永井豪

いまさらながら、ハレンチ学園やあばしり一家やデビルマンを小学生の頃読んだ世代にしてみれば、ああいうものが規制されなかったほうがおかしいと、改めて思う。ただ単に、役人も、世間一般も無知だっただけだろう。規制されるべきかどうかの議論にはあえて言及したくないが。

今の漫画もアニメも私たちが子供の頃の純朴だったときとは明らかに違う。エヴァなど見れば性的にどうこう言う以前に精神的に病んでいる。それで良いのかと思う。

ビデオゲームにしてもやはり昔のものはえげつない。その反省なしに先には進めまい。

こういうことは言えると思う。わずか20年なり、40年なり前は、何を見てはいけないか、何を見てもよいかという基準を国家権力が決めるのは、危険だった。だから、どちらかといえば、何もしない方が安全だった(昔の方が今よりずっと規制は多かったがコンテンツ自体が圧倒的に少なかった。というよりコンテンツが少なかったから選別して規制出来たと言える)。しかし、情報にあふれる今、逆に言えば、年少者がアクセスできる情報は国家がコントロールした方が良いのではないかと。今と20年前とどれほど情報量が増えていようか。

漫画家やゲーム開発会社が自由に創作活動するのは良い。しかし子供はどうか。

敷島のやまとごころ、の謎

岩波古語辞典を見ると、「やまとだましひ」「やまとごころ」の意味として 「(漢詩文の能力に対する)実務処理能力」のことと書いてある。敢えて意訳するとそうなるわけだが、今で言えば、いわば、学校で習う語学や数学などの学問としての知的能力に対して、学校では教わらないが、世の中をわたっていくうえで必要な、人が人としてそなわっているべき基礎的能力のことを言うわけだ。学習で獲得するリテラシー能力に対して、リテラシー以前の能力と言うべきか。「腹芸」とか「胆力」とか「人の器」とか「対人交渉力」とか「地頭(じあたま)」などと言うようなものに近い。それを具体的に「実務処理能力」と言えばそうなる。儒教で「仁」とか「徳」というのがそれだろう。それがかつては舶来のもの(漢才)と日本古来のもの(倭心)という対比でとらえられていたところがややこしいが、近代でも和魂洋才などと言ったわけでそれと同じとも言える。宣長の

敷島の やまとごころを 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花

だが、宣長は近世において大和心を上記の意味で正確に理解した(というより発見した)最初の人だが、
この歌はそういう意味ではかなり謎だ。誤解に満ちている。なにしろ幕末の時代にすでに宣長のイメージはかなりゆがんでしまっている。

敷島の やまとごころを 人とはば 蒙古の使ひ 斬りし時宗

という替え歌まで出来ているくらいだから。戦後はなおさら戦時中のフィルターを通してしか宣長は見えない。そのフィルターを通すと、上の歌は「日本精神」とは「桜花」だとしか解釈できないが、そういう解釈は、宣長を知れば知るほど不可解だ。

ある人は、宣長は里桜よりも山桜が好きで、野性的で潔く清楚な桜が好きで、それが大和心に通じるのだと、解釈したがるだろうが、そういう人はイメージで、ステレオタイプで、自分を投影して宣長を解釈しているだけで、宣長って人は全然そんな人ではない。山桜の特徴は、山野に自生している野生種だということ。花の色はほとんど白く、花と芽が同時に出る。しかしそういう山桜の特徴が特に好きだと宣長が言っている歌はない。たぶん一つもないと思う。逆に葉桜が嫌いだとか花が散った後の葉だけになった桜が嫌いだとか、葉桜を見ると花の時期が待たれるとか、花が散って葉ばかりになるのが憎らしいとか、そんな歌ならいくらでもある。

散るべきときに清く散り御国に薫れ桜花

と歌う『戦陣訓』という軍歌があるが、宣長は散るべきときに清く散れなどとは一言も言ってない。まして特攻機に「桜花」などという名前をつけようという発想も絶対ない。

桜は咲いてすぐ散るので、武士道のように未練がなくて良いなどというのも、少なくとも宣長の趣味ではない。宣長は、一年中咲いている桜があれば常世の国にでも行って種を取ってきたい、などと言っている。

