吉田松陰の漢詩

吉田松陰は漢詩も多く作っている。世に知られていないわけでもないらしい。知られてはいるけれど和歌と比べると、あまり人気が無い、ということか

吾今為国死
死不負君親
悠悠天地事
鑑照在明神

吾今国の為に死す。死して君親に負(そむ)かず。悠悠天地事。鑑照、明神に在り。

漢詩も和歌も言っていることは同じなのだが、漢詩にしてしまうと勇ましく悲壮なだけで、日本人特有の情緒が出てこない、ということだろうか。

gemini に吉田松陰の漢詩を聞くとこんな答えが返ってくる。

吾今為国死
義不愧一生
万事付後人
定知不朽名

似てるけどまったくの偽物である。

今の生成AIは、頼山陽の漢詩、吉田松陰の和歌などについて尋ねると60点から80点くらいの解答ができる。しかし頼山陽の和歌、吉田松陰の漢詩などといったちょっとひねった問題を出すととたんに0点になる。そのあたりには改善の余地があるとして、改善するにはどれくらいの計算資源が必要なのだろうか。0点の解答を80点までもっていくことと、80点の解答を100点満点までもっていくことは難易度がまったく違うだろう。そこに資本を投資してもリターンがあるかどうか。

そういう資本主義の原理を考えずにつっぱしったのが chatGPT (サム・アルトマン)で、そのサム・アルトマンのやり方に愛想が尽きて、採算が取れる範囲で堅実にやろうとしているのが claude ということなのだろう。

claude は要するに画像生成動画生成プレゼン資料作成のようにみんながわーっと食いついてきて課金してくれるようなところに重点的に投資して、顧客満足度を高めようとしているわけで、そんな見せかけの受けが良いだけのサービスをいくら充実させたところで AIの実力などちっとも向上しないのは明らかだ。しかしながらこれから AI産業はますますそっちのほうへ向かい、見た目は成長しているようで実質は鈍化し分野によっては撤退を始めるだろう。

小説を書いてそれをAIに読ませて感想を聞くといろいろと褒めてくれたりして人間と違ってうれしかったりするが、では続きを書いてくれとか結末を考えてくれというと、かなりとんちんかんな答えしか返ってこない。最も妥当で当たり前な、あたりさわりのない答えが優先されるのかと思い、もっと意外な結末にしてくれというと、余計におかしな答えにしかならない。要するに AI はわかったようなふりをしているだけで、実はわかっていないのだろう。わかっているのだが忖度してわかってないふりをしている可能性もないではないけど、そうは思えない。

今のAIは少し長文を読ませると最初と最後で一貫性がない。token limit というやつだ。このトークンを増やすにはメモリ使用とかGPU使用が増えてめちゃめちゃ課金される。こんなことでは源氏物語などはいつになったら読めるようになるかしれん。

そもそも人間も似たようなものなのかもしれない。実は源氏物語なんて読めている人はいなくて、部分的におもしろいおもしろくないと言っているだけなのかもしれない。

じゃあ短い文章ならよいのか、俳句や和歌なら作れるようになるかというとそれもあやしい。和歌などは短い言葉の外側まで広い世界が続いているからそれを外挿できないようでは和歌にはならない。俳句はでたらめに単語を並べたようなものもあるからものによっては何とかなるのかもしれないけど。

多くの作家はたぶん、自分の作品のうちの半分は自分にしか理解できないように書き、残りの半分は他人が読んでもわかるように書いているのではないかと思う。三島由紀夫なんかもそういうところはあったと思う。そういう書き方をしないと書いていてつまらないし、自分で読んで面白くない。普通の人は人にわかるようには書かれてないことなど読もうともしないだろうし、AIもまたそれを読むことを人に要求されていないから、いつまでも(当分)読めるようにならないだろう。

ところが百年後には私がわからないように書いていたことまで読める人がでてくるかもしれない。そういう期待はこめて書いている。百年後にはとっくに私は死んでいるからどうなっても私のしったことではない。

