山吹

兼明親王

小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき

「道灌」(落語)では「あやしき」が「かなしき」になっている。あやし、とはこの場合見苦しい、みっともない、お恥ずかしい、心苦しい、申し訳ない、と言った意味ではなかろうか。山吹の枝を出したというのは、謎かけのようなものだっただろう。

太田道灌のほうの話では、和歌の教養がない、ということになっているようだが、三代集ならともかくとして、こんなマイナーな後拾遺集の歌まで覚えるのが室町時代の関東で要求される教養だったとは思えない。普通の歌人ですらしらなかっただろうと思う。できの悪い作り話としか言いようがない。太田道灌について江戸時代に捏造された伝説は所詮この程度のものだが、江戸っ子たちには受けがよかったのだろう。

中島敦の日記と書簡

改めて中島敦の日記を読んでみたが、南洋の見聞と途中で日米開戦の話が挟まる程度であり、 肝心の、パラオに行く直前からパラオに滞在している間に、なぜあれほど著作を残したのか、 という部分は書いてない。 著作活動時期と完全に重なっているのに、残念なことである。 書簡の方が出版社とのやりとりがあったりして、まだましだが、それでもやはり肝心なことは書いてない。 病気や貧乏で小説で多少稼ごうかと思ったのだろうか。

中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。 まったく知らんかった。

小谷野敦 中島敦殺人事件

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。 寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。 むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、 冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、 「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、 こんなへんてこりんなことはない。 もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、 中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、 「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。 当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、 戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。 だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、 そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、 おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。 そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。 はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。 そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。 それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。 もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。 パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。 たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。 それには古典の教養が必要だ。 しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。 そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。 それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。 むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」 そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、 すとんと腑に落ちるのである。

メディアリテラシー

まあこんなことをぶつぶつ書いてもしょうがないのだろうが、NHKのニュースで、手術前に点滴を打たなくても同じ成分の生理食塩水的なものを口から摂取してもよくなりましたというのをやっていた。まあそれはよい。しかし、病院というところはたいていのばあい手術前だけでなくて、三日とか七日とかぶっとおしで点滴を打つものだ。たまたま手術前に絶食して点滴する、それをしなくてよくなりましたというのは、そうだな、一部の外科の患者だけのことであり(たとえば痔の手術などがその典型だろうか)、それ以外の場合、長い長い闘病生活の中の一部に過ぎない。むしろ、手術前は、食事を抜いて点滴を打って、気持ちの切り替えをしたくらいでちょうど良いと思う。手術というのはつまり電気メスなんかで体を切りひらくのであろう。点滴の針を打つのとはわけが違う。

手術前に点滴を打つか打たないかというのは要するにそのくらい些細なことにすぎない。
まあお暇なら私の書いたもの(安藤レイ)でも読んでください(※現在非公開)。闘病生活に関してはだいたい実話だから(笑)。

しかしそんなどうでも良いことをわざわざ大げさにものすごく画期的なことのようにデフォルメしてニュースにする。なぜそんなことをするのか。だれがうれしいのか、そんなことをして。

たぶんこれを作ったプロデューサーは自分が入院したことがないのだろう。私がインタビューを受けたら、きっと「そんな一度点滴をさすかささないかなんて誤差に過ぎませんよ。」とでも答えるだろう。しかし、そういう答えはニュース構成を破綻させるから没になり、私はめでたくテレビには映らないことになるだろう。

以前もなんか、癌か何かを早期発見するかしないかとかそんな話題があった。見てる感じでは、まだ実験段階で、実用化されるには十年以上はかかりそうな話で、しかも適用範囲がとても狭い。そんなものをまるでプロジェクトXか何かのように報道していいのか。

NHKというのは国会で予算が組まれる国営放送なのだから、他の民放などが利益のためにはやらせくらいは当たり前なのとは違って、きちんと国民に対してメディアリテラシー教育を行う義務がある。Aという「個人の感想」があればAとは反対のBという「個人の感想」を伝えねばならない。しかし、報道に都合の良いAという意見だけを、皆同じ意見であるかのように作る。そんな番組を作ってはいけない。

