宣長が養子縁組みして離縁した件

神社は氏子、寺は檀家という。しかし伊勢神宮では檀家という。この伊勢神宮の檀家を束ねるのが御師。

宣長は伊勢山田妙見町の今井田家に養子に行った。 『宣長さん』によれば、今井田家は紙商で御師。

氏子というのは村の神社があって、その村に住んでいれば勝手に氏子扱いされた。 寺は一つの村や町に複数あることがあって、 徳川幕府によってどれか一つの寺に属さなくてはならなかった。 いわゆる檀家制度だ。

伊勢神宮が氏子と言わず檀家というのは、 神宮の氏子なのではなく、神宮寺の檀家だからであろう。 神宮の氏子は厳密に言えば天皇家だけだ。

全国を行商して、檀家を組織し、お札や暦を売る。 神主や氏子はそんなこと普通しない。
神仏習合というものがあって、御師があって、檀家があるのだ。

神宮寺は幕府や領主が檀家となったために、いわゆる一般の村民や町人の檀家はいなかったことになっている。 はたしてそうなのか。 明治の神仏分離令によって神宮寺が廃寺となったときに、かなりの数の檀家がその帰属する宗教的コミュニティをうしなった。 冠婚葬祭ができない。これは困る。 その檀家を吸収するために神道系の新興宗教が興った。 明治の神道系新宗教の多くは神宮寺に由来するのではないのか。

宣長は学問が好きで、子供の頃から漢籍や仏典も良く読み、僧侶になりたいと考えたこともあった。 今井田家には実子もいたらしく、宣長は学問を生業にしたくて今井田家の養子になったものと考えられる。

しかし、今井田家で本格的に学問を始めると、 宣長は、仏教や、神宮寺や、御師というものに疑問を感じ始めただろう。 漢学や仏教から離れ、古学、歌学、皇学を志した宣長は、今井田家に居続けることができなくなった。

ねがふ心にかなはぬ事有しによりて

宣長は養子に行くより前から和歌を詠み始めているが、 和歌に執着し、添削も受けるようになったのはこの養子時代だ。 まだ契沖には出会っていない。 和歌を学ぶということは、大和言葉を学ぶということだ。 和歌からさまざまな文芸がわかれていった。今様、連句、俳諧、猿楽。 それらは漢語や仏教語を取り込んでいった。 しかし、かたくなにそれらを退けて、大和言葉にこだわったのが和歌である。 和歌にのめり込むということ、和歌を学ぶということは、漢学や仏教の影響をうけない古代の大和言葉を追求するこということであって、 そこから当然、国学、皇学への志向が生まれてくる。

宣長という人は寺に仏式の墓を建て、その中には遺骨は納めず、 山の中に神式の墓を建ててそこに葬られた。 墓を二つ作った。 それが宣長なりの神仏分離であり、後世に遺した宣長のメッセージだった。 神仏分離という思想の源流が宣長なのは間違いない。


追記。思うに宣長は神道も好きだったが仏教も好きだった。だから神宮寺の檀家になるのが一番好都合だと思ったのかもしれない。若き日の宣長にとっては神仏習合の吉田神道や神宮寺のようなものが理想だった。しかしだんだんに知識が増えるにつれて、やはり神道と仏教は別物であり、というよりある一定の区別、けじめが必要であり、ついに神宮寺の檀家となり御師となることにジレンマを感じるようになってしまったのかもしれない。

ローラーとバイオリン

わざわざ見るほどのものではないと思うが、なぜこのタルコフスキーの学生作品がニューヨークの学生コンクールで優勝したかを考えてみるのは面白いと思う。

アスファルトを平らにならすローラーを運転している貧しい若者と、バイオリン教室に通う金持ちの子供の話。アメリカ人にしてみると、社会主義ソビエトにも、貧富の差とか、文化の差があるのかと興味深かったと思う。そういう好奇心をかき立てる作品だったのではなかろうか。

ボウリング・フォー・コロンバイン

この映画のキモなんだが、2001.9.11 以後に取材されたものだと思われるが、アメリカとカナダでは銃や弾の所有率や買いやすさなどはほとんど同じなのに、カナダではほとんど銃犯罪が起こっておらず、のうえカナダでは家に鍵をかけさえしない、ということだと思う。犯罪の街デトロイトの対岸サーニアですらそうなのだ。

マイケル・ムーアはその理由を分析するが、アメリカという国が原住民を銃によって虐殺し、さらには黒人奴隷が白人に対して暴動を起こすのではないかと内心怖れているために、護身用の銃がないと精神的に不安なのではないかというのだ。

