naturalist と natural history

実におかしな感じである。

『種の起源』にわざわざ名前を挙げて出てくる naturalist はほぼみな間違いなくプロの学者であり、学会に属し、論文を書き、研究をしている。

これに対していちいち名前は挙げていないが「飼育家(raiser)」「(家畜の)育種家(breeder)」「愛好家(fancier)」「園芸家(gardener)」「(栽培植物の)育種家(cultivator)」などについても多く言及していて、彼らは明らかに naturalist とは異なる立場の、別の世界に生きている人間として描写されている。つまり研究のプロ対アマチュアという構図である。

多くの naturalist は飼育や栽培というものを研究の対象に値しない、無視している、だがこれもまた絶好の研究対象であるというのが私の信念などと言っている。つまり私(ダーウィン)はあえて、これまで素人がやってきた品種改良のための「選択」というものを研究対象とします、と宣言しているのだ。またたとえば、

May not those naturalists who, knowing far less of the laws of inheritance than
does the breeder, and knowing no more than he does of the intermediate
links in the long lines of descent, yet admit that many of our domestic
races are descended from the same parents…

breeder よりも遺伝の法則についてほとんどわずかしか知らず、また、品種の長い連鎖についてはなおさら知らない naturalist たちでさえ、多くの家畜品種が単一の親に由来することを認めるのではないか。

つまり素人の愛好家や飼育家たちは、どちらかと言えば、遺伝現象について極めて博識であるがゆえに、たくさん亜種が一つの親から派生したとは容易に信じない。むしろそうした家畜や園芸種の繁殖の知識に乏しい naturalist のほうが、たくさんの亜種が一つの種に属すると考えているのである。

したがって、訳者が言うように、

ダーウィンがナチュラリストと呼んでいる人物の多くは在野の自然観察者や昆虫マニア、園芸家であったりすることが多く、いわゆる「学者」のイメージにそぐわない。

というふうには私にはとても読めないのである。

そもそもダーウィンはアメリカ海軍の艦長の許可を得てわざわざ南米、オセアニアを探検して回ったプロの研究者であるし、本文中に言及されているウォレスなどもマレー諸島を探検しているプロだ。マルサスも、チャールズ・ライエルも、ジョセフ・ダルトン・フッカーも、イジドール・ジョフロワ・サン=ティレールも、フリッツ・ミューラーも、プロスパー・ルーカスも、その他もろもろの人たちもみんなその道のプロの学者だ。

いったいどこから「ナチュラリスト」が「昆虫マニア」のたぐいだという発想が出てくるのか。不思議だ。

というより今日「ナチュラリスト」と言うと、どちらかと言えば、少なくとも日本語においては、「自然保護主義者」とか「自然回帰主義者」とか、動物愛護団体とかベジタリアンとかヒッピーとかアナーキストのようなものを連想すると思う。naturalist を「博物学者」と訳してきた歴史は長く、訳語としては非常に安心して使える。わざと新しい訳を試みてちと勇み足したのではないのか。

しかし私にとってもっと奇異に感じるのは man’s selection を「人為選抜」と訳し、natural selection を「自然淘汰」と訳しているところだ。ダーウィンは明確に、man’s selection を拡張解釈した先に natural selection というものがあるに違いない、という論理展開をしている。ダーウィンの人為選択説はそのまま優生学や家畜や作物の品種改良の理論に通じるものである。ダーウィンはそれまでの品種改良に用いられてきた経験則的選択(methodical and unconscious selection)を、人為選択という概念でまとめ直して、博物学的に扱えるようにし、さらに近代科学へと橋渡ししたのである。ダーウィンはきちんと自分で多くの鳩の品種を飼って交雑させて、鳩が単一の種であることを確かめた。彼の鳩に関する実験と研究と考察は今日にも通用するまっとうなものである。いっておくがダーウィンは鳩の愛好家の一人ではない。鳩を学術研究の対象にした学者である。

ところが彼がそこから類推した自然選択というものは、彼の空想に過ぎず、何の根拠もない。

私は、「人為選択」を確立し、「自然選択」という新しい概念をこしらえて、「人為選択」と「自然選択」を対比させて、「自然選択」の存在を予言したのがダーウィンの仕事だと思う。しかるに、「人為選抜」「自然淘汰」と訳してしまっては、その対比関係がまったくわからなくなってしまうではないか。

