本居宣長27回

小林秀雄の本居宣長の27回。ここにはほとんど宣長のことは出てこない。 業平と紀貫之のことばかり書いてある。 たぶん小林秀雄は宣長の「あしわけをぶね」を読んでいて、古今集について語りたくなったのだろう。

古今集真名序に出てくる「続万葉集」を貫之が編纂したかどうかはかなりあやしい。 古今集の前の段階、宇多天皇の時代(醍醐天皇が即位するまえ)に編纂されたと思われるからだ。 「新選万葉集」「続万葉集」などは、はっきりとは書かれてないが、 宇多天皇、もしかすると光孝天皇が企画したものだったかもしれない。

小林秀雄は貫之が古今集仮名序を、土佐日記を書く30年ほど前に書いた、と言っているのだが、 私が「古今和歌集の真相」に主張したこととは全然違う。 それは(延喜五年に最初から今のような貫之による仮名序が古今集についていたとする)定説だが、しかし、古今集研究はまずその定説を疑うところから始めなくてはならない。 小林秀雄はそこに踏み込んでない。 「古今集の歌風を代表するのは、六歌仙と言われているひとたちの歌」だと言っているのも、 私の主張とはかなり違う。 六歌仙はどちらかと言えば貫之らよりも数世代前の伝説の人たちであり、 業平は確かに最も重要な古今歌人だが、彼は別格であって古今集の歌風を代表するとは言いがたい。 当代の歌人としては、貫之はともかくとして、紀友則とか源融、伊勢などに焦点を当てるべきである。 そこが少し物足りない。はがゆい気持ちがする。書くなら書くでもう少しつっこんでほしい気がする。 そしてさらに、なぜか歌がまったくでてこない宇多上皇の存在に気づくべきなのだ。

思うに、この小林秀雄の本では、当たり前のことだが、 宣長については非常に詳しく緻密に、網羅的に調べて独自の意見を書いている。 しかし、それ以外に脱線した話題に関しては、随想のように、 割と一般に知られている意見をそのまま紹介している箇所があるようにも見える。 彼に特有のむらっけのようなものを感じる。 小林秀雄という人が、主菜を前にして、それ以外のいろんなサイドメニューをつまみ食いしている感じが見える。 もともとこの本が長期連載の随筆をまとめたものであったから、どうしてもそのような体裁になってしまうのだろう。

日の神論争2

久しぶりに小林秀雄の本居宣長を読んでみたのだが、なるほど、本居宣長と上田秋成の論争のことは、第40回あたりにちゃんと書いてある。しかし、小林秀雄は「日の神論争」などという言葉は一切使ってない。

「日の神論争」という言葉には「治天の君」と同じような気持ちの悪さを感じる。たぶんこれらの用語を使い始めた仕掛け人は同じ世界にいる。私はそこになにか戦後左翼の悪意のようなものを感じるのだ。私は自分の嗅覚には自信がある。日本戦後民主主義の欺瞞には敏感だと自負する。

本居宣長と上田秋成の論争はつまりは、宣長は天照大神は人格神ではなくて太陽そのものであると言いたいわけである。秋成は、古代の神話は不可知であるから、太陽そのものであるとか実はなにかの人格神を太陽になぞらえたとか、そんなことには言及しないのが良い、と言っている。つまりは、天照大神が人格神か太陽そのものかという論争。秋成には宣長への愛を感じる。宣長はたぶん秋成を好きではなかっただろう。秋成の宣長への片思い。私にはほほえましく思える。

しかし、それに「日の神論争」という名前を与えた誰かがいる。大きなお世話である。宣長も秋成も、愛するものたちが交わした恋文のような、二人の論争にそんなへんてこな名前を付けられるのは嫌だろうと思う。不愉快だろうと思う。秋成にはたしかに「日神」という文字は見える。しかしそれを「日の神論争」という言い方をするのに、少なくとも私は不快を感じる。

私は宣長の原理主義は間違っていると思うし、秋成の方がまともなことを言っていると思うが、しかし、宣長の弁護もしたいと思う。つまり、当時の人たちは、新井白石もそうだが、何かといえば、神話を自分の考え方で解釈しようとする。それは戦後日本においてもそうだし、平成26年の今日でもそうだ。そのときどきの時代の常識で神話を解釈しようとすれば必ず間違う。秋成は、だから、神話は不可知であると言う。いろいろと判断を加えてはならないと。宣長は、神話は神話としてそのまま記紀に書いてある通りに解釈すべきだという。私にはその二つは似ていてどちらも好ましく感じる。宣長は、神話を勝手に解釈するくらいならそのまま書いてある通りに信じる方がましだと言っているだけに思える。

