fallout (TV series)

fallout をうまく紹介している、fallout ファンにとっても楽しめるドラマにはなっているので、一応成功しているんじゃなかろうか。主人公の Lucy MacLean 役、あとグール役もまあまあ。

fallout をまったく知らない人にとってはどうなのだろうか。ただそういう人まで巻き込んで面白がらせようという壮大な野望で作られたものではもともとないのだろう。

ぐちゃぐちゃしたスラム街の描写は良い。一気に最後まで楽しく見れたのは良いのだが、世界観というかSF考証には少し疑問が残る。特に低温核融合。なんかの起動装置を科学者の首に埋め込んでその争奪戦になるという。結局それだけの話なんだけど、その起動装置に必然性がまったく感じられない。低温核融合装置作りましたで何がいけないのか、なぜ特殊な起動装置が必要なのか、その開発者がなぜ Vault を襲わなくてはならないのか(Raiderである必然性が感じられない)、なぜ Lucy の父はあのような判断をしたのか、なんで Vault で新興宗教が流行ってるのかなどなど、すべての設定に無理があるように感じる。

なんというかもう少し、New California Republic の話で盛り上がれはいいんじゃね、とも思ったが、まあいいや。

木枯し紋次郎

菅原文太の木枯し紋次郎を昔見て面白いなと思って、prime video にあったのでまた見てみた。二度見たせいもあるんだが、最初の15分と最後の10分だけみればわかる、わかりやすい構成の映画だ。菅原文太の股旅物として初見でじっくり見るとそれなりに面白いと思う。最初の仁義を切るところも、昭和残侠伝に並ぶ名シーンだと思う。

島流しにあった罪人に対する扱いがひどすぎるのが少し気になった。鬼平犯科帳なんかみていると、罪人に対する扱いも、一人ひとり違っていて丁寧に描き分けられているのに対して、この作品ではただ一律に厳しく扱っていて、幕府とか任侠に対する設定が雑すぎて、戦後民主主義的偏見を感じる。罪人とか流人に対する扱いとか、江戸時代の奉行というものについてもう少し時代考証してほしい。人民はただ抑圧されていたとか虐げられていたという、ただそれだけの前提で話を作られては、納得できないし、見ていていやになる。

あと紋次郎が強すぎる。敵が何人いても一人で全部斬ってしまう。これがリアリティをそいでいる。その点やはり鬼平犯科帳は良い。強敵がいたり、ライバルがいたりしてほしい。結局紋次郎が勝つんだろという、ただ爽快感だけ求める人には良いのかもしれないが、簡単すぎてつまらない。

「あっしには関わり合いのないことでござんす」という名台詞を最後に一回だけ使わせるという演出はストイックで良い。

一宿一飯の恩義で、魚の骨を紙に包んで懐にしまっていたのは、あれはどういう意味があってのことなのだろうか。箱膳ではそうするものなのか。

渡世人が旅先でその土地を仕切る親分の元に世話になる(草鞋を脱ぐ)場合、幾つもの厳しい掟を守らねばならず、その中には「出された食事は完食する」というものもあるのです。そしてどうしても食べられない魚の骨などはああやって懐紙に包んで懐にいれることになっているのです。

博徒の食事作法。渡世人に食事を提供する側はご飯二膳の提供が作法になっており、客人は出されたものを残してはならないのも作法。おかずに魚が出た場合は、骨や尾は懐紙に包んで懐に入れ、大盛りの二膳飯を食べきれない人は一膳目の中央部分だけを食べておかわりを願い出るのが作法と言われている。

