中島敦の日記と書簡

改めて中島敦の日記を読んでみたが、南洋の見聞と途中で日米開戦の話が挟まる程度であり、 肝心の、パラオに行く直前からパラオに滞在している間に、なぜあれほど著作を残したのか、 という部分は書いてない。 著作活動時期と完全に重なっているのに、残念なことである。 書簡の方が出版社とのやりとりがあったりして、まだましだが、それでもやはり肝心なことは書いてない。 病気や貧乏で小説で多少稼ごうかと思ったのだろうか。

中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。 まったく知らんかった。

小谷野敦 中島敦殺人事件

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。 寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。 むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、 冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、 「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、 こんなへんてこりんなことはない。 もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、 中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、 「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。 当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、 戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。 だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、 そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、 おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。 そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。 はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。 そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。 それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。 もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。 パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。 たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。 それには古典の教養が必要だ。 しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。 そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。 それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。 むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」 そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、 すとんと腑に落ちるのである。

ガス抜きとしての中島敦

中島敦は難解だと言われている。 山月記、名人伝、弟子、李陵。 確かに漢文調で、難しい。少なくとも高校の国語教科書で初めて読まされると、 とてつもなく高度で高次元な文学のようにみえる。 中島敦はしかし戦争中のごく短い期間しか小説を書かなかった。 しかも、中島敦の作品は上の四つ以外はほとんど読まれることがない。 なぜかというに、上記四作品は戦後の国語教科書で好んで採録されたからだ。

私自身中島敦は大好きだった。 高校のとき、夏休みの読書感想文の宿題は毎年「李陵」を書いたくらいだ。 今五十近くになって読み返すと確かに面白いが、しかしめちゃくちゃ面白いというわけではない。 中島敦がこの小説を書いたのは三十三だ。 錯覚かもしれないがそう思える年になったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

思うに、私はもともと(今そうであるように)本居宣長や頼山陽のような、江戸の学者が書くようなものが好きだったのだろう。 だが、本居宣長や頼山陽などは、戦後民主主義教育ではほとんど完璧に隠蔽された。 何かものすごいものが隠蔽されているのを感じる。 オーラが漏れ出てくるからだ。 しかしその実態は、大人たちが懸命に隠しているので子供の目には触れない。 プラトンのイデア論ではないが、私はそのオーラの発信源が何か、その実像は何かについて知りたいと思った。 たとえば小室直樹に惹かれたのはそのためだったと思う。

戦前の右翼教育を完全に封じ込めた日教組は、しかし、そこに不自然な細工が残るのが気に入らなかった。 戦前の文学でも、戦時中の文学でも、良い物はよい。漢文教育にも良いものはある。 戦前教育を完全に葬り去ると漢文教育自体が成り立たなくなる。それは困る。 そこで、比較的人畜無害な中島敦の小説が選ばれた。 中国の歴史書や伝奇小説を素材にして、そのまま現代小説に仕立てたたぐいのものだ。 子供たちに容赦のない漢文調の文章を学ばせるために。 つまりもっと露骨な言い方をすれば、戦後の教科書に掲載されている中島敦の小説というのは、 戦前の日本外史や太平記などの代用なのだ。 私自身中島敦の作品に親しまなければ日本外史や太平記にたどり着くのにもっと時間を要しただろう。 しかし、中島敦を経ずにいきなり日本外史や太平記を学んだ方が、話はずっと速かったはずだ。 もし中島敦の作品がそれ以外の意味においても優れているのであれば、 かの教科書の作品以外のいろいろな小説も好まれたはずだ。

中島敦の小説は戦争の真っ最中に書かれたものであるが、その時代精神は、「山月記」などでは極めて希釈されてはいて、ほとんど感じ取ることができない。

彼の作品がなぜ「教科書にある」のか、なぜ「古典として学ばねばならない」のか、その真の意味が教師から説明されることはない。 多くの教師も、そもそもそんな意味を知りもしなかっただろう。 そして今日、単なる惰性で中島敦は読み続けられている。 かつてそんな企てが教科書出版業界であったことも忘れられてしまったのだろう。

