後鳥羽院

あいかわらず丸谷才一「後鳥羽院」

駒なめてうちいでの浜をみわたせば朝日にさわぐしがの浦波

1200年、後鳥羽上皇が20才のときに詠んだ歌。 承久の乱は1221年、それから21年も後のことだ。 丸谷才一は、この歌を、彼らしく「物騒な趣」だとか「いっそ思い切って右翼的と呼ぶほうが正しいような」 などと表現している。 確かにそう見れば見れなくもないが、そういう読み方をするのは、 戦後民主主義の世界観にどっぷりと浸かった、 「いっそ思い切って左翼的と呼ぶほうが正しいような」丸谷才一くらいだろうと思う。 非常に役に立つ嗅覚であるのは間違いないのだが。

源平の兵乱のただ中に即位した後鳥羽天皇は、 それまでしばらく現れなかった、文武両道ということを多少とも意識した天皇であったことは間違いなく、 若い頃には武士のまねごとのようなこともしてみたのだろう。 たぶん、当時の気分としてはただそれだけのことだと思う。 そう、今で言えば暴走族が早朝相模湾沿いの国道一号線を走っているかのような。

承久の乱の直前に詠まれた歌だとしたらまたいろいろな解釈もできるだろうが。 後白河法皇死去が1192年(後鳥羽天皇12才)、自ら退位して上皇になったのが1198年(18才)、 頼朝の死去は1199年(19才)、朝廷も幕府もいろいろごたごたしてただろうが、 若くはつらつとした時期だったのに違いない。

1189年、頼朝が上洛したとき、後鳥羽天皇は在位中であり、頼朝は天皇に拝謁している。
後鳥羽天皇はまだわずかに9才の時だが、もはや分別は付いている頃で、その印象は強烈だったに違いない。

宮廷文学が喪失したあと、「玉葉」「風雅」などの、実質的には存在しない、 バーチャルな宮廷というものに逃避したような連中も確かにいただろう。 正徹はそうだったのだろう。 しかしそのようなバーチャル宮廷文化を「受け継ぐ天才」など居るはずもない。 そこで江戸時代に目を転じたときに、丸谷才一の目に映ったのは「芭蕉」や「蜀山人」といった、
町人文化の「天才」たちだけであり、 秋成、良寛、景樹、蘆庵といった歌人たちの業績はまるで見えてないのだろう。 江戸時代における宮廷文化とは「一粒の麦」であって 「もし死なずば一粒にてあらむ。死なば多くの実を結ぶべし」 というように、万葉時代には広く大衆のものであった歌の文化は、 後鳥羽院時代を頂点として一時期宮廷の中に凝縮され、
宮廷サロンが喪失したのちには、再び武士のサロンや町人のサロンなどの広い多様な形態に拡散して行ったのであり、 もはやバーチャル宮廷など必要としなくなった、と考えるのが一番素直ではないか。

蜀山人が天才かどうか知らないが、あのような下品なげてものを優れていると感じる感覚には、 正直ついていけない。別に江戸時代について勉強したいわけではなかったのにどうしてもそうなってしまうのは、江戸時代の文芸や学問というものが、いろんな意味でさけて通れないからなのだろう。

「大正天皇御集 おほみやびうた」の解説で岡野弘彦氏が言うには、武士はいついかなるときに腹を切ることになるかもしれないので、はずかしくない辞世の歌を詠むためだけに、ただそれだけのために、普段から一生懸命和歌を学んでいたのだと。

思うに、歌人の風習に、辞世の歌を詠むということはそもそもなかったはずだ。宣長は遺言状の中に歌を詠んだがこれも別に辞世の歌というつもりはなかったと思う。

その由来は、wikipedia にあるように「禅僧が死に際して偈を絶筆として残す風俗」だったはずで、さらに状況証拠で言えば、辞世の歌を多く詠んだのは、江戸中期以降の狂歌師たちだ。歌舞伎となった忠臣蔵の大石内蔵助や浅野内匠頭長矩が切腹するときに辞世の歌を詠んだことになっている。

たぶん創作だろうけど。それで武士や狂歌師らに広まっていったのだが、実際に武士が切腹する場面などそうそうないので、狂歌師の狂歌が目立つということなのだろう。だから、武士の心得として和歌を学んだというは、あっているかもしれないが全然違うかもしれない。たとえば田安宗武がそういうつもりで和歌を学んだとはとても思えない。

切腹自体が江戸時代に様式化されたものであり、太平記の時代には切腹は単なる自決方法の一つにしか過ぎなかった。切腹、忠臣蔵、辞世の歌、桜、大和魂などというのは、歌舞伎を媒介として江戸中期以降に作られたイメージではないか。

