聖橋

震災復興再開発事業#関東大震災などにも書かれているが、震災後、内堀通り、靖国通り、昭和通りなどが幹線道路として整備された。このうち内堀通りというのは、本郷から聖橋、神田橋を経て丸の内に至る道で、聖橋はこのときに初めて架けられたのだ。遷都しないと決めたのは後藤新平、復興予算を30億円と決めたのも後藤。しかし予算は5億円程度に削られてしまった。思うに遷都した方が良かったのではなかろうか。日比谷公園・上野公園・靖国神社参道などはバラックの難民キャンプで埋まっていたらしい。

当時の写真などもいろいろ見てみる。駿河台にはニコライ堂がそびえ立っており、はるかお茶の水から遠望できた。

横浜中華街は、震災前は二階建ての洋館や蔵造りの商館がみっちり立ち並んでいたのが、震災後は平屋木造バラック小屋みたいなのばかりになっている。また当時は中華街とは言わず、南京通りと言っていたようだ。

追記: 関東大震災の時に、那須あたりに遷都しておけばよかったのだ。

市岡鶴子

知りたいのは、清朝末期の、科挙制度の改革、変法と科挙の関係、特に、康有為、梁啓超らの上奏文など。特に八股文の是非について。つまり、清朝末期の学制改革について。宮崎市定『科挙』も久しぶりに読んでみたが、これは、唐代から明清までの科挙の移り変わりについて、おおまかに書いてあるだけ。八股文については、「四書題」とあるのが、それに相当するか。その内容・形式には一切触れてない。まあ、あまり興味なっかたんだろうな。清朝については、『儒林外史』が少々、第三回辺りに出てくる、范進という万年浪人の話がおもしろおかしく引用してあるだけだ。『儒林外史』は清朝の前半、せいぜい雍正・乾隆帝の頃の話が反映しているだけで、清朝末期の光緒帝の頃のことがよくわからない。しかし、資料としては、光緒帝のころのものがもっとも豊富に残っているはずだが。

康有為、梁啓超らの論文だが、あちこちの図書館でも、断片的にしか手に入らない。ネットの情報も。彼らは、科挙や八股文が不要だと主張したのではなく、官吏や政治家を登用する制度が科挙に限られていること、近代的な学校制度がないこと、などを批判しているのだと思う。梁啓超の文章など読んでみると、科挙と平行して学校を作りましょうと言っているに過ぎない。北京大学の前身である京師大学堂が創設されたのは1898年というから、戊戌の政変で行われた改革の一つだったのだろう。この、戊戌政変から辛亥革命までの資料というのは、探せばいくらでもあるはずなのだが。

康有為の四番目の妻(妾)となった日本人、市岡鶴子というのを調べているのだが、詳しいことは何一つわからん。

中国名人為什麼願意迎娶日本女人? 2010年04月01日  来源:新華網

康有為晩年娶了日本少女市岡鶴子為小妾。1911年6月7日,康有為応梁啓超之邀,従新加坡移居日本,次年春,搬至須磨“奮豫園”,適妻子何旃理懐孕,儿女又年幼,便雇了16歳的神戸少女市岡鶴子作女傭。1913年康有為回国不久,市岡鶴子也来到了上海。在辛家花園的遊存廬,鶴子正式成了康有為的第四妾。1925初,28歳的鶴子懐了身孕,這年康有為68歳。秋,鶴子回日本生下一女,取名凌子。有人伝言康凌子并非康有為的骨肉。鶴子甚至但求一死以表清白。堅貞壮烈不下于蝴蝶夫人。

1911年6月7日に康有為は梁啓超に招かれてシンガポールから来日。牛込区早稲田、明夷閣。
1912年春、神戸の須磨の「奮豫園」に移り住み、16歳の少女、市岡鶴子を女中として雇う。
1898年に梁啓超は日本に亡命して横浜に住み、神戸と横浜を行き来していたが、1906年から神戸に住むようになっていた。1912年帰国。
康有為は1898年、香港経由で日本に亡命、1899年カナダで「保皇会」結成、以後、アメリカ、イギリス、シンガポール、インドなど、主にイギリスの植民地などを転々として、三回ほど来日したらしいが、詳しいことはもっと調べてみないとわからん。
1913年には市岡鶴子とともに上海へ。愚園路192号。辛家花園の遊存廬で正式に鶴子と結婚。鶴子17才、康有為55才。
1917年、復辟事件。
1923年、青島に定住。青島は、1914年に日本が占領してドイツから奪い、1922年に中国に返還し、特別行政区となった。中国領となった直後ということだな。
1925年秋、鶴子は日本に戻り、凌子を出産。鶴子29才、康有為67才。
1927年、康有為死去、69才。
1929年、梁啓超死去、56才。