花咲きて 散らぬさくらの 種しあらば とこよの国も 行きてもとめむ

たづね見む 死なぬくすりの ありと聞く 島には散らぬ 花もあるやと

つまり、宣長にとって桜は咲いていることが一番重要であり、それが日本の山野に自生している必要など全くなく、外国産の種を栽培して育ててもよいとすら言っている。潔く散るすがたもあっぱれだなどと言ったことは無い。たぶん一度もない。

宣長は、桜は、日本にしか咲かないと思っている。それはある意味真実で、日本以外の野生種は日本の桜とはかなり異なっているし、さほど多くも見られず、さらに山桜と言っているものもおそらくは栽培によって人為的に繁殖しまた改良したものであり、さらには日本固有の野生種から派生した数多くの里桜があり、このような現象は決して日本以外ではあり得なかったのであり、また桜に対する熱狂も日本にしかない。宣長が桜を好むというのもおそらくはその辺りにあるのかと思う。宣長はつまり江戸時代の桜好みの日本人のやや人なみ外れた典型であり、宣長がいようがいまいが江戸時代までにすでに日本人は桜が大好きで、それは日本人が和歌などの公家文化を好んだこととだいたい同じようなことだっただろうと思う。

「敷島のやまとごころ」と言っているところがやはりヒントであり、これはつまり「やまとうたを詠む心」と解釈すべきで、宣長は桜とともに和歌が大好きで、従って敢えて意訳すれば「敷島の道の心を人に問われたら、私にとってそれはたとえば、朝日に匂う山桜花を詠むことだ、と答える」と解釈すべきではなかろうか。いや、すなおに解釈すればこうとしかとりようがない。これが自画像に対して自ら冠したタイトルだと考えれば、「「敷島のやまとごころ」を問われれば「朝日に匂ふ山桜花」だねと答える私」と解釈すべきで、するともっと具体的に「歌と桜を愛する私」と超訳してもよい。これこそまさに宣長という人を一言で言い表した言葉だと言える。宣長が大好きで、人にも繰り返し勧めた「桜の花」と「大和心」と「敷島の道」がこの歌には同時にこめられていると考えたい。あるいは、歌から離れたとしても、「日本人固有の心とは、桜をめでることだ」とでもなろうか。

そもそも、「大和心」が「桜花」だというような禅問答的な返答を宣長がするわけがない。宣長にとって「大和心」は儒学や仏教などと離れた日本固有のものの考え方とらえ方処し方のこと、「桜花」とは宣長にとってはこよなくいとしいもの、めでるものであり、ときとしては「心なく散る」ものであり、自分の意思ではどうにもできないものである。「桜花」に人間同様の「心」があるなどという思想が宣長から(或いは伝統的公家文化から、といっても良い)出てくるとはちと考えにくい。「心あらば」「心あれや」などとは言うかもしれんが。さらに「敷島の大和心」を「和歌を嗜む心」ととれば、もはや上記の解釈以外にはありえない。思うに「敷島」を単なる枕詞として使っていた古代はともかくとして、南北朝以後、江戸時代ともなると歌に詠み込まれた「敷島」はずばり「敷島の道」「歌道」を指していると言って良いと思う。そういう用例がほとんどだ。

そして傍証として、宣長には、圧倒的な数の桜の詠歌がある。あわせて「うひやまぶみ」を見よ。きっとそう確信できる。また、この歌は、宣長の自画像に付けた歌、しかも自画像にしか書かれなかった歌である。だから、「私という人間は」「あなたがどう思うか知らないが、私は・・・」という言外の意味があると思う。私はそういう趣味の人間なのですよ、と少しはにかみながら告白している歌なんだよ。ちょうど漫画に吹き出しを付けるようにね。

小林秀雄も宣長の自画像は自分を聖人化するための宗教画のような意味で描いたものでは決してないと言っている (後世の国学者や神道家ならともかく)。逆に、自分とはこういう人間なんですよと告白している気持ちで書いたものだと思う。宣長という人は、いろんな人が自分の思想を補強するのに使いたがる、そのため勝手に拡大解釈され、結局意味を欠落させた普遍化された聖人としての像だけが利用されるが、その実体は純朴で等身大の学者なのだ。

定家はダダ

和泉書院の「和歌史」を読んでいるのだが、その中の佐藤恒雄「新古今の時代」など読むと、確かに定家に秀歌が多いと言われればそうかもしれないなと思えてくる。たとえば定家の恋の歌