Yahoo知恵袋に書かれたものの引用。

確かに私が小学生の頃には給食は完食しなきゃならないという掟のようなものがあったが、あれも渡世の掟のようなものだったのか。


追記: gemini の回答。

股旅物や任侠映画などで描かれる江戸時代の渡世人(やくざ・旅からす)の食事作法で、「出されたお膳に一切のゴミを残さない(完食する)」という美学と掟から来ています。

主な意味と背景

  • 「完食」の意思表示:世話になる親分(家主)から提供された食事に対し、感謝を示して綺麗に平らげるのが礼儀とされました。魚の骨や尾ひれなど、どうしても食べられない残骸も含めて持ち帰ることで、「残さずすべて戴きました」という敬意を表します。
  • 相手に後始末の手間をかけさせない:一宿一飯の恩義を受ける立場(居候や客)として、膳の上に汚い食べ残しを散らかさず、片付ける側に余計なゴミ捨ての手間を取らせないための配慮です。
  • 命を無駄にしない精神:日本の伝統的な食文化(懐石料理などのマナー)にも共通する「食べ物の命を尊び、無駄を出さない」という思想が根底にあります。

懐紙に包んで懐(ふ懐)に収めた骨は、後で外に出た際に目立たない場所(川や草むらなど)にそっと捨てるのが一連の所作とされています。

ゴジラ-1

なんなんだろうか。自分にはまったく面白くなかった。ゴジラが口からなんか吐くのにいちいち背中のトゲが立っていくあの演出も、ただイライラするだけで面白くない。破壊シーンが面白いというが、は?何が、としか思えない。

雪風と震電。嫌いじゃないはずなのになんかおもしろくない。既視感のせいかもしれない。こだわりのツボが違うのかも。メカに対して求めているものが自分となんか違う。うまく説明できないが。永遠のゼロとか海賊と呼ばれた男なんかをちらっとみてつまんね、と思ってやめた感じと同じ。同じ監督だからそうなのだろうが、ともかく監督と波長が全然シンクロしない。この監督が面白いと思うものを私がことごとく面白いと感じないせいだと思う。

俳優が面白くない。一人として面白いと思えなかった。ものすごく無個性に見えた。演技が下手だと言いたいのではない。たぶんうまいのだろう。しかし役を演じているだけの、ただの記号のようだった。全員が脇役というか、ゴジラですらそうで、淡々とストーリーが進んでいくだけに見えた。

日本でも、世界的にも割と評価高かったこの映画が、自分としては全然面白く感じないのが不思議で仕方ない。もしかしたらゴジラとかガメラとか怪獣映画に対して不感症になっているのかもれない。世の中でウルトラマンとか仮面ライダーなんかが流行ればはやるほど自分の中では嫌いになっていく。マイナーなものを面白いと思い、みなが好きなメジャーな作品を嫌うという傾向はある。メジャーになっていけばいくほど特有の臭気を放つようになる。これだけの手間ひまと人と金をかけたのでこういうものができました、と言われている気がする。意外性が無い。インプレゾンビ的な、世の中に媚びているような作品になっていくような気がするのである。

じゃあおまえは監督が好き勝手に作ったマイナー映画が好きなのかといわれても困る。たぶん嫌いだ。

タランティーノ監督はわりとすきだ。レザヴォアドッグとかパルプフィクションとか、最初はなんとも思わなかったが何度かみているうちに好きになっていく。たぶんシナリオが凝ってるからだろう。見るたびになにかの気付きがある。で、ゴジラ-1 のストーリーはシンプルすぎる。なんかひねりあったかな。最後に船がいっぱい集まってきてゴジラを引き上げて、戦闘機が特攻するの。あれ、面白いか?永遠のゼロと海賊と呼ばれた男の組み合わせだよな?

たぶん私は、コロンボとかホームランドとか、目を離した隙にストーリーが負えなくなるくらい展開が読めない話が好きなんだと思う。展開がある程度読めたとたんにつまらないと感じるんだと思う。凝った戦闘シーンとかたぶん飛ばしたいタイプで、そんなのCGとかAIで自動生成できるだろとしか思えない。ハリーポッターとかスターウォーズもそう。レースシーンのSFXとか何の興味もないしハラハラドキドキしない。

Deep Red (サスペリア2) とかSource Code (ミッション8ミニッツ)も好きだな。やっぱ、作品そのものとか、作品のコンセプトが好きとかじゃないんだよ。特に特定のシリーズものだからとか、あるジャンルだから好きとかじゃないんだよ。なんかしら新しいものがみたいだけなんだな。今までなかった要素が少しでもあればよい。今までどこかでみたような要素をうまくまとめた作品は退屈なだけ。ストーリーと役者の演技、そして監督の演出が好きなんだと思う。というか、面白いと思うことが監督と一緒じゃないと面白いと思えないんだと思う。共感がない。単に娯楽作品として楽しめるように作られている作品だから楽しめるんじゃないんだよ。そういうものをみたいんじゃないんだ。