戦後日本が戦前の日本の国学を否定して、源平合戦を治承・寿永の乱とか言い直したりする。治承・寿永の乱、くらいまではまだ許せる。そう言いたければ言えばいい。しかし、治天の君は私にはただ不愉快なだけだし、おそらく仕掛け人は同じところにいると思うと、日の神論争という言い方にも同じ不快感を感じざるを得ない。宣長が反発したのと同じことを今の学者もやっているのだ。昭和や平成の解釈で神話をいじくるくらいなら、宣長のようにそのまま神話を信じる方がましだと言いたい。ずっとましだ。或いは秋成のスタンスも私は好きだ。或いは、小林秀雄のように批評とはアートであり直感だから、好きに言いたいように言えばよい、というアプローチも好きだ。この三つは私には好ましいし似通ってみえる。一番遠いのは、分かったような用語を後付けして、分かったようなカテゴライズをして、分かったような解釈をすることだ。そんな解釈は100年もたない。判断しないこと、そのまま信じること、アートとして鑑賞すること、これらは100年でも1000年でも保つのだ。

留置まし

反実仮想まとめが良く読まれているのがおかしいのだが、 たぶん「反実仮想」「まとめ」でググって来ているのだろう。 記事のタイトルに「まとめ」といちいち入れるとアクセスが増えるかもしれない(笑)。

これは先にまし、 とも・・・まし、 というのを書いてさらに調べたものを追加してまとめたという意味。もとはといえば、 吉田松陰の

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

という歌の解釈が難しいからである。 それでまあ、今改めて考えてみるに、 幕末は武士の勇ましい和歌が流行していて、 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも」「大和魂」などはまさに当時の志士が好んだ言い回しなのだが、 なぜか「留め置かまし」の部分だけが非常に雅びで女々しい。 そうするともしかして「大和魂」もまた、 源氏物語に出てくるような女々しい意味で使われているのではなかろうかという疑いが出てきて、 この歌は実はかなり弱音を吐いた歌なんじゃないかと思えてくるのである。

でまあ吉田松陰がそこまで意図してこの歌を詠んだかどうかわからんのだが、 この歌は幕末の殺気だった雰囲気と平安朝の雅びな雰囲気が混在していて、すごく違和感がある。
すごく困惑させられる。 で、以前にも書いたように、私なら、「留め置かまし」ではなく「留め置かばや」とか詠むだろう。 「まし」だと「まほし」の誤用ではないかと誤解される可能性がある。 そう思われるのが怖いからたぶん私は「ばや」にするだろう。 「留め置かむ」が良いが字足らずで「留めて置かむ」ではなんか力が抜ける。 「留め置きてむ」は強いがちょっと違う。 「留め置かなむ」だと「留めおきたいなあ」みたいな感じで変。

川越素描では、吉田松陰の歌を元にしつつ、やはり「ばや」で受けた。

資長のアリア(I)
おお、佐枝、無念なり 忠勤尽くせし我が君に
謀反の疑念をいだかれて 今こそ我は討たれたれ
願はくはこの魂魄を 東(あづま)の国にとどめおき
憎(にっ)くき仇(かたき)上杉の 子孫の胤(たね)を絶やさばや

まあこれだと紛れもない武士の歌である。
でも完全な武士の歌にしてしまうと物足りなくもあり、味気なくもある。
だから、吉田松陰の歌は「留め置まし」でなくてはならず、
そうでなければ維新となって爆発する内部応力をこの歌は持ち得なかっただろう。

敷島の道

「敷島の道」なんてのは足利尊氏が歌に詠み始めた(流行らせた)なんて書いたのが気になって調べてみたのだが、「しきしまの」は「やまと」などに懸かる枕詞でこれは古語だ。
崇徳院御製に「しきしまのやまとのうた」というのがあるが、これは和歌のことであるが、貫之が「やまとうたは」などと言っているのとなんら変わらない。少なくとも古今集の時代にはあった言葉だ。宣長の「しきしまのやまとごころ」これもまた平安中期頃にあっておかしくない言い方。

しかるに「しきしまの道」を「歌道」という意味に用い始めたのは案外新しいはずだ。
たぶん初出はなんかの歌学書もしくは勅撰集の仮名序であろう。明らかに後世作られた「歌学用語」である。そもそも「道」なんてことぱには要するに宣長があまり好きではない漢才の匂いがする。