上田秋成

上田秋成の「つづらぶみ」を読んでいるが、 秋成の歌は相当うまい。 おそらく公平に見て、近世の歌人で一番うまいのが秋成、その次が良寛、景樹、 または蘆庵というところだろう。 この四名は一流と言って良いと思う。
「つづらぶみ」の冒頭だけ見ても、

都べは ちまたのやなぎ 園の梅 かへり見多き 春になりけり

都あたりは、町中の柳や庭園の梅など、見かえりすることが多い春になったという、 なにか浮世絵の美人画でも見るような、いかにも江戸時代らしい歌。

我が宿の 梅の花咲けり 宮人の かざしもとむと 使ひ来むかも

「梅の花咲けり」は字余りだが、これはたぶん「勅なればいともかしこし」辺りをイメージしているか。

折らばやと 立ち寄る梅に 鴬の ゆるさぬ声を おどろかすかな

ひょうきんな感じがなかなか良い。 この辺りは景樹に通じるところがある。

大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。
おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。
おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。

とは小林秀雄も指摘しているところだが、秋成は宣長とはかなり相性が悪かったようだ。 「敷島のやまと心の道とへば」とはかなり悪意ある誤読ではあるが、 漢籍にも親しみ、読本も書き、歌もうまかった秋成にしてみれば、 宣長のこのような歌がもてはやされるのが我慢できなかったのだろう。

宣長という人は、狂歌めいたふざけた歌は一切詠まない人だった。 心底まじめな人だったのだろう。 かたや秋成は、まともな歌も詠めば狂歌も詠むし、怨霊や妖怪物語も書く。 自由自在な、文芸人、というイメージ。 さぞ、相性は悪かろう。 その点、 景樹や蘆庵らとは心理的な障壁はない。仲も良かったようだ。 いずれも京都の文人、町人という雰囲気がある。 狂歌などは京都や江戸などの町中の文人サロンではやるものだから、 そこから一歩はずれていた宣長には影響が及ばなかったのかもしれない。 意固地な田舎者、というイメージも浮かんでくる。

秋成の代表作「雨月物語」はまだ読んだことないが、 これも死後に彼の作であることが知れたらしいし、 歌はなかなか認められず、無名のまま戯作など書いて暮らし、 不遇な生涯だったのだろうなと思う。


追記。このころ私はまだ宣長や真淵について、全然知らなかった。

丸谷才一「後鳥羽院」

いろいろ手を広げすぎてもうわけわかめ。

新編国歌大観を図書館で見ておなかいっぱいになった。しかし、これにも載ってない歌もたくさんあるんだろうな。めんどうだ。

丸谷才一「後鳥羽院」読む。目のつけどころは良いんだろうなと思う。歴代天皇の中で後鳥羽院ほどの歌詠みはいなかったわけだし。

あとがきの、国学院大学の教員になったいきさつなどが割と面白かった。英文科を卒業し「国文学を読もうとする英語教師」のためにあれこれと便宜をはかってくれる国文科の同僚たち、等々。

なんというか、Aという人が歌をこう解釈し、Bという人はこう解釈し、著者はこう解釈した。しかし、ほんとうはどうだかわからない。というのがこの種の本であり、ある意味「逆接の日本史」なんかと同じで、なるほどそんな解釈の仕方もあったか、というだけで、結局歴史の謎は解けないままで、読後に釈然としない気持ちが残る。しかし文芸評論なんてものは小林秀雄にしろなんにしろそんなものなのだろう。読者はただそれをおもしろがれば良いわけだ。

2004年に第二版が出ているようだ。はて。

景樹2

はづき十六日の夜なりけむ、頼襄が三本木の水楼につどひて、かたらひ更かしてよめる

すむ月に 水のこころも かよふらし たかくなりゆく 波の音かな

文政7年(1824) 8月16日に香川景樹と頼山陽が会ったときに詠んだ歌らしい。香川景樹は1768年生まれ、頼山陽は1780年生まれだから、山陽の方がだいぶ年下だ。だが、1824年となるともう44才、日本外史が完成する2年前ということは、私塾の経営はだいぶ安定したころだっただろう。山陽の母・梅颸が歌を景樹に習っていたつながりだという。なるほど、そこは盲点だったな。小沢蘆庵にも習ったらしい。山陽もたまには和歌を詠んだらしく、母と子の和歌がたくさん載っているようだ。やれやれ、梅颸日記でも読むか。
山陽の歌

