静岡刑務所の三悪人

戸塚宏著「静岡刑務所の三悪人」飛鳥新書を読んだ。戸塚宏の割と最近出た本らしい。戸塚先生、おもしろすぎます。

昔のインテリが、入獄するとひとつの外国語を習得したと言われるように、私も時間はたっぷりあるから、仏教を学ぶときに必須の言語であるパーリ語を学ぼうと思った。

受刑者たちは犯した罪によって序列が決まっており、思想犯は国家権力に立ち向かっているから最上級ランクになる。反省を拒否し、仮釈放も拒否した私も、そういった意味では思想犯だろう。

などなど。

冥王星

なんか世間と感覚がずれているのかな。冥王星なんてどうでもいいし。ていうかほんとの科学者ならあっそうで終わりじゃないの。科学者じゃない連中の琴線に触れる部分があるんじゃないかなとか。そうじゃなきゃこんな大騒ぎしないでしょ。教育関係者とか、インテリってこういう話好きだよな。立花某とか専門でもなきゃわかりもしないくせに科学談義大好きだしな。子供の頃小学校で「一番遠い惑星は冥王星です」って教わりましたみたいなノスタルジー。科学的な客観的事実とか、科学者どうしが決めたクライテリアよりも、検定教科書になんと記述されているか、教育指導要領にはどのように定められているか、入試にはどのように出題されるか、その方が100倍重要なんだろう。明らかに科学的態度からは乖離しているよね?果ては「科学者の傲慢」とか言い出す始末。そのうち「科学は非民主的」とか言い出すよ。アホかと。だいたい論文の新規性や有効性だって査読者どうし話し合いで決めてるんだよ。ノーベル賞の審査基準だってそうだろ。今更なんだよって感じだよね。

「冥王星」って名前の響きはいいよね。でも月より小さいひねこびた岩の固まりなんでしょ。

プラズマに感心。

アップルシードはマッハバンドが出まくるビデオだと思っていたが、先日プラズマで見るとまったく見えない。液晶はEIZOだろうがAQUOSだろうが、暗い部分のコントラストが低い。暗いところは一様に真っ暗になってしまうのだろう。だからガンマかけて明るくするので暗い部分のマッハが目立つ。明るい部分はとんでしまう。なんでこんなまっちろけなんだろうと疑問に思ったシーンがきちんと再現されている。うーむ、やはり未だに液晶はダメなのかと。プラズマは暗いところは暗く、明るいところは明るく表現できる。全体的に暗く見えるが、ほんとうはその方が正しく、隅々明るくくっきり見える液晶の方が嘘なのだろう。どうにもこうにも、これからテレビを買うなら40型超のプラズマしかないなと思った。もうしばらく待てば15万円くらいで買えるようにならんか。

他にも被写界深度のエフェクトが頻繁に使われていることに気づいた。なんで今まで気づかなかったのだろうか。小さな画面だったりガンマが効き過ぎてたり勝手に鮮鋭化されていると、この手のボケ表現がわかりにくくなるのかもしれん。いやーしかしプラズマはすごいわ。

フルスクラッチ

千葉銚子沖が千葉桃子沖に見えた。千葉桃子って誰だよ(笑)

フルスクラッチという言葉はもともとプラモデルorフィギュア用語なのだろうか。

フルスクラッチとはどうやら和製英語のようだ。from scratchという熟語は確かに存在する。また Free Software for Microcomputers GNU bulletin vol.1, no. 14 にあるように

Linux has been written from scratch and does not contain any proprietary code in the kernel

という言い回しがあり、これを誰か「リナックスはフルスクラッチで書かれた」などと訳したために定着したのではないか。

で、フルスクラッチというのは模型を作るとき、既存の模型を流用せずすべて材料から作ることを言うようだ。やはり模型用語なのだなと。でもおそらくもとはといえば from scratchから来ているのだろう。どちらにしろ、あまり頭の良い言葉とは言えないから使わないのが無難だな。

