ルーカスがエピソード4を作る前に見ていたという『隠し砦の三悪人』を見てみた。 確かに似ていると言えば似ている。
のっぽとちびはC-3POとR2-D2で、三船敏郎(真壁六郎太)はオビワン・ケノービで、雪姫はレイア姫。 ダースベーダーは山名家の侍大将・田所兵衛。 最後の大団円も似てなくもない。
ただこの『隠し砦の三悪人』が黒沢作品の中でもあまり知られてないことからもわかるが、今見てそれほど面白いものではない。 スターウォーズとの関連を見ながら見ればなんとか楽しめるかなってとこか。
ルーカスがエピソード4を作る前に見ていたという『隠し砦の三悪人』を見てみた。 確かに似ていると言えば似ている。
のっぽとちびはC-3POとR2-D2で、三船敏郎(真壁六郎太)はオビワン・ケノービで、雪姫はレイア姫。 ダースベーダーは山名家の侍大将・田所兵衛。 最後の大団円も似てなくもない。
ただこの『隠し砦の三悪人』が黒沢作品の中でもあまり知られてないことからもわかるが、今見てそれほど面白いものではない。 スターウォーズとの関連を見ながら見ればなんとか楽しめるかなってとこか。
プライムビデオのジャックライアンを見たのでホームランドも見始めたのだが、 ジャックライアンのキャラクター設定にけっこうゆらぎがあって誰が善人で誰が悪人かってのがかなりぼかされていて、 たとえばスターウォーズなんかのキャラクター設定と比べると曖昧な感じがする。 スターウォーズだと善人がいて悪人がいて、元善人が悪人になり、改心して善人に戻るとか。 暗黒面なんてものがあるわけだから、どうしてもそういう勧善懲悪的なものになるわね。
それがジャックライアンには希薄で、ホームランドだともっとそうで、主人公も性格的に破綻してて、脇役もみんなどこか壊れてて、 そういうものが、ドラマのシリーズものだからよけいに、だらだらと演じられていくのだが、それでも見続けられるのはどこか面白いところがあるからだろう。 たぶんホームランドはフィクションの形をかりたドキュメンタリーみたいなもので、 CIAの仕事というのも、誰の判断が正しく誰が間違っているかわからない状況で試行錯誤の連続なのだろうし、 それを正義と悪、国家とテロリストという対立軸でドラマに仕立てるのは明らかに嘘なわけだ。 私たちはついこういうものを謎解き物として見てしまうのだが、謎解きや正解などはないのだ。 判断は当たることもあれば外れることもあるし、外れたからといって見る側が作者の意図に負けたということにもならないし、 まして見抜いたからと言って勝ったことにもならない。 だれかが作ったストーリーであることを拒絶しようとしているようにもみえる。現実とはまさにそうしたものだ。 テロリストとの戦いというものの実態、退役軍人の実態、そうした生のものを描こうとしてて、それがストーリーとかキャラクターの魅力以前の、 人気の秘密だろうと思う。
ジャックライアンは同じくCIA分析官とその上司というのがメインキャラで、明らかにホームランドを下敷きにしているけれども、 プライムビデオの新規顧客を獲得しようという意図がもっと前面に出ている。 ホームランドはどちらかといえばドラマとして当てようという考えよりも、作りたいものを作ろうとしたというのが先ではなかろうか。
たぶんプライムビデオのほうは、「トムクランシーのジャックライアン」というタイトルを使うことにまず金をかけているはずだ。 制作にもそうとう金がかかっている。 たとえていえば、ホームランドはタモリ倶楽部でプライムビデオのほうはブラタモリといったところか。
アメリカというのは、アラモの砦にしろパールハーバーにしろ、先に手を出させて反撃するのは正義、みたいなところがあって、 それはもとをたどればイエスの受難に行き着くのだろう。 自国民保護という名目で世界中に海兵隊を送り込み現地人を殺傷するのはイエズス会がやっていることと何も変わらない。 そういうものを反省するゼスチャーを示しつつ同じことをやりつづけている。
