マリア・ルイーズ

Wikipedia のマリア・ルイーズを読んでたら、なんかすごい、見てきたような作り話が書かれてて笑った。

マリア・ルドヴィカはフランツ2世の長女として生まれた。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度に渡って追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた。彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。そのため、自分とナポレオンが結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたという。

英語版を読んでもこんなことは書かれてない。誰か日本人の作家か学者の創作物の引用だろう。誰が書いたんだろう。面白いなあ。

もしかしたらベルサイユのバラあたりかな。

マリア・ルイーズは、メッテルニヒがフランツ二世とナポレオンの仲人となってナポレオンの皇后となり、ローマ王ナポレオン二世を産むのだよね。だがナポレオン没落後はパルマ公となると。面白いなあ。


日本語版 wikipedia によればナポレオンの皇后となったマリア・ルイーズは、ナポレオン1世がジョゼフィーヌと離婚したことを知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。とありますが、これは実話ですか。出典はありますか。

日本語版Wikipediaの当該記述は史実(実話)であり、明確な一次史料および歴史学の文献に根拠があります。

手紙の背景と出典

1810年1月10日、当時オーストリア皇女(18歳)だったマリア・ルイーズ(マリー・ルイーズ)は、友人であるヴィクトワール・ド・ポント(カロンヌ伯爵夫人)宛てに手紙を送りました。

その手紙の文章の中に、次の一節が含まれています。

原文(フランス語):

“Je plains la pauvre princesse職… J’ai la隠… seulement je plains la pauvre princesse qu’il choisira, car je suis bien sûre que ce ne sera pas moi qui deviendra la victimeの…”

英訳参照:

“I pity the poor princess he chooses, for I am sure it will not be me who becomes the victim of politics.”

日本語訳(該当の記述):

「ナポレオンの離婚の話ばかりで誰もが騒いでいますが、私は気にしていません。ただ、彼が次に選ぶ哀れな王女に心から同情すると共に、政略結婚の犠牲になるのが自分でないことを願うばかりです。」

歴史的経緯とオチ

当時のオーストリア皇室(ハプスブルク家)にとってナポレオンは長年の宿敵であり、マリア・ルイーズ自身も幼少期から「ナポレオン=悪魔」と教えて育てられていたため、このような本音を漏らしていました。

しかし、この手紙を書いたわずか数週間後、父皇帝フランツ1世とメッテルニヒ宰相による政略交渉の結果、まさに彼女自身がナポレオンの「次の妃」に選ばれてしまうことになります。

主な参考文献・出典

西洋史におけるナポレオン婚姻史の標準的な歴史書で広く言及されています。

  • Frédéric Masson《Napoléon et femmes》(ナポレオンと女性たち)
  • Edouard de Wertheimer《The Duke of Reichstadt (Napoleon II)》 (マリア・ルイーズの書簡録・伝記史料)
  • Shannon Selin《The Marriage of Napoleon and Marie Louise》(一次史料書簡の引用文献)

日本語版Wikipediaには参考文献欄の明記が不足している場合がありますが、発言自体は本人が書いた手紙(書簡)として現存している正真正銘の事実です。

The Marriage of Napoleon and Marie Louise

英語版wikipediaにも書かれている。

バールのようなもの

思うに、一般市民が「バール」を所持している可能性は非常に低い。しかし、金属製の細長い凶器を一様に「バールのようなもの」とマスコミが表現するのは、バールがスケープゴートとして使われているからに過ぎない、と言える。

一般市民が持っていそうなものといえば、まず考えられるのは金属バット。つぎにゴルフクラブ、くらいしか思いつかない。しかし、凶器が特定されればともかく、「金属バットのようなもの」とか「ゴルフクラブのようなもの」と報道されれば、当然スポーツ用品メイカーから苦情がくるだろう。それでいつも「バールのようなもの」なのだろう。

檀家

確かに維持運営費には最高だろうけどなど読んでいて思ったのだが、なるほど、江戸時代の家系などはお寺にしか残ってないからお寺に調べに行くとか、うちのじいさんも言っていたが、要するに江戸時代で戸籍を管理するのは国や地方自治体ではなく寺だったのだ。寺は民政のための一種の役所のようなものであり、つまり、町奉行ではなくて寺社奉行の管轄だった。住職は寺社奉行の役人のようなものだったのだなあ。それはそうだな、出生や死亡、戸籍や家系などの情報を収集管理するには檀家というものが一番便利だ。

