やまとごころ

検索してみた。

赤染衛門

さもあらばあれ やまとごころし かしこくは 細乳(ほそち)につけて あらすばかりぞ

(外国渡来の)学がなくとも利口な人ならば、の意味。

からくにの もののしるしの くさぐさを やまとごころに ともしとやみむ

舶来の種々の物を、日本人の私の心は、うらやましいと思う、という意味。

はじめから やまとごころに せばくとも をはりまでやは かたくみゆべき

上の歌の次の歌なのだが、難しい。「心狭し」か。 はじめのうちは度量が小さいが終わりまでは続かないの意味か。

建保名所百首(順徳天皇が催した歌会)

もろひとも けふこそここに たつのいちや とりどりみゆる やまとごころを

たくさんの人が辰の市に立っている。さまざまに(学問ではない日常的な)工夫が凝らされている、の意味か。

赤染衛門の歌が三つ。後一つは誰かわからん。

大鏡

あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、このおとどの御末は御座せぬなり。さるは、大和魂などは、いみじく御座しましたる物を。

分別のある人だったのに、のような意味か。

かの国に御座しまししほど、刀伊国の物にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、筑紫には、かねて用意もなく、大弐殿、弓矢の本末も知り給はねば、いかがと思しけれど、大和心かしこく御座する人にて、筑後・肥前・肥後、九国の人をおこし給ふをばさることにて、府の内に仕うまつる人をさへおしこりて、戦はせ給ひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高く御座します故に、いみじかりしこと、平げ給へる殿ぞかし。

機転の利く人、のような意味か。

源氏物語

なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。

学問を基礎とした方が才能も発揮できる、という意味だろう。

ま、いずれにしても、民族精神というような意味合いはないな。 同様に宣長の用法とも違う気がする。

定家はダダ

和泉書院の「和歌史」を読んでいるのだが、その中の佐藤恒雄「新古今の時代」など読むと、確かに定家に秀歌が多いと言われればそうかもしれないなと思えてくる。たとえば定家の恋の歌

あぢきなくつらきあらしの声もうしなど夕暮れに待ちならひけむ
かへるさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらのありあけの月
なびかじなあまのもしほ火たきそめてけぶりは空にくゆりわぶとも

などは確かに面白いが、しかしこれらはいわゆる定家らしいといわれる歌ではなく、どちらかといえば新古今以前の女流歌人らの歌のようだ。また藤原家隆の

思ふどちそこともしらず行きくれぬ花の宿かせ野辺のうぐひす

などは若者たちが花咲くころの野辺をさまよい歩いて迷子になったので、鴬の鳴く花の木の下にでも野宿しようかというたわいないもので、普通に面白い。定家らしいと言われるのはたとえば初学百首にすでに出てくる

天の原思へばかはる色もなし秋こそ月の光なりけれ

あるいは新古今に採られた

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫
春の夜の夢の浮き橋とだえして峯にわかるる横雲の空
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

などだろう。不協和なイメージがコラージュされているので心理的な抵抗が大きい。特に「さむしろ」に「月をかたしく」「宇治の橋姫」などは近現代で言えば中原中也のダダの詩を連想させる。なにか具体的な情景を連想させ感動させるというのでない。こういう「前衛」的な「作品」は近現代では珍しくないのだが、新古今の時代でもおそらくそれを敢えて意図してやったのは定家だけであり、前衛芸術の走りとしてはかなり貴重な存在なのかもしれないとは思う。

思うにこんなおかしな「活動」に定家がふけっていたのは、若かりし日の、新古今編纂当時の一時期だけであり、また定家以外の歌人で同程度はじけていた人もなく、その後も現れなかったのだと思う。

私が定家の歌を好きか嫌いかというとどちらでもない。中原中也の詩が好きかと言われて別にすきでもないのと同じだ。本居宣長も新古今風の歌を好むが定家の前衛的な歌が好きなわけでなく、定家からさらに時代を経たある意味平坦で平凡な歌が好きなので、そこには特に意識はしてないかもしれないが、新古今時代にはなばなしく行われた実験に対する反省のようなものもあっただろう。

定家の前衛活動に一応の公認を与え、世間一般に受容されるに至ったのは後鳥羽院が定家を積極的に評価したからだったわけだが、後鳥羽院も定家を特に重んじたのではなく、当時流行した前衛歌をおもしろがって新古今集に取り入れたというようなものだっただろう。たとえば

ちはやぶる日吉の影ものどかにて波をさまれる四方の海かな

など見てもわかるが、後鳥羽院御製の中に前衛やダダを思わせるような歌は一つも見あたらない。よく探せば詠草に一つか二つはあるのかもしれないが。というあたりが後鳥羽院と定家の関係の、さらに言えば新古今というものの位置づけなのではないか。