景山先生『不尽言』に曰く、天照大神は女体と言ふ事なれども、呉の太伯なるべしと言へる事、さもあるべき事とも思はるるなり。その上に、太伯は元、殷の世の人なれば、殷の世の人は鬼神を尚ぶ風俗なるゆゑ、殷の余風が残りて、日本には髪を尚ぶ事と見えたり。又、呉の字を付けて称する事多く、呉竹、呉服の類ひなど、かたがた符合する事もあるなり。然れどもかく言へる事を、神道者などは、これは儒者の唐贔屓から言ひ出だしたる附会の説とて甚だ嫌ふ事なり。神道者は、只、日本は神国なりとて、神と言ふものを奇怪幻妖なるもののやうに人に思はせ、日本には別に日本の道ありとて、吾が道を神妙不測にせうと拵へたるものなり。神道とて別あるべき事ならず。
しかしながら、神は即ちいにしへの聖神なれば、いかさま天照大神の聖徳、数千年の季まで人心に薫染して得去らぬと言ふは、神妙不測の事なるによって、神国と言はんもことわりと覚ゆるなれば、かの武国と言はんよりは一理ある事なり。
和歌と言ふものも、本は詩と同じ物にて、紀貫之、『古今集』の序に、「人の心を種として万の言の葉となれりけり」と言ひ、「見るもの聞くものにつけて言ひ出だせる」と言へれば、詩の本意と符号せるものなり。此の万の字、面白し。人情は善悪曲直、千端万緒なるものなれば、人の心の種の内に発生の気の鬱したるが、見るもの聞くものに触れて、案配工夫無しに、思はず知らず、フッと言ひ出せる詞に、すぐにその色を表すものなり。草木の種と言ふもの、内に生えむと思ひ工夫して生ずる物ではあるまじ。発生の気が内に鬱して、自然にズッっと生え出づるものなり。しかれば、其の詞を見るによって、世上人情の酸いも甘いも良く知らるる事なり。されども、人の大事に臨み、自ら警めたしなみ、案配工夫して、心の内にてその善悪を調べ、吟味して詞に発する事は、皆それは作り拵へたるものなれば、中々人の実情は知れぬ事もあるなり。それゆゑに、箪食豆羹などに心の色を表すと言ひて、人の心を許し、うっかりと思はず知らずにふと言ひ出だしたる詞にて、人の実情は良く見ゆるものなり。
俗諺に、「問ふに落ちず、語るに落つ」と言ふも、人の思はず知らず、ふっと実情を言ひ表す事なり。これが詩となるものにて、人の底心骨髄から、ズッと出でたるものなり。
詩は三百篇あるに、詩と言ふものはことごとく只一言の「思無邪」の三字の意より出来ぬ詩と言ふものは、一篇も無きなり。孔子、「思無邪」の三字を借りて、詩と言ふものの訳を解釈したまふなり。此の邪の字を朱子は人の邪悪の心と見られたれども、それにては味無き事なり。人の邪念より出でぬ詩を良しとする事は勿論なれども、詩三百篇の内には、邪念より出づる詩も多くある事なり。心の内に案配工夫を巡らし、邪念を吟味して、邪念より出でぬようにと一調べして出来たるものは、詩にてはあるまじきと思はるるなり。 只その邪念は邪念なり、正念は正念なりに、我知らずふっと思ふ通りを言ひ出だすが詩と言ふものなるべし。 その詩を見て、邪念より出づると正念より出づると言ふ事を知り分かつは、それは詩を見る人の上にこそあるべけれ、詩と言ふものの本体にては無き事なり。詩を作り出だす人は、邪正はかつて覚えぬなり。それゆゑ詩と言ふものは恥ずかしきものにて、人の実情の鑑にかけたるやうに見ゆる事なれば、善悪邪正ともに、人の内に潜める実情の隠されぬものは、詩にある事なり。 聖人、人に人情の色々様々なるを知らせんために、詩を集め書として読ませらるに付きて、「思無邪」の一言を借りて、元来の詩と言ふものの本義を解釈なされ、三百篇ある詩は、只この一言で以て、詩の義は蔽ひ籠もるとのたまひし事なるべし。愚拙、経学は朱学を主とする事なれども、詩と言ふものの見やうは、朱子の註、その意を得ざる事なり。
今後どのくらい宣長の連載を続けるのかわからないのだけど、 小林秀雄は60回以上、隔月で11年くらい続けたらしいんだけど、 トータル10万字くらいを一つのめどとすれば20回くらいだろうか。