それから最近NHKは電波塔の話ばかり流しているが、地デジなんてものはそもそも不要であり、電波なんて競売にして、それでも必要なやつが勝手に自分の金で電波塔を建てればよいのだ。それをまるで国家プロジェクトでもあるかのように毎日のように報道しやがる。やれ花見だやれ地域活性化だとか。たかが電波塔に大騒ぎするなという意見、特に携帯電話などの業界の意見も採りあげるんならまだバランスが取れるかもしれんが、まるで地デジや電波塔は国是でもあるかのような錯覚を起こさせる、プロパガンダ放送はやめるべきだ。

NHKがきちんと教育放送でメディアリテラシーの番組も流すならほめてやろう。それも大学生向けとかではなく小学生くらいからばんばん教育するのだ。そうすりゃ民放もずいぶん迷惑するだろうし、NHKの株はさらに上がると思うのだが。だいたい国家や営利企業の言うことを鵜呑みにするから戦争になるのだ。そういう大衆を扇動しかねないメディアがいかに危険かということをきちんと教育するのが、不幸な戦争や事故を二度と起こさないようにするほんとうの方法だ。

ところで一部で話題になっている、受託開発を振り返って というネタだが、思うに、「コンシューマゲーム開発におけるモラル」(なんだそりゃ)というものがどんなものかは知らないが、

上司の機嫌一つでころころ指示内容は変わるし、実際スケジュールも容量も当初の契約の倍以上に膨れ上がりましたし、果てはそれを「フレキシブルな裁量」と胸を張る始末。

上司が仕様変更を認めちゃうんだから仕方ないよなあ。自分ところの上司のせいだなそれは。仕様変更を認めてあげるのもサービスのうちだと思ってるんだなその上司は。じゃあ仕方ない。商売の一つのやり方としてそんなサービスを提供するのは有りだ。私はもちろん嫌だが。

ライターにもよると思いますが、私は何百枚、何千枚という原稿を書いても、「この一言を伝えたかった」という一瞬のために物語を書いています。けれどその一言(どころかシーン丸々)、小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪されている箇所が多々ありました。

それは、ライターなんだからしょうがないんじゃないの。「小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪」というのはしょせん主観に過ぎないし。ていうか、プロのライターのくせにそんなくらいの妥協・打算も経験したことがないのか、そのほうが不思議だ。

評価は気にする必要ありません。売れた本数が全てです」と豪語されて

それは、「豪語」ではないよな。小学生みたいな文体にした方が受けるとプロデューサーが判断したまでではないのか。

いずれにしても、多少クリエイティブな業界にシンパシーを感じている人間にとっても、共感は得られない話だなあと思った。そんな話はいくらでもあるし。こちとら毎日NHKのニュース見ててもいらいらしてんのに。もうニュースすら見ない方がいいのかな精神の平安のためには。まして民放のバラエティなんて見ようもんなら発狂しそうになる。

中島敦ですらあの程度の扱われ方しかしてない。まして普通のライターや作家がどんな目にあってもおかしくない。

ガス抜きとしての中島敦

中島敦は難解だと言われている。 山月記、名人伝、弟子、李陵。 確かに漢文調で、難しい。少なくとも高校の国語教科書で初めて読まされると、 とてつもなく高度で高次元な文学のようにみえる。 中島敦はしかし戦争中のごく短い期間しか小説を書かなかった。 しかも、中島敦の作品は上の四つ以外はほとんど読まれることがない。 なぜかというに、上記四作品は戦後の国語教科書で好んで採録されたからだ。

私自身中島敦は大好きだった。 高校のとき、夏休みの読書感想文の宿題は毎年「李陵」を書いたくらいだ。 今五十近くになって読み返すと確かに面白いが、しかしめちゃくちゃ面白いというわけではない。 中島敦がこの小説を書いたのは三十三だ。 錯覚かもしれないがそう思える年になったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

思うに、私はもともと(今そうであるように)本居宣長や頼山陽のような、江戸の学者が書くようなものが好きだったのだろう。 だが、本居宣長や頼山陽などは、戦後民主主義教育ではほとんど完璧に隠蔽された。 何かものすごいものが隠蔽されているのを感じる。 オーラが漏れ出てくるからだ。 しかしその実態は、大人たちが懸命に隠しているので子供の目には触れない。 プラトンのイデア論ではないが、私はそのオーラの発信源が何か、その実像は何かについて知りたいと思った。 たとえば小室直樹に惹かれたのはそのためだったと思う。

