雨

雨降れば せばき我が家の 軒端より せばき庭のみ ながめくらしつ
降れば照り 照ればまた降る 我が宿の 庭木の若葉 はぐくまれけり
枯れにきと 思ひし木より 若き芽の 生ひたる見れば ほほゑまれけり
我が宿の せばき庭にも 年ごとに 植ゑたる苗木 増えまさるかな
なほ広き 庭も持たまし 富しあらば 老いたるのちの なぐさめとせむ

酒の出費がバカにならないということを

このごろは つひへもおほく なりければ 酒飲むならひ やめましものを

ふと

なりはひの日々に疲れてうつろなる思ひに耽くるやまと民くさ
かくありてしのがばやがて夏は来むかくありてまた年は暮れなむ
何か良きたづきはありやかくありてなどて我が世の人まかせなる

ふと

京極派風(笑)

朝の日のまぶしさにたへで戸もあけず伏したるままにもの思ひする
朝と夜酒を飲めると飲まざると人の心のかくもうつろふ
寝覚めしてふすまかぶりてあれこれと朝はもの思ふときにこそあれ
よべのことを思ひ出づればあさましきここちのみする浮かれ歩きか
ゑひは抜け夜も明けぬれば楽しきと思ひしことの憂ひとぞなる

影響受けやすいたちかもしれない。

永福門院

伏見天皇の中宮で、天皇と共に京極為兼に学ぶ。京極派最高の歌人の一人とも。

過ぎ移る時と風とぞ恨めしき花の心は散らむともせじ
風に聞き雲にながむる夕暮れの秋の憂へぞたへずなりゆく
夕暮れの庭すさまじき秋風に桐の葉落ちてむらさめぞふる
川千鳥月夜を寒みいねずあれや寝覚むるごとにこゑの聞こゆる
音せぬがうれしき折りもありけるよたのみ定めて後の夕暮れ
たまづさにただ一筆と向かへども思ふ心をとどめかねぬる
過ぎて行く月日を返すものにあらばこひしきかたをまたもみてまし
むら雲に隠れあらはれ行く月のはれもくもりも秋ぞかなしき
月の姿なほありあけのむら雲にひとそそぎするしぐれをぞ見る
むらむらに小松混じれる冬枯れの野辺すさまじき夕暮れの雨
寒き雨は枯れ野の原に降りしめて山松風の音だにもせず
鳥のこゑ松の嵐の音もせず山しづかなる雪の夕暮れ
荒れぬ日の夕べの空はのどかにて柳のすゑも春近く見ゆ
さても我が思ふ思ひよつひにいかに何のかひなきながめのみして
あやしくも心のうちぞ乱れ行くもの思ふ身とはなさじと思ふに
とはぬかなとふべきものをいかにあればきのふもけふもまた過ぎぬらむ
山あひにおりしづまれる白雲のしばしと見ればはや消えにけり

うーん。ふつう? 確かに京極為兼の影響は見えるが。 伏見天皇の歌も見たが、こちらもごくふつう。だいたいこの三人しかいないんだよな、京極派って。結局、為兼が突然変異だった、ということだろう。

二条為世の歌

たくさんあるのでとりあえず新千載集から為世の歌。

明けやすき空に残りて夏の夜は入ること知らぬ月のかげかな

夏は月が入るより先に夜が明けてしまう。

あくがるるものと知りてや秋の夜の月は心をまづさそふらむ
恨み侘び夕べは野辺にこゑたてて来ぬつまこひに鹿ぞ鳴くなる
音たててこずゑを払ふ山風もけさよりはげし冬や来ぬらむ
ひさかたの空に積もると見えゆるかなこ高き峰の松の白雪
白波も寄せつるかたにかへるなり人をなにはのあしと思ふな