アメリカでも犯罪は減っているが犯罪を報道する回数は何倍にも増えているという。メディアが不安を煽ることが、銃乱射という犯罪を生み出しているのではないかともいう。

なるほど、人種差別や凶悪犯罪はじょじょに減っているのだろう。しかし、視聴者の関心が高いという理由で、メディアがある特定の犯罪を取り上げることによって、そういう刺激的な犯罪が次第にエスカレートしていき、模倣犯を生むという悪循環を作っているのだ。この連鎖は、一度生み出されると、つむじ風のように、簡単には消えず、エネルギーを吸収して成長すらする。そのエネルギーを供給しているのは明らかにマスメディアであり、民衆の恐怖心だ。多くのアレルギーや精神疾患がそうであるように、一度発症してしまうと、もとに戻すのは難しい。アメリカではその不安と恐怖が世代をこえて再生産されている。

カナダにはそんな悪循環がない。もともと犯罪件数が圧倒的に少ない。だから、スーパーマーケットで銃弾を売っていても、免許さえあれば簡単に銃を入手できても、アメリカの俗悪な犯罪ドラマが国境を越えてあふれていても、犯罪はおこらない。

少なくともカナダの事例を見れば、銃規制に意味はないという全米ライフル協会の主張は正しい。これは歴史的、社会心理的な問題なのだろう。

日本を見るに、日本はもともと銃や刀の規制は緩かった。しかし戦後、暴力団どうしの抗争が社会問題化することによって、銃刀法がだんだんに厳しくなっていった。戦前も刀を使ったやくざの出入りというものはあったのに違いないが、あまり問題視されていない。 やはり戦後の混乱とマスメディアのせいなんじゃないかと言う気がする。そして銃規制や、ましてゲーム規制なんてことはあまり関係ないんじゃないかという気がする。

探偵物や刑事物に出てくる事件も統計と乖離しているのはあきらかである。女性がいきなりストーカーに刺される、みたいなドラマにしたてやすい事件ばかりが繰り返し出てくる。こういう風潮が社会心理というものを著しくゆがめ、犯罪を助長し再生産ているのではないのか。

文中の(  )にあてはまる文字を入れなさい

今更読んでみた。読んだがよくわからなかったのでネットでぐぐってみた。そうするとだんだんわかってきた。感想を書いている人が多いのにすこしびっくりした。

つまりこういうことか。麻美は百崎Pにそそのかされてボーカルになりステージにあがったがうたいだしが思いつかなかった。パニックに陥り「少女3」のところで、異世界にとばされたのだ。なんだつまりは異世界ものか、と思った。つい最近「パプリカ」を見たのでそれに似ているなと思った。よくわからない(と、いうより、わざとはぐらかしたような)ハイテンションが続く展開。

少女パートと少年パートが交互に進んでいって最後にボーイミーツガール話になるかと思ったら、そういう可能性もあるがそうしなかったみたいなメタな結末。

それで伊能忠敬がよかったとか、異世界に飛び込んだ感じが良かったとか感想書いている人がいて、自分はそこでツボらなかったし、ハイテンションな疾走感のある、というか迷走してる感じの文体というかストーリー展開に引き込まれることもなかった。そういう展開の中に自分から飛び込んでいき浸れる人には面白いのだろうが、私はそういう読書をするには年を取り過ぎたし、いや、年を取ってもそういう読書をする人はいるんだろう。祭りだから踊っとけという人だけが祭りの中へ入っていける。私はもはやそうではないんだなってことを改めて知った。では実験小説、前衛小説として評価しますかと言われたら、うーん。では次回作まで判断は保留しますか、という感じかなあ。ま、次回作ももう読んじゃったんだけどね。

ダダイズムの詩や絵画みたいなもので異世界を表現されても、普通の前衛小説の表現と見分けがつかなくて、どこから異世界に入り込んだのか私にはわかりにくかったのでした。
私が、異世界ものを普段読まずになれてないせいかもしれないが。

たとえば 1984 を読んでいるときに、途中で異世界やファンタジーが混ざり始める、なんてことは決して考えずに、私たちは読み進める。ふだんからそういう頭でいる人間にはファンタジーまじりのフィクションは読めない。読んでて途中でわからなくなるのはしかたないよね。

1984 から 1Q84 を調べてて知ったのだが、1Q84 ってボーイミーツガールな異世界転生話なのね? てことは今ラノベ界で大流行な「ボーイミーツガールな異世界転生話」というのはもしかして村上春樹の影響なの?もしかしてラノベって多かれ少なかれ村上春樹に影響されてるの?もしかしてこの世界が理解できない私というのは、村上春樹を全く読まないからなのだろうか。そんな気がしてきた。 けっこうな人たちが村上春樹の方向へつっぱしてっている世の中で取り残されたような気分がしている。