頼山陽の和歌

昔書いた喀血歌など見ると頼山陽が香川景樹から薩摩産の牛肉をもらって食べたなどとあって、事実なのかフィクションなのかはなはだあやしいのだが、頼山陽と香川景樹がごく親しかったのは確かで、それは山陽の母飯岡梅颸頼が景樹の門人であり、山陽自身も景樹に入門している。ウィキペディアには頼梅颸となっているが、江戸時代の武家や公家は夫婦別姓だったのだから旧姓で飯岡梅颸もしくは飯岡静子と称するのが正しいはずである。近衛家の娘が天皇の后になっても近衛のままで皇族にはならないし、徳川家に嫁しても近衛のままであって、徳川氏になるわけではない。それが公家、武家本来の規範であって、庶民や商家の屋号などが苗字として使われ夫婦同姓のごとき風習があったとして、それが戦国武将や江戸時代の武士に遡及してたとえば、明智玉子を細川ガラシャと書くなども同様の間違いである。

市島謙吉 『頼山陽:随筆』「山陽の和歌」によれば山陽もわずかであるが和歌を詠んだらしいが、叔父や母の付き合い程度であったことがわかる。

吉田松陰の歌

吉田松陰歌集を追記した。世の中にあまり知られていない歌がかなりたくさんある。漢語を敢えて使っているものもかなりある。吉田松陰ほどの有名人でもこれほどまったく無名で世に知られていない歌があり、出典もよくわからぬ歌もある、というのが意外だった。

亜墨奴が 欧羅を約し きたるとも 備へのあらば 何か恐れむ

要するにアメリカとヨーロッパが連合して攻めてこようとも備えがあれば大丈夫だという実に勇ましい歌。

世話任す 今年は婿を もらひ得て 独り手に汲む 楽しみの酒

結婚した妹のことを詠んだ歌。まるで男はつらいよの寅さんのようだ。

すめがみの みことかしこみ しづがみは なりゆくままに まかせこそすれ

こういう歌はもう少し有名になってもよさそうな気がする。

こととはむ 淀の川瀬の 水車 いくめぐりして 憂き世経にきや

非常に優れた歌だと思う。こうした歌が知られていないのはもったいないし、まして私のような者の歌が世に残る可能性はさらに低いことを思うと絶望するしかない。

真淵翁添削ノ宣長詠草

山居梅

かくれがや うめ咲くのきの 山風に 身のほどしらぬ 袖の香ぞする

此言、一首に言はば言ひもしてん。一句につづめては今俗の俳諧言也。

古寺落花

夕あらし はつせの花や さそふらん そでにちりくる 入相の鐘

歌ともなし

花埋苔

庭のおもは 桜ちりしく 春風に さそはぬこけの 色ぞきえゆく

いやし。

夏月

程もなく ふくるを夏の しるしにて すずしさはただ 秋の夜の月

此所歌にはならず。

野虫

月影も こぼるる野べの 秋かぜに むしのね消えぬ 浅茅生の露

只今の俳諧にこそ。

野分

散りにけり 野分する夜の おもかげに 明日の朝げの 花の千種は

かく上へかへして言ふ事、古今にも少しあれど、歌にからめたる人のわざ也。

月

うき雲の ゆききも空に 絶えはてて 吹く風見せぬ 秋の夜の月

歌とはならず

浦雪

かつ散りて つもりもやらぬ 松の雪 たがふちはらふ 袖のうら風

此のつづけいやし。また浦の事ここにのぶと出。

為人忍恋

いさや川 いさめし人の ひと言に うきなもらさぬ 袖のしがらみ

歌ならずや。

後朝恋

きぬぎぬの なごり身にしむ 朝風に おもかげさそふ 袖のうつり香

言ひつまれり。一句言ひつめては歌にならず。

恋命

同じ世の 月見る事も こひしなば これやかぎりの 契りならまし

此言いかが。

寄魚恋

小車の わだちの水の うをならで かかるをなげく わがちぎりかな

から人の言を歌に用ゐる事、古今などにもあれば、心にくきなり。いかほどもここの古事なからんや。

寄箏恋

かきたえて 忘れなはてそ 逢ふ事は なかの細緒の ちぎりなりとも

寄風恋

さそはれぬ 深き思ひの 色もなほ ありとはしるや 庭のこがらし

猶を言の下に言ふ事後世の俗歌にのみ有る也。古今に今の本には一首あれど、古本は別也。

寄枕恋

思ひやれ 三年の後も あかつきの かねのつらさは しらぬ枕を

言ひなし俳諧也。恋などは艶にあはれにこそいはめ。

是は新古今の良き歌はおきて、中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりし也。右の歌ども一つもおのがとるべきはなし。是を好み給ふならば万葉の御問も止め給へ。かくては万葉は何の用にもたたぬ事也 [松坂町 小津芳蔵氏蔵]

