゃ。「山月記」に出てくる漢詩も中島敦には決して作れないまともな詩だ。

それでまあ考えられるのは中島敦は、山月記とか李陵なんかは、わざと、擬古文みたいにして、難しい和漢混淆文を書いたのだということ。もともと教科書の教材として書いたものだから教科書と相性が良くてもおかしくない。

山月記自体は面白い教材だと思うが、私ならちょっと悪趣味だが「山月記」と一緒に原作の「人虎傳」を読ませるだろうと思う。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

というところは

隴西李微博學弱冠從州府貢焉時號名士天寶十五載春於尚書右丞楊門下登進士第後數年調選補尉江南微性疎逸恃才倨傲不能屈跡卑僚

の訳である。「才穎」「虎榜に連ね」などという表現に若干のオリジナリティーがあるが、
だいたいは同じである。いきなり「人虎傳」を教材にしては難しすぎるから、中島敦が多少現代風にアレンジした、というあたりが真実だと思う。

追記: 人虎伝、中島敦の書簡と日記。

エウドキア ギリシャの女帝

「ギリシャ人の王国」のタイトルを「エウドキア ギリシャ人の女帝」に変更。
あまりセルジュークやノルマンのことは書かずに済ますつもりだったが、ある程度追記。

小説でもカラオケでも、誰も知らないやつは受けない、そんな気がする。逆に誰もが知っているネタはただそれだけで受ける。誰もが知っている人が書けば受ける。高城剛とか堀江貴文とか。それが消費者心理(笑)。

今回の「エウドキア」も売れない自信ならある。でももし売れちゃったら。マーケティング考え直さなきゃな。売れなかったら。当分こんなの書かない。

表紙の画像がなかなか入れ替わらないな。中身が変わるのもも少し時間がかかるだろう。

無料キャンペーンとかやめちゃおうかな。しばらく放置。

留置まし

反実仮想まとめが良く読まれているのがおかしいのだが、 たぶん「反実仮想」「まとめ」でググって来ているのだろう。 記事のタイトルに「まとめ」といちいち入れるとアクセスが増えるかもしれない(笑)。

これは先にまし、 とも・・・まし、 というのを書いてさらに調べたものを追加してまとめたという意味。もとはといえば、 吉田松陰の

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

という歌の解釈が難しいからである。 それでまあ、今改めて考えてみるに、 幕末は武士の勇ましい和歌が流行していて、 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも」「大和魂」などはまさに当時の志士が好んだ言い回しなのだが、 なぜか「留め置かまし」の部分だけが非常に雅びで女々しい。 そうするともしかして「大和魂」もまた、 源氏物語に出てくるような女々しい意味で使われているのではなかろうかという疑いが出てきて、 この歌は実はかなり弱音を吐いた歌なんじゃないかと思えてくるのである。

でまあ吉田松陰がそこまで意図してこの歌を詠んだかどうかわからんのだが、 この歌は幕末の殺気だった雰囲気と平安朝の雅びな雰囲気が混在していて、すごく違和感がある。
すごく困惑させられる。 で、以前にも書いたように、私なら、「留め置かまし」ではなく「留め置かばや」とか詠むだろう。 「まし」だと「まほし」の誤用ではないかと誤解される可能性がある。 そう思われるのが怖いからたぶん私は「ばや」にするだろう。 「留め置かむ」が良いが字足らずで「留めて置かむ」ではなんか力が抜ける。 「留め置きてむ」は強いがちょっと違う。 「留め置かなむ」だと「留めおきたいなあ」みたいな感じで変。

川越素描では、吉田松陰の歌を元にしつつ、やはり「ばや」で受けた。

資長のアリア(I)
おお、佐枝、無念なり 忠勤尽くせし我が君に
謀反の疑念をいだかれて 今こそ我は討たれたれ
願はくはこの魂魄を 東(あづま)の国にとどめおき
憎(にっ)くき仇(かたき)上杉の 子孫の胤(たね)を絶やさばや

まあこれだと紛れもない武士の歌である。
でも完全な武士の歌にしてしまうと物足りなくもあり、味気なくもある。
だから、吉田松陰の歌は「留め置まし」でなくてはならず、
そうでなければ維新となって爆発する内部応力をこの歌は持ち得なかっただろう。

