蜀山人2

蜀山家集 全。狂歌のみをだいたい見繕ったもののようだ。これは便利。

弥生十二日舟にて隅田川にまかりけるに花いまだ咲かず
隅田川 さくらもまだき 咲かなくに 浮きたる心 花とこそ見れ

これはまともな歌。

春の日、芝のほとりにて
春の日も ややたけしばの 浜づたひ 磯山ざくら 見つつ飽かぬかも

これも良い歌。ていうか、一番良い出来ではないか。竹芝海岸の「たけ」を春が長けるの「たけ」にかけていて、「浜づたひ磯山ざくら」がうまく効いていて、最後は万葉調にしめている。やればできるじゃん、大田南畝君。まあ秋成の友人だけはある。こういう歌を江戸時代に蜀山人あたりが詠んでいるというのが、やはり近世の和歌もあなどれんよなあ。

磯山ざくらとは磯に咲く山桜のことだろうか。続後拾遺集に

心なき あまの苫屋も にほふまで いそやまざくら 浦風ぞ吹く

これはまあまあ良い歌。作者はネットで検索しただけだとわからん。国歌大観で調べんとな。

竹芝は当時どんな浜辺であったか。砂浜だったか。砂利か泥か、或いは磯か。今となってはまったく想像がつかない。

浜庇山といへる茶屋にて
しばしとて やすらふ芝の浜庇 ひさしくみれど 飽かぬ海づら
年の暮れに
衣食住 餅酒油 炭たたき なに不足なき 年の暮れかな

杏園詩集はところどころ面白いがうまく意味の通らない(解釈に自信のない)ところが多すぎる。たとえば隅田川を詠んだ詩で「南連両総北三叉」というのがある。両総は下総国と上総国だが、北の三叉とは何か。常陸、下野、上野であろうが、確証が持てない。

狂歌は「蜀山百首」と「千とせの門」が良い。あとはあまりできがよいとは思えない。「狂歌百人一首」は大嫌いだ。ただのパロディでつまらん、が、世間では一番知られているようだ。「めでた夷歌百首」も似たようなもの。「巴人集」「巴人集拾遺」は詠草にあたるか。数は多いが良いものは少ない。

蜀山人

蜀山人全集を読み始めたのだが、全五巻あり、そのどこかに狂歌がまとめて載っているわけでもない。連歌もあれば漢詩もある。当然のことではあるが和歌について論じている文もある。

杏園詩集の巻頭

日出扶桑海気重
青天白雪秀芙蓉
誰知五嶽三山外
別有東方不二峰

要するに日本は海に浮かぶ良い国だ、中国人は三山五嶽より外の世界は知らないだろうが、東方の日本には富士山がある、というような意味。「三山五嶽」は中国の名山で、蓬萊・瀛洲・方丈の三山と、泰山・衡山・華山・恆山・和嵩山の五嶽であるという。「五嶽三山」としたのは平仄あわせのためであろう。

押韻平仄ともにきちんとしている。こういう詩を作るからにはまじめな人だと思う。まあ普通の御家人だわな。旗本ではない。武家で役人だから、当たり前といえば当たり前なように漢文が多い。

「めでた百首夷歌」というのがある。蜀山人も「狂歌」とは言わず「夷歌」と言っているところが興味深い。ただし「狂歌百人一首」とか「狂詩」などと言っているものもある。「夷歌」はもとは「あづまうた」と訓んだのではなかろうか。

鎌倉の 海より出でし 初がつお みな武蔵野の はらにこそ入れ

蜀山百首の中の一つ。

武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ

を思わせる。「武蔵野の原」という慣用句もある。「原」に月が入るのと、「腹」に鰹が入るのをかけているわけだ。かなりひねった歌だ。

世の中は 我より先に 用のある 人のあしあと 橋の上の霜
今さらに 何を惜しまん 神武より 二千年来 暮れてゆく年

同じく蜀山百首。

あなうなぎ いづくの山の いもとせを さかれてのちに 身をこがすとは
世の中に たえて女の なかりせば 男の心 のどけからまし

うーん。

富士のねの 表は駿河 裏は甲斐 前は北面 のちは西行

西行が出家する前は北面の武士だったことを知らないとわからないしゃれだわな。

いたづらに すぐる月日も おもしろし 花見てばかり 暮らされぬ世は
寝て待てど 暮らせどさらに 何事も なきこそ人の 果報なりけれ
世の中は いつも月夜に 米の飯 さてまた申し 金のほしさよ