追記。まず主人公の名が敷島というのが気に入らない。私にはネトウヨ映画(というか、ネトウヨをターゲットとして、ネトウヨ心をくすぐって受けを狙っている映画)にしか見えない。

リアリズムとファンタジー

鴬(うぐひす)の 涙(なみだ)の雨(あめ)も 紅(くれなゐ)に 落(お)ち添(そ)ふ梅(うめ)の 花(はな)の下露(したつゆ)

見(み)しやいつ 咲(さ)き散(ち)る花(はな)の 春(はる)の夢(ゆめ) 覚(さ)むるともなく 夏(なつ)はきにけり

賑(にぎ)はへる 民(たみ)の家(いへ)居(ゐ)を 空(そら)に見(み)て 煙(けむり)の上(うへ)に 月(つき)や澄(す)むらむ

定(さだ)めなく しぐるる空(そら)は 世(よ)の中(なか)の 人(ひと)の心(こころ)や 雲(くも)となりけむ

これら正徹の秀歌はどれも絵画的で浪漫的だ。紅梅に春雨が降り、鴬もまた紅涙(可憐な女性の涙)を流しているように見える。技巧は凝らしているが、曖昧さはない、くっきりと鮮明な、意図のはっきりした素直な歌だ。

リアリズムとファンタジー。必ずしも相容れぬものでもない。少なくとも創作の世界に完全なリアリズムもなければ完全なファンタジーもない。高畑勲はどちらかといえばリアリズムをエンタメ化するためにファンタジー要素を加味する人だ。一方、宮崎駿は空想の産物に生々しい血肉を与えるためリアリズムの力を借りる人だ。では正徹はどちらかと言えば、明らかに高畑勲側の人だったと思える。

歌はごまかしが効かない。詠む人の心根がそのまま出てしまう。歌を飾り取り繕おうとすればそれは詞のぎこちなさやつながりの悪さ、気持ち悪さとなって歌を損なってしまう。だから嘘をつこうとしてもすぐにバレる。

正徹は夢の歌ばかり五百首ほど詠んでいて、中には良いものもある。「見しやいつ」「春の夢覚むるともなく夏は来にけり」「人の心や雲となりけむ」と来るところなどなかなか良い。独特の風情、余情がある。

おじさんはなぜぶつかってくるのか

普通の電車の普通の座席に詰めて座っていると腰が痛くなってくる。他人と体が接触していると無意識のうちに気を使い体に力が入るので、それが腰に来るのだ。だいたい15分以上そうした状態が続くと後でずっと腰痛が残って、電車で座れる以上に疲弊するので、途中で立つようにしている。

おじさんはなぜぶつかってくるのか、という話があるが、今日ぶつかってるおじさんを目撃した。おじさんは怒っているのだ。ぼーっと歩いている人に対して、君は間違って歩いているよ、よく周りをみて歩こうね、そこは君が歩くところじゃないよ、スマホ見ながら歩くなよ、横に広がって歩くと邪魔だよと、ぶつかることで警告しているのだ。ああいうふうに体を張って赤の他人を教育しようとしている人をみると私なんかは畏敬の念すら覚える。ああいう人がもっと増えれば世の中はもっと良くなるのではないか。私はやらないけど。

中には若い女性にぶつかりたいだけの変態おじさんもいるのかもしれない。だがどちらかといえばそういう「犯罪的」「反社会的」な「ぶつかりおじさん」は少数派であり、多くのおじさんはこのごみごみした都会に義憤を感じ義挙しているのだと思う。多くの場合、自分のだらしなさを隠すために、そういう「犯罪的ぶつかりおじさん」が時々槍玉にあがって、「ぶつかられ女子」たちの自己正当化に使われているのではないかと推測する。「なぜ私はいつも人にぶつかられるのかしら」と思っている人の多くは、なぜ自分がぶつかられるか、ふだん人混みの中で(いや、空いてる道でもそうだが)どんなに軽率な歩き方をしているか自己認識できてないだけだと思う。普段そういうぞんざいな歩き方をしている人が電動アシスト自転車なんか乗った日には今度は加害者に回ってしまうのだ。非常に恐ろしい。

