還暦

若い頃は遥か遠くにあるもののように見えていた還暦というものが間近に迫ってくるとやはり人は誰しも苛立ちとか焦りのようなものを感じるのだろう。また二度目のアブレーションを受けることが決まり、結局私の考えていたことよりも医者が言っていたことのほうが正しかったことがわかって、それもまたいら立つ原因になっていたと思う。

ある立ち飲み屋のおばさんは、確かな年齢は知らないが私よりたぶん10才くらい年上だろう。一時期大病を患って店を閉めたり開けたりしていたが、普段からテニスやスキーなどをやっているせいか今は極めて健康であるという。

私の周りの60過ぎたおっさんおばさんたちは、健康な人も病気がちな人も、みんなあっけらかんとしていて、私だけがくよくよ気にしているような気がしてしかたない。私の場合46才から今までずっと入院したり退院したり通院したり、また入院して手術を受けたり、薬を毎日飲まなきゃならなかったりで、病気と常に真正面に向き合っていなくてはならず、体はともかくとしてメンタルをやられてしまった。若くして癌にかかってしまい闘病生活を続けている人も同じような気持ちなのだろうと思う。定年後時間が有り余るようになって病院に通うようになるのはもう覚悟も決まっているしそんなにストレスにはならないのではなかろうか、などと考えたりもする。

私の場合、拡大性心筋症というやつなので、心臓にはできるだけ負担をかけないようにしなくてはならないし、そもそも運動とかスポーツというものが嫌いだからやる気もないのだけど、これからは心臓に負担をできるだけかけないようにして、心臓をできるだけ長持ちさせて死ぬまでだらだら生きていくしかない。私の場合自覚症状はないし日常生活には何も困っていないのだが、でも重症であることには変わりないわけで、運が悪かったとも言えるし、この程度ですんでよかったということもあるのかもしれない。ともかく問題は体というよりは気の持ち方だと思う。考えすぎるのが良くない。だが考えないというのがこれがまた非常に難しい。こういうふうにブログに吐き出したほうが楽になるともいえるし、書けば書くほど考えてしまうからよくないともいえる。なんとも言えない。

私の祖父は75才くらいで死んだのだが、最期の頃は足がむくんでいた。つまり心臓が弱っていたのだが、ある日突然心臓が止まって死んだ。まあそんな感じで死ねたら別に悪くもない。むしろあまり長生きして家族に面倒をかけたり、老人ホームに入って無駄飯を食うのは嫌だ。しかしぼけてしまった方が自我がなくなって楽に死ねそうだから、そうなりたいという気持ちもどこかにある。

いずれにしても今後年寄というものはどんどん社会のリソースを食ってしまう。どうにかすべきではなかろうか。できるだけ社会に負担のかからない方法で年寄を本人が気のすむまで生かしておく方法というものはできないものなのだろうか。正直私は定年後は、遊んでも良いが仕事はもうしたくない。こりごりだ。

話は全然違うんだけど、普通の人にとって読書とは、今日はどこそこのレストランで食事したとか、どこそこの温泉に泊まったとか、そういうイベントというか、趣味というか、余暇の過ごし方の一種のように思える。

若いうちは、本をかたっぱしから乱読するのも良いかもしれない。

しかし今の私にとって、ゆっくり本が読める喫茶店とか、ファミレスとか、あるいは図書館などというものはまったく必要ない。むしろ、図書館にいると本が読めなくて困る。東京都立中央図書館とか国会図書館で紙の本を読むのが一番苦手だ(この二つの図書館は本の貸し出しをやってないので館内で読むしかない)。

私にとってはすべての本がデジタル化されていて、読みたい箇所がただちに検索できればそれでよい。ゆっくり本が読みたいと思うことはあるが、読み始めるとすぐに読み続けるのがつらくなる。基本的につまみ食いしかできないたちなんだと思う。

昔の人はLP盤のレコードを擦り切れるまで聞いたとかいうけど、ほんとかどうか知らないが、そういう読書をする人が案外多いのだろう。レコードや本の蒐集家にはそういう人が多そうな気がする。私はもちろん蒐集家ではない。手元に置いておいたほうが便利な本だけを身の回りに置いている。ただそれだけだ。

最初から最後まで著者が書いていることが自分が読みたいことであれば読めるかもしれないが、たいていはそうではない。著者に付き合って読み続けることが苦痛になってくる。どうしようもなく退屈になってくる。だから途中でやめてしまう。若い頃は本に書いてあることすべてが珍しく新鮮で面白く全部読んでしまう。読了した時点ではまだその本のことがわかってない。二度、三度と読んでいるうちにだんだんわかってくる。この本好きとか嫌いとか、この著者好きとか嫌いというのが、5年とか10年後にわかってくる。

そうやって好き嫌いというものがはっきり最初から固まってしまったから、今は1冊読み終わる前に飽きてしまう。いろんな本を読み過ぎたせいで先がだいたい読めてしまう。たぶんそういう状況なんだと思う。

村上春樹は1Q84を最初の1章だけ読んでみたのだが、ははー、こんな文章を書く人なんだなと思い、それで読むのをやめてしまった。私の場合、続きを読んでみたいとか、結末まで読んでみたいという気にはならなかった。

たぶんそんなふうになったのが、40代半ばくらいで、読みたい本がなくなってしまったので、それで自分で小説を書くようになったのだと思う。小説を自分で書くと言うことと、その小説をうまくかけるようになるというのはまた違うのだけども。

これまた全然関係のないことではあるが、世の中には、柳田国男はどうして桂園派にこだわり現代短歌を拒絶したのかとか、江藤淳はなぜアメリカ留学までして戦後に保守派、右翼になったのかとか、最初から結論ありきで論文を書く人がいる。どんな愚かなことを書いているかと思って読んでみると、どうでもよいことをいろいろ調べ上げて、こまかなことをだらだら書き記して、読んでみても結局、だからどうなんだという感想しかでてこない(そういうユーチューブの動画やブログ記事は多い。長いだけで結局何も言ってない。カマラ・ハリスの演説みたいなもんだろう)。そして、柳田国男や江藤淳の考え方を理解しようとか、寄り添おうという気持ちは一切無い。自分の先入観を書き換える気ははなから無いのだ。世の中にはこういうたぐいの研究者しかいないわけではなく、きちんとまじめに地道な仕事をする人もいる、世の中にはそうした当たり外れがあるものだとあきらめるしかない。