敷島の道

「敷島の道」なんてのは足利尊氏が歌に詠み始めた(流行らせた)なんて書いたのが気になって調べてみたのだが、「しきしまの」は「やまと」などに懸かる枕詞でこれは古語だ。
崇徳院御製に「しきしまのやまとのうた」というのがあるが、これは和歌のことであるが、貫之が「やまとうたは」などと言っているのとなんら変わらない。少なくとも古今集の時代にはあった言葉だ。宣長の「しきしまのやまとごころ」これもまた平安中期頃にあっておかしくない言い方。

しかるに「しきしまの道」を「歌道」という意味に用い始めたのは案外新しいはずだ。
たぶん初出はなんかの歌学書もしくは勅撰集の仮名序であろう。明らかに後世作られた「歌学用語」である。そもそも「道」なんてことぱには要するに宣長があまり好きではない漢才の匂いがする。

和歌に詠まれた「しきしまのみち」の初出は玉葉集らしい。九条孝博

おろかなる身をば知れども代々経ぬるあとをぞたのむ敷島の道

ただこれ、初出な上に「日本の道」と言ってるだけなんでほんとに歌道の意味で使ったかは不明。だんだんと定着していったんだろうけど。

冷泉為相

これのみぞ人の国より伝はらで神代を受けし敷島の道

二条為藤

住吉の松の思はむことのはを我が身にはつる敷島の道

住吉の松も花咲く御代にあひてとがへり守れ敷島の道

うーん。ほんとに和歌のことかどうか、あやしいよな。

為藤は為世の子だから明らかに二条派だろうな。為相はどちらかといえば京極派?

玉葉は伏見院の院宣による持明院統と大覚寺統に分かれて争っていた鎌倉後期の成立、
しかも京極派が優勢だったころで、かつ、九条孝博は玉葉集の選者の一人で伏見院の側近、どちらかといえば京極派だったかもしれない。いずれにしろ歌論というものがやかましく言われるようになったころに生まれた言葉だわな。時代的に足利尊氏がその影響をもろに受けたのは自然。ていうか東国の武士が朝廷に接近するためにはまずは和歌を学ばないと、敷島の道にはげまないと、と彼は考えただろう。尊氏が歌好きだから将軍はじめ武士はみんな和歌好きになってしまった。

なにごとも思はぬ中に敷島の道ぞこの世の望みなりける

すごいよなこの尊氏の歌。足利将軍の歌ですよといわれなきゃ誰もわかるまい。ましかし武士だからこそ逆にこんな言い方をしたのかもしれんが。

こういうの調べ始めるときりがないんだけど。

追記: 敷島の道2

上田秋成の誤解

願はくは 花のもとにて 千代も経む そのきさらぎの 盛りながらに

これは宣長の歌で、明らかに西行の歌

願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃

を本歌としたものである。宣長らしいおもしろい返し方だ。上田秋成が、宣長の

敷島の 大和心を ひと問はば 朝日ににほふ 山桜花

を批判しているのだが、

大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。 おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。 おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。

宣長は、賀茂真淵や平田篤胤とはまったく違う意味に「大和心」「大和魂」という言葉を使っていた。「大和心」「大和魂」がもともと源氏物語や赤染衛門の歌に出てくるように、それはもとはといえば女言葉であり、平安時代の日本の女性的な心をさすものであった。特に「漢学」に対する言葉だった。宣長はもちろんそういう意味で使っている。漢心(からごころ)、漢才(からざえ)に対して大和心という言葉を使っている。そのことを指摘したのは小林秀雄だったと思うが今ちょっと良く思い出せない。

宣長が「大和魂」などという言葉を使ったのだろうか。使った可能性もあるが、それは「たをやめ」の「弱く女々しい心」という意味に使ったはずだ。敷島の大和心とは何かと人に問われれば、それは「朝日ににほふ山桜花」をひたすら愛でる、私のような、女々しい心のことだ、と解釈しなくてはならない。宣長が詠んだ大量の桜の歌をみればその気持ちを補完できるだろう。

宣長は復古神道の創始者(の一人)ということになってしまった。だから「敷島の」の歌も誤解されている。秋成も誤解した。ただし秋成は「正しく誤解」している。つまり宣長があんまり外国よりも日本を崇拝するのが気持ち悪いという意味で言っている。宣長にしてみれば国学の重要性を強調したいが故に、極端な表現をした。それくらい当時の漢学崇拝は空気のように自然であり、宣長は孤立無援だった(ある意味今も宣長はほとんど誰にも理解されていないという意味で孤立無援である)。