従って町中に人口が密集してくるとある程度の寺が必要となるわけだ。ま、合理的ではあるが、本来の仏教というものとは何の関係もないわな。

無宿人や渡世人などのアウトローはそこから外れていると。浪人はまだ檀家に属していたのだろう。

町奉行というのは確かに必要だが、なぜ寺社奉行なんて要るのかと思っていたが、結局どちらも民政の一部であり、所管が分かれているだけのことなのだ。今と同じだ。

古来風体抄

中世歌論集でも少し書いたことだが。

wikipedia などによれば、古来風体抄は式子内親王が俊成に依頼して書かせたものであるという。しかし俊成の息子の定家が書いた歌論書ですら、断片的で短いものばかりであるのに、俊成がこれほどまとまった著書を残したとはとても思えないのである。また、俊成の歌を見るに、どれも軽妙で、感覚的で、芸術家肌の歌ばかりであり、学者的な人では決してなかっただろう。

式子内親王の依頼というのもどうにも腑に落ちない。これは、定家の後の人たちが、二条派歌論を権威付けるために俊成の名で書いたものではなかろうか。そう考えればこのめんどくさくもややこしい歌論の意味がわかる。

俊成は91才まで生きたのだが、古来風体抄を書いたとしたら80代後半という、当時としてはとてつもない高齢であり、文章が書けるはずもない、と思うのだが、どうよ。

そうだな、冒頭の、「やまとうたのおこり、そのきたれることとをいかな。」というのが、歴史的仮名遣いが間違っているし、俊成なら「とをい」「をのづから」「かきをき」とは言わず「とほき」「おのづから」「かきおき」と言うと思う。ひょっとすると相当後世のものかもしれん、とも思われる。

それに、「六義」「天台止観」だのと、定家や後鳥羽院ですら言わぬような、漢学臭く仏教臭いことを論じるだろうか。極めて怪しい。京極為兼くらいの時代の論法ではなかろうか。下手すると為兼本人か、京極派の誰かが書いたのではなかろうかというくらい似ている。

追記:そうかもしれないしそうじゃないかもしれないとしか言いようがないな。

白石の屋敷

調べれば調べるほどわけわからなくなってきたのだが、白石が拝領した屋敷は、一ツ橋門外にあって隣の御舂屋(おつきや)という幕府の脱穀所の敷地を足して六百坪から八百坪としたという。つまり白石の屋敷は御舂屋に隣接していなくてはならないが、御舂屋というのは今の毎日新聞本社であって、一ツ橋門の外ではなくて、平川門と一ツ橋門の間にある。神田小川町というが、古地図を見ても小川町あたりには御舂屋などない。御舂屋が移転したということも考えられるのだが、もうわけわからんので、白石の屋敷は御舂屋の隣、日本橋川に隣接した、一ツ橋河岸のすぐ近くにあったものとして話を進める。

一ツ橋河岸という交差点があるが、この河岸は何だったかといえば、江戸城内で消費する米を御舂屋に搬入するための河岸であったのだろうと推測できるのである。ネットで検索しても何もわからんのだが。このくらいのことはもう誰か調べてどこかにまとめてあるのだと思っていた。案外何もわかってないのだなあ。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。だから、この展望台の下が台所口であり、中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。竹橋を経由したとは考えにくい。平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。

大塩平八郎

パブーで大塩平八郎 というのを公開した。 これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、 私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。 というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。

ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。 それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。 新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、 ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。 そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。 「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。

「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。

「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。 たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。 歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、 やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。

それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。 こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。 ネットでより目立つためだ。 たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。 効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。

「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、 やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。 そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。 たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。 女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。

それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、 wordからコピペするだけで良いことがわかった。 そのほうが楽でよいと思う。

さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。

白石と家宣

荒井白石は家宣将軍就任当時五百石の旗本だった。町奉行の遠山金四郎とちょうど同じ知行だ。低くもないが高くもない。旗本だから将軍お目見えはできるが、老中らが執務するご用部屋には入ることができない。つまり将軍の家臣として直接執務することはできない。側用人間部詮房は一万石だから大名だ。後に五万石。譜代で五万石ということは老中クラスということになる。家宣から間部を通して白石に下命があった、ということだろう。家宣と白石は、甲府時代はもちろん直接面会していたはずであり、また、綱吉の養子となって江戸城に入った五年間も、白石とじかに会えたのだろうが、綱吉が死んで家宣が将軍になってしまうと、そう簡単には、少なくとも形式的には会えなくなったか。いやいや、たぶん、白石が職務上正規の手続きを経るにはそのような形式を踏む必要があったが、白石は家宣が将軍になった後も、直接相談に乗っていたか。