春立つ日

吹く風も なごの浦松 ほのぼのと かすむ梢に 春はきにけり

此所古意ならず。

うちなびく 春はきぬらし ひさかたの 雲ゐにかすむ 高円の山

後世にも此の体ありしか。

うぐひす

きのふけふ 春ともしるく わが宿の うめがえさらぬ 鴬の声

聞こえたり。

春寒み まだ白雪の ふるさとも なくうぐひすに 春やしるらん

言いふりたり。

うめの花

白雪の きえあへぬ枝に さきそめて それかあらぬか 梅の初花

聞こえたり。

風吹かば ちりか過ぎなん 梅の花 けふのさかりに をりかざしてな

ひとりぬる

はしきやし 妹にこひつつ ぬば玉の 長きこのよを ひとりやねなん
妹が袖 まかでやねなん あしひきの 山のあらしの 寒きこのよを

いはでおもふ

かくとしも いはでの山の いはつつじ いろにやいでむ こふるこころは

いつもの事也。

としふとも 人しるらめや こもりぬの したの心に わがこふらくは

右いづれも、是ぞ聞こえぬとはなかれど、今少し本立のよわく、何とやらん後世風の調べをはなれぬ様也。常有る事をも、つづけ様によりて気象高く聞こゆる事、古今の梅の花それとも見えず、鎌倉公の此のねぬる朝けの風にかをる也、軒ばの梅の春の初花、我が宿の梅の花さけれり・・・咲くや川辺の山吹の花などの調子を思ひ給へ。歌はただ此の調子に有る也。

夏のくさぐさの歌

土岐善麿

国会図書館デジタルコレクションで田安宗武のことを調べていると土岐善麿が書いたものばかり出てくる。土岐善麿とはつまり土岐哀果である。

土岐哀果の歌は悪くはないがどれも調べが悪い。まったく好きになれない。後味が嫌すぎる。田安宗武の歌も調べが悪い。そのうえ中身が無い。土岐善麿も田安宗武の歌がうまいとは決して言っていないようにみえる。ただ、理念に賞賛できるとか、生活者として、人格者として優れているとだけ言っているようにみえる。なんという詭弁だろうか。左翼歌人によくいそうだ。歌を歌として見るのでなくイデオロギーで見ている。土岐哀果もおそらく、歌人というものは歌の調べの美しさよりもまず、生活者として、人格者として立派であるべきだ、そう考えていたのではないか。こういう考え方が歌というものをわからなくしているのだ。

土岐善麿はなぜあれほどまでに田安宗武のことを執拗に調べ上げたのだろうか。その仕事は非常に丁寧でわかりやすく為になるのだけれど、その情熱がどこから来ているのか。そして田安宗武の問題点、万葉調の問題点を理解しているのは明らかなのだが、土岐善麿が田安宗武を、そして万葉調を愛していることもまた明らかなのである。

徳川幕府は和学御用というものを作った。和学御用となることが国学者の、歌学者の権威となった。荷田春満、賀茂真淵はそうだし、ある意味、本居宣長さえも晩年には(紀州および尾張)徳川の権威におもねった。

徳川は和学というものを官学にしようとした(式楽化しようとした、と言っても良い)。世の中に漢学と和学という二つの学問があり、漢学のように和学も高潔で清純なものでなくてはならないとした。柔弱で淫らな和学を厳しくしつけてきりりとしたものにしなくてはならないと考えた。はっきりいって和学というものがまったくわかってない。和学音痴極まれり。なるほど和学は国学ではあるが官学にしてはならぬ。国のものではあるが官が縛ると死んでしまう(芸術も補助金漬けにされれば死ぬだろう)。それが和学だ。

宣長はその意図に気付いて抵抗した。それが「もののあはれ」論となった。

荷田春満はむしろ逆に和学御用のために大好きな『伊勢物語』『源氏物語』批判までした。賀茂真淵もむりやり自分を万葉歌人と規程しようとした。それほどまでに徳川幕府の権威は強かった。土岐善麿の田安宗武を読んでそれが確信に変わった。そりゃそうだろう。当時徳川の恩顧を蒙れば何不自由なく暮らせたのだから。