1984

1984を書き遺したジョージ・オーウェルという人は、大英帝国の末期に生きたイギリス人なわけだ。「ビルマの日々」「動物農園」などをあわせよんでみると彼の輪郭がだんだんはっきりしてくる。

殉教者を作ってはならない (one must not make martyrs.)。

これこそまさに大英帝国がその数百年にわたる帝国支配において、というより、キリスト教社会において、長い年月をかけて学んできたことだ。

キリスト教は「殉教者ビジネス」の先駆だ。教祖のイエスが殉教者の典型であったが、しかし、ユダヤ教の預言者にその前例がなかったわけではない。イエスがその殉教という演出方法を完成した。ほかの、例えばバラモン僧が自分で火あぶりになって死ぬみたいに、悟りや救済のために自発的に死を選ぶ「殉教」ではなくて、キリスト教の「殉教」は権力者による宗教弾圧とセットになっている。

宗教的弾圧を受けることによってより強固な共同体を作り出し、民衆、特に貧民を組織し、国家を侵食していって、やがて国教におさまって国家を乗っ取る。キリスト教とはそのような宗教である。

かつて日本にやってきた宣教師も弾圧され殉教した。ローマ法王は日本で殉教した宣教師を列聖することによって、日本にキリスト教の種を植え付けようとした(日本も爆心地の浦上天主堂をそのまま遺しておけば殉教のシンボルとすることができたのだが、建て替えてしまい、惜しいことをした)。殉教によって信仰がより強固になることを知った徳川幕府は、彼らを殺してしまってはいけないということに気付いた。改宗させるか、改宗しないまでも、生かして閉じ込めておくことにした。死ぬと殉教者になってしまい、信者たちの心の拠り所にされてしまうからだ。

20世紀には独裁国家が多数生まれ、殉教者もまた大量生産された。欧米の独裁者たちもまた、殉教者を自ら作り出さないように腐心した。独裁者たちは死に至らしめない肉体的拷問方法をたくさん編み出した。そしてもっとも巧妙なのは、反逆者らを精神的敗北者にしてしまうことだった。そのために一番効果的なのは、同志を告発させ、裏切らせ、転向させることだった。日本の「踏み絵」と良く似ている。「異端者」を「自由意志にもとづいて」「屈服させる」。「消極的な服従」にも、「至高の服従」にも満足しない。自分の最も愛する人を裏切り告発することで人は心が折れてしまい、反逆者として存在しなくなってしまう。これは反逆者を死刑に処すよりもずっと効果的なのだ。ということが 1984 に描かれている主題だ。

しかしながら、そうやって反逆者を消し去ったようにみえて、結局は、スターリンや毛沢東も、殉教者を完全に抹殺することはできなかった。無数の、無名の殉教者がいることを私たちは知っている。

殉教者を実数より少なくみせることも、逆に多くみせることも、殉教者ビジネスの一種だ。この「殉教者ビジネス」は今日でも「被害者ビジネス」「社会的弱者ビジネス」として健在なのは驚くべきことだ。イエスが自分で意図してこのビジネスモデルを発明したとすればおそるべき慧眼といえる。

アンプルフォースという詩人がキップリングの詩集を編纂していた。その詩の一つに、rod と韻を踏むために god という単語が出て来た。脚韻のために god を詩から削除することができず残した、それで思想警察に捕まってしまう、という話が出てくる。

君は考えたことがあるかね、イギリス詩の歴史は、全般的にいえば、英語が脚韻に乏しいという事実によって決定づけられていることを?(‘Has it ever occurred to you,’ he said, ‘that the whole history of English poetry has been determined by the fact that the English language lacks rhymes?’ )

「英語が脚韻に乏しい」よく見かける文句だが、これは 1984 が初出なのだろうか。どうもそうらしいのだが、だとするとずいぶん新しい。

ところで 1Q84 は 1984 に触発されて書かれたものであって、それゆえに 1984 を読み返す人が多いというのだが、それはどうだろうか。

ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

シドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそれを理解した。

いや、それはどうだろう。新井白石の著書から、そんなことが読み取れるだろうか。彼の認識は「我国厳に其教を禁ぜられし事、過防にはあらず」であろう。

白石は、問題をこじらせないためには、宣教師を本国に送り返すのが上策だし、でなきゃめんどうだが幽閉してしまえ。処刑するのは下策だ。転向させたり拷問することは無意味だ、と提言しているだけだ。国内的には一般人から隔離して「存在しない」ことにしてしまえばそれで足りる。対外的には迫害や殉教という事実がそもそも「存在しない」ことを示せば足りる。