親も子も老いの波よる志賀の山三たび越えけることぞうれしき

梅颸の歌

まがひつる雲は色こそながめけれ花にうづめるみよしののやま

景樹が小沢蘆庵のもとへ詠んだ歌

身はつかる道はた遠しいかにして山のあなたのはなは見るべき

蘆庵の返し

としを経し我だにいまだ見ぬはなをいととく君はをりてけるかな

宣長が詠んだ歌

涼しさに夏もやどりもふるさとに帰らむこともみな忘れけり

景樹返し

ただひと目みえぬる我はいかならむふるさとさへに忘るてふ君

宣長返し

ふるさとは思はずとてもたまさかにあひ見し君をいつか忘れむ

ふーん。ずいぶんつきあいが広かったようだ。上の歌からわかるが、宣長と景樹は初対面だったようで、しかも宣長の最晩年・享和元年(1801)の夏のことのようだから、これで今生の別れとなったわけだな。秋にはもう宣長は死んでいるし。ぎりぎりのタイミングだった。72才の当世随一の老学者にまみえた壮年の歌人の感情の高ぶりが上の歌のやりとりからも伝わってくる。

景樹は桂園派の流れを作った人で、堂上の公家から地下の香川家に伝えられた二条派の分流で、真淵の「万葉調」に対して古今調を重んじてうんぬん。なんとなく公家のまねをしてつまらん歌を詠み続けた因循姑息な流派のように思えるのだが、景樹の歌はかなり狂歌に近い自由で気楽なものが多いように思う。雑体の中に俳諧歌というものも載っている。堂上でもなく万葉でもなく狂歌や俳諧に近い、江戸時代の中では主流とみなされる流派だったのだろう。まして宣長も批判している「古今伝授」などといったいかがわしい密教的な歌風ではあり得ない。景樹がそういうバカであった可能性はその実作を見る限りあり得ないと思う。

それが明治になると万葉・アララギ以外の古風な「和歌」はすべて「桂園派」というレッテルを貼られて迫害を受けた。代わりに「短歌」という呼び名が発明されたというわけだ。「桂園派」を攻撃するためにその古今調の始祖であるところの紀貫之が偶像破壊の対象として選ばれたということだろうが、実際批判したかったのはその流れの香川景樹やら、歌会所の高崎正風だったというわけだ。

正岡子規のアジ文書「歌詠みに与ふる書」だが、あれは特に子規がどうというより、俳句詠みの若造の跳ねっ返りな主張が、当時流行していた西洋文学の、自然主義かなんかの風潮にうまく乗って扇動に利用されたってとこではないか。しかもその言いたいところの実体は古文漢文ちんぷんかんぷんな文体ではなくて、俺等がふだんしゃべっているような言葉で歌わせろという程度の、大衆化・民主化運動のたぐいであって、こむつかしいお勉強なんかしてんじゃねーよぐらいの反発だっただろうと思うんだな。別に古今がどうのとか貫之がどうのってことはどうでもよかったんだろうと思うな。大衆運動なんてものはいつでもその程度のものだ。

龍馬

龍馬はまさに「さざれ石が巌となって苔むすまで」虚像がふくれあがった人と言うべきだろう。土佐を脱藩して薩摩の密偵とか武器商人相手のブローカーのような仕事はしていたかもしれないが、教養があるわけではなく、今でいうところのやくざの中堅幹部くらいのものだったのではないか。「世の中を洗濯」程度のことはその当時の志士なら誰でも言いそうなことであり、和歌はほとんどがその時代のはやり歌のつぎはぎだし、手紙だって自分で読み書きできたかどうかすら怪しい。まあしかし野口英世母のシカだってなんとかこうとか手紙くらいは書くわけだから、まったく書けなかったということもないかもしれないが。そんなやくざ映画の主人公みたいなところが受けるのだろうが、彼一人居ようがいまいが、維新がどうこう、日本の歴史がどうこうということはあり得ない。

贈正四位坂本龍馬君忠魂碑というものがあるらしいが、昭憲皇后の夢枕にどうこうというそのいきさつはともかくとして、明治24年に追贈されたというから、おそらく薩摩藩でも西郷隆盛に追贈の運動があって明治22年に正三位を贈られているので、土佐藩の中では一番名高い龍馬にもそのような運動の結果、追贈があった、くらいに考えれば良いのではなかろうか。西郷隆盛は西南戦争の首謀者で本来朝敵だが名誉回復という意味で正三位にとどまったので、本来であれば正一位でもおかしくない。たった一位の違いだが龍馬と西郷隆盛ではその意味あいが違う。何しろ

我は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ

敵の大将たる者は 古今無双の英雄で

と歌われたのが隆盛なのだから。贈正四位は生前だと五位くらいの、平安時代だと地方長官、鎌倉時代以降では執権や大名くらいの官位で、維新に功績があった人には普通かやや高めくらいか。

