文学部唯野教授2

引き続き、第2講「新批評」。

マックスウェーバーが「典型的かつ大量に行われる社会的闘争はながい間には結果的に、重要な個人的性質を持つものを淘汰するに至る」と言っているらしいのだが、これは ピーターの法則 のことではないのか。よくわからんがとりあえず備忘録代わり。

うーむ。ヴィトゲンシュタインという哲学者は「すべてのものを正確にあるがままの形でほったらかしておくものだ」と言っていて、それはつまり「文学作品を解剖するのは人間の体を切り刻むのと同じ非道な行為」だからで、「ちょい本居宣長」だと言っている。なぜそこでまた本居宣長。本居宣長は、そんなこと言ってないよ全然。筒井康隆の中では本居宣長っていう人はどういう人ということになっているのかなあ。「ちょい小林秀雄」、という意味でなら少しは当たってるのかな。小林秀雄は、よくわかりません、なんでゴッホとかモーツァルトとかまで口出ししてるのか。全然わからん。で、小林秀雄と本居宣長は全然別の人格だと思うんだけど。

「新批評」は「科学合理主義のパロディ」「技術優先」「判断停止」ふーん。とりあえずメモ。

文学部唯野教授

なんとなく手持ちの本を読み始める。

『文学部唯野教授』第一講「印象批評」。

ここで、筒井康隆は、「印象批評」とは、「神様並みの常識持」つ人にしか出来ないことで、日本人ならば小林秀雄や本居宣長くらいだ、などと言っていて、妙に感心してしまったので、久しぶりにここに書いているのだが。

さらに「神様並みの常識持」つ「印象批評」をする人でも「小説は無秩序だから面白い」とか「登場人物の性格が行き当たりばったりだからこそ自然に見える」などと言っている。うーむ。たぶん、いや確実にだが、筒井康隆は、きちんとプロットを考えて、登場人物の性格もきちんと設定して、小説を書いているにもかかわらず、「あなたの小説はカオスなところが面白いですね」とか「登場人物の性格が破綻しているから面白いですね」などと言われて頭に来たのだろうな。はははわかるわかる。

国文科は小林秀雄の『本居宣長』を半強制的に読まされるのか。以前この部分を読んだときは、そもそも小林秀雄も本居宣長も読んではいなかったので、ちんぷんかんぷんだったのだが、今ならだいたいわかる。小林秀雄の『本居宣長』も、本居宣長の著作も、精読した(つもり)だからだ。

で、本居宣長の「されば、緒の言は、その然云フ本の意を考えんよりは、古人の用ひたる所を、良く考へて、云々のことは、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし」を原文密着主義、などと筒井康隆は言っているのだが、はて、そうだろうか。まず、もとの本居宣長の引用だけど、「用ひ」などの仮名遣いが間違っていて、しかも送りがながひらがななところを見ると、たぶん岩波文庫版の『排蘆小船』から引いたものだろうと思うのだが、だとしても、宣長が言いたかったことは単に、古語で意味の通らない言葉が出てきたときには、その事例をできるだけたくさん調べて、意味を解読する必要があるよ、ということだろう。言葉の意味の本質などというものをいくら考えても無駄で、できるだけたくさんの文献に当たって用例を調べて類推しろと言っているだけだ。これをひとことでなんと言い表すかは知らんが、それを「神様並みの常識を持つ人の印象批評」とか「原文密着主義」などと言ってよいのだろうか、と疑問に思ってしまうわけだ。

子母沢寛と司馬遼太郎 2

思うにこれまで、子母沢寛と司馬遼太郎というのは、あまり対比して語られることはなかったと思うのだが、比べてみるといろいろと面白い。境遇が似ている。何度か面談もし、対談も残している。どちらかと言えば、司馬遼太郎が一方的に慕ったかたちだ。子母沢寛は1892年生まれ、司馬遼太郎は1923年生まれ。約30才離れている。司馬遼太郎は、燃えよ剣など書いてみて、幕末維新を取材するには直接の関係者はもう死に絶えていて、不可能だと気づいたと思う。たとえば土方歳三が死ぬのは1869年。しかし乃木希典が死ぬのは1912年。ざっと40年後だ。司馬遼太郎は、戦国時代とか幕末維新などの時代が好きで良く小説に書いたわけだが、子母沢寛のように、取材に基づいた歴史物も書いてみたいと思ったに違いない。そうすると子母沢寛が取材して書いた時代から30年から40年ほど後となると日清日露の時代であり、このころだとまだ関係者で生きている人がたくさん居るわけだ。そこでまず実験的に「殉死」を書いてその後「坂の上の雲」を書いたのではなかろうか。実際「殉死」の後書きには、それっぽいことが書かれている。まだ関係者が生きている生々しい時代の歴史小説を彼は狙って書いたのだが、しかし自分が参加した戦争については敢えて小説には書かなかった。風景画も静物画も対象からある程度離れないと描けないが離れすぎると見えなくてやはり描けない。そんなふうなものか。自分の祖父の時代の歴史というのが一番小説には書き良いのかもしれん。ここらは子母沢寛の方法論だと言えると思う。