和歌に詠まれた「しきしまのみち」の初出は玉葉集らしい。九条孝博

おろかなる身をば知れども代々経ぬるあとをぞたのむ敷島の道

ただこれ、初出な上に「日本の道」と言ってるだけなんでほんとに歌道の意味で使ったかは不明。だんだんと定着していったんだろうけど。

冷泉為相

これのみぞ人の国より伝はらで神代を受けし敷島の道

二条為藤

住吉の松の思はむことのはを我が身にはつる敷島の道

住吉の松も花咲く御代にあひてとがへり守れ敷島の道

うーん。ほんとに和歌のことかどうか、あやしいよな。

為藤は為世の子だから明らかに二条派だろうな。為相はどちらかといえば京極派?

玉葉は伏見院の院宣による持明院統と大覚寺統に分かれて争っていた鎌倉後期の成立、
しかも京極派が優勢だったころで、かつ、九条孝博は玉葉集の選者の一人で伏見院の側近、どちらかといえば京極派だったかもしれない。いずれにしろ歌論というものがやかましく言われるようになったころに生まれた言葉だわな。時代的に足利尊氏がその影響をもろに受けたのは自然。ていうか東国の武士が朝廷に接近するためにはまずは和歌を学ばないと、敷島の道にはげまないと、と彼は考えただろう。尊氏が歌好きだから将軍はじめ武士はみんな和歌好きになってしまった。

なにごとも思はぬ中に敷島の道ぞこの世の望みなりける

すごいよなこの尊氏の歌。足利将軍の歌ですよといわれなきゃ誰もわかるまい。ましかし武士だからこそ逆にこんな言い方をしたのかもしれんが。

こういうの調べ始めるときりがないんだけど。

追記: 敷島の道2

上田秋成の誤解

願はくは 花のもとにて 千代も経む そのきさらぎの 盛りながらに

これは宣長の歌で、明らかに西行の歌

願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃

を本歌としたものである。宣長らしいおもしろい返し方だ。上田秋成が、宣長の

敷島の 大和心を ひと問はば 朝日ににほふ 山桜花

を批判しているのだが、

大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。 おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。 おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。

宣長は、賀茂真淵や平田篤胤とはまったく違う意味に「大和心」「大和魂」という言葉を使っていた。「大和心」「大和魂」がもともと源氏物語や赤染衛門の歌に出てくるように、それはもとはといえば女言葉であり、平安時代の日本の女性的な心をさすものであった。特に「漢学」に対する言葉だった。宣長はもちろんそういう意味で使っている。漢心(からごころ)、漢才(からざえ)に対して大和心という言葉を使っている。そのことを指摘したのは小林秀雄だったと思うが今ちょっと良く思い出せない。

宣長が「大和魂」などという言葉を使ったのだろうか。使った可能性もあるが、それは「たをやめ」の「弱く女々しい心」という意味に使ったはずだ。敷島の大和心とは何かと人に問われれば、それは「朝日ににほふ山桜花」をひたすら愛でる、私のような、女々しい心のことだ、と解釈しなくてはならない。宣長が詠んだ大量の桜の歌をみればその気持ちを補完できるだろう。

宣長は復古神道の創始者(の一人)ということになってしまった。だから「敷島の」の歌も誤解されている。秋成も誤解した。ただし秋成は「正しく誤解」している。つまり宣長があんまり外国よりも日本を崇拝するのが気持ち悪いという意味で言っている。宣長にしてみれば国学の重要性を強調したいが故に、極端な表現をした。それくらい当時の漢学崇拝は空気のように自然であり、宣長は孤立無援だった(ある意味今も宣長はほとんど誰にも理解されていないという意味で孤立無援である)。

しかし宣長の弟子の国学者たちは「間違って誤解」した。大和心、大和魂を日本男子の猛々しい心だと考えた。平安時代より前の武人の心だと解釈した。

そしてその誤解が宣長を余計に有名にしてしまった。すべては後の世の人たちの仕業である。

ちなみに和歌のことを「敷島の道」などと詠み始めたのは足利尊氏ではないか。少なくとも彼がその一人であるのは間違いない。尊氏も武士からぬ女々しい和歌を詠んだ。大量に詠んだ。室町時代に勅撰集がやたらと作られたのは尊氏のDNAのせいだろう。彼が和歌好きだったのは間違いない。実は周りの武士団が勇ましいだけで、その真ん中にいた尊氏はほんとに女々しいだけの人だったかもしれないと思う。