「墨攻」で中島敦賞をもらった酒見賢一が中島敦について書いていた。 群ようこも書いていた。 中島敦はよくわからんと。全集を読むとますますわからなくなると。 いったい中島敦という人はなんなのかと。 つまり中島敦はその全著作の中のたまたま漢文調の堅苦しい小説だけに需要があった。 ほかのほんわかとしたエッセイみたいな小説や、スチーブンソンの宝島みたいなのや、 エジプトやメソポタミアのファンタジー小説みたいなのや、そんなのは無視された。

それが中島敦の謎の真相だ。

白石詩草

日本古典文学大系に新井白石の詩がのっている。もとは「白石詩草」に収められている。
早稲田大学でJPEGとPDFが公開されている。楷書できちんと書いてあるので読むのは容易だが、意味はわかりにくい。

彼が吉原を詠んだらしい詩がある。吉原だろうと思うが確信できない。「紀使君園中八首」の中の一つ、「芳草原」という詩で、

春入芳原上
青青襯歩鞋
佳人来闘草
応賭鳳凰釵

吉原に春が来る。素足に青々とした草履を履いた美しい女性がきて草合わせで遊ぶ。鳳凰のかんざしを賭けよう。まあ、そんな意味であって、吉原だろうなと思う。題の「芳草原」だが、これは、八首の題を三字にそろえるためであり、意味は「芳原」だろうと思う。 「春入芳原上」だが、「春が吉原の上に入る」というのはわかりにくい。「上」は「ほとり」というような意味かもしれん。「學步鞋」とは「学童のスリッパ」のことらしい。「歩鞋ヲ襯ス」と朱筆で訓点がついてたので、「歩鞋」という単語があるのだろうと思う。「青青歩鞋」だが、新しい若草で編んだ草履、という意味だろうか。だとするといかにも春らしいが。「紀使君園」というのがよくわからん。朱筆が入っていて「紀」「使君」「園中」と切れる。紀州の使君の庭園か。「紀使君」という人が詠んだ詩なのか。あるいは、そういう名前の吉原の店があったのか。

新井白石が吉原で遊んだことがあるとすれば、また彼自身の用例からして「芳洲」が「吉原」を指すと判断できるだろう。たとえば頼山陽は出島のことを「扇洲」と呼んでいる。「富士山」を「富嶽」と言い換えたり、「隅田川」を「墨水」と表現したり、江戸時代の漢詩ではこのように、日本名を漢語風に言い換えるのが当たり前だった。

日本古典文学大系では「芳洲」を謝眺や李白などの中国の詩人の用例から「良い香りのする中洲」と訳している。果たしてそうだろうか。

そもそもこんな楽しげな詩はまったく収められてない。こむつかしい詩ばかりだ。

思うに江戸時代の文人にとって漢文・漢語というのは中国語そのものであり、中国の歴史でもあり、実学だったと思う。だから、学ぶだけの価値があった。遊びではなかった。漢文・漢語は、明治に入ってから語学や中国語会話という役目を失い、戦後もずっとそうだった。しかし、これから中国語を学ぶ必要性や機会が増えると、漢文を学ぶ意味も変わってくる。そして、いったん、たんなる古文古典となってしまった漢文教育を、一から見直す必要に迫られるだろう。

西行の歌

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

詞歌和歌集には読人しらず題知らずで載っている。が、世の中では西行の作だということになっている。私も漠然とそう思ってた。が、「山家集」には取られていない。「山家集」はけっこうな分量の歌集なのに、勅撰集にも取られたような歌を載せないことがあるか。

そう思ってみると、すこし西行にしては言葉が荒すぎる。西行の歌には、感情の起伏の激しいものはあるが、言葉はそれほどきつくはない。

「西行物語」では

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

となっているそうだが、こちらの方が意味は通りやすい。「身を捨つる」というのは、出家とは限らない。

そもそも西行の歌が詞歌和歌集に初出で一首だけでしかも読み人知らず。読み人知らずになる理由としては「無名」というのは通りにくい。「罪人」とか時の権力者に背いて忌避されたとか、そういう理由がないとおかしい。