白波でも心を寄せる方に帰るのだから人を悪く思うな、と。まあ縁語などがそこそこ面白い。

言ひ初めて心変はらばなかなかに契らぬ先ぞこひしかるへき
したもえの我が身よりこそ立てずとも富士のけぶりのたく人は知れ

うーむ。

うつつには また越えも見ず 思ひ寝の 夢路ばかりの 逢坂の関
おのづから いつはりならで 来るものと 思ひ定むる 夕暮れもがな

うーむ。

同じ江の 葦分けを舟 押し返し さのみはいかが 憂きにこがれむ
長き夜も ひとり起きゐて まどろまぬ 老いの友とは 月を見るかな
いく夜かは 見果てぬ夢の さめぬらむ 松の戸叩く 峰の嵐に
月かげの 夜さすほかは みなと江に 行くかたもなき あまの捨て舟
さかのやま 照る日のかげの 暮れしより 同じ心の 山に迷ひき

確かに平坦、確かに平凡。幽玄とか有情とか言えばそうかも。題詠なんだろう。これが二条派なんだな。なんか、ドリルを解いてるみたいだよな。頓阿、契沖、宣長に通じる。

定家の前衛的なところとか西行や和泉式部の情熱的なところとかは京極為兼に行き、定家や西行の無情感とかわびさびは二条為世に受け継がれた。こってりと情緒的な京極派は仏教、とくに禅宗が流行った中世の雰囲気には合わずに衰退した。文芸の担い手に僧侶が多かったことも、京極派には災いしただろう。そういう芸術家肌のこってり情緒的な公家文化を担っていけるような余力のある公家というものも、もはや存在しなかった。武士にも愛好されることがなかった。狩野派の絵や茶道のように家元の言う通りに作法を学べば万人にも嗜むことができる、それが二条派。陶芸や書道のように希少性(カリスマ性や芸術性)を要求されるのが京極派。前者をデザインと言えば後者はアートだ。あるいは、前衛的実験的なデザインがアートであり、逆に定型化し普遍化したアートがデザインといえようか。そんなところだろうか。

京極為兼の歌

玉葉集や風雅集などは、なかなか図書館にもない。けっこう困る。十三代集などはだいたいが入手困難。しょうがないので21代集データベースから。

為兼の歌。すこし面白い。玉葉から

冴ゆる日の しぐれののちの ゆふ山に うすゆき降りて 雲ぞ晴れゆく
ねやの上は 積もれる雪に 音もせで 横切るあられ 窓たたくなり

ここらの冬の叙景がなかなか良い。屋根に積もる雪は音も無いが窓を叩く霰の音がうるさいという。雪と霰が同時に降るというのはどうかとも思うが。

泊まるべき 宿をば月に あくがれて 明日の道行く 夜半の旅人

まるで敦煌の駱駝の旅のようだな。

旅の空 あめの降る日は 暮れぬかと 思ひてのちも 行くぞ久しき

雨の日の旅は空も暗く、もう暮れたかと思いながら久しく行くという意味か。面白い。

さらにまた 包みまさると 聞くからに 憂さ恋ひしさも 言はずなるころ
人も包み 我も重ねて 問ひ難み たのめし夜半は ただ更けぞゆく

相手がへそを曲げてふさぎ込んでいるのでとやかくものも言えない。

恨み慕ふ 人いかなれや それはなほ 逢ひみてのちの 憂へなるらむ
言の葉に 出でし恨みは 尽き果てて 心にこむる 憂さになりぬる

恨み言は言い尽くして今は内にこもっている。

辛きあまり 憂しとも言はで 過ぐす日を 恨みぬにこそ 思ひ果てぬれ

こちらはあまりにもつらいので、なんとも言わずに過ごしているのを、 恨まないというのはもう気持ちが離れてしまったからだろう、と。

もの思ひに けなばけぬべき 露の身を あらくな吹きそ 秋の木枯らし

面白いじゃないか。風雅集から

春のなごり ながむる浦の 夕凪に 漕ぎ別れ行く 舟も恨めし

春の叙景。

松を払ふ 風はすそのの 草に落ちて 夕立つ雲に 雨きほふなり

夏の叙景。「(峰の)松を払う風が裾野の草に落ちる」とか「夕立ち雲に雨が競う」とか、映像に立体的な動きがある。なかなか良い。本歌取りや縁語などの仕掛けがまるで見られないのも気持ちよい。ただもう、情景を言葉で巧みに表現したというもの。

