マルコ福音書

マルコ福音書は最初に13章までが書かれたのだという。つまり受難の前まで。さらに受難の章14,15が書かれた。復活について書かれた16章目は、もともとマルコには含まれていなかったという。

ということはだ、マルコの最初の形は、冒頭ヨハネの話がちょっと出てくるが、いきなりイエスのガリラヤ布教の話に移る。そしてほとんどがガリラヤでの布教活動の記述の列挙で終わる、ということだ。つまり、マルコ福音書というのはもともとは「イエスのガリラヤ布教伝」 というものだったらしいのだ。

「イエスのガリラヤ布教伝」というテクストがまずあって、これに若干加筆してマルコとなり、また「ガリラヤ布教伝」または「マルコ」を参考にして「マタイ」と「ルカ」が出来た、ということらしい。

「マタイ」が現在の新約聖書の冒頭に配置されているのは、「マタイ」がダビデからイエスまでの系譜やら、イエスの誕生などを時系列で丁寧にまとめているからだろう。

新約聖書

新約聖書の中では、福音書よりも、パウロの書簡の方が先に成立したというので、まあ、そりゃそうだわなと思い、パウロの手紙を読み始める。文章として後世に残るというのは、古代にあっては特に、リテラシーのある人たちまで広まってからでなくてはおきなかった。たとえば日本の歴史で言えばだが、源義家の時代、彼の周りには特に、実時間で文書を記録する人がいなかった。だから一次資料もほとんどなく、二次三次資料、後世作られた伝説しかない。しかし、源頼朝までくると、公家らがほとんど実時間に日記に記録している。第三者の視点で記録された一次資料というものがある。平家物語ですら、歴史というにはあまりにも一次資料に欠けている。たまたま琵琶法師の平曲でそう言ってたというだけで歴史扱いされているのだが、平家物語は実時間の記録ではなく、50年近くかけてだんだんにできたものであり、史実とは言い難い。

新約聖書にも一次資料などというものはない。パウロ書簡からがほんとうに後世に残された資料で、福音書はその後に教団ごとに整理されたもの。当時リテラシーがあった人など人口の1%もいたかどうかだろう。初期の使徒らはみな文盲だっただろう。教団ができてから、その中のほんの一部の人が、文字を読めて書けたのだろう。で、パウロという人は、おそらくは、キリスト教団の中で初めて文字を読めて書けた人だったのだろう。

つまり、文書として後世に残った時期にはすでに相当に世の中に広まった後だということ。キリスト教は実はパウロ教だというのもまあわかった気がする。

ウィキペディア英語版では Jesus だけなのに、対応する日本語版には「イエス・キリスト」「ナザレのイエス」「史的なイエス」などと項目が細かく分かれる。ドイツ語版は Jesus Christus と Jesus von Nazaret に分かれていて、やや日本語版に似ている。

司馬遼太郎3

つまり、司馬遼太郎は、義経は書いているが、鎌倉幕府とか北条氏の時代から何も書いてない。太平記の時代になり義満の時までない。

つまり、源頼朝から足利義満までの間のことは小説に書いてない。

なるほど、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康は武士であろう。薩摩や長州も武士だし、新撰組も武士だろう。明治の軍人たちは武士の子孫に違いない。

だが、執権北条氏も、足利氏、新田氏、楠木氏らもまた武士であろう。南北朝や応仁の乱のごたごたもまた武士であろう。それらを全部ひっくるめて武士なのである。しかし、司馬遼太郎は、吉川英治「私本太平記」を例に挙げて、吉川ですら残念ながら水戸史観を頼りにこの時代を見ている、などと批判している。水戸史観を通してみれば悲壮美にみちたきらびやかな時代だが、それを取り払えばただのごたごたでなんでもない時代だ、と言っている。なるほど、なんでもない時代ならなんでもない時代として淡々と描写すれば良いのではないか。あるいはそれこそ水戸史観を司馬史観とやらで置き換えれば良いではないか。まあ、新田次郎などはそれをやろうとして、派手に失敗しているし、吉川英治も中途半端にやろうとして適当にごまかしているがな。歴史家か歴史小説家が、ある特定の時代を取り出して、なんでもない時代、なにもなかった時代などというのは怠慢に過ぎない。 プロじゃない。そもそもなにもない時代なんてものがあるはずがない。逆に、なにもかもおもしろかった時代というのも幻想に過ぎない。