どうも日本人に「自然淘汰」と訳したがる一群の人たちがいるらしい。それを「自然選択」に直そうと努力する人たちもいるのだが、なぜかまぜっかえされる。しかも「選抜」という進化論ではあまりなじみのない訳語を引っ張り出してきたのはどういうつもりなのだろう。選抜というのは高校選抜野球みたいに、なんだか個体間や集団間の闘争や競争のようなものをイメージしてしまうのだが。無色透明な「選択」という言葉でなぜいけないのか。

単純に「選択」という訳語を使っておいてあとは読者に判断させればよい。それをときに「選抜」と訳しときに「淘汰」と訳すのは訳者の恣意であり、おそらくは何らかの思想への誘導であり、或いは単なる奇をてらった訳であって、読者を混乱させる。

また、natural history を「自然史」と訳すのもおかしな感じがする。natural history はもはや時代遅れな用語であって、「自然史」などと科学用語(自然科学?社会科学?それとも人文科学?)のような訳し方をするのは奇異である。natural history はやはり「博物学」とでも訳しておいたほうが無難ではなかろうか。そうすればこれが19世紀に流行った、近代科学よりも少しだけ前の時代の、それこそ手塚治虫や荒俣宏が描く牧歌的な世界であることがわかるだろうと思う。

私にはどうも、natural history という言葉には、キリスト教的創造説のニュアンスを感じる。人間に歴史があるように、神が創造した自然にも歴史があるのだ、という考え方。これは東洋の、中国の史学とはまったく相容れないものだ。歴史とは人が後世に書き遺すものだからだ。

私はたとえば Gesang を「賛美歌」と訳すのが嫌いだ。単に「歌」と訳す。Gesang には「賛美」なんて意味はどこにもないから。そういうもとの言語にない日本語固有の色を付けるのは嫌だ。

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅰ)

少女漫画のように読みやすいということ、食べ物・音楽・ファッションなど衣食住に関する描写が心地よく感じられること、それからさらに何か得体の知れない薄気味の悪さがある

少女漫画のように読みやすい、というのは、そうかもしれないなと思う。何も難しいことは書いてなく、書いてあってもそれは表面をなぞるだけで中に入っていくわけではない。ただのBGM。たとえば、村上春樹には、第一次大戦と第二次大戦に挟まれたチェコスロバキアの人民が幸せであったかどうかなんてことを深く追求するつもりはないのだ。村上春樹にとってハプスブルク家は中世以来の圧政的・絶対王政的な封建領主であり、ヒトラーは独裁者なのだ。だからその両者から自由であったチェコスロバキアは自由だったはずだ、と言っているだけのことであり、実際に自由だったかどうかを考証するつもりもない。単に世界史的にはそのように教科書に記述されている、それで充分なのだ。ヤナーチェクの音楽がどうだということを語るつもりもない。単にそれらは、読みもしないのに本棚に飾られている革張りの書籍と同じだ。

そして唐突に殺人や自殺やセックスが挿入されるのはまさに少女漫画的展開であり、テレビドラマ的でもある。軽薄すぎる、とさえ言える(私は冒頭いきなり人が死ぬ話が好きになれない。多くのミステリーがそうだが。いきなり事件が起きて、謎解きするだけ。1Q84もある意味そうだ。殺意もとってつけたような場合が多い。殺意は単に、推理に必要とされるヒント、加害者と被害者の関係性としてだけ利用されている。そんなただのパズルみたいな話はいやだ)。

居心地がいいけれど、厨房の奥に底知れない闇があるような、そんな喫茶店

グリムの「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるお菓子の家

人さらいのいるサーカス小屋

着飾った女性たちのいる遊郭

そう、村上春樹は読者に魔法をかけてやろうと待ち構えている。そんな「薄気味の悪さ」は確かに村上春樹の作品の特徴だろうと思う。そうして、そこにやらせを感じて、読むのをやめてしまう人もいるはずだ。私はどちらかと言えばそっちだ。魔法をかけてもらおうとよろこんで身を委ねる人もいるだろう。彼の読者はおそらくこちらのタイプだ。

この小説は本当に恋愛小説といえるのだろうか? 本当に恋愛小説として読まれているのだろうか? 精神病者の観察記録やポルノグラフィーとして読まれている可能性はないのだろうか?