魯迅『孔乙己』も、ごく短いものなので、さらっと読んでみた。

追記: notebook LM

吉野城軍事

『太平記』に

天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。

という村上義光のセリフがあるが、後醍醐天皇が生存中に「後醍醐天皇」などという追号で呼ぶはずがない。本来ならば、「今上天皇」、「主上」などだろうか。


※追記あり

阿

『柳橋新誌』に芸妓の名前として列挙してあって、多いのは「阿長」などと「阿」が付く名前だが、 為永春水『春色梅暦』など見ると、「阿長さん」とかいて「おちょうさん」と呼んでいる。 つまり、「阿」は「あ」ではなく「お」と読むのであろう。

三種の神器 3

「三種の神器」の初出が『平家物語』ではないかという根拠は、簡易な手法ではあるが、
新潮国語辞典の用例を調べたのである。この辞典は用例に「もっとも頻繁なもの」ではなく「初出」つまり「もっとも古い例」を載せるのが方針である。教科書等に載っているような、無視できない典型例は「初出」と併記されるから、「初出」が漏れることはないのだ。

それで、『平家物語』の成立は、鎌倉幕府の成立からどう見ても半世紀は後だろう。1240年くらい。つまり、1221年に起きた「承久の乱よりも後」なのである。

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)

後鳥羽院の御時、つまり承久の乱の直前に、すでに原型が出来ていた可能性もあるのだが、承久の乱によって、宣旨も院旨もなしに、「三種の神器」の権威だけで、後堀川天皇は即位したのであり、それによって「三種の神器」という概念が初めて確立し、それが『平家物語』の中に、リアルタイムで盛り込まれたのではないか。偶然の一致とは思えぬ。

つまり、安徳天皇都落ちのときには、「三種の神器」というものが皇位継承の印として、重要視されてはいなかった可能性もあるということだ。もし「三種の神器」が承久の乱以前から皇位継承の証であったなら、公卿の日記などにも、前々から用例がなくてはなるまい。どうかな。

三種の神器 2

「三種の神器」の初出はどうやら平家物語らしい。「十善帝王、三種の神器」という言い回しが二度、後は「主上、並びに三種の神器」、等。

「十善帝王」というのは、「天子に父母なし。吾十善の戒功によて、万乗の宝位をたもつ。」とあってすなわち殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見の十悪を犯さないことを「十善戒」といって、この戒を守ればその功徳によって人間界の王になるという。「三種の神器」という言い回しも、なんとなく仏教説話から由来しているような気になるな。

雨乞い小町

筒井康隆の「雨乞い小町」を久しぶりに読んだのだが、その中で、ずっと気になっていたのだが、

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは
ちはやぶる 神も見まさば 立ち騒ぎ 天の戸川の 樋口開けたまへ

の二首があって、「ことわりや」の出来が悪くて「ちはやぶる」の方が良いと言っているところだ。なぜ筒井康隆は、そう判断したのだろうか。いろいろ調べてみると面白いのだが、まず、「ちはやぶる」の方は『小町集』『小大君集』に採られており、小野小町か小大君かはわからぬが、ともかく、平安中期にはもうあった歌なのだ。ところが「ことわりや」の方がどちらかと言えば有名であって、初出は江戸初期のいろんな説話集、元はといえば、『雨乞小町』という謡曲(能)の演目の一つだったようだ。『雨乞小町』は七小町というものの中の一つで、浮世絵の題材には良く採られるが、テキストなど失われて久しいようだ。

弘法大師が京都の神泉苑で雨乞い勝負をしたという伝説があって、和泉式部もここで同じように勅命で雨乞いをして、そのときに「ことわりや」の歌を詠んだ、

日の本の 名に負ふとてや 照らすらむ 降らざらばまた 天が下かは
ことわりや 日の本ならば 照りもしつ 天が下とは 人もいはずや

などといったバリエーションもあるらしい。いずれにしても女性が詠んだということになっている。弘法大師も、竜王という女性に雨乞いをさせたらしい。雨乞いは女という定説でもあるのだろう。そういえば、雨女とは言うが、雨男とはあまり言わない。

そうだなあ。どれもできばえは大して違わないように思えるのだが。いずれにしても、民間の雨乞いの歌だよな、きっと。

加門七海『くぐつ小町』という小説にも「ちはやぶる」の歌が出てくるようだ。こちらは比較的新しい1996年に単行本になった作品。筒井康隆の『雨乞い小町』の単行本初収録は『ホンキィ・トンク』1973年。

伊勢物語25段。

むかしをとこありけり。あはじともいはざりける女の、さすがなりけるがもとに、いひやりける
秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも 逢はで寝る夜ぞ ひぢまさりける
色ごのみの女 返し
見るめなき わが身をうらと 知らねばや かれなで海人の 足たゆく来る

これらを業平と小町の間でやりとりした歌として解釈している。筒井康隆が和歌を論じてるのが珍しいので、少し考察してみたいのだが、これは伊勢物語にも古今集にも採られている有名な歌なので、筒井康隆が特に和歌に関心を持ったというより、たまたま目について取り上げたにすぎないだろう。