ジミ・ヘンドリクス勉強会。

ツタヤでJimi Hendrix at WoodstockのDVDを借りてくる。アメリカ国歌の演奏が実に印象的。Wikipediaによれば

1969年8月に6人編成でウッドストック・フェスティバルに出演しトリを務め、音楽史に残る名演「The Star-Spangled Banner」(星条旗、いわゆるアメリカ国歌)を演奏。
フィードバックやアーミングといったエレクトリックギターの特殊奏法の限りを尽くし、爆撃機が空襲を行い民衆が泣き叫び逃げまどう様子を、音で完璧なまでに再現してみせた。
これは泥沼化して先が見えないベトナム戦争と、希望のない戦争にのめり込むアメリカ合衆国への痛烈な批判であった。

だということだが、そんなことはさっぱりわからんのだが、ともかくすごい演奏だと思った。

Purple Haze、 Voodoo Child もかっちょいい。

「紫のもや」試訳:

紫のもやが脳の中に充満している
近頃は何もかも違ってみえる
おかしな具合だがなぜだかわからない
空にキスする間ちょっとまって

紫のもやがあたり一面立ちこめている
どっちに歩いているかもわからない
俺は幸せなのかみじめなのか
ともかくあの子は俺に呪文をかけた

助けて助けて
なにもわからない

紫のもやが目の中にいっぱいだ
昼だか夜なのかもわからない
おまえは俺の心を吹き飛ばした
明日かそれとも時の終わりか

何もわからん
助けて
教えてくれ
さあこい

「ブードゥーの子」試訳:

山のそばに立って
手刀で叩き割り
破片を集めて島を作る
小さな砂を軽々と持ち上げるように

だって俺様はブードゥーの子だから
神様も俺がブードゥーの子だと知っている
最後にもひとつ言いたい
あなたのすてきな時間をとりあげるつもりはなかった
そのうち返してあげる

もしこの世で二度と会わないとしたら
次の世で会うだろう
そのときは遅れるな
遅れるな

俺様はブードゥーの子
問いはいらない
答えもない

こんな感じでしょうか。 wikiでジミヘン和訳集とか作るとおもしろいかな。

普通のハードロックやヘビーメタルなどの曲にはリズムとメロディーがあるのだが (そしてそのテンポがしばしば異様に速い)、それがジミヘンにはない(ことが多い)。ジャズの即興演奏に近いかも。あるいは津軽三味線のようなものも連想させる。ときどきバンジョーのような弾き方もする。ドラムはジミヘンの演奏に合わせて適当に太鼓をたたいているだけのように見えるし、ときどきドラムを合わせきれずに苦笑しながら眺めていたりする。私はバンドというのはよくわからんのだが、ドラムとかベースとかボーカルとか役割分担が決まってて、即興のように見えてある程度までは整然と演奏されるのだと思う。しかしジミヘンの場合は空から霊感がおりてきて、ジミヘンがそれをギター演奏として表現し、周りのスタッフがそれに合わせて適当に太鼓たたいたりマラカスふったりしている。シャーマニズムにも近いものがあるのかもしれんし、もしかするとネイティブアメリカンの音楽の影響もあるかも。

油菜橋

なぜか秦野へ。静かで美しい町。それから栢山の二宮尊徳記念館。3150円の金次郎像を買う。油菜橋というのがある。孤児となり、叔父に養われていた二宮金次郎が菜種を植えて油を作り、初めて自力でお金を稼いだという場所。時あたかも菜の花が咲いていた。ちょっと感動した。内村鑑三は、中学三年のころ二宮金次郎から間接的に影響を受けているのだった。内村鑑三はクラーク博士に農学を学んでいる。江戸時代の先達として二宮金次郎を尊敬していたのである。

それはそうと天孫降臨の天孫が天照大神の孫のニニギノミコトだということを日本人の99%は知らない。日教組の戦後教育の成果を見る思いだな。そんなことで女系天皇は是か非かなどと議論してるのだからばかばかしい。