ソラリス総括

結局ソラリスを一から全部見直すことになってしまった。

ツタヤで借りてきたタルコフスキー版の DVD は 2013年製で、これは今年出た「新装版」Blu-Ray と内容的には基本的にはまったく同じものである、と思う。画質音質などに違いはあるのかもしれないが。タルコフスキー傑作選Blu-Ray Box を出すにあたりついでに「新装版」を出したということだろうと思う。それより前の DVD を入手するにはアマゾンあたりで中古を買うしかないようだが、そこまでする気にはなれなかった。

さて、ハリウッド版、というか、ジョージ・クルーニーが主演して、ジェームス・キャメロンとスティーブン・ソダーバーグが作ったソラリスだけども、最初の雨のシーンや、宇宙ステーションに流れているBGMがバッハなのは明らかにタルコフスキー版のオマージュである。レムの原作では、クリス・ケルヴィンは特に誰かに呼ばれたというわけでもなく、何かソラリスで事件があったからというわけでもなく、たまたま何かの通常任務としてソラリスに赴き、そこで宇宙ステーションの異常事態に気付くことになっている。ギバリャンとはかつて一緒に仕事をしたことがあるが、ギバリャンに呼ばれたわけではない。
ケルヴィンの肩書きはたしかに作中で「心理学者」と言及されているが、心理学者だからわざわざソラリスの非常事態に派遣されたのではない。そういうふうな書き方ではない。
ケルヴィンは物理学的な素養も充分持った、一般的な自然科学者として描かれている。

しかしソダーバーグ版では、冒頭でかなりの尺を使って、「精神科医」あるいは「セラピスト」として勤務しているクリスが描かれる。さらに、クリスは一人でベッドに寝ており、「私をもう愛してないのね」という女のセリフが流れることによって、昔つきあっていた女がいたが、今はいないことが示唆される。

そして、知り合いの科学者ジバリャン(原作ではギバリャン)が、ソラリスからビデオメッセージで助けを求めたのでクリスがおもむくことになる。そのメッセージは謎めいていてよくわからない。ジバリャンはいかにも心を病んでいるようにみえる。

このイントロは、おそらくアメリカ社会において、心理学者とか精神科のカウンセラーというものが日常生活に浸透していて、その「わかりやすさ」をシナリオに利用したのだろう。アメリカ人でない私には最初良くわからなかったが。原作にはそんなニュアンスは一切無い。

クリスがソラリスに着いてみるとジバリャンはすでに自殺していた。見ている側では、ああ、ジバリャンは心を病んでとうとう自殺を図ったんだなと思う。クリスは間に合わなかったんだなと思う。そう思えば自然な流れだ。それからスノウ(原作ではスナウト)とゴードン(原作ではサルトリウス)に会う。ジバリャンが何故死んだのかを聞き出すためだ。これまた自然な流れだ。ここまでSF的要素は極めて希薄である。スノウやゴードンという名前もおそらくはSF色(というかロシア色)を消すために変えてある。ソラリスというものについても何も説明されない。単に、クリスはジバリャンの心の治療のために宇宙まで呼び出され、患者はすでに自殺していたという流れだ。レムの原作を知って見ていると何が言いたいのかよくわからない展開だが、先入観無しに見ればそういうことになるはずだ。

いよいよ死んだ妻レイア(原作ではハリー)がクリスの元に現れる。セラピストのクリスが妻を自殺で死なせたという伏線がここで生きてくる。セラピスト自身がソラリスの謎の心理現象に対峙することになるわけなのだが、以後、妻との不仲と和解というものがしばしばメインテーマとなるハリウッド映画路線を突っ走ることになる。死んだ妻との再会、懺悔。ある意味アメリカ映画にありがちな、オカルト的な展開と言えなくもない。

これもハリウッドの事情を知らず、レムの先入観を持っている私などがみると、なんとも意味不明に見えてしまう。おそらくアメリカでは倦怠期の夫婦が映画を見に行くことが多いのだろう。精神科医やカウンセラーに夫婦仲を相談するということも一般的。そういうアメリカ社会の背景を下敷きにしいてみると、やっとこれがすごくわかりやすい映画なんだってことがわかる仕掛けなのである。

でまあそこまで考えてみるに、この映画の脚本家は一応大衆向けの映画を作る気でいたのに違いない。別に難解なソビエト映画のリメイクをやろうとしたのではないのだ。

アメリカではたぶん、男一人で、あるいは女一人で、映画を見に行くというのは罪悪に近いのではないか。だから、アメリカではオタクな映画は流行りにくい。男女の恋愛というものが描かれないと映画館に人を呼びにくい。きっとそういう事情がある。日本で子供向けの映画が流行るのと同じ理由だ。