南北朝時代と応仁の乱の時代は、時期的にも近接していて、非常に良く似たものだっただろう。どちらも、ほんとうの歴史というものは、ごたごたしただけのものだ。司馬史観というが、幕末や安土桃山時代ばかりとりあげて、武士の、日本史の暗黒の歴史、つまらなく、ごたごたどろどろした部分はほったらかして、それじゃただミーハーなだけではないか。頼山陽の立場で考えれば、彼はまあ彼の生きた時代なりに、日本の通史を書こうとして、武士の良いところも悪いところも全部彼なりに最初から最後まで書いてみた。さらに日本政記やら日本楽府も書いた。そして彼は彼なりに、日本に武士がおこった所以を説明してみた。藤原氏による国家の私物化、武家による簒奪(或いは王家の傀儡化)、さらに北条氏という、天皇家でも貴族でもない階級による一時的な「善政」と崩壊。長引く混乱の中で荘園制から守護大名、戦国大名への変遷。そして封建制の完成。すべては連続的にかつ必然的に起こってきたこと。だが、司馬遼太郎は日本の歴史をつまみ食いしただけだ。彼が、宋学とか、水戸史観とか、そういうものを嫌っていたのはわからんでもないが、
それもまた武士の思想なのであり、それをどうにかこうにか自分なりに消化しなくては武士を描写することなどできまい。

思うに、太平記がただのつまらない歴史だと言うのであれば、史記に描かれた項羽と劉邦の話だって、脚色を取り払えば、ほんとうの歴史はごくつまらないものだっただろう。安土桃山にしろ幕末にしろ、史実が明らかになればなるほど、ふつうのごくつまらない事実の積み重ねに還元されるだけだろう。そんなことは当たり前のことなんじゃないのか。歴史小説を書くには何かの脚色が必要で、だから司馬史観などと言われるのではないのか。

司馬遼太郎2

司馬遼太郎は案外著作は少ない。長編が多いせいかもしれない。
歴史小説で時代が古い順に並べてみる。

#### 秦漢

項羽と劉邦

#### 平安初期

空海の風景

#### 平安後期

義経

#### 室町

妖怪

#### 戦国初期

箱根の坂

#### 安土桃山

梟の城、夏草の賦、新史太閤記、尻啖え孫市、功名が辻、城をとる話、国盗り物語、
戦雲の夢、風神の門、播磨灘物語、城塞、関ヶ原

#### 明末清初

韃靼疾風録

#### 戦国・江戸初期

覇王の家、宮本武蔵

#### 江戸初期

大盗禅師

#### 江戸中期

菜の花の沖

#### 幕末

上方武士道、風の武士、龍馬が行く、燃えよ険、北斗の人、俄 浪華遊侠伝、十一番目の志士、
胡蝶の夢

#### 幕末・維新

最後の将軍 徳川慶喜、峠、歳月、世に棲む日日、花神、

#### 維新

翔ぶが如く

#### 明治

坂の上の雲、ひとびとの跫音、殉死

司馬遼太郎

「燃えよ剣」を読むまで、まったく気がつかなかったのだが、結構重大なことのようなので調べてみる。

「燃えよ剣」の中で司馬遼太郎は、近藤勇が日本外史の愛読者であり、 また頼山陽にまねた書を書くなどと書いている。近藤勇は当時の平凡な田舎武士、あるいは町道場主として描かれており、その趣味が頼山陽なのであり、それ以上のことは書いてない。

また、「項羽と劉邦」の後書きで、頼山陽と日本外史について次のように触れているそうである。

日本人が中国大陸から漢字・漢籍を導人するのははるかなのちのことになる。以後、日本社会はその歴史を記録として織りあげてゆくのだが、人間のさまざまな典型については自分の社会の実例よりも、漢籍に書かれた古代中国社会に登場する典型群を借用するのがつねであった。このことは、ひとつには江戸末期に日本社会が成熟し、頼山陽が出て『日本外史』を書くまで自国の通史が書かれなかったことにもよる。中国文明の周辺の文化というのは自国を鄙であるとするらしく――朝鮮やヴェトナムも同じだと思うが――通史が成立しにくい。たとえ成立しても、人間についての彫琢にとぼしい。『日本外史』にもそのきらいがあるが、それは山陽の罪ではなく、多くは日本社会の性格によるといえるであろう。中国社会の場合、すでにのべたように田園にみずからを飼い養っていたひとびとがに挙に柵を脱し、山野へ奔りだすということがあるために、そこに浮沈する人間たちは、浮沈の力学として彫琢が深刻にならざるをえない。典型ができやすいということがあり、とくに戦国から秦末の争乱にかけてはそうであった。まだその典型たちの塚が古びていない時期に、記録者の司馬遷があらわれている。かれは宋代以後の学者よりもはるかにこんにち的な感覚をもち、二十世紀に突如出てきても違和感なく暮らせるほどに物や人の姿を平明に見ることができた。