何をもって恋愛小説というかだが、たとえば、氷室冴子の小説が恋愛小説だとすると村上春樹は全然違うと思う。志賀直哉や吉行淳之介や安岡章太郎なんかとは全然違う。谷崎潤一郎とか田山花袋とも違う。どちらかといえば、三島由紀夫や川端康成のそらぞらしさに近いものがあるかもしれない(ちなみに私が書くものは比較的志賀直哉や吉行淳之介に近い、と本人は考えている)。ちなみに宮崎駿の作品には恋愛ものはない。若い男女の非日常があるだけだ。

作者とワタナベ君のみ息が合っていて、女性ばかりが蚊帳の外という感じなのだ。恋愛小説で、作中人物が如何に鈍感であろうとも、作者が鈍感であることは許されない。そのような滑稽さ、苛立たしさを感じるのはわたしだけだろうか。

そう。村上春樹は実はほんとは恋愛なんかしたことないんじゃないかと思いさえする。

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅱ)

村上春樹という男は、触ったもの全てに自分の臭いをこすりつける性癖がある。作品の中で、ある世界観を物語るためだけに一面的に引用されたこれらは、食い散らされて、本来の持ち味を、意味合いを、香りを、輝きを失わざるをえない。何という惨憺たる光景であることか!

そう。1Q84のヤナーチェクもまさにそう。別に何の必然性もない。

陸奥宗光とその時代

岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』を読んでいるのだが、 昔読んだときは、ただそのまま感心して読んだのだが、今読んでみるとアラの多いのに気付く。

陸奥宗光の父・伊達宗広は和歌を良く詠んだのだが、 今あらためてみてみると、岡崎久彦が「絶賛」するほどすごいわけでもない。 当時の紀州藩は和歌山から南紀、伊勢、松坂までぐるりと、内陸の大和地方を取り巻いて、紀伊半島の東、南、西を知行地としていた。 本居宣長は従って松坂紀州藩支配の学者であるから、紀州徳川家に召し抱えられて、 のちには養子の本居大平が宣長の代わりに紀州藩に仕え、大平が宗広に和歌を教えたのである。
この本居宣長から出た歌道はそのまま明治の桂園派の一支流となった。 桂園派はもちろん香川景樹を祖とするが、これが宮中御歌所で本居派の歌道や後水尾院以来の堂上和歌と混淆して、明治の桂園派をなしたのである。 そうした流れで見てみると、宗広の和歌はごくふつうの桂園派の範疇にあるといわねばならず、 また典型的な江戸後期の地下の和歌であり、上田秋成もそうであったように、当時の民間歌謡である都々逸や常磐津などの影響を濃く受けている。 ということを歌人でもなく、また江戸・明治期の桂園派に詳しくない岡崎久彦が考察できるはずもなかろうと思う。

江戸時代の日本には古学派というものができた。これは江戸時代という、学問が高度に進んだ社会における独特な現象である。何世紀もの間、朱子学が正統学として確立し、他の学説などは邪説としてほとんど存在しなくなっていた東洋社会に新説が生まれたのである。二百年間の徳川は平和で社会が安定していたので、正統派以外の説が出ても政治体制がビクともしない余裕があり、それだけの言論の自由があったということができよう。

新説と言っても奇抜なアイデアということでなく、孔子、孟子の思想を原典に遡って日本人特有の徹底した真面目さで学んでいるうちに自然と出て来たのである。

などと書いている。 まるで、江戸時代の日本でいきなり古学が生まれて、それを荻生徂徠が発明したような書き方をしている。これは非常に問題がある。

江戸時代の日本の儒学者は当然のことながら、明末清初の学者の影響をうけた。 朱子学以外の儒学がなかったはずがない。当時の黄宗羲や顧炎武は考証学を先駆し、朱子学の理念に囚われない史学的、考証学的考察を行った。 また朱子学に対して陽明学があった。 陽明学を直接輸入したのは中江藤樹で、これを展開したのが熊沢蕃山だった。 江戸時代の日本に陽明学が深く浸透していたことは大塩平八郎の名をあげるまでもなかろう。 朱子学を正統とする林羅山らの官学に対して、在野では古学、考証学、陽明学が流行して、これが、もっぱら論語と孟子を読めという伊藤仁斎の古義学となり、荻生徂徠の古文辞学となり、れが堀景山を経て本居宣長に伝わり、大平に伝わり、伊達宗広に伝わったのだ。そう書かなくてはおかしい。
もちろん「日本人特有の徹底した真面目さ」というものを伊藤仁斎がもっていたのは確かだろうが、彼がいきなり古典を直接読めなどと提唱したはずがない。

