和歌を詠むということ

近藤真彦が60才になって聴力検査に行こうなどという車内中吊り広告が出ていたが、私もつい最近60才になった。それで

はたちにて 絵は描き尽くし よそぢにて 歌は詠みはて 今さらに なすことも無き むそぢなりけり

などという歌を詠んだのだが、まったく今はそういう心境である。

明治天皇は59才で亡くなった。自分がもう明治天皇よりも年上だというのが、なんだか非常に不思議で奇妙な気分だ。

明治の帝の勅諭を体し

と佐佐木信綱は歌ったのだが、戦後生まれの私もその雰囲気の中で生まれ育った。昭和40年。敗戦後20年しか経ってはいなかったのだ。

私は画材屋の息子に生まれた。爺さんは尋常小学校の絵の教師だったので、子供の頃から絵を習って描いていた。絵を描くのは好きだった。しかし20才くらいになると自分の絵の才能というものはだいたいわかってくる。描き尽くすというよりは、もうこれ以上描いたところで自分が描くような絵はせいぜいどのようなものか、ということが見切れてしまう、ということだ。にたりよったりの絵を数多く描くことは不可能ではあるまい。今CGを仕事にしているのもやはり絵を描くのが好きだからだが、CGなんてものは私よりうまい人はいくらでもいる。どんなに頑張っても世の中に爪痕を遺すことすらできない。

しかしながら歌には、私は多少自負がある。歌ならば少しくらいは世の中に生きた痕跡を残せるかもしれないと。

古語文法を習い始めるのが高校一年生、15才くらいからで、歌をなんとか詠めるようになったのは21才くらいだった。途中ずっと歌を詠んでいたわけではなく、しかしながら、歌の形が固まってきたのは45才くらいだったと思う。若い頃は現代口語で詠んだり古語で詠んだり、字余りしていたり、いろんな歌を詠んでいたのだが、私はそこから現代歌人のほうへは行かず、かっちりした古典文法にのっとって歌を詠むようになっていった。たとえば、20代で詠んだ歌40代半ばで詠んだ歌

はかはかと 部屋片付けて 暑さのみ いかにもえせで 過ぐすよはかな

こういうへんてこな歌は今ではもう詠めぬかもしれん。

天長節に参賀したる日、本丸跡にて詠める

すずかけの 葉もこそしげれ かなへびは 穴より出でて 石垣をはへ

そう。和歌を詠むからには、こういうかっちりとした古語で詠みたい、そうでない歌も詠めなくはないかもしれないが、そういう歌はプライオリティが高くないというか、都々逸でも俳句でも、ほかに表現手段はあると思うし、現代口語を駆使した歌を詠みたいというよりも、和歌を純粋に保ちたいという気持ちのほうが勝るのである。だから自然と、もっぱら古語で、和歌を詠むようになった。茶道にしろ能楽にしろ、最初は単におもしろおかしい娯楽であったものが、だんだんに純化していったのだと思う。自分の中の気持ちはそれと同じだと思う。

みそのふに 春雨ふれば 人を無み しめ野にひとり あるここちする

春雨の ふれる宮路を 踏みゆけば しめりてきしむ さざれ石かな

きもをなめ たきぎにふせし つらき世を 知らずなりゆく わがくに民は

こうした歌ももう詠んだことをすっかり忘れてしまっていた。

歌もまた詠み尽くしたというよりは、これから先、だいたいどういう歌をどういう時に詠むかというのを見切ってしまった、今まで詠み遺した歌で予測可能な範囲でしか歌は詠めないだろう、それ以外の歌をいまさら詠みたいとも思わない、要するに年を取ってもうこれ以上変化のしようがない、ということになる。

明治天皇が59年間の人生で詠んだ9万首の歌をAIに学習させれば、明治天皇と同じような歌は詠めるようになるだろうと思う。明治天皇が学習に用いたテキストも合わせて学習すればなお正確に詠めるようになるだろう。昔の人(明治以降の人、という意味だが)には同じような歌を来る日も来る日も大量に詠んで、詠草に残しておくことの意味がわからなかったようだ。今の人ならわかるだろう。ありとあらゆるパターンの歌を遺しておけば、自分が死んだ後もそれに習って同じような歌を詠むデータベースになってくれるのだ。ときたまに気の利いた歌を詠んで遺せば良い、自分の最高傑作だけをいくつか残せば良いというものではない。明治天皇にはある程度までそのことがわかっていたはずだ。和歌はごく短い詩形ではあるけれども、一つ一つの歌を見ただけではその価値がわかるわけではないのだ。

同じように私が生涯詠んだ歌を全部AIに学習させれば、そのAIが私が死んだあとも代わりに永遠に私の歌を詠んでくれるのに違いない。もうそうなってしまえばわざわざ私が生きている必要もない気がする。

歌を詠む 人もなき世に 歌詠めば ひとり狂へる ここちこそすれ

歌詠まぬ 人に問はばや 歌詠まで 大和心は ありやなしやと

天下之糸平の碑を詠める

いしぶみを あふげばむなし とはに名を のこさむとする 人のこころは

いしぶみを すみだの岸に 建つるより こころに残る 歌を詠ままし

沢庵

日曜日の浅草は観光客が多すぎてほんとうに苦痛だ。駅の改札を通れないで立ち往生する人、道の真ん中に固まってどっちへ行こうか思案している人、スマホを見ながらだらだら歩く人。こちらも観光気分で何かまだ見落としているものでもないかなと物色する気分の時は良いが(実際浅草というところはそんな簡単に見尽くせるところではない)、普段道を歩く時と同じ感覚で歩くととにかく精神衛生に悪いから近寄らないほかない。