あぢきなくつらきあらしの声もうしなど夕暮れに待ちならひけむ
かへるさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらのありあけの月
なびかじなあまのもしほ火たきそめてけぶりは空にくゆりわぶとも

などは確かに面白いが、しかしこれらはいわゆる定家らしいといわれる歌ではなく、どちらかといえば新古今以前の女流歌人らの歌のようだ。また藤原家隆の

思ふどちそこともしらず行きくれぬ花の宿かせ野辺のうぐひす

などは若者たちが花咲くころの野辺をさまよい歩いて迷子になったので、鴬の鳴く花の木の下にでも野宿しようかというたわいないもので、普通に面白い。定家らしいと言われるのはたとえば初学百首にすでに出てくる

天の原思へばかはる色もなし秋こそ月の光なりけれ

あるいは新古今に採られた

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫
春の夜の夢の浮き橋とだえして峯にわかるる横雲の空
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

などだろう。不協和なイメージがコラージュされているので心理的な抵抗が大きい。特に「さむしろ」に「月をかたしく」「宇治の橋姫」などは近現代で言えば中原中也のダダの詩を連想させる。なにか具体的な情景を連想させ感動させるというのでない。こういう「前衛」的な「作品」は近現代では珍しくないのだが、新古今の時代でもおそらくそれを敢えて意図してやったのは定家だけであり、前衛芸術の走りとしてはかなり貴重な存在なのかもしれないとは思う。

思うにこんなおかしな「活動」に定家がふけっていたのは、若かりし日の、新古今編纂当時の一時期だけであり、また定家以外の歌人で同程度はじけていた人もなく、その後も現れなかったのだと思う。

私が定家の歌を好きか嫌いかというとどちらでもない。中原中也の詩が好きかと言われて別にすきでもないのと同じだ。本居宣長も新古今風の歌を好むが定家の前衛的な歌が好きなわけでなく、定家からさらに時代を経たある意味平坦で平凡な歌が好きなので、そこには特に意識はしてないかもしれないが、新古今時代にはなばなしく行われた実験に対する反省のようなものもあっただろう。

定家の前衛活動に一応の公認を与え、世間一般に受容されるに至ったのは後鳥羽院が定家を積極的に評価したからだったわけだが、後鳥羽院も定家を特に重んじたのではなく、当時流行した前衛歌をおもしろがって新古今集に取り入れたというようなものだっただろう。たとえば

ちはやぶる日吉の影ものどかにて波をさまれる四方の海かな

など見てもわかるが、後鳥羽院御製の中に前衛やダダを思わせるような歌は一つも見あたらない。よく探せば詠草に一つか二つはあるのかもしれないが。というあたりが後鳥羽院と定家の関係の、さらに言えば新古今というものの位置づけなのではないか。

小林秀雄

最近は adobe も microsoft も認証方法が難しくて、ライセンスを買ってメディアを持っているだけではインストールできない。実に困ったことだ。microsoft office も最近は実に洗練されてきていて、継続は力と言うしかない。openoffice.org と違うのはこれだけの長きに渡って開発され、多くのユーザを抱え、そして多くのお金と人が関わって、洗練されてきたということで、もうこれは簡単に挽回しようがない。すべてソフトウェアというものはそんなものだろう。

それはそうとおもしろくていまだに小林秀雄の「本居宣長」を読んでいるのだが、ネットをざっと検索してみた限りでは、では小林秀雄という人が世間一般でどのような評価をされているのか、具体的に彼の評論のどこが優れているのかということがさっぱりわからない。もしかするとみんな漠然となんだか偉い人だみたいな評価をしているのだろうか。

つまり、何が言いたいかと言えば、だいたいみな本を読んだらブログなどにその感想を書くではないか、たとえばこのブログのように。あるいはゲームで遊んだり、映像作品を見たりしたらブログに書くではないか。そのような他人が小林秀雄について書いた文章を読んでみたいのだが、案外、これがまたほとんどまったく見あたらない。実に不思議な光景だ。まさか私だけがそんな無謀なことをやっているのだろうか。

