定家「詠歌大概」冒頭、
> 情以新為先、詞以旧可用。風体可効堪能先達之秀歌。
情(こころ)は新しきを以て先と為し、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用うべし。
風体は堪能なる先達の秀歌に効(なら)ふべし、と訓めばよかろう。
割註があり、
> 求人之未詠之心詠之
人が未だに詠まない心を求めて、これを詠む
> 詞不可出三代集先達之所用、新古今古人歌同可用之
古今・後撰・拾遺に先達が用いた言葉以外を用いてはならない。
ただし新古今に採られた古い歌は同様に用いることができる。
> 不論古今遠近、見宣歌可效其体。
古い新しい、遠い近いに関わらず、良い歌を見て、その体に倣うべし。
情と詞の関係はつまり古今集仮名序
「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」
と同じである。
真名所の
「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」
とも同じである。
為世はさらにわかりやすく、「和歌秘伝抄」に
「心は新しきを求むべき」「詞は古きを慕ふべき」と解いている。
思うに、油彩画は油絵の具とキャンバスを使って描く物である。
油絵の具はゴッホの頃は近代化学の最新の産物であったかもしれないが、
今では古典的な画材である。
だがいったん油彩というジャンルが確定したからには油彩画は油絵の具を使い続ける。
アクリルを使えばもはや油絵ではない。
イエスは「新しき酒は新しき革袋に盛れ」「新しき酒を古き革袋に入れるな」という。
新しい酒というのはまだ発酵が終わらず、炭酸ガスを吹き出しているから、
古い革袋にいれると膨張できずに破裂てしまうという意味だ。
まあそれはそれでいい。
新しい思想は新しい技術と相性が良い。それはけっこう。
しかし和歌をたしなむ目的の一つは、古い言葉を通じて古人の心を現代に甦らせることにある。
今の世の中では忘れ去られ感じることが困難になってしまったことでも、
和歌を見ることで古人の心が手に取るように読み取れる。
西行や、実朝や、後鳥羽院や宇多上皇の心までも。
和歌に関して言えば、為世の言うように、
> 誠に月氏漢朝のわざをよむべきにあらず、
広学多聞を事とすべきにもあらず。
ただ大和言葉にて見る物聞く物について言ひ出だすばかりなり。
という考えに尽きている。
また、
> いなおはせ鳥は鳥なりけりとも、雀なりけりとも、
よまぬ上はただ知らず。
よみによみたりとも何の苦しみかあらん
と定家自身が言っていると為世は言っていて、
これ完全に古今伝授を定家自身が否定してるわな。
でまあ為世は割とまともな人だなと思った。
むしろ為兼の歌論はひどい。
歌がつまらぬ人の歌論が優れていて、
歌がおもしろい人の歌論は出来損ないというのは困ったことである。
それはそうと、
「情」「詞」は明らかだが「風体」というのがよくわからん。
「歌風」とも「風姿」と「歌体」もいい、
ただ「体」とも言うのだが、
これがよくわからない。
古今集真名書にも出てくる。
> 華山僧正、尤得歌躰。然其詞華而少実。
対応する仮名序の箇所は
> 僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し
あるいは
> 文琳巧詠物。然其躰近俗。如賈人之着鮮衣。
> 文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず。
いはば商人のよき衣着たらむがごとし
また、
> 大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而躰甚鄙。如田夫之息花前也。
> 大友黒主は そのさまいやし。
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし
「歌体」は「さま」と訳されていることがわかる。
あえて現代語で表せば「表現」とでもなるか。
つまり、新しい思いつきを古い言葉を使って、先達の表現(本歌取りを含む)に倣って詠め、ということであろうか。