日本外史が日本初の通史であろうか。水戸藩の大日本史は確かに日本外史よりも完成は遅れたが、それよりも先に編纂が始まっていた。北畠親房の神皇正統記は、日本の通史とはいえまいか。ほかにも日本外史に先立つ日本通史に近い著作はあるだろう。また、日本書紀は明らかに当時としての通史であっただろう。それらについて、司馬遼太郎ともあろう人があまりにも無関心すぎないだろうか。

また、日本外史が、史記と比べて、「人間についての彫琢にとぼしい」と言っているのはどうにもわからない。史記は司馬遷が書いたというよりは、地方に伝わった伝承を蒐集したものであろう。民間伝承とはつまり平家物語や義経記、あるいは太平記などの軍記物語に近いものだったろう。それらをつなぎ合わせて史記ができている。それを後世の宋代の学者と比べて「はるかにこんにち的な感覚をもち」などと評するのはあまりにもとんちんかんではないか。

司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由その1、司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由その2。なるほど、これは詳しい。よく読んでから、また書いてみる。

司馬遼太郎と日本外史

司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んでいたら、近藤勇の愛読書として「日本外史」が出てきた。その紹介はあっさりとしたもので、楠木正成についてもごくありきたりの解釈。もしかすると、司馬遼太郎は、平家物語や太平記辺りの日本史についてはあまり興味がないのかもしれんなと思った。日本外史についてもせいぜい江戸時代に流行った講談もの程度の認識なのではないか。ほとんど読んでないのではないか。そんな気がする。

「燃えよ剣」自体はなかなか面白い。特に調布から八王子辺りの地理をある程度知っている人には楽しめるだろう。なんというか、関東に来てみないとよくわからない小説というものは実際ある。志賀直哉の「城之崎にて」など冒頭、山手線にはねられて背骨を痛めてどうのという話があるが、そもそも山手線というものがどんなもので、それが大正時代にはどんなふうでという具体的なイメージがつかめないと、面白みがだいぶ減るのではないか。

眼福至極。

切腹

腹を切って内臓露出しただけじゃ死ねないんだよ。 一日くらいは絶命しないこともある。だから、江戸時代に様式化されると、苦しまないよう介錯が始末してくれる。

もともとは苦しんで恨みを残して、周りに迷惑をかけて汚く死ぬための死に方だったわけだし。

だから、今回の切腹は、割と正しいやり方だったと思うよ。 歴史的には自分の死をもって嫌がらせをするために切腹する場合もあり、 きれいに死ぬのが切腹とは限らない。

逆に、ブラックホークダウンみたいに、大動脈が切れれば30秒くらいで出血多量で死んでしまう。 手当が間に合わない。

石橋山と石垣山

石橋山は源頼朝が挙兵後に敗れて真鶴から安房へ海路逃げたという、古戦場。早川漁港から南に少し行った海っぺり。石垣山は秀吉の小田原攻めで一夜城が建ったところ。生命の星地球博物館の近く。場所も近く紛らわしいが別の場所。

佐奈田霊社

一度まとめて観光しておかねばな。

富士川と倶利伽羅峠

平家物語を相変わらず読んでいるが、源平合戦というが、富士川の戦いと倶利伽羅峠の戦いでほぼ決着が付いているんだなあと思う。一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの戦いの方が有名だが、これらはもう平家が都落ちした後の掃討戦にすぎず、重要性という意味では富士川と倶利伽羅峠にははるかに及ばない。この二つの戦いによって、保元・平治の乱であれほど優勢になった平氏の権力はまったく逆転され、源氏に有利になった。