サンテFX Vプラス

サンテFX Vプラスっていう目薬をさしてみたら、これがオレの目か、っていうくらい白目が白くなった。

最初から目薬させよって思った。

だがしかし今度から血管収縮剤の入ってない目薬にしようとは思った。見た目だけ充血が消えてもしかたない。

よく見たら使用期限2015年だった。今ではもうこの目薬ふつうに売ってない。

サンテPCなど買えばよかろうか。

カルト

白目が充血しているのは、手で目を無意識のうちにこすっているからではないかという仮説を立てて、意識して目をこすらないようにしてみたのだが、あまり効果はみられなかった。また、夕方よりも、朝起きたすぐのほうが充血が少なかった。

目が充血しているのはパソコンの画面の見過ぎ、目を酷使しすぎているせいだろうと思われる。右目より左目が充血しているのは左目を余計に酷使しているのかと思う。目が疲労して、栄養や酸素が足りなくなり、酸素や栄養を目にどんどん送り込まなくてはならないので、血量が増えその結果白目が充血するのだろうと思われた。

なので、暇な時間にはyoutubeを見るのではなくaudibleを聞くことにしてみた。ところが困ったことにaudible よりもyoutubeのほうが朗読にせよ講演にせよ音源がたくさんある。それでyoutubeで小林秀雄や渡辺昇一などを聞き始めた。

渡辺昇一が騎馬民族征服王朝説はおかしい、江上波夫が文化勲章を受けたのはおかしいと言っていて、その根拠としては古事記をはじめとする日本神話には馬が全然でてこない。出てくるのはスサノオノミコトが天照大御神の家に野生の馬の生皮を剥いで放り込んだという話だけだ、それに比べて神様が海からやってきたとか海の神様の娘と結婚したとか、陸を迂回して海を経由して攻め入ったなどという話はいくらでもある。

そもそも騎馬民族が大陸から渡ってきたのであれば、日本列島が島国であることすらわからなかったはずだ。なぜなら、本州の最北端まで騎馬民族が攻め入るまでは、日本が島でできていることはわからないはずだと。

そりゃまあそうなので、縄文時代からずっと日本は島国だってことは日本人は知っていたはずなので、その後に稲作が入ってきて、かなり短い期間で、稲作が広がっていって、その勢力がじわじわ東を圧倒していったということはあったかもしれないが、日本人というものは基本的には縄文時代と弥生時代では違いがないはずだ。

あと渡辺昇一は、小林秀雄という人は、ボードレールがポーなんかを批評していたのを真似して日本語で批評を始めた最初の人だなどと言っていた。なるほどそれ以前の例えば夏目漱石や正岡子規などの批評というのは荻生徂徠や頼山陽などの論説とほとんど連続していて、その根底には漢文の素養があるわけだ。小林秀雄が面白がられた理由は漢文ではなくフランス語の、当時のフランスの文芸批評の口ぶりをそのままそっくり輸入したからなのだ。

その小林秀雄が戦後敢えて本居宣長を書いた。誰も小林秀雄の「本居宣長」を理解できなかった。その理由の第一は小林秀雄自身にある。彼はもともと洋物の文芸批評をするはずの人だったのにそれがこてこての和物の評論を始めたのだ。しかも、敗戦後、国学などが徹底的に批判されていたときに。どうも小林秀雄という人は周りとことさら違うことがやりたい人らしい。戦前には、漢文調の論評が主流な中で欧文調の批評をやって読書人らに大いに受けた。戦後はその真逆をやってみたが、今度はさっぱり当たらなかった。そりゃそうで小林秀雄のファンというものはみな基本的に西洋かぶれで、和風な評論が嫌いなのだ。なのに、小林秀雄がまじめ腐って宣長を論じた。おもしろいはずがない。ただそれだけのことかもしれない。

それで、連載中は誰も話題にもしなかった『本居宣長』が単行本で出ると書いた小林秀雄本人がびっくりするくらいに売れた。これまたわけわからない。戦後しばらくたって、みんな宣長がわからなくなっていたころ合いに出たから、みんな読んでみようかと買ってみた。買ってはみたものの、結局読まず、まともに論評もされず、みんな書斎の飾りにしてしまった。実にばかげている。

それでも小林秀雄という人は恐るべき人で、本居宣長のかなり本質まで見抜いていた。見抜いていたけれどそれをおフランスの文芸批評の文体と論調で書いたものだから、とてつもなくちぐはぐなものができてしまった。小林秀雄はたぶん、ものすごく地頭(じあたま)の良いひとなのだろう。なんでも直感的に一瞬で見抜いてしまう。しかしそれを論理的に説明できる人では必ずしもない。だから彼の文章は悪文と呼ばれる。論理的に破綻している、または、何を言いたいのかわからない、ただのきどった美文だなどと言われ、私もほとんどの文章はそのたぐいだろうと思う。

江戸天保時代に宣長はあれほどの高さまで到達していたのに、今の人は全然宣長を理解できていないと思う。戦前の国粋主義者らもわかったようで何も理解してなかった。まして戦後の左翼には危険思想としか認識できなかった。小林秀雄はかなりのところまで肉薄していたが、しかしまだまだよくはわかっていなかったと思う。

渡辺昇一は宣長というひとはオカルティズムの人、スピリチュアルな人、精神主義な人であるという。小林秀雄が宣長は精神主義と言ったせいで国粋主義と誤解された、宣長や小林秀雄が言いたかったことはようするにスピリチュアリズムのことだ、などと言っていたがそれはそうだと思う。

宣長がカルトだったことはもちろん事実に相違あるまい。子供のころから仏教や儒教にはまり和歌を詠んだりするのはもともとそういう素養があったからだし、自分は親が神にお祈りして生まれた子だと宣長は生涯信じていた。この信仰心というものは、真正のものであれば仏教でも儒教でも神道でもなんでもよかったのだろう。

宣長に古事記伝が書けたのは、また、古事記を研究したいと思った動機は、彼がカルトだったせいではある。しかし、宣長も古事記もカルトであり、カルトとは古事記時代の原始神道、アミニズムでありシャーマニズムである、ということにはならない。

