見延典子『頼山陽』を読んでいると、天保元(1830)年、
> 正月早々香川景樹から届いた薩摩の牛肉を食べると、
などと書かれていて、これははて、書簡や日記などにそのような記録が残っているということだろうか。
同じ年、7月、広島に帰省していた間に京都で地震があり、「郵便得京報」うんぬんという長い詩を作っている。
この「郵便」という単語は、日本国語大辞典によれば、どうもこれが初出らしい。
明治になって、山陽の詩を知る人が post の翻訳に採用したのだろうか。
郵便制度を創始したのは前島密とあるが。
同じ頃、山陽は体調を崩し、広島藩の医者、中村元亮に労咳の疑いがあると、診断されている。
満49歳。
同じ頃、大塩平八郎は、大阪町奉行を辞職、遠縁の格之助(塾生の一人だったらしい)を養子として迎え、
跡継ぎとし。
尾張の先祖に報告の墓参に行く途上、山陽をもとを訪れる。
平八郎は山陽に刀を贈り、山陽は「吾書三十余万字 博得君家両尺鉄」うんぬんという詩をのこしている。
「君家」とあるから、家宝だったのだろう。
ところで、両尺、九寸というから、脇差ではなくいわゆる本差、武士が携帯する本物の刀かとも思うが、
見延典子の記述によれば「脇差し刀」であるという。
九寸未満の刀を長脇差と言って博徒などの武士以外の人間が差していたはずである。
九寸あったのかどうか、微妙なところだ。
また「大塩子起の尾張へ適くを送るの序」というものを書いて平八郎に贈っている。
また、平八郎には本妻はなくて、「妻同様のつきあいの妾ゆう」が居たと書いている。
妾であれば嫡子がなくて養子をもらってもおかしくない。
また平八郎は与力を辞職した後の、いわゆる大塩平八郎の乱(1837)に先立って、ゆうを離縁したのではなく、
与力として弓削新右衛門事件などに当たるときにすでに離縁していたという。
また、弓削事件のとき、ゆうは薙髪しただけだという記述もあるようだ。
いずれにせよ、なぜ普通に結婚しなかったのか不思議なところだ。
天保3(1832)年4月、
詩集出版のために大阪へ。このとき大塩平八郎と会い、
平八郎の著作『古本大学刮目』『洗心堂箚記』などを読む。
同年6月12日に初めて喀血、16日まで続く。
すでに禁煙していたが、禁酒を命じられる。
27日、再び喀血。
7月下旬、「結核を患い、戯れに歌を作る」と題する詩を作る。
吾有一腔血 吾に一腔の血有り
其色正赤其性熱 その色は正に赤く、その性は熱し
不能瀝之明主前 これを明主の前に瀝(そそ)ぎ
赤光凛向廟堂徹 赤光凛として廟堂に向かひ徹するあたはず
亦不能濺之国家難 またこれを国家の難に濺(そそ)ぎ
留痕大地碧弗滅 大地に痕を留めて碧、滅せざるあたはず
鬱積徒成磊塊凝 鬱積し、徒に磊塊の凝るをなす
欲吐不吐中逾熱 吐かんとして吐かず、中いよいよ熱し
一旦喀出学李賀 一旦喀出して李賀を学びても
難収糝地紅玉屑 糝地の紅玉屑は収め難し
或曰先生閲史遭姦雄逭天罰 或る人曰く、先生史を閲し姦雄の天罰を逭(のが)るるに遭へば、
睢陽之歯輒嚼齧 睢陽の歯、すなはち嚼齧(しゃくげつ)し
渠無寸傷己自残 渠(かれ)に寸も傷無く、おのれ自ら残(そこな)ひ
憤懣遂致肺肝裂 憤懣遂に肺肝の裂くるに到る
或曰先生殺人手無銕 或る人曰く、先生人を殺すに手に銕(てつ)無く、
発奸擿伏由筆舌 奸を発(あば)き、伏を擿(あば)くに筆舌に由(よ)り、
以心誅心人不知 心を以て心を誅し、人知らず、
霊台冥冥瀦陰血 霊台は冥冥として、陰血瀦(たま)る
吾聞此語両未頷 吾れ此の語を聞けど、両つともに未だ頷かず
童子進曰走意別 童子進みて曰く、走意は別
先生肉中本無血 先生肉中本(もと)血無し
腹中奇字僅可剟 腹中の奇字、わずかに剟(けづ)るべし
賺得杜康争戴酒 杜康を賺(だま)し得て、争ひて酒を戴き
剣菱如剣岳雪雪 剣菱は剣の如く、岳雪は雪、
大福蔵府受不起 大福の蔵府、受けて起たず
溢為赤漦戒饕餮 溢れて赤漦をなし、饕餮(とうてつ)を戒しむ
咄哉此意愼勿説 咄かな、此の意、愼んで説くなかれ
※霊台 魂のある所。心。
※杜康 中国神話の酒の神。転じて杜氏。
※赤漦 赤い体液
※饕餮 なんでも食べる中国神話の猛獣。転じて暴飲暴食。
剣菱の杜氏に、もう酒が飲めなくなったと贈った詩であるという。
弟子が言う、
「遭姦雄逭天罰 嚼齧 己自残 憤懣遂致肺肝裂」とは、歴史書に悪人が天罰を受けない箇所を読むと歯がみして自ら傷つけ、
その憤懣で遂に肺や肝臓が裂けてしまった」のだろうと。
また、「発奸擿伏由筆舌 以心誅心人不知 霊台冥冥瀦陰血」とは、
歴史上の悪事を筆舌によって曝いているうちに、知らず知らずに胸に血が貯まってしまった」のだろうと。
8月18日、大量の喀血、23日、同じく喀血。
9月23日(1832年10月16日)死去。
平八郎曰く、
> その秋、山陽の血を吐き、而して、病きわまれるを聞き、われ洛に入りて以てその家に到れば即ちその日すでに易簀(えきさく、賢人が死ぬこと)せり。大哭して帰り、夢の如く幻の如く、往時を追思す。先に山陽の余を訪れ、觴酒せし際、その情の繾綣(けんけん、ねんごろ、つきまとってはなれないこと)たりしこと、それ永訣の兆しなりしか。嗚呼、痛ましきかな。悲しきかな。今、山陽をして命を延きてあらしめ、而して箚記両巻を尽くさしめなば、即ち彼に益するのみならず、必ず吾にも益せんもの。蓋し、亦少なからざらん。おもふにこれ余が一生涯の遺憾たるのみ。
[幸田成友『大塩平八郎』](http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/koda1-18.htm)に、大塩平八郎の業績の六番目として、
> 頼山陽が紛失した菅茶山手沢の杖を数十日内に捜出し、山陽の其術を問ふや階前は万里なり、阪府の所管僅に方数拾里、其内在る所の物は繊芥の微と雖もわが眼底を逃れずと答へた
とある。