われわれは自分を聖なる接触の騎士だと思っている。ところがそれが第二の嘘だ。われわれは人間以外の誰をも求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない。われわれには自分の世界だけで充分だ。ところが、その地球はまだなんとなく住みにくい。そこでわれわれは自分自身の理想的な姿を見出したいと思う。広い宇宙には、地球の文明よりももっと完全な文明をもつ世界があるにちがいない。また、非常に幼稚であったわれわれの過去の生きうつしであるような世界もあるだろう。

原作でレムはスナウトにそう言わせている。これがレムのSFなのだ。他人が書くSFとの違いをここまではっきり丁寧に説明している。レム以外のSFというのは要するに人間自身を映している鏡に過ぎず、実際に起こり得る地球外生命との接触などというものからほど遠いのだ、レムはそう言いたいのである。レムの小説を読む価値はここにある。レムと一緒になって、ほんとうの未知との遭遇とはどんなものだろうかってことをあれこれ思考実験する。人間の持つ先入観と戦う作業。しかしそれでは世間一般のSFにはならないし、ソビエト映画にもハリウッド映画にもならない。観客を映画館に呼ぶこともできない。

ソダーバーグ版の見どころを一つ言えば、スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。難点を言えば、これは人類に不変な真実を描いたものではない。私に言わせればこれはハリウッド映画にありがちな、アメリカ人のオナニーというのに近い。

wikipedia にも書いてあるのだが、90分に縮めた日本語吹き替え版は、レムの原作に近いという意味では良く出来たものになっていると思う。おそらくタルコフスキーよりはレムに同情的な人が、台詞やナレーション、効果音などをふんだんに補完して編集したのに違いない。ある意味力作だと言える。ただしタルコフスキー的要素を完全に切り捨てられなかったために、ラストが意味不明になってしまっている。誰かがレムの小説に忠実に映画化すれば良いのに。そうすればソダーバーグ版やタルコフスキー版を理解する助けになるだろう。

タルコフスキーのソラリス

原作では中程に出てくる「バートン報告」が冒頭に持ってこられているのがきわめて興味深い。

先に、「バートン報告」こそが「ソラリス」の核であり、その前後は後から付け足したのかもしれない、などと書いたのだけど、タルコフスキーはそれに気付いていたか、或いはレムから直接聞いたのかもしれない。その「ソラリス」のキモであるバートン報告を省略することなく、むしろフィーチャーしようとしたのは良い。が、こんな台詞棒読みの謎シーンにしてしまっては、まったく生きてこない。前振りになっていない上に邪魔ですらある。レムの原作を読んだことがある人、特にまじめに読んだことがあるひとは、おやっと思って、そして腹を立てると思う。

主人公クリス・ケルヴィンはリトアニア人のドナタス・バニオニスが演じる。クリスの妻のハリー役はナタリア・ボンダルチュク。彼女がソラリスをタルコフスキーに紹介したという。スナウト役はエストニア人のユーリー・ヤルヴェト。クリスの父ニック役はウクライナ人のニコライ・グリニコ。

この他、後半でクリスの夢の中に若い頃の彼の母親が出てくる。この女性の意味もよくわからない。そしてこの夢を見た後、ハリーは置き手紙をしていなくなる。

冒頭はクリスの父ニックの家。叔母のアンナがいる。車でバートンとその息子が到着する。この家には少女と馬と犬がいる。この少女はアンナの娘(クリスの姪)であるらしい。クリスはバートン本人からバートン報告と調査委員会のビデオを見させられるのだが、そもそも原作ではクリスとバートンは出会ってないし、バートン報告のビデオなどないし、ニックもアンナも、馬も犬も出てこない。宇宙に旅立つ息子に「親の死に目にも会わないつもりか」などと父が怒ったりもしない。

バートンの息子は馬にびっくりする。タルコフスキー映画によく見られる雨や水辺の映像。もちろんこれらはレムの原作にはまったくないものだ。バートンは息子を連れて帰る。その際に東京の首都高をぐるぐる走るシーンが入る。今 youtube にアップされている東宝の日本語吹き替え版では、このバートンと会ったシーンは完全に削除されている。しかし首都高のシーンはツタヤで借りたDVDで見たことがあるので、私がかつてみたソラリスはも少し違った編集がされていたものとおもわれる。

アメリカ映画

ハリウッド映画やアメリカドラマでは、よく夫婦が離婚する。離婚した状態で物語が始まる。或いは別居中である。仕事はできるが夫としては頼りない男が主人公で、ヒロインは別れた妻で、子供は妻に取られてて、困難を克服して夫婦はふたたび仲直りする。というストーリーになっているのがすごく多い。ナンデヤネン。

一方で、主人公が軍人の場合には(退役軍人をのぞく)、彼は理想的な男であり、良き夫であり、妻とも子とも仲が良い。しかし軍人なので家を離れがちであり、しばしば愛する妻に電話した後に死んだりする。