咲けば花 散れば塵とぞ はらひける あはれ桜も 人の世の中

この、いかにも江戸期の花柳界で口ずさまれたような句をつづっててできた歌は、直接的には香川景樹の影響によるものに違いない。

岡崎久彦がいきなり、古学は日本独自に荻生徂徠が発明した、なんて珍説を唱えるはずがないから、岡崎は誰かの説を生かじりしたのだろう。 江戸時代の雰囲気を紹介したつもりで全然できてない。 岡崎という人は面白い文章を書くけど講談めいている、 彼の祖父の岡崎邦輔は、陸奥宗光の従弟だというのだから、 どうもそこらあたりの内輪褒めの話が中心になっているようだ。 用心して読まなくてはならないと思う。

和歌の道は花鳥風月から入るべし

根岸に住む人に歌を見てくれと言われて見た。

春の朝 うぐひすの声は 聞かねども 根岸の里は のどかなりけり

人の歌を添削するというのは難しいものだ。 私なら、

うぐひすの はつねはいまだ 聞かねども 根岸の里に 春はきにけり

とでも詠むだろうか。 特段良くなったわけではないが、古語を使い、古典の言い回しを使えばこうなると思う。

「根岸の里」というのが、和歌というよりは俳句であまりに有名なフレーズで、 逆に扱いに困るのだが、 実際根岸に住んでいるというのだからしかたない。

上野山 鳥はなけども うぐひすの 声はいまだに とどかざりけり

わかる。でも私なら「とり」はたとえばだが「ももちどり」、 「鳴く」は「すだく」として、

ももちどり うへのの山に すだけども いまだまじらぬ うぐひすのこゑ

とでもするだろうか。まあ、そもそもこういう歌をいまさら私は詠まないと思うのだが。

花鳥風月から和歌の道に入ろうというのは今時の人には珍しい。 今はいきなり口語で短歌を詠むでしょう。 いきなり時事問題を扱ったり。 恋人と逢った別れたと。 あれは私は好きではない。 俵万智だっていきなり口語で詠んだとは思えないのよね。 でも彼女の追随者たちはみな、古典をすっとばしていきなり短歌を詠んだ。

でまあ、私が根岸に住んでいたら、写生の歌を詠むと思う。 使い古された単語ではなく、言い回しではなく、 写生によって古いことばに新しい命を吹き込もうと思うだろう。 目の前の光景をそのまま切り取って。それはでも一通り、花鳥風月で練習したあとのことだと思う。

まわりくどくふるくさいやりかただとは思わないでほしい。


追記。根岸に住む和歌を詠む人とは誰だろうか。一人くらいしか思いつかないが、その人が、たまたま試しに詠んだのだろうか。まったく思い出せない。

村上春樹

まだ1Q84をちらっと読んだだけだが、私の知っている作家の中では、小林秀雄の文章に似てるなと思った。村上春樹と小林秀雄が似てるといってる人はいないかとググってみたが、どうもいない。

小林秀雄は戦前のフランス文芸の影響をうけた人で評論家になった。一方、村上春樹は戦後のアメリカ文芸を受肉化して小説家となった人だが、村上春樹の作品は小説という分類からはかなり外れているように思う。その本質は「やおい」であり、小説という体裁を使って書かれた何かだ。冗長で内容に乏しいが読める。小林秀雄の文章と同じだ。ある種の依存、麻薬中毒なのではないか?けなしているつもりはないがほめているのでもない。小林秀雄の文章も評論という体裁を使って書かれた何かなのだ。それはもう小林秀雄節というしかない。

村上春樹の文章はどこもかしこもことわざめいた言い回しで埋め尽くされていて、もちろん全部違うが全部同じような既視感がある。イスラム建築の回廊をぐるぐる回っているような感じというか。それが私にとって心地よいかといわれれば、はぐらかされているような、おちょくられているような、つまりは車酔いにも似た不快な感じがして、村上春樹が嫌いな人も同じことを感じているのだろう。奇妙な言い回しで同じところをぐるぐる回っている、回らされている感じ。

もちろん何かのストーリーとか落ちとか展開とか伏線というものはあるんだろうが、たぶんそれは小説という体裁を整えるために付け足されたもので、あると落ち着くが無くても済む、日本建築の床の間のようなものではないか。

あ、違うな。読者を登場人物に感情移入させるための何かの仕掛けがしてあるわけだ。そして、明らかに、私にはその辺りの設定が、存在しないくらいに透明で、まったく感情移入できない。心の琴線の固有振動数がまったくあってなくてぴくりとも共鳴しない。だから、ただ美文だけ延々読まされる感じがする。あるいは、絵に例えると南画みたいな朦朧体みたいな感じ。