村田春海や加藤千蔭や松平定信が田安宗武を真似なかったのは、荷田春満や荷田在満や賀茂真淵の本心を知っていたからだ。和歌というものを骨肉としている人にとって(つまり官学という裃を着てお城に登って貴人に侍っているのでなく、和歌そのものを愛している人にとって)田安宗武やその万葉調というものは我慢がならなかったはずだ。土岐善麿もそれには気付いていたはずだ。しかし完全に無視した。本居宣長や香川景樹などの歌人がいたことは知っていてもまったくそれらとの比較研究を行わなかった。ただひたすら田安宗武のことだけを書いた。なぜそこまで意固地になったかといえば、土岐善麿の中に埋め込まれていた左翼思想、反国粋主義から来ているのだろう。

土岐善麿は戦後まもなく田安宗武を書いて学士院賞をもらいますます田安宗武を書くようになった。賀茂真淵が田安宗武に取り込まれたのと良く似てはいないか。

土岐善麿は極めて克明にまた誠実に(つまり学術的に正確に)田安宗武を描こうとしているが、そこで読者に与えようとしている印象はまったくの偽りだ。賀茂真淵が幕臣として田安宗武に仕えたのとまったく同じではないか。

ともかくもいまははっきりとわかった。荷田春満や賀茂真淵が本居宣長と対立しているようにみえたのは間違いだった。もともと春満も真淵も宣長の側にいた人だったのだ。

思えば不幸なことだ。国学四大人、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、そして平田篤胤。みな呪われている。国学とはかくもいびつなものなのか。なぜ学問というものはこれほど呪われているのか。

宣長の二度目の上京

享和元年(1801)、最晩年の年、宣長は若き日の上京以来(宝暦7年(1758年)帰郷)、43年ぶりに京都に赴く。 11月5日(旧暦で9月25日)に亡くなっているのだが、宣長と景樹が京都でやりとりした歌、
宣長

涼しさに 夏もやどりも ふるさとに 帰らむことも みな忘れけり

かへし、景樹

ただひと目 みえぬる我は いかならむ ふるさとさへに 忘るてふ君

かへし、宣長

ふるさとは 思はずとても たまさかに あひ見し君を いつか忘れむ

から察するに、宣長が京都に行ったのは真夏の8月(旧暦6月)くらいだっただろう。

「伊勢国本居宣長京都逗留日記」というものがあるらしい。

京都滞在は面白い。なるほど、3月28日(おそらく旧暦)、

絵島

於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。故、二柱神、立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以畫者、鹽許々袁々呂々邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而引上時、自其矛末垂落之鹽累積、成嶋、是淤能碁呂嶋。

宣長は『古事記伝』でオノゴロ島は絵島だと言っていると wikipedia などにも書かれているのだが、実際『古事記伝』を見てみると必ずしも絵島をオノゴロ島と断定しているわけではない。淡路島の周辺にはいくつか島があって、絵島のほかに、胞島(こしま)、鶺鴒島(せきれいじま)などの名を挙げている。宣長は実際に淡路島に渡ってこれらの島をめぐってみたわけではあるまい。

淡路島の周辺にはかなりたくさん小島が点在していて、どれがオノゴロ島とは言いがたい。比較的大きなものとしては淡路島の南にある沼島で、ここには自凝神社などがある。

読加茂真淵国意考

『国意考』を改めて読んで、さらに『読加茂真淵国意考』というものも読んでみようとしたのだが、原文が漢文でしかもほとんど注釈らしきものが世の中に存在しない。

著者の淡海野公台とは野村公台という淡路島出身の人で(淡海が淡路国のことを言い、野公台は野村公台を中国人風の名にしたものだろう)、太宰春台の知り合いか弟子のようだ。

