後三条天皇

後三条天皇の御製を探しているのだが、なかなか無い。 『新古今集』

みこの宮と申しける時、太宰大弐実政学士にて侍りける、甲斐守にて下り侍りけるに、餞たまはすとて
後三条院御歌
思ひ出でて おなじ空とは 月を見よ ほどは雲居に 巡りあふまで

しかし、これは『拾遺集』の歌にあまりに似ている。

橘の忠幹が、人のむすめにしのびて物言ひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、この女のもとに言ひつかはしける
忘るなよ 程は雲ゐに なりぬと も空行く月の めぐり逢ふまで

『伊勢物語』第十一段にも、同様の歌が見える。

むかし、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける
忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空ゆく月の 巡りあふまで

『読史余論』では、『古事談』に出てくる話として、やはり後三条天皇の御製として

忘れずは おなじ空とは 月を見よ ほどは雲井に 巡りあふまで

とある。思うに、初出は伊勢物語であろう。意味も一番素直でわかりやすい。後三条天皇御製はひねってあってやや意味が通りにくい。『玉葉集』

御前に菊をおほく植えさせ給へりけるを、弁乳母申しけるをたまはせざりければ、
ほしとのみ 見てややみなむ 雲のうへに さきつらなれる 白菊の花
と申して侍りければ、後三条院
色々に うつろふ菊を 雲の上の ほしとはいはで 人のいふらむ

「星」と「欲し」をかけている。星のように美しい菊を欲しいと天皇に請うたがもらえなかった。後三条の歌はおそらく、欲しいと言ってくれたらやったのに、後からほしかったことを人から聞いた、というような意味だろう。

後三条の御製集というものがあったのだろうか。

二条天皇

二条天皇はわずか23歳で崩御したのだが、 優れた和歌を残している。独創的で斬新。白河天皇の凡々とした歌とはまるで違う。 崇徳院や後鳥羽院に通じるものもある、といえようか。 二代后など世間を騒がすこともあったようだが、 若々しく聡明で、 優れた君主であったようだ。

われもまた春とともにやかへらましあすばかりをばここに暮らして
雪つもるみねにふぶきやわたるらむ越のみそらにまよふしら雲
などやかくさも暮れがたき大空ぞわが待つことはありと知らずや
ことのねにかよひそめぬる心かな松ふく風にあらぬ身なれど
しるらめやおつる涙の露ともにわかれのとこにきえてこふとは
たれもよもまたききそめし鴬の君にのみこそおとしはしむれ
しら雲にはねうちつけてとぶたづのはるかに千代のおもほゆるかな

清輔に続詞花和歌集の編纂を命じたそうだが、完成しなかったのが実に惜しい。 その歌の多くは俊成が編んだ(後白河院勅撰の)千載和歌集に採られたのだが、その俊成

二条院の御とき、四代まで侍臣なることをおもひてよみ侍りける
いかなればしづみながらにとしをへてよよの雲ゐの月をみつらむ

という恨み節も面白い(四代とは崇徳、近衛、後白河、二条をいう)。 清輔と俊成はほぼ同い年だったと思われるので、清輔に対して俊成が重く用いられなかったことを言っているのだろうと思う。

風雅・玉葉集に採られている次の歌もなかなか良い。 たしかに、京極風の走りと言うこともできよう。 千載和歌集に漏れた(今日に伝わらない)多くの秀歌があるのに違いない。

いかでわれ人を忘れむ忘れゆく人こそかくは恋しかりけれ
空はれし豊のみそぎに思ひ知れなほ日の本のくもりなしとは

次の法印澄憲という人の歌もなかなかしみじみしている。

二条院かくれさせ給うて御わさの夜、よみ侍りける
つねにみし君がみゆきをけふとへばかへらぬたびときくぞかなしき

後白河院はあまりにも無能だったので(鳥羽院も、表向き平穏だっただけでものすごく無能だったと思う。崇徳はたぶん有能だった。しかし何もさせてもらえず、近衛は早逝した。頭が良いかどうかは和歌を見ればわかる。二条と崇徳は歌がうまかった。白河と後白河は平凡。鳥羽には歌が一つもない。まともな言語能力があったかどうかも不明)二条天皇によって強制隠居させられていたのだが、二条天皇が崩御して、後白河院が朝廷に復帰し、清盛を重用、 源平の争乱の原因となった。 二条天皇は後三条天皇の再来であり、また白河院のように聡明であった。 もし二条天皇が白河院や鳥羽院のように長寿であったら、日本の歴史はまったく違ったものになっていたかもしれん。