「やおい」だが「読める」というのは日本文芸のお家芸といってもよく、「やおい」だが美麗なアニメ絵でむりやり作品に仕上げたのが新海誠ではないか。村上春樹と新海誠の雰囲気も似ていると思う。

戦前の日本人が小林秀雄に眩惑されたように、今は村上春樹と新海誠がそうしていて、世の中の磁場が非常にゆがみ始めていることを感じる。その磁場の中心が何かはだいたい想像がつく。やはりそこが日本文芸の核であり、読者のマジョリティなのかと、諦念にも似た気持ちになる。

例えば1Q84を映画化しましょうとか言って、できないよね。映画監督に指名されたらとても困る。タルコフスキーなら喜んで作るかも。ていうか、ある意味タルコフスキーの映画とも似ているよね、村上春樹は。超絶退屈だが、好きな人は好き。それなりにファンもいる。よく女の子が六時間も七時間も長電話してしまいにゃ話しながら寝てしまう。でも話す内容はとくになくて覚えてもいない。そういう需要があるってことは、知識としては知っている。だからそういうものを書いて提供する人がいて、実際に売れている。

桓武天皇

桓武天皇はやはり異常だ。 皇統譜を書いているとよくわかるのだ。

桓武平氏と言っても、四系統ある。 第三皇子葛原親王、第九皇子万多親王、第十皇子賀陽親王、第十二皇子仲野親王。 このうち葛原親王系から将門と貞盛が出て、 貞盛から伊勢平氏が出て、清盛につながる。 古今集に出てくる平貞文などは仲野親王系。

平氏以外に、 第七皇子明日香親王から出た久賀氏、 さらに良岑氏がある。 良岑氏といえば遍昭以外知られてないマイナーな王族だがそれなりに子孫繁栄している。

桓武天皇の皇子から平城、嵯峨、淳和天皇が即位した。 嵯峨天皇にも皇子が多かった。 平城天皇と淳和天皇はさほどでもないが、平城天皇からは在原氏が出た。 嵯峨天皇は桓武天皇よりも極端で、皇子は多いが、仁明天皇以外の直系王族はほとんどがすぐに消えてしまっている。

ともかく桓武天皇時代の親王の数が異常に多いし、 親王以外の皇子はさらに多い。 桓武以前と桓武以後でまったく様相が異なる。 白河院時代に親王を極端に減らし、親王以外の皇子はみんな法親王にしてしまって、 皇室財産を緊縮したのとは大違いなのだ。

そもそも光仁天皇から桓武天皇に譲位した理由も謎だ。 光仁天皇の父・志貴皇子系統の皇族はいくらでもいたのに、 よりによってなぜ百済人の后の皇子が即位せねばならなかったのか。 たしかに志貴皇子は天智・天武系統の中では傍系なので、有力な后がいない。 しかし天武系は途絶えて藤原氏を后とする有力な皇子が無い中でなぜ桓武天皇が即位したのか。

おそらくだが、平安末期に平氏や源氏が擡頭してきたように、 この時代、百済人の勢力が非常に強かったのだ。 藤原氏などの名門貴族もその百済人たちの力を借りないと朝廷を操縦できない。 だから藤原百川など一部の藤原氏が桓武を擁立した。 さらに藤原冬嗣など百済人の血を引く藤原氏がその路線を継承した。

桓武天皇の時代は皇子の時代だったが、 王族の子孫が平氏となり源氏となることによって、 武士の時代となって、皇子は不要になってしまった、ということだろう。 桓武天皇の勢いは皇室には留まらずにその外の社会に波及して増幅していった。 もし桓武天皇と同じ規模で皇室が維持されていれば日本は大陸型の中央集権国家になっていただろう。 しかし皇室はたちまちにしぼんでしまい、無数の支族が枝分かれして繁栄することになった。 だから封建社会になった。

百済人と冬嗣

おそらく百済人が天皇の国母となったことが主因となり、多くの氏族が桓武に女御を入内させた。同時にこの時期、藤原氏は天然痘の流行などの諸原因で奮わなかった。桓武天皇で、天皇家は生物学的に多様化し、変質した。外戚や摂関政治とは別の、大陸的な王朝が、桓武天皇から始まる可能性があった。しかし藤原氏に冬嗣が出て、皇位継承は再び、飛鳥奈良時代のように、特定少数の外戚によって支配されるようになって、良房以後道長までで摂関政治が完成する。