子母沢寛と司馬遼太郎

1967年に子母沢寛と司馬遼太郎が対談している。子母沢寛は1968年に死んでいるので最晩年だが、司馬遼太郎は44才、「燃えよ剣」や「殉死」など、初期の作品を書いたばかりの頃だ。司馬遼太郎ははたちくらいに子母沢寛の「新撰組始末記」を読んで、どうしてもこれは超えられないと思い、子母沢寛に会いに行って教えを請うたという。両者とも新聞記者から歴史小説家になったのだから似た境遇ではある。

「新撰組始末記」を改めて読むとこれは小説とかそんなものではなくて、大論文だ。これをおもしろがって読んだ人がいるとは思えない。ただ学術的、歴史的にはそうとう重要な本であろうとは思う。司馬遼太郎はしかしそもそもこんな小説を書こうなどと思ったはずはない。最初からもう少し色気のあるものを書こうと思っていたに違いない。それに、大正時代には生き証人に取材もできるが司馬遼太郎の時代にはできるはずもない。ただ謙遜して自分には書けないと言ったのではなかろう。司馬遼太郎はあまり謙遜するような人でもない。

対談は「幕末よもやま」というタイトルでそんな長いものではなく、しかも司馬遼太郎が勝手に一方的にしゃべっている感じ。ときどき子母沢寛も発言している、という程度。ほとんど新撰組と彰義隊の話で、龍馬の話でもしていてくれると面白かったのだが、司馬遼太郎が遠慮したのか。

紀貫之と吉田松陰と坂本龍馬

坂本龍馬の有名な歌

世の中の 人は何とも 言はば言へ 我がなすことは 我のみぞ知る

については以前も考察した[1,2]。
これは直接には、吉田松陰の歌

世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が心は 神ぞ知るらむ

を本歌とするものだと思っていたのだが、紀貫之の歌に

人知れぬ 思ひのみこそ わびしけれ わが歎きをば 我のみぞ知る

というものがある。古今集に収録されていて、坂本家は一族全員が和歌をたしなんだというから、 坂本龍馬がこの歌を知らなかったはずはなかろう。 紀貫之と吉田松陰の歌から、ほとんど自動的に坂本龍馬の歌が出てくるのは誰の目にも明らかだ。

大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです

どうなのかなあ。 大岡信という人がどうなのか、はなはだ懐疑的なのだが、 ざっと坂本龍馬の歌を見る限りでは、吉田松陰の影響がかなり強いと思えるし、 たとえば

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

これなんかはまったく吉田松陰の歌

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

そのままだし(しかも「なほやむべきか」は意味不明)、 それ以外ではいわゆる月並な古今調というか、つまりは江戸後期から幕末に流行した桂園派そのもののように思える。 勝海舟もけっこう和歌を詠んだ方なので、多かれ少なかれ影響はあるに違いない。 ただまあ詠草にあれこれ文句を言っても仕方ない。 歌集を出版したというならともかく、詠草というのは未発表の草稿というほどのものだろうから、 それが松陰や貫之の歌にそっくりだったとしても、龍馬が悪いわけではない。

大岡信という人は何を根拠に新葉集やら新古今やらを持ち出してきたのだろうか。 新葉集については龍馬がそれをほしがったという逸話に引っ張られているだけではないか。 具体的に、新葉集のどの歌、どのような歌風と似ていると言いたかったのだろうか。

龍馬と言えば誰もかれも無批判にほめる風潮の昨今。 龍馬は、「文盲」ではなかったかもしれないが、かなりそれに近かった可能性が高い。

ほんとうの秀歌

後撰集や拾遺集を読んでいるのだが、ほんとうの秀歌というのは、三代集、つまり古今・後撰・拾遺集のよみ人知らず、または人麿の歌にこそあると思うんだな。しかし現代日本人はまず、小倉百人一首から和歌に入る。そうすると、とんでもない駄作、まったく無名の歌人などの方が有名になってしまう。赤染衛門などはまだ良いとして喜撰法師などはまったくどうでもよい人だとしか言いようがない。このあたりが、和歌の感覚をいちじるしく混乱させているのは間違いない。

特に、後撰集や拾遺集の雑などに無造作に収録されたよみ人しらずの歌に実に良いものが多い。拾遺集には「雑春」とか「雑恋」などの巻もあってびっくりする。こんなものは、
他の歌集にはなかろう。たぶん、集めたことは集めたが編集しきれなかったのだろう。たとえばだけど、