これは「それにつけても金のほしさよ」の原型だろうか。

呉竹の 世の人なみに 松立てて やぶれ障子を はるはきにけり
世の中は なにか常なる 飛鳥山 きのふの花は けふさくらん坊
遠乗りの 馬二三匹 隅田川 疲れたりとも 花につなぐな
黒髪も いつか素麺 としどしに 七夕のうた 詠むとせしまに

普通の和歌もあるはずだと探してみるが、

隅田川 堤の桜 咲く頃は 花の白波 寄せぬ日ぞなき

普通だ。うっかり普通の和歌を詠んだという感じ。

あらたまの としのはじめの 初声は 春駒よりも ましらふの鷹

ましらふは「真白斑」。

鳥が鳴く 東の日枝の 山桜 咲くやゆたかに にほふ春の日

「鳥が鳴く」は「東」の枕詞なのでしゃれではない。「東の日枝」とは要するに上野の東照宮のこと。さすがに江戸っ子の幕臣、家康をネタに狂歌は詠めなかったようだ。

たらちねの 手織りの羽織 常に着て 綿よりあつき 恵みをぞ思ふ

「ある人母の手織りの羽織の裏に歌を請う」とある。これまたふざけるわけにはいかない。

この春は 八重に一重を こきまぜて いやが上野の 花ざかりかな

どうして一ひねりしたがるのかなこの人は。普通に詠めば良さそうなものだ。この歌も、

この春は 八重に一重を こきまぜて 上野の山の 花ざかりかな

とかすれば普通に和歌になる。「こきまぜて」は歌語である。ただの口語ではない。ただ上のようにするとあまりにも普通である。つまらなく陳腐である。蜀山人も自覚していただろう、自分がまじめな歌を詠むと陳腐なありきたりの歌になってしまうことを。だからついオチをつけてしまいたがるのではなかったか。もともと狂歌を詠むのは得意だったからいつの間にかそちら専門ということになった。もとはまじめな人なのだ、おそらくは。ものすごく勉強した人だから、つい昔の歌をもじってしまう。しかし自分のオリジナルの歌がなかなか詠めない焦り。おそらく私生活もごく平凡な人だっただろう。波瀾万丈からは遠い、江戸後期のいたって平和な江戸市中の暮らし。漢詩や漢文だとまじめくさっていても別に変じゃないが、古文であろうとも日本語でまじめなこと言うと照れくさい。ついふざけたくなる。親父ギャグ言いたくなる気分。そういう気持ちだろうと思うが。

たれをかも 仲人にせん 高砂の 松もむかしの 茶飲みともだち
豆腐売る 声なかりせば 朝顔の 花のさかりは 白川夜船

狂雲集

一生受用米銭吟
恥辱無知攪万金
勇色美尼惧混雑
陽春白雪亦哇音

狂雲真是大灯孫
鬼窟黒山何称尊
憶昔簫歌雲雨夕
風流年少倒金樽

まだ良く調べてないのだが、一休の漢詩集。wikiによればこの中に

門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

という和歌があってこれのみが、一休の真作と認められているらしい。

まあ、和歌はともかくとして漢詩の方はどうやらかなりきっちり作られた七言絶句で、韻を律儀に踏んでるし、平仄もまともである。かなりの使い手と言っていい。内容がかなり破戒的だから韻律的には完璧を期したか。

ググってみた感じでは、流通している本が書き下しのものばかりのようで、群書類従にオリジナルがあるそうだから今度見てみなくては。群書類従は大きな図書館にはたいていあるから助かるわな。日本外史も書き下ししか出回ってないが、それはそれとして、漢詩は白文がないとどうにもならんわな。

古今夷曲集

一休の和歌は「古今夷曲集」などにかなりの数採られているのだが、真作なのか。これに採られている西行、慈円、道元、沢庵の和歌というのも同様だ。中には松永貞徳や木下長嘯子のような普通に有名な歌人も混ざっている。鎌倉時代の西行や道元や慈円、室町時代の一休の真偽はあやしいとして、貞徳、長嘯子、沢庵は同世代の人だから真作かもしれん。うーん、油断がならん。