この扱われようの違いはなんだとおかしくなる。

アメリカでは、軍人は頼りない夫であってはならない。そんなストーリーはタブーなのだ。

ソラリス

自分で小説を書くようになると、むかし読んだ小説が違って見えてくる。『ソラリス』を読み解くのはなかなか厄介だ。まず原作のスタニスワフ・レムという人がややこしい。『ソラリス』を読んだだけではよくわからん人だ。それをアンドレイ・タルコフスキーというソビエトの監督が映画化した。これまたよくわからん映画だし、映画版『ソラリス』を見ただけではタルコフスキーという人はわからない。

さらに『ソラリス』をよくわからなくしているのはハリウッド版の『ソラリス』なのだが、ハリウッドという存在をある程度知っていれば、このような脚色になるのは理解できるし、その知識に基づいてリバースエンジニアリングすれば元の『ソラリス』をある程度「復元」することも可能だ。

タルコフスキー『惑星ソラリス』:悪しき現実逃避映画。山形浩生もまたそのややこしさに目くらましされているように思う。もしかすると彼は東宝が配給した日本語吹き替え版を見たのかもしれない。この日本配給版は、冒頭で説明的なナレーションをかぶせたり、
意味深な前振りをざっくり省略したりしている。この前振りはラストと呼応しているわけだが、前振り抜きでラストだけ見させられると、どうしても山形浩生のように、

タルコフスキーは最後の最後でそこから逃げる。

という印象になってしまうだろうし、そこから

現実との直面を妄想との置換で逃げるやりかたのあらわれでもある。

という結論に導かれてしまいがちなのである。レム原作の『ソラリス』は現実逃避な話でもなければ、「愛が世界との関係の比喩になっている」作品でもない。最初から最後まで完全純粋なSFである。SFというか、物語仕立てにした、科学的手法に基づいた思考実験、というべきか。その「まな板」の上で「恋愛」が調理されているに過ぎない。この「まな板」はレムの他の作品と共通なものだから、それを知った上で『ソラリス』を見れば、ああ、レムは今回は「恋愛」をSF的手法で徹底的に切り刻んだわけだと、簡単に理解できるのである。

大嫌いです。冷たくて人工的で。だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。あんなの全部、口先だけのインチキです

変なことを言う、と思う。創作者はみな自分を狂気に追い込まなくてはならない。狂気の中に身を置かねばならない。いつも自分がほんとうに狂ってしまわないように自分の理性をコントロールしながら生きていくものだ。家族が好きかどうかということはあまり関係ない。それに妹に兄のことがわかるはずがない。親にも子にもわかるはずがない。映画監督の気持ちなんて。

それでまあ、山形浩生は律儀な人だから、レムの原作も読んでみたわけだ。感情なき宇宙的必然の中で:スタニスワフ・レムを読む。ところが彼はレムの小説ではなく彼が書いたSF評論を先に読んでしまったようだ。山形浩生は作家ではなくて評論家であるから、評論家としてレムを見ようとしたのかもしれないが、レムの評論に何か意味があるとは思えない。レムはSF作家以外の何者でもないからだ。

さようなら、人間嫌いのレム。死んで、水のつまったべちゃべちゃの醜悪な肉体から解放されたあなたは、機械に生まれ変われたでしょうか、それとも情報の炎を放つ星になれたでしょうか。もうしばらくして人間の時代が終わり、宇宙の主役が交代して機械となったとき、その機械たちにあなたの慧眼が伝わりますように。もっとも……あなたが正しければ、おそらくぼくたちは、その交代が起こったことにすら気がつくことはないのでしょうけれど。でもその一方で、かれを悼む人々に対してレムなら平然と言い放つだろう。悲しむことはない、と。

「機械に生まれ変われた」というのは『砂漠の惑星』のことを言っているのだろうし、
「情報の炎を放つ星になれた」というのは惑星ソラリスのことを言っているのだろう。
しかし、レムはおそらくただの「人間嫌い」ではなかったはずだし、宇宙の主役が機械になってしまうことを望んでもいなかっただろうし、自分自身が機械になりたいとも思ってなかったはずだ。

レムが嫌っていたのは、例えばウェルズの『宇宙戦争』のように、地球に人間が住んでいるのならば、火星には火星人が住んでいるはずだ、とか、火星人がいたら、地球人が民族どうし戦争するように、戦争するはずだ、文明人が野蛮人を征服するように、火星人のほうが地球人よりも文明が進んでいれば、先に火星人が地球に征服に来るはずだ、という「あまりにも人間的」な発想だ。19世紀のヨーロッパ帝国主義的と言ってもよい。

