新井白石日記

新井白石の日記を、全集ではなく、白石日記上下巻というもので読んだのだが、あっけないほど短い。折り焚く柴の記の半分もないように思う。

芝の白銀、つまり今の港区白金のことだと思うが、ここに綱豊から屋敷を拝領したという記述がある。非常に興味深いが、今までそんな記述は見たことない。綱豊というのだから、まだ甲府藩邸勤務の頃だ。下屋敷か何かだろうか。それとも本宅か。しかし、当時の白金はずいぶん田舎なはず。

改行が多く、難解ではないが、なんというかだらだらしてておもしろみはない。一度じっくり読んでみる必要はあると思うが。読み物として見れば断然折り焚くの方がおもしろい。

ふと見ると、夢で見たという「倭句」なるものが二箇所ほどみつかる。

寛永二年五月十四日
笛吹く宿へほにはろいいろは哉

正徳二年二月三日
春くれば垣ほの梅のほころびて
我が前に立つ人ぞ嬉しき
慰めに天といふ人まれなるべし
道にして心を道に任すれば
すでに天知る心なりけり
必ず後に至らざりけり
花橘の香には匂へる
ただただ道に任すべきなり

これは、何のつもりなのだろうか。神のお告げのたぐいか。和歌はある程度わかるようではあるが、和歌を嗜むとか訓練を積んだというようにはみえない。和歌のように見える箇所もあるが、単語や内容も陳腐だし、素人同然と言ってよいと思う。

1両の価値

米は1合で約150g、1升では約1.5kgとなる。1俵は35升なので52.5kg。

今時だいたい10kgの普通の米が4000円も出せば買える。となると1俵で20000円くらいとなる。

新井白石の時代には1俵が37両であった。37両 = 2万円となる。1両がわずかに540円。これは今の感覚で言えばずいぶんと安い。下級の御家人は扶持米が一年に300俵くらいだったらしい。すると年収は600万円となる。これは割とわかりやすい。つまり、新井白石の時代には、金は今よりずっと価値が低かったということか。

いつからか、義賊になった鼠小僧次郎吉 など読んでいると、幕末には1両で約1俵だというから、つまり、金貨の価値が37倍にもなったことになる。理由はよくわからんが、元禄までは金が国内ではめちゃくちゃ取れた。それで金が余った。それから金を輸出するようになり、産出量も減ってきた。そこで金の価値が暴騰した。逆に米の生産量は干拓や埋め立てなどでだいぶ増えていた。

というようなことではなかろうか。同じ江戸時代でも百年経てば物価もだいぶ変わりますわな。

桜田御殿

桜田御殿というのは幕末の江戸の地図にはもはや載ってないが、日比谷門を出た角地にあったというから、尾張屋切絵図や大江戸絵図など参考にすると、松平肥前家、松平大膳家などの敷地を合わせたものに相当するのだろう。

松平肥前とは鍋島氏のことで鍋島は龍造寺の家臣だったので、松平とは直接関係ないと思うのだが、いつの間に親藩扱いになったのだろうか。wikipedia など読んでもさっぱりわからない。

追記。村川浩平「肥前佐賀藩、鍋島氏への松平氏下賜」によれば外様大名に松平氏が下賜された例があるという。鍋島氏には将軍家光の時、鍋島光茂が初めて下賜されたとある。

加後号

いわゆる加後号というものは、後一条天皇から始まっている。これは系譜を見ると明らかなように、村上天皇の皇子に冷泉天皇と円融天皇があって、ここで皇統が二つに分かれてしまっている。円融天皇を冷泉天皇の皇子の花山天皇がつぎ、花山天皇を円融天皇の皇子の一条天皇が継ぎ、一条天皇を冷泉天皇の皇子の三条天皇が継ぐ、といった両統並立状態だ。これはまずいというので、三条天皇を継いだ一条天皇の皇子には後一条天皇という追号がおくられた、後一条天皇が一条天皇の正統な後継者だ、という意味合いが込められているのだろう。それはわかる。

しかしその後がもうわけわからない。後朱雀天皇は朱雀天皇の直系子孫ではないし、五親等も離れている。後冷泉天皇も後三条天皇も円融天皇の系統であって、冷泉天皇の子孫ではない。どうもこの道長・頼通の時代に朝廷の原理原則というものが乱れきっているように思われる。