普通、人は、町なかを歩くとき、自分の動線に入ってくる人を予測しながら歩いていると思う。自分と他人のどちらの動線が優先かを判断し、こちらの動線のほうが明らかに優先であれば進み、向こうが優先、もしくは、こちらが優先ではあるけれども状況的に向こうに譲ったほうが無難だなというときにはこちらが避ける。人が多く通る重要な通路の上で溜まってる人たちがいたり、逆行してくる人がいたりすると邪魔だなと思いつつも迂回する。そういう「普通でない人」が雑踏の中に1%もいればすごく目立つし、見てていらいらする。「普通の人」はそういう「普通でない人」たちにいちいちメンタルをやられないように無視しながら日常を生きている。中には自分と同じかそれ以上に動線を気にしながらしかしせかせか歩いている人に遭遇することがあり、そんなときにはどっちに回避して良いかわからずとまどうこともある(まあそれはしかし仕方ない)。

はてな匿名あたりでもよく話されていることではある。

悪いのはいつまでも工事している小田急だ。小田急という会社の性格の悪さがいろんなところに出ている。ほとんどの人はそういうところを見逃しているかまったく気にしていない。だからいつまでたっても改善されることはない。なぜさっさと首都機能移転しないのだろうか。東京は世界で一番人がたくさん住んでるとか、新宿は世界一の駅だとか、インバウンド万歳とか、何をいい気になってるんだ。馬鹿じゃなかろうか。さっさと分散させろ。

野球とかサッカーとか競馬とか、人のしのぎにいいように踊らされて、なんて人って馬鹿なのかと思う。

ネトウヨ政党

私自身は決してネトウヨ政党ができても支持することはないが、ネトウヨはある程度いても仕方ないと思っている。今の日本には左翼が多すぎて、特に全共闘世代の年寄り連中がまだ闊達に活動している現状では、対抗勢力として多少のネトウヨがいないと釣り合わない。自民党は政権与党の地位を維持するのが最優先で、あまり過激なことは言えないので、自民党以外の右翼政権というものはどうしても必要になる。

ネトウヨはアサハカだというが左翼だってアサハカなんだから別に問題ない。アサハカな人たちが支持するアサハカな政治家がある一定数いるのは民主主義では当たり前だろう。そうとはいえ、県知事を直接選挙で選ぶのはもうそろそろやめても良いのではないか。余りにもおかしな知事が多すぎだろう。まず市町村長を直接選挙で決めて、市町村長が知事を選出するとかにしてはどうか。

氏姓

氏(うぢ)は朝鮮語(ul)、モンゴル語(uru-g)、ツングース語(ur)、トルコ語(uru)などと共通で、血縁、同族という意味で、地名や職業を一族の名としたもので、おそらく古代には女系の家系を言っていたのではないか。

これに対して姓(かばね)は屍、つまり死骸を意味する大和言葉であり、天皇から下賜される政治的な名であった。明らかに氏のほうが姓よりも古い。

族(やから)は家(や)+血縁(から)の意味で、(たね)とも訓む。

漢語の氏はおそらくもとは丘という意味(岐阜の阜に同じ)であって、丘の上に村が形成されたため氏族の意味になったのだろう。族は旗と矢からなり、明らかに軍事集団のことを言うようだ。姓は最も古くて、漢民族がかつて女系社会だった頃からある宗族のこと。

漢族の社会が女系から男系に変わった時期はよくわからないが、古い姓以外に、多くの氏や族ができてきて、それらは農耕共同体であり、軍事集団でもあったから、指導者を男から男へ継承する必要が生まれた。その継承ルールから姓以外に雑多な氏族が生まれ、姓もその中に飲み込まれて、すべての氏姓、宗族が男系に転じたが、女系の頃にあったイクソガミー(外婚)制度はそのまま男系にも引き継がれたのだろう。