白石はしかし、官位は筑後守従五位下であるから、殿上人であり、御所に昇殿が許されている。決して低くない。藩主か大名クラスだろう。浅野内匠頭と同じくらいだ。つまりは、天皇や朝鮮通信使などの接待の仕事の都合そうなっているのだと思われる。贈正四位というのは明治に入ってからのことらしい。

元猿楽師の間部ですら五万石の大名になったのに白石は千石の旗本止まり。

家宣就任時に48才、白石は53才、当時としては十分高齢だった。わざわざ将軍になった後に読史余論などの講釈をしたのか。甲府時代、家宣三十代頃におこなった講義を、家宣が将軍になったあとに清書したということであろう。

歴史の連鎖

川越素描で、

だいたい日本人の好きな日本史というのは戦国か幕末維新である ・・・ それから、神話時代から平安鎌倉まではロマンもあって好きな人も多い。江戸時代は時代劇に使われる機会が多くて親しみやすい。比較的人気がないのは南北朝、室町である。特に建武の新政から応仁の乱までのぐちゃぐちゃした辺りが好きだというのはよっぽどの物好きである。

どうしても室町の時代背景を書かねばならぬ。特に応仁の乱の頃のひどく人間関係が複雑で、スターもヒーローもアイドルも居ない泥仕合の時代を書かねばならぬ。

菜摘自身は、足利将軍家や室町時代がさほど嫌いでもないのだが、一般人はそうではない。嫌いである以前に無知無関心である。そういう連中にくどくどと説明しなくてはならないのが億劫なのだ。先日も清水の「特論」の講義で菜摘がかちんときたことがあった。清水が言うには、「南北朝や室町時代は中世の暗黒時代」である。特に応仁の乱の頃は「政治が廃れた」一方で、逆に能や書院作りなどの日本特有の「文化が栄えた」時代であって、「今の平成の時代とよく似ている」のだそうだ。《だめだよそれじゃあ。財界人や、司馬遼太郎にかぶれた連中がそういうわかったようなことを言うことはあるかもしれないが、歴史の専門家が、室町時代を「政治が悪く文化が栄えた戦後日本に似た時代」などと乱暴に決めつけてしまっては、日本の歴史というものは、永久に理解できないだろう。できるはずがない。まるきり違うものなのだから。室町時代は典型的な地方分権の封建時代。分権しすぎて政治が乱れた。今の日本は東京一極集中の議会制民主主義の時代だ。どこをどう比べれば似ているのか。》

などと書いていたのだが、最近思うに、南北朝や室町が嫌いとか、平安から南北朝への連絡、また、室町から戦国への連絡がよくわからん、というのは、実は戦後の傾向であって、戦前の日本人はそうは思ってなかったのだろう。というか、戦前と、その60年後の今では、歴史認識にも相当な進歩があるから、現代人の方がより深く日本史というものを理解しているのには違いない。しかし、戦前の日本人は日本史というものを比較的連続な現象として把握しており、どこの時代は理解できるがどこの時代はわからん、などということは少なかったように思う。

平家物語や太平記は発禁になったわけじゃない。原典は読めるし、戦後も吉川英治の「新・平家物語」とか「私本太平記」などのような形で普及している。だが、平家物語も太平記も、ありのままの形で鑑賞されているとはいいがたい。間に入っている教育業界や出版放送業界によっていかようにもその印象は操作できてしまうのだ。南北朝は変な時代だとか南北朝はダメな時代だとかそういう教育、そういう空気が世に満ちると、みんな自分で確かめもせず、よみもせず、だいたいそんなものなのだろうと思ってしまう。

しかし、虚心に原典を順番に読んでいくと、特に太平記が特別難しいわけではなく、平家物語が非常に簡単なわけでもない。戦国時代などは資料が少なくてわからんことの方が多いし、江戸時代とても、そんなにふんだんに文献が得られるわけでもない。原典を読むのはだいたいどの時代でも難しい。それを、わかりやすいよう、理解しやすいようにする連中が、ある種の意図でもって、太平記は難しくて偏向してる、平家物語は面白くてわかりやすい、などと言っているにすぎない。