追記:昔の記事を読み返すとほとんど同じことを書いていた。国意考。ついでに敷島の道。

娑羅双樹の花

西行の歌に

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃

というのがあるのだが、旧暦2月15日はおよそ春分の日のことであり、桜が咲くには早すぎる、と以前から思っていた。旧暦2月15日は釈迦涅槃の日でもあって、娑羅双樹の木の下で死んだことになっているから、ここで花というのはおそらく娑羅双樹の花をさしている。こんなことを私が初めて発見したわけはないと思いググってみると、川田順という人が「古典日本文学全集西行集」の中で言及しているらしい。

娑羅双樹なんて日本に生えているわけがない。また娑羅双樹の花が咲くのは初夏であり、
涅槃日とされる春分の日には絶対に咲かない。また桜の花でもあり得ない。つまり、「願はくは」は完全に空想の歌であり、何か具体的な花をさしているのではなく、ある抽象的・観念的な死の花を言っている。あるいは死後の西方浄土の世界を詠んでいる。現実の、春分の頃に咲く梅とか桃とかの花ですらない、ということになる。

おそらく後世の人があやまって(あるいは故意に)山家集の桜の歌の中に「願はくは」の歌を混ぜてしまったのだろう。特にその次に

仏には桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば

をもってきたのはまずかった。当然「願はくは」の花は桜だという誤解を定着させた。しかるに、もしこの花が娑羅双樹の花だとわかるように歌集の中に配置されたり詞書がついてたりしたら、このように有名になることも、西行の代表歌になることもなかっただろう。

西行と桜のイメージの相乗効果によってこの歌も西行も有名になったのだ。こういうふうに後世の人の誤解(脚色)のせいで有名になることはたくさんあると思う。そもそも釈迦の涅槃が春分の日であるというのも根拠がない。後世の人がえいやっと春分の日を涅槃日ということにしたのにすぎない。クリスマスがちょうど冬至の日にあたっているようなものだ。当然、西行が春分の日に死んだことになってるのもただの伝説にすぎない。人は真実を知るよりもむしろ美しい嘘にだまされたいものなのだ。

「古今和歌集の真相」の記述も少し書き換える必要がある。「西行秘伝」はもともとフィクションだからいじる必要はない。

そうして疑ってみると「願はくは」の一つ前の歌

はなにそむこころのいかで残りけむ捨てはててきと思ふ我が身に

これも実景を詠んだのではなく、釈迦入滅の心境を詠んだものかもしれない、とも思える。釈迦が死の直前に弟子のアーナンダに「この世界は美しい。そして、人生は甘美である」と言ったとあるが、この時釈迦が見ていた花はマンゴーの花であったかもしれない。そして西行はこの臨終の際に釈迦が言った言葉を和歌に翻訳してみたのかもしれない。


追記: 娑羅双樹の花が咲くのはインド暦で2番目の月だそうだ。

後拾遺集

結構百人一首に採られてるな。

43 心あらん 人にみせばや 津の國の 難波わたりの 春のけしきを

能因法師。ジャストシステム様、能因法師を一発変換できるようにして欲しいです。

46 立はなれ 澤べになるゝ 春駒は おのがかげをや 友とみるらん

着眼点がおもしろい。公任。

52 春の夜の やみにしなれば 匂ひくる 梅より外の 花なかりけり

これも公任

55 我やどの 垣根のうめの うつり香に 獨ねもせぬ 心地こそすれ

詠み人知らず

57 春はたゞ 我宿にのみ 梅さかば かれにし人も 見にときなまし

和泉式部の歌。すばらしい。

62 我宿に うゑぬばかりぞ 梅花 あるじなりとも かばかりぞみん

主でさえこれほどに見るだろうか。

89 いづれをか わきてをらまし 山櫻 心うつらぬ えだしなければ
93 白河院にて、花を見てよみ侍りける 民部卿長家
あづまぢの 人にとはばや 白川の 關にもかくや 花はにほふと

これはおもしろい。感動した。

160 聲絶ず さへづれ野べの 百千鳥 殘りすくなき 春にやはあらぬ
165 四月ついたちの日、よめる 和泉式部
さくら色に そめし衣を ぬぎかへて やま郭公 けふよりぞまつ
214 さみだれの 空なつかしく にほふ哉 花たちばなに 風や吹らん

相模。さらりと。

216 おともせで おもひにもゆる 螢こそ なく虫よりも 哀なりけれ

重之

217 宇治前太政大臣卅講の後、歌合し侍りけるに、螢をよめる 藤原良經朝臣
澤水に 空なる星の うつるかと みゆるは夜はの ほたる也けり
229 夏の夜凉しき心をよみ侍りける 堀河右大臣
ほどもなく 夏の凉しく 成ぬるは 人にしられで 秋やきぬらん
265 秋も秋こよひもこよひ月も月ところもところ見る君も君

