諡号

花山院師賢は後醍醐天皇から「文貞公」という諡号を贈られているのだが、正二位のままになっている。臣下で諡号をもらうのは、摂政・関白、あるいは太政大臣に限られていて、Wikipedia臣下の諡 には、九例。いずれも、従一位か、贈正一位。摂政・関白・太政大臣は、生きてるうちに従一位でないとおかしいのでないか。皇族だと正一位、臣下だと従一位とか。そんな決まりはないですか。ほんとは贈従一位くらいもらったのではなかろうか。

花山院師賢は南北朝のごたごたの時のマイナーな人なので、敢えて wikipedia に加筆すべきかどうか、迷う。

2001年宇宙の旅

『2001年宇宙の旅』は今見ればつまらない映画だが、当時はすごかったのに今はなぜつまらなく感じるか、というところを鑑賞しなくては意味のない作品だ。『マカロニほうれんそう』や『8時だよ全員集合』にも同じようなことがいえる。あの頃面白かったものがなぜ今つまらないか。

『2001年宇宙の旅』は、テンポが遅い。あれは、クラシック音楽を聴きながら、宇宙船や宇宙ステーションがゆっくり動くのを眺めるためのもので、いわばイージーリスニングや環境音楽などの走りだったといえる。またそもそもSF映画にクラシックを最初に使ったのは『2001年』だっただろう。『2001年』がなければ『スターウォーズ』も『宇宙戦艦ヤマト』も無い。

猿人の描写なども、着ぐるみを着たお笑い芸人が何度も何度も繰り返しているから、何の変哲もない、ただのありきたりの退屈な映像に過ぎないが、封切当時、つまりアポロで人が月に行ったのと同じくらいに見た人には新鮮だったのに違いない。なにしろ大阪万博よりも、7年も前なのだから。同じ年に『猿の惑星』も出たのが興味深い。

HALが人間を殺す、というのも、Portal の GlaDOS などへの影響を思い起こさせる。

『2001年宇宙の旅』はあまりにも多くの人に影響を与えたから、一度も見たことがなくても、後世の多くの映像を通じて既に見ているのと同じだ。それを初めてみてつまらないと思うのでは古典を鑑賞したことにはならない。

なるほど。『2001年』は公開当初から、「退屈で眠気を誘う」と評されていたのか。New York Timesも、筒井康隆も、星新一も。また興行成績も悪かった。ということは、いきなりこれを、1968年に、人類が月に到達する以前に見た人たちは、一様につまらなく感じたということであり、また、『2001年』を何の予備知識もなしに、いきなり見た現代の若者たちも、やはり同じようにつまらなく感じるのだろう。これはこれで実に興味深い事実だ。逆になぜ私は『2001年』をそれほど退屈に感じなかったのだろうか。いろいろな知識を得てから見たせいだろうか。それとも『2001年』の中に、いろんなSF映画のプロトタイプを観察したからだろうか。あるいは、映像から、無意識のうちに、原作の小説のプロットを補完していたからか?

うーん。結論めいたことを言えば、『2001年』は「おもしろい」と「つまらない」の両極端の評価があって、そのどちらを自分が感じるかということは、あまり自明ではない。だから、やはり、用心して観たほうがよいということか。評価が分かれない作品というのは要するに凡作なのだろう。

源氏の長者2

調べてみると、いろいろ面白い。
賜姓というと、「源」「平」「橘」。
このうち橘氏は、特に古い時代に、正一位までなった人がたくさんいる。
平氏も皇族の末裔のはずだが、清盛まではほとんど高い官位をもらえてない。
正一位をもらっている源氏は、
854年、源常。
858年、源潔姫。
869年、源信。
895年、源融。ここまではみな嵯峨天皇の皇子・皇女。
897年、源能有、文徳天皇の皇子。
913年、源光、仁明天皇の皇子。
993年、源雅信、
995年、源重信、いずれも宇多天皇の皇子。
1094年、源顕房、村上天皇の皇子、などとなっている。
この頃までは、天皇の皇子が、直接臣籍降下して、源氏を賜って、正一位になっている例ばかりだ。従一位以下は枚挙にいとまない。