秋風に 浮き雲高く 空すみて 夕日になびく 岸の青柳

「秋風に浮き雲高く空すみて」辺りの叙情が現代的。 また秋の叙景に青柳というのが新鮮。「夕日になびく岸の青柳」こういう言い回しは現代では当たり前だが、中世では珍しかったに違いない。

庭の虫は 鳴き止まりぬる 雨の夜の 壁に音する きりぎりすかな

「庭の虫」「壁のきりぎりす」の対比が面白い。

野分立つ 夕べの雲の あしはやみ しぐれに似たる 秋のむらさめ

秋の台風による驟雨と冬の時雨が似ているという、おもしろい歌。なかなか楽しそうだな。「足が速い」という言い回しが、当時にもあったのだろうか。

朝嵐の 峰より降ろす 大井川 浮きたる霧も 流れてぞ行く

「あさあらし」とか「浮きたる霧も流れてぞ行く」とかなんか表現が独自で面白い。

降り晴るる 庭のあられは 片寄りて 色なる雲に 空ぞ暮れ行く

「ふりはるる」とか「あられ」が「かたよる」とか「色なる雲に空ぞ暮れ行く」とか実に技巧的。

ふるさとに 契りし人も 寝覚めせば 我が旅寝をも 思ひやるらむ

ふつうに面白い。

結び捨てて 夜な夜な変はる 旅枕 仮り寝の夢の あともはかなし

ふつうに面白いだろ。

初しぐれ 思ひそめても いたづらに まきの下葉の 色ぞつれなき

まあ普通。

大井川 はるかに見ゆる 橋の上に 行く人すごし 雨の夕暮れ

いやあこれはまるで浮世絵の風景のようだ。大雨の中、遠景に橋がかかりその上を人が渡っていく。なるほど「異端」とされるのもわからんでもない。叙景にしろ描写にしろ、なにか若々しい躍動感がある。若い頃の定家や実朝にも通じる何か。これの対極にあるのが二条派の「平坦」とか「わびさび」とか「伝統墨守」というものだと言われれば、妙に納得がいく。

大空に あまねく覆ふ 雲の心 国土(くにつち)潤(うる)ふ 雨くだすなり

何か物狂おしいような。雨乞いの歌だろうか。「大空をあまねく覆う雲の心」が「国土を潤す雨をくだす」とかすごいな、自然賛歌。まあ、たぶん一種の天才肌だったんだろうな。他人は真似しにくいわ、これは。