勅撰集に載ってない御製を掘り起こすのはとても難しい。 後鳥羽院や順徳院のように御製集が残っていれば良いが、 そうでないと我々素人にはどうしようもない。

白河天皇

白河天皇が和歌が大好きだったのは間違いない。 本人の和歌は、それにしてはあまり知られてない。 どちらかといえば凡庸な歌、下手の横好き的なものだったようだ。

風吹けば柳の糸のかたよりに靡くにつけて過ぐる春かな
春霞立ちかへるべき空ぞなき花のにほひに心とまりて
おしなべてこずゑ青葉になりぬれば松の緑もわかれざりけり
ほととぎす松にかかりて明かすかな藤の花とや人は見つらむ
池水にこよひの月を映しても心のままに我が物と見る

ある意味、後白河院の歌に良く似ている。 こういう歌は、だいたいにおいて、退屈な叙景もしくは心象の歌であり、 天皇で、そうとうたくさん詠んだから、今日まで残っているにすぎないのではなかろうか。 おそらくは後世に伝わらなかった平凡な歌が大量にあるのではないか。

鳥羽天皇

鳥羽天皇という人は、よくわからん人だ。 まず、和歌が残っていない。 二十八年間も院政を敷いて、この当時の天皇としては異例だ。 普通、天皇の和歌というものは、何かしら残るものだ。 成人して院政までやっていれば、少なからぬ和歌、もしくは今様などそれに相当するものが残るのが当たり前だろう。 勅撰集も編ませていない。 その上、上皇になった後の妃・得子に皇室の財産の多くを相続させている。 普通皇室の財産は子孫の天皇に相続するものだろう。 白河院の時代から世の中は中央集権から地方分権に転換し、天皇家は日本最大の領主、 以上の存在ではなくなっていた。 その所領を無造作に妻に相続させてしまう。

得子の専制はそれまでの藤原氏外戚というのとも、少し違うような気がする。 鳥羽天皇の死後、保元の乱、平治の乱と、得子を原因とする大乱が二度も起こり、 源平の争乱、鎌倉幕府へと続いていく。

鳥羽天皇や得子のサロンには文化の匂いがまったくない。異様だ。 もしかすると、鳥羽天皇は、相当に暗愚だったのかもしれん。 得子も貪欲ではあっても聡明ではなかったろう。 少なくとも無気力であったのは間違いなかろう。

白河天皇も、崇徳天皇も、後白河天皇も非常に個性的なのに比べて際立っている。 非常に不幸なことだと思う。 日本の黒歴史の始まり、とも言える。 崇徳天皇が挙兵したのも、実は相当深刻な問題をはらんでいたからではなかろうか。

和歌

ふと思えば、一年以上和歌を詠んでない。 いや、『新井白石』の中に出てくる歌は詠んだんだけど。

ひとりもる しづが千代田の 岡におふる まつてふ心 君につげばや

千代田の岡というのは明治天皇が好んだフレーズなんだよな、実は。 他にも孝明天皇の和歌を採り入れた箇所もある。 たぶん言わなきゃ誰も気付かないだろうど。

心不全で入院する直前に詠んだ歌なんだよな、これ。 今みると恐ろしい。

訓導の詠歌

祖父は昭和二十年当時、国民学校の訓導、つまり今で言う小学校の教諭だった。四月四日、訓導にも動員令が下ったと、祖父は「応招前記」という日記に書いている。面白いのは毎日のように和歌を詠んでいることで、祖父が和歌を詠むとは初めて知った。その歌の存在すら知らなかった (もしかするとまったく忘れてしまっただけで実は祖父から和歌の影響を受けた可能性もなくはないのだが)。

きのふまで 人ごととのみ 思ひしに 今日より我も いくさ人なり

悪くない。明治四十五年生まれなので、当時三十三歳のはずだ。

戦局の日々に苦しくなればとて大和心にゆるぎあらめや
菜の花の散るをも待たで征く人を送りて次は我かとぞ思ふ
粥すすりすめらみくにを護る者我一人にはあらざるものを
沖縄の決戦夢に見しものをおのが勤めはかはらざりけり
動員の学徒となりて征ける子よまめに務めよ我が国のため
今をおきて立ち上がるべき時はなしすめらみくにのますらをの子ら
メリケンを討たむばかりに剣とる今日この頃ぞうれしかりける
我一人正しと思ふ心こそ正しからざる心なりけれ
皇国の興廃かける一戦の間近に迫る夏の朝かな
いかづちのとどろく中に田植ゑする乙女の心強くもあらなむ
みそとせも生きながらへし身にしあれば散りゆく今日に何不足ある