宣長は、いわゆる霊感の強い人、オカルティズムな人。古代日本のアミニズムのビジョンを見て、共感できる能力がある人だっただろう。しかし宣長の場合はそこで終わりではない。

宣長はもともと仏教にも儒教にもものすごく詳しい人だった。その彼が古事記を読んでいるうちに、さまざまな疑問がわいてきただろう。だから宣長はまず、日本古来の神道というものは本来どういうものであったかを再構築し、アミニズム、シャーマニズム時代の神道というものを仮定し、そこから、外来宗教の影響を受けずに自国内だけで純粋培養したらこうなったであろうという、本来あるべき、ピュアな、理想の神道を作ろうとした。つまり、キリスト教やイスラム教や儒教や仏教のような普遍性のある世界宗教を、それらとはまったく別にもう一つ、純粋に日本由来の素材から作ろうとした。そのためには理論武装しなくてはならない。理論武装した宗教とはすなわちカルトである。

宣長は、ナイーブな、外来思想と簡単に混淆し、免疫を持たなかった神道を作り直して、外来思想と簡単には混ざらない歯止めのある、理論武装した普遍宗教にしようとした。特に仏教やキリスト教に対抗しうる神学を構築しようとした。世界の原始宗教は、ギリシャローマの神話にしても、キリスト教やイスラム教などの普遍宗教によって駆逐されていった。同じことが日本でも、仏教や儒教の伝来によって起こっていた。宣長はそこに危機感をおぼえて、いつ外来宗教に浸食され滅ぼされるかもしれない弱い宗教である神道を鍛えて強い宗教にしようとした。彼はだから、不本意ながら、無理にカルトへ舵を切らざるを得なかったのである。彼はだから、上田秋成のナイーブさ、寛容さが我慢ならなかった。宗教とは不寛容でなくてはならない、さもなくばもっとものわかりの悪い不寛容な宗教、もっと排他的な宗教が現れたときに、おおらかで物わかりの良い寛容な宗教は一方的に浸食され、駆逐され、いつの間にか淘汰されてしまうからだ。つまり、神道もまた、世界の他の宗教と同じ程度には不寛容で排他的にならねばならない。日本人であるからには日本固有の宗教を最も尊び、他の宗教から守らねばならない。そのためには神道にも独自の神学が必要だ。宣長はそのロジックに初めて気づいた日本人であったかもしれない。逆の言い方をすれば宣長という天才が現れるまで、日本人は世界から隔絶していたおかげでそうした危機感をまったくもっていなかったということになる。今、川口市や蕨市で起きているようなことを宣長は天保時代に予見していたのである。宗教マニアの宣長だったからこそ、いちはやく、誰よりも先にそこに気付いた。

宣長が偉かったのはここまで完成度の高い神学理論を創始しておきながら、自分自身が教祖様になろうとは決してしなかったことだ。マルチン・ルターに似ているともいえる。

ところが、宣長の理論は彼の死後いろんな教祖様に利用され、あまたの新興宗教が生まれることになる。宣長にはそこまで制御することはできなかった。そしていまなお宣長は誤解されたままなのである。もし宣長がみずから新興宗教の教祖になっていたらこんな混乱と無理解は生じなかったかもしれない。

蒙を啓く

啓蒙、蒙を啓く、という言葉がある。文明人の俺様がおまえら未開人に教えてやるよ、というようなニュアンスがある。

蒙だが、もともとは高木や藪に覆われた、昼なお暗い森林、というようなイメージらしい。

啓は、口に、手で戸を開くという意味が組み合わさった字であり、未開の地を開いて言葉で教え諭す、という意味があるらしい。

つまりこれはまさしく、縄文人に対して弥生人がやったような、あるいはギルガメッシュがフンババにしたような、源頼光が土蜘蛛にしたようなことを言うわけだ。同様の文明開化の体験を日本は幕末維新に追体験した。

なんでそんなことをいまさらいうかといえば、もののけ姫の本来のテーマはこの蒙を啓くということにあったはずだと思ったからだ。蒙を啓くとはつまり神を殺すことだ。神とは原始の森、蒙である。その蒙を開拓する。文明の光が差し込んで、タブーや呪術がなくなり、誰もが安心して合理的な社会に共存共栄できるようにする。神を殺したのは天朝様だ。日本の歴史というものはごくおおざっぱに言えば天皇が土着の神を殺した歴史であった。

というテーマというかコンセプトがもののけ姫には明らかに掲げられているのだが、おそらくジブリ自身がそのテーマについてあまり興味がなかったと見える。

設定がややこしすぎる映画

地上波は見たくないので、夕方飯を食う時などにてっとりばやくブルーレイとかネットに落ちている動画をみようということになる。

そんなわけで netflix だと私はもう「テキサスレンジャー」を何度みたかしれないが、私はこれが割と好きだ。

「もののけ姫」と「千と千尋」を比べたときに、ちひろに感情移入できる人はかなりたくさんいるのだろう。小さな女の子が突然世知辛い世の中に放り込まれ複雑な人間関係にもまれて、次第に仕事を覚え世渡りに慣れて行き、問題を解決して、聡明な女性に育っていく。運命的な彼氏もいれば、いじわるばあさんもいれば親切なお姉さんもいる。だから「千と千尋」がヒットするのはまあわかる。というか、宮崎駿は、モデルとなった少女にかんでふくめるようにわかりやすく、世の中の仕組みとか仕事とのかかわり方を教えようとしたわけだから、わかりやすくて当たり前なのだ。

いっぽう「もののけ姫」の主人公アシタカに感情移入できる人はほとんどいないだろう(アシタカは若いイケメンで戦闘能力高いという意味でファンになる人はいるかもしれないが、自分の境遇と重ね合わせられるキャラではないということ)。彼はエミシの族長となるべく生まれた男子だが、タタリ神の呪いを受けて、たった一人で郷関を出る。こんな境遇の人は世の中にはほとんどいない。大企業の社長の息子のようなもので、日本人の0.001%くらいしかいないだろう。