新井白石は後三条天皇がお気に入りである。蝦夷征伐を行い、記録所を置いて荘園を整理した。しかしその後の鳥羽天皇や白河天皇はもうだめだ。

荘園ばかり増えて国司は任地に赴きもしない。国の直接財源は百分の一ほどとなり、勝手な地方自治状態になっている。鳥羽天皇や白河天皇も自分で荘園を持っていたから富裕だっただけであって、きちんと国の経営をしたわけではなく、そのツケが後白河天皇の時代に保元の乱やら平治の乱やら源平合戦となって噴出した、新井白石はそう考える。

結局古代律令制というのは後三条天皇のときにすでに死んでいた、というわけだ。

中国では趙匡胤が統一国家宋を作り、歴史上世界的に中国が最も先進的な時代を迎えていた。中国が工業も政治も軍事力もすべてにおいて世界に優越してのは宋のときしかない(宮崎市定の受け売りである)。宋学という当時世界最先端の中央集権的な政治思想が当然後三条天皇の時代に日本に流れ込んできただろう。道長タイプの政治家とは違う実務的で有能な官吏が、日本も宋のようになればよいと考えたに違いない。そういう高級官僚は後白河法皇の時代にも、何人も現れている。要するに私営地を減らして国営地を殖やし、国の財源を確保して、健全な国家経営をしようという、ごくまっとうな、つまり現代的な発想をする人たちだ。だがそういうまともな官僚たちは、はじめに藤原氏に、次には平氏につぶされてしまい、結局源氏を経て北条氏に政治の実権がうつってしまった。

新井白石は高級官僚だから一民間人の頼山陽とはやはり発想が違ってくる。天皇と朝廷が国を経営しなくなったのがまず悪い。後三条天皇以後はもうむちゃくちゃで「政道を行はるることことごとく絶えはてて」「日本国の人民いかがなりなまし」という状態に至った。
だから頼朝が出て北条氏が出て賤臣の分際で国の政治を執り行った、ということになるのであり、白石自身が感じていた為政者側の責任感というものから、そういう考え方に至ったのであり、至極自然だと思う。

後三条天皇は皇太子時代が長く藤原氏を外戚とせず、三十代半ばの壮年期に天皇に即位した。これだけのことからでも、その志は察しえよう。

後三条天皇の号は母親が三条天皇の皇女(道長の孫娘)であるからおくられたものであろうか。つまり藤原氏の血縁関係の方が皇統よりも重視されたということか。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。だから、この展望台の下が台所口であり、中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。竹橋を経由したとは考えにくい。平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。

大塩平八郎

パブーで大塩平八郎 というのを公開した。 これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、 私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。 というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。

ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。 それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。 新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、 ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。 そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。 「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。

「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。

「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。 たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。 歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、 やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。

それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。 こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。 ネットでより目立つためだ。 たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。 効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。

「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、 やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。 そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。 たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。 女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。

それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、 wordからコピペするだけで良いことがわかった。 そのほうが楽でよいと思う。

さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。

白石と家宣

荒井白石は家宣将軍就任当時五百石の旗本だった。町奉行の遠山金四郎とちょうど同じ知行だ。低くもないが高くもない。旗本だから将軍お目見えはできるが、老中らが執務するご用部屋には入ることができない。つまり将軍の家臣として直接執務することはできない。側用人間部詮房は一万石だから大名だ。後に五万石。譜代で五万石ということは老中クラスということになる。家宣から間部を通して白石に下命があった、ということだろう。家宣と白石は、甲府時代はもちろん直接面会していたはずであり、また、綱吉の養子となって江戸城に入った五年間も、白石とじかに会えたのだろうが、綱吉が死んで家宣が将軍になってしまうと、そう簡単には、少なくとも形式的には会えなくなったか。いやいや、たぶん、白石が職務上正規の手続きを経るにはそのような形式を踏む必要があったが、白石は家宣が将軍になった後も、直接相談に乗っていたか。

白石はしかし、官位は筑後守従五位下であるから、殿上人であり、御所に昇殿が許されている。決して低くない。藩主か大名クラスだろう。浅野内匠頭と同じくらいだ。つまりは、天皇や朝鮮通信使などの接待の仕事の都合そうなっているのだと思われる。贈正四位というのは明治に入ってからのことらしい。