戦前の右翼教育を完全に封じ込めた日教組は、しかし、そこに不自然な細工が残るのが気に入らなかった。 戦前の文学でも、戦時中の文学でも、良い物はよい。漢文教育にも良いものはある。 戦前教育を完全に葬り去ると漢文教育自体が成り立たなくなる。それは困る。 そこで、比較的人畜無害な中島敦の小説が選ばれた。 中国の歴史書や伝奇小説を素材にして、そのまま現代小説に仕立てたたぐいのものだ。 子供たちに容赦のない漢文調の文章を学ばせるために。 つまりもっと露骨な言い方をすれば、戦後の教科書に掲載されている中島敦の小説というのは、 戦前の日本外史や太平記などの代用なのだ。 私自身中島敦の作品に親しまなければ日本外史や太平記にたどり着くのにもっと時間を要しただろう。 しかし、中島敦を経ずにいきなり日本外史や太平記を学んだ方が、話はずっと速かったはずだ。 もし中島敦の作品がそれ以外の意味においても優れているのであれば、 かの教科書の作品以外のいろいろな小説も好まれたはずだ。

中島敦の小説は戦争の真っ最中に書かれたものであるが、その時代精神は、「山月記」などでは極めて希釈されてはいて、ほとんど感じ取ることができない。

彼の作品がなぜ「教科書にある」のか、なぜ「古典として学ばねばならない」のか、その真の意味が教師から説明されることはない。 多くの教師も、そもそもそんな意味を知りもしなかっただろう。 そして今日、単なる惰性で中島敦は読み続けられている。 かつてそんな企てが教科書出版業界であったことも忘れられてしまったのだろう。

「墨攻」で中島敦賞をもらった酒見賢一が中島敦について書いていた。 群ようこも書いていた。 中島敦はよくわからんと。全集を読むとますますわからなくなると。 いったい中島敦という人はなんなのかと。 つまり中島敦はその全著作の中のたまたま漢文調の堅苦しい小説だけに需要があった。 ほかのほんわかとしたエッセイみたいな小説や、スチーブンソンの宝島みたいなのや、 エジプトやメソポタミアのファンタジー小説みたいなのや、そんなのは無視された。

それが中島敦の謎の真相だ。

中國哲學書電子化計劃

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

教育勅語だが、たとえば中文版wikipedia に 教育敕語 なるものがあり、漢文訓読文を漢文に戻しているのだが、

朕惟我皇祖皇宗,肇國宏遠,樹德深厚,我臣民克忠克孝,億兆一心,世濟其美。此我國體之精華,而教育之淵源,亦實存乎此。爾臣民孝于父母,友于兄弟,夫婦相和,朋友相信,恭儉持己,博愛及衆,修學習業,以啓發智能,成就德器,進廣公益,開世務,常重國憲、遵國法,一旦緩急,則義勇奉公,以扶翼天壤無窮之皇運。如是者,不獨為朕忠良臣民,又足以顯彰爾祖先之遺風矣。斯道也,實我皇祖皇宗之遺訓,而子孫臣民之所當遵守,通諸古今而不謬,施諸中外而不悖。朕與爾臣民。俱拳拳服膺。庶幾咸一其德。

これの「孝于父母、友于兄弟」なんて言い方があるんかいなと思い、中國哲學書電子化計劃 で調べてみる。すると、劉向という前漢の学者が著した「說苑」の中の「談叢」という項目で

孝於父母,信於交友,十步之澤,必有香草;十室之邑,必有忠士。

などと言ってることがわかる。おそらくこの「孝於父母,信於交友」が「孝于父母,朋友相信」の原型なんだろうなとわかる。ここで驚くべきことは「孝於父母」と「孝于父母」は助字が微妙に違うのに検索できているということだ。また、董仲舒が

君者將使民以孝於父母,順於長老,守丘墓,承宗廟,世世祀其先。

などと言っている。これも教育勅語的なフレーズだ。最後の部分など「世世厥ノ美ヲ濟セルハ」を思わせる。

というわけで、なんて便利なんだろうなと思ってしまった。「友于兄弟」についても、論語で

或謂孔子曰:「子奚不為政?」子曰:「云:『孝乎惟孝、友于兄弟,施於有政。』是亦為政,奚其為為政?