しかし宣長の弟子の国学者たちは「間違って誤解」した。大和心、大和魂を日本男子の猛々しい心だと考えた。平安時代より前の武人の心だと解釈した。

そしてその誤解が宣長を余計に有名にしてしまった。すべては後の世の人たちの仕業である。

ちなみに和歌のことを「敷島の道」などと詠み始めたのは足利尊氏ではないか。少なくとも彼がその一人であるのは間違いない。尊氏も武士からぬ女々しい和歌を詠んだ。大量に詠んだ。室町時代に勅撰集がやたらと作られたのは尊氏のDNAのせいだろう。彼が和歌好きだったのは間違いない。実は周りの武士団が勇ましいだけで、その真ん中にいた尊氏はほんとに女々しいだけの人だったかもしれないと思う。

追記:昔の記事を読み返すとほとんど同じことを書いていた。国意考。ついでに敷島の道。

娑羅双樹の花

西行の歌に

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃

というのがあるのだが、旧暦2月15日はおよそ春分の日のことであり、桜が咲くには早すぎる、と以前から思っていた。旧暦2月15日は釈迦涅槃の日でもあって、娑羅双樹の木の下で死んだことになっているから、ここで花というのはおそらく娑羅双樹の花をさしている。こんなことを私が初めて発見したわけはないと思いググってみると、川田順という人が「古典日本文学全集西行集」の中で言及しているらしい。

娑羅双樹なんて日本に生えているわけがない。また娑羅双樹の花が咲くのは初夏であり、
涅槃日とされる春分の日には絶対に咲かない。また桜の花でもあり得ない。つまり、「願はくは」は完全に空想の歌であり、何か具体的な花をさしているのではなく、ある抽象的・観念的な死の花を言っている。あるいは死後の西方浄土の世界を詠んでいる。現実の、春分の頃に咲く梅とか桃とかの花ですらない、ということになる。

おそらく後世の人があやまって(あるいは故意に)山家集の桜の歌の中に「願はくは」の歌を混ぜてしまったのだろう。特にその次に

仏には桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば

をもってきたのはまずかった。当然「願はくは」の花は桜だという誤解を定着させた。しかるに、もしこの花が娑羅双樹の花だとわかるように歌集の中に配置されたり詞書がついてたりしたら、このように有名になることも、西行の代表歌になることもなかっただろう。

西行と桜のイメージの相乗効果によってこの歌も西行も有名になったのだ。こういうふうに後世の人の誤解(脚色)のせいで有名になることはたくさんあると思う。そもそも釈迦の涅槃が春分の日であるというのも根拠がない。後世の人がえいやっと春分の日を涅槃日ということにしたのにすぎない。クリスマスがちょうど冬至の日にあたっているようなものだ。当然、西行が春分の日に死んだことになってるのもただの伝説にすぎない。人は真実を知るよりもむしろ美しい嘘にだまされたいものなのだ。

「古今和歌集の真相」の記述も少し書き換える必要がある。「西行秘伝」はもともとフィクションだからいじる必要はない。

そうして疑ってみると「願はくは」の一つ前の歌

はなにそむこころのいかで残りけむ捨てはててきと思ふ我が身に

これも実景を詠んだのではなく、釈迦入滅の心境を詠んだものかもしれない、とも思える。釈迦が死の直前に弟子のアーナンダに「この世界は美しい。そして、人生は甘美である」と言ったとあるが、この時釈迦が見ていた花はマンゴーの花であったかもしれない。そして西行はこの臨終の際に釈迦が言った言葉を和歌に翻訳してみたのかもしれない。


追記: 娑羅双樹の花が咲くのはインド暦で2番目の月だそうだ。

西行秘伝レビュー

『西行秘伝』にレビュー を書いてくださった方がいて、 その方が書いた他のレビューも読ませていただいたが、 日本史の専門家の方というよりは一般の読者のようにお見受けしました。

非常に的確なご指摘で、感謝しております。 「確かな歴史観に裏打ちされた良質なフィクション」とは私には最高の褒め言葉です。 「歴史に基づかないいいかげんなドキュメンタリー」の逆ということですよね。