それで百済人や藤原氏以外の氏族が衰退していった理由は、帰化が進んだためと、藤原氏が巻き返したからに違いないのだが、ではなぜ藤原氏は、冬嗣は巻き返せたかというと、冬嗣の母が百済人であったために、百済勢力は藤原氏の冬嗣と合体して、言わば藤原氏の一氏族と百済人がハイブリッド化して、摂家というものを作り出したのではなかろうか。百済人は歴史から姿を消したように見えて、実は外戚が藤原氏に収束する助けをし、日本の上流社会に生き延びたのである。高度な文化を持っていた渡来人だからこそできたことかもしれない。彼らは日本に産業を興し、文明を発展させた。藤原氏にしばしば見られるある種強引な政治駆け引きも、実は大陸的政争のやり方がもたらされたものかもしれない。と、考えると、やはり桓武天皇時代の外来文化の影響というのは、今考えられている以上に大きかったと言わねばならないのではないか。もし百済人(藤原氏)の影響がなければ、しばらくの間、天武系と天智系の間で繰り広げられたような、古い形の皇位継承争いが続いていたかもしれない。

摂家の異常な横暴さの理由はそのあたりにあるのかもしれない。

桓武天皇以来多くの皇子は百済系だった。彼らは隠然とした摂家支持者だったかもしれない。遍昭も良岑氏なので百済系。源光(光る源氏?)も百済系。

冬嗣の父は藤原内麻呂、母は河内系渡来人の飛鳥部奈止麻呂の娘・百済永継。

永継は冬嗣を産んだあと桓武天皇の愛人となって桓武良岑氏を産む。

桓武天皇と藤原内麻呂の関係が極めて良好であり、かつその仲介役として百済人がいた。

紀名虎という人がいた。彼は仁明天皇に娘種子を、文徳天皇に静子を入内させた。名虎は紀氏中興の祖であったが、結局冬嗣・良房親子に負けた。名虎の子・有常は急速に没落していき、貫之や友則の時代の紀氏は、藤原摂家にあごで使われる中流公家になってしまった。

紀氏には紀氏の文化があった。日本古来から続く文芸文化が。しかし冬嗣にはその要素が乏しい。半分は大陸文化なのだから。紀氏と在原氏が非常に接近した時代があった。その接点が有常だった。紀氏、在原氏の他に奈良時代の文化を継承したのは、小野氏くらいか。小野氏には篁と小町くらいしかいない。それ以外は忘れられてしまった。

伊勢物語や竹取物語、歌合などの過去との連続性を保った文化は、紀有常というボトルネックを経て後世に伝承されたのに違いない。有常の後継者として待ち構えていたのが貫之であった。

十一日の月

新月は日没時に西の地平線上に出てすぐに沈んでしまうので、実際には見えない。 目に見えるようになるのは「三日月」からだが、夕方西の空に出てすぐに沈んでしまう。

十五夜、満月は夕方東の空から昇り明け方西の空に沈む。つまり夜中見えるということだ。
十六日の月は「いざよひ」、
十七日の月は「たちまち」、
十八日の月は「ゐまち」、
十九日の月は「ねまち」、
二十日の月は「ふけまち」、
つまりだんだんに東の空から月が昇ってくるのが遅くなる。 月の出が日に日に、50分ほど遅くなっていく計算。

十一日の月は「とをあまりのつき」と言うらしい。 『伊勢物語』82段「渚の院」

・・・帰りて宮に入らせ給ひぬ。夜更くるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬頭の詠める。
飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ
親王にかはり奉りて、紀有常、
おしなべて峰も平になりななむ山の端なくは月も入らじを

ここで舞台装置として出て来る「十一日の月」というのはつまり、 夜明けよりも三時間あまり早く西の空に沈んでしまう月、 もう少しで夜が明けるのでそれまで飲みあかしましょうよということになる。

『伊勢物語』の主人公は紀有常ではなかろうか。

そして『伊勢物語』の筆者は紀氏の誰か、有常から昔話を聞けただれかだろう。
紀貫之である可能性もある。
貫之は『土佐日記』で渚の院に言及しているが、
彼は当然、渚の院における惟喬親王や在原業平、そして紀有常の故事を知り得る立場にいた。