宇宙に満ちた気

脳科学を検索してみると出てくるのは心理学か哲学ばかり。ゲーム脳がどうしたこうしたとか、クオリアがどうのこうのとか、なんか怪しげな世界だ。あまりお近づきにならない方がよいのか。

脳科学といっても結局PETとかMRIで領野のどこが活動してるか調べてるだけだ。そこからゲーム脳などという安直な珍説が生まれてくる。マスコミは自然科学からこういう道徳的で啓蒙的なデータが出てくるとすぐ飛びついて祭り上げる。日本人の科学的な訓練(科学リテラシーというかのか)はまだ脆弱だから、あっという間に明治以前の道徳と学問が不可分に結びついた暗黒時代まで退行してしまうのだ。きわめて危険だ。今でも大学教授というものはネクタイ締めて偉そうなことを言ってるとか、白衣を着て実験してるというようなステレオタイプでみられているが学問とか科学とはそんなこととは何の関係もない。

ゲームをやってる最中に脳のどの部位が使われているかとか脳波がどのように変化するかだけで、ゲームが有害かどうかを決めつけられるはずがない。

ともかく今は脳のどこそこが梗塞したらどの機能が損なわれるとか、これこれという行動をとれば脳のどこそこが活動するかとか、その程度のことを「非侵襲的解剖」などと言ってありがたがってるのだから困ったものだ。

アトムの前身であるメトロポリスなど読むと手塚治虫がもともとは東洋思想の強い影響下にあったことがわかる。生命とは「宇宙に満ちた気」であって太陽の異常黒点活動によって人工生命が生まれたり滅んだりする。朱子学の陰陽説そのものだ。ところがそれから手塚治虫は多少科学を勉強したらしく、アトムには機械論は出てくるが陰陽説っぽさはまったく出ない。50年前の日本人は東洋思想にとらわれていたが現代人でも似たようなもんだ。マトリックスとか攻殻機動隊なども「脳」とか「意識」というものがまるでわかってないから、あのような壮大な妄想が出てくるわけで、わかってしまえば「脳」とか「意識」というものは多少複雑ではあるかもしれんが、もっと当たり前な自明のものに違いない。

だいたい世相がだんだん悪くなるとかいやな時代になりましたねえなどというが、20世紀ほどひどい時代はなかったんで、あのころは犯罪も不正も非常に多く治安も悪かったが、たいていはローカルな社会に閉じてたからよその地域のことなど知りもしないし知る方法もなかった。サザエさんなんか読んでると昔は戸締まりというもんがなかったから、刑務所帰りの押し売りが平気で縁側まで押しかけて婆さんにゴムひもかなんか売りつけてる。
今じゃありえない話だ。今じゃ日本のどこかでおかしな事件が起きるとマスコミがよってたかって大騒ぎするが、そんなの昔は日常茶飯事だったに違いない。じゃあ19世紀やその昔はまだましかというとおそらくは20世紀よりずっと悪かったに違いなく、時代をさかのぼるほど世の中は粗雑で悲惨で無知でいい加減だったのはほぼ間違いあるまい。

動物園の猿を観察するというので結局6000円の安物の双眼鏡を買った。オリンパスの軽いやつ10倍。8倍でも良かったのかもしれん。重くてでかい防水なやつはかっこいいが腕が疲れそうだ。双眼鏡で見るともちろん立体視できるのだが、遠くの物体が皆平面に見えておもしろい。双眼鏡ごしでは数メートル数十メートルの視差は認知できるが、数センチの視差はわからんのだな。片目で見た方が逆に奥行き感がある。おもしろいねぇ。両眼視差を完全にキャンセルする双眼鏡があるとおもしろいかもね。ていうかそれ左右同じ映像にすれば済む問題なのか。いや、そうではあるまい。視差のあるところと無いところがあるから視差を感じ、奥行きを感じるのだろう。視差がまったく無いと片目で見たときのように脳が奥行きを知識ベースで勝手に補完するのでないか。みんな平面に見えるような仕掛けって作れるのかなぁ。