「古今夷曲集」は生白庵行風という僧が編んだ日本初の狂歌集だということで、それはそれなりに貴重なものだ。行風は後水尾天皇とだいたい同世代、江戸初期の人。「後撰夷曲集」「銀葉夷歌集」などの歌集も選んだようだ。

和歌は情淳にして風情をかざり、夷歌は俗語をもきらはず、心ただしく理にかなふをもはらとせり

なかなか良いことを言っている。もともとは狂歌とは言わず、夷歌と言ってたというところが興味深い。一休の号が狂雲であるので、もしかするとその影響で狂歌と呼ばれるようになった可能性もあるわな。

少なくとも行風自身の名がついている歌は真作だと考えてよかろう。貞徳の歌が割と多いのは直接の知り合いだったからかもしれん。

一休

餅つかず しめかざりせず 松たてず かかる家にも 正月は来つ

うーん。どうなのかこれは。

行風

ともすれば 花の顔さへ 打ちちらす 風の手ぐせを 直してしがな

これは、たしかに狂歌ではあるが、ぎりぎり和歌と言えなくもない。できも悪くない。

行風

野にたてる 夜風ひきてや 撫子の はなたれたりと 見ゆる朝露

これも斬新で良い。風邪引いてはなを垂れるとかけているわけだ。

長嘯子

人ごとに 腰折れ歌を 詠みおきて あたら桜を 杖にこそつけ

ひどい歌だな。

海老の絵に詠める
沢庵
いかばかり えびを取り食ふ 報いあらば つひには老いの 腰やかがまん

宗祇

ものごとに たらぬたらぬと 思ふこそ まよふ心の 作りやまひよ

本物なのか。ばかばかしいな。

布袋絵の賛に
沢庵
この袋 あけてみたれば 何もなし 何もないこそ 何もありけれ

法然

口にある 南無阿弥陀仏の 味はひを 自力の人は 食ひ知らぬなり

法然

ありがたや 障りのおほき 女人をば 弥陀ひとりこそ たすけましませ

本物なのか。

弘法大師

今ははや 後世の勤めも せざりけり 阿吽の二字の あるにまかせて

良く出来た偽物だな。

一休

作りおく 罪の須弥ほど あるなれば 閻魔の帳に 付けどころなし

一休

嘘をつき 地獄に落つる ものならば 無き事作る 釈迦いかがせん

一休

すぐなるも ゆがめる川も 川は川 仏も下駄も 同じ木の切れ

一休

たぞにたぞ たぞたぞにたぞ たぞにたぞ たぞにたぞとて 何もなきかな

おまえは誰だといろんな人に問い詰めた結果何もなかったということか。

うーん。釈教歌がやたらと多いな。ありがたく使わせてもらうか。

赤染衛門

赤染衛門集を一通り読んだ。実に不思議な歌を詠む人だ。普通、歌とは、花鳥風月や春夏秋冬、恋や別れなどの、浮き世離れしたことを詠むものである。ある意味やんごとなき、高尚なものであるという認識がある。西行も「花鳥風月に感じて三十一文字をなす」というような言い方をしている。紀貫之が屏風歌職人であったように、古今集の時代から歌は「文芸」であると考えられていた。当たり前のようだが、当たり前ではない。万葉時代には歌は芸能、芸事というよりは、娯楽とか、余興に近かったはずだ。今で言えば歌謡曲に近い。江戸時代の都々逸には近いだろう。狂歌と言ってしまうとまた違う。ある意味漫才や落語にも近かったと思う。

彼女の時代、歌と話し言葉にはほとんど違いが無い。

赤染衛門が「発掘」されたのは後拾遺集であるが、彼女の時代はそれより少し前の、藤原道長や紫式部の時代である。この時代までは、こういう素朴で野卑な歌を詠む人はざらにいたのだろう。しかし身分が低すぎて、自分で歌集を遺したりしない。そういう歌をわざわざ蒐集する人もいない。だけど、赤染衛門は大江匡衡の妻だったから歌を記録してもらえた。さらに後拾遺集の選者は変わり者だったから、和泉式部や相模などの、普通の勅撰集の選者ならば選ばないような歌を選んだ。或いは白河天皇がそういう趣味の人だったかもしれない。祇園女御と出会う前からそういう人だったのかもしれない。いくつかの偶然が重なって赤染衛門の歌は奇跡的に後世に残った。