小林秀雄は手っ取り早く文芸批評の方法論とか、あるいは本居宣長について講演で話すよう頻繁に頼まれていたようで、それはもっともな話であって、私だってまずは小林秀雄とはどんな人か、本居宣長とはどんな人か、できるだけかいつまんで知りたいと思う。だいたい本居宣長について書かれた著書がまた長いし、10年以上に渡って書かれている。多少要約して話してくれても良いではないかと普通なら思う。しかし小林秀雄はそれを拒否し、また怒る。本居宣長もまたそのように弟子たちに性急に頼まれて仕方なしに「うひ山ぶみ」を書いたが、ところが誰もその最後に添えられた歌「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」を読んでない。

この歌の意味とはつまり、広い山裾から山頂までははるかに遠いがその一番最初の浅いすそ野の道しるべ代わりに「うひ山ぶみ」を書いたのであって、残りは全部自分らで少しずつたゆまず時間をかけて勉強しなさい、一度に山頂を目指すな、低いすそ野をまず固めてから徐々に登りなさい、この広いすそ野を怠らず学んでおいてこそ山頂にはたどり着けるのであって、低いところをおろそかにすれば高いところはなおさら身に付かず、結局何もならないということだろう。いろんなところを読んで総合すればそういう意味になる。

「いったい宣長の文章ってものは無駄なんてものは一つもないんです」とは自分の長大な著作についても言っているに違いない。自分の文章には無駄はない。だらだらと長くて無駄なように見えるがかいつまんで要約できるような箇所などない。それなのにみなは自分の文書をとばしとばし読んで、学問の方法論だけを知りたがる。と言っているようにみえる。実におかしい。

正直なところ小林秀雄や吉本隆明などの文章は読んでもほとんどわからん。吉本隆明に至ってはちんぷんかんぷんだ。江藤淳はある程度わかる。丸谷才一はほぼ言いたいことはわかるつもり。小林秀雄の「本居宣長」は良くわかるつもり。で、世間一般の人たちは結局正直なところ小林秀雄という人をどういう風に見ているのか。さっぱりわからない。

思うに、小林秀雄というひとは、短文で要約した文章を書くとちんぷんかんぷんで良くわからん文章になってしまうのではないか。だから、10年以上かけてだらだら書かれた「本居宣長」などの方が、実はわかりやすいのではないか。短く書こうとすると批評文に特有のよくわからん専門用語や外来語を使ってしまいよけいにわからんようになるのではないか。

だんだん気になって来たので小林秀雄の「実朝」をもう一度読み直してみるか。

できるだけ見ないように見ないようにしているのだが新聞など読んでいるとときどき現代短歌が載っているのが目に入ってしまう。それを読むとほんとうに暗澹たる気持ちになる。

橘曙覧

水島直文・橋本政宣編注「橘曙覧全歌集」を読む。 わりとおもしろい。
冒頭に載っている歌:

あるじはと 人もし問はば 軒の松 あらしといひて 吹きかへしてよ

「嵐」と「あらじ」をかけている。愉快な歌。

朝ぎよめのついでに
かきよせて 拾ふもうれし 世の中の 塵はまじらぬ 庭の松の葉

道元の山居の影響を感じるよね。
同じ福井の山の中だし。

閑居雪
なかなかに ふり捨てられて うれしきは 柴の網戸を あけがたの雪

これも、「戸を開け」ると「明け方」をかけている。おもしろいなあ。

あばらなる やどはやどにて すみわたる 月は我にも さもにたるかな

「あばら」というのは歌にはあまり使われない言葉なのではないか。
全体にくだけた口語調に見える。

述懐
なかなかに 思へばやすき 身なりけり 世に拾はれぬ みねの落ち栗

いいなあ。この屈折した感じが。

本居宣長続き

旅

春の野の岡辺の道のつつじ花手折りて行かなたびのなぐさに
里しあらば宿借らましをあしびきの山路まどひて行き暮れにけり
あまざかるひなのあら野のあら草を枕にまきて旅寝す我は
あしびきの山松が根に旅寝してあらし吹く夜は家をしぞ思ふ
草枕たびと思へど浪の音のとよむ浜べはいねがてぬかも
ぬばたまの夜は明けぬらし磯の海人のあご整ふる呼び声聞こゆ