正一位というのは、太政大臣相当とみてよい。

思うに、村上源氏が公家として生き残ったというのは、たまたま藤原道長の時代に源氏となって、その庇護を受けたからではなかろうか。他の源氏は、武士になるなどして、在地に土着して、自力で生き延びたのであろう。

なお、頼朝は六位蔵人であったから、昇殿を許されていた。つまり清和源氏であって、殿上人だった。もし、平治の乱に巻き込まれなかったら、そのまま公卿になっていたに違いない。また、従三位の、清和源氏の源頼政も、むろん殿上人だった。清盛全盛の当時、頼朝や頼政の任官や叙位、官職にまで、源氏の長者として、村上源氏の誰かが口出しをしていたとは、ちょっと信じがたいのだけど。

土御門通親

なぜ村上源氏が源氏の中で家格が高いとされるのですか? などを読んでいると、なるほどそうなのか、と、つい納得してしまいそうになるのだが、たまたま源氏の中で太政大臣や内大臣になったものがいたからといって、連綿として、公家としての源氏の長者というものがあったという考え方には無理がないか。源氏とはつまり皇族の子孫であり、藤原氏と姻戚関係があれば、中にはたまたま大臣にまでなるものがいても全然不思議ではない。源雅実が太政大臣になったのは、母親が道長の娘だったから、ただそれだけだろう。

頼朝にしても元々は文官(蔵人。二条天皇の学友)だったが、平治の乱以後、武官(右兵衛権佐。平治物語などに「前右兵衛佐頼朝」などとある)になった。北畠親房の子も鎮守府将軍になったりした。公家と武家を分けて考えることは、少なくとも源氏に関して言えば、あまり意味はなかろう。

土御門通親にしても、頼朝の死後、後鳥羽上皇の院政までの間、たまたま権勢をふるったというだけだろう。頼家、実朝の時代だから、幕府の中で内ゲバの嵐が吹き荒れており、 承久の乱以前であれば、未だ朝廷に対する幕府の優位性も確立してはいないのである。そのような過渡期において、黒幕となって、「朝廷、院、鎌倉幕府の全てが彼の影響下に置かれていた」と言うのは、過大評価というより、誤解を与える表現というしかない。

つまり、結論として言えば、久我家や土御門家などのように、平安朝以後も、公家に特化して生き延びた源氏が居た、というに過ぎないのではないか。公家はだいたい元をたどれば藤原氏だから、王族の子孫が公家というのは、確かに珍しく、面白い目の付け所かもしれんが。

源氏の長者

Wikipedia には「村上源氏」の所に

源氏といえば武家として活躍した清和源氏を想起する人が多いが、公家社会では村上源氏が最高とされていた。

などと書かれ、また、「源氏長者」の項目には、

源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。

などと書かれている。にわかに信じがたい。いったい誰が「公家社会では村上源氏が最高とされていた」と言っているのか。もし、北畠親房が『神皇正統記』などで主張していた、というのであれば、それは単に、自分自身を「源氏の長者」なるものに祭り上げるための自画自賛に過ぎない。北畠親房は、清和源氏の八幡太郎義家の流れに対するはげしいライバル意識があった。

「源氏長者」とは「治天の君」などと同様に近世、というより戦後になって作られた概念なのではなかろうか。「源氏」というのは、たまたま賜姓が「源」だったもと皇族というだけであって、何か具体的な横のつながりがあったというのは考えにくい。

また、「源氏長者」というものを清和源氏、つまり武家の頼朝、足利氏や徳川氏と切り離して考えること自体、無意味に思える。そんなことをして、いったい何の意味があるのか。誰が得をするのか。

言語の起源

やはり人間の起源はアフリカ? 世界のすべての言語は石器時代のアフリカ言語から生まれた。 アフリカの言語が一番音素が多く、そこから遠ざかるにつれて音素が減っていく、という傾向がある。

思うに、人類が、最初に言語を獲得したときには、単語というものはなくて、音素だけがあったのだろう。一つの音素が一つの概念を表していた。だから、できるだけたくさんの音素が必要だったのではないか。

そのうち、音素を組み合わせて単語を作るようになると、音素はそれほどたくさん必要ではなくなった。さらに文法ができて、より複雑な表現が可能になった、と考えられるのではなかろうか。