やまとごころにも書いたが、後拾遺集

乳母せんとて、まうで来たりける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける
大江匡衡
はかなくも 思ひけるかな ちもなくて 博士の家の 乳母せむとは
かへし
赤染衛門
さもあらばあれ 大和心し かしこくば ほそぢにつけて あらすばかりぞ

有名な話である。匡衡は学者である。博士である。一方赤染衛門はおそらく浪速の肝っ玉おばちゃんみたいな、地頭(じあたま、ね)はすごいが、教養はもともとない人だっただろう。だから上のようなやりとりが生まれた。漫才のようなものだ。現代人がそのニュアンスを感じとることは絶望的に不可能だろう。つまり、当時の雅語は現代人でもある程度理解できる。しかし当時の自然な話しぶり語り口で赤染衛門のような歌を詠むのは、現代人にとっては自然どころではない。超絶技巧である。後世、歌語が口語から遊離してしまうと、歌語は人々にもはや教養としてしか理解できなくなってしまう。教養であるから技巧によって、理屈によって歌を詠むことになる。理屈抜きで自然に歌を詠むなんてことはできない。それは技巧ではない。超技巧である。理屈が理屈でなくなるまで技巧をこらし技巧を極めて初めて到達できる、天衣無縫の境地。

「やまとごころ」という言葉が大鏡や源氏物語に出てくるように、そして赤染衛門以外の人がほとんど歌に使ってないように、「やまとごころ」は雅語ではない。たぶん庶民が使う話し言葉だった。学問をして身に付ける漢才とか、花鳥風月をもてあそぶ雅びな教養とは違う。それこそ「浪速の肝っ玉」それが「やまとごころ」だったはずだ。

江戸後期になると小沢蘆庵が「ただごと歌」というのを始める。良寛もそれに近い歌を詠む。小沢蘆庵に影響を受けた香川景樹も、地下らしい素朴だが力強い歌を詠む。庶民が歌を詠み始めた証拠であろう。庶民の歌が復活するまでに、赤染衛門から七百年もかかったのだ。

赤染衛門が珍しいのではない。現代人にはそう見えるだけなのだ。彼女の時代には彼女のような庶民の歌の方が圧倒的に多かった。しかし後世に遺されたのは一部の貴族が詠んだ歌だったのだ。

踏めば惜し 踏まではゆかむ 方もなし 心づくしの 山桜かな

千載集に載った、ぎょっとするほど美しい歌だが、勅撰集には何千という赤染衛門の歌の中でもこういう特に歌らしい歌しか採られていない。つまり、浪速のおばちゃんがごくまれにがらにもなく上品な言葉をぽろっと言ったりする。それをわざわざ拾い上げて勅撰集に入れた。俊成はもちろんわかった上でそうした。しかし俊成より後の人はもうわからない。在野の、庶民的な歌人はまもなく絶滅してしまうからだ(俊成や西行は赤染衛門にかなり近いタイプの歌人だったと思う。感覚的直感的に歌を詠む人、ただし洗練された教養を身に付けているが)。赤染衛門というのは、とても雅びな女流歌人のように思ってしまう。たぶんそれは赤染衛門の実態ではない。

やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

後拾遺集に採られ、百人一首にも採られたこの有名な歌。風流きわまりない。しかしそれは赤染衛門の実像ではない。なんという大誤解!真淵は「やまとごころ」という言葉を国学的に読みかえた。近世や現代の人はこれほど古代や中世のことがわからんのだ。

恋の歌をみると良くわかるとおもうのだが、彼女の場合剽軽な詠み口に味があるので、よくよくみると深みがない。ひねりがない、とも言える。

この世より 後の世までと 契りつる 契りは先の 世にもしてけり

この歌など、ただの頓知だ。ぞんざいに言い放っている。歌という感じがあまりしない。と、考えると他の、百人一首の歌なども同じような調子に思えてしまうのだ。和泉式部の

あかざりし 君を忘れむ ものなれや ありなれ川の 石は尽くとも

あるいは実朝の

かもめゐる 荒磯の州崎 潮満ちて 隠ろひゆけば まさる我が恋

のような気の利いた比喩や暗喩表現は、赤染衛門には見られない。情景描写も見事だが、ただ見たままをうまく歌ったとも言える。和泉式部もあんまりもって回った表現はしないが、赤染衛門に比べれば多少の技巧はある。