私自身は理系なので歴史の高等教育を受けたわけではなくて独学なのだけど (古文と漢文はIIまでやったけど)、 ごく普通の読者が一気に読めてしまったというのに驚いている。 もちろん私も誰にも読めないような難解な話を書くつもりはなく、 「読んで楽しくためになる」ものを書いているつもりだけど、 たぶん一般読者には読めないのだろうなと尻込みしていた。 たとえば和歌や古文に特に現代語訳を付けてないところがあって、 高校古文II程度の学力があれば普通に読めるとは思うが、 世の中そんな人ばかりではないはず。

『将軍家の仲人』なども読めない人とさらっと読んでしまうひとがいる。 読める人のために信じるように書けばよいということだと思った。

追記: 今ちょっと読み返してみたのだが、 最後の、後白河院に頼朝が謁見するあたりが、かなりわかりにくい。 もう少しなんとかしなきゃならないなと思う。 まあ、これはこれで、このまま放置するという手もあるのだが。

石垣山と石橋山

たまたま小田原に行く機会があったので石垣山に行こうとおもった。一日空いていたから、時間があれば石橋山にも行こうとおもった。石垣山は有名な観光地であろうから、さくさくいけると思ったら甘かった。頂上までは農道しかなく歩行者ではなく農耕車が優先だなどと書いてある。こんな観光地はない。登り口の表示もわかりにくく結局は google maps に頼ることになった。できれば箱根登山鉄道の、博物館辺りから遊歩道が欲しいところだ。そしたらすごく良い観光地になるだろうにと思う。史跡はすばらしいのだから。
どうもこの自治体はやることがいろいろとちぐはぐだ。言いたいことは山ほどあるが、文句を言うのはこのくらいにしておこう。

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本丸跡からの眺め。小田原市街、相模湾が見える。酒匂川河口だけ砂浜が突起しているのがわかる。手前の芝生は二の丸跡。

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本丸跡の石垣。だいぶ崩れているが、これはすごい。こんなすごい山城跡は滅多にない。

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秀吉一夜城ともいうこの小田原攻めの主城は石垣山というだけあって、石垣がものすごくたくさん残っている。山城でこんだけ石積みがあるのは珍しいのではないか。まあ、熊本城とは比べものにならないかもしれないが。一応はテンポラリーな作りの城のはずだが、数年がかりの長期戦を予測していたのか。あるいは土木技術を見せつけた、ブラフのたぐいなのか。

本丸跡も天守台跡もなかなか立派だが、圧巻なのはこの写真にみるような井戸曲輪跡というもので、すり鉢状になった一番底の穴にはまだ水が湧いている。おそらく地形を利用して雨水を溜める機能もあったのだろう。

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海側に山を下りて石橋というところまでは国道沿いに歩道があったが、歩道はここまでで、あとは山の中の農道しかない。農道しかないのでは田舎と同じだが、田舎なんだから仕方ない。もう観光者気分はやめた。佐奈田霊社はそういう田舎のミカン畑の真ん中にある。おそらくみんな車で来るのだろう。小田原から歩いてくる人は皆無に違いない。いるとしても小田原市が作成した山歩きの地図を持っているはずだ。道ばたにたてられていたこの地図を写真に写して手がかりとし、あとはgoogle mapsを頼りになんとかたどりついた。

佐奈田霊社は石橋山の戦いという古戦場にあって、これは頼朝が伊豆で挙兵して最初に敗北し、佐奈田与一という味方を討たれて、いったん房総半島に逃げたという歴史的には非常に重要な場所なのだが、実にもったいないというかなんといえばよいのかわからない。鎌倉の混雑っぷりとここの過疎っぷりを見ると、観光業とはいったいなんなのだろうと思う。

佐奈田与一が討たれたという場所は普通のミカン畑だった。お土産に現地販売のミカンを買ってくるのを忘れた。

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小田原から根府川まで歩こうという人にはこの地図はあまりにも重要なので、まあフェアユースだと思うので掲載させてもらう。歩いてみて思うにハイキングコースとして悪くない。いや、かなり良いほうだと思う。景色もいいし。しかし何度も言うがこれは農道以外の何物でもない。農道でかつほとんど車が通らないので歩くのは快適だったがさんざん迷った。