山形赤湯温泉合宿免許

大学三年生の夏。22才。青春だなあ。車と中免の同時教習だった。

ふかきより ふかき思ひに 入りにけり 今ひとたびと 求むるにより
いねし間に 町に夕立は ふりにけり よひの祭りを 清むるごとく
花も実も あらで畑に おふる木を つくづく見れば 桜なりけり
思ふさまに 林檎は育ち 鳥は鳴き 川には土地の 子らさへ遊ぶ
ひさしぶりに つくづく熱き 湯に入りて あがればビール ふと飲ままほし
柿の種 買はむと来つる 夜の店に なんとラムネは 五十円なり
さすがプロ 全然こぼさなかったねと おせじを言って くれるおばさん
アメリカや オーストラリアに 行かずとも 空の広さは 日本にもある
国つ神に 我が来しことを 告ぐるなり ひとりつとめての 外山に登り
けふひと日 雨は降りけり ゆく川の 流れは満ちて ささにごりたり
おみくじを 結びおくため ひとむらの あをささだけぞ まうけられたる
こぞの夏 買ひし麦わら帽もがな けふしも日差し 強くなりけり
ゆふされば おほかたのせみは しづまりて みやゐの杜に ひぐらしぞ鳴く
やうやくに みづかさは減り 子らもまた 来むと見しまに 雨はふりけり
たかさごの 尾根をつたひて ゆく雲の いづこにけふは つどはむとする
えも言はず 夏の光に みがかれて 指に乱るる みづの流れを
暗幕で 外は見えねど ひぐらしの 鳴く声きこゆ ゆふさればにや
いくにちか そるもうたてと ありしひげも 思ふともなく けふはそりけり
あたたかき 部屋に戻りて かけおきし 作業着におのが 匂いをかぎぬ
思ひみな しづめむとして 湯に入りて 伊東静雄の 歌くちずさむ
おもいきり バイクの第二段階の 急制動でこけてしまった
この分じゃ 帰るころには ばらばらに なるんじゃないか おれのからだは
汗をかいてそのあと風呂に入るのもビールをうまく飲むだけのため
けふよりは残しし仕事はじめむと思ひしことのほかにもあるかな
卒検にこさめ降らなむふらふらと道に出で来る人もこそ減れ
とみに雨降り始めける部屋にありてこころあてなき日を過ぐすかな
わが宿のかたへに川の水は満ちかたへに稲の穂ぞ実りける
かの車とくも行かなむかのおうなな出でそ我は検定中ぞ
たれかこの川わたるらむこことかの岸辺に続く道はあれども
卒検を受けてののちにくらぶれば昔はものを思はざりけり
卒検はおはりにけりないたづらに歩道をわたるおうなを知らで
あめやむはありがたかれどしかすがにおきなおうなら道に出づらめ
温泉に栄ゆる町にゐやあつく神はとやまにまつらるるなり
故郷でも今日より盆にいりにけむ祖父の初盆なれどあらぬかも
初盆にみかんはいまだ青からむとぶらふ人もまたおほからむ
こぼすなよ、心配無用、ゆっくりと半クラッチでコルク抜くから
夜さりて窓のあかりにはむしらはあまた来れども我は帰るも
とをあまりやうかのあひだこの町にあれどもあした我はいぬめり
始発ではないのでつばさもやまびこも最悪の場合たちどほしだな
かへるさに小室直樹の新刊を買へばつれづれなぐさまれけり
立ったまま食う幕の内のんびりと釜飯なんか食ってられるか
立ちぼうけ弁当売りの姉ちゃんがとほれるくらいの混み具合にて
時間割吹き流してる扇風機夏休みあと幾日もなし
一枚にふたつきごとのカレンダーながつきなればあらためにけり

新類題和歌集

ふーむ。 霊元天皇も後水尾天皇に続いて「新類題和歌集」という勅撰和歌集を編纂させている。 21代の勅撰和歌集から通算で数えれば、 22代が後水尾天皇の「類題和歌集」(1703年)、 23代が霊元天皇の「新類題和歌集」(17??年)、 となる。

歌集のこと 参考:吉川弘文館発行「古事類苑」

但し後水尾天皇の朝に「類題和歌集」あり、霊験天皇の朝に「新類題和歌集」あり。 共に勅撰なれども、一題の下に衆多の歌を載せたるものにて、 勅撰の春夏秋冬等を以て分類し、毎首に題を加へたるものとす。 自ら其の撰を異にする所ありて、古より勅撰の中に算入せず。

うーん。 おそらくは、題詠の手本のために、同じ題の歌をたくさん、昔の勅撰集との重複も含んで集めたもので、 確かに21代集までとは性格の違うものかもしれないが、 時代が変われば編纂方針も変わるし、時代に即していく必要もあるだろうし。 つまり、21代集までは「秀歌の選抜」という意味があったのだろうが、 類題和歌集では「和歌の分類と習得」という意味の方が濃かったのだろう。 あるいは先行する「夫木和歌抄」などと類似する性質のものか。 あるいは当代の歌はごく少なくて、主に古い歌を類別すること、 或いは21代集の総集編たることが主たる目的だったか(確かにそういうものがあると便利だろうし、 そういう動機もわからんでもない)。