ささがにの 空に巣がける 糸よりも 心細しや 絶えぬと思へば

蜘蛛の巣の糸よりも心細い、と言っているだけなのだが。次は、山田法師という、ごく無名の人

あしひきの 山下とよみ 鳴く鳥も 我がごと絶えず もの思ふらめや

「らめ」とか「らめや」って面白いな。

我が恋を 人知るらめや 敷妙の 枕のみこそ知らば知るらめ
秋なれば 山とよむまで 鳴く鹿に 我おとらめや ひとり寝る夜は

おもしろい歌だなあ。

過ちの あるかなきかを 知らぬ身は 厭ふに似たる 心地こそすれ

久しぶりに訪れた女性がなかなか会おうとしないので、自分の側に過失があって会ってくれないのか、嫌われてしまったような気分になる、という意味。

うつくしと 思ひし妹を 夢に見て 起きて探るに なきぞ悲しき

これもよみ人知らず。なんか似たような歌があったようななかったような。万葉集か。中務

忘られて しばしまどろむ ほどもがな いつかは君を 夢ならで見む

義経

司馬遼太郎全集をまた読み始める。「義経」の最初の方に、

武家は二流にわかれている。源氏と平家であった。その勢力地図もくっきりしている。源氏は東国に地盤をもって騎馬戦が強く、平家は西国に地盤をもって、海戦と貿易に長じていた。

というのだが、はて、確かに平清盛は「西国に地盤をもって、海戦と貿易に長じていた」と言えるが、平治の乱ののちは圧倒的に平氏の天下であって、東国にも平氏と源氏が割拠しており、源氏が東国に地盤を持っていたとは言い難い。たとえば頼朝が預けられた伊豆の北条氏も平氏側だし、関東にも平広常などがおり、頼朝挙兵のときにも大半は平氏側だった。明らかにおかしな記述だ。まあそんなことにいちいち目くじらを立てるまでもないのかもしれんが。しかし、頼朝が源氏の地盤の関東で挙兵したから簡単にことが成った、と思われては困るのだ。

しちすつの濁音のこと

司馬遼太郎が「歴史を紀行する」に

坂本竜馬は生涯、どの土地のたれに会ったときでもまる出しの土佐弁で押し通したという。おかしければ本居宣長の「玉勝間」を読め、というところであろう。そこでは土佐人の発音の正確さについてほめて書かれているのである。

とあるのだが、これは玉勝間に

土佐の国の言には、「し」と「ち」と、「す」と「つ」の濁り声、おのづからよく分かれて、まがふことなし。さればわづかにいろはもじを書くほどの童といへども、この仮字をば、書き誤ることなしと、かの国人かたれり

とある。別に褒めているというほどではなく、土佐人から伝え聞いたという程度のことだろう。まして「土佐弁こそ日本語」などと主張しているわけではない。もし古典文法を比較的正確に残しているものを「日本語」と言うのであれば、九州弁などには下二段活用が完全に残っている。高校で古文の教師が下二段活用を教えながら、自分たちの普段話している方言がまさに下二段活用であることにまるで気が付いてない。まあそれが高校教育の限界というものだろうが。

たとえば、九州弁で「おじいさんが死なした」と言う。「死ぬ」の未然形「死な」に尊敬の助動詞「す」の連用形「し」がついて、過去の助動詞「た」がついて「死なした」となっているのだが、こういうことを古文の時間に教えてくれる教師がどれほどいるだろうか。

たとえば、「ら」抜き言葉というのがある。「行かれる」「来られる」を「行ける」「来れる」という。しかし九州弁では「行かる」「来らる」と言う。古文のラ変活用そのままである。

歴史的仮名遣い

思うに、江戸時代の人は、かなりいい加減な仮名遣いで文章を書いていたわけだ。上田秋成は生涯を通してへんてこな仮名遣いだった。宣長は30才くらいまではへんてこだった、だが、賀茂真淵と出会い国学を学ぶようになって、ようやくまともな仮名遣いになったようだ。

小林秀雄は生涯きちんとした歴史的仮名遣いで書いた。まあ、明治の文筆家なんだから当たり前と言えば当たり前だわな。明治天皇の歌も完璧な古典文法で書かれているが、しかしそれは我々の目に触れる段階でそうなっているというだけであり、詠草もまた完璧であったかどうかは知りようがない。しかし、孝明天皇の御製にはかなりあやしいものがある。