小町の歌は、業平の歌の返歌の形には、まったくなってない。返歌なら返歌らしく元歌を何か参照するなりしなくちゃならないが、まったく別々の歌という印象だよな。ああ、たまたま古今集で隣り合った歌なのか。

筒井康隆の解釈では、これは二人が美男美女の似合いのカップルだと言われて、その気になって詠んでみて、あまりにも大向こう受けの嫌らしい歌だったので二人とも破って捨てた、実は二人は恋愛感情よりも友情の方が強くてうんぬん、という設定。はて、どうだろうか、そんな解釈ができるだろうか。

常盤橋

今、八重洲には常盤橋、新常盤橋の他に、昔のままの常盤橋がある。実に紛らわしい。

もともとの常盤橋は、新常盤橋と常盤橋に挟まれていて、西岸には常盤橋公園があり、東岸には日銀本店がある。上を首都高が通り、橋の上には浮浪者の段ボール小屋がある。
ほとんど人通りがない。

外堀は、常盤橋まで来ると日本橋川に折れ曲がり、呉服橋の辺りから南がすべて埋め立てられている。

この、大手町とか八重洲の辺りは、歩いていてもあまり愉快なところじゃないね。黒塗りの車が多すぎる。

夢金

船宿が出てくる落語に、夢金と言うのがあるのだが、吉原の山谷堀にある船宿で、隅田川に出て深川まで行くと言う話。三遊亭円生の話を聞いていると亭主と女将は一階にいて、船頭の熊五郎は二階で寝ている。古い柳橋辺りの写真を見るに、この頃の町屋はほとんどが二階建て。柳橋新誌の記述とも符合する。深川でも妓楼とは言わずに船宿と言っていたらしい。

家に必ず楼あり。楼に内外あり。小なるものは外楼あるのみ。家人皆下に棲止して、客を楼に迎ふ。その舟子を畜ふ、上は四五人を食ふ。下は一二人を食ふ。

思うに、船宿というのは、普通の二階建ての町屋のようなものだったろう。多くの商店のように、間口は狭く、奥に長い。表に面した二階が客に貸す客間、奥の二階には、船頭が待機・休憩していたのではなかろうか。一階は通りに面して玄関と帳場があって、その奥に亭主と女将一家のすまいがあったのだろう。

思うに柳橋というところは、戦後日本の駅前商店街のように、船宿は船宿、料理屋は料理屋、酒楼は酒楼、などというように個別の専門店が立ち並んでいて、相互に補完していた。町全体でいろいろまかなった。船宿の座敷は個別のこじんまりしたレンタルルームのたぐい、酒楼は広間をシェアするようなものであり、密会には船宿の方が都合良いのであろう。一方、吉原などでは、「張り見世」などで大勢の遊女が集められていたのように、妓楼一つ一つが独立したスーパーマーケットのようなものだったに違いない。その建物も巨大で、三階建て、四階建ては当たり前。従って同じ芸者と言っても吉原と柳橋では全くシステムが違っていたのだ。

落語の中ではまた「屋根舟」という言葉が出てくる。これも古い写真などで確認すると、普通の川船に簡易な屋根を設けた程度のものであり、五、六人も乗れば満員、船頭も一人きりで、竿をさして移動するもののようだ。船宿が所有する舟のメインはこれ。これに対して屋形船というのは何十人も乗れて中には畳の座敷のようなものまであるもので、幕府の免許(株)が必要で、柳橋新誌の頃には七隻に減っていたという。つまり、屋形船は大きすぎのろすぎて、洒落と便利を尊ぶ「遊び」には向いておらず、皆屋根船を使うようになったということだろう。

屋根船よりも簡易で船足の速いのはチョキと言い、急に山谷堀まで遊びに行きたくなったときなどに早駕籠代わりに使ったという。

同朋町

江戸の地図を見ているとあちこちに「同朋町」というものがある。少し調べてみると、これが「同朋衆」の住む町であったことがわかる。「同朋衆」というのは、だいたい室町時代から出てきたもので、世阿弥や千利休のような僧侶であって、表坊主、奥坊主、などの呼び名もあって、将軍家のため芸能などに携わるものたちを言ったらしい。だが、『柳橋新誌』の頃の柳原同朋町は、芸者母娘の巣窟になっていた、とある。もともとは芸人(おもに男)のすみかであったところが、時代の移り変わりで、芸者(おもに女)のすみかになった、ということなのだろうか。なんか興味深い。

で、ほかにも興味深いのは、柳橋の芸者母娘の娘というのは、通常お金で買われた養子であり、つまり芸者として奉公する契約を結んでいるのはこの同居している母娘どうしだということだ。母というのももとはと言えば、娘と同じような身分の芸者だったわけだ。吉原だと、妓楼の亭主が芸者と契約して奉公させる。一方、柳橋では、芸者母娘というのは、ごく普通の親子と、表向きは何も違わないということであり、実際実の親子である場合も十に一つくらいはあったのだという。