仮に、親から全く言葉を習わない人間の集団があったとしよう。たとえばオオカミに育てられた子供が数十人程度居たとする。それを出発点としてみよう。彼らは身振りや手振り、口から出す音などで意志を伝えようとするだろう。口から出す音、つまり声だが、最初は単語という概念がないから、声の一つ一つに、それぞれの意味を持たせたのに違いない。世代交代していくうちに、その声、つまり音素のレパートリーは増えていくに違いない。しかし千くらいまで音素が増えるともうそれ以上は増やせない。しかし、概念というものはそれよりも多くなっていく。そこで複数の音素を組み合わせた単語というものが生まれたのではないか。

だから、人類の故郷であるアフリカには、未だに多くの音素が残っているのではなかろうか。

トーテムとタブー

フロイトの『トーテムとタブー』を読み始める。

ここでタブーと宗教は区別されている。宗教とは神を崇拝することであって、タブーとは神よりも古く、より原始的で、理由付けのない禁忌を言うらしい。フロイトの時代には、世界中でさまざまな先住民や未開民族が発見され、分類された。それらの民族の多くには、宗教と言えるような組織的なものはほとんど見られず、タブーの方がより強く社会を制約している、とフロイトは観察している。

フロイトが言いたいことはつまりこういうことだろう。近親姦の禁止や族外婚の風習というのは、ほとんどすべての、まったく無関係な社会にも見られる。それは、男性のボスによる一族の女性支配に由来する。トーテムとは部族、血縁のことで、東アジア的に言えば、姓とか本貫のこと。姓は原初的には女系だった。なぜ古代、女系で姓が継承されるかというと、古代は女権が強く、女性が財産権を持っていたからだ、とはフロイトは考えない。むしろ逆。男のボスが横暴であって、妻や娘たちを独占するために、妻や兄弟姉妹間で姦通することを禁じるために、妻とその子孫たちはすべて同じトーテムに属することとし、トーテム内の姦通を禁じたのである。この理屈で言えば、一族の中で同じトーテムに属さない、つまり自由に姦通できるのは夫一人となる。男子が成長すると、自分のトーテムの外、つまり家族の外の女と結婚しなくてはならない。これが族外婚。Exogamy というものだ。

確かに、まったく未開の、何の言語もなく、決まりもなにもない社会にも、この理屈で言えば、トーテムは発生しうる。トーテムの発生には理屈がない。ただ単に横暴な男子と無力な女子供がいるだけだ。それが数世代か数十世代繰り返されるかは知らないが、そのうち、誰もその由来は知らないが、トーテムという社会制度だけが成立するというわけだ。

恐ろしくも非情、しかし説得力のある理論だ。余りこれまで見聞きしたことがないのだが。Wikipedia などには、

遺伝子上の欠陥を補う事で、子の遺伝的な多様性を増加させ、子の繁栄の可能性を高める。

とあって、確かに、古代人がその遺伝的な問題を経験的に知っていて、それゆえに族外婚が自然発生したというのが、通説だろう。しかし、近親婚による優生学的な弊害というのは、かなり緩慢なものであって、たとえば貴族や王族などが、何世代にもわたって同族と婚姻関係を結んだ場合にしか起こりえないのではないか。人口の圧倒的多数を占める庶民には、あまり関係ないはず。庶民、特に未開民族においては、早婚、雑婚、多夫多妻が当たり前であろうから、数世代もすれば遺伝子の問題などあっという間に解消してしまい、
問題にならないように思う。

このフロイトが発見した理論が今日ではほとんど忘れさられ、無視されているのは驚くべきことだ。

句点省略の異同について。

しつこくもまだ調べている。 中島敦『斗南先生』で比べてみる。 一つは「ちくま文庫」の『中島敦全集Ⅰ』。

「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている。」と言い出した。

省いてない。 次に集英社文庫『山月記・李陵』の同じ箇所。

「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている」と言い出した。

省いている。奥付には底本は筑摩書房『中島敦全集』とある。 もひとつついでに青空文庫の当該箇所、

「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている。」と言い出した。

省いてない。底本は岩波文庫、親本は筑摩書房『中島敦全集Ⅰ』とある。 ま、ともかく、ある程度の「書式の修正」が加えられることがあるわけだから、 用心しないと、もともと著者が省いていたのか、校正で省かれたのか、わからぬわけだ。

