賀茂真淵の大和魂

賀茂真淵にいまなびによれば、

女の歌はしも、古は萬づの事丈夫に倣はひしかば、萬葉の女歌は、男歌にいとも異ならず。

かくて古今歌集をのみまねぶ人あれど、彼れには心及さく巧みに過ぎたる多ければ、下れる世人よひとの癖にて、
その言狹せばく巧めるに心寄りて、高く直き大和魂を忘るめり、とりてそれが下に降くだちに降ち衰えつゝ、終に心狂ほしく、言狹小ささき手振となん成りぬる。

女の歌も古い時代には何事も丈夫であって、万葉の女歌は男歌と大した違いはなかった。古今集の時代によると言葉を狭く巧むようになって高く直き大和魂を忘れ、だんだんと衰えて言葉狭く小さくなっていった、とある。

末の世にも、女をみなにして家を立て、鄙つ女にして仇あたを討ちしなど少なからず。かゝれば、此の大和魂は、女も何か劣れるや。まして武夫ものゝふといはるゝ者の妻、常に忘るまじき事なり。

末の世でも女が家を建てたり、田舎女で仇討ちをしたりするものが少なくない。このように考えれば大和魂というものも女が劣るというものではなく、まして武士の妻というものは常に忘れるべきではない、と。

こうしてみると、「大和魂」「大和心」という用例は源氏物語や赤染衛門が初出であるのに、その精神は万葉時代からすでにあったという論法だ。確かにそのようなますらおぶりな、高く直き心というものは、古くからあり、また近世の武士にもあるかもしれないが、それを「大和心」「大和魂」と呼んでしまうと、中世の用例と齟齬ができてしまう。

いったい全体、賀茂真淵のような用例はいつ頃から誰が言い始めたのだろうか。賀茂真淵がいきなり始めたこととはとても思えないのだが。「にひまなび」は1765年成立とあるから、宣長が35才のときにはすでにこのような説があったということだな。真淵と宣長がはじめて松坂で面会するのは1763年。国学者が「大和魂」などと言い始めたのはいつかってことは、たとえば小林秀雄の追求も真淵までで止まっており、そこからさかのぼってはいない。北畠親房「神皇正統記」、山鹿素行「中朝事実」あたりが怪しいと思うのだが。

うーん。やはり、それらしい思想はすでにあったけれど、その思想にそのものずばり今日の意味の「大和魂」という言葉を「発明」し当てはめたのは、やはり賀茂真淵なのかもしれない。そういうことはうまい人だったのだろう。宣長は真淵の弟子ということになっているので、宣長も真淵と同じような意味に「大和魂」という言葉を使ったに違いない、という誤解はあり得ただろうし、宣長よりは真淵の意味の「大和魂」の方が勇ましくてわかりやすいので、宣長の主張はかすまざるをえなかったということかもしれん。

敷島の大和心の謎まとめ暫定版

結局、「敷島の大和心」に類する宣長の言い回しは発見できず。 とりあえずのまとめ。

44才の時の自画像には「めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり」
とある。鈴屋集など自選集にもたびたび掲載されている。こちらには山桜も描かれてる。
この年、ものぐるおしいほど異様な桜に対する執着を歌った歌がたくさんある。
この歌と同工異曲だとして補助線としてこの歌を利用することが許されれば、
「珍しい外国の花よりも朝日に匂う日本古来の山桜を愛するのが洋才漢才でなく和魂というものだ」と解される。
特に「やまと」を「こまもろこし」に対比させる意味に使っている可能性は宣長自身の用例からかなり高い。
漢意に囚われず大和心をしっかり固めれば外国の花より桜の花の方がずっと良いのだ、ということ。
つまり、自分の桜に対する異常なまでの愛着と国学への心構えを同時に述べたものと考えられなくもない。
たまたま花が例に挙げられているが、さらに広く解釈すれば、
珍しい舶来ものをありがたがらず、日本古来の独自のものを愛するのが大和心だよという、宣長らしい教えにたどり着く。

61才の時の自画像には「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」とある。
還暦を迎えて功成り名を遂げて、弟子も増え、自分の学問も広く世の中に知られるようになり、
ライフワークにも一区切りついて(とは言っても「古事記伝」はまだ脱稿してない)、
後世に残すというつもりで書いたものだろう。
自選集にはない。
ここで、この歌には特に重要な意味があり、またその自画像と切り離せない意味があるために、
自選集に載せなかったという解釈もできるが、
どちらかと言えば、大して重要ではなかった、大してうまいできではなかったので、自選集に入れなかった、と考えた方が良いのではないか。
およそ宣長の歌は読めばすぐに納得の行くわかりやすい歌がほとんどであり、
何かをほのめかしたような、
禅問答のような、
意味不明な歌というものは一生懸命探しても滅多には見つからない。
意味がすっと通らないという意味において、良い歌ではないと判断した可能性が高い。
44才の自画像の歌の補足として考えると極めてわかりやすいのだが。
なので、それ以上の意味はないのかもしれない。