小林秀雄

最近は adobe も microsoft も認証方法が難しくて、ライセンスを買ってメディアを持っているだけではインストールできない。実に困ったことだ。microsoft office も最近は実に洗練されてきていて、継続は力と言うしかない。openoffice.org と違うのはこれだけの長きに渡って開発され、多くのユーザを抱え、そして多くのお金と人が関わって、洗練されてきたということで、もうこれは簡単に挽回しようがない。すべてソフトウェアというものはそんなものだろう。

それはそうとおもしろくていまだに小林秀雄の「本居宣長」を読んでいるのだが、ネットをざっと検索してみた限りでは、では小林秀雄という人が世間一般でどのような評価をされているのか、具体的に彼の評論のどこが優れているのかということがさっぱりわからない。もしかするとみんな漠然となんだか偉い人だみたいな評価をしているのだろうか。

つまり、何が言いたいかと言えば、だいたいみな本を読んだらブログなどにその感想を書くではないか、たとえばこのブログのように。あるいはゲームで遊んだり、映像作品を見たりしたらブログに書くではないか。そのような他人が小林秀雄について書いた文章を読んでみたいのだが、案外、これがまたほとんどまったく見あたらない。実に不思議な光景だ。まさか私だけがそんな無謀なことをやっているのだろうか。

小林秀雄は手っ取り早く文芸批評の方法論とか、あるいは本居宣長について講演で話すよう頻繁に頼まれていたようで、それはもっともな話であって、私だってまずは小林秀雄とはどんな人か、本居宣長とはどんな人か、できるだけかいつまんで知りたいと思う。だいたい本居宣長について書かれた著書がまた長いし、10年以上に渡って書かれている。多少要約して話してくれても良いではないかと普通なら思う。しかし小林秀雄はそれを拒否し、また怒る。本居宣長もまたそのように弟子たちに性急に頼まれて仕方なしに「うひ山ぶみ」を書いたが、ところが誰もその最後に添えられた歌「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」を読んでない。

この歌の意味とはつまり、広い山裾から山頂までははるかに遠いがその一番最初の浅いすそ野の道しるべ代わりに「うひ山ぶみ」を書いたのであって、残りは全部自分らで少しずつたゆまず時間をかけて勉強しなさい、一度に山頂を目指すな、低いすそ野をまず固めてから徐々に登りなさい、この広いすそ野を怠らず学んでおいてこそ山頂にはたどり着けるのであって、低いところをおろそかにすれば高いところはなおさら身に付かず、結局何もならないということだろう。いろんなところを読んで総合すればそういう意味になる。

「いったい宣長の文章ってものは無駄なんてものは一つもないんです」とは自分の長大な著作についても言っているに違いない。自分の文章には無駄はない。だらだらと長くて無駄なように見えるがかいつまんで要約できるような箇所などない。それなのにみなは自分の文書をとばしとばし読んで、学問の方法論だけを知りたがる。と言っているようにみえる。実におかしい。

正直なところ小林秀雄や吉本隆明などの文章は読んでもほとんどわからん。吉本隆明に至ってはちんぷんかんぷんだ。江藤淳はある程度わかる。丸谷才一はほぼ言いたいことはわかるつもり。小林秀雄の「本居宣長」は良くわかるつもり。で、世間一般の人たちは結局正直なところ小林秀雄という人をどういう風に見ているのか。さっぱりわからない。

思うに、小林秀雄というひとは、短文で要約した文章を書くとちんぷんかんぷんで良くわからん文章になってしまうのではないか。だから、10年以上かけてだらだら書かれた「本居宣長」などの方が、実はわかりやすいのではないか。短く書こうとすると批評文に特有のよくわからん専門用語や外来語を使ってしまいよけいにわからんようになるのではないか。

だんだん気になって来たので小林秀雄の「実朝」をもう一度読み直してみるか。

できるだけ見ないように見ないようにしているのだが新聞など読んでいるとときどき現代短歌が載っているのが目に入ってしまう。それを読むとほんとうに暗澹たる気持ちになる。

本居宣長続き

旅

春の野の岡辺の道のつつじ花手折りて行かなたびのなぐさに
里しあらば宿借らましをあしびきの山路まどひて行き暮れにけり
あまざかるひなのあら野のあら草を枕にまきて旅寝す我は
あしびきの山松が根に旅寝してあらし吹く夜は家をしぞ思ふ
草枕たびと思へど浪の音のとよむ浜べはいねがてぬかも
ぬばたまの夜は明けぬらし磯の海人のあご整ふる呼び声聞こゆ

