非常にためになった。
親切に書かれた良い本だと思う。
ところどころ反論したいところはある。
彼が「キャラクター小説」と言いたいところのものは今の「ラノベ」である。
彼がこの本を書いた2003年当時には「ラノベ」という言葉はなかった。
ラノベや漫画やTRPGについて語りながらいきなり
柳田国男の『頓阿の草庵集』の話が出てきたのも面白かった。
少し調べればわかるのだが、
大塚英志という人は筑波大学で千葉徳爾という人のもとで日本民俗学を学び、
千葉徳爾は柳田国男の弟子であった。
大学院に進学して研究者になろうとも思ったらしい。
だから柳田国男とか頓阿とか草庵集を知っているわけだ。
柳田国男とか佐佐木信綱などは明治時代からのインテリで戦後まで生き残って、
戦後民主主義教育のステレオタイプを作った人で、
どうにかしなきゃならんと常々思っている。
柳田国男は明治の中頃、類題集で和歌を学んだという非常に貴重な体験をした人のようだ。それで恋愛経験もない深窓の令嬢までもが「忍ぶ恋」とか「逢わぬ恋」などの題詠で恋の歌を詠む練習をしていた、というのに矛盾を感じていたというのである。
そういう「虚構の歌」はよろしくないということはすでに江戸後期の国学者の中に気付いていた人たちがいた。
小澤廬庵や香川景樹らだ(というより鎌倉後期に出て題詠を否定した京極派辺りが最初に問題意識を持ったんだろう)。
ところが明治の歌人らは、廬庵や景樹の先進性までも頓阿といっしょくたにして切り捨ててしまった。新しいか古いかという基準でしか歌を考えられなかったのだろう。古くても良いものもあれば、古くて悪いものもあり、新しくても悪いものもある。
私から見れば頓阿というのはひどくまずい歌詠みだ。
歌がまずいだけでなくてその書いた歌論やらがひどい。
嘘ばっかり書いてる。
頓阿はただ有名なだけで最悪な歌詠みと言って良い。
頓阿によって歌道や歌学というものがどれだけゆがんだか知れない。
そのゆがみを直すためにどれほど国学者が努力せねぱならなかったか。
頓阿はとても悪い。
でも景樹はかなり良い。
上田秋成なんかはすごく良い。
宣長には良いのも悪いのもある。
古いものでも一つ一つ丁寧によりわけて悪いものを捨て良いものを残す。そういうてまひまのかかる作業を明治から昭和にかけての学者たちはしてくれなかった(しかし『日本歌学大系』という名著を編纂したのも佐佐木信綱だった。なんたる皮肉。つまり彼は古いものをひとまとまりにして倉庫に入れて封印する仕事をしただけだった)。
話はそれるが、
皇族、武士、町人は割と面白い歌を詠む。
公家は歌読みは多いが良い歌詠みはそんなにいない。
僧侶には良い歌詠みは滅多にいない。
西行や蓮生あたりまではよかったかもしれんが(というかこの二人はもともと武士だが)、
慈円なんてのは凡作ばかりだし、
鎌倉・室町までくだると坊主でまともな歌人はかろうじて正徹くらいではないか。
江戸時代だと契沖、良寛が少し良い。
大塚英志はまた明治の文学には「言文一致」と「候文」の二種類しかなかったような書き方をしているがこれは嘘だ。
「言文一致」というのも今から見ればそう見えるわけで当時としては新奇な人造言語だったし(大塚英志自身がそれに気付いているのに!)、「候文」なんてのは江戸時代の武家の公文書にむやみと使われただけの、
日本古典文学から見ればゲテモノに過ぎない。
彼らは古文は古くさい因習で、現代文によって淘汰されたことにしたくて仕方ないのだ。
そこが柳田国男とか佐佐木信綱の悪いところだ。
現代文にも淘汰されるべきものが多くある。
淘汰圧がまだかかってなくて残っているものがたくさんある。
それはそうと、キャラクターとは記号であり、小説はTRPGのように書くべきだという考え方には大いに共感した。
私の小説もゲームの影響を強くうけている。
キャラクター設定とはAIであり、
世界観とか舞台設定はマップであり、
マップの上にアセットを配置して、ゲームをリプレイする感覚でストーリーを作っていく。
ただ私はそれをTRGBのような、パーティを組むみたいな手垢の付いたストーリーにしたくないだけのことだ。
これから小説は、ゲームの開発環境のように、アセット作る人、キャラクター作る人、キャラクターのAI作る人、マップ作る人、ストーリーというか世界観作る人、テンプレ作る人、みたいな分業体制になっていくんじゃないか。ハリウッド映画もすでにそうやって作られている。ストーリーの生成はある程度自動化されるんじゃないか。一人の人間がいきなりワープロに向かって何か書くというやり方は効率悪すぎて、そのうち勝てなくなる、と思う。ほとんどの小説はそういうふうにして作られて消費されるようになる。というより、一発当たった作品はそうやってよってたかって再生産されていく。ルーカスがいなくても未来永劫スターウォーズが作られていくようにして。
だからまあそこから外れたもの、そういうものの大もとの企画や原作を書いてみたい気もするが、そういうものは社会的な需要がないから受け入れられないだろうし、よほどのことがないと当たらないということになる。
私が小学一年生の時に見た「トリトン」を大塚英志は中学生で見たという。
アニメ史に残る富野由悠季の業績とは「ガンダム」ではなく「トリトン」だと言ってて、面白い視点だなと思った。