上野のヨドバシで品物を取り置きしてもらい、散歩がてら上野まで歩く(40分くらいか)。私がここらをくまなく散歩して回れるのも浅草に部屋を借りている数年限りだから、せっせと見て回ろう、などと思う。途中下谷神社に寄る。正岡子規の碑が立っていた。

寄席はねて上野の鐘の長夜かな

下谷神社が寄席発祥の地であるという。上野の寄席とは鈴本演芸場のことだろうか。寛永寺の鐘であろうか。暮れ六つの鐘であったろう。長夜は秋の季語なので、早く日が暮れてしまい、これから長い夜が始まる、というような意味合いであったか。それとも当時すでに西洋式に18:00に暮れ六つを打っていただろうか。

上野の博物館は異様に混んでいる。特に西洋美術館がいつもとんでもなく混んでいて建物の外まで行列しているがあれはショップに並んでいるのかもしれない。今はミロ展の最中で、こないだはモネ展だったが、とにかくモネだかミロだかのグッズをどうしても買わねば気が済まない人がたくさんいるらしい。とりあえず上野の博物館群は人の多さにあきれて素通りした。

天海僧正毛髪塔というものがあった。この天海というやつが家康をたぶらかしておかしな宗教にはまらせたのだ。

上野松坂屋地下食品売り場で沢庵を買った。それから吉池でカマスの一夜干しとかメザシのようなものを買った。吉池は地上部分はユニクロ化してしまったが地下の食品売り場はすばらしい。浅草のいかなるスーパーよりも吉池のほうが良い。御徒町に来たら吉池に寄って晩御飯の支度をするべきだ(これからの季節、保冷剤は持参したほうが良いかも)。

沢庵は難しい。宮崎県産の沢庵は好きだ。野崎漬物、道本食品のは安心して買える。しかし九州の沢庵はどうも甘味が気になる。甘味料を入れないか、もっと減らすわけにはいかないのだろうか。と思って和歌山産や山形産の沢庵を買ってみたのだが、山形のやつ「田舎たくあん」は販売者が山形の晩菊本舗三奥屋だが、製造所はキムラ漬物宮崎工業株式会社で、キムラ漬物は愛知県の会社である。甘味は強くない。おいしい沢庵なのでこれは良しとする。和歌山の沢庵は甘くはないがすっぱい。漬物が乳酸発酵してすっぱいのはよくあることなんだが、私はすっぱい沢庵が食べたいわけではないのである。熱海の七尾たくあんも甘くはないが、かなりすっぱく、しかも固い。もしかするとそういう沢庵が本格派なのかもしれないのだが、私が食べたいのはそういう沢庵ではないのである。

なんというのかな。私が食べたい沢庵というのは、色も白っぽくて、塩分もそんな高くはなく、しゃりしゃりした浅漬けのような歯ごたえではなく、きちんと漬かっていて、しかしながらあまり筋っぽくもなく固くもなく、砂糖など甘味料はいっさい使ってないものが食べたい。食塩とぬかと大根だけで作られたものが(もし現代にそんなものがあるなら)食べてみたい。煮干しとか昆布だしとか鰹だしとかそんなものは入れてほしくない。どこかにそんな沢庵は無いものか。燻製にしたいぶりがっこは好きではない。壺漬けもべったら漬けも好きではない。

沢庵というのは沢庵和尚が発明したのだろうか。となると江戸初期、家光の時代だ。当時の沢庵とはどんな味だったのだろうか。沢庵に適した白首大根を大量に生産しているのは宮崎や鹿児島くらいらしい。つまり、消費者に近い関東などでは生食用の青首大根を、消費地から遠い九州南部などではあまり一般的ではない漬物用の品種をもっぱら栽培している(かつ南国なので育ちやすい、火山灰の砂地で育ちやすい?)、ということではないか。となるとその他の地域の漬物屋でも大根は宮崎産を使ったり、全国展開するような大きな漬物屋は宮崎に工場を作ったりするのかもしれない。

沢庵にこだわりのある人というのはごく一部で、老若男女、特に子どもが食べるのには柔らかくて甘い沢庵が好まれるのだろう。私も子どものころはそうした沢庵を食べていたのかもしれないが。スーパーに売られている量産品はみんなそんなやつだ。

伊勢沢庵は名高いけれども東京ではほとんど売られていないようだ。沢庵は結局、百貨店の食品売り場などをしらみつぶしに探してみるしかなさそうだ。

6月6日になってイオン(まいばすけっと?)が外米を売り始めたらさっそく買うつもりだ。実に待ち遠しい。

船渡御

江戸初期の歌人、戸田茂睡が書いた「紫のひともと」(天和2(1682)年)という仮名草子があってそこに浅草三社祭のことが書かれている。

観音寺門三社権現の祭り、三月十八日なり。是も隔年行はるる。此の三社権現の祭りは花園院の御宇、正和元(1312)年、神託によって始まるなり。

本堂の社の東に三社権現あり。是は観音を網にて引き上げし檜の熊の浜成・竹成と二人の漁夫の在家を改めて精舎となし、直中和といひし漁師と合はせ、三人を権現に祝ひ、三社の護法といふ是なり。本堂の外に出居る出家、専堂・斎堂・常音は、彼の三社の末孫なり。妻帯して子孫相続有る故、三月十八日の祭りは此の三社の神なり。東の随身門より、一の権現の前に出る。一の権現と云ふはあかん堂のことなり。昔、観音、海より上らせ給ふ時、野より雉子来て、羽にて御身体を隠し、雨露に塗らし申さざると云へり。此の故に此の観音、信心の者は雉子を食せず。所の者は雉子を家内にて、他の人にも食せず。