山犬に育てられた娘サンにしても、普通の女子がこの子に感情移入できるはずもない。

脇役のエボシ、ジコ坊にしても設定がややこしすぎて、こんな人たちの行動や思考をすんなり理解できるはずがない。

なんかよくわからない、破綻した話のように見えるのだが、しかし何度も見ているうちにこれらの人物やシナリオがすべてすっきりと説明できるように作られていて、おもしろいのである。だけどもののけ姫のほうが千と千尋より面白いと思う人は少ないだろう。

ラストも、あの時首をダイダラボッチに返していなければみんな死んでいたはずだが、ジコ坊はそのことに気づいていたかどうかはともかく、首をアシタカに手渡し、アシタカとサンは、まるでラピュタのパズーとシータのように二人でその首を差し出してダイダラボッチに返す。生と死をつかさどるダイダラボッチ(シシ神)が死んだことによってみな死なずに済み、アシタカの呪いも解ける。シシ神がいなくなることでタタリ神も存在しなくなり、呪いもなくなる。すべては丸く収まって(少なくとも人間にとっては)、ジコ坊もエボシもその結末に納得せざるを得ない。

そして天朝様にしても、不老不死の薬シシ神の首が欲しかったというよりは、シシ神という生死を操る制御不能な存在を地上から抹消し、人々が安心して住める土地を作ることが、シシ神退治の本当の目的であったかもしれない。古来、天皇がやってきたことというのは、縄文時代から続くわけのわからない呪術とか怨霊といったものを人間によってコントロールできるようにし、世の中というものを合理化して説明のつくものにしていくことであったともいえる。何もかも一応説明が付くように作られている話なので、たぶんもともと根底にはそういう設定があったように思われる。

今でも人間は宗教というわけのわからないものに脳を支配される存在であるが、一方で、理性と制度によってそうしたわけのわからないものができるだけすくなくなり、最終的になくしてしまうように努力している。そうしたものをもののけ姫はテーマにしているはずだが、となると、このもののけ姫というものは、あまり宮崎駿的ではなく(つまりストーリーがややこしすぎて宮崎駿的でない。だが映像演出は随所に宮崎駿的なものが満ちている。たとえばシシ神の森はトトロの森とナウシカの腐海を足したようなものだったり、タタラ場はラピュタの鉱山に似ていたり、乙事主らイノシシは明らかにオームの焼き直しだったり、とか)、誰か宮崎監督のほかに(民俗学的なものにこだわりがある)仕掛け人というか裏方がいたのではないかと疑われるのだ(高畑勲?うーん。そうかもしれないが)。

ははあ。なるほど。梅原猛が関わっているのか。神殺し、ギルガメッシュとフンババの戦いか。梅原猛はヤマトタケルも好きだったはずだ。だから、アシタカもサンも、ジコ坊も、全然宮崎駿ごのみのキャラじゃないんだな。エボシとかタタラ場の女たちはちょっとくらいは宮崎駿好みの要素が入ってそうな気はするが。エボシはナウシカのクシャナ姫だろう。

というわけでなんだかすっきりしないわけのわからない終わり方のようにみえて、いろいろと補助線を引いてみると、実はすべてが予定調和ですっきりしているのだけど、そこに気づく人はあまりいないだろう。だから面白いのである。少なくとも私にとっては。千と千尋は誰にでもわかる面白さだが、もののけはわかる人にしかわからない面白さだから、それに気づいた自分えらいとなる。

要するにもののけ姫は宮崎駿以外の梅原猛とか糸井重里とかいろんな人がいろんな形でかかわってきたからあんななんだかカオスなものになってしまった。ジブリとしては初めてCGも採り入れたりして、いろんな模索をしてたんだと思う。でもよく分析してみると一本筋のとおったコンセプトがあってそれでかろうじて破綻してない。もののけ姫で宮崎駿監督はほんとは何を言いたかったのか、また、鈴木敏夫プロデューサーは何をやりたかったのか、というよりも、ジブリは当時制御不能な状態にあってああいうものができてしまった、というのが実情だろうね。

そんで、なんだかんだあって、もののけ姫の反省から結局宮崎駿の個性で作品全体をまとめるしかないねみたいなコンセンサスというか諦めのようなものがジブリの中にできあがって、それで千と千尋ができたのだろう。ジブリはほんとうはもっと早く宮崎駿とか高畑勲の「個性」から脱して、もっとニュートラルな、属人的ではないアニメーションスタジオになろうとしていたのだけど、結局それは失敗したようだね。

もののけ姫で迷走し、千と千尋で当たってしまい、五郎にまかせてみてコケた。もうどうしようもないね。もののけ姫の段階でもっと試行錯誤しておくべきだったんだよなほんとは。そしたら何か新しい突破口が見つかったかもしれないのに。ジブリは個人経営のまま終わるしかないのか。

もののけ姫とまったく同じ理由でテキサスレンジャーの主人公の立場を理解でき、すんなり感情移入できる人はほとんどいるまい。ケビン・コスナー演じる主人公と同じ境遇の人なんてこの世に滅多にいるわけないのである。いるとしたら、そうだな、いろんないやな仕事をやらされてきたが定年まぢかでそろそろ楽になろうとしたときにいきなりやっかいな役職を任された人くらいで、私の今の立場に似ていなくもないが、そんな人は世の中にはほとんどいないはずだ。こういう映画をわざわざ作るというのはどういうつもりなのだろう。

ケビン・コスナーはアンタッチャブルでも嫌われ者の警官役だった。

テキサスレンジャーというのももともとは正義のヒーローであると同時に人権を無視してネイティブアメリカンやメキシコ人を虐殺した鼻もちならないアングロサクソン人だった。

アンタッチャブルを元ネタに俺たちに明日はないの主役をひっくりかえしてこのテキサスレンジャーという映画が作られたわけだが、やはり、なぜ誰がこの映画を作ろうと思ったのか、だれがこれを喜んで見るのかがよくわからない。そういうひねくれた映画だから私にとっては非常に面白いのだろうなと思う。

ホームランドも設定がややこしすぎるドラマの一つだろう。

ブラックリストは、設定はややこしいといえばややこしいが、ぱっと見はただのFBIのアクションものなので、そこがホームランドとは違う。ホームランドはたぶん、911で芽生えたアメリカ人の「良心」「内省」というものが作らせたある種の「懺悔」だろう。だがブラックリストは明らかに一般大衆受けを狙って作られた娯楽だ。