やはりこれは西行の死後にできた伝説に過ぎないのではないか。

蘆庵と宣長

宣長年譜1757年

宝暦7年8月6日 (1757/9/18)
○8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる。『在京日記』(宣長全集:16-128)。


本庄七郎は、小沢蘆庵。蘆庵は享保8年(1723)生まれで宣長より7歳上。寛政5年(1793)上京の折にも対面、唱和する。その時の宣長の言葉に「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」とある。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。

廬庵は1723年生まれ、宣長は1730年生まれ。当時、廬庵34才、宣長27才(いずれも満年齢)。宣長はもっと早い時期に廬庵と会っていたかもしれない。日記に書かれていないだけかもしれないのだから。宣長は1753年、冷泉為村門下の森河章尹に入門した。廬庵もほぼこれと同時期に為村の門人になった。同じ京都の同じ門下である。これ以後二人がたびたび出会っていてもおかしくない。このとき宣長はまだ23才。まさに「はたち余り」の頃である。月次会の席で、少なくとも年に数回は会っており、場合によっては、個人的に頻繁に連絡を取り合っていてもおかしくない。

廬庵という人の経歴はわかっているようでまったくわからない。宣長の場合こまごまと日記をつけていて、それもふくめて著述のほぼすべてが完全な形で残っており、しかも全集としてまとめられている。正に一次資料・一級資料であり、研究がやりやすいといったらない。しかし、廬庵のよく知られた六帖詠草などは、割と年を取ってからの歌しか採られていないようだ。宣長と出会った30才の頃にどんな歌を詠んでいたか、それもよくわからない。

江戸中後期における三都間の歌壇の対立。ドイツの日本研究者が書いたもののようである。少し面白い。

職仁親王とその弟子である谷川士清や特に言語学者として知られている富士谷成章の流派、武者小路実岳と弟子の澄月や伴蒿蹊の流派、そして冷泉為村と弟子の小沢蘆庵、慈延、涌蓮の流派である。後には為村と実岳が激しく競争するようになったが、弟子の澄月と蘆庵が特に対立的であった。

大坂の歌壇では烏丸家や有賀長因の歌学を受け入れた加藤景範が中心的存在になり、初心者向けの歌学書を出版したり、京都の歌人である長因・蘆庵・澄月などの歌と自詠を歌集に編んだりした。先に述べた、和歌の普及に功績のあった有賀長伯と同じように、通俗歌学書によって大坂での和歌の普及に貢献した。

なるほど、当時の京都・大阪の歌壇とはこうしたものだったのだろう。有賀長因は、松坂に帰った宣長が添削を頼んだ有賀長川のこと。烏丸光栄は為村の師で霊元天皇の弟子。有栖川宮職仁親王は霊元天皇の皇子で光栄の弟子。

谷川士清は宣長と比較的似た経歴の人で、三重県津の出身で京都で医者となり、職仁親王に歌を習って国学者となった、とある。宣長のライバルとして描いたら面白そうな人だな。

加藤景範は医師で薬売り。大阪にいたのだろう。

宣長が有賀長川に添削を頼んだのは、長川が弟子をたくさん取って通俗的な添削などを商売とするような人だった、というだけのことだったのではなかろうか。ある意味、後の香川景樹に似てはいないか。

富士谷成章は京都生まれ、職仁親王の弟子で国学者、宣長は彼を評価していたようである。

武者小路実岳は堂上家。

伴蒿蹊は京都の商家の出。

澄月は子供の頃上洛して比叡山に登り僧となったようだ。慈延も似たような境遇の人のようだ。

涌蓮は伊勢の人で江戸にいたが出奔して京都・嵯峨に住む。

小沢蘆庵の人となり・事績

小沢家は大和宇陀郡松山藩。

享保8年(1723)難波に生まれ、京都に住した

若き時本庄家の養子となり、本庄七郎などと称した。

武技にも長じ、鷹司輔平に仕えたが、致仕後は歌人として一生を送った。はじめ冷泉為村を師としたが、破門後一家の説を立て、巧まぬただ言を主張し、清新平坦しかも雅趣ある作品を残した。