大和心、大和魂などの用例は古くは大鏡、赤染衛門の歌などにある。源氏物語と今昔物語にも一例ずつある。
学問として学んで得た漢籍仏典などの「机上の空論」に対して、日常生活から得られた実体験に基づく「生きた知恵」、
機転や工夫、世の中で生きていく上での才覚、甲斐性みたいな意味に使われている。
具体的には商才、実務を裁く能力、戦争を指導し遂行する能力、災難や危害から逃れる機転や深慮、
家事をやりくりする能力、などのこと。
「やまとうた」は古今集の時代にはすでに表向きの「朝廷における漢学の素養」に対する「日常生活の仲間や親子や男女の間でやりとりされる歌」
という意味に使われていた。
というかそもそも古今仮名序に初めて使われた用語で、漢詩に対してわざわざ断る意味で、「やまと」歌と呼んだわけだ。
ここでもまた外国と日本の対比として使われているが、明らかに宣長の使い方とは違う。
違うけれども、宣長という人は、過去の用例というものに極めて神経質で、最大限に配慮した人だから
(つまり「語釈は緊要にあらず」として、古語を自分の都合の良いように解釈せず、用例を最優先した)、
「外国と日本の対比」という意味合いだけは決して外してないものと考えて間違いないと思う。

近世では滝沢馬琴の椿説弓張月に「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂なれど多くは慮の浅きに似て、学ばざるの誤りなり」
とある。発刊は宣長の死後10年くらい。歌舞伎となった。
また桜に対する武士の愛好もまた歌舞伎の忠臣蔵による。
これらのことから「桜のように命を軽んじる」という風潮は遠くは中世の仏教的厭世思想や、葉隠などの武家の思想や、水戸学や国学などが理論的背景にあるが、
主に歌舞伎によって「国民精神」として定着し、
宣長の歌もまたそれに飲み込まれていったものと思われる。
宣長の正確で緻密な学術考証はいろんな「思想」に便利に利用されていったが、
彼自身の「思想」はほとんど万人には理解されず受け入れられなかった、と言える。
宣長にとって桜はあくまでも愛でるものであり

> もののふのたけき心も咲く花の色にやはらぐ春の木のもと

というようなものだった。
大和魂を「清く直き心」などと言ったのは賀茂真淵であり、宣長の考え方とは異なる。
宣長は桜に心があるなどとは一度も言ってない。
また、宣長は桜が散るのが嫌いで一年中咲いていれば良いと考えていた。

> 願はくは花のもとにて千代も経むそのきさらぎの盛りながらに

平田篤胤以降の国学は宣長の考えた「大和心」とは根本的に異質なものである。

やまとごころ

検索してみた。

赤染衛門

さもあらばあれ やまとごころし かしこくは 細乳(ほそち)につけて あらすばかりぞ

(外国渡来の)学がなくとも利口な人ならば、の意味。

からくにの もののしるしの くさぐさを やまとごころに ともしとやみむ

舶来の種々の物を、日本人の私の心は、うらやましいと思う、という意味。

はじめから やまとごころに せばくとも をはりまでやは かたくみゆべき

上の歌の次の歌なのだが、難しい。「心狭し」か。 はじめのうちは度量が小さいが終わりまでは続かないの意味か。

建保名所百首(順徳天皇が催した歌会)

もろひとも けふこそここに たつのいちや とりどりみゆる やまとごころを

たくさんの人が辰の市に立っている。さまざまに(学問ではない日常的な)工夫が凝らされている、の意味か。

赤染衛門の歌が三つ。後一つは誰かわからん。

大鏡

あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、このおとどの御末は御座せぬなり。さるは、大和魂などは、いみじく御座しましたる物を。

分別のある人だったのに、のような意味か。

かの国に御座しまししほど、刀伊国の物にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、筑紫には、かねて用意もなく、大弐殿、弓矢の本末も知り給はねば、いかがと思しけれど、大和心かしこく御座する人にて、筑後・肥前・肥後、九国の人をおこし給ふをばさることにて、府の内に仕うまつる人をさへおしこりて、戦はせ給ひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高く御座します故に、いみじかりしこと、平げ給へる殿ぞかし。

機転の利く人、のような意味か。

源氏物語

なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。

学問を基礎とした方が才能も発揮できる、という意味だろう。

ま、いずれにしても、民族精神というような意味合いはないな。 同様に宣長の用法とも違う気がする。

宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて
山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め
今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば

宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。

黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき

死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。

死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ

「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。

聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人

聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。

聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人

孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教などで言われている聖人は嘘つきで良い人を悪く言う醜い人たちばかりだが、孔子だけは良いと言っている。