噛めばかむほど味が出るスルメみたいな映画というのがつまり私には面白いわけだが、しかしそういう映画は世の中から評価されにくい。されるのに時間がかかる。見たあとに勉強してもう一度みないとわからない。たぶん一般大衆からの評判なんかどうでもよくて、そういう映画を作っても良いよといってお金を出す人がいて、そういう人が作らないような映画をどうしても作りたいという人がいて、それでこういう映画ができるんだろうなあ。

この、でっぷりとおなかがでたケビン・コスナーを見ていると、どうしても、パルプ・フィクションに出てきたジョン・トラボルタを連想する。タランティーノは一世を風靡した一発屋の、腹の出たトラボルタをわざわざ映画に使いたかったわけだ。同じいじわるさをこのテキサス・レンジャーズには感じる。タランティーノは顔がパンパンに膨らんだレオナルド・ディカプリオも使ってるよな。そういうのが好きなんだな(しかしシャッターアイランドやインセプションのほうが早いか)。

ダークモード

昨日はちと遊びすぎたので今日はおとなしく寝ようと思ったがなかなかねれない。

夜中画面が明るくなりすぎないように私はブラウザをダークモードで(常に)使っているのだが、facebook にはこのダークモードが効かない。実に眩しい(追記: facebookはダークモードにできることが判明した)。chrome 作ってる google からして gmail がダークモードが効かない(追記: gmail もダークモードにできることが判明した)。さらにいえば wordpress のテーマもダークモードに対応していない(ものが圧倒的に多い?)。twitter はしかしダークモードに対応している。素晴らしい。

ここのブログの過去記事を少しずつ読んでいて、面白いものもあるが、つまらないものもある。特に政治とマスコミの話がつまらない。そういうのを見つけては非公開にしている。20年以上前に書いたものを読んでいると、今の自分とは全然違っていて面白い。

常にイライラしているのはやはり仕事のせいだ。今の仕事を始めたのは36才からだから、もう23年もやっているわけだ。途中勤務地が変わったりもしたが、同じことをずっとやり続けることが私には苦痛だ。だがいまさら転職するわけにもいかない。あと6年半、この仕事をやらなくてはならない。まあしかし私も59才だ。6年半という時間は無限に長いものではなく、実はとても短くて、あっという間にすぎるということも十分知っている。

どこか引っ越しするというのもありかも知れない。金がかかるがしかたない。たぶん楽しいだろうと思う。でもそれも数年前に2年半ほど試したばかりだ。1度やって効果のほどはしれたことを2度やる意味も少ない。

とにかくもう身動きのとれない状態にある。

ubuntu の X11 は突然おかしくなってしまうことがある。一度logoutすると治る。

mozc の句読点変換は邪魔だ。私にとって、句読点をうった時点で変換されるのは早すぎる。句読点まで書いて、しばらく考えてから変換したい。

能の式楽化

能楽の本を読んでいると、能楽は徳川幕府によって式楽となった、という記述がよくみられる。

式楽というものはもともとは大和朝廷が飛鳥奈良時代に制定した雅楽のことであった。しかし雅楽は朝廷や公家が権威を独占していて、なかなか武家の自由にならない。しかしながら能楽は足利義満以降に室町幕府がパトロンとなって興した芸能であったから、公家にはなんの遠慮も気兼ねもなく、武家が好きにいじりたおすことができた。これはちょうど、和歌というものが公家にその権威を握られていたので、武家は和歌を敬遠し、もっぱら漢詩が流行したのに似ている。

徳川幕府は能楽を、将軍宣下や勅使応接などの公の式典の場において上演される芸能として洗練させなくてはならなかった。それらは上方の寺社などに伝承された舞楽に負けぬほどのおごそかでお上品で、気高く尊いものでなくてはならなかった。見て面白いかどうかなんてことはもうそっちのけにされてしまった。

武家屋敷の屏風絵が狩野派の画家によって描かれるようになったのと同様だ。狩野派というのは要するに足利将軍家の御用絵師になったからあれほど武家で珍重されたのだ。茶道もまた武家由来の儀礼として重宝された。いずれも公家に対抗して武家が権威付けするためにもてはやされたのであり、芸能そのものが優れていたからではない。そんなことはありえない。もし良い芸能を育てたければ民間活力に委ね、政府が助成したりしないほうが良いに決まってる。政府が金を出して良いのは一部のほんとに絶滅危惧種的な伝統芸能くらいであろう。

現代の日本文化は室町、安土桃山時代に作られたとよく言われるが、要するに、それまでの宮中・公家文化を煙たがった徳川幕府が、室町幕府や、秀吉や家康らが愛好した芸能を式楽化して、武家の文化芸能として世の中に定着させた、というに過ぎない。そういう由来であるから、その源流、その権威の厳選が、世阿弥とか千利休のような、室町、安土桃山時代の宗匠に求められるようになった。また評価や選別も幕府がやったのだから、モノの良し悪しがほんとにわかるはずもなかった。

実を言えば和歌もまた、尊氏は和歌が大好きだったが、しかし家康は和歌が大嫌いだったらしく、足利将軍家が興した芸能の中で和歌だけは式楽化の対象から完全に外してしまった。家康が嫌ったというより家光や家綱が和歌になんの興味もなかったせいかもしれない。

江戸時代というものは、室町・安土桃山の人間味や活気を遺した元禄文化が最高潮であって、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、そして尾形光琳らによって代表される。元禄以後、徳川幕府による封建主義や思想・芸術弾圧が強まり、芸能も堅苦しくなっていってダメになってしまった。将軍が食べる料理はすべて脂身が抜け落ちるまで焼いて煮てあってうまくもなんともなかった、能楽もまた、目黒のさんまにあるように、徹底的に脂っ気も内臓も皮も削ぎ落とされて、米も精製した白米しか食べないようになって、そのせいで逆に将軍は脚気やなんかの病気にかかって短命で死んだ。いわゆる江戸病だ。

江戸時代における文化の衰退は幕末まで続いて、維新後、明治時代になってようやく新しい文化芸能が現れた、などと雑に評する現代の評論家たちが言っているのはつまり徳川幕府による武家に由来する文化芸能の式楽化のことだけを見てそう言っているのである。