と出てくることがわかる。

軍人勅諭などは日本外史から来ているようだが。

いやいや、調べてみたくなったのは「亦實存乎此」の箇所だった。漢文的には「実在此処」とかではないのだろうか。

白石詩草

日本古典文学大系に新井白石の詩がのっている。もとは「白石詩草」に収められている。
早稲田大学でJPEGとPDFが公開されている。楷書できちんと書いてあるので読むのは容易だが、意味はわかりにくい。

彼が吉原を詠んだらしい詩がある。吉原だろうと思うが確信できない。「紀使君園中八首」の中の一つ、「芳草原」という詩で、

春入芳原上
青青襯歩鞋
佳人来闘草
応賭鳳凰釵

吉原に春が来る。素足に青々とした草履を履いた美しい女性がきて草合わせで遊ぶ。鳳凰のかんざしを賭けよう。まあ、そんな意味であって、吉原だろうなと思う。題の「芳草原」だが、これは、八首の題を三字にそろえるためであり、意味は「芳原」だろうと思う。 「春入芳原上」だが、「春が吉原の上に入る」というのはわかりにくい。「上」は「ほとり」というような意味かもしれん。「學步鞋」とは「学童のスリッパ」のことらしい。「歩鞋ヲ襯ス」と朱筆で訓点がついてたので、「歩鞋」という単語があるのだろうと思う。「青青歩鞋」だが、新しい若草で編んだ草履、という意味だろうか。だとするといかにも春らしいが。「紀使君園」というのがよくわからん。朱筆が入っていて「紀」「使君」「園中」と切れる。紀州の使君の庭園か。「紀使君」という人が詠んだ詩なのか。あるいは、そういう名前の吉原の店があったのか。

新井白石が吉原で遊んだことがあるとすれば、また彼自身の用例からして「芳洲」が「吉原」を指すと判断できるだろう。たとえば頼山陽は出島のことを「扇洲」と呼んでいる。「富士山」を「富嶽」と言い換えたり、「隅田川」を「墨水」と表現したり、江戸時代の漢詩ではこのように、日本名を漢語風に言い換えるのが当たり前だった。

日本古典文学大系では「芳洲」を謝眺や李白などの中国の詩人の用例から「良い香りのする中洲」と訳している。果たしてそうだろうか。

そもそもこんな楽しげな詩はまったく収められてない。こむつかしい詩ばかりだ。

思うに江戸時代の文人にとって漢文・漢語というのは中国語そのものであり、中国の歴史でもあり、実学だったと思う。だから、学ぶだけの価値があった。遊びではなかった。漢文・漢語は、明治に入ってから語学や中国語会話という役目を失い、戦後もずっとそうだった。しかし、これから中国語を学ぶ必要性や機会が増えると、漢文を学ぶ意味も変わってくる。そして、いったん、たんなる古文古典となってしまった漢文教育を、一から見直す必要に迫られるだろう。

西行の歌

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

詞歌和歌集には読人しらず題知らずで載っている。が、世の中では西行の作だということになっている。私も漠然とそう思ってた。が、「山家集」には取られていない。「山家集」はけっこうな分量の歌集なのに、勅撰集にも取られたような歌を載せないことがあるか。

そう思ってみると、すこし西行にしては言葉が荒すぎる。西行の歌には、感情の起伏の激しいものはあるが、言葉はそれほどきつくはない。

「西行物語」では

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

となっているそうだが、こちらの方が意味は通りやすい。「身を捨つる」というのは、出家とは限らない。

そもそも西行の歌が詞歌和歌集に初出で一首だけでしかも読み人知らず。読み人知らずになる理由としては「無名」というのは通りにくい。「罪人」とか時の権力者に背いて忌避されたとか、そういう理由がないとおかしい。

やはりこれは西行の死後にできた伝説に過ぎないのではないか。

蘆庵と宣長

宣長年譜1757年

宝暦7年8月6日 (1757/9/18)
○8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる。『在京日記』(宣長全集:16-128)。


本庄七郎は、小沢蘆庵。蘆庵は享保8年(1723)生まれで宣長より7歳上。寛政5年(1793)上京の折にも対面、唱和する。その時の宣長の言葉に「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」とある。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。

廬庵は1723年生まれ、宣長は1730年生まれ。当時、廬庵34才、宣長27才(いずれも満年齢)。宣長はもっと早い時期に廬庵と会っていたかもしれない。日記に書かれていないだけかもしれないのだから。宣長は1753年、冷泉為村門下の森河章尹に入門した。廬庵もほぼこれと同時期に為村の門人になった。同じ京都の同じ門下である。これ以後二人がたびたび出会っていてもおかしくない。このとき宣長はまだ23才。まさに「はたち余り」の頃である。月次会の席で、少なくとも年に数回は会っており、場合によっては、個人的に頻繁に連絡を取り合っていてもおかしくない。