都にて あひ見ざりしを つらしとは とほき別れの 後ぞ知りける
忘れじと かたみに言ひし 言の葉を たがそら言に なして良からむ
つらしとも 思はぬ人や 忘るらむ 忘れぬ我は なほつらきかな
忘れなば 我も忘るる わざもがな 我が心さへ つらくもあるかな
起きて伏し 伏しては起きぞ 明かしつる あはれやすぐや 人は寝つらむ
飛鳥川 淵こそ瀬には なると聞け こひさへふなに なりにけるかな

飛鳥川は淵が瀬になるほど流れが激しくて変わりやすいが、ならば鯉(恋)も鮒になるだろうと。 単なるだじゃれである。

我が歎く 心のうちを 記しても 見すべき人の なきぞかなしき

とりよろふ

「とりよろふ」は万葉集に「大和には群山あれどとりよろふ天の香具山」という形でしかでてこない。岩波古語辞典はあっさり「不詳。気持ちや生活のよりどころとする意か」とある。「とりより」から派生したのは明らかであり、こちらは用例が多い。原義は「手づるをつかんで近くに添うこと」、らしい。「うつり」に反復・継続の接尾語「ひ」がついて「うつろひ」となるように、「とりより」に「ひ」がついて「とりよろひ」。

そうしてみると、大和にはいろんな山があるが、それらの山々がとりよろふ天の香具山、つまり、大和の山々の中でも、中心的な位置、存在、代表であるところの天の香具山、となるだろうか。天の香具山自体は、高くもなく、平凡な山であるが、その名の通りに何か特別な意味を持つ山である、ということだろう。

忘れ草 忘れな草と とりよろふ 野の八千草に まどひぬるかな

はて、これは誰の歌であったか。あれ? わからんぞ。あ、わかった。やはり自分で詠んだのだ。

とりよろふ 天の香具山 よろづよに 見るとも飽かめや 天の香具山

宣長の歌だが、単なる枕詞のように使ってあるな。

日の本や こまもろこしと とりよろふ よろづの酒を 飲みてしやまむ

これは私の歌なのだが。こんな使い方していいのだろうか。

うーん。不適切な気がしてきた。

秋成

秋成の擬古文は、宣長のような堅苦しさもなく、なめらかですばらしい。

みかどに立てば、世をまつりごち、庵のどかに住みなしては、あまねく病に験ある薬を舐めわきて、惻隠とかの心をいたせしとや。

「まつりごち」は「まつりごと」を活用させた語だが、源氏物語に出る。「あまねく病にしるしある薬」とは酒のことであるらしい。なんかしびれるな、こういうのを美文というのだろう。やはり秋成はちゃんと読まねばならぬ。馬琴とか春水とか京伝とかは差し置いてまず読まねばならぬ。秋成は文法とか仮名遣いなどがやや乱調なのだが、そこもまた彼の味か。秋成と宣長の長所を合わせれば完璧な擬古文ができあがるだろう。源氏物語の文体を現代にそのまま復活させることはできない。秋成や宣長の文体は近世なので、なんとか現代風にアレンジすれば、今でも使い物になるんじゃないか。そのうちこのブログでも実践してみるか(笑)

それはそうと、しばらく酒を飲まずにいると低血圧になるようだ。血圧計で測ってみてもそうだし、朝寝起きが悪くなるし、立ちくらみもする。おそらくついでにコレステロール値も下がるのではないか。毎日何キロも歩いてみたり、断食まがいのことをしてみても、あまり効果がなく、結局酒をやめれば体調が良くなるということか。

血圧高い方が寝覚めも良いし活発に動けるが早死にする。低血圧なくらいな方が長生きする。

まあこれまで人の何倍も酒を飲んできたから、そろそろ週に一度たしなむ程度にするのもよかろうか。このへんで酒池肉林とか言ってるのを見るとうらやましくもあるが。

真白嶺と芝山

最近また和歌を詠もうと思いリハビリしてる。

しもふさと むさしを分くる すみだ川 かへり見すれば 富士の真しらね

と

しもふさと むさしを分くる すみだ川 かへり見すれば 富士の芝山

のどちらがよいか悩んでいる。「真しらね」は「真白嶺」だが、どうも不思議と用例が少ない。秋成の歌に

箱根路の 雪踏み分けて 真しらねの ふじの高嶺を 空にみるかな

というのがあるが「富士の真白嶺」とやった人はまだいないらしい。かたや、「富士の芝山」というのは万葉集に出て、便利とみえて、その後もいろんな人が使っている。加藤千蔭