こういう形の偶像崇拝は、非常に不愉快だ。司馬遼太郎にも大いに責任がある、と言えなくもないが、司馬遼太郎を何か権威付けして利用し金儲けしている連中も、自分たちのやっていることが歴史上どれくらい危険か、自覚した方が良い。司馬遼太郎自身この手の虚構の偶像崇拝を嫌悪していたのではないのか。

伊東甲子太郎、橋本若狭、中原猶介が贈従五位か。ここらまでくるとほぼ無名の志士だな。も少し事例があればだいたいの相場がわかるのだが。

蘆庵2

この人の言う「ただ事の歌」というのも、江戸時代に相当に流行っていた狂歌や、俳諧などとの棲み分けが難しいところがあり、蘆庵の歌にも狂歌とも言えるきわどいものもあるが、まあそれだけ和歌が江戸時代に多様性を獲得しつつ成熟していたことを表すものとも言える。探せばもっとこういう人は居るのかも知れない。こういう少なからぬ数の、浪人だか乞食同然の人たちが学者もしくは芸人として生涯を全うできたという意味では江戸時代はやはり画期的だったのでは。

無常
さざれ石の 巌となるも とどまらで 移り行く世の 姿ならずや

小さな石が成長して大きな巌になるという変化も、とどまることなく変転してやまないこの世の現象の一つではないのか、と訳すべきだろう。

はかなさは いづれまさらむ よひの間に 見えける夢と まぼろしの世と

世の憂さも 忘るる酒に ゑひしれて 身の愁へそふ 人もありけり

わろす。自分のことだろうか。

吹く風も待たでけぬべき露の身を千年のごとく思ひなれぬる
おろかにてかよわきものの老いたればとりどころなき我が身なりけり
つくづくとひとりしものを思ふには問はず語りぞ常にせらるる
昔見しいもがすみかは田となりて野はたは今の人の家々
花咲かで七十ぢあまり五とせになりぬと言ふもはづかしの身や

ことのはの道はことわざしげき世に住みて心に思ふことを言ひいづるならひながら、塵を離れたるものぞをかしと思ふことのありて
世の塵にうづもれながらうづもれぬ大和言葉の道ぞ正しき

「今ははや浜のまさごの道絶えて寄るかたもなきわかの浦波」に返し
この国はことばの海の大八島いづくによるもわかの浦波

このみちもすゑの世の姿に心寄する人のみ多ければ、それを嘆きて詠める
いかばかりいひちらすともことのはの花を思はば実はなかるべし

ことの葉は人の心の声なれば思ひを述ぶるほかなかりけり
鳥すらも思ふおもひのあればこそかたみにねをば鳴きかはしけれ

歌は見聞き覚え知るより出づるものなるを、ひたすらにほかを求むる人の多ければ
何をかは あぜ倉かへし 求むらむ 見聞きに満てる 言の葉の種

今の世の歌は言えりのみして、常に見聞くものおほくは詠まずなりにたり
いにしへはおほねはじかみにらなすびひるほし瓜も歌にこそよめ

ひとふしと思ふややがてすなほなる心のゆがむはじめならまし
おろかにも千代よろづ代と祈るかなここはとこよのやまとしまねを
西に入り東に出でて天津日の幾夜千巡り世を照らすらむ

伊勢の宣長が七十を祝いて
七十ぢは人かずならぬ我も経ぬ君はちとせのよはひ重ねよ

老いたるどちの別れに
もろともに老いにけるかなますらをの別れにかくや袖しぼるべき


言ふことはみな心より出でながら心を言はむ言の葉ぞなき

はかなくあかしくらすことをおもひて
西に暮れ 東に明けて 出づる日の 今いくめぐり 我を照らさむ

良い歌だなあ。これが辞世の歌か。蘆庵の辞世の歌とは

入相の かねて惜しみし 年なれど 今はとくづる 声の悲しさ

波の上を 漕ぎ来と思へば 磯際に 近くなるらし 松の音高し

などを言うらしいが、あまり良い出来ではないなあ。

返歌

西に入り 東に出づる 日の本に 我がいくばくの 歌を残さむ
いたづらに 明け暮れはせじ 西に入り 東へ巡る ただのひと日も

小沢蘆庵の歌

江戸時代の知らない人。でもなかなか良い。宣長とほぼ同世代の人で交流もあったらしい。

よしさらば こよひは花の 蔭に寝て 嵐の桜 散るをだに見む

これは良い。

けさよりは 吉野の山の 春霞 たが心にも かかりそむらむ
あともなき 朱雀大路の 古き世を 思ひ出でつつ 雪やわくらむ
何ごとの はらだたしかる 折にしも 聞けばゑまるる うぐひすの声
春雨の 音きくたびに 窓あけて 軒の桜の木の 芽をぞ見る