このウェルズ型の素朴な「宇宙人」「侵略者」は、徐々に洗練されていく。人間と良く似た宇宙人がいて、地球を侵略しに来て、時には宇宙人と地球人の間に恋愛が成立して、子供まで出来てしまうという、実にご都合主義的なSFも出てくる。そのご都合主義は、イデオンのように宇宙人も地球人ももともとは同源であるとか、キューブリックのように、キリスト教的な、地球のすべての生命体のスーパーバイザーとしての知的生命体の存在を仮定したりする。『未知との遭遇』のように、戦争に倦んだヒッピーたちは人間の形に似ているが友好的な宇宙人像を求めた。すべて馬鹿げたことだとレムは思っただろう。そんな人間に都合の良いような、人間の想像力で説明が付くような宇宙人が存在するはずがない。人間の都合で宇宙人を作るな。それは、人間の都合で神を作ってきたのと同じくらい馬鹿げたことだ。人間固有の発想に囚われている。先入観を捨てて、人間的発想から脱出しなくてはホンモノのSFは書けない。レムはそう思ったはずだ。

宇宙には人間とはまったく異なる知的生命体が存在するに違いない。それはどういうものであり得るか、ということを(20世紀に生まれた人間という限界の中で、ぎりぎりまで)追求したのがレムという人だった。他のSF作家が「あまりにも人間的」なSFばかり書くのでそれに反発したのがレムであったというだけであり、そここそがレムのオリジナリティーなのである。作家が自分のオリジナリティーに過度にこだわり、必要以上にのめり込むのは当然といえる。レム自身が人間嫌いだったとは言えない。

飯田規和氏の訳はともかくとして、『ソラリスの陽のもとに』という早川文庫の邦題は余計だ。「ソラリス」はもともと「太陽」の意味でかぶってるし、「ソラリスの陽」ではまるでソラリスは恒星のように思える。まあ、惑星をソラリスと名付けるのがそもそも問題だが。『ソラリス』だけでわかりにくいというのであれば『惑星ソラリス』くらいにしておくのが一番良かろう。『ソラリスの海』というのは冨田勲の命名。

タルコフスキーが『ソラリス』をあんな恋愛ものに仕立ててしまった理由はよくわからない。レムは反発してそして抵抗を諦めたのに違いない。『僕の村は戦場だった』で、白樺林の中でマーシャがくるくる回るシーンがある。そしてあの暗く冷たい湿地帯のイメージ。まさにポーランドの原野だ。『ソラリス』では東京の首都高をぐるぐる走ってる。要するにタルコフスキーはそういう映像表現が好きな人であって、それを『ソラリス』に投影すればあんなふうになるのだろう。としか言えない。

ハリウッド版の『ソラリス』はまあどうでもよい。タルコフスキー版からヒントを得て、きちんとしたSF恋愛ものにリメイクしてしまった。ヒロインは悲劇のアンドロイドとして描かれている。和食がみんな醤油味なのと同じで、ハリウッドの『ソラリス』はハリウッド味のハリウッド映画、としかいいようがない。

レムの『ソラリス』だが、導入からして完全にSFである(タルコフスキーとはまったく違う!)。第一章の終わりで、スナウトの手に干からびた血がこびりついている、という記述がある。この日の朝、ギバリャンは死んだとスナウトは言っているのだから、スナウトがギバリャンを殺したか、あるいはその死に深く関わっているだろうということが暗示される。うまいひっかけだと思う。読者はこのひっかけにひっかかってさらに読み進めざるを得なくなる。多くの謎が第一章で投げかけられるが、そのほとんどすべてがあとで裏切られていく。そこがまあこの作品のおもしろさだろう。第二章ではさらに昔死んだ恋人が現れる。これがだめ押し。ここまで読めばとりあえず読者は中盤までは読み進めるだろう。レムの他の作品にもあると言えばあるが、これほど巧妙な仕掛けはしてないと思う。

私もこういう仕掛けを使わなきゃならんなと思わせる。

ま、しかし、レムの代表作が『ソラリス』なのはタルコフスキーの映画のせいであって、『ソラリス』が真に理解されたからではないし、『ソラリス』だけに恋愛要素があるからでもないだろう。『ソラリス』は確かに傑作だが、その評価はかなり本質からずれていると思う。

『ソラリス』の多くの部分は、おそろしく退屈だ。恋愛なんて一言も語られない。ここはレム自身による作品解説になっている。タルコフスキーもハリウッドもこの部分はざっくり省略している。多くの読者もそれらはよみとばしているのではないか。

真ん中あたりに「バートンの飛行日誌と調査委員会における証言」というエピソードがある。巨大な人間の赤ん坊がソラリスの海の中で、ソラリスに操られて無意味な動きをしているという場面などが出てくる。実は『ソラリス』は他を一切読まず、ここだけ読んでもわかる。『ソラリス』という話の核とも言える。もしかするとレムは最初にここを書いて、前後を付け足したのかもしれない。