あづま路に まづくる春の 日の影を 雪に待ちとる 富士の芝山
うらうらと 富士の芝山 霞む日に 田子の浦舟 ゆたに漕ぐみゆ

明治天皇の歌にも

あづまにと いそぐ船路の 波の上に うれしく見ゆる ふじの芝山

とあり、昭憲皇太后の歌にもあったはず。どっちがいいかね。

西行

小林秀雄「西行」を読んでいて思うのだが、小林秀雄は、知ってか知らずか、西行の歌の真作、偽作かまわず、西行の歌と言われている歌すべてを対象にして、西行という人を鑑賞しようとしている。その態度はある意味潔いが、当然のことながら西行の実像を濁らせてもいる。

小林秀雄は後世のフィクションを取り除いて真実の西行を見極めようとしているのではない。小林の態度はむしろ真逆で、もとの西行はともかくとして、後世作られた二次創作をさらに誇張しようとしている。その虚像をさらに膨らませ、偶像の一人として彼をパンテオンに祀ろうとしているのだ。小林はもともとそうした評論家であった。彼は事実よりもフィクションのほうが好きなのである。少なくともそれを彼は自分の商売とした(より正確に言えば、読者を獲得する必要があった若い頃の小林は、というべきかもしれない)。

小林秀雄ですらそうなのだからそれ以外の人たちは、ほぼ皆、西行の伝説に惑わされている。あまりにも古びて改変されてしまっていて、江戸時代の古い写真や、中世のはげかかったフレスコ画を見ているようなものだ。それは生きている西行からはほど遠い。ごく一部の疑い深い学者しか西行の歌の真偽については考慮してない。

西行の歌はいくつか分類して考えねばならない。出家前に詠んだ歌(もしあれば)、出家直後に詠んだ歌、晩年の歌、そして後世の偽作。

西行は多作だったので、確実に真作であろうと思われる歌を集めるのはそんな難しくない。

詞花和歌集に初出の歌は33歳までに詠んだわけである。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

小林秀雄はこの歌を「作者の自意識の偽らぬ形」「こういうパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み」などと言っている。つまり禅問答的な形をとった過剰な自意識の発露だといいたい。詞花集には読み人知らずとして載ったわけだが、もしかするとそのころはまだ俗名で、しかも勅撰集に名を出すにはおそろしく身分の低い武士だったのだろう。

「捨てぬ人」とはまだ出家してない西行自身のことであって、自分は在俗のまますでに身を捨てたようなものだが、出家して世を捨てたと言っている坊さんたちは、ちっとも世の中など捨ててないように見える(権力や名誉に執着している)、ということか。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」という強い言い方、おまえら、ほんとに身を捨てたのかよ、そんなんじゃ身を捨てて救われようとは思えんね、みたいな軽蔑の感情を感じるのは私だけだろうか。あなた方は行い澄まして世の中を捨てたなぞとうそぶくが、私のほうこそ、俗世の中にいて、深い絶望を抱いているのだ、と。

あるいは、出家することを身を捨てるというのは間違いで、身を捨てない人の方が、後生に障るから実は身を捨てているのだ、と解釈する人もいる。「身を捨ててこそ 身をもたすけめ」が西行の真作ならば、その解釈であっているかもしれない。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」はその場合お坊さんが檀家の人に説教をしている口調、身を捨てるというのは、ほんとうに身を捨てたことになりますか、いえ、ちがうんです、みたいにも思えてくる。西行がただの坊さんならばこの解釈であっていると思うのだが。西行は、坊さん臭い、説教臭い和歌は詠まなかった人だと、私は考えている。

勅撰集に「詠み人知らず」としか載らない身分の低い私でも出家すれば名前がのこるようになる、と解釈する人もいる。なるほどいろんな解釈があるものだ。

西行の他の歌も参考にしつつ考えると、西行は出家はしたものの普通の人と同じような生き方をした。花をめで、歌を詠み、京都市内に住んだりした。出家した後も悟りは得られず、一生悩み苦しんだ。そのことと関係あるんだろうが、よくはわからん。