タルコフスキー版ソラリスの問題

ハヤカワ文庫、旧訳「ソラリスの陽のもとに」と新訳「ソラリス」を読み比べると明らかに旧訳はおかしい。Joanna Kilmartin と Steve Cox による英訳「Solaris」も読んでいる。冒頭、新訳では「私は竪穴の周りに立っている人たちの前を通りすぎ、金属製の梯子を降りてカプセルの中に入った。」というところが旧訳では「私は狭い金属の階段を降りて、カプセルの中に入った。」、英訳では「The men around the shaft stood aside to let me pass, and I climbed down into the capsule.」となっている。英訳では金属というニュアンスが落ちている。旧訳は旧訳で、だいぶはしょっている。

スタニスワフ・レムは母国語、つまりポーランド語で原作を書いたと思われるが、ロシア語ならともかくポーランド語から直接翻訳できる人がそんなにいるとは思えない。まそれはともかくとして、新訳はできるだけ原文に忠実に訳そうと努力しているような感じを受ける。

レムの原作は、ソラリス・ステーションに着陸し、ステーションの中に入り、スナウトに出会って、スナウトと会話するところまでが実に念入りに書かれている。タルコフスキー版ソラリスの大きな問題は、そこのところが極めて雑だということだ。ハリーと出会うまでの前振りとして、ここをどのくらいきちんと描写するかで、全然感じが変わってしまう。

スナウトはかなり重要な人物なのだがタルコフスキーはたぶん全然彼に関心が無かったのだろう。その点、ソダーバーク版ではケルヴィンとスノー(スナウト)の出会いと会話がかなり緻密に描かれていて好感が持てた、ような気がする。またちゃんと見直してみようと思うのだが。

タルコフスキーは単にスナウトを老いぼれた科学者という程度にしか描いていないが、ソダーバーグのスノーは若くて演技力が高い。ここの部分はソダーバーグがちゃんと原作を参照して丁寧に解釈し直していて偉い、と思う。

以前にも私は「スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。」などと書いている。タルコフスキー版ではスナウトと話している最中からいろんな怪しげな現象があちこちで起きているのだがそんなことは原作には書いてない。タルコフスキーはクリスとスナウトが延々としゃべるシーンに耐えられなく、映像で手っ取り早く表現したかったのだろうが、雰囲気を台無しにしていると思う。原作ではスナウトに会い、自分の部屋でシャワーを浴びるまでケルビンはずっと重い宇宙服を着っぱなしだったのに、タルコフスキー版では宇宙カプセルから降りたばかりのケルヴィンが普段着で皮のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというつまらない演出を入れている。SFを軽視するのも甚だしい。ちょっと許しがたい気がする。

タルコフスキー再説

タルコフスキー、特にソラリスについて、過去に何度も書いている。タルコフスキーのソラリス、ソラリス総括というのも書いている。

DVDを借りてタルコフスキー版のソラリスを見たのは冨田勲の『宇宙幻想』を聴いて知ったからだ。初めてみたのがいつ頃だったかよくわからない。1998年、私が33才の時に『僕の村は戦場だった』と『アンドレイ・ルブリョフ』を見ている。『僕の村は戦場だった』はわかりやすい、トラウマになる映画だが、『アンドレイ・ルブリョフ』は確かにつまらない。確かロシアの農村で熱気球に乗る冒険家みたいなのが出てくる話で、もっと先まで見れば面白いのかもしれないが、いまだに見れてない。『鏡』はちょっと頭だけ見てやめてしまった。『ストーカー』『ノスタルジア』『サクリファイス』などは見たことが無いと思う。今後見るかどうかもわからない。