坂本は文字がありません。

巖本善治編勝部真長校注「新訂海舟座談」を読む。 江藤淳の「氷川清話」以上のことは書かれているようにも思えないが、附録で、 高木三郎という人が坂本龍馬について

坂本は大きな男で、背中にあざがあって、毛が生えてね。
坂本は、柔術を知らないものですから、
坂本は、文字がありません。

などと言っている。 龍馬は文字の読み書きができなかったらしい。 手紙を書いたとしても代筆だったのだろう。 あの有名な、姉に宛てて書いた手紙も代筆なのだろう。 武士で柔術を知らないというのも当時としては珍しかったのだろう。 剣術は千葉道場で北辰一刀流の目録をもらったというが、五六年もいれば誰でももらえるようなものではないか。 印象としては、行動力はあるが無学文盲の大男、といったところだろう。 勝海舟、西郷隆盛、その他長州や薩摩の志士たちにはだいたい最低限の教養はあったが、龍馬にはなかった。

ともかく、文字を知らないというのではまず和歌は詠めまい。 柿本人麻呂も文字は知らなかったかもしれないが、 それとこれではわけが違う。 仮に詠めても有名な歌のつぎはぎくらいしかできなかっただろう。 読み書きができなきゃそろばんもできなかっただろう。 政治家くらいにはなれたかもしれんが、商売ができる人間ではなかったのではないか。

龍馬は『新葉和歌集』を欲しがったというが、なんのためだったのだろう。

wikipedia に

平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」

とあるのも同じか。

勝海舟の歌:

天駆ける翼持たねばにはつ鳥あはれ落ち穂を争ひにけり

なんとも言えない歌だな。

勝海舟が危篤になったときに高崎正風(歌会所長、明治天皇の歌の師)が詠んだ歌:

眠られぬ夜寒の床に響きけり氷川のもりの雪折れのこゑ
玉の緒の絶えぬうちにと駆けつけてかひもなくなく帰る悔しさ
移りゆく世をうれたみて語らひしこゑなほ耳の底に残れり
身は苔の下にありともたましひは天駆けりてや世を守るらむ

「うれたむ」は「憂ひ」+「痛し」が動詞化したもののようだ。
まあ普通。実に平凡。というか明治天皇の御製に良く似ていてびっくり。
明治天皇の歌をより情緒的にしたような感じ。

辞世千人一首

荻生待也「辞世千人一首」を読む。 千人といっても、 江戸時代の辞世の歌(狂歌)が充実しているようだ。

便々館湖鯉鮒(べんべんかんこうり)という狂歌師の歌:

三度炊く 米さへこはし 柔らかし 思ふままには ならぬ世の中

式亭三馬:

善もせず 悪も作らず 死ぬる身は 地蔵もほめず 閻魔叱らず

蜀山人:

生きすぎて 七十五年 食ひつぶし かぎりしられぬ あめつちの恩

魚屋北渓(ととや ほっけい、浮世絵師):

暑くなく 寒くなくまた 飢ゑもせず 憂きこときかぬ 身こそやすけれ

中山信名は幕臣で、国学者。塙保己一の弟子の一人。

酒も飲み 浮かれ女も見つ 文もみつ 家も興して 世にうらみなし

のんきだな。 とまあこんな感じで、江戸時代とは実際泰平な世の中だったのかもしれん。
幕末維新はうってかわって殺伐としていて、中山忠光:

思ひきや 野田の案山子の あづさ弓 引きも放たで 朽ちはつるとは

宮本大平:

えびす船 打ちもはらはで 白雪の ふり行く老いの 身ぞあはれなる

日本史百人一首

渡辺昇一「日本史百人一首」。 平凡な構成。
北条泰時:

事しげき 世のならひこそ ものうけれ 花の散るらむ 春も知られず

いやあ。京都で訴訟に忙殺されていたきまじめな泰時の姿が目に浮かぶような良くできた歌だけど、 本人が詠んだ歌じゃないよな。 太田道灌以来うたぐりぶかくなった。

徳川家康:

嬉しやと ふたたび起きて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空

辞世の歌というが、まあ、本人の歌じゃないよね。というかどう見ても江戸の町人が詠んだ歌だろこれは。

またまた徳川慶喜:

この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり

うーん。どうなのかこれは。いずれにせよ渡辺昇一という人は歌の真贋などまったく興味無く、ただ面白そうな歌をあれこれ集めたということだろう。狂歌とはそうした遊びかもしれんが、和歌の勉強にはならない。