澄月・慈延・伴蒿蹊・上田秋成・入江昌喜・加藤千蔭らと交友があった。

晩年契沖を尊び、その著書を集め翻刻の意があった。静嘉堂文庫蔵『さいうの記』21冊には契沖説の書抜が多い。流布の刊本『六帖詠草』のほかに稿本『六帖詠藻』47冊(自筆本静嘉堂文庫蔵)やその系統の本もまた知られている。著書としてほかに『ふり分髪』『ふるの中道』などがある。※阿部註:編著書類は50書にのぼる。

宇陀というのは、大和の飛鳥の辺り。南紀の山間部、といったほうがわかりやすいだろう。そこの武士の子孫として大阪に生まれ、のちに京都に移り住んだ。
養子となり、士官もしたが、四十代半ばに浪人になっている。
それ以上のことはわからん。

上田秋成との交友とは晩年近くのことだろう。

入江昌喜は大阪の商人で、隠居後に国学を研究した。

加藤千蔭は有名な江戸の文人で、御家人。馬渕や田安宗武などの一派だわな。おそらく書簡上のつきあいで、盧庵と直接会って交友したわけではあるまい。

上の引用の中には入ってないが、香川景樹とも交際があったはずだ。

宣長の結婚2

やっと図書館が開いたので大野晋『日本語について』岩波書店同時代ライブラリーと、丸谷才一『恋と女の日本文学』講談社、を借りてきた。 大野晋が宣長と草深多美の再婚について言及しているのは、宣長全集に挟み込まれている記事で知り、 さらにネットで検索してだいたいのことはわかったのだけど、ともかく原著にあたってみようと思ったのだ。

まず、『恋と女の日本文学』の方だが、こちらは「恋と女と本居宣長」という文があり、何かの講演のような体裁になっているが、 1995年2月号の「群像」に直接掲載されたもののようだ。 その9の中の「大野晋さんの説を紹介することになるでせう。」(p80)から以降の部分に記述してある。

『日本語について』の方はI語学と文学の間―本居宣長の場合―「美可」と「民」という箇所だ。 こちらの初出は 1976年日本書籍社版『日本語について』らしい。

大野晋は、

外にとりたてた証拠はないのです。

と断っているし、丸谷才一もまた、

小説家らしい想像力の働かせ方と笑はれるかもしれませんが、しかしここからの展開ぶりはちよつと小説的である。

と言い訳めいたことを書いている。 つまり、ふたりとも、是が非でも真実であると主張したいわけではない。 でも、一つの可能性として、仮説として、世に問うに値する、といいたいらしいのだ。 特に大野晋の場合には1994年に再度岩波書店から同じ内容で出しているのだから、自分の説にそれなりの自信があるということだ。

私は子供の頃から丸谷才一も大野晋も大ファンで大きな影響を受けたから、むしろ、 なぜ彼らはそのように判断し、しかし私はそうは思わないのか、という点に非常に関心を持った。 きっと私以外の人たちはふーんそうなの、と考えてそれ以上追求したりしないだろうと思う。

宣長は京都から松坂に帰郷してから三年間結婚しなかった、いかにも不思議だ、何か未練でもあったのだろう、 と彼らは考えているのだが、それはどうでもよいことだ。 宣長は二十二歳と、学問を始めるにはかなり遅い時期から遊学している。 無論彼は松坂でずいぶん早い時期から学問をしていて、その結果意を決して京都に上ったのだろう。 さらにそれから五年間も京都にぐずぐずして、師匠が死んでやっと帰郷していて、しかも三年間も結婚していない。 私が思うに、この二十二歳から八年間の長い長いモラトリアムは、 単に宣長が学問好きだったからとか、独身でいたかったからではなくて、 結婚したかったけどなかなかうまい縁談がみつからなかったからだろうと思う。 京都ではどこか医者の娘のところへ婿入りできないか探していた。 松坂に帰ってからも、一年か二年の間はその運動を続けていた。 それらがすべてうまくいかなかったから、地元の有力者の娘と結婚したが、それもうまくいかなかった。 仕方なく知り合いの妹の後家の女と結婚した。 そう考えるのが一番自然だ。