元猿楽師の間部ですら五万石の大名になったのに白石は千石の旗本止まり。

家宣就任時に48才、白石は53才、当時としては十分高齢だった。わざわざ将軍になった後に読史余論などの講釈をしたのか。甲府時代、家宣三十代頃におこなった講義を、家宣が将軍になったあとに清書したということであろう。

歴史の連鎖

川越素描で、

だいたい日本人の好きな日本史というのは戦国か幕末維新である ・・・ それから、神話時代から平安鎌倉まではロマンもあって好きな人も多い。江戸時代は時代劇に使われる機会が多くて親しみやすい。比較的人気がないのは南北朝、室町である。特に建武の新政から応仁の乱までのぐちゃぐちゃした辺りが好きだというのはよっぽどの物好きである。

どうしても室町の時代背景を書かねばならぬ。特に応仁の乱の頃のひどく人間関係が複雑で、スターもヒーローもアイドルも居ない泥仕合の時代を書かねばならぬ。

菜摘自身は、足利将軍家や室町時代がさほど嫌いでもないのだが、一般人はそうではない。嫌いである以前に無知無関心である。そういう連中にくどくどと説明しなくてはならないのが億劫なのだ。先日も清水の「特論」の講義で菜摘がかちんときたことがあった。清水が言うには、「南北朝や室町時代は中世の暗黒時代」である。特に応仁の乱の頃は「政治が廃れた」一方で、逆に能や書院作りなどの日本特有の「文化が栄えた」時代であって、「今の平成の時代とよく似ている」のだそうだ。《だめだよそれじゃあ。財界人や、司馬遼太郎にかぶれた連中がそういうわかったようなことを言うことはあるかもしれないが、歴史の専門家が、室町時代を「政治が悪く文化が栄えた戦後日本に似た時代」などと乱暴に決めつけてしまっては、日本の歴史というものは、永久に理解できないだろう。できるはずがない。まるきり違うものなのだから。室町時代は典型的な地方分権の封建時代。分権しすぎて政治が乱れた。今の日本は東京一極集中の議会制民主主義の時代だ。どこをどう比べれば似ているのか。》

などと書いていたのだが、最近思うに、南北朝や室町が嫌いとか、平安から南北朝への連絡、また、室町から戦国への連絡がよくわからん、というのは、実は戦後の傾向であって、戦前の日本人はそうは思ってなかったのだろう。というか、戦前と、その60年後の今では、歴史認識にも相当な進歩があるから、現代人の方がより深く日本史というものを理解しているのには違いない。しかし、戦前の日本人は日本史というものを比較的連続な現象として把握しており、どこの時代は理解できるがどこの時代はわからん、などということは少なかったように思う。

平家物語や太平記は発禁になったわけじゃない。原典は読めるし、戦後も吉川英治の「新・平家物語」とか「私本太平記」などのような形で普及している。だが、平家物語も太平記も、ありのままの形で鑑賞されているとはいいがたい。間に入っている教育業界や出版放送業界によっていかようにもその印象は操作できてしまうのだ。南北朝は変な時代だとか南北朝はダメな時代だとかそういう教育、そういう空気が世に満ちると、みんな自分で確かめもせず、よみもせず、だいたいそんなものなのだろうと思ってしまう。

しかし、虚心に原典を順番に読んでいくと、特に太平記が特別難しいわけではなく、平家物語が非常に簡単なわけでもない。戦国時代などは資料が少なくてわからんことの方が多いし、江戸時代とても、そんなにふんだんに文献が得られるわけでもない。原典を読むのはだいたいどの時代でも難しい。それを、わかりやすいよう、理解しやすいようにする連中が、ある種の意図でもって、太平記は難しくて偏向してる、平家物語は面白くてわかりやすい、などと言っているにすぎない。

日本史を一つの連続体として解説した割とまともな著書としては新井白石の「読史余論」と頼山陽の「日本外史」がある。戦後の日本ではそういう教え方はしない。まず、「日本外史」と「太平記」は教えなくなった。「読史余論」をじかに読むやつなどいない。そうするとどうしても南北朝や室町というのは、ぼんやりとぼけてしまってわからんようになる。で、なんで山名と細川が内戦始めたの、なんで義政は将軍のくせにあんな無気力なの、わけわからん、尊氏も後醍醐天皇もどっちもどっちだな、戦争なんかやるのが悪い、とまあこのくらいの認識になってしまう。