良い。江戸時代にここまで高いレベルに達し、また公家だけでなく武士や庶民にまで広く普及していた和歌がなぜあれほどまでに無残に破壊されねばならなかったのか。実に悔しい。
なるほど、「ただごとの歌」か。すばらしいなこれは。

行く春を うぐひすの音は 絶えぬるに はかなくもなほ 鳴くひばりかな
鳴くひばり さのみな鳴きそ 暮れてゆく 春は惜しめど かひなきものを
かひなしと 言へども我も 行く春を 惜しとぞ思ふ 泣きぬばかりに
泣くばかり 惜しとはなにか 思ふべき また来む春を 頼む身ならば
頼まれぬ 老いの身をもて 限りなき 春を惜しむも かつははかなし

なかなか良いなこの連作。

今は世に 心とめじと 思ひしを 花こそ老いの ほだしなりけれ

良い。

反実仮想まとめ

「まし」「ましものを」「ましを」の使い方だがいろんなバリエーションがあることがわかったので、まとめてみる。

まず、一番確実でわかりやすいのは「AましかばBまし」または「AましかばBましものを」というパターンで、「もしAだとしたらBなのだが」となる。 Aは今の現実をあえて否定し無視した別の仮定。つまり反実仮想。 現実はAではないので、Bが導かれることもあり得ない。

あるいは、Aはほぼあり得ない、可能性がありそうもない、絶望的な希望。 つまり反実希望。 実際にはAはありえないので、Bが実現することもない。

もし宝くじにあたったら遊んでくらせるのに、 もし私が宇宙人なら人間をこらしめてやるのに、 もし私が男なら私は女を捨てないのに(笑)のようなもの。 実際はAは単なる仮定ではなく好悪の感情が込められることが多い。 ファンタジー系の実現不可能な願望とか。
逆に強烈な嫌悪からくる拒絶とか。

山里に 散りなましかば 桜花 匂ふ盛りも 知られざらまし

桜の花が山里に散ってしまったとしたら花の盛りも人に知られることはなかっただろうに。 たわいない例ではあるが、実際には花は山里ではなく人目につくところで咲きそして散ってしまったので人に知られてしまった、ということ。 もちろん桜の花にわが身をなぞらえた比喩であって、 失恋かなにかが人目について知られてしまった、というような意味だろう。

暁の なからましかば 白露の おきてわびしき 別れせまし

暁というものがなければ、別れなどしないのに。実際には暁があるので別れもある。 最後に「や」が付くので反語的に「別れなどしようか、いやしない」と訳すとよいかも。

「Aましかば」だけのパターンもあるが、これは「よからまし」「よからましものを」「あらましものを」「うれしからまし」などが省略されたと見て良い。

春くれば 散りにし花も 咲きにけり あはれ別れの かからましかば

春が来て去年散った花もまた咲いた。別れというものがこのようなものであったなら(よかったのに)。

「Aましかば」の部分が単なる疑問形となった「AばBまし」というものも多いが、「AましかばBまし」とほぼ同じ。 互いに代用がきくと考えてほぼ間違いない。

恋せず人は心も なからまし もののあはれも これよりぞ知る

冗長ではあるが「恋せざらましかば人は心もなからましものを」でも意味は同じわけだ。
もし恋をしなければ人には心もないだろう。 ふつうは恋の一つや二つはするので人には心がある、となる。

世の中に 絶えて桜の なかりせ春の心は のどけからまし

世の中に桜がまったくなかったとしたら、春の心はのどかだろうに。 世の中には桜があるから春の心はのどかではない、という意味。

待てと言ふに 散らでしとまる ものなら何を桜に 思ひまさまし

待てと言えば散らずにとまるものであれば、桜の花に対する思いがこれほどまさることもないのに。 実際には散るなと言っても散るので思いがまさる、という意味。

うれしく忘るることも ありなまし つらきぞ長き かたみなりける

うれしい思いは忘れることもあるだろうが、辛い思いは長く忘れないものだ。

夢なら また見るよひも ありなまし 何なかなかの うつつなるらむ

夢ならばまた見る宵もあろうが、どうして現実ではとうてい会うのがむずかしいのだろう。 「何」があるので疑問として訳してみた。 小野小町のなかなかおもしろい歌。 上の二例は、自分の当面の関心事とは正反対の場合を仮定しているので、反実仮想という範疇に入るのだろう。 別にふつうに「ありなむ」でも意味は通じるわな。 あるいは「ありやせむ」とか。