「あご」は「網子」(あみこ)。網を引く人。「大宮のうちまで聞こゆ網引(あび)きすと網子ととのふる海人の呼び声」(万葉集238)。

我が旅は日長くなりぬあらたまの月日よみつつ妹待たまくに
草枕たびの日長み家の妹が縫ひて着せたるきぬ垢つきぬ
うちなびく草香の山をけふこえて難波の海を見さけつるかも
波の上にうき寝我がする明石潟浦吹く風の寒きこの夜を
豊国の夕山雪の日長くは家なる妹が待ちやかねまし

桜

春の雨の晴れてといはば散りぬべしけふ見に行かな山の桜は
近からば吉野の山の桜花きのふもけふも行きて見ましを
いかならむ吉野の山もこの頃や桜の花の盛りなるらむ
朝日かげにほへる山の桜花千代とことはに見ども飽かめや
思ふどちいざ見に行かな春山に咲ける桜の花の盛りを
立ち出でてふりさけ見ればあしびきの山は桜の花盛りなり
みやびをの春のかざしと桜花野にも山にも咲きにけるかな
あらたまの春立ちしよりいつしかと待ちし桜の花咲きにけり
山づとに見せむと思ひて桜花道の長手を手折り持ち来ぬ
おのづから人ぞ訪ひ来る山里も春は桜の花見がてらに

迷い、悟りと言ふことをことごとしく人の言ふに
悟るべき事も無き世を悟らむと思ふ心ぞ迷ひなりける

わろす。

述懐

いたづらに年ぞ六十になりにけるなすべきわざは未だならずて
思ひ出づる三十の春も三十とせのかすみ隔たる花のおもかげ

山家水

世の中の憂きこと聞かぬ住まひかなただ山水の音ばかりして
明け暮れに汲むとはすれど谷水になほすみ果てぬ我が心かな

山家松

軒の松むかしの友と言ふばかり我が山住みの年も経にけり

山家

厭ひてもものの寂しき夕暮れは憂き世恋しき山の奥かな
ある時はありのすさびの世の憂さもまたしのばるる山の奥かな

宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて
山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め
今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば

宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。

黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき

死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。

死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ

「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。

聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人

聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。

聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人

孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教などで言われている聖人は嘘つきで良い人を悪く言う醜い人たちばかりだが、孔子だけは良いと言っている。

坂本は文字がありません。

巖本善治編勝部真長校注「新訂海舟座談」を読む。 江藤淳の「氷川清話」以上のことは書かれているようにも思えないが、附録で、 高木三郎という人が坂本龍馬について

坂本は大きな男で、背中にあざがあって、毛が生えてね。
坂本は、柔術を知らないものですから、
坂本は、文字がありません。

などと言っている。 龍馬は文字の読み書きができなかったらしい。 手紙を書いたとしても代筆だったのだろう。 あの有名な、姉に宛てて書いた手紙も代筆なのだろう。 武士で柔術を知らないというのも当時としては珍しかったのだろう。 剣術は千葉道場で北辰一刀流の目録をもらったというが、五六年もいれば誰でももらえるようなものではないか。 印象としては、行動力はあるが無学文盲の大男、といったところだろう。 勝海舟、西郷隆盛、その他長州や薩摩の志士たちにはだいたい最低限の教養はあったが、龍馬にはなかった。

ともかく、文字を知らないというのではまず和歌は詠めまい。 柿本人麻呂も文字は知らなかったかもしれないが、 それとこれではわけが違う。 仮に詠めても有名な歌のつぎはぎくらいしかできなかっただろう。 読み書きができなきゃそろばんもできなかっただろう。 政治家くらいにはなれたかもしれんが、商売ができる人間ではなかったのではないか。

龍馬は『新葉和歌集』を欲しがったというが、なんのためだったのだろう。

wikipedia に

平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」

とあるのも同じか。

勝海舟の歌:

天駆ける翼持たねばにはつ鳥あはれ落ち穂を争ひにけり

なんとも言えない歌だな。

勝海舟が危篤になったときに高崎正風(歌会所長、明治天皇の歌の師)が詠んだ歌:

眠られぬ夜寒の床に響きけり氷川のもりの雪折れのこゑ
玉の緒の絶えぬうちにと駆けつけてかひもなくなく帰る悔しさ
移りゆく世をうれたみて語らひしこゑなほ耳の底に残れり
身は苔の下にありともたましひは天駆けりてや世を守るらむ