さて、此の三社権現は駒形堂より海に乗せ申し、浅草見付の船着より上らせ給ひ、本通りを本社へ帰らせ給ふ。

いやはや。これはすごい。

戸田茂睡の時代にすでに浅草神社は一応本堂、つまり浅草寺とは別の建物に分かれて、今の場所にあったらしい。また随身門とは現在、二天門と呼ばれている門を言うらしい。浅草神社を出たらすぐ東に折れて随身門を出て、おそらくこの辺りに「あかん堂(一の権現)」と呼ばれた建物があって、そこから今の馬道通りを南下して、駒形堂というところまでいく。これは今も駒形橋西詰の北側にある。ここから神輿を船に乗せて隅田川を下り、浅草見附(浅草御門)、つまりおそらく神田川が隅田川に合流する柳橋辺りの船着き場(蔵前あるいは浅草御蔵のことか)から上陸し、ここから本通りを経由して、鳥越(蔵前)を経て、再び駒形堂を経て、本社に帰っていたのだろう。

今の三社祭と全然違っている。

江戸初期、当時の浅草から吉原にかけてはまだ田んぼや沼が広がっていて人はほとんど住んではいなかったのだろう。吉原が今の場所、当時、竜泉寺村と呼ばれていた場所に移転したのは明暦三(1655)年のことであった。

しかしながら江戸城大手門から浅草まで通る道沿いには後北条氏の時代から既にかなりの人が住んでいたと思われ、また浅草の主たる産業は隅田川を使った水運や漁業であったから、それを生業とする町民らが三社権現の主役であって、また浅草観音は川の中から網にかかって引き上げられたということになっていたから、船渡御というものが、祭りのメインイベントだったのだ。それが三社祭の原型なのだ。

浅草寺に「あかん堂」「駒形堂」なる別館が存在する意味が今ではわからなくなっているが、昔、浅草寺は隅田川と密接に関係していたのだ。だから川と連絡するために、これらの施設が非常に重要だった、ということになる。浅草寺が今ある場所はもともと檜前さんちの在家だったとあるが、おそらくこのあたりで一番開けていて、しかも水害に遭いにくい高台だったのだろう。

関東は、昔未開拓な頃はどこも川と沼だらけだったから、船祭というものが一般的だったのかもしれない。

鹿島神宮では12年に1度、午の年に式年大祭 御船祭(みふねまつり)というものがあって勅使下向もある。

香取神宮にも経津主大神の東征を再現した、式年神幸祭というものがあって船が出る。

大宮の氷川神社もかつては沼自体をご神体とした船祭があった、と言われているそうだ。船に神輿を乗せていたかどうかはともかくとして、関東地方における遷幸、遷宮、東征というものは、もともとそうした、船に軍勢を乗せた大がかりなものだったに違いない。それがいつの間にか氏子のレジャーと化していき、観光目的化していったのだろう。

浅草三社祭に勅使が来るわけはないので、あの馬は勅使風のパレードの演出ということか。

イオン外米

イオンが4kg税抜2680円でカリフォルニア米「かろやか」を売るそうだが、私が普段ビッグエーで買っているブレンド米やベトナム米よりも安い。発売開始が6月6日というのも、絶妙のタイミングだ。ほんとはもっと安く売れるのだろうけど、値下げ競争が始まるまではできるだけ高値を付けて売りたいというのが本音であろう。

イオンはかつて日本の小売業者を敵に回して懲りている。米の価格が高止まりしているのはイオンに錦の御旗を与えた。イオンの外米を食べて、なんだ普段食っている国産米と違わんじゃないかとなれば、消費者に長年かけられていた呪いがやっと解ける。みんな悪夢から覚めたように外米を食べるようになるだろう。

そうすると結局国産米は今の和牛と同じ運命をたどる。高級銘柄米だけが残って、一部の金持ち、一部の好き者だけが食べるようになり、海外にもばんばん輸出されるようになる。米の値段なんて原価全体からすればたかが知れてるから、旅館や料亭などが国産米を売りにしたからといって別段困ることもあるまい。価格に転嫁すれば済む話だ。今時その程度の金を使いたがるやつはいくらでもいる。

高級銘柄米を作れない農家、或いは補助金に依存する零細兼業農家は淘汰されて農地の整理統合が進み、稲作も多少は合理化されるかもしれん。あまり悪いところが見当たらない。

米は2kgの上はいきなり5kgでその上は10kgでしか売ってない。10kgを3ヶ月くらいで食べきるのであれば10kgを買えば良さそうに思える。イオンは2kgと5kgの間の空白を狙ってきたとも言える。ともかくいろいろと計算尽くで「かろやか」を投入してきている。

ましかしこんなことは私が今更指摘しなくても米業界ではとっくにわかっていたことだ。なるべくしてなるようになる。米は日本人の主食で安全保障上国産しなくてはならないなどという嘘八百はもう通用しない。

残置物

エアコンから雨漏りするので不動産屋に電話した。詳しくは書かないけど、もともと部屋に設置されていた「設備」ではなくて、前に住んでいた人が勝手に付けて残していった「残置物」なので故障しても大家さんは金を出してくれない。とんでもないところにとんでもないやり方で設置されていて、配管なんかももうボロボロになっていて手の付けようがない。修理も撤去も付け替えもできない。やろうとすると新品のエアコンの数倍の金がかかってしまう。もとはどうやって工事したのだろう。