ローラとバイオリンは、わかりやすいけど、なんかどうでも良い作品だったような気がする。

タルコフスキー版ソラリス冒頭の「バートン報告」。以前私はこれを「台詞棒読みの謎シーン」などと評しているのだけど、改めて見直すとそれほど悪い構成ではない。ただ、原作の「バートン報告」というものはああいうバートン本人の口述を録画したというものではなくて、長大で精細な報告書なのであり、それをクリスがソラリスステーションの中で読むという筋書きになっているはずだ。映画という媒体の都合上、映像で表現するためにああなってしまうのは仕方ないのかなと思う。だがあれをあの台詞だけで説明するのにはもともと無理がある。

クリスがソラリスへ旅立つ前日、クリスの父母の家に息子クリスが泊まりにくる。父母の死に目に会えるかどうかもわからない長いミッションであるらしい。池の上にしぼんだ風船が木の枝に引っかかっているのはここに子供が住んでいるということを暗示している。その子はクリスとハリーの間に生まれた娘であるらしいが、そんなことは一切説明されないし、原作にも無いことだ。母ハリーが死んだあと、父クリスが祖父母に娘を預けて田舎で育てられた、と解釈しようと思えばできる。その娘はバートンが連れてきた息子としばらく遊んでいるが、クリスがバートンを怒らせてしまい、バートンは息子を連れて帰ってしまう。その後バートンと息子が乗ったタクシーが延々と東京の首都高速を走る有名なシーンがあって、何か特別な意味があるかと注意してみてみたがよくわからん。でもタルコフスキーの映画ではただひたすら白樺林の中でくるくる回っている主観視点の映像などあるから、こういう目の回るようなシーンが好きなのかもしれない。首都高シーンの後に再びクリスの父母が住む田舎のシーンに移るから、文明と自然の対比を言いたかったのかもしれない。この田舎のシーンが非常にくどいのは最後のオチがまたこの田舎に戻ってくるから、伏線として念入りに描写したのに違いないし、昔はこういう長回しのシーンが許容されていたということもあるかもしれない。ともかくも現代から見れば不可解なほどに長い意味不明なシーンがたくさんある。

タルコフスキーとしてはソ連にああいう立体交差の高速道路があればそれを撮ったに違いないが当時も、今のロシアにもそんなものはあろうはずがない。タルコフスキーとしてはアメリカのインターステートみたいなものを撮りたかったのではないか。しかしソ連の映画監督がアメリカに撮影に行くこともできなかったろうし、また、標識が英語で書かれているのも都合が悪かっただろうから、しかたなく東京で撮影したのかもしれない。

カラーと白黒のシーンがランダムに混ぜられているように思える。モノクロにすることに何か意味(回想とか想像とか)があるのかと思って見てみたが、よくわからん。当時は映画がモノクロからカラーに移行するときに当たっていて、地の部分をモノクロで、特に派手に演出したいところだけをカラーにしたのかもしれない。

クリスがバートンから直接話を聞くという設定も、クリスがバートンに無理解なのも、映像でストーリー説明するにはこうするしかなかったような気もする。最後のオチも、原作のあっけない終わり方では映画にならないから、タルコフスキーが苦心して付け足したものかもしれない。

ソラリスステーションに到着したばかりのクリスがなんだかよくわからない東欧風かアメリカ風なのかわからない普段着を着ていて、革のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというのは奇妙だ。基地の内部も今の目で見るとあまりにも宇宙船ぽくない。というのは私たちがキューブリックの2001年宇宙の旅を見た後だからそう思うのかもしれない。

などとあれこれ考えてみるにアレは何か奇をてらったとか、余計な解釈をしたというよりも、レムのゴリゴリのSFを割と無難にタルコフスキーが映画にまとめた作品だった、と言っても良いのかもしれないなと思った。

あの映画の恐ろしさというのは、やはりハリーの登場シーンで、目を覚ますといきなりハリーが椅子に座っていて、手に持った櫛で顔をなでる。それから立ち上がり寝起きのハリーにキスする。バートンが見た幻覚を馬鹿にしていたハリーが、自らその幻覚を見るはめになった驚きと恐怖が良く表されていると思う。もちろんその後にもショッキングなシーンはいくらもあるのだが、ひっぱってひっぱってあそこでいきなりハリーを出したのはやはりインパクトを最優先した効果的な演出で、それはソダーバーグ版ソラリスとは全然違っている。ソダーバーグ版ではクリスと妻レイア(ハリーから改名)の映像が冒頭から延々と繰り返される。

wikipedia惑星ソラリスには

上記の、東宝から発売された『名作・ソビエト映画』吹替版VHSは、(中略)地球シーンが無いことなど、実は「映画版」と「小説」が乖離している部分がかなりカットされており、タルコフスキーの世界観を度外視するならば、奇しくもレムによる原作に近い仕上がりになっていると言える。