小林秀雄の『本居宣長』はおもに「古事記伝」と「もののあはれ論」でできていて、この二つが宣長の最大の功績だと、普通は考えられている。
しかしもののあはれ論をよくよくみていくと、欠陥だらけだし、結局何が言いたいのかよくわからない。 何かこの、必死さというものはあるのだが、あまりにもいろんなものを「もののあはれ」に詰め込もうとして、破綻している、と小林秀雄も言っている。 あの、何か朦朧とした文章を書く小林秀雄ですら、宣長の核心思想であるもののあはれ論が、なんだか捉えどころのないものだと、認めざるを得なかったのだ。
古事記伝は偉業ではあるが、研究者として淡々と仕事を積み上げ完成させたに過ぎないと私は思っている。
それで、宣長のほんとの業績は何かと考えたときに、歌学かといわれればそうでもない。もちろん歌人としてことさら優れているわけでもない。
それまでなんとなくよくわからなかった「国学」というものにしっかりとした形を与えた人、ということはできるかもしれない。 国学者は誰かといえばたいていは宣長を思い浮かべるだろう。宣長は国学者の肖像、ステレオタイプになった。 宣長でやっと国学は一つの独立した学問分野になった。真淵では弱い。
私としては、宣長のほんとうの業績は「みよさし論」つまり「大政委任論」を創始したことだと思う。 「大政委任論」があって初めて幕末の「大政奉還論」が出てくる。 むろん、征夷大将軍は天皇の宣旨によって任命されるのだから、形式的にすでに、天皇から幕府へと、大政が委任されているのだが、 それにどういう政治的正統性があるのかってことは、極めて曖昧だった。
北畠親房には「大政委任」という概念は希薄だったと思う。 幕府から天皇へ、というより朝廷へ、政治の実権を奪い返すことが至上命題であり、幕府を存続させて、将軍に軍事や治安維持を委任しようなんて発想は、 親房にはなかったはずだ。
しかし、三度「大政委任」が実現した江戸時代には、この、天皇から幕府への委任ということは、現実的にやむを得ないこと、歴史的必然なんじゃないかと考える人が出て来たのに違いない。 家康自身にもその意識が芽生えたかもしれない。
なぜこうたびたび、天皇から幕府への委任という現象が起きるのだろうか。 中国では王朝が交替するのに、なぜ日本では天皇が存続して幕府が交替するのか。 この問いに儒教は答えることができない。 何か日本固有の政治原理があるらしい。 そういうことを考え始めた。 儒者にはしかし、天皇が存続しているのは単なる偶然だと考える人も多かったし、天皇はいてもいなくても同じであり、幕府が日本を統治しているという事実のほうが重要だと考えた。 室町幕府の足利や細川などは実際そう考えていたようだ。
ともかく天皇の存在は儒教では説明できないので、儒教とは異なる、新たな、日本固有の政治理論が必要なんじゃないかということに気付いた最初の儒者が栗山潜鋒であった。
栗山潜鋒の後を引き継いだのが本居宣長だった。宣長は栗山潜鋒の著書『保建大記』に言及している。 「みよさし」というのは元々は高天原にいる天照大神から瓊瓊杵尊へ葦原の中つ国の統治権が委譲されたことをいう。 「み」は美称、「よさし」は「依さし」。 天照大神から瓊瓊杵尊への委任という図式を、宣長は、天照大神の子孫である天皇から東照神君家康の子孫である徳川宗家への委任という形に転換してみせた。 こんな理論を宣長以外の人が思いつくはずがない。
この宣長の「みよさし論」が出た直後に松平定信が老中となって、幕府として公式に、「大政委任」ということを認めたのである。 定信は、表立っては何も言ってないが、明らかに宣長の影響をうけている。 定信以前に、誰か儒者が、そういう理論を考えついたとはとても思えない。 定信はどちらかといえば儒者というよりは国学者だった。書いているものも和文のほうが圧倒的に多い。 彼の父は田安宗武で、宗武もまた真淵に学んだ国学者である。 定信は、おそらく、宣長をおおやけに認めるわけにはいかない立場にあったが、内心宣長に心服していたのではないかと思うのだ。 この宣長と定信の関係は極めて重大だと思う。調べても何も出てこないと思うけど。