おそらく当時みんなこんなふうに和歌を詠んだんだろうなあ。そして戦後、反動でまったく詠まなくなったのだ。

こういう歌を詠んでしまうと、なかなか普通の歌は詠めないものだ。

後鳥羽上皇

例によって wikipedia の「後鳥羽天皇」を読んでいたのだが、

伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた[1]。 また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[2]。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[3]。

本気で言っているのか。

[1]はただの個人の感想ではないのか。

[2]は藤原定家ならそのくらいの悪口は言うだろう。ていうか定家が後鳥羽院に対してかなりネガティブなイメージを持っていた証拠にはなるだろう。それに定家が言いたいことは、即位のときに神器がなかった、という正統性の問題ではなく、神器のうちの宝剣が失われて戻ってこなかった、ということだけだ。三種の神器がそろってないから蹴鞠ばかりする、とまあその程度の意味だろう。

[3]だが、承久の乱の原因が、三種の神器を欠いて即位したコンプレックスによるものだとする、まあ、そんな意見もあるかもしれん、だが、戦前戦後のすべての学説を並べた中にこれがあるならともかく、こういう書き方は公平性を欠いているのではないか。かなり歪んだ記述だ。

丸谷才一は後鳥羽院が大好きだからたくさん書いている。そのことは良い。ただの作家の一個人としての感想だからだ。しかしおかげで丸谷才一史観みたいなものができてきて、それがまるでオーソリティのようになりつつあるのではないか。極めて危険だ。司馬遼太郎くらいに危険だ。

後鳥羽院はものすごくたくさん和歌を詠んだ人だ。そしてすごく優れた歌人だ。ほんとうはもっとたくさん勅撰集に採られていてもおかしくない。しかし承久の乱を起こしたので、のちの北条氏や足利氏には嫌がられただろう。ごく一部の歌だけが知られている。戦後はやはり、後鳥羽院の歌は半ば封じられた。特に承久の乱の後、隠岐に流されたころの歌とか。順徳院の歌も。

承久の乱がなんであったのかは今も良く理解されていないと思う。

白河院はものすごく勅撰集にコミットした。万葉集、古今集は必ずしも天皇の関心事ではなかった。勅撰集というものは白河院が創始したと言っても良い。だが、後鳥羽院という天才歌人天皇がいなければ、勅撰集は応仁の乱までもたず、従って今日でははるかむかしに存在した文芸、ということになっていたはずだ。

コンプレックスだけで良い歌は詠めない。後鳥羽院はほんとうの天才だった。むしろ何のコンプレックスもなく、王者としての万能感だけがあったのではないか。だからつい承久の乱を起こしてしまったのだと思う。

迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、 江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、 桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、 品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。 品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、 ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。 ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。 直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。 ちょうど慶応大学の辺りである。 ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。 この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。 おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。 大名行列とか。 しかし、農工商は右の道を通る。 東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。 ここから中原街道に分岐する。 しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。 そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。 第二京浜とはなんぞや。 戦前の昭和に開発された国道らしい。 第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。 これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。 よくみんな迷わず道を走れるものである。

筋違

筋違はスジカイと読むらしい。中山道は大手門から神田橋、筋違橋を過ぎて、まっすぐ行けば上野、右へいけば秋葉原、を左へ折れて、湯島聖堂の裏を抜けて、本郷通りをすすむ。ほぼ国道17号線。

Inkscape の練習にと江戸の地図を描いていたのだが、わからんことだらけだ。

川越素描にも同じ地図を掲載したが、小さくてわからんと思うから、もう少し解像度の高いのをここに貼っておく。SVGで公開しても良いのだが、もう少し考えさせてほしい。こういう地図はたぶんいままでなかったと思う。あって当然であるし、もしかするとどこか知られてないところにはあるのかもしれない。しかし、あまり見かけない地図である。

* [goo江戸切り絵図](http://map.goo.ne.jp/history/area_top.html)
* [goo明治東京地図](http://map.goo.ne.jp/map.php?st=8)
* [”超検索”大江戸八百八町](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)
* [貴重資料画像データベース](http://metro.tokyo.opac.jp/tml/tpic/resprint_d/all/isbn001_0_30/isbn001_002_001.html)
* [1590年頃の江戸](http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/edo1590.html)
* [東京の川と橋](http://hix05.com/rivers/river03/river032.html)
* [江戸城本丸図](http://www.max.hi-ho.ne.jp/khori/Edo_castle_plan.htm)