とりあえず応急措置でなんとかなりそうだ。古くて安い物件には何があるかわからん。家賃をケチったのだから仕方ない。

三社祭り

浅草の三社祭りなんだけど初日金曜日の夜から町会ごとに提灯の櫓を建てたり、簡易寄り合い所を作ったり、神輿や、お囃子を載せる車(囃子屋台というらしい)などを繰り出して騒ぐ。土曜日もやはり町会ごとに騒ぐ。一つの町会に神輿1台ずつかというとそうではなく、大人神輿と子供神輿という具合に2台ずつくらいあるらしい。というわけで浅草氏子44町会、合計100基ほどの神輿が浅草で一斉に練り歩き始め、いたるところにテントやら仮設小屋が建てられて道にはみ出していろんなものが置かれ、ブルーシートを敷いて宴会をもよおし、子供はここぞとばかり路上で追いかけっこし、よそからも見物客が来るから交通に支障をきたさないはずがない。昨日も夜中に近所のスーパーに惣菜でも買いにいこうかと家を出たら神輿で道がふさがっていて2箇所ほど迂回せねばならなかった。あちこちから祭り囃子が聞こえてきて祭りの中に没入してしまうという実に面白い体験をした。

思うに、江戸の三大祭り、神田祭と山王祭は将軍家が見物したが、三社祭りはそうではなかったという。将軍だってヒマじゃないわけで何月何日の何時にどこそこに桟敷を作ってその時だけ見物する、ということになるだろう。だから、何日間もだらだら祭りをするとしても、将軍家にお目見えするための数時間だけは、特定の通りを整然と行列を組んで進んだりするのに違いない。そういう下地が江戸時代にできていれば、マスコミとしても、今秋葉原を神輿が通りました、などという絵を撮りやすい。撮れ高を稼ぎやすい。京都でも天皇が町人の祭りを見物するとなると町人も意識するだろう。祇園祭の山鉾なんかも、あれは町人が自分たちのために楽しんでいるというより、日本の首都を訪れる万人の客に見せることを意識してああいうふうになったのに違いない。

三社祭りはそういう公権力の介在がほとんどまったくない状態で、浅草の町人たちが好き勝手にやっていたもので、しかし浅草は当時大阪を抜いて日本一、いや、世界一人口稠密な都市であったはずだから、民間の祭りがとんでもない規模で寄り集まってああいうカオスな祭りが自然発生的にできてしまったのだろう。

最終日、三日目は浅草神社の一宮、二宮、三宮が、町会よりは多少大きな神輿を出すというのだが、これも浅草寺境内はひとごみでごった返していてどこをどう撮ればいいのかマスコミとしても撮りかねようし、まして一般人が見ても何をやっているのか、よその祭りとどこが違うのか、一部を切り取った映像だけではわからないのであんまり面白くない。ドキュメンタリーを作ることもできようが大して注目もされない。だから神輿どうしで喧嘩になった、というようなことくらいしかメディアでは報道されない。もともと人に見せようということを意識してできた祭りではない。純粋に町人が楽しむためにできたものだ。だからマスコミにとってあまりにもうまみがない。

普通の観光客は三日間だらだら三社祭りを見たりしない。せいぜい数時間浅草に滞在してその片鱗を見るだけだ。だから三社祭のすごさなどというものがわからないに違いない。

観音裏辺りの町会の名前は、象一、象二、象三などと呼ぶらしかった。今の町名と違うのでわからんかったがうちの近所でも普通に神輿を出していた。象とはこの辺りがかつて象潟と呼ばれていたことに由来するらしい。

米の値段

米の値段が下がらないのは、生産者、米農家や農協、農林水産省のせいばかりではないと思える。消費者が日本の米を食うことにこだわり続ける限り、行政も変わらないし、農家だって高く売れるほうが良いに決まっているんだから、米の値段は下がりようがない。

日本産の米にこだわる必然性はほとんどない。日本人の多くはしかし米は日本産に限ると思い込んでいる。または思い込まされている。非常に保守的だ。保守というがたまたま戦後はそうだったというだけで、江戸時代じゃあるまいし、米がまったく輸入されてこなかったわけではなく、国産米にこだわってきたわけじゃあるまい。そもそも日本人も今や米ばかり食っているわけではない。米よりも小麦が食えなくなるほうがずっと大きな打撃だろう。小麦はほとんど輸入に頼っているにもかかわらず。米が国産かどうかなどということは全体から見ると些細な、プライオリティの低い問題に過ぎない。そもそも石油が輸入できなくなった時点ですべてが終わる。米が輸入できるかどうかなんて言っている場合じゃない。

たいていの人は米というと頭に血が上って冷静な思考ができなくなる。玉子や生乳のように日持ちしないものは国産に頼るのが合理的だが、米などは世界中で栽培して世界中から輸入するのが良いに決まっている。中国インド、東南アジアなど稲作地帯は人口の稠密地帯であるが、北アメリカでもオーストラリアでも栽培できるんだから世界中どこでも育つに違いない。南米でもアフリカでもどこでもジャポニカ米を栽培すりゃいいだけのことだ。なぜそういうところに日本の外交努力を注ぎ込まないのか。農協や米農家の陰謀ではあるまい。消費者が馬鹿なのだ。消費者はいつも他人を攻撃し不満を言うだけで何も考えようとしない。大衆が馬鹿だから大衆を煽るしか能の無い馬鹿メディアがはびこるのだ(大衆が先かメディアが先か問題)。