廬庵という人の経歴はわかっているようでまったくわからない。宣長の場合こまごまと日記をつけていて、それもふくめて著述のほぼすべてが完全な形で残っており、しかも全集としてまとめられている。正に一次資料・一級資料であり、研究がやりやすいといったらない。しかし、廬庵のよく知られた六帖詠草などは、割と年を取ってからの歌しか採られていないようだ。宣長と出会った30才の頃にどんな歌を詠んでいたか、それもよくわからない。

江戸中後期における三都間の歌壇の対立。ドイツの日本研究者が書いたもののようである。少し面白い。

職仁親王とその弟子である谷川士清や特に言語学者として知られている富士谷成章の流派、武者小路実岳と弟子の澄月や伴蒿蹊の流派、そして冷泉為村と弟子の小沢蘆庵、慈延、涌蓮の流派である。後には為村と実岳が激しく競争するようになったが、弟子の澄月と蘆庵が特に対立的であった。

大坂の歌壇では烏丸家や有賀長因の歌学を受け入れた加藤景範が中心的存在になり、初心者向けの歌学書を出版したり、京都の歌人である長因・蘆庵・澄月などの歌と自詠を歌集に編んだりした。先に述べた、和歌の普及に功績のあった有賀長伯と同じように、通俗歌学書によって大坂での和歌の普及に貢献した。

なるほど、当時の京都・大阪の歌壇とはこうしたものだったのだろう。有賀長因は、松坂に帰った宣長が添削を頼んだ有賀長川のこと。烏丸光栄は為村の師で霊元天皇の弟子。有栖川宮職仁親王は霊元天皇の皇子で光栄の弟子。

谷川士清は宣長と比較的似た経歴の人で、三重県津の出身で京都で医者となり、職仁親王に歌を習って国学者となった、とある。宣長のライバルとして描いたら面白そうな人だな。

加藤景範は医師で薬売り。大阪にいたのだろう。

宣長が有賀長川に添削を頼んだのは、長川が弟子をたくさん取って通俗的な添削などを商売とするような人だった、というだけのことだったのではなかろうか。ある意味、後の香川景樹に似てはいないか。

富士谷成章は京都生まれ、職仁親王の弟子で国学者、宣長は彼を評価していたようである。

武者小路実岳は堂上家。

伴蒿蹊は京都の商家の出。

澄月は子供の頃上洛して比叡山に登り僧となったようだ。慈延も似たような境遇の人のようだ。

涌蓮は伊勢の人で江戸にいたが出奔して京都・嵯峨に住む。

小沢蘆庵の人となり・事績

小沢家は大和宇陀郡松山藩。

享保8年(1723)難波に生まれ、京都に住した

若き時本庄家の養子となり、本庄七郎などと称した。

武技にも長じ、鷹司輔平に仕えたが、致仕後は歌人として一生を送った。はじめ冷泉為村を師としたが、破門後一家の説を立て、巧まぬただ言を主張し、清新平坦しかも雅趣ある作品を残した。

澄月・慈延・伴蒿蹊・上田秋成・入江昌喜・加藤千蔭らと交友があった。

晩年契沖を尊び、その著書を集め翻刻の意があった。静嘉堂文庫蔵『さいうの記』21冊には契沖説の書抜が多い。流布の刊本『六帖詠草』のほかに稿本『六帖詠藻』47冊(自筆本静嘉堂文庫蔵)やその系統の本もまた知られている。著書としてほかに『ふり分髪』『ふるの中道』などがある。※阿部註:編著書類は50書にのぼる。

宇陀というのは、大和の飛鳥の辺り。南紀の山間部、といったほうがわかりやすいだろう。そこの武士の子孫として大阪に生まれ、のちに京都に移り住んだ。
養子となり、士官もしたが、四十代半ばに浪人になっている。
それ以上のことはわからん。

上田秋成との交友とは晩年近くのことだろう。

入江昌喜は大阪の商人で、隠居後に国学を研究した。

加藤千蔭は有名な江戸の文人で、御家人。馬渕や田安宗武などの一派だわな。おそらく書簡上のつきあいで、盧庵と直接会って交友したわけではあるまい。

上の引用の中には入ってないが、香川景樹とも交際があったはずだ。