実際、今の能楽が気絶するほどに退屈なのは徳川幕府による能の統制・形式化のせいにほかならない。義満や、秀吉や、家康らが見ていた能楽があんなつまらなかったはずはないと思うのである。家光・家綱の時代に幕府による能の統制が始まった。つまり能というものが、徳川幕府の専売特許にされてしまった。能もまた、公家文化のような家元制にされてしまった。画家の狩野家や大学頭の林家と同じ扱いを受けたのだ。こうなっては文化芸能は死ぬしかあるまい。

江戸時代には幕府の介入によって安泰化し、栄えているように見えて、実際には衰え死んでいった文化学問芸能がある一方で、庶民の活力によって次第に発展していった分野もあった。歌舞伎、浄瑠璃などもまた元禄に生まれたが、こちらは幕府の統制を受けることなくむしろ弾圧される側となったくらいで、町人文化という新たな、公家や武家と別の第三のカテゴリーを作って発展していった。幕府や武家によらない、町人の社会の中でだんだんと醸成されていった文化は、天保期にはすでに爛熟し、その勢いは幕末、いや、維新後にもずっと継続した。浮世絵から生まれた錦絵などは西洋の印刷術が伝来してなお進化し続けた。今日のマンガやアニメは錦絵の正統な後継者と言って良い。

そして国学もまた、徳川幕府による保護や統制を受けなかったことがむしろおおいに幸いして、驚くべき発展を遂げた。国学がもし官学化されて朱子学と混淆して武家の窮屈な教義になっていたらたいへんなことになっていた。そうなる可能性は、ちょっと頭のおかしな為政者がいたとしたら、実際十分にあったのである。荷田春満は明らかに国学を幕府の官学にしたがっていた。国学をもっと堅苦しい道徳に縛られた学問にしようとしていた形跡がある。賀茂真淵もますらをぶりなどと言ってちょっと怪しかった。田安宗武には実際かなり危険な傾向があったし、宣長の死後にはおかしな神道家や、神道系新興宗教や、明治の国粋主義者たちがワラワラ出てきた。国学はあっという間に偏向した危険思想になりかねないのである(宗教というものはすべてそうだが)。宣長はよく踏みとどまって後世に範を垂れてくれたと思う(宣長にもやり過ぎがあったことは否めないが)。それ以前にも、仏教と儒教と神道を際限なく混同した本地垂迹説や、山崎闇斎の頭のおかしな垂加神道なんかがいくらでもあった。東照宮なんて明らかに頭がおかしいし、あんなものを正統な神道と混同されては迷惑だ。

もちろん徳川宗家は賀茂真淵を重く用いたし、尾張や紀州の徳川家は本居宣長を崇拝すらしていたのだが、武家はやはり、公家のしばりを受けない漢学をどうしても根本教義としないわけにはいかず、下手に国学や和学なんぞに色気を出すわけにはいかず、したがって官学は朱子学のままであったし、朱子学と和学は水と油だから、結局、国学が幕藩体制の皮下組織まで浸透していくことはなかった。江戸時代に哲人政治家と言えたのは新井白石と松平定信の二人しかいなかったが(もう一人、荻生徂徠を加えても良いけれども)、その定信にできたことは、宣長の思想を密かに幕政に採用して、大政委任論を天下に公布したことくらいであった。薩長が国学を武器にして尊皇攘夷、倒幕の原動力としたのは必然と言えた。薩長は定信の大政委任論を大政奉還論に読み替えたのだったが、これとても徳川慶喜は反対したわけではなく、むしろ積極的に公武合体論の一部に組み込んで推進しようとしたのである。

和歌は国学によって再構築された。もし和歌が単に公家の専有物であったら、和歌は江戸時代に死滅していたに違いない。和歌とは別に町人は狂歌を愛好した。国学と狂歌の流行が合わさって、和歌は息を吹き返し、純化した。その最高峰はやはり香川景樹であったと言わねばならない。景樹によって何をもって「和歌の理想」とすべきかということが、やっとほのかに見えかかってきた。和歌には時代を超越した大和言葉という言語の普遍性(古典語、文語としての厳格さ、完成度)と、大和言葉によって表現されるポエジー(本来、話し言葉がもつところの叙情性、人間性、あるいは芸術性とでもいおうか)が必要なのである。

ところが、景樹の後継者、桂園派には二度と影響力のある歌人は現れなかったし、歌論の体系化も進まなかった。桂園派の歌人として最後の光輝を放ったのはやはり明治天皇と樋口一葉、わずかにこの二人しかいなかった。和歌とは何かということは結局うやむやになってしまった。

私が言いたかったのはつまり、(岡本太郎や渡辺昇一のように)江戸文化は元禄が最高でそれ以後二百年続いた封建制によって真綿に首を締められるように徐々に窒息したという見方は間違いだし、逆に江戸文化は素朴な元禄時代からだんだんに発展して天保で絶頂に達したというのも一面的な見方であるし、禁中並公家諸法度に守られた公家文化はどうしようもなく衰亡していったし、実際には公家、武家、そして町人文化が三つ巴になって絡まり合い交差し逆転しながら、江戸時代260年間をかけて確実に進歩していったということだ。その下ごしらえがなければ明治の文学などというものはあり得なかった。

思うに能楽は、綱吉や家宣くらいまでは面白かったのではなかろうか。しかし家継で家光の直系が絶えて、紀州の吉宗が江戸に入府して、吉宗以降の徳川将軍家はおそらく、「武家の式楽」としての能に存在理由は見出していたかもしれないが、もはや娯楽としての興味を喪失していたのではないか。能楽は幕府に守られたまま、どちらにその芸術性を伸ばし膨らませていけば良いかわからず、ただ宗匠の教えを墨守するだけとなって、生木の潤いを失い、急速に枯れた老木と化していきそれが、今日の能楽があれほど退屈なものになった理由ではないかと思うのだ。

茶道もそうだろう。信長や秀吉のころの茶の湯はもっとおもしろおかしいものだったはずだ。それが式楽化して、小笠原流などというものがでてきて、上流階級の作法、結婚前のご令嬢のお稽古ごととなって、死ぬほど退屈でつまらなくなった。