私はあの和牛の霜降り肉が、やたら高くて脂がべちゃべちゃしてぶよぶよしてて大嫌いで、あんな病的で気色の悪いゲテモノがちゃんとした肉食文化のある国で受け入れられるわけないと思っていたが、今では世界中で一定の需要があるらしい(ちゃんとした海賊文化があるイギリスやスペインでもワンピースが流行るようなものなのだろう)。つまり国産の、比較的高価な牛肉が国際市場で通用しているということだ。日本酒にしても日本の米にしても、高級路線に特化して海外で売りまくれば良い。その代わり安くて普通の米は海外から買えばよい。米が不足しているのになぜ米を輸出しているのかなどと言ってる連中は経済がそもそもわかってないのだろうか。煽りたいだけなのだろうか。政府を攻撃したいのだろうか。

脂身と赤身が分離した固くて歯ごたえがある肉はアンガスとかオーストラリア産を輸入すりゃいい。だれでも格安で海外旅行できて、アフリカの海で採れたタコを輸入するような、極限まで流通が発達した現代で、国産だけでどうにかしようという理由がない。なぜそういう風潮にならないのか不思議でならん(天照大神の呪縛だろうか。ならば神道ごと稲作栽培を世界に普及させれば良い)。

侏儒の言葉

 「侏儒しゅじゅの言葉」の序

「侏儒の言葉」はかならずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々うかがわせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草つるくさ、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。

序からしてすでに言い訳がましい。

 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火りんかに過ぎない。いわんや我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中にわれに向ひて光る星あり
 しかし星も我我のように流転をけみすると云うことは――かく退屈でないことはあるまい。

おやこれはどうも芥川自身の歌ではなくて誰か他の人の歌らしいと調べてみるとすぐにわかった。正岡子規である。

まず、「まさごなす」が変だ。万葉集に一首例があるようだ。

相模路の よろぎの浜の 真砂なす 子らは愛しく 思はるるかも

相模治乃 余呂伎能波麻乃 麻奈胡奈須 兒良波可奈之久 於毛波流留可毛

浜の真砂というときは数え切れないほどに多いという喩えに使われる。しかし万葉集の「真砂なす」は明らかにそういう意味に使ったのではない。

相模路のよろぎの浜とは今のこゆるぎのことで、大磯から小田原にかけての浜辺のことだが、行ってみればわかるが真っ白な綺麗な砂浜というわけではない。鎌倉辺りはもう少し白いかもしれないが、こゆるぎはどちらかといえば黒い砂(おそらく砂鉄が多く含まれているのだろう)、もしくは小石や砂利の浜辺なのである。「真砂なす子ら」がいったい何を言おうとしたのか、私にはよくわからない。

麻奈胡(まなこ)を真砂と読むのにそもそも無理がある。目がくりくりとしてかわいい、という程度の意味ではなかったか。

「まさご」は普通和歌には「はまのまさご」という成語で出る。真砂に埋もれるとか、真砂のように数え切れない、などと使う。

吾に向かひて光る星あり、とは、無数の星々の中にたった一つだけ、自分の運命を定める星がある、ということが言いたいのだろう。しかしそうした夢想はむしろ私には非常に凡俗な感じを受ける。星の明滅と人間の感情には何の関係もない、あれはただの自然現象に過ぎず、そんなものにロマンティシズムやファンタジーを感じても意味は無い、まして、個々の星がそれぞれ特定の人間にだけ向かって光ってるはずがないと私などは思ってしまうし、そんな歌を詠みたいとも思わない。私は子供の頃から近眼で星がよく見えないから、星に対してそういう幻想を抱くということがなかった。

七曜は古代メソポタミアで生まれた。おそらくシュメールまでさかのぼるのではなかろうか。何曜日に生まれたかによってどの惑星の影響を受けるかが決まるのだそうだ。だから当時メソポタミアでは誕生日よりも誕生曜日のほうが大事であったらしい。そしてそれら七つの天体のことを運命の星と言っていたようだ。

子規はちょっと無理のある万葉調の歌を詠むくせがある。芥川も和歌がわかっていたとは言いがたい。彼が子規を詩人として尊敬していたとは意外だ。子規が「浜の真砂のように数知れぬ星々の中で」と現代語で、或いは散文で書くのであればそれはそれで一向かまわぬが、古語は用例の集積で成り立っているものなのだから、中世に用例が見られない、無理な万葉語を使って古めかしくした歌を詠むのは、近代歌人らが犯しがちな典型的な過ちであって、私には許しがたい。

さらに言えば「数なき」だが、「数ならず」「数にもあらぬ」などは「数え上げることもできぬほど、数知れず、無数にある」という意味ではなくて、物の数ではない、取るに足りない、平凡な、という意味であって、やはりここにも違和感を感じる。無理に歌に仕立てようとして用例がずれてしまっているのである(せめて「数知れぬ」などとしなくてはならない)。これまた万葉調を尊ぶ近代短歌に見られがちな間違いである。

高等遊民

「侏儒の言葉」に

作家所生の言葉

「振っている」「高等遊民」「露悪家」「月並み」等の言葉の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まっている。こう言う作家所生しょせいの言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」などはその最たるものであろう。なお又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでいるものである。或作家をののしる文章の中にもその作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

なる文章があってまるで「高等遊民」という言葉は夏目漱石が造語したかのように書かれているのだが、漱石の作品で「高等遊民」が出てくるのは明治45年に書いた「彼岸過迄」だけであり、「高等遊民」なる語は読売新聞に明治36年にすでに出ているという。また「彼岸過迄」に出てくる高等遊民とは松本という人物だが、これは明らかに漱石自身がモデルではない(ディテイルはともかく全体としては)。「こころ」に出てくる「先生」は明らかに高等遊民として描かれているが、夏目漱石も芥川龍之介も執筆活動に追われて忙しく、資産家で働かなくても良い、というような身分ではなかった。