「Bまし」「Bましものを」だけのパターン。

ひとりのみ ながむるよりは をみなへし 我が住む宿に うゑてみまし

「ひとりのみながむるよりは」が架空の前提になっている。 女郎花を独りでながめるよりも、自分の家に上でみなで見ればよいのだが。 植えてないので実際には見れないのだが、しかし不可能な絶望ではない。 むしろじゃあ植えればいいだろと思う。 どうしても植えられない理由でもあるかのようだ。庭がないとか、家が狭いとか、借家なので大家さんに怒られるとか(笑)。

疑問の助詞が混じると不可能性が減り、不確実さが増す。 単なる希望や、のぞみのありそうな希望に近づくようだ。

秋の野に 道もまどひぬ 松虫の こゑするかたに 宿からまし

秋の野で道に迷ったので、松虫の声のする方に宿を借りたいのだが。 宿はあるかもしれないしないかもしれない。

いづくにて 風をも世をも 恨みまし 吉野のおくも 花は散るなり

これも「いづくにて」が付くことによって、不可能ではなく不確定、疑問になっている。 吉野の奥でさえ花は散るのに、いったいどこで風や憂き世を恨めばよいのだろうか。 「いづくにて風をも世をも恨みばや」でも良さそうなものだが、 この定家の歌は、定家というのは仏教的諦念というか無常観というかそういうものが、 西行と同じくらいに強い傾向があるのだが、結局生きてこの世にいる限りどこへ行こうと世を捨てて世を恨むなどということはできない、 というのが結論なわけであり、 不可能の形をとった疑問のような結局は不可能、ということを表したいのだろう。 だから「ばや」ではなしに「まし」が使われている、と考えると納得がいく。

「AともBまし」。 「とも」と組み合わさると「ば」「ましかば」のような単純な反実ではなくて、 逆説的な強い願望と解釈した方が良い用例が少なくない。 つまり、「たとえAだとしてもせめてBであってほしいのだが」と訳すとぴったりくるパターン。 Aは受け入れねばならないつらい現実、或いは譲歩可能な条件。 Bはぎりぎり叶って欲しい願望。 もともとの「まし」の意味合いを考えれば強い意志というよりは、 実現が怪しく疑わしいが切実に望む感じではあるまいか。

梅が香を 袖に移して とどめては 春は過ぐとも かたみならまし

たとえ春は過ぎても形見になって欲しいのだが。

片糸の 思ひ乱るる 頃なれや ことづてすとも あはましものを

六条修理大夫。たとえ伝言を頼んででも逢いたいのだが。

急ぐとも ここにや今日も 暮らさまし 見て過ぎがたき 花の下かげ

たとえ急ぐとしてもここに今日も暮らしたいのだが。 上、三例、いずれもどのくらい不可能性が高いのか、定かでない。 急ぐというのがとても緊急であれば限りなく不可能に近い、とも言えるし、 ことづてするのが事実上不可能なのかもしれない。 いずれにしても不可能性が限りなく強い事案に対してその逆を強く願望する、と理解すべきだと思う。

春浅き 飛ぶ火の野守り 点けずとも 雪間の若菜 まづやつままし

春が浅く、たとえ野守が飛ぶ火に火をつけなくとも、雪間の若菜をさっそくつんでみたいのだが。

散りぬとも 面影をだに 山桜 忘れぬほどや 花になれまし

たとえ散ってしまったとしても、山桜のおもかげを忘れないほどに花に馴れておきたいのだが。

用例探しはこれくらいで十分だろうか。結論として

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂

は「たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしてもせめて大和魂だけは留めおきたいのだが」と訳すのが正解、ということになろうか。「身が武蔵野の野辺に朽ちてしまう」というのがまだ実現してないが、近い将来確実に来ることの仮定。たとえそうだとしても、とどめ置きたいものだ、ということになろう。「必ずとどめ置くぞ」というような固い決意ではあり得ないだろう。そういう用例は、探せばあるのかもしれないが、一般的ではない。吉田松陰のような人がそんなトリッキーな和歌を詠むとは思えない。もっと複雑で、「CばAともBまし」という形もあって、「とも」が薄まり、上の逆説願望よりも反実的要素が強く、「もしCならばたとえAだとしてもBだっただろうに」となる。このパターンは割と多い。和泉式部とか。

待つ人の なきよなりせ聞かずとも あめふるめりと 言はましものを

待つ人が居ないならば、たとえ聞かれなくても、雨が降るようだと言っただろうに。 実際には待つ人がいるので聞かれてから言った、ということか。 待つ人のあてがないので振るとは言いたくなかったということだろうか。よくわからん。