「類題和歌集」「新類題和歌集」を、勅撰集から排除する理由はあるのかないのかよくわからないが、 ともかく一度現物を読んでみる必要はあるな。 と、思ったがOPACでほとんどヒットしない。 あるのは国会図書館くらいか。 これは厳しい。


追記。おそらくこの勅撰類題和歌集というものはどこにも存在しないか、宮内庁の倉庫の奥底にまったく精査されることもなく雑然と置かれているだけなのだろうと思う。

後鳥羽院

あいかわらず丸谷才一「後鳥羽院」

駒なめてうちいでの浜をみわたせば朝日にさわぐしがの浦波

1200年、後鳥羽上皇が20才のときに詠んだ歌。 承久の乱は1221年、それから21年も後のことだ。 丸谷才一は、この歌を、彼らしく「物騒な趣」だとか「いっそ思い切って右翼的と呼ぶほうが正しいような」 などと表現している。 確かにそう見れば見れなくもないが、そういう読み方をするのは、 戦後民主主義の世界観にどっぷりと浸かった、 「いっそ思い切って左翼的と呼ぶほうが正しいような」丸谷才一くらいだろうと思う。 非常に役に立つ嗅覚であるのは間違いないのだが。

源平の兵乱のただ中に即位した後鳥羽天皇は、 それまでしばらく現れなかった、文武両道ということを多少とも意識した天皇であったことは間違いなく、 若い頃には武士のまねごとのようなこともしてみたのだろう。 たぶん、当時の気分としてはただそれだけのことだと思う。 そう、今で言えば暴走族が早朝相模湾沿いの国道一号線を走っているかのような。

承久の乱の直前に詠まれた歌だとしたらまたいろいろな解釈もできるだろうが。 後白河法皇死去が1192年(後鳥羽天皇12才)、自ら退位して上皇になったのが1198年(18才)、 頼朝の死去は1199年(19才)、朝廷も幕府もいろいろごたごたしてただろうが、 若くはつらつとした時期だったのに違いない。

1189年、頼朝が上洛したとき、後鳥羽天皇は在位中であり、頼朝は天皇に拝謁している。
後鳥羽天皇はまだわずかに9才の時だが、もはや分別は付いている頃で、その印象は強烈だったに違いない。

宮廷文学が喪失したあと、「玉葉」「風雅」などの、実質的には存在しない、 バーチャルな宮廷というものに逃避したような連中も確かにいただろう。 正徹はそうだったのだろう。 しかしそのようなバーチャル宮廷文化を「受け継ぐ天才」など居るはずもない。 そこで江戸時代に目を転じたときに、丸谷才一の目に映ったのは「芭蕉」や「蜀山人」といった、
町人文化の「天才」たちだけであり、 秋成、良寛、景樹、蘆庵といった歌人たちの業績はまるで見えてないのだろう。 江戸時代における宮廷文化とは「一粒の麦」であって 「もし死なずば一粒にてあらむ。死なば多くの実を結ぶべし」 というように、万葉時代には広く大衆のものであった歌の文化は、 後鳥羽院時代を頂点として一時期宮廷の中に凝縮され、
宮廷サロンが喪失したのちには、再び武士のサロンや町人のサロンなどの広い多様な形態に拡散して行ったのであり、 もはやバーチャル宮廷など必要としなくなった、と考えるのが一番素直ではないか。

蜀山人が天才かどうか知らないが、あのような下品なげてものを優れていると感じる感覚には、 正直ついていけない。別に江戸時代について勉強したいわけではなかったのにどうしてもそうなってしまうのは、江戸時代の文芸や学問というものが、いろんな意味でさけて通れないからなのだろう。