「余裕って君。――僕は昨日きのう雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民こうとうゆうみんでないからです。いくらひとの感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」

「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
 松本は大きな火鉢ひばちふち両肱りょうひじを掛けて、その一方の先にある拳骨げんこつあごの支えにしながら敬太郎けいたろうを見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民本色ほんしょくがあるらしくも思った。彼は煙草たばこ道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首がんくびのついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙のろしのごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔のそばでいつの間にか消えて行く具合が、どこにもしまりを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋うわたびを白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣ころも聯想れんそうさせるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采ふうさいなり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
 敬太郎はみずから高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
さいは無論います。なぜですか」
 敬太郎は取り返しのつかないな問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」

「遊民」という言葉ならば「それから」にも出てくる。

「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
 代助は決してのらくらしてるとは思はない。たゞ職業のためけがされない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。

高等遊民のサンプルは漱石の身近にもいて漱石は十分に観察したはずだ。もちろん「こころ」の「先生」には漱石自身のパーソナリティもまた投影されているに違いないけれども漱石自身は高等遊民とは全然違ったはずだ。

「坑夫」の主人公も遊民のたぐいだったと考えて間違いあるまい。漱石がなぜそうした遊民らを主人公にしたがるかということだが、仕事というものは人物の属性として非常に比重の大きいものだから、漱石は職業という属性を含めてものを書くということが面倒くさかったのだろう。漱石が敬愛していたのは荻生徂徠のようないわゆる江戸時代の遊民であって、彼らは「白雲」のように浮世離れした存在であったから、漱石がそうした人々を書きたがったのは当然とも言える。漱石自身そうした生き方をしたかったかと言えばおそらくそうなのだろう。「白雲」とは具体的には「高等遊民」なのだろう。くどいが彼自身はそうした資産に恵まれた人ではなかった。

「月並み」もまたこれは漱石が作った言葉ではなく、もともと月ごとに行う歌会や句会、漢詩や連歌の会合のことを月並みと言ったのだ(頓阿「将軍家に月並みの歌会はじめられて」うんぬん)。それをおそらく正岡子規がことさらに使い、漱石も子規の影響を受けて作品に用いたのに過ぎまい。「月並みの絵」「月並みの御屏風」などの表現は枕草子や源氏物語にすでにある。ちょっと調べればわかりそうなことではある。漱石によって世の中に広く知られるようになった、の意味に言っているだけなのかもしれないが。