丸谷才一は「後鳥羽院」よりも後から歴史的仮名遣いで書くようになった。49才以後ということになる。かなり遅い。

こうして見ていくと歴史的仮名遣いというものは、「明治仮名遣い」と言っても良く、歴史的にはかなり短い期間にしか、完全には行われなかったのだ。なぜ明治になってこうなったかと言えば、おそらく真淵と宣長による国学の基礎付けがあり、それに基づいて日本全国均質な国語教育というものが成立したからに違いない。歴史的仮名遣いと言っても歴史的にはかなり浅いものだったのだ。実際、21代集ですら、原文にはかなりおかしな仮名遣いがあるしな。

ははあ。なるほど。宣長は契沖仮名遣いというものを修正して歴史的仮名遣いを復興させたわけだ。やはりこの「復古仮名遣い」を「発明」したのは宣長だったわけだ。


丸谷才一が歴史的仮名遣いで文章を書くようになったのはいつからですか。またそれはなぜですか。「エホバの顔を避けて」の頃は違いましたよね。

指摘の通り、処女作『エホバの顔を避けて』(1960年)の刊行当時は現代仮名遣いが用いられていました。

丸谷才一が表記を切り替えた時期と、その背景にある理由は以下の通りです。

切り替えた時期

  • 一時期の例外を除き、1974年以降に完全定着デビュー初期(1960年代初頭)は歴史的仮名遣いと現代仮名遣いが混在していましたが、1966年から1974年にかけては主に現代仮名遣いで執筆していました(『笹まくら』や『年の残り』など)。しかし、1973年〜1974年の評論『後鳥羽院』の発表頃から決意を固め、1974年以降の作品(小説・評論・エッセイ)から歴史的仮名遣いを全面的に採用するようになりました。

歴史的仮名遣いを選んだ理由

  1. 国家(政治)による言語介入への批判戦後の「現代仮名遣い」や「当用漢字」といった国語改革は、国家権力が強引に定めた政策であり、本来文化的に醸成されるべき言語に対して政治が不当に介入したと考えたためです。
  2. 古典文学・日本文学の伝統との途絶を防ぐため表記を現代音に近づけて変えてしまうと、過去数百年〜一千年の古典文学(平安〜明治・大正の文脈)が読めなくなり、文化的な継承が断絶してしまうという強い危機感がありました。
  3. 日本語の論理的・形態的な整合性例えば、「思う」の活用(思は・思い・思う・思ふ…)に見られるように、歴史的仮名遣いの方が語幹や語頭・語尾の規則性が論理的に保たれており、表記システムとして優れていると主張しました。
  4. 視認性と美的な理由漢字の字形(正字体)や旧仮名遣いが持つ文字通りの「文字づらの美しさ」や、視覚的な識別しやすさ(同音異義語の区別など)を重んじたためです。

なお、丸谷才一の仮名遣いは純粋な古典通りの旧仮名遣いと全く同じではなく、読者への読みやすさを考慮して一部アレンジされた独自の歴史的仮名遣い(例えば濁点打鍵の統一など)を工夫して用いていたことでも知られています。

宿坊

司馬遼太郎は、祇園という町が挙げて長州を贔屓にしていたというのだが、ちょっと妄想入ってるんじゃないか。長州征伐で京都から排除されてもかまわず匿い続け、鳥羽伏見の戦いで長州の紋の入った旗を見て涙を流して喜んだとか。まあ、そんな人も居たかもしれないが、京都人全体がそうというのは余りにこじつけが過ぎないか。

確かに、幾松・君尾などの芸妓が居たがそれらが有名なのはたまたま維新が成功して、
政府要人の正妻や妾となり、明治・大正の頃までそれらの芸妓が生き残っていて、講談などにおもしろおかしく採られたからだろう。負けた側の記録はその反対にほとんど残らないだけのことだろう。長州以外の連中も祇園で遊んでいたに違いないし、長州だけが贔屓にされていたはずもないのではないか。

勤王芸者
近代デジタルライブラリーで読める。このjpeg2000のデジタル文書だが、1920×1200のモニターで、ブラウザ全画面表示で拡大率50%で読むとそこそこ読める、しかしもっと楽な読み方がありそうなもんだ。

侍に勤王佐幕あれば芸妓にもその客種によって勤王佐幕あったもので、長州の侍に馴染があれば、長州だけで座敷が忙しく、薩藩ならば薩藩の座敷だけで良い加減に忙しいものであったから、自然客贔屓により、勤王党の芸妓と幕府方の芸妓が出来ていました。

まあ普通はそうだろう。佐幕派では徳川一橋、会津などが綺麗に遊んでいたという。

長州の縄手魚品、薩摩は末吉町の丸住、土州が富永町の鶴屋、新撰組は祇園の一力、

などが馴染みの店、つまり「お宿坊」であったという。


追記。勤王佐幕という言い方は変だ。これは勤王かさもなくば佐幕、と言いたいのだろうが、実際には、佐幕派のほぼ全員が勤王であったはずだ。このあたりからして司馬遼太郎がものすごい偏見を持っていることがわかる。