霞だに 立ち遅れせ 新しき 春の来るとも 知らずぞあらまし

もし霞が立つのでさえ遅れたならばたとえ新しい春が来たとしても知らないでいるだろうに。 実際には霞がたったので春が来たことを知った、となる。

わかるべき わかれなりせ 思ふとも 涙の道に むせばましやは

「やは」が付いているので反語的に訳し、 もし当然別れるべき別れだとしたらたとえ思いつづけていたとしても涙にむせんだでしょうか。 ややこしいな。別れるべくして別れるのであればこんなに泣くことはなかっただろうという意味だろうな。

ときはなる 峯の松原 春くとも 霞たたず いかで知らまし

これも「いかで」が付くので反語的に訳し、 峯の松原は常緑なので、たとえ春が来たとしても、霞が立たなければ、春が来たことをどうやって知るだろうか。 いやはやややこしい。

補足。
「まし」は助動詞「む」から来ているのはまあ間違いなく、 「む」は単なる推測のようなものから強い願望まで意味する。したがって「まし」が「のどけからまし」のように単なる推測として訳せば良いこともあるが、「やどやからまし」のように願望として訳すべきときもある、ということだろう。 だから「AともBまし」は願望として訳して正解なのだ。

さらに補足。
「ば・・・まし」や「とも・・・まし」などの用例は古語辞典にも載ってない。 少し困った。

さらに補足。
「もしCならば、たとえAだとしても、Bしただろうか、いやしない」などという複雑な文法構造の歌を31文字で詠めるというのは驚異。 高度な修辞技法と重層的なオマージュによって屈折した心理を短い詩形に読み込むのが和歌。 しかし俳句にはそれは無理だ。 俳句は文法をあらかた捨てた。 正岡子規の

敦盛の 鎧に似たる 桜哉

を例に挙げるまでもないが(余談だが、しだれ桜が全体に釣り鐘のように垂れていて、鎧直垂のように見えるという意味かと思ったのだが、須磨で詠んだ句らしく「敦盛の鎧に似たり山桜」「敦盛の鎧に似たる山桜」の形もあり、では山桜を詠んだかとも思うが、題が「糸桜」つまり「しだれ桜」だからややこしい)、 いくつかの名詞、あとは形容詞か動詞が一つかせいぜい二つ。あとは助詞。 俳句には圧倒的に助動詞が少ない。 助動詞の役割の重さというのが和歌と俳句の違い。 助動詞が生きるには17文字3句では足りず31文字5句が要る。

今の短歌というのは俳句をのばしたようなもの、冗長な俳句のようなもので、 17文字で足りないから31文字にしたようなものが多い。 一度、和歌から俳句になるときに捨てたものをもう一度学び身につけるのはおそらく不可能。 俳句のような「単純明快な文形」をただ文字数を増やしただけでは「高度な修辞技法と重層的なオマージュ」には出来ない。 ただ文字数を増やすだけだとリフレインくらいにしかならない。「塔の上なるひとひらの雲」とか「針やはらかく春雨のふる」とかがそう。 あるいは上の句と下の句が別々の俳句になっているがごとき。

さらに追記。
「まし」はもともと事実と反することを述べるが、 「や」「か」「やは」「かは」「いかに」などの疑問や反語の助詞などが付くと意味がそちらにひっぱられて、 もともとは「あるとよいのに」という諦めにもにた境地だったのが、 「ありえるかもしれないよね」「ないといえるだろうか、いやある」のような意味になる。 「とも」がつくと「あるとよいのに」が「ありたいのだが」まで変わってくる。 このように組み合わせによってはかなり本来の意味から離れた使い方をする、 ということが用例を調べることでわかってくる。 おそらく「あるとよいのに」「ありたいのだが」くらいまでが安全圏で、 「きっとあるぞ」とか「かならずある」「ゆめうたがうことなかれ」などと訳すとやり過ぎなのに違いない。

とも・・・まし

竹取物語を読んでいたら

いたづらに 身はなしつとも 玉の枝を 手折らでただに 帰らざらまし

という歌があり、これは松陰の辞世の歌にそっくりだ。「たとえ死んだとしても玉の枝を取らぬままに帰ることはなかっただろうに」とでもなるか。つまり「帰らなかったかもしれない」が実際には「生きていたので帰ってきた」のである。反実仮想である。同じ具合に

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂

は「たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしても大和魂だけは留めおくだろう」となるか。
事実に反することを言っているとしたら、「留め置きたい」かったが「留め置けなかった」というのが結論にならざるを得ないが、他の用例などみると上の程度に訳しても良さそうな気がしてきた。

「たとひAともBまし」という用例があって、「たとえAだったとしてもBしただろうに」または「たとえAとなろうとBだろう」などと訳せばよいか。

梅が香を 袖に移して とどめては 春は過ぐとも かたみならまし

梅の香りを袖に移して留めたので、たとえ春が過ぎたとしても形見になるだろう。 春が過ぎたころには梅の香りも消えてしまって形見にはならない、と反実仮想に訳すまでもなく、 逆接的な強い願望として訳せば良いのではないか、少なくともこの用例では。