和歌を詠むということ

近藤真彦が60才になって聴力検査に行こうなどという車内中吊り広告が出ていたが、私もつい最近60才になった。それで

はたちにて 絵は描き尽くし よそぢにて 歌は詠みはて 今さらに なすことも無き むそぢなりけり

などという歌を詠んだのだが、まったく今はそういう心境である。

明治天皇は59才で亡くなった。自分がもう明治天皇よりも年上だというのが、なんだか非常に不思議で奇妙な気分だ。

明治の帝の勅諭を体し

と佐佐木信綱は歌ったのだが、戦後生まれの私もその雰囲気の中で生まれ育った。昭和40年。敗戦後20年しか経ってはいなかったのだ。

私は画材屋の息子に生まれた。爺さんは尋常小学校の絵の教師だったので、子供の頃から絵を習って描いていた。絵を描くのは好きだった。しかし20才くらいになると自分の絵の才能というものはだいたいわかってくる。描き尽くすというよりは、もうこれ以上描いたところで自分が描くような絵はせいぜいどのようなものか、ということが見切れてしまう、ということだ。にたりよったりの絵を数多く描くことは不可能ではあるまい。今CGを仕事にしているのもやはり絵を描くのが好きだからだが、CGなんてものは私よりうまい人はいくらでもいる。どんなに頑張っても世の中に爪痕を遺すことすらできない。

しかしながら歌には、私は多少自負がある。歌ならば少しくらいは世の中に生きた痕跡を残せるかもしれないと。

古語文法を習い始めるのが高校一年生、15才くらいからで、歌をなんとか詠めるようになったのは21才くらいだった。途中ずっと歌を詠んでいたわけではなく、しかしながら、歌の形が固まってきたのは45才くらいだったと思う。若い頃は現代口語で詠んだり古語で詠んだり、字余りしていたり、いろんな歌を詠んでいたのだが、私はそこから現代歌人のほうへは行かず、かっちりした古典文法にのっとって歌を詠むようになっていった。たとえば、20代で詠んだ歌、40代半ばで詠んだ歌。

はかはかと 部屋片付けて 暑さのみ いかにもえせで 過ぐすよはかな

こういうへんてこな歌は今ではもう詠めぬかもしれん。

天長節に参賀したる日、本丸跡にて詠める

すずかけの 葉もこそしげれ かなへびは 穴より出でて 石垣をはへ

そう。和歌を詠むからには、こういうかっちりとした古語で詠みたい、そうでない歌も詠めなくはないかもしれないが、そういう歌はプライオリティが高くないというか、都々逸でも俳句でも、ほかに表現手段はあると思うし、現代口語を駆使した歌を詠みたいというよりも、和歌を純粋に保ちたいという気持ちのほうが勝るのである。だから自然と、もっぱら古語で、和歌を詠むようになった。茶道にしろ能楽にしろ、最初は単におもしろおかしい娯楽であったものが、だんだんに純化していったのだと思う。自分の中の気持ちはそれと同じだと思う。

みそのふに 春雨ふれば 人を無み しめ野にひとり あるここちする

春雨の ふれる宮路を 踏みゆけば しめりてきしむ さざれ石かな

きもをなめ たきぎにふせし つらき世を 知らずなりゆく わがくに民は

こうした歌ももう詠んだことをすっかり忘れてしまっていた。

歌もまた詠み尽くしたというよりは、これから先、だいたいどういう歌をどういう時に詠むかというのを見切ってしまった、今まで詠み遺した歌で予測可能な範囲でしか歌は詠めないだろう、それ以外の歌をいまさら詠みたいとも思わない、要するに年を取ってもうこれ以上変化のしようがない、ということになる。

明治天皇が59年間の人生で詠んだ9万首の歌をAIに学習させれば、明治天皇と同じような歌は詠めるようになるだろうと思う。明治天皇が学習に用いたテキストも合わせて学習すればなお正確に詠めるようになるだろう。昔の人(明治以降の人、という意味だが)には同じような歌を来る日も来る日も大量に詠んで、詠草に残しておくことの意味がわからなかったようだ。今の人ならわかるだろう。ありとあらゆるパターンの歌を遺しておけば、自分が死んだ後もそれに習って同じような歌を詠むデータベースになってくれるのだ。ときたまに気の利いた歌を詠んで遺せば良い、自分の最高傑作だけをいくつか残せば良いというものではない。明治天皇にはある程度までそのことがわかっていたはずだ。和歌はごく短い詩形ではあるけれども、一つ一つの歌を見ただけではその価値がわかるわけではないのだ。