紀有常は名虎の子で、妹に静子があり、静子は文徳天皇の更衣となり、文徳の長男・惟喬親王を生んだ。
藤原良房の関心は文徳からその皇子の惟仁(後の清和天皇)に移りつつあった。
文徳朝末期、有常は伊勢権守となる。
これゆえに『伊勢物語』というのではないか。
権守というのだから実際に伊勢に赴任したのである(ほんものの伊勢守はおそらく王(皇族)で遥任)。
69段、

昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨近くありければ、女人をしづめて、子ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見出して臥せるに、月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて寝ずなりにけり。

つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、

君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か ねてかさめてか

男いといたう泣きてよめる、

かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ

とよみてやりて狩に出でぬ。野にありけど心は空にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守、斎宮の守かけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす杯の皿に歌を書きて出だしたり。とりて見れば、

かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば

と書きて末はなし。その杯の皿に続松の炭して歌の末を書きつぐ。

又あふ坂の 関はこえなむ

とて明くれば尾張の国へ越えにけり。

斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。

これが実話であるとすると、伊勢国の守、兼、斎宮の守というのが有常。
「狩の使」とは朝廷の用にあてる鳥獣を狩るために地方に使わされた使者だが、
負担が大きいとして、平安初期から延喜五年までしか行われなかった。
この狩の使というのは、誰だかわからないが業平である可能性は必ずしも高くない。

有常が伊勢に赴任したのは857年。
この年の伊勢斎宮は晏子内親王。
文徳天皇の第一皇女だが、惟喬親王の実母妹ではない。
惟喬親王の実母妹、つまり静子の娘・恬子内親王が伊勢斎宮であるというのが通説のようだが、
なんか違う気がする。
業平との年の差は20歳くらいある。
有常815年生まれ、業平825年生まれ、惟喬844年生まれ、恬子848?年生まれ。
恬子は晏子の次、861年(13歳頃)に伊勢に下る。

斎宮が晏子だとすると
「伊勢の斎宮なりける人の親」とは文徳天皇のことではなくて藤原列子(従四位上・藤原是雄の女)ということになり、
その列子が「つねの使よりは、この人よくいたはれ」と言った勅使の男とは、はて、誰だろうか。
普通に考えれば藤原氏の誰かだろう。
だがまあ、もともとは有常と晏子の話だったのが、だんだんに恬子と混同され、業平の話になっていった可能性はある。

伊勢物語23段

筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、

くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

これは有常とその妻(藤原内麻呂の娘)のなれそめの歌ではなかろうか。

さらに867年、有常(52歳)は下野国の権守となる。このころではなかったか、

名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

この歌が詠まれたのは。
そして伊勢物語16段は、有常が貧乏なので妻(藤原内麻呂の娘)が尼になるという話。

昔、紀の有常といふ人ありけり。三代の帝につかうまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしくあてはかなることを好みて、こと人にも似ず。貧しく経ても、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、男、まことにむつましきことこそなかりけれ、今はと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、「かうかう今はとてまかるを、何事もいささかなることもえせで、遣はすこと」と書きて、おくに、

手を折りて あひ見し事を かぞふれば とをといひつつ 四つは経にけり

かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる、

年だにも とをとて四つは 経にけるを いくたび君を たのみ来ぬらむ

かくいひやりたりければ、

これやこの あまの羽衣 むべしこそ 君がみけしと たてまつりけれ

よろこびにたへで、又、

秋や来る 露やまがふと 思ふまで あるは涙の 降るにぞありける

有常の歌は82段にも載る。業平の歌への返しである。

ひととせに ひとたびきます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞおもふ

あるいは

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを

業平の室は有常の娘、その子が棟梁、棟梁の子が元方である。

丹念に探せばもっと証拠が見付かるかもしれない。

業平は確かに50過ぎて相模権守になってるから、相模までは行ったことがあるはずだが、
相模の国府は寒川辺りだ。
武蔵と下総の境の隅田川をこえて下野国まで行ったのは有常であった。
また彼が愛妻家であったことも確かだろう。
彼の場合は赴任というよりは左遷に近かった。
藤原良房や高子、基経らにとっては邪魔な惟喬親王の近親であったからだ。
文徳朝後期以降、抑圧され不遇に暮らした。

身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

京都にはろくに仕事もない地方官にでもなろう、というやけくそな感じではなかったか。

『伊勢物語』に出て来る藤原高子関係の話は、紀氏の伝承とはソースが別なような気がする。
高子は遍昭の愛人だったはずだが、それがいつ頃からはわからない。
業平や有常とはあまり関係ないような気がするがよくわからない。