レムはおそらく科学者に憧れた人だっただろう、宇宙時代を開拓したソビエトという国家に現れた科学者たちに。少なくともレムの作品にはオカルト的な、不条理な、ファンタジー的な要素はひとかけらもない。100%ピュアな科学小説だ。レムにしてみれば、この作品は小説の体裁をした「学術論文」あるいは「哲学書」という性格のものであり、徹底的につじつまを合わせ、ネタばらしをしなくては気が済まなかった。実は私も「エウメネス」や「マリナ」ではそうしている。前半部分は読者サービス。中盤以降の解説部分は、たぶん読者にはあまり興味ないのだろうと思うが、著者としては書かずにはおれない。

finis vitae, sed non amoris

などと言った、恋愛小説めかした文句は結局は飾りなのだ。

イソクラテス弁論集

この解説がいきなり「カイロネイアの敗報」から始まっているのだが、私は暫くこの文章をイソクラテスが書いたのかと思って読んでしまったのが、なんだかおかしい。あきらかにおかしい。読み返してみたら解説が始まっていたのだけど、イソクラテスがデモステネスを褒めるはずがない。

デモステネスの演説がもつ決断の力強い表現は、都市国家が最後に放った閃光であり、ギリシャの弁論術の最高の達成である。

などというはずがない。イソクラテスはデモステネスに対して真逆の評価をしていたのに違いないのである。

私に言わせればデモステネスはただのバカだ。

カイロネイアの戦いが終わって酒に酔ったフィリッポス2世がデモステネスの決議文を韻文にして吟じたなどというのは、これも誰が言ったかわからない俗説だし(フィリッポスはデモステネスを嫌っていたが、そこまでするとは思えない)、イソクラテスがカイロネイアの敗報を聞いて断食して死んだというのも後世の俗説である(イソクラテスがそんな馬鹿なことをするはずがない。イソクラテスの死とカイロネイアの戦いがどちらが先かは不明)。むろんそういう俗説もあると参考までに取り上げるのはかまわないが、いきなり解説の冒頭にもってくるとはどういうことか。ミスリーディングだろ?

この、「イソクラテス弁論集」という極めてマイナーな本を読もうという人は、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、或いはデモステネスと続いた正統派の古典ギリシャ哲学に、多少の疑問をもち、イソクラテスに同情的な人ではなかろうか。フィリッポスと同時代で、彼の理解者であったイソクラテスの生の声を聞きたくてこの本を読むのではなかろうか。この本の解説はその期待を完全に裏切る。この本をさらに読む気が失せるほどに。この本の著者は、単に学術業績のために、ペルセウスの英文をたまたま翻訳しただけなのではなかろうか? イソクラテスに対する「愛」は持ち合わせてないのだろう。

少なくとも、イソクラテスの本なのだからイソクラテスのことを、客観的に、中立公平に、学術的に論じてほしい。そして単に今日定説となっていることを羅列して解説とするのではなく、イソクラテスという人の意義を掘り下げてみせてほしい。でなければ解説など邪魔だ。

それから、「平和について」と題するイソクラテスの演説も、これはデモステネスのような主戦論者に反対して言っているのだ、マケドニアと争うな、テーバイと同盟してマケドニアと戦争するなど大きな間違いだと。そしてこれは大国ペルシャに対して言っているのでないことも他の演説によってわかる。ペルシャの脅威に対してはギリシャ人全体の問題として、一致団結して、適切に対処しろと言っているのだから。そりゃそうだ。スパルタ、テーバイ、アテナイ、マケドニア、ギリシャ人が内輪もめしてる場合じゃないよと。さっさとギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主と認めて外敵ペルシャに対抗しろ。イソクラテスはそう言っているのだから。

月報の論評は日本の「平和憲法」や「九条」と絡めて話してしまっている。おかしな左翼思想を持ち込むなよ。そういうコンテクストで戦争を放棄しろ、平和条約を結べ、などと言っているわけではない。読めば明らかではないか。

ともかくイソクラテスファン(そんな人がいるかは知らぬが)が読んだら、腹を立てるに違いない。しかしおそらくそんな人は今のギリシャ哲学研究者にはいないのだろう。

それはそうとイソクラテスがスパルタという「王国」を褒めているのは面白い。結局マケドニアはスパルタと最終的に雌雄を決することになったのだが。まあ、マケドニアが好きなイソクラテスが同じ王国のスパルタを好きなだけかもしれないが。そんな彼がアテナイの敗戦を悲しんで断食して死ぬはずない。