詠み人しらず。

379 大井川ふるき流れをたづね来て嵐の山のもみぢをぞ見る

白河天皇御製。宇多上皇が御幸した大井川(大堰川)とはやはり嵐山あたりの桂川のことを言うわけだ。

390 さびしさに煙をだにもたたじとて柴折りくぶる冬の山里

和泉式部。

404 いづかたと甲斐の白根はしらねども雪ふるごとに思ひこそやれ
539 立ちのぼる煙につけて思ふかないつまた我を人のかく見む

和泉式部

607 かくなむと海人のいさり火ほのめかせ磯べの波のをりもよからば

源頼光。これは珍しい。頼光が歌を詠むというのが珍しいし、「なむ」が歌に使われるのが珍しい。

611 おぼめくなたれともなくてよひよひに夢に見えけむわれぞその人

和泉式部。これも珍しい。「おぼめくな」などという口語的な言い方をするとは。

624 こほりとも人の心を思はばやけさ立つ春の風にとくべく

能因法師。貫之の、袖ひちて結びし水の凍れるを春立つけふの風やとくらむ、が本歌であろうが、うまくひねってある。

625 満つ潮の干るまだになき浦なれやかよふ千鳥の跡も見えぬは
635 したきゆる雪間の草のめづらしくわが思ふ人に逢ひみてしがな

和泉式部。序詞がうまく効いてる。

646 つれもなき人もあはれといひてまし恋するほどを知らせだにせば

赤染右衛門。どうかこれは。

657 恋死なむいのちはことの数ならでつれなき人のはてぞゆかしき
658 つれなくてやみぬる人にいまはただ恋死ぬとだに聞かせてしがな

陳腐ではあるがなかなかおもしろい。

664 ほどもなく恋ふる心はなになれや知らでだにこそ年はへにしか
678 たのむるをたのむべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせん

相模。期待させるあなたに期待はしないが待つとはなしに待つかもしれません。なんかな。

708 風の音の身にしむばかりきこゆるは我が身に秋やちかくなるらむ

詠み人知らず

712 明日ならば忘らるる身になりぬべしけふを過ぐさぬ命ともがな

赤染右衛門。忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな、の本歌か。赤染右衛門のやけくそな感じがおもしろい。君がため惜しからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな、の真逆を言っているのがおもしろい。

753 来じとだにいはで絶えなばうかりける人のまことをいかで知らまし

相模。もう来ないといって来なくなった人へ。来ないとすら言わず来なくなったなら、つらい人の本心をどうやって知ることができよう (来ないと言い残したので本心は知っている)。 なんかもうね。

754 たが袖に君重ぬらむからころもよなよな我に片敷かせつつ

これも相模。すごい歌だな。中島みゆきみたいだな。

755 黒髪のみだれも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき。

和泉式部。これ有名。これ知ってる。

779 こひすとも涙の色のなかりせばしばしは人に知られざらまし

良い歌だなこれ。弁乳母。

790 世の中に恋てふ色はなけれどもふかく身にしむものにぞありける

これも和泉式部。さらっと。でも良い歌。「恋てふ色」なかなか詠めそうで詠めぬよなあ。

796 荒磯海の浜のまさごをみなもがなひとり寝る夜の数にとるべく

相模。荒磯海の浜の真砂を全部欲しいと。

797 かぞふれば空なる星も知るものをなにをつらさの数にとらまし

藤原長能。星の数は数えられても、つらさの数をどうやってはかればよいのか。

798 つれづれと思へば長き春の日にたのむこととはながめをぞする

眺めているしかない。つまり期待できることはない。

801 君こふる心はちぢにくだくれどひとつも失せぬものにぞありける

和泉式部。

810 君がためおつる涙の玉ならばつらぬきかけて見せましものを

ありがち。

811 契りあらば思ふがごとぞ思はましあやしや何のむくいなるらむ
812 けふ死なばあすまでものは思はじと思ふにだにもかなはぬぞうき
816 神無月よはのしぐれにことよせて片敷く袖をほしぞわづらふ

相模

820 人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ

和泉式部。夏の虫が燃えて死ぬように、人の身も恋に燃やして代えてしまおう。

826 うしとてもさらに思ひぞかへされぬ恋は裏なきものにぞありける
831 白露も夢もこの世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり

和泉式部。これもなんか知ってるな。

とりあえずこのへんにしとく。

後拾遺集はやっぱすごいわ。とくに和泉式部。相模もすごい。選者に共感するところがある。

でね、後世まあ定家とかがつまみぐいした百人一首が流行ったおかげで、定家的に解釈される傾向があるのだが、つまみぐあいによれば後拾遺集は写実的な歌ばかりのようにもみえ、定家みたいにつまめば幽玄有情みたいにみえなくもない。どちらともとりえる。

少なくとも後拾遺集は古今集の影響はそれほど無いとみた。もちろんだじゃれや掛詞だけのうたもあるからそれが貫之の二番煎じだというようにピックアップすることもできるのだが、それはあまりにも後拾遺集というものをゆがめてみすぎだと思う。

宇多上皇

古今集読んでるとわからんことがわらわらわいてくる。

光孝天皇は、即位するとき、基経に、まずは固辞したが、それでもどうしても即位しろと言われて、じゃあ私は一時的な中継ぎなんで、私の息子たちはみんな源氏にしちゃいますね、皇統は文徳天皇か清和天皇か陽成天皇の皇子に戻してくださいね、とかいう条件を付けた。で、ご丁寧に自分の皇子を陽成上皇の侍従にして、業平と相撲をとらせたりした。

その侍従というのが宇多天皇なのだが、宇多天皇が陽成上皇の侍従だったというのは、十五歳から二十歳くらいまでの期間だろう。父・光孝天皇からは、帝王学ならぬ、臣下学を学ばされた、ということだ。業平は宇多天皇よりも四十歳以上年上だから、当時もう六十くらいのおじいさんで、まともに相撲をとったはずがない。神遊びの神事として相撲をとったはず。にしても相撲を取るくらいだから、親密な間がらだっただろう。

光孝天皇は、自分の意思に反して即位したのだから、自分の意思に反して後継者が決まるだろうと覚悟していた。基経が先に死ねば別だったろうが。だから後継者を指定しなかった。

ともかく、光孝天皇にしてみると、陽成天皇の正統性にはまったく疑いがなく、陽成天皇が廃位されたことにもなんの正当性もない、と考えていた。態度にそれがあらわれている。

光孝天皇は崩御するまで、後継者指名に関しては何もしなかった。基経が適当に裁いて、皇籍復帰した宇多天皇が即位するが、まあ、帝王学は学んでないわけで、いきなり位を継いだわけです。で、父はもういない。しかも二十歳そこそこの若さ。さてどうしようかと途方に暮れただろう。もうなんでもかんでも摂政関白に任せちゃおうと思ってもおかしくないんだが、そこはたぶん何かしらの反骨精神、自立心があった。というより摂関家に対する対抗心とか復讐心がめらめらわいてもおかしくない。

親子二代天皇を継いでしまったわけだから、いまさら陽成天皇に皇統を戻さなきゃとは考えなかった。せっかく天皇になったんだから、努力して良い天皇になろうと思ったと思う。それで源氏だった頃に生んだ皇子がいて、後の醍醐天皇だけど、その息子になんとしても皇位を継がせられるようにしようと宇多天皇は思ったと思う。

光孝天皇と宇多天皇はほとんど接点がなかったと思う。だけど宇多天皇としてみれば光孝天皇がやりかけていた文芸復興ということを引き継ぎたいと思ったと思う。父親の遺志を継ぐというのが宇多天皇のやりかただった。

宇多天皇という人は、基本的には典型的なプランナータイプの人だったと思う。アイディアマンといってもよい。アイディアは自ら出すが、あとは臣下や息子になんでも丸投げする。政治は菅原道真に、和歌は紀貫之に、天皇という仕事は醍醐天皇に。割と放任しちゃうタイプだったと思う。

そう考えると宇多上皇と醍醐天皇と菅原道真の関係もなんとなくわかる気がする。醍醐天皇は宇多上皇の留守中に菅原道真を左遷してしまう。宇多上皇はその決定を覆すこともできたはずだ。太宰府に流されてから道真は二年以上生きていたのだから。

でもそれをしなかったというのは、さほど道真を大事に思ってなかったということじゃないか。好き嫌いで取り立てたというよりは、才能を買ったと。で道真はおそらくは才におぼれるタイプだった。どんどん一人でつっぱしって周りの忠告も耳に入らないタイプ。まあ太宰府辺りでのんびりしてろよというつもりではなかったか。太宰府権帥というのは当時そんな低い官職ではない。遣唐使盛んな頃は非常な重職で、遣唐使の大使になったりする職。遣唐使廃止されたあとも、太宰府で交易品の管理とかしなきゃならない。左遷ではあったかもしれないが、島流しというようなニュアンスはそれほどなかったのではないか。菅原道真については、彼の漢詩をじっくり読んでみようと思う。