以下は関連する書きかけのメモ。

仁明天皇の皇太子には最初、嵯峨天皇によって淳和天皇の皇子・恒世親王(母は桓武天皇皇女)が想定されていた。
恒世親王が死ぬとやはり淳和天皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇皇女)が皇太子になった。
ところが承和の変で恒貞親王は廃太子され、
代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(母は藤原順子、冬嗣の長女で、良房の妹)が立太子される。

この頃すでに天皇と内親王の間にできた皇子は政治的経済的基盤が弱く、
有力な外戚を持つ皇子には勝てなくなっていたのである。

道康親王は即位して文徳天皇となる。
文徳天皇の長男・惟喬親王の母は紀静子、名虎の娘であった。
紀氏は家柄としては藤原氏にはとうてい勝てなかった。
文徳と藤原明子(良房の娘)の間に皇子・惟仁が生まれると、生後八か月で皇太子となる。

文徳が死ぬと、惟仁は九才で即位、清和天皇となる。

清和天皇と藤原高子(長良の娘、良房の養子、基経の妹)の間に皇子・貞明が生まれるとわずか生後三ヶ月で立太子される。
惟喬親王が出家したのはその四年後なのだが、
おそらくこのとき承和の変に匹敵する政変があったはずだ。
幼主の外戚となり、自ら摂関となる。摂家の濫觴、「貞観の変」とでも呼ぼうか。

皇室典範草庵談話要録

10月10日の産経新聞の記事に、明治20年3月20日に開かれた高輪会議とその覚え書きらしきもの「皇室典範草庵談話要録」が出てくるのだが、この「皇室典範草庵談話要録」というのはこれまでまったく知られてなくて謎である。記事によれば、参加者は伊藤博文、井上毅、柳原前光、の三名しかいなかったらしい。とすると、井上が皇室典範の原案を作り伊藤がダメだしをした。柳原というのはこの覚え書きを残した公家であろう。

この記事を書いた奥原慎平という産経新聞の記者もよくわからないが、おそらく奥原が柳原家に伝えられたメモ書きを直接見たということだろう。おそらくそのメモ書きというのは断片的でささいなものであり、記事にはほぼその全文が引用されたのではなかろうかと推測される。つまり、この奥原の記事がすなわち「皇室典範草庵談話要録」と考えてよかろうと思えるのである。

それでこの明治20年3月20日の高輪会議というものだけで皇室典範が決まったわけでもなく、他にもいろんな会議が開かれ、いろんな議事録が残され、その多くは散逸したのに違いない。ただ紛れもなく言えることは、天皇の譲位を禁じるこの皇室典範というものを定めたのは公家ではあり得ないということ。例えば岩倉具視の意見とは思えない。武家に違いなく、武家でも天皇の意志に反して意見を述べられる一部の元勲しか考えられない。明治天皇に強く反対できるのは伊藤博文くらいしか考えられない。

傍証としては、伊藤博文が辞表を出そうとしても明治天皇が決して認めなかった、伊藤は辞表が出せても、朕には辞表というものがない、とかなり露骨に伊藤に嫌みを言ったという良く知られた事実がある。つまりはこれが伊藤と明治天皇の生の対立関係であったということになる。伊藤と天皇がただの仲良し仲間だったはずがないのである。

明治20年というのは日清日露戦争よりは前で、西南戦争の後であるから、西郷隆盛みたいな「権臣」が皇族を擁立して南北朝が再現されるおそれというものはまだまだあったのである。外征よりは内乱の危険性の方がまだ高い。西郷隆盛は朝敵そのものであった。実際、足利尊氏はいったん九州まで逃げ落ちて、そこから巻き返して、京都を奪い返し、北朝を建てたのである。この頃京都は東京に対して西京といったが、東京にいた明治政府は西郷離反に慌てて、西京に大本営を移したのである。伊藤博文には西郷隆盛が足利尊氏に見えていたに違いない。明治天皇には兄弟や従兄弟などはいなかったが、もしいたら、「権臣」が現れて、皇統が分裂していた可能性は高いのである。その際、譲位ということがあって、天皇の他にも何人も上皇がいたら、明治政府としてはたいへん困ることになる。明治政府としては明治天皇はしっかりおさえてあるが他の皇族まで手が回らないかも知れない、伊藤博文はそういう事態を危惧した。

日露戦争が過ぎた頃には明治天皇が譲位しても何の問題もなかった。伊藤博文にも明治天皇の譲位に反対する理由はなかった。しかし伊藤はすでにハルピンで安重根に暗殺されてこの世にはいなかった。