富士川の方は、甲斐源氏が主力であると言われているし、倶利伽羅峠は明らかに木曽義仲の功績であって、となると、頼朝や義経などは、大したことはやってない、という結論に達する。宇治川の戦いは単に頼朝の名代というに過ぎず、一ノ谷の義経の功績も疑問が多い。となると実は義経は別に大したことはやってないんじゃないか、実は虚構なのでは、という気になってくる。源平合戦というものが、民間に広まるにあたって、一人の英雄を必要として(兄弟喧嘩というわかりやすい脚色を入れて)、そのために仕立てられた役者、という気もしてくる。

頼朝に至っては、単に北条氏に担がれて、源氏の嫡子だ棟梁だと言い張ってたらみんな遠慮してくれただけなんじゃないのか。源氏にも危機感はあっただろうから頼朝一本で団結しただけなんじゃないか。実際頼朝の子孫なんてあっというまに使いつぶされてしまうし。

いや、義経や頼朝をおとしめたいのではなく、富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いをもっと評価すべきなんじゃないかってこと。歴史の骨格として、保元・平治の乱と同じ重みで押さえておくべきではないか。

ていうかね、富士川でも倶利伽羅峠でも一ノ谷でも、平氏はそうとうな大軍であったくせに戦略が何もないよな。どうしてこんなにもろかったのか。たぶんだけど、集団で戦うということができなかったんだな。保元・平治の乱といっても別に大軍どうしの戦いではなく、小競り合いと政略で平氏がたまたま勝っただけだもんな。源氏は関東北陸東北中部地方に渡る広い範囲に一族がちらばっていて、その首領たちがそれぞれ戦がうまく、それぞれ独立して戦えたのだろう。そういった戦力が、一気に集中して平氏打倒という目標に向いたから強かったのではないか。

保元の乱といってもこれは皇族どうしの戦いで、源平はきれいに分かれて戦ったのではなかった。しかも単に皇居周辺の局地戦にすぎない。平治の乱は反清盛、反平氏だったから、平氏と源氏はきれいに分かれた。で義朝が敗れて、義朝の子供がほぼ絶滅したのだが、しかし、頼朝と義経は残ったし、義朝以外の源氏はほぼ無傷で全国に残っていた。やはりこれも京都周辺だけの局地戦だし、その後の鎌倉対京都という、全国規模の、数万数十万単位の軍勢の、何ヶ月にもわたる戦争とは、明らかな違いがある。

新田次郎

新田次郎著「新田義貞」上下巻を図書館から借りてくる。いちいち取材旅行しているのがなんとなく、経費で旅費落としているんだろうなあと思わせる。

稲村ヶ崎の解釈はずいぶんくどい、しかし、それが正解だとも思えない。できるだけ科学的に史実に忠実に記述しようとしたあとがあるが、そんなことをしてどれほどの意味があるのだろうか。太平記は確かに作り話臭い。作り話臭さを解消するために天文学的に分析をしてみる。しかしそれだけでは単に新解釈を加えたにすぎないだろう。

新田次郎としては、一ノ谷の断崖を馬で駆け下りた義経のように、あるいは平忠常の乱のとき源頼信が浅瀬を馬で渡ったときのように、稲村ヶ崎も奇襲であったと解釈したいようだ。私も最初はそうかと思ったが、実際には、六波羅が落ちて関東の武士がこぞって倒幕軍に合流した結果、鎌倉側がとうとう支えきれなくなって、たまたま稲村ヶ崎が突破された、と考えるのが自然であろう。幕府に反抗したのはもはや足利尊氏や新田義貞だけではなかったということだろう。新田義貞が挙兵してわずか15日で鎌倉幕府が滅んだのは、それだけ、倒幕の機運が満ちていたからだと言える。

また新田次郎は、金剛山が落ちなかったのは、楠木正成が特に有能だったからではなく、
寄せ手にやる気がなかったからだという。果たしてこの解釈もどうだろうか。

ところで、wikipediaなど読んでいると、一ノ谷にはひよどり越えのような絶壁はなかったと書いてあり、また一ノ谷の別働隊は義経ではなくて多田行綱だったという説もあるようだ。多田行綱は、平家物語では清盛に鹿ヶ谷の陰謀を密告した人物となっているがそのような事実は疑わしいなどとも書いてあり、どうも摂津源氏の子孫らが行綱に同情的な記述をしているようにも思える。

そのように歴史的に正しいか正しくないかという観点で軍記物語を読んでもおもしろくないのであり、太平記は太平記のままに読まなくてはつまらんのであって、史実は脚注に書くなりしてもらえば良いのであり、戦後民主主義作家の脚色の方がよほどうっとうしいと言う気もする。