宇多上皇という人と道真の関係は、貫之との関係とも、醍醐天皇との関係とも似ていたと思う。割とドライな感じだったと思う。そうかじゃあそうしろと。そうしたけりゃそうすりゃいいでしょ、みたいな。

宇多上皇はいろいろやりたいことがあった。日本国中御幸したかったし、法皇として仏教にも励んでみたかったし、延喜式も整備したし、和歌集も編纂したかったし。やりたいことが多すぎて自分だけじゃできないってこともあったろうし。わざわざ自分でやってたら切りないって思っただろうし。でもちゃんとプロジェクトのマネージメントはする、みたいな人ではなかったか。

そんで宇多上皇は古今集の中では法皇という名前ででてくるんだが、詞書きにしかでない。歌が一つも採られていないのだが、これはいかにも不自然だ。たとえば亭子院歌合というのがあって主催者が宇多上皇で判者も宇多上皇。すると、宇多上皇は自分では歌は詠まない。判定する側だから。でも一個だけ自分の歌を紛れ込ませた。えへ。じつはこれは私の歌だよんとか、詞書きに残している。

古今集についても同じような気分だったのではないか。宇多上皇はスーパーバイザーであるから、自分の歌は載せない。ほかにもいろいろ遠慮した理由は考えられるが、ともかく、もし、宇多上皇が何か紀貫之に注文をつけたとすれば、自分の歌は載せるな、ということ。あるいは、載せても良いが詠み人知らずにしとけということ。

古今集には詠み人知らずとして宇多上皇の歌がいくつか混じってるんじゃないか、という気がしてくる。いや、もしかすると詠み人知らずの歌の大半がそうなんじゃないかという気がしてくる。たとえば

色よりも かこそあはれと おもほゆれ たが袖ふれし やどの梅ぞも

詠み人知らずの古歌というものは、もう少しわかりやすいものだと思う。この歌はわかりにくく、従ってある個性を感じる。

この歌の解釈はこうだ。誰が私の家の梅に、袖をふれただけで去っていったのだろう。一本くらい折り取っていけば良いのに。色よりも香りのほうが優れている、とでも思ったのだろうか。

梅ノ花ハ色モヨイガ 色ヨリ香ガサ ナホヨイワイ アヽハレヨイニホヒヂヤ 此ノヤウニヨイニホヒノスルハ タレガ袖ヲフレタ此庭ノ梅ノ花ゾイマア

これは宣長の解釈。

多くの場合、だれかの袖が触れたせいで、梅にこのように良い香りがついたのだ、と解釈されるのだが、かなり無理がある。普通は梅から袖に香りが移るものであって、その逆というのはあり得ない。そこを無理に解釈しようとしてはいけない。

丸谷才一は、触れただけではなく実は折り取ったのだ、と解釈しているが、これもかなり無理がある。折り取ったのであれば、香りだけでなく色もあわれだと思ったのである。香りだけで色がないということは枝は折ってないはず。

おそらくこの歌を詠んだ人は、だれかが自分の家の軒先まできて梅の花を見ていったのを目撃したのだろう。普通は来訪のしるしに一枝折っていくものである。当時の習慣では、いろんな人がやいやい指摘するように、実際そうだったかもしれない。やあこないだ君の所から一本梅をもらったよ、今うちの瓶に差してあるんだ、へえそうかい、みたいな会話のきっかけになる。

しかし、折らなかった。だれかもわからなかった。誰だったのだろう、ずいぶん中途半端なことをして。当時の社交辞令的にはかなり不完全で不審な行動だったわけだ。それで怪しんで詠んだ。という意味だと思う。

小料理屋の女将さんが、店先をふと立ち寄って通り過ぎた客を恨んで詠んだような、そんなニュアンスの歌だと思うんだよね。そう解釈すべきなんだが、そこまで読み取るのはかなりたいへんだ。

こういうひねった歌というのは、詠み人知らずにないとは言い切れないが、どうも身分を隠しただれかの作のようにおもえてならない。貫之が詠んだ歌だとしても不思議ではないが、貫之が名を隠す必要性がない。

宇多上皇と醍醐天皇の中は決して良好でなかったのは確かである。醍醐天皇にもたくさん弟たちがいて、いつそっちに皇位が移るかしれない。しかもお父さんは教育熱心。いつまでも政治やらなにやらに口出ししてくる。邪魔くさいお父さんだったと思う。ある意味、光孝天皇と宇多天皇の関係とは真逆。