大野晋は日記の文体のリズムが、最初の妻の美可(旧名ふみ)のときと、二度目の多美のときで違う、などと書いている。 しかし、それにしても、美可のときは初婚で大家との縁談なので緊張していただけかもしれんし、 多美のときは再婚で気負っていただけかもしれん。それだけのことのような気がする。

さらに、大野晋と丸谷才一が言いたいのは、宣長が仏教や儒学からの呪縛から逃れて、 『源氏物語』を読み解く目を持ち得たのは、多美への未練を三年間持ち続けていたからだ、などと言っているのだが、 そんな重大な結論が導かれるには、これだけの状況証拠では足りなすぎる。

宣長が儒教や仏教などの呪縛から自由だったのは、なぜかだが、この問は、 信長がなぜ比叡山を焼き討ちして本願寺を武装解除できたのか、という問と同じだ。 白河天皇が手を焼き、清盛が甘やかした寺社勢力というものを、なぜ突然信長が中世の宗教的桎梏から解き放たれて、 徹底的に弾圧し得たのか。 信長が天才だったからだろう。 そうとしか言いようがない。

宣長の場合、自ら歌を詠み、古今集や新古今集、伊勢物語や源氏物語を「原著」で読んだであろう。 さらに定家や契沖の歌論書など片っ端から読んだ。 その経験が「国学」というものを突然創始させたようにみせた。 少なくとも定家や後鳥羽院の頃までは、日本人は儒教や仏教にとらわれず、自由に歌を詠んだ。 そこから直接学べば、外来思想の影響は受けにくい。 また、国学の祖といわれる契沖は、 定家よりも古く、万葉集や日本書紀、古事記などを研究していたから、 宣長もまた、定家の頃にはすでに忘れられていた古い古典にさかのぼって国学というものをうちたてねばならないと考えていた。 宣長が古事記の研究をライフワークとしたのも、契沖がそのとっかかりを与えてくれたからだろう。 源氏物語を読めるようになったのも、第一には契沖の影響だろう。

蘭学の影響もまったくなくはなかったかもしれない。 医者にとって、少なくとも医者のコミュニティの中では、蘭学の影響は無視できないはずだ。 仏教があり、儒教があり、それとは別にキリスト教というものがある。 学問の世界はすでにいろんな説に分かれて相対化しつつあった。 宣長も京都に上っていろんな学問のうちどれをどのくらい学ぼうかと品定めくらいはしただろう。 そういう雰囲気の中に第四の学問として国学を創始するべき時運が整っていたのだろうと思う。

さらにいえば、戦国時代や江戸初期の歌人、とくに武将などは、わりと自由に歌を詠んだ。 必ずしもイデオロギーに囚われてはいなかった、と思う。 誰も彼もが心を縛られているのではない。 宣長はもともと浄土宗だが、自らそのくびきから逃れている。 ただ、仏教や儒教から逃れて国学に徹したのではなかった。 仏式と国風の二つの墓を作ったくらいだ。彼は宗教というものを相対化していた。

宣長もまったく恋愛を経験しなかったわけではなかろうが、それは草深多美への片思いだった可能性は低い。 一番可能性が高いのは、日記にも記されていない、あるいは記したが後世には残されなかったところにあるかもしれない。 それはたぶん五年間という長い長い京都遊学時代のどこかだと思うが、何も証拠は残ってない。

熱烈な恋愛を経験したから源氏物語が読めるようになるのであれば、そんな人間はいくらでもいるだろう。 しかし当時の多くの日本人は、仏教や儒教に囚われた、曽根崎心中のような浄瑠璃に感情移入したのであり、 当時すでにあまりにも浮世離れした源氏物語に結びつけるには飛躍がありすぎる。