住吉の 岸におひたる 忘草 見ずあらまし 恋ひは死ぬとも

たとえ恋しくて死んだとしても見ないでいただろうか。

風だにも 吹き払はずは 庭桜 散るとも春の ほどは見てまし

和泉式部。 風さえ吹き払わなければ、庭桜がたとえ散ったとしても、(散った花びらが残っているので)春のようすは見ただろうに。 実際には風に吹き払われてしまったので、春のようすは見れなかったのである。 これは割とわかりやすい。

命だに はかなからずば 年ふとも あひみむことを 待たましものを

命さえはかなくなければたとえ年を経ても逢い見ることを待っただろうに。 実際は命がはかないので待たなかった。 これもわかりやすいな。

まし

ふと思ったのだが、吉田松陰の留魂録冒頭の

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂

ここで「まし」というのは通常は事実と反することを想像したり希望したりするものなので、 「まし」を古典文法どおりに解釈すれば「たとえこの身がくちても私の魂をとどめおけたら良いのに(実際には留めることはできない)」 となる。
しかし通常は 「この身がたとえくちても魂は留めおくぞ」 のように解釈されるだろう。
「たとひ・・・とも」はふつう逆接的に解釈されるからだ。
この、「たとひ・・・とも」と「まし」はあまり相性が良くはない。 逆接と反実仮想は素直につながらない。
いろいろ悩んだが、うまくなじませるため「この身が武蔵の野辺に朽ちたあとにも、私の大和魂はとどめておきたいのに。いやたとえ身は朽ちても魂だけはきっと留めてみせる。」
ややくるしいが、歌全体を「たとひ・・・とも」による強い希望とし、 その中に「まし」は、未来への不安やためらい、自分の欲しない未来を否定したい強い希望として反語的に挿入されているという重層構造に解釈してみたわけだが。

「まし」は通常なら「もしこうだったならこうするだろうに、しかし実際にはできない」という形になる。 たとえば

もしわれに 死ぬまで足れる 金あら 明日よりつとめ やめましものを

ひとしげく ことまたしげき みやこより のがれましかば うれしからまし

のように。だが、

もし身が朽ちな魂を留め置かましものを

では意味をなさない。身に朽ちて欲しいわけではなく、たとえ身は朽ちてもせめて魂だけは残したい、と言いたいわけだから。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かばや 大和魂

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かなむ 大和魂

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めて置かむ 大和魂

とか、或いは多少口語調だが

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置きたし 大和魂

などだとすっきりする。 だが「まし」にはある心理的な屈折がないわな。 「まし」を生かすとすれば、字数合わせは難しいが、「身が武蔵の野辺に朽ちしのちまで 大和魂だに 留め置かましかば うれしからましものを」とでもなろうか。

「たとひ・・・とも」「まし」という文法的な危うさが普通でない感じを出していると言えば言える。しかし普段の詠歌でそういう冒険をするかというと、難しい。「まし」とか「ましものを」「ましかば・・・まし」は難しいから、つい無難な使い方しちゃうよね。

古典的な用例だと、

見る人も なき山里の 桜花 ほかの散りなむ のちぞ咲かまし

他が散ったあとに咲けば良いのに。 これは事実に反することを想像して、そうなってくれたら良いのにと希望している。 普通の使い方。

うぐひすの 谷よりいづる こゑなくば 春来ることを 誰か知らまし

これなんかは反語的に使われている。 誰が知るだろうか、誰も知りはしない。 事実に反することを想像し希望しているといえば言える。

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

これも事実に反することを想像し希望している。「いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。」源氏物語によく出るパターンだが、訳としては「どうしたらよかろうか」だが、「いかにせむ」とどう意味が違うのか説明するのは難しい。ああしようか、こうしようか、どうしようか、というように、ひとつに定まらず、いろいろとできるかどうかわからないことを仮定し想像しながら悩んでいるときに使うのかもしれん。

ほにはいでぬ いかにまし 花すすき 身を秋風に 捨てやはててん

小野道風。 迷い、ためらいの例。

あらはれて 恨みまし 隠れぬの みぎはに寄せし 波の心を

小式部内侍。少し面白い歌。

六条前斎院にうたあはせあらむとしけるに、みぎにこころよせありとききて、小弁がもとにつかはしける

と詞書にあるので、歌合わせは右と左に分かれて戦うが、水際(みぎは)に右をかけて、右をひいきにしているというので恨んで、という意味になる。 わけがわかるとかえってつまらんな。