新井白石は実に頭が良くて、なぜ天皇の時代が武士の時代に移り変わったかということを、おそらく日本で初めて、理知的に解説してみせている(白石の他の著書なども合わせ読むと、彼がごく普通の常識人であり、現代人とほとんど違わない感覚をもっていることがわかる)。頼山陽はそういう武家の通史的な発想を全面的に受け入れつつ、北畠親房的水戸学的方向、つまり天皇家中心の方向へ修正し、かつ、読み物として面白くなるよう軍記物的エピソードをちりばめている。

昔は「太平記読み」などと言ったように「太平記」はかなりメジャーな読み物だったが、戦後は皇国史観の源泉とみなされ排斥された。歴史を擁護しているようでその封殺曲解に一番貢献しているのは司馬遼太郎だ。彼は室町・南北朝を描かないし、平安時代は義経しか書いてない。戦前の史観を戦後民主主義史観で置き換えるためにいろんな無理をしているせいだと思う。それはしかし戦前の軍国主義者がやったことと何ら変わりない。自分の主義主張のために演出を加えているだけだからだ。そのため時代間の接続がぶつぶつにされて、良い時代と悪い時代があるとされた。連続に変化してきたその、なんちうか、一連の変動としてとらえる目が失われた。ああやって、自分の好みの時代だけを切り取って、自分の都合の良い解釈をすれば、歴史全体の流れはまったくわからんようになる。白石が苦心したのはそこだ。日本史全体の整合性はどうなっているのか、と。

私は、新井白石「読史余論」、頼山陽「日本外史」的な史観をもう少し丁寧に修復すれば良いだけだと思う。これらの史観に偏向がないとは言わないが、今よりはまだまともだろう。江戸時代の著作だから今から見れば誤謬もあろうがしかし、もともと戦前はおおまかにどのような歴史観があり、戦後の歴史観のよろしくないところに気付くには良いものだ。

日本外史の愛読者の一人だからそう思うだけかもしれんが。

俊成2

山桜 散りに光を 和らげて この世に咲ける 花にやあるらむ

いいねえ。「この世に咲ける花にやあるらむ」。しびれる。

つくづくと 濡れそふ袖に おどろけば 降るとも見えで 春雨ぞ降る

いいねいいね。「降るとも見えで春雨ぞ降る」。すごく良い。同語反復がうまく効いている。これも初句不要。七五七七のほうがしまりがあるだろう。

花の散る山川堰ける苗代に賤が心も満つべかりけり

普通?

すみれ咲く浅茅が原は踏み分けて問ふ人無きもさもあらばあれ

「問ふ人無きもさもあらばあれ」。いいなあ、こういうすっとぽけた言い方する人だったのだなあ。

志賀の山松にかかれる藤の花浦のさざ波越すかとぞ見る

叙景のようだが、しかしあり得ん誇張された光景だわな。

藤の花雲にまがひて散る下に雨そぼ降れる夕暮れの空
いにしへをしのぶ心をそふるかな御祖の杜ににほふたちばな
我が魂もあくがれぬべし夏虫の御手洗川にすだく夕暮れ
あはれさを人見よとても立てざらむけぶり寂しき賤が蚊遣り火
野辺に置く同じ露とも見えぬかなはすの浮き葉に宿る白玉
思ふこと今はみな尽き果てぬらむ御手洗川にみそぎしつれば
眺むれば心さへこそあくがるれしぐるる頃のむらくもの空
なぞやかく眺むる方も霧こむる深山の里に心澄むらむ
ふもとにはまた時雨とや思ふらむ深山の里はあられふるなり
奥山の岩根の苔ぞあはれなるつひには人の衣と思へば
夢とのみ過ぎにし方は思ほえて覚めてもさめぬここちこそすれ

普通?ましかし、レベルが一様に高い。

山吹

兼明親王

小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき

「道灌」(落語)では「あやしき」が「かなしき」になっている。あやし、とはこの場合見苦しい、みっともない、お恥ずかしい、心苦しい、申し訳ない、と言った意味ではなかろうか。山吹の枝を出したというのは、謎かけのようなものだっただろう。

太田道灌のほうの話では、和歌の教養がない、ということになっているようだが、三代集ならともかくとして、こんなマイナーな後拾遺集の歌まで覚えるのが室町時代の関東で要求される教養だったとは思えない。普通の歌人ですらしらなかっただろうと思う。できの悪い作り話としか言いようがない。太田道灌について江戸時代に捏造された伝説は所詮この程度のものだが、江戸っ子たちには受けがよかったのだろう。