宣長の歌

宣長が和歌に志し、『和歌の浦』を執筆し始めたのは延享4 (1747)年11月14日のこと。 生まれた日は享保15 (1730) 年5月7日なので、満17歳の時。 『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」

十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、 よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、 人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき

宣長が初めて歌を詠んだのは、延享5 (1748) 年正月のこと。

此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける
新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空

寛延2年3月20日 (1749/5/6)
> 同二年【己巳】従三月下旬、詠和歌受宗安寺〔中ノ地蔵立〕法幢和尚之添削【自去年志和謌、今年ヨリ専寄此道於心】また、三月下旬ヨリ、宗安寺ヨリ歌ノ直シヲ受ル、「杉ナラハ、「ハル/\ト、「カクヲシム、「ナニハヱノ、「池水ノ、始テ五首ヲツカハス

この法幢和尚というのが、初めて宣長が歌を添削してもらった人、 つまり最初の師匠ということになる。 どんな人かはそれ以上はわからない。

寛延2年9月10日 (1749/10/20) 定家の歌論書『詠歌大概』『秀歌体大略』などを筆写する。

なぜ和歌に興味を持ったのか、いろいろ理屈を考えてみたが、京都に行ったり、 父が商売していた江戸に行ったり、 また吉野や伊勢神宮に参拝したりなどして、自然と和歌に関心をもった、 という程度のものなのだろう。

宝暦2(1752)年3月上京。上京というのはこの当時は当然京都へ行くこと。

母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒学をもせむとてなりけり
景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす

堀景山とは儒学者で医師。 また、契沖の研究者で、景山の紹介で契沖の『百人一首改観抄』を読む。 宣長は契沖を高く評価しているがそれは師匠景山の影響だろう。

宝暦2年9月22日、新玉津嶋社を訪い社司森河章尹に入門、 新玉津嶋社和歌月次会に約1年ばかり出席するようになる。 この森河章尹という人が、法幢に続いて宣長の二番目の和歌の師範となる。

宝暦2年11月 (1753/1/3)

年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉もはか/\しくよしあし見わくる人もなき事をうらみて同し題(浦千鳥)にておもひをのへ侍りける/和歌浦たちよるかたを浪間にそ夜半の千鳥の鳴あかすなる/浜千鳥鳴こそあかせ和歌の浦やたつらんかたもなみのよる/\

と言った具合に、宣長は森河章尹という人が歌の良し悪しもわからぬ人だと言っている。 森河は藤原氏であり、冷泉為村の弟子である。 為村(正徳2年1月28日(1712年3月5日) – (安永3年7月29日(1774年9月4日))は正真正銘、 堂上家の歌人であり、霊元天皇(承応3年5月25日(1654年7月9日) – 享保17年8月6日(1732年9月24日))に古今伝授を受けた。 霊元天皇が添削した詠草が現存するらしい。 冷泉家というのは定家の唯一の直系の家系でもある。

宣長が、『排蘆小船』で古今伝授のことを激しく攻撃しているのは、 この森河や為村のことを指している、と言って間違いなかろう。 古今伝授がでっちあげだと初めて主張したのは契沖で、 宣長も全面的に賛同している。

小沢蘆庵は為村の弟子だったが破門された。 宣長と蘆庵は、宣長が京都遊学中、宝暦7年8月6日(1757/9/18)出会っている。 蘆庵と宣長の接点は森河か為村しかない。 為村は当時まだ存命中だ。 新玉津嶋社和歌月次会で顔見知りになったと考えるのが自然だ。 この年には師匠の景山が死去し、宣長はただちに帰郷している。

宝暦8年2月11日地元松坂の嶺松院歌会に初めて出席し、有賀長川に添削を受けている。 つまり彼が宣長の三番目の歌の師範となる。 長川は有賀長伯という比較的有名な二条派の歌人の嗣子。 松坂に住んでいたのでなく、おそらく大阪か京都に居て、宣長は書簡で添削を受けたのだろう。

宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう。

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

京極派

引き続き、丸谷才一『新々百人一首』。

庭の虫は なきとまりぬる 雨の夜の 壁に音する きりぎりすかな (京極為兼)