Inner vision

S. Zeki の本 Inner vision は確かに衝撃的だが、煎じ詰めれば、視覚領野を統合するような視覚領野は存在しないと言ってるだけ。各種画像処理に特化した視覚領野は全部横並びであり非同期であって、低レベルの視覚特徴から高レベルの統合特徴を作ったりはしないということ。少なくともリアルタイムでそういう作業はしてない。つまり我々が普段見ている光景というのはほとんどすべてが無意識のうちに見ていると言ってるにすぎない。コップの水を飲むのにこれはコップ、黄色い冷たい陶器のコップ、透明の水、などといちいち意識しないようなもので、それは当たり前のことだ。自動車を運転するときもそうだろう。いちいち意識していたら運転できない。歩くこともできまい。意識しすぎれば身動きとれない。自意識過剰という状態だ。

ブルース・リーが言う Don’t thik, Feel. というのが無意識。高次な統合意識にとらわれず、低次の非同期で素早い反射行動を鍛えろいうことだ。

しかし人間に意識とか認識がないわけではない。それとこれは別だ。

無意識というのはつまり複数の低レベルの処理が非同期無連絡に行われている状態と考えればよいだろう。意識というのは何か統合とか同期とかが必要な処理で、フレームレートでいうとせいぜい 1fps とか 0.5fpsとかそんな非常に遅い処理。しかも同時並列にはできない特権プロセスのようなもんで非常に重い処理なのだろう。

ただそれだけのことだ。当たり前と言えば当たり前のことだな。

misc

Sugar Baby Love は Bay City Rollers ではなく、The Rubettes というバンドの曲だった。道理で BCR のアルバムには入ってないはずだ。なんか勘違いしてた。

鈴木みそ「オールナイトライブ」読み始める。ときどき取材無しででっち上げたつまらない回があるのと、アングラエロ話が多いのをのぞけばすばらしく面白い。特にきちんと取材した回のはとてもよい。


Sugar Baby Love は Bay City Rollers がカバーしたことがありますか。

ベイ・シティ・ローラーズ(Bay City Rollers)公式の公式録音やシングル・アルバムとしては、『Sugar Baby Love』をカバーした実績はありません。

混同されやすい背景には以下の要因が挙げられます。

  • オリジナルアーティストの存在『Sugar Baby Love』(1974年)のオリジナルはイギリスのグラムロック/ポップバンド ルベッツ(The Rubettes) です。
  • 『Bye Bye Baby』との同時代性ベイ・シティ・ローラーズの代表曲である『Bye Bye Baby』(1975年)は、フォー・シーズンズ(The Four Seasons)のカバー曲です。バブルガム・ポップ/70年代バブルガム・ロックの同ジャンル・同時代のヒット曲であるため、印象や曲調が混同されるケースが少なくありません。
  • 他のアーティストによる主なカバー
    • キャンディーズ(1974年『なみだの季節』アルバム内)
    • Wink(1988年、デビューシングルとして日本語カバー)
    • 石井秀仁(GOATBED)や布袋寅泰(ライブ・プロジェクト等)をはじめとする多数の国内・国外アーティスト

ライブ等で即興的に一節を口ずさんだ可能性までは否定しきれませんが、オフィシャルなカバー音源としてリリースされた記録はありません。

太陽のない街

徳永直「太陽のない街」とか読み始めたが、これはやばくないか。小石川に植物園があり、これに沿った谷に千川という川が流れているが、ここが昔は「東京随一の貧民窟トンネル長屋」で、梅雨と秋の長雨には必ず千川ドブが氾濫し、労働争議が起きた印刷会社は今も同じ場所に存在するらしい。物語冒頭、摂政宮殿下(昭和天皇のこと。時代設定は大正末期)が行啓したという、「高師」とは東京高等師範学校、つまり戦後の東京教育大学→筑波大学付属小学校辺りのことか。「太陽のない街」は「蟹工船」と違いDVDが出てるらしい。案外蔦屋で手に入るかも。