日本史を一つの連続体として解説した割とまともな著書としては新井白石の「読史余論」と頼山陽の「日本外史」がある。戦後の日本ではそういう教え方はしない。まず、「日本外史」と「太平記」は教えなくなった。「読史余論」をじかに読むやつなどいない。そうするとどうしても南北朝や室町というのは、ぼんやりとぼけてしまってわからんようになる。で、なんで山名と細川が内戦始めたの、なんで義政は将軍のくせにあんな無気力なの、わけわからん、尊氏も後醍醐天皇もどっちもどっちだな、戦争なんかやるのが悪い、とまあこのくらいの認識になってしまう。

新井白石は実に頭が良くて、なぜ天皇の時代が武士の時代に移り変わったかということを、おそらく日本で初めて、理知的に解説してみせている(白石の他の著書なども合わせ読むと、彼がごく普通の常識人であり、現代人とほとんど違わない感覚をもっていることがわかる)。頼山陽はそういう武家の通史的な発想を全面的に受け入れつつ、北畠親房的水戸学的方向、つまり天皇家中心の方向へ修正し、かつ、読み物として面白くなるよう軍記物的エピソードをちりばめている。

昔は「太平記読み」などと言ったように「太平記」はかなりメジャーな読み物だったが、戦後は皇国史観の源泉とみなされ排斥された。歴史を擁護しているようでその封殺曲解に一番貢献しているのは司馬遼太郎だ。彼は室町・南北朝を描かないし、平安時代は義経しか書いてない。戦前の史観を戦後民主主義史観で置き換えるためにいろんな無理をしているせいだと思う。それはしかし戦前の軍国主義者がやったことと何ら変わりない。自分の主義主張のために演出を加えているだけだからだ。そのため時代間の接続がぶつぶつにされて、良い時代と悪い時代があるとされた。連続に変化してきたその、なんちうか、一連の変動としてとらえる目が失われた。ああやって、自分の好みの時代だけを切り取って、自分の都合の良い解釈をすれば、歴史全体の流れはまったくわからんようになる。白石が苦心したのはそこだ。日本史全体の整合性はどうなっているのか、と。

私は、新井白石「読史余論」、頼山陽「日本外史」的な史観をもう少し丁寧に修復すれば良いだけだと思う。これらの史観に偏向がないとは言わないが、今よりはまだまともだろう。江戸時代の著作だから今から見れば誤謬もあろうがしかし、もともと戦前はおおまかにどのような歴史観があり、戦後の歴史観のよろしくないところに気付くには良いものだ。

日本外史の愛読者の一人だからそう思うだけかもしれんが。

俊成2

山桜 散りに光を 和らげて この世に咲ける 花にやあるらむ

いいねえ。「この世に咲ける花にやあるらむ」。しびれる。

つくづくと 濡れそふ袖に おどろけば 降るとも見えで 春雨ぞ降る

いいねいいね。「降るとも見えで春雨ぞ降る」。すごく良い。同語反復がうまく効いている。これも初句不要。七五七七のほうがしまりがあるだろう。

花の散る山川堰ける苗代に賤が心も満つべかりけり

普通?

すみれ咲く浅茅が原は踏み分けて問ふ人無きもさもあらばあれ

「問ふ人無きもさもあらばあれ」。いいなあ、こういうすっとぽけた言い方する人だったのだなあ。

志賀の山松にかかれる藤の花浦のさざ波越すかとぞ見る

叙景のようだが、しかしあり得ん誇張された光景だわな。

藤の花雲にまがひて散る下に雨そぼ降れる夕暮れの空
いにしへをしのぶ心をそふるかな御祖の杜ににほふたちばな
我が魂もあくがれぬべし夏虫の御手洗川にすだく夕暮れ
あはれさを人見よとても立てざらむけぶり寂しき賤が蚊遣り火
野辺に置く同じ露とも見えぬかなはすの浮き葉に宿る白玉
思ふこと今はみな尽き果てぬらむ御手洗川にみそぎしつれば
眺むれば心さへこそあくがるれしぐるる頃のむらくもの空
なぞやかく眺むる方も霧こむる深山の里に心澄むらむ
ふもとにはまた時雨とや思ふらむ深山の里はあられふるなり
奥山の岩根の苔ぞあはれなるつひには人の衣と思へば
夢とのみ過ぎにし方は思ほえて覚めてもさめぬここちこそすれ

普通?ましかし、レベルが一様に高い。