根府川は駅前にコンビニすらない田舎の駅だった。

今回気づいたのだが、androidタブレットのgoogle maps は自分の wifi ルータが電池切れしても、自分が今いる位置がわかるのだ。つまりandroid端末は常に利用可能な周囲のwifiルータを検索しているから、その複数のルータから三角測量的に位置を推定している。検索機能などは使えないものの、位置だけはわかるのである。すごい。おそらくこれがkindleにはない。あるのかもしれないがgoogle mapsと連携してなくて非常に遅くなるのだろう。今回歩いたのは主に山道だったが、近くを東海道線とか西湘バイパスなどが走っているので、アンテナはたくさんあったのに違いない。

小田原城

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小田原城はきれいなんだが、木が天守閣を隠しているのはよくないと思うんだ。城というモノは威厳を示すものだから、東海道筋を通ってきた旅人たちにも、堀と、櫓と、天守閣が見えるようになっていたと思う。決して木で隠すなんてもったいないことはしなかったはず。


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本丸のすぐ下、というか、本丸の一部に図書館と文化館があるのだが、それはまあ良いとして、そこまで電信柱と電線が通っているのはいかがなものか。こういう現代建築こそ木で隠すなどの配慮をしてほしいものだ。特に電線は地中に埋めるとか。そのくらいの配慮がなぜできないのかと思う。城は堀の外から眺めた姿も大事だと思う。特に櫓や橋が壕に逆さまに移り込んでるのが絵的に極めて貴重なのだ。


後拾遺集

結構百人一首に採られてるな。

43 心あらん 人にみせばや 津の國の 難波わたりの 春のけしきを

能因法師。ジャストシステム様、能因法師を一発変換できるようにして欲しいです。

46 立はなれ 澤べになるゝ 春駒は おのがかげをや 友とみるらん

着眼点がおもしろい。公任。

52 春の夜の やみにしなれば 匂ひくる 梅より外の 花なかりけり

これも公任

55 我やどの 垣根のうめの うつり香に 獨ねもせぬ 心地こそすれ

詠み人知らず

57 春はたゞ 我宿にのみ 梅さかば かれにし人も 見にときなまし

和泉式部の歌。すばらしい。

62 我宿に うゑぬばかりぞ 梅花 あるじなりとも かばかりぞみん

主でさえこれほどに見るだろうか。

89 いづれをか わきてをらまし 山櫻 心うつらぬ えだしなければ
93 白河院にて、花を見てよみ侍りける 民部卿長家
あづまぢの 人にとはばや 白川の 關にもかくや 花はにほふと

これはおもしろい。感動した。

160 聲絶ず さへづれ野べの 百千鳥 殘りすくなき 春にやはあらぬ
165 四月ついたちの日、よめる 和泉式部
さくら色に そめし衣を ぬぎかへて やま郭公 けふよりぞまつ
214 さみだれの 空なつかしく にほふ哉 花たちばなに 風や吹らん

相模。さらりと。

216 おともせで おもひにもゆる 螢こそ なく虫よりも 哀なりけれ

重之

217 宇治前太政大臣卅講の後、歌合し侍りけるに、螢をよめる 藤原良經朝臣
澤水に 空なる星の うつるかと みゆるは夜はの ほたる也けり
229 夏の夜凉しき心をよみ侍りける 堀河右大臣
ほどもなく 夏の凉しく 成ぬるは 人にしられで 秋やきぬらん
265 秋も秋こよひもこよひ月も月ところもところ見る君も君