などと書かれているが、誰が書いたかしれないが、ずいぶん余計な感想だなと思う。レムとタルコフスキーが喧嘩した話なども、そりゃそれくらいの意見の相違はあったろうなとしか思えない。レムは、映像だけでストーリーを説明しなくてはならない、ちゃんと起承転結をつけて客を楽しませなくてはならない映画という媒体に対しておそらくまったく何の理解もなかったと思うし、レムの言う通りにやればそもそも映画化は不可能だっただろうと、タルコフスキーに同情したりもする。

ところで クリス・ケルヴィンはロシア語では Крис Кельвин (Kris Kelvin) と書くらしいのだが、Kris も Kelvin もロシア人の名前らしくない。彼はイギリス人という設定だったのだろうか。Sartorius はドイツ人ぽい。スナウトもなんとなく英語っぽい感じだ。Hariという名もなんだか変だ。レムは無国籍な、聞き慣れない名を使いたかったのだろうか。Henri Burton に至っては明らかにイギリス人の名だ。Gibarian もイギリス人かドイツ人の名前っぽい。

それからついでだが『宇宙幻想』は冨田勲が46才のときに作った作品だが、今からみると2001年宇宙の旅に始まり惑星ソラリスに終わる、途中にLPレコードに収まりきれるだけ曲を安直に詰め込んだ宇宙SFもののアラカルトに見える。だが当時、あんなふうにフルオーケストラの曲をそれっぽく、正弦波と三角波と矩形波とノコギリ波とノイズしか出せないアナログモジュラーシンセサイザーとデジタルシーケンサーだけで演奏したというのはおそろしくすごいことである。今ならDAWがあれば誰でもあれくらいのものは作れてしまうのだが。

『惑星』『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』はSF三部作と呼ばれているらしい。『惑星』が一番名高いらしいが私はどちらかといえば『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』のほうが好きだった。『バミューダ・トライアングル』を知らなければプロコフィエフを聴くなんてこともなかっただろう。

頓阿と後村上天皇

草庵集玉箒を読んでて思ったのだが、

一木まづ 咲きそめしより なべて世の 人の心ぞ 花になりゆく

この頓阿の歌

一木まづ 霧の絶え間に 見えそめて 風に数そふ 浦の松原

この後村上天皇の歌によく似ていないだろうか。さらに

夏草の 茂みが下の 埋もれ水 ありと知らせて 行く蛍かな

この後村上天皇の歌は

草深み 見えぬ沢辺の 埋もれ水 ありとやここに 飛ぶ蛍かな

この頓阿の歌とあまりにも似すぎてはいないだろうか。

頓阿は北朝の征夷大将軍足利尊氏の近習であり、しばしば尊氏邸の歌会に参加している。また従一位摂政関白太政大臣二条良基にも歌の師と仰がれていた。ところがどうやら頓阿は南朝の後村上天皇とも近しかった可能性が極めて高い。

後村上天皇が僧侶のなりをして頓阿という名で北朝に出入りしていた、としたらちょっと面白い話になるかもしれないが、二人の歌風はまったく異なるので、同一人物ということはあり得ないと思う。

頓阿は後深草二条、つまり『とはずがたり』の作者ともつながりがあったと私は見ているのだが、そのことについてはまた改めて書きたいと思う(最近頓阿についてだいぶ調べた。頓阿の本を一冊書けと言われればたぶん書けるだろう)。

私は「埋もれ水」とは頓阿のこと、「蛍」は後村上天皇のことを暗喩しているのではないかと思っている。つまり頓阿は南北朝間を行き来する密使だったのだ。