などを参考にしているのだが、微妙に食い違う。現代の都心の地図の方がまだ信頼できるので、これを下敷きにして、もともとどんなふうだったかを想像しながら描くしかない。

江戸は、道灌の時代と、北条氏が治めていた時代と、家康以後の三段階で考えないとわからんと思う。北条氏の時代は小田原と江戸を結ぶ道、矢倉沢往還とか、江戸時代には大山街道と言われるが、これが主たる街道であったから、赤坂が江戸城の表玄関であったはずだ。この名残で赤坂見附は非常に厳戒であるし、また赤坂筋違橋というものもある。

おそらく、江戸城から浅草へ向かう浅草橋に対して、筋違橋と呼ばれるのは、上野へ向かう道である。浅草と上野は確かに間違いやすいから筋違いと呼んだのであろう。ただ、どちらかと言えば、筋違いな方が奥州街道や中山道や川越街道に接続しているから重要であり、浅草方面は水戸に続くだけなのである。なので、筋違いという言い方は北条氏の時代にさかのぼるのではなかろうかと私は推測してみる。

本丸周辺は非常にややこしい。特に竹橋、雉子橋、一ツ橋、平川橋辺り。やっとだいたいこんなふうだっただろうと推測できた。また、西の丸の辺りもややこしい。今の二重橋とかその手前の石橋、桜田門と呼ばれている辺りである。現在の地形が大幅に変えられてないと考えるとだんだんすっきりわかってくる。今も昔も桜田門から入って石橋を通り二重橋を通らないと西の丸には入れない。シケインのようだ。

昔は蛤濠と天神濠がつながっていた。京都の方から東海道を下ってくると、まず虎ノ門を通り、次に桜田門を通り、それから桔梗門、別名内桜田門を通る。すると大手門を通らずにすでに二の丸前に出るからそこから中雀門を通って本丸へ至る。

蛤濠と天神濠の間が埋まってしまったために三の丸の位置が非常に紛らわしいことになっている。つまり、二の丸と三の丸の間にはもともとは濠があり、しかも三の丸は二の丸の北側、平川門の手前にあったのである。

しかし、現在、三の丸尚蔵館は大手門を入ったすぐにあり、そのすぐ北側に宮内庁病院と三の丸跡地がある。二の丸の東側が旧三の丸だったかのように、昭文社の地図にも描かれているのだが、これは限りなく間違いに近い。昭文社地図に「覆馬場」と描かれている辺りが本来の三の丸である。古地図にはいずれも明確にそのように描かれている。

新橋というのは江戸にはいくつもあって、いずれも見附や門が付随してない。中の橋と呼ばれる橋も似たようなもので、いくつもある。もとからある橋と橋の間に架けたので中の橋というだけなのだろう。今東京では新橋は固有名詞のようになっている。日本橋から京橋を経て新橋まではいわゆる銀座であって、都庁移転前までは東京のメインストリートでもあるのだが、この新橋京橋日本橋というルートは家康的にはメインストリートであったはずがない。町人や商人が往来する通りなのである。武士は、少なくとも大名行列は、上に書いたように、決して新橋は渡らなかっただろうと思う。実際、芝の増上寺の西側を通るのが国道一号線、左側を通るのが京浜一号線(国道十五号線、銀座通り)である。国道一号線は桜田通りとも言い、虎ノ門を過ぎて桜田門にぶつかると折れて大手町に続いている。
江戸時代の書店が発行した地図というのは、これは町人や商人に便利なように書かれていて、従って京浜一号線の方が太く詳しく書いてある。武家は利用しなかったのだろう。

改めて思うのだが、江戸城にとっての生命線というのは、平川門から出て一ツ橋河岸から道三堀を通って隅田川まで、さらに東へ小名木川を伸ばし、行徳の塩田まで至っている。このルートである。そして隅田川と神田川と外堀を防衛戦とすれば、通常の考え方で言えば落ちない。少なくとも大坂の陣のようなことにはなり得ない。案外黒船とも戦えたのではないかと思う。しかし、幕府は江戸の町を焼かれるのを恐れたか。あるいは、武力に訴えて抵抗することに懐疑的だったのか。たぶん台場を築き始めて、考えるにここで戦を始めるのはあまり賢くないってことに気付いたのだろう。

鎌倉や福原(一ノ谷)とは比較にならないほど強固な軍都になっている。土木技術の発達のたまものだ。また北京の紫禁城などと比べても防衛上遜色はないのではないか。紫禁城には城壁はあっても濠がない。たぶん江戸城の方が落としにくいだろうと思う。紫禁城よりか江戸城の方が少し小さいようだが。