宣長はすでにそのころ紀州藩や尾張藩の武士に門弟を持っていて、彼らが宣長の政治理論を幕府に提案していたのである。
さらに松平定信が頼山陽の『日本外史』を公認したことによって「大政委任」という考え方は武士の間で完全に確立した。
その後水戸斉昭やその息子の徳川慶喜が、実際に「大政奉還」してみせたことによって「大政委任論」は完成し、明治維新を生んだのである。
栗山潜鋒から徳川慶喜へリレーすることによって「大政委任」という非儒教的概念が確立したのだが、その間に宣長がいなければ、このリレーは成立しない。
国学も水戸学も、儒教や仏教からは決して出てこない。 儒教でも仏教でも説明できない日本固有の現象を説明するために江戸時代になって新たに構築された学問なのである。 水戸学は漢文を元に国史を重点に、国学は和文を元に文芸を中心に発達したが、両者は日本というものを説明するための学問であるから、 極めて緊密なものである。 宣長は水戸学にも大きな影響を与えたわけで、やはりそのあたりが宣長の最も大きな功績だと私は思うのである。
私が好きな作家、というか、天才だなと思えると言うか、尊敬する作家は芥川龍之介、志賀直哉、中島敦などなのだが、皆キリリと引き締まった短編を書く人たちだ。夏目漱石や村上春樹にそういう短編があるかと言えば無い。 では実際、芥川や志賀の長編を読んだことがあるかと言えばまともに読んだことは私はないのであって、短編の印象だけで彼らの才能を判断している。 中島敦は全集をたびたび読んだから、おそらく相当好きなのだろうと思う。だが長いものでもせいぜい李陵とか、スチーブンソンの伝記くらいでそんなに長いものはない。 菊池寛も好き。 長いものでまともに読んだのは日本外史くらいじゃないか。 あとはハイジとか? ヨハンナシュピリは好きな作家と言ってもよい。 嵐が丘は読んだ。エミリーブロンテはたしかに天才だ。スタンダールは挫折したが、嵐が丘はきっちり最後まで読んだのだから。あの気が狂ってる感じがとても良い。
昔良いなと思ったキンドル作家の作品を読み直すとそうでもないことがある。未知の作家には自分の趣味を投影して勝手に想像して読んでしまうからかも知れない。その作家を知り、作品傾向を知るにつれて初期作品のあらがみえてしまうのだろう。
安彦良和の『韃靼タイフーン』を読んでみてまず考えたのは、これほど優れた作品が世に知られていないからには、 私のような弱小作家の小説がまったく売れなくても当たり前だな、ということだった。 『韃靼タイフーン』が彼の他の作品と比べてものすごく優れているといいたいわけではない。 出来としては『王道の狗』『虹色のトロツキー』くらいだろうか。 最近の作品で比べれば、『麗島夢譚』や『天の血脈』よりはましな気がする。
『麗島夢譚』もほとんど知られていないが、『韃靼タイフーン』と同じ理由で、連載されている雑誌がマイナーだからだ。 『天の血脈』はアフタヌーンなのでまだメジャーといえる。
安彦良和は恐れずマイナーな雑誌に書きたいものを書く人だ。 逆の言い方をすると、書きたいものを書こうとしても企画会議を通らないから、そういうネタはマイナーな雑誌に回さざるを得ず、それゆえに世間に知られないということになる。
『ナムジ』や『神武』は強烈につまらない。 たぶん『アリオン』の流れでギリシャ神話から日本神話に飛び火したのだと思うが、彼には神話(というより、ファンタジー全般)を書く才能は無いと思う。
『ヴイナス戦記』のつまらなさにはあきれた。アマゾンでまとめてポチったが1巻目の最初のところで挫折してほってある。 たぶん彼にはSFの原作を書く才能も無いと思う。 『Cコート』は非常に面白い。『ヴイナス戦記』を書かせるために『Cコート』の連載を中断させたのだというが、まったく馬鹿げたことだ。なるほど読者は『ガンダム』の作画監督・キャラクターデザイナーが書いた宇宙戦記物が読みたいのだ。『クラッシャー・ジョウ』の挿絵を描いた安彦良和のオリジナル作品が見たいのだ。そして出版社はそれをアニメ化して当てたい。しかし彼にそんな才能はない。彼には『Cコート』を書かせるべきだったのだ。『ヴイナス戦記』に費やした労力は大いなる損失だ。 『韃靼タイフーン』もまた『ガンダムオリジン』を出すために中途半端に終わらせたというのだが、まったくもったいない話である。