狩野派の絵にしてもそうだ。岡本太郎は狩野派の絵が嫌いすぎて洋画をやり始めた。狩野派の絵はつまらない。尾形光琳や俵屋宗達なんかの江戸初期の画家の絵と比べたら。その点については岡本太郎に完全に同意する。

とはいえ、式楽化によって能が死ぬほど退屈になったのはほぼ間違いないと思うが、もとの、退屈になる前の能を推定し復元することは不可能ではないと思うし、また、退屈になったことにはなにかの必然性はあったのだろうし、退屈ならば退屈でその中に面白さを感じることも不可能ではないと思う。少なくとも勉強してみる価値はあると私は思っている。生木には生木の、枯れ木には枯れ木の面白さがあろうというものだ。寺院建築や仏像も昔の彩色を復元することはそんなに難しいことではあるまい。そうしたくない、ふるぼけた骨董趣味を愛好する人がたくさんいるだけのことだろう。

つまり、普通に一般人が見れば退屈だけども、その退屈になった歴史的経緯や必然性を知識として理解していれば、かつての本来の姿を想像して、楽しむ方法はあると思うのである。たとえば、たとえとして適当がどうかはともかく、ピカソの絵は全然おもしろくないしうまいと思えないが、ピカソがなぜあの絵を描かなくてはならなかったという理由を知れば、多少はおもしろく見ることができるかもしれない。小笠原流にしても、興味ない人にはなんの価値もない、酒なんて立ち呑みで十分、懐石料理じゃ窮屈で飯を食った気にもならんという人でも、そうした作法も理屈として理解はできるかもしれないとは思う。理解はしても良いが、抹茶の最後のひとすすりをずずっと音をたてて飲むなどいう作法につきあわされるのはまっぴらごめんだ。

なんで私がそんなことを偉そうに言えるかというとまったく同じことが和歌でも起きているからだ。というか有史以来、日本の文化芸能で起きてきたすべての現象は、なによりもまず先に和歌で起き、和歌で見られた現象が、後からでてきた文化芸能でもみな同じような形で繰り返されるのだ。歴史は繰り返すってやつだ。

最初は単純素朴な娯楽、遊びだった。だんだんみんなが技巧を凝らすようになる。上流階級の目に止まって詩歌管弦の風流なもてあそびものにされたりもするし、身分は低いが面白い和歌を詠む人も出てくる。そうした地下歌人を発掘して洗練させる職業歌人で出てきて、教育したり、教材として整理したり、布教したりするようになる。世襲制度をたちあげて家元になりそれを飯の種にする人がいる。さらにそれを式楽化して、面白さなんてそっちのけでやたらとおごそかでお上品で、気高く尊いものにしてしまう人もいる。それを破って新しい歌を詠む人もいる。それらがもう、古いものから新しいものまで、公家も武家も、天皇も庶民も、みんなごっちゃになっているのが和歌なのだ。私はそういうものを一つ一つ見分けてきた。ちゃんと調べれば能楽でも同じことはできるに違いないと思う。

だから、日本芸能はなんでも、とにかくまず、最も古い和歌を学ばないことには何もわからない。国学が和歌を重視するのもそのためだ。

追記: どうも google が長い文章のほうを好んで検索結果の上位にもってくるというのは本当らしい。この文章が読まれている理由もそれではないか。あるいは、単体としてはそんなに長い文章ではないが、過去記事などにリンクがあってそっちもそこそこ長い文章などが好まれるのではないか。

はたからみてわかりにくい孤独

創作活動の孤独というものを書いてその続きのようなものだが。

「山月記」を読めなかった男が1年半ぶりにもう一度読む日。非常に良い記事だと思うのだが、隴西の李徴という人は、誰がみてもそれとわかるような、本当に孤独な詩人であったが、こういう天涯孤独な詩人というものは案外少ないのではないかと私は思っている。

実際には、中島敦自身もそうであったかもしれないが、仕事もあり、妻子もいて、友人もいて、一見全然孤独にはみえなくても、自分の作品が理解されなくて、深い孤独を感じている人は多いと思うのである。

つまり何が言いたいかといえば、隴西の李徴という人ははたからみてわかりやすい孤独な人であるが、はたからみてわかりにくい孤独な人もたくさんいると思うのだ。

もちろん世の中には、友人が少なく、結婚もせず、結婚式にも呼ばれない、そういう、人間関係における孤独な人も少なくはないのだろうけど(そうした人たちは家族ができ友人ができれば孤独ではなくなるのだろうか?)、作家が感じる孤独というものは、また別のものではないかと思うのだ。

本居宣長も、『本居宣長』を執筆していた晩年の小林秀雄も、そうした意味の、はたからみてわかりにくい孤独な人だったと思うのだ。宣長にしても小林秀雄にしても、功成り名を遂げた人で、弟子も多く、家族もいた人だから、普通は孤独なはずなどないと人は思うかもしれないし、一方では、いや、彼らの孤独はよく理解できるという人も少なからずいるのではないかと思う。

ともかく、隴西の李徴という人は、私生活においても、仕事においても、そして作家活動においても、何から何まで、極めてわかりやすい孤独な人だったわけであり、そこが逆に、孤独とはなんだろうということをわかりにくくしている気がする。

己は努めて人との交わりを避けた。

と李徴は言っているけれども、少なくとも私は、人との交わりを避けようと思ったことはない。多少臆病になって人に見てもらうことを躊躇することはあっても、どちらかといえば、新人賞に応募したりなどして、人に積極的に評価してもらおうとするほうだった。だがあまりにも、自分と同じことを志す人が少なくて、交流することが不可能だった、例えば歌を詠みかわすことすらできなかった、というのが実際だった。そのあたりがやはり李徴に感情移入できないところだ。中島敦自身はどうだったのだろう。李徴に近い性格の人だったとは思えない。誰か李徴に近い性格の人を知っていた、あるいは、自分のなかに若干そうした傾向があることに気付いていた、その部分を切り出し脚色した、くらいだろうか。