集英社文庫は他の箇所も徹底的に省いている。中島敦という人は面白い人で、省いたり省かなかったり。 律儀に必ず省くとか省かないとか決めずに書いている。 それにはある種の法則性というかポリシーがあるのだろうと思うし、実際、私もそんな書き方をしているように思う。

ふと気づいたのだが、

その「お髯の伯父」(甥たちはそう呼んでいた。)の物静かさに対して、上の伯父の狂躁性を帯びた峻厳が、彼には、大人げなく見えたのである。

のように、丸括弧の最後に句点を打っている箇所がある。なるほど、ここは打ちたくなる箇所ではあるが、私なら打たないだろうと思う。

句読点の省略と新聞社について

思うに、夏目漱石が最初に作品を発表したのは朝日新聞であり、森鴎外は読売新聞だ(追記: 漱石が最初に小説を発表したのはホトトギス、明治38年。鴎外が小説に関する論文もしくは戯曲の翻訳を発表するようになったのは読売新聞で明治22年、最初の小説『舞姫』を発表したのは国民之友)。司馬遼太郎ももとはと言えば産経新聞の社員。このように、新聞社関係の人間は、カギ括弧の終わりの句読点を省く傾向がある。

一方、永井荷風や中島敦らが最初に活動したのは文芸誌か同人誌であろう。

新聞社では活字を節約するために、句読点の省略ということをやった可能性が高い。せこいが年間で0.何パーセントか、コストを削減できたに違いない。逆に文芸誌や同人誌などは、たかだか句読点の一つや二つ省いたからと言って、採算がどうこうなるというわけではなかっただろう。学者の文章というのも、やはり、句読点を省かなかったのに違いない。

子母沢寛も松本清張ももとはといえば新聞社の人間である。そして、新聞社というは、影響力が大きいものであって、そのために句読点が省かれるようになった、また、みながそれを真似するようになった。

そんな気がする。

もしそうだとすれば、今の時代に句読点をいちいち省略するのは、ばかげたことだと思う。

『墨東綺譚』を読むに、やはり句点は省かれていない。「そうか。」「今晩。」「ご存じ。」など、短い会話文でも、かならず、省略しない。短くても改行する場合が多いが、いつもではない。朝日新聞に掲載されているが、永井荷風は当時すでに文豪だったから、句読点を削られるようなしうちはなかったのに違いない。やはり、初期の頃の執筆の癖というものが、その後もずっと残り、途中で変わることはない、と考えるのが自然だろうよ。

追記。文芸作品に限れば句読点を省くか省かないかなどということは些細なことかもしれないが、新聞に掲載するのは文芸だけではないから、活字の節約ということは大きな意味がかつてはあったに違いない。文体も簡潔にし、改行もできるだけしない、などということがあったかもしれない。

『墨東綺譚』は最初私家版だったらしい。

東京女子高等師範学校

相変わらず、関東大震災のことを調べているのだが、東京女子高等師範学校とは今のお茶の水女子大学のことだが、1923年に震災でほとんど焼失しているはずなのだが、大塚への移転は1932年となっている。その間、女高師はいったいどういう状況だったのだろうか。移転先、つまり現地は、もともと震災当時は東京陸軍兵器支廠というものだった。これが女高師と陸軍憲兵大塚分遣隊という二つの敷地に分かれたのであると言う。

netでもいろいろ調べてみるがよくわからん。お茶の水女子大学生活科学部本館によれば、

1923年(大正12年)の関東大震災により校舎が焼失したため、 1928年(昭和3年)に現在地への移転を決定し、1936年(昭和11年)に移転を完了しました。

などと書かれているから、お茶の水から大塚へ移転するのが決まったのが 1928年、移転は徐々に進んで 1936年に完了したことになる。その間、たとえば1923年から1928年までの5年間はいったいどういう状態だったのだろうか。1932年とは、移転が始まった年、ということか。不思議すぎる。