まともかく西行は普通の坊さんと違うので、解釈が難しい。「パラドックスを源泉」と言えばそうなのかもしれない。

追記: 以前に似たようなことを書いていた。西行の歌。そうだな。この歌は変に説教臭いし、同時代の人がこれを西行の歌と認めたのならともかく、どうも「西行物語」に詠み人知らずの歌が西行の歌として載ったから、西行の歌ってことになった、と解釈した方が話は簡単だ。少なくとも確実に真作とは言えないだろうな。ま、これ以上この歌だけに関わっても仕方ない気はする。

彼ほどに真に悟りを必要とした人は、その当時にも滅多にはいなかっただろう。それほど深い苦しみを抱いてた。早く楽になりたかったが、なれなかった。そこへいくと慈円なんかは何の悩みも迷いもなく僧侶となり、のほほんと一生を送ったのに違いない。

世の中に未練のあるような歌は他にもある。

はらはらと 落つる涙ぞ あはれなる たまらずものの 悲しかるべし

物思へど かからぬ人も あるものを あはれなりける 身の契かな

捨てたれど かくれてすまぬ 人になれば 猶よにあるに 似たるなりけり

数ならぬ 身をも心の もち顔に うかれてはまた 帰り来にけり

捨てしをりの 心をさらに あらためて みるよの人に 別れはてなん

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

など。こういう歌を、小林秀雄は「西行が、こういう馬鹿正直な拙い歌から歩き出したという事は、余程大事なことだと思う」などとからかっている。しかし果たして、「馬鹿正直な拙い歌」なのだろうか。

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

などは、確かに誰にでも詠めそうな、しかし西行にしか詠めなさそうな歌ではある。普通の僧侶はこんな歌は詠まない。同時代の慈円なんかは絶対詠まない。

心なき 身にも哀は しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕ぐれ

世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出でにせむ

うらうらと 死なむずるなと 思ひとけば 心のやがて さぞとこたふる

そらになる 心は春の かすみにて よにあらじとも おもひたつかな

世のなかを そむきはてぬと いひおかん おもひしるべき 人はなくとも

山里に うき世いとはむ 友もがな 悔しく過ぎし 昔かたらむ

古畑の そはの立つ木に ゐる鳩の 友よぶ声の すごき夕暮

ここらも、未練を断ち切った、というより、未練たらたら、という感じの歌。まあ先の歌と同じ心境を詠んだもの。意味もさほど難しくない。西行には大胆な字余りの歌があって驚く。

世の中を 思へばなべて 散る花の 我が身をさても いづちかもせむ

わきて見む 老木は花も あはれなり 今いくたびか 春に逢ふべき

吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花ちりなばと 人や待つらむ

花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ くるしかりける

春風の はなをちらすと 見るゆめは さめてもむねの さわぐなりけり

春と桜の歌。最後のやつは宣長の

待ちわぶる 桜の花は 思ひ寝の 夢路よりまず 咲きそめにけり

にも似るが、両者それぞれの個性が出てるわな。

いとほしや さらに心の をさなびて 魂ぎれらるる 恋もするかな

こころから 心に物を 思はせて 身をくるしむる 我が身なりけり

あはれあはれ このよはよしや さもあらばあれ 来む世もかくや くるしかるべき

わればかり 物おもふ人や 又もあると もろこしまでも 尋ねてしがな

はるかなる 岩のはざまに 独り居て 人目思はで 物思はばや

恋の歌。

おそらく偽作と思われるのは

何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

うき世をば あらればあるに まかせつつ 心よいたく ものな思ひそ

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

その他、聞書集に載る、

うなゐ子が すさみに鳴らす 麦笛の 声におどろく 夏のひるぶし

すさみすさみ 南無ととなへし ちぎりこそ 奈落が底の 苦にかはりけれ

たらちをの ゆくへを我も 知らぬかな 同じ焔に むせぶらめども

などはほぼ間違いなく後世の創作であろう。説教臭く、坊さん臭い。おそらく西行は「たらちを」とか「うなゐご」にはほとんど何の関心もなかったと思う。小林秀雄はそこに後の良寛を見るが、良寛と西行は坊さんで歌人という以外には何の共通点もない人たちだと思う。