為兼を選ぶのはよい。なぜこの歌なのか。他にいくらでも為兼には良い歌があるのに。しかも、「庭の虫は」が字余りで、しかも字余りの例外まで丁寧に解説している。だが、それ以外の説明がまるでない。

京極派の歌には字余りが多い。というより、字余りということを始めたのは京極派なのだ。なぜそのことを言わぬ。丸谷才一は定家が好きで、二条派が好きなのである。京極派は嫌い。だからわざと沈黙しているように思える。

「なきとまりぬる」もおかしい。連体形になっている。「なきとまりぬる雨」か「なきとまりぬる雨の夜」か。そうかもしれぬ。そうとも解釈できなくはない。だとするとそうとう変な歌だ。普通に考えて終止形にしないとおかしい。普通なら、素直に「なきやみにけり」「なきとまりけり」などとするだろう。「なきとまりぬる」という言い方は、異様だ。「なきとまる」などという言い方は普通和歌ではしない。現代語でも「なきやむ」としか言わない。もしかすると当時の口語的な表現かもしれん。それもまた京極派の特徴だが、それもなぜか指摘しない。

それをしないでおいて、王朝和歌では、秋の虫の鳴き声というのは、恋が成就しなかった悲しみの声だ、などということを延々と主張している。京極派は、そういう定型や通念を無視し、感情のままに、印象派のように、歌を詠むものだ。京極派の歌は、新古今や二条派の歌論では説明できないはずなのだ。それをむりやり宮廷文学の尺度にあわせて解釈しようとしている。これでは、京極派とは何か、ということが、読者にはまったくわからないはずだ。

咲きそむる 梅ひとえだの 匂ひより 心によもの 春ぞみちぬる (伏見院)

説明わずか四行。「まさしく国王の歌である。おっとりとしていて、しかも美しい。」などと言っているが、なぜこれを選んだのか、理解に苦しむ。なるほど、そういうものか、とただわけもわからず読まされる読者が気の毒だ。ちなみに伏見院は、為兼に勅撰集を編纂させた京極派の歌人。

うれしとも 一かたにやは ながめらるる 待つ夜にむかふ 夕ぐれの空 (永福門院)

この歌は、確かに優れている。「ながめらるる」は字余り。明らかに京極派特有の、破調の妙をねらったものであろう。しかし、丸谷才一は、これが新古今集より時代が下ったために規則が崩れてきた、と解釈している。それは違う。京極派以外で字余りするのは少なくとも江戸時代までは、ただのへたくそだけだ。「当代随一の女流歌人」が「歌道の約束事を乱したことはすこぶる興味深い」などと言っているのは、ほんとうに京極派というものを、丸谷才一が知らなかったのか、と怪しまれる。宣長ですら京極派が異様で異端であることは知っていたのになぜ丸谷才一がそれを知らないのか。仕方なく余ったのではなく、わざと余らせたのだ。それを勅撰集に採ることで、為兼はオーソライズしようとした。永福門院は、京極派で一番有名な女流歌人であり、伏見院の中宮。歌の師は為兼その人だ。

意味は、従って、古今集や新古今集などの通念から離れて、印象派的に解釈しなくてはダメだ。ざっくり意訳すると、今日は来るとあらかじめ知らせがあって、うれしいとは思うが、ほんとうに来るのかどうか、いつごろ来るかと待ちながら、夕暮れの空に向かってながめている気持ちは、ただうれしいというばかりではない、となる。丸谷才一の解釈でだいたいあっているのだが、彼は、当時の通い婚における女性の立場、歌に現れるその形態など、懇切に、王朝の女流和歌とはこういうものだ、こうあるべきだ、という理論で押し通そうとする。それでは、京極派の歌はわからない。パターンに当てはめようとしては楽しめない、それが、京極派の歌なのに。京極派だからこそ、「うれしとも一かたにやはながめらるる」などという屈折した心理を詠めたのだし、「(私が)待つ夜に(私が)むかふ」などというトリッキーな言い回しをしているのだ。