詠み人しらず。

379 大井川ふるき流れをたづね来て嵐の山のもみぢをぞ見る

白河天皇御製。宇多上皇が御幸した大井川(大堰川)とはやはり嵐山あたりの桂川のことを言うわけだ。

390 さびしさに煙をだにもたたじとて柴折りくぶる冬の山里

和泉式部。

404 いづかたと甲斐の白根はしらねども雪ふるごとに思ひこそやれ
539 立ちのぼる煙につけて思ふかないつまた我を人のかく見む

和泉式部

607 かくなむと海人のいさり火ほのめかせ磯べの波のをりもよからば

源頼光。これは珍しい。頼光が歌を詠むというのが珍しいし、「なむ」が歌に使われるのが珍しい。

611 おぼめくなたれともなくてよひよひに夢に見えけむわれぞその人

和泉式部。これも珍しい。「おぼめくな」などという口語的な言い方をするとは。

624 こほりとも人の心を思はばやけさ立つ春の風にとくべく

能因法師。貫之の、袖ひちて結びし水の凍れるを春立つけふの風やとくらむ、が本歌であろうが、うまくひねってある。

625 満つ潮の干るまだになき浦なれやかよふ千鳥の跡も見えぬは
635 したきゆる雪間の草のめづらしくわが思ふ人に逢ひみてしがな

和泉式部。序詞がうまく効いてる。

646 つれもなき人もあはれといひてまし恋するほどを知らせだにせば

赤染右衛門。どうかこれは。

657 恋死なむいのちはことの数ならでつれなき人のはてぞゆかしき
658 つれなくてやみぬる人にいまはただ恋死ぬとだに聞かせてしがな

陳腐ではあるがなかなかおもしろい。

664 ほどもなく恋ふる心はなになれや知らでだにこそ年はへにしか
678 たのむるをたのむべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせん

相模。期待させるあなたに期待はしないが待つとはなしに待つかもしれません。なんかな。

708 風の音の身にしむばかりきこゆるは我が身に秋やちかくなるらむ

詠み人知らず

712 明日ならば忘らるる身になりぬべしけふを過ぐさぬ命ともがな

赤染右衛門。忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな、の本歌か。赤染右衛門のやけくそな感じがおもしろい。君がため惜しからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな、の真逆を言っているのがおもしろい。

753 来じとだにいはで絶えなばうかりける人のまことをいかで知らまし

相模。もう来ないといって来なくなった人へ。来ないとすら言わず来なくなったなら、つらい人の本心をどうやって知ることができよう (来ないと言い残したので本心は知っている)。 なんかもうね。

754 たが袖に君重ぬらむからころもよなよな我に片敷かせつつ

これも相模。すごい歌だな。中島みゆきみたいだな。

755 黒髪のみだれも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき。

和泉式部。これ有名。これ知ってる。

779 こひすとも涙の色のなかりせばしばしは人に知られざらまし

良い歌だなこれ。弁乳母。

790 世の中に恋てふ色はなけれどもふかく身にしむものにぞありける

これも和泉式部。さらっと。でも良い歌。「恋てふ色」なかなか詠めそうで詠めぬよなあ。

796 荒磯海の浜のまさごをみなもがなひとり寝る夜の数にとるべく

相模。荒磯海の浜の真砂を全部欲しいと。

797 かぞふれば空なる星も知るものをなにをつらさの数にとらまし

藤原長能。星の数は数えられても、つらさの数をどうやってはかればよいのか。

798 つれづれと思へば長き春の日にたのむこととはながめをぞする

眺めているしかない。つまり期待できることはない。

801 君こふる心はちぢにくだくれどひとつも失せぬものにぞありける

和泉式部。

810 君がためおつる涙の玉ならばつらぬきかけて見せましものを

ありがち。

811 契りあらば思ふがごとぞ思はましあやしや何のむくいなるらむ
812 けふ死なばあすまでものは思はじと思ふにだにもかなはぬぞうき
816 神無月よはのしぐれにことよせて片敷く袖をほしぞわづらふ

相模

820 人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ

和泉式部。夏の虫が燃えて死ぬように、人の身も恋に燃やして代えてしまおう。

826 うしとてもさらに思ひぞかへされぬ恋は裏なきものにぞありける
831 白露も夢もこの世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり

和泉式部。これもなんか知ってるな。

とりあえずこのへんにしとく。

後拾遺集はやっぱすごいわ。とくに和泉式部。相模もすごい。選者に共感するところがある。

でね、後世まあ定家とかがつまみぐいした百人一首が流行ったおかげで、定家的に解釈される傾向があるのだが、つまみぐあいによれば後拾遺集は写実的な歌ばかりのようにもみえ、定家みたいにつまめば幽玄有情みたいにみえなくもない。どちらともとりえる。

少なくとも後拾遺集は古今集の影響はそれほど無いとみた。もちろんだじゃれや掛詞だけのうたもあるからそれが貫之の二番煎じだというようにピックアップすることもできるのだが、それはあまりにも後拾遺集というものをゆがめてみすぎだと思う。