ちょっと長いが「坑夫」を引用しておく。

実を云うと自分は相当の地位をったものの子である。込み入った事情があって、こらえ切れずに生家うちを飛び出したようなものの、あながち親に対する不平や面当つらあてばかりの無分別むふんべつじゃない。何となく世間がいやになった結果として、わが生家まで面白くなくなったと思ったら、もう親の顔も親類の顔も我慢にも見ていられなくなっていた。これは大変だと気がついて、根気に心を取り直そうとしたが、遅かった。踏み答えて見ようと百方に焦慮あせれば焦慮るほど厭になる。揚句あげくはて踏張ふんばりせんが一度にどっと抜けて、堪忍かんにんの陣立が総崩そうくずれとなった。その晩にとうとう生家を飛び出してしまったのである。
 事の起りを調べて見ると、中心には一人の少女がいる。そうしてその少女のそばにまた一人の少女がいる。この二人の少女の周囲まわりに親がある。親類がある。世間が万遍なく取りいている。ところが第一の少女が自分に対して丸くなったり、四角になったりする。すると何かの因縁いんねんで自分も丸くなったり四角になったりしなくっちゃならなくなる。しかし自分はそう丸くなったり四角になったりしては、第二の少女に対して済まない約束をもって生れて来た人間である。自分は年の若い割には自分の立場をよく弁別わきまえていた。が済まないと思えば思うほど丸くなったり四角になったりする。しまいには形態ばかりじゃない組織まで変るようになって来た。それを第二の少女がうらめしそうに見ている。親も親類も見ている。世間も見ている。自分は自分の心が伸びたり縮んだり、曲ったりくねったりするところを、どうかして隠そうとつとめたが、何しろ第一の少女の方で少しもやめてくれないで、むやみに伸びて見せたり、縮んで見せたりするもんだから、隠しおおせる段じゃない。親にも親類にもつかってしまった。しからんと云う事になった。怪しかるとは自分でも思っていなかったが、だんだん聞きただして見ると、怪しからん意味がだいぶ違ってる。そこでいろいろ弁解して見たがなかなか聞いてくれない。親の癖に自分の云う事をちっとも信用しないのが第一不都合だと思うと同時に、第一の少女のそばにいたら、この先どうなるか分らない、ことにると実際弁解の出来ないような怪しからん事が出来しゅったいするかも知れないと考え出した。がどうしても離れる事が出来ない。しかも第二の少女に対しては気の毒である、済まん事になったと云う念が日々にちにちはげしくなる。――こんな具合で三方四方から、両立しない感情が攻め寄せて来て、五色の糸のこんがらかったように、こっちを引くと、あっちの筋が詰る、あっちをゆるめるとこっちが釣れると云う按排あんばいで、乱れた頭はどうあってもほどけない。いろいろに工夫を積んで自分に愛想あいその尽きるほどひねくって見たが、とうてい思うようにまとまらないと云う一点張いってんばりに落ちて来た時に――やっと気がついた。つまり自分が苦しんでるんだから、自分で苦みを留めるよりほかに道はない訳だ。今までは自分で苦しみながら、自分以外の人を動かして、どうにか自分に都合のいいような解決があるだろうと、ひたすらに外のみをあてにしていた。つまり往来で人と行き合った時、こっちは突ッ立ったまま、向うが泥濘ぬかるみけてくれる工面くめんばかりしていたのだ。こっちが動かない今のままのこっちで、それで相手の方だけを思う通りに動かそうと云う出来ない相談を持ちけていたのだ。自分が鏡の前に立ちながら、鏡に写る自分の影を気にしたって、どうなるもんじゃない。世間のおきてという鏡が容易に動かせないとすると、自分の方で鏡の前を立ち去るのが何よりの上分別である。
 そこで自分はこの入り組んだ関係の中から、自分だけをふいとけむにしてしまおうと決心した。しかし本当に煙にするには自殺するよりほかに致し方がない。そこでたびたび自殺をしかけて見た。ところが仕掛けるたんびにどきんとしてやめてしまった。自殺はいくら稽古けいこをしても上手にならないものだと云う事をようやく悟った。自殺が急に出来なければ自滅するのが好かろうとなった。しかし自分は前に云う通り相当の身分のある親を持って朝夕に事を欠かぬ身分であるから生家うちにいては自滅しようがない。どうしても逃亡かけおちが必要である。
 逃亡かけおちをしてもこの関係を忘れる事は出来まいとも考えた。また忘れる事が出来るだろうとも考えた。要するに、して見なければ分らないと考えた。たとい煩悶はんもんが逃亡につきまとって来るにしてもそれは自分の事である。あとに残った人は自分の逃亡のために助かるに違いないと考えた。のみならず逃亡をしたって、いつまでも逃亡かけおちている訳じゃない。急に自滅がしにくいから、まずその一着として逃亡ちて見るんである。だから逃亡ちて見てもやっぱり過去に追われて苦しいようなら、その時おもむろに自滅のはかりごとめぐらしても遅くはない。それでも駄目ときまればその時こそきっと自殺して見せる。――こう書くと自分はいかにも下らない人間になってしまうが、事実を露骨に云うとこれだけの事に過ぎないんだから仕方がない。またこう書けばこそ下らなくなるが、その当時のぼんやりした意気込いきごみを、ぼんやりした意気込のままに叙したなら、これでも小説の主人公になる資格は十分あるんだろうと考える。
 それでなくっても実際その当時の、二人の少女の有様やら、ごとに変る局面の転換やら、自分の心配やら、煩悶やら、親の意見や親類の忠告やら、何やらかやらを、そっくりそのまま書き立てたら、だいぶん面白い続きものができるんだが、そんな筆もなし時もないから、まあやめにして、せっかくの坑夫事件だけを話す事にする。
 とにかくこう云う訳で自分はいよいよとなって出奔しゅっぽんしたんだから、もとより生きながらほうぶられる覚悟でもあり、またみずから葬ってしまう了簡りょうけんでもあったが、さすがに親の名前や過去の歴史はいくら棄鉢すてばちになっても長蔵さんには話したくなかった。長蔵さんばかりじゃない、すべての人間に話したくなかった。

「彼岸過迄」に出てくる須永と千代子の話に似てやしないだろうか。そして「こころ」に出る「先生」ともどこかしら似ている。共通のモデルがいる、と考えても良いのではなかろうか。遊民譚の元ネタは「坑夫」にすでにあった、「坑夫」のときに書き残したネタを、後からいろいろ手直しして作品に仕立てていったのではなかったか。

「彼岸過迄」は確かに漱石が意図して、短編を組み合わせて長編に仕立てた、という組み立てのものであろう。「吾輩は猫である」は明らかにそうではない。一話完結の短編を書くつもりが、次々に続編を書かされたために結果的に長編になったに過ぎず、また漱石も小説を書くことになれてなかったから、全体としての統一はほぼ無い。猫が主人公というのでかろうじて一つにまとまっているという体裁だ。「彼岸過迄」を書くにあたり「吾輩は猫である」は一つのヒントにはなったのだろうけれども、「彼岸過迄」は朝日新聞の専属作家となって、十分に休養を取り構想を練ってから書いたものであって、素人がいきなり書いた「吾輩は猫である」とは全然違う。

芥川龍之介と随筆

芥川龍之介が『侏儒の言葉』で

つれづれ草

わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは、未嘗いまだかつて愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。

などと書いていることが一部の徒然草ファンの不興を買っているのであるが、私としてはどちらかと言えば芥川龍之介に同情的なのであるが、ではなぜどういうところに同情しているのか、自分でも判然としない。そもそもどういうつもりで芥川はこれを言ったのか、だんだんに気になり始めた。同じ『侏儒の言葉』に

民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも
なげう
たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用ひなければならぬ。しかし一度用ひたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱さうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に
たふ
れる外はない。つまり帝王も王冠の為にをのづから支配を受けてゐるのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとへば昔仁和寺の法師の
かなへ
をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。

などと言っている箇所もある。この仁和寺の法師というのは第53段

これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入る事限りなし。

などというアレである。

芥川龍之介が他にも徒然草について書いているものはないかと検索してみると、「解嘲」というものに、

しかし又君はかう云つてゐる。「それと同じやうに、随筆だつて、やつぱり「枕の草紙」とか、「つれづれ草」とか、清少納言
せいせうなごん
兼好法師
けんかうほふし
の生きた時代には、ああした随筆が生れ、また現在の時代には、現在の時代に適応した随筆の出現するのは
むを得ない。(僕
いはく
、勿論である)夏目漱石
なつめそうせき
の「硝子戸の中」なども、芸術的小品として、随筆の上乗
じやうじよう
なるものだと思ふ。(僕
いはく