醍醐天皇がどんな性格の人だったかはさっぱりわからない。醍醐天皇がもすこし長生きして宇多上皇が崩御して、父親の影響なしでどんなことをしたかわかればいいんだが、先に死んでしまった。どうも病弱だったらしい。なんとなく気が弱く反抗的な息子、という感じがする。まあイメージだが。

新々百人一首

古今集を調べている関係で丸谷才一『新々百人一首』を再読しているのだが、うーむ。

二条妃(藤原高子)の「雪のうちに」の解釈が異様に長い割には、何も言ってないのに等しい。最後に「高子のこの絶唱と並ぶほどの返歌は業平にもむづかしかったらう」などと書いている。

二条妃とか良房とか基経なんかというのは非常に政治色の強い人であり、基経は歌を一つも詠まなかったらしいんだが、そういう傾向は親兄弟に遺伝するものであって、基経の妹の二条妃こと高子も、実際に歌を詠んだか疑わしい。高子の歌も非常に少ない。

高子や良房を古今集に登場させたかった誰かが代わりに詠んだ歌である可能性が非常に高い。というより、その可能性を考慮したうえで読み解くべきなのである。

この歌はなんのことやらわからぬ、思わせぶりな歌であるというだけであり、新古今的、あるいは俳句的に解釈すれば「絶唱」かもしれんが、古今集では政治的寓意という意味以外は考えにくい。たぶん、高子が兄基経によって皇太后位を剥奪され、不遇のまま死んだことが暗喩されているだけだと思う。

また、光孝天皇「君がため」を「農民の持ち来つた若菜なのに自分が働いたやうに装つて詠じたのである」などと言っている。丸谷才一は徒然草の黒戸御所の逸話を知らないのだろう。光孝天皇は皇統からはずれて、55才まで親王のままで、息子たちは皆臣籍降下して、まさか庶民のように自分で若菜を摘んだり、炊事をしたりすることはなかったといえ、当時の人たちが抱いた光孝天皇のイメージは、庶民のような質素な暮らしをしていた人、なのであり、そのイメージに沿って、本人だか他人だか知らないが、詠んだ歌であり、そのように解釈された歌なのである。

それは呪術とまじりあつてゐる牧歌趣味であつた。

いや、そう解釈してはいけない。天皇とか、古代の和歌というのがいつもいつも呪術的で言霊思想だと考えるのはおかしい。醍醐天皇の歌

みなそこに 春やくるらん みよしのの 吉野の川に かはづ鳴くなり

「呪歌にふさはしい悠揚たるもの」「三句から四句にかけて、大味でこせつかない効果がいい」「職業歌人の詠とは違ふ帝王調の魅力を満喫」とあるのだが、これも誤読に近いのではないか。どちらかといえば丸谷才一が職業歌人と名指しした貫之の屏風歌に酷似している。何かの間違いなのではなかろうか。

「みよしのの吉野の川に」は単なる常套句であるのに、どうしてこれが帝王帳なのか。天皇だってわざと庶民のような歌を詠むことだってあるのに。

醍醐天皇の歌の多くは宇多上皇と間違われている危険性が高いと思う。

嵯峨天皇

嵯峨天皇「春日遊猟、日暮宿江頭亭子」

三春出猟重城外 四望江山勢転雄
逐兎馬蹄承落日 追禽鷹翮払軽風
征舟暮入連天水 明月孤懸欲暁空
不学夏王荒此事 為思周卜偶非熊

これは恐ろしく良くできた詩だ。平仄も押韻も対句も完璧。

しかも、天皇なのに乗馬して猟をしている。嵯峨天皇が実際にこういう人であったかどうか。少なくとも嵯峨天皇は日本の大君ではなくて中国の皇帝を理想としていた。唐の皇帝を。それを唐詩にした。

大和朝廷の王権というのは、ま要するに、天武天皇くらいに固まったのである。天武天皇から嵯峨天皇まではわずかに150年くらいしかない。当時の日本国というのは若い国家だった。この頃はまだ万世一系とかそんなことは関係なく、日本は、アジアによくある、生まれては滅んでいく王朝の一つにしかすぎなかったのだ。南北朝のころになってやっとなんか日本という国は特殊だな、ということに北畠親房あたりが気づいたのに過ぎない。

嵯峨天皇は中国式の完全に新しい国家を作ろうとしたのだろうと思う。