私が今度出す本もはたからみてわかりにくい孤独な詩人の話である。思えば私が孤独ということについてここまで熱く語ったのは初めてのことではないか。というのは私自身、孤独ということをあまり気にしない性格であったから。少なくとも孤独そのものを恐れたり避けたりする人間ではなかった。むしろ孤独を楽しむほうだったと思う。年をとってそろそろこの世を去るというときになっていまだにいつまでたっても自分の仕事が理解されることがなくて、それで孤独というか焦りというか迷いを感じ始めたのだろう。だがそれも単に老人の孤独というものとは内容が異なるように思う。

そういえばこの空谷に吼えるというのも私が書いたものであったはずである。「黄色い犬」というのは当時 yellow dog linux という、PowerMac とか初代 PS3 で動いてた Linux のこと。2006年ということは41才くらいかー。

土蜘蛛

土蜘蛛という能は安土桃山時代に初めて演目に現れたというから能楽の中でそんなに古いものではない。神楽や歌舞伎にもあるから、どうやら、安土桃山から江戸初期にかけて、民衆芸能として、つまり僧侶や公家とは関係のないところから、急に流行り出したもののように見える。

また、手から蜘蛛の糸を投げるという演出はもっと遅くて明治時代になって加わったものであるという。私たちが能楽としてありがたがっている土蜘蛛は、実は案外歴史の浅いものなのだ。そして多くの能楽とは違い、その見た目の派手さで人気があるのだろう。

しかしながら、土蜘蛛とは本来、大和朝廷にまつろわぬ、稲作も行わない山岳民族で、縄文人の子孫、サンカのようなものであるとも考えられていて、もしかするとそうした山伏の山岳信仰やサンカにおいて、伝承されてきたものであったかもしれない。

さらに想像を働かせるならば、もともとは、土蜘蛛が大和朝廷から派遣されてきた武士を返り討ちにする舞曲であったかもしれない。

しかしながら一方で、この土蜘蛛という話は、日本古来の説話というよりも、ギルガメッシュ叙事詩における都市神ギルガメッシュと山岳神フンババの戦いと、ほぼ同じ性格のものであるようにも見える。もっと言えば、土蜘蛛は遠く西アジアから日本に伝わったギルガメッシュ伝説なのかもしれない。桃太郎ももとはと言えば西アジアに由来する英雄流浪譚であるように。桃太郎もまた室町末期に成立したと言われているから、もしかすると日本に渡来したキリシタンから伝わった話なのかもしれない。

鬼坊主の女

私は「鬼平犯科帳」は池波正太郎の原作を、流し読みではあるが一応全巻読んでいて、さいとうたかをのマンガも機会があれば読むようにしているのだが、そのマンガに「鬼坊主の女」というものがあった。原作には見覚えのない話なので(和歌が題材になる話を私が見落とすわけがない)、さいとうたかをのオリジナルかと思ったのだが、調べてみると、もとは「鬼平犯科帳」とは直接関係ない「にっぽん怪盗伝」という、池波正太郎の短編集があり、その中に収録されていたものらしい。「にっぽん怪盗伝」は audible にあったので聞いてみた。

ウィキペディアの鬼坊主清吉によれば、鬼坊主と呼ばれた盗賊は実在していて、獄門にかけられたときに辞世の歌

武蔵野に 名もはびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに かくてしをるる

を詠んだという。これは和歌としてみて、まずまずの出来だと思う。意味も明確だ。1805年6月27日のことだというから、長谷川平蔵は既に死に、松平定信も老中を退いている。旧暦文化2年6月27日をグレゴリオ暦に変換すると1805年7月23日となるから、夏の暑い盛りだったことになる。オニアザミが咲くのは6月から9月。

この話は落語『鬼あざみ』になっていて、その中では

武蔵野に はびこるほどの 鬼あざみ 今日の暑さに 枝葉しおるる

となっている。池波正太郎はこの落語を元ネタにして、「鬼坊主の女」を書いたらしい。

盗賊の頭、鬼坊主は捕らえられたが、子分に命じて、先に盗んで隠しておいた金を使って、辞世の歌を代作してもらって、それを獄門のときに詠じて、役人を驚かせたということにしたのである。この「鬼坊主の女」では辞世の歌は

武蔵野に 名ははびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに 少し萎れる

となっている。これを鬼平犯科帳ものに最初に仕立て直したのはテレビドラマで、1970年5月19日放送の「鬼坊主の花」であったという。さらに1993年に再度「鬼坊主の女」としてドラマ化され、2003年にはさいとうたかをによってマンガ化されたらしい。

このマンガでは鬼坊主と一緒に磔にされた手下二人も代作の歌を詠み、しかもこの歌を代作したのが長谷川平蔵やら木村忠吾であったことになっている。

武蔵野に 名を轟かせし 鬼太鼓 罰は受けれど 音のさやけき
商売の 悪も左官の 粂なれば 小手は離れぬ 今日の旅立ち
浄瑠璃の 鏡に映る 入れ墨に 吉の噂も 天下いちめん

こうなってくるともう和歌ではない。狂歌としても、あまり良い出来とはいえない。池波正太郎の原作まではなんとか和歌らしい様式と体裁を保っていたが、おそらく和歌というものの良し悪しのわからぬ人の手によって、テレビドラマ化、マンガ化する段階で誰かが適当におもしろおかしく改作したのだろう。

こうして並べてみると、やはり鬼あざみ清吉本人が詠んだ歌が一番優れているように見えるのだが、あまりに出来過ぎているので、人から人に言い伝えられるうちに上品に洗練されていったのではないかと思われる。あるいは、歌の内容からして、本人が詠んだというよりは、獄門にされた清吉を見た誰かが詠んだ歌にも見える。やはり無学文盲な盗賊がいきなりこのレベルの和歌を詠むということはちょっと考えにくい。ちょうど大田南畝が蜀山人の号を使い始めた頃に当たるから、彼が詠んだとしてもおかしくはない。大田南畝はれっきとした幕臣なので、彼が盗賊に同情的ともとれる歌を詠んではまずいので、盗賊本人が辞世で詠んだ、ということにした、としたらなかなかおもしろいかもしれん。

また、しょせんテレビドラマやマンガを見る人、或いは作る人々には、和歌のよしあしなどわからないのだなという気にもなる。盗賊が辞世にまずい狂歌を詠んだという演出にはおあつらえかもしれんが。