幕末百人一首

菊池明「幕末百人一首」を読む。 なかなか面白い。
土方歳三は司馬遼太郎の「燃えよ剣」では下手の横好きの俳句詠みとして描かれているが、

よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は東の 君や守らむ

とあってこれはどうにもこうにも、吉田松陰の辞世の歌

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂

のもじりにしか見えない。 坂本龍馬の

世の中の 人は何とも 言はば言へ 我がなすことは 我のみぞ知る

だが、これもどうも松陰の

世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が心は 神ぞ知るらむ

と似てる。というか、定家の基準から言えば完全に本歌取りのレベル。 「我のみぞ知る」は聖書の文句「神のみぞ知る」のもじりだろう。 また明智光秀の

心知らぬ 人は何とも 言はば言へ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ

とも似ている。 普通の武士や浪人ならこの程度で上出来か。 そういう意味では松陰の本歌はなかなかすぐれている。 いろんな影響を受けつつも「我がなすことは我のみぞ知る」の部分はまあ良い。 かなりまともな方としては、徳川慶喜

踏み分けて 尋ぬる人の あとをこそ 若菜の雪も 下に待つらめ

あるいは林忠崇

真心の あるかなきかは 屠りだす 腹の血潮の 色にこそ知れ

などだろうか。 他にも良いのがあるが、もう一つ挙げるならば、清水次郎長の辞世の歌

六でなき 四五とも今は あきはてて さきだつさいに 逢ふぞうれしき

がなかなか博徒らしくて面白い。 四五六がチンチロリンを思わせる。 「さい」は妻と同時にサイコロをかけているのだろう。 だが、清水の次郎長時代にはたして丁半はあったとしてチンチロリンがあっただろうか。 あまりに良くできているので、後世の偽作もあり得ると思うのだが。 しかし今のところ確かめようもない。 なんと内村鑑三がこの清水次郎長の歌をほめているらしい。

私は近ごろ東海道の侠客、次郎長の辞世の歌が目に触れました。博徒の長の作ったものでありますから、歌人の目から見ましたならば何の価値もないものでありましょうが、しかし、もしワーズワースのような大詩人にこれを見せましたならば、実に天真ありのままの歌である、と言って大いに賞賛するであろうと思います。
多くの貴顕方の辞世の歌でも、文字こそ立派であれ、その希望にあふれたる思想に至っては、とてもこの博徒の述懐に及ばないと思います。彼、次郎長は侠客の名に恥じません。彼はこの世にありて多少の善事をなした報いとして、死に臨んで、このうるわしき死後の希望をいだくことができたと見えます。

ほんとかいな。山岡鉄舟研究会 参照。


追記。明智光秀の辞世だが、どうもこれは後世の贋作に違いない。当時あの時代にこんな歌を詠むとは信じがたい。

和歌の血統

いろいろと調べてみると、 光格、光孝、孝明、明治、大正、昭和と、今上天皇からさかのぼって光格天皇までは直系で代々続いている。 光格天皇の前は後桃園天皇だが、22才でなくなり男子がなかった。その前は、後桜町天皇で、女帝だった。
ここで中御門天皇以来の皇統が途絶えたので、 新井白石の時代に創設された閑院宮家の光格天皇が継いだ。

閑院宮家は世襲親王家だったので、光格天皇の父は親王ではあった。 光格天皇が即位したので、父の典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたので尊号事件がおこった云々。 光格天皇はいろいろと文芸復興運動をした人で、典仁親王は和歌の名人だったそうなので、おそらく明治天皇の歌好きは光格天皇の父の典仁親王までは確実に遡れそうだ。

留魂録

古川薫全訳注「吉田松陰 留魂録」を読む。 本文自体はごく短いものであり、 獄中で一日程度で二冊同じものが書かれ、そのうちの一部は高杉晋作が紛失し、 もう一部は牢名主に預けてあったものが今日に伝わり、 この現存する原本は萩市の松陰神社に所蔵されているという。解題、史伝などがかなりくわしい。

留魂録全原文。 あるところにはあるものだな。

吉田松陰の歌で伝わるものはあまり多くないが、できばえはなかなか大したものだから、 ただ残っていないだけで、もっとたくさん詠んでいたのだろうと思われる。 今回かき集めてみると、 留魂録冒頭の

身ハたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂

のほか、

心なることのくさぐさ書きおきぬ思ひ残せることなかりけり

呼び出しの声まつほかに今の世に待つべき事のなかりけるかな

討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷(えびす)払へよ

愚かなる吾れをも友とめづ人はわがともどもとめでよ人々

七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや

などが最後に記されている。 「君をあがめてえびすをはらう」とはつまり尊皇攘夷ということだわな。 他にも関東へ護送中に

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

世の人はよしあしごともいはばいへ 賤が誠は神ぞ知るらん

などの歌を詠んでいるが、なんとも数が少ない。 和歌を詠むに際して漢語をやまとことばになおそうとする努力が見られるが、 普通の人にくらべて漢字の利用比率が多いように思うので、 やはりもともと和歌はあまり詠まない人だったかもしれない。