「うれたむ」は「憂ひ」+「痛し」が動詞化したもののようだ。
まあ普通。実に平凡。というか明治天皇の御製に良く似ていてびっくり。
明治天皇の歌をより情緒的にしたような感じ。

本居宣長

筑摩書房の「本居宣長全集」第2,15,18巻、それと小林秀雄「本居宣長」を借りてくる。 全集の解題は大久保正という人が書いているが、 中野重治が

あんなおかしな歌を何年も何年もこりずに書いたような精神のある面が、その面は詩には無関係のものだったが、とにかく、宣長の学者としての仕事を支えていたのだと思う。

だとか、大久保氏自身も

宣長の和歌は今日すでに文学の化石となっている
彼の夥しい作中から強いて秀作を拾おうとする試みは、ここでは、それほど意味があるとも思われない
宣長の詠風が十年一日の如くで、極めて変化に乏しかった

などとぼろくそと言って良いほどにけなしている。小林秀雄も

その歌の内容を問うよりも

などと暗に歌そのものとしての評価を避けようとしている。

本居宣長は自画像も描いているのだが、確かに平凡な絵ではある。 同じことは歌にも言えるのだろうとは思う。 また遺言書に自分の墓の絵まで描いて事細かに指示してあるのはやはり何か異様なものを感じる。

その歌というのが一万首近くもあって、多くの人にとってはそれは過ぎ去った過去の学者の習作か詠草であって、 詩的な、今日的な価値はない、と言いたいのだろう。

しかし、本居宣長の歌でおもしろいものはかなり多い。 少なくとも宣長よりも下手な歌詠みはたくさんいる。 なぜみんな宣長の歌をほめようとしないかというとただ単に戦後民主主義的な雰囲気が妨げているだけではないかとさえ思える。 宣長が、ことあるごとに「やまと」「こま」「もろこし」などを歌に詠みたがるのが煙たいのだろう。 国学として、歌論としてそういうことを言っている分には良いとして歌に詠まれるのが憎らしくはがゆいのではないか。

めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり
忘るなよわがおいらくの春までも若木の桜うゑし契りを
この花になぞや心のまどふらむわれは桜の親ならなくに
桜花ふかき色とも見えなくにちしほに染めるわが心かな
さし出づるこの日の本のひかりよりこまもろこしも春を知るらむ

小野小町を詠める:

今もなほながめせしまのおもかげは露けき花に見るここちして

紫式部を詠める:

言の葉に染めずばいかでむらさきのふかき心の色は見るべき
言の葉はたぐひなき名の立田姫いかに染めける錦なるらむ

確かに秀歌というかどうかはともかくおもしろい歌は多い。

待ちわぶる桜の花は思ひ寝の夢路よりまず咲きそめにけり
のどかなるあたら春日を花も見で咲くを待ちつついくか経ぬらむ

「のどかな春の日を、花も見ずに過ごすのはもったいない、もう何日花の咲くのを待ちながら日が経っただろうか」、 という実に素直な歌だ。

朝な朝な庭のもみぢの色見れば賤き心のはづかしきまで
いくばくもあらぬさくらの花ざかり雨な降りそね風な吹きそね

これはわざとこういうふうに詠んだのだと思うよ。 なかなか味があるじゃないか。どうよ。 宣長は学者だったから、素人が歌を詠む手本になるよう、 わざと教科書的な歌をを詠んだと思う。同じことは明治天皇にも言える。 自分で歌を詠もうと思ったときにこれほどたくさんサンプルがあると便利。

つまり、本居宣長とか明治天皇の歌というのは、純粋なミネラルウォーターのようなもので、 本人が詠んだことが確実で、文法的にも間違いがなく、かつ量が多い。 初学者がそのまま何の疑いもなく学ぶことができる。 こういう純度の高い歌集は勅撰集以来そうざらにはなかったものである。

ところが江戸時代の武士の歌などは個々の歌人のものはサンプル数も少ないし、 真作と偽作が混ざり合い、 文法もいい加減で、 見た目はとっかかりよさそうに見えて、 これらを手本にして和歌を学ぶなどということは不可能であり、 できは良くても狂歌や戯れ歌などであったり、 むしろ玄人が慎重により分けないとまともに鑑賞することすらできない、というわけだ。 だから私は、宣長の一万首の歌は今日的にも非常に価値が高く、 宣長の著述の中でけっして軽んじることのできない部分だと思う。