『三河物語』は非常に面白いのにほぼ同じ時代を描いた『麗島夢譚』がつまらないのは意外な感じもするのだが、このあたりに安彦良和という人の限界があると思う。 ある程度史実に基づいて脚色したものは面白いのだが、史実から逸脱してほとんど空想だけで書いたものはつまらない。そう思うのは私だけだろうか?鄭成功と宮本武蔵を絡ませた話が面白いだろうか?荒唐無稽というべきだろう。 『韃靼タイフーン』も破綻寸前なのだが、なんとか帳尻あわせてある。
『ジャンヌ』もつまらない。なんなのだあのフルカラー書き下ろしは。よくもこんなくだらない企画を思いついたものだ。 どうも、メジャーなメディアからの頼まれ仕事ほど本人のやる気がなくてつまらなく、 マイナーなメディアで出したものほど本人のこだわりが濃厚で面白くなるのだ。 しかし世間様の評価というものは、作品の出来とはまったく何の相関もなく、 ただメジャーな媒体に出したものほど評価が高く、 マイナーな媒体に出した作品はほとんど認知されない。
安彦良和ほどの人ですらこのようなありさまなのだから、私のようなひよっこが世の中に正当に評価されるはずもない。 そう思ってずいぶん気楽になったし、これからも周りにあわせず自分の書きたいものだけを書いて遺そうと思った。 同時に、世間に媚びず、マーケティングもせずに読者を獲得することは恐ろしく困難なのだと思った。
安彦良和の本質は「右翼作家」なので現代の出版界では決して正当に評価されることはない。笑うべし。
第1巻が無料で面白かったので、第4巻まで買って読んだのだが(最近マンガを買うのは珍しい)、これはなあ。作者の意に反して打ち切りになったというより、これ以上話を続けられなかったのじゃないかなあ。
まあ、面白いんだよ。でも、地球では起きない超常現象が火星では起きることの説明が付かないよな。付けられれば傑作と言えるかもしれないが、たぶんできなかったんだろうと思うよ、これは。これじゃあ最後にどんな種明かしがくるかを知るためだけに金払った人は納得できないよ。
改めて(何度目だ?)シン・ゴジラを、メイキングなども含めて見てみたのだが、要するに、前半部分は東日本大震災に絡めた戦後日本への恨み節であって、タマ作戦はエヴァそのまんまだし、後半ヤシオリ作戦はタモリ倶楽部になってしまっている。
その主張は、日本はスクラッチアンドビルドしなきゃ良くならない。そのための自作自演がゴジラだ、というわけだ。
夏休み中ずっと、タモリ倶楽部をYouTubeで見ていたが、シン・ゴジラのどこがタモリ倶楽部かってことはすでに「ネタバレはあります。」で書いたのでくどくど繰り返さない。わざわざ新幹線や在来線が集中する東京駅でゴジラが立ち往生するというシチュエーションがあり得ない。
しかしまあこれを「庵野秀明監督最新作の日本映画」としてしてみたとき非常に良く出来ていると言わざるを得ない。庵野監督は、金と人と権限を使えばここまでちゃんと作れるのだということを実証したのは素晴らしかった。
なんじゃこりゃ(笑)
キューティーハニーの原型だな。
自動ドアのマリア役の小日向しえ、キューティーハニーにもお局OL役で出てる。
結局ストーリーは、四人のボスキャラを倒し、ラスボスがビオランテか小林幸子、最後は愛が勝つ、というのはうーんどうかと思うが、まあ、なんとか中だるみせず、最後まで見ようと思えば見れる作品だと思う。中だるみ感を出すということはそれなりの安定感があるということだろう。
シン・ゴジラにも出てくる市川実日子が良い味出している。そのほかシン・ゴジラとの共通点も多い。CGがときどきしょぼくなるところなども。