すこぶ
る僕も同感である)ああ云ふのはなかなか容易に望めるものではない。観潮楼
くわんてうろう
や、断腸亭
だんちやうてう
や、漱石
そうせき
や、あれはあれで打ち
めにして置いて、岡栄一郎
をかえいいちらう
氏、佐佐木味津三
ささきみつざう
氏などの随筆でも、それはそれで新らしい時代の随筆で結構ではないか。」

などということを書いている。芥川龍之介は枕草子や徒然草を読んでいないわけではないし、高く評価していないわけではない、少なくとも夏目漱石の「硝子戸の中」くらいには評価しているわけだ。

ますますわからないのだが、この「解嘲」というものは随筆というものについて書いた文章であるから、今度は芥川龍之介が随筆について書いたものを他にも探してみると、「野人生計事」というものがみつかる。この中で芥川は

随筆は清閑の所産である。少くとも僅に清閑の所産を誇つてゐた文芸の形式である。古来の文人多しと
いへど
も、
いま
だ清閑さへ得ないうちに随筆を書いたと云ふ怪物はない。しかし今人
こんじん
は(この今人と云ふ言葉は非常に狭い意味の今人である。ざつと大正十二年の三四月以後の今人である)清閑を得ずにもさつさと随筆を書き上げるのである。いや、清閑を得ずにもではない。
むし
ろ清閑を得ない為に手つとり早い随筆を書き飛ばすのである。

などと書いている。どうもこの大正13年1月に「野人生計事」なるものを書いて、それに対して当時、新潮を編集していた中村武羅夫なる人がいろいろと批評をした。それに対する反論が「解嘲」であったらしい。

「侏儒の言葉」「野人生計事」「解嘲」はいずれも随筆のたぐいである。しかも芥川は出版社から随筆を書け書けと言われて仕方なく書かされている。「侏儒の言葉」もまたそうして書いたものだったのに違いない(「侏儒の言葉」は大正12年1月から14年にかけて文芸春秋に連載された)。随筆なんてものはヒマがなきゃ書けないはずのものだが、今の人はヒマなどないから手っ取り早く随筆を書き飛ばす。そこで

随筆は多少の清閑も得なかつた日には、たとひ全然とは云はないにしろ、さうさう無暗
むやみ
に書けるものではない。
ここ
に於て
、新らしい随筆は忽ち文壇に出現した。新らしい随筆とは
なん
であるか? 掛け値なしに筆に
したが
つたものである。純乎
じゆんこ
として純なる出たらめである。

という具合に今の随筆はみな筆に任せて書き殴ったまったくのでたらめだ、とまで言っている。さらによくよく見ていくと、近頃の読者は永井荷風の断腸亭日乗などを褒めて、芥川のような若手の書く(「侏儒の言葉」などの)随筆を嘲笑している、などということまで書いている。

こうしてみていくに、芥川は、出版社から「徒然草」のような名調子の随筆を書いてくれとせがまれている。中村武羅夫もまたそうして芥川にせがんでいる一人であるのに間違いあるまい。つまり


うせ随筆である。そんなに
むづ
かしく考へない方が
い。あんまり出たらめは困るけれども、必しも風格高きを要せず、名文であることを要せず、博識なるを要せず、
ることを要しない。素朴
そぼく
に、天真爛漫
てんしんらんまん
に、おのおのの素質
そしつ
に依つて、見たり、感じたり、考へたりしたことが書いてあれば、それでよろしい」と云つてゐる。それでよろしいには違ひない。しかし問題は中村君の「あんまり出たらめは困るけれども」と云ふ、その「あんまり」に
ひそ
んでゐる。「あんまり出たらめ」の困ることは僕も
また
君と変りはない。唯君は僕よりも寛容
くわんよう
の美徳に富んでゐるのである。

この「あんまりでたらめ」とは芥川の「純なるでたらめ」のことを言っているのは明らかだ。芥川はあまりでたらめな文章は書きたくないと言っている。

芥川は編集者らや読者らから、せいぜい徒然草を愛読して徒然草のような随筆を、さもなくば「硝子戸の中」や「断腸亭日乗」のようなものを、あまり難しく考えず、名文であることを要せず、しかしあまりでたらめにならぬ程度に、どしどし書いてくれ、と言われていたことになる。そりゃあ徒然草に対してああいう言い方をしたくもなるよな、ということにならんか。少なくともそんな気分の中であのようなことを書いたのだ。「わたしは度たびかう言はれてゐる」というのは具体的には文藝春秋や新潮など雑誌の編集者から若手作家に対する指導訓令のように言われていたのだろう。

当時芥川は30代前半。彼の文章をいろいろ見てみるに、確かに若気の至りで発作的に書き殴ったようなものが多いように思う。彼にとって徒然草は取り立ててどうこう言うほどのものではない。知ってはいるけれどそんなに関心の高いものでもなく、研究したいとも思わない。それをみんなが名文だと言い、愛読すると言う。趣味を押しつけられ強制されるように感じる。同じように永井荷風や夏目漱石を褒め、自分の書いたものは貶される(ように思える)。だからついああいうことを書いただけのことではないか。

観潮楼とは森鴎外のことを指すらしい。やれやれ。

大正6年「はつきりした形をとる為めに」、大正7年「永久に不愉快な二重生活」は「中村さん。」で始まるがこれも中村武羅夫(明治19年生まれ、芥川の6年年長)のことであろう(文藝春秋社を興した菊池寛は明治21年生まれ、芥川の4年年長)。