「大正天皇御集 おほみやびうた」の解説で岡野弘彦氏が言うには、武士はいついかなるときに腹を切ることになるかもしれないので、はずかしくない辞世の歌を詠むためだけに、ただそれだけのために、普段から一生懸命和歌を学んでいたのだと。

思うに、歌人の風習に、辞世の歌を詠むということはそもそもなかったはずだ。宣長は遺言状の中に歌を詠んだがこれも別に辞世の歌というつもりはなかったと思う。

その由来は、wikipedia にあるように「禅僧が死に際して偈を絶筆として残す風俗」だったはずで、さらに状況証拠で言えば、辞世の歌を多く詠んだのは、江戸中期以降の狂歌師たちだ。歌舞伎となった忠臣蔵の大石内蔵助や浅野内匠頭長矩が切腹するときに辞世の歌を詠んだことになっている。

たぶん創作だろうけど。それで武士や狂歌師らに広まっていったのだが、実際に武士が切腹する場面などそうそうないので、狂歌師の狂歌が目立つということなのだろう。だから、武士の心得として和歌を学んだというは、あっているかもしれないが全然違うかもしれない。たとえば田安宗武がそういうつもりで和歌を学んだとはとても思えない。

切腹自体が江戸時代に様式化されたものであり、太平記の時代には切腹は単なる自決方法の一つにしか過ぎなかった。切腹、忠臣蔵、辞世の歌、桜、大和魂などというのは、歌舞伎を媒介として江戸中期以降に作られたイメージではないか。

上田秋成

上田秋成の「つづらぶみ」を読んでいるが、 秋成の歌は相当うまい。 おそらく公平に見て、近世の歌人で一番うまいのが秋成、その次が良寛、景樹、 または蘆庵というところだろう。 この四名は一流と言って良いと思う。
「つづらぶみ」の冒頭だけ見ても、

都べは ちまたのやなぎ 園の梅 かへり見多き 春になりけり

都あたりは、町中の柳や庭園の梅など、見かえりすることが多い春になったという、 なにか浮世絵の美人画でも見るような、いかにも江戸時代らしい歌。

我が宿の 梅の花咲けり 宮人の かざしもとむと 使ひ来むかも

「梅の花咲けり」は字余りだが、これはたぶん「勅なればいともかしこし」辺りをイメージしているか。

折らばやと 立ち寄る梅に 鴬の ゆるさぬ声を おどろかすかな

ひょうきんな感じがなかなか良い。 この辺りは景樹に通じるところがある。

大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。
おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。
おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。

とは小林秀雄も指摘しているところだが、秋成は宣長とはかなり相性が悪かったようだ。 「敷島のやまと心の道とへば」とはかなり悪意ある誤読ではあるが、 漢籍にも親しみ、読本も書き、歌もうまかった秋成にしてみれば、 宣長のこのような歌がもてはやされるのが我慢できなかったのだろう。

宣長という人は、狂歌めいたふざけた歌は一切詠まない人だった。 心底まじめな人だったのだろう。 かたや秋成は、まともな歌も詠めば狂歌も詠むし、怨霊や妖怪物語も書く。 自由自在な、文芸人、というイメージ。 さぞ、相性は悪かろう。 その点、 景樹や蘆庵らとは心理的な障壁はない。仲も良かったようだ。 いずれも京都の文人、町人という雰囲気がある。 狂歌などは京都や江戸などの町中の文人サロンではやるものだから、 そこから一歩はずれていた宣長には影響が及ばなかったのかもしれない。 意固地な田舎者、というイメージも浮かんでくる。

秋成の代表作「雨月物語」はまだ読んだことないが、 これも死後に彼の作であることが知れたらしいし、 歌はなかなか認められず、無名のまま戯作など書いて暮らし、 不遇な生涯だったのだろうなと思う。


追記。このころ私はまだ宣長や真淵について、全然知らなかった。