同じように私が生涯詠んだ歌を全部AIに学習させれば、そのAIが私が死んだあとも代わりに永遠に私の歌を詠んでくれるのに違いない。もうそうなってしまえばわざわざ私が生きている必要もない気がする。

歌を詠む 人もなき世に 歌詠めば ひとり狂へる ここちこそすれ

歌詠まぬ 人に問はばや 歌詠まで 大和心は ありやなしやと

天下之糸平の碑を詠める

いしぶみを あふげばむなし とはに名を のこさむとする 人のこころは

いしぶみを すみだの岸に 建つるより こころに残る 歌を詠ままし

侏儒の言葉

 「侏儒しゅじゅの言葉」の序

「侏儒の言葉」は必かならずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺うかがわせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草つるくさ、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。

序からしてすでに言い訳がましい。

 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火りんかに過ぎない。況いわんや我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中に吾われに向ひて光る星あり
 しかし星も我我のように流転を閲けみすると云うことは――兎とに角かく退屈でないことはあるまい。

おやこれはどうも芥川自身の歌ではなくて誰か他の人の歌らしいと調べてみるとすぐにわかった。正岡子規である。

まず、「まさごなす」が変だ。万葉集に一首例があるようだ。

相模路の よろぎの浜の 真砂なす 子らは愛しく 思はるるかも

(相模治乃 余呂伎能波麻乃 麻奈胡奈須 兒良波可奈之久 於毛波流留可毛)

浜の真砂というときは数え切れないほどに多いという喩えに使われる。しかし万葉集の「真砂なす」は明らかにそういう意味に使ったのではない。

相模路のよろぎの浜とは今のこゆるぎのことで、大磯から小田原にかけての浜辺のことだが、行ってみればわかるが真っ白な綺麗な砂浜というわけではない。鎌倉辺りはもう少し白いかもしれないが、こゆるぎはどちらかといえば黒い砂(おそらく砂鉄が多く含まれているのだろう)、もしくは小石や砂利の浜辺なのである。「真砂なす子ら」がいったい何を言おうとしたのか、私にはよくわからない。

麻奈胡(まなこ)を真砂と読むのにそもそも無理がある。目がくりくりとしてかわいい、という程度の意味ではなかったか。

「まさご」は普通和歌には「はまのまさご」という成語で出る。真砂に埋もれるとか、真砂のように数え切れない、などと使う。

吾に向かひて光る星あり、とは、無数の星々の中にたった一つだけ、自分の運命を定める星がある、ということが言いたいのだろう。しかしそうした夢想はむしろ私には非常に凡俗な感じを受ける。星の明滅と人間の感情には何の関係もない、あれはただの自然現象に過ぎず、そんなものにロマンティシズムやファンタジーを感じても意味は無い、まして、個々の星がそれぞれ特定の人間にだけ向かって光ってるはずがないと私などは思ってしまうし、そんな歌を詠みたいとも思わない。私は子供の頃から近眼で星がよく見えないから、星に対してそういう幻想を抱くということがなかった。

七曜は古代メソポタミアで生まれた。おそらくシュメールまでさかのぼるのではなかろうか。何曜日に生まれたかによってどの惑星の影響を受けるかが決まるのだそうだ。だから当時メソポタミアでは誕生日よりも誕生曜日のほうが大事であったらしい。そしてそれら七つの天体のことを運命の星と言っていたようだ。

子規はちょっと無理のある万葉調の歌を詠むくせがある。芥川も和歌がわかっていたとは言いがたい。彼が子規を詩人として尊敬していたとは意外だ。子規が「浜の真砂のように数知れぬ星々の中で」と現代語で、或いは散文で書くのであればそれはそれで一向かまわぬが、古語は用例の集積で成り立っているものなのだから、中世に用例が見られない、無理な万葉語を使って古めかしくした歌を詠むのは、近代歌人らが犯しがちな典型的な過ちであって、私には許しがたい。

さらに言えば「数なき」だが、「数ならず」「数にもあらぬ」などは「数え上げることもできぬほど、数知れず、無数にある」という意味ではなくて、物の数ではない、取るに足りない、平凡な、という意味であって、やはりここにも違和感を感じる。無理に歌に仕立てようとして用例がずれてしまっているのである(せめて「数知れぬ」などとしなくてはならない)。これまた万葉調を尊ぶ近代短歌に見られがちな間違いである。