「あご」は「網子」(あみこ)。網を引く人。「大宮のうちまで聞こゆ網引(あび)きすと網子ととのふる海人の呼び声」(万葉集238)。

我が旅は日長くなりぬあらたまの月日よみつつ妹待たまくに
草枕たびの日長み家の妹が縫ひて着せたるきぬ垢つきぬ
うちなびく草香の山をけふこえて難波の海を見さけつるかも
波の上にうき寝我がする明石潟浦吹く風の寒きこの夜を
豊国の夕山雪の日長くは家なる妹が待ちやかねまし

桜

春の雨の晴れてといはば散りぬべしけふ見に行かな山の桜は
近からば吉野の山の桜花きのふもけふも行きて見ましを
いかならむ吉野の山もこの頃や桜の花の盛りなるらむ
朝日かげにほへる山の桜花千代とことはに見ども飽かめや
思ふどちいざ見に行かな春山に咲ける桜の花の盛りを
立ち出でてふりさけ見ればあしびきの山は桜の花盛りなり
みやびをの春のかざしと桜花野にも山にも咲きにけるかな
あらたまの春立ちしよりいつしかと待ちし桜の花咲きにけり
山づとに見せむと思ひて桜花道の長手を手折り持ち来ぬ
おのづから人ぞ訪ひ来る山里も春は桜の花見がてらに

迷い、悟りと言ふことをことごとしく人の言ふに
悟るべき事も無き世を悟らむと思ふ心ぞ迷ひなりける

わろす。

述懐

いたづらに年ぞ六十になりにけるなすべきわざは未だならずて
思ひ出づる三十の春も三十とせのかすみ隔たる花のおもかげ

山家水

世の中の憂きこと聞かぬ住まひかなただ山水の音ばかりして
明け暮れに汲むとはすれど谷水になほすみ果てぬ我が心かな

山家松

軒の松むかしの友と言ふばかり我が山住みの年も経にけり

山家

厭ひてもものの寂しき夕暮れは憂き世恋しき山の奥かな
ある時はありのすさびの世の憂さもまたしのばるる山の奥かな

宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて
山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め
今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば

宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。

黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき

死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。

死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ

「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。

聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人

聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。

聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人

孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教などで言われている聖人は嘘つきで良い人を悪く言う醜い人たちばかりだが、孔子だけは良いと言っている。

坂本は文字がありません。

巖本善治編勝部真長校注「新訂海舟座談」を読む。 江藤淳の「氷川清話」以上のことは書かれているようにも思えないが、附録で、 高木三郎という人が坂本龍馬について

坂本は大きな男で、背中にあざがあって、毛が生えてね。
坂本は、柔術を知らないものですから、
坂本は、文字がありません。

などと言っている。 龍馬は文字の読み書きができなかったらしい。 手紙を書いたとしても代筆だったのだろう。 あの有名な、姉に宛てて書いた手紙も代筆なのだろう。 武士で柔術を知らないというのも当時としては珍しかったのだろう。 剣術は千葉道場で北辰一刀流の目録をもらったというが、五六年もいれば誰でももらえるようなものではないか。 印象としては、行動力はあるが無学文盲の大男、といったところだろう。 勝海舟、西郷隆盛、その他長州や薩摩の志士たちにはだいたい最低限の教養はあったが、龍馬にはなかった。

ともかく、文字を知らないというのではまず和歌は詠めまい。 柿本人麻呂も文字は知らなかったかもしれないが、 それとこれではわけが違う。 仮に詠めても有名な歌のつぎはぎくらいしかできなかっただろう。 読み書きができなきゃそろばんもできなかっただろう。 政治家くらいにはなれたかもしれんが、商売ができる人間ではなかったのではないか。

龍馬は『新葉和歌集』を欲しがったというが、なんのためだったのだろう。

wikipedia に

平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」

とあるのも同じか。

勝海舟の歌:

天駆ける翼持たねばにはつ鳥あはれ落ち穂を争ひにけり

なんとも言えない歌だな。

勝海舟が危篤になったときに高崎正風(歌会所長、明治天皇の歌の師)が詠んだ歌:

眠られぬ夜寒の床に響きけり氷川のもりの雪折れのこゑ
玉の緒の絶えぬうちにと駆けつけてかひもなくなく帰る悔しさ
移りゆく世をうれたみて語らひしこゑなほ耳の底に残れり
身は苔の下にありともたましひは天駆けりてや世を守るらむ

「うれたむ」は「憂ひ」+「痛し」が動詞化したもののようだ。
まあ普通。実に平凡。というか明治天皇の御製に良く似ていてびっくり。
明治天皇の歌をより情緒的にしたような感じ。

本居宣長

筑摩書房の「本居宣長全集」第2,15,18巻、それと小林秀雄「本居宣長」を借りてくる。 全集の解題は大久保正という人が書いているが、 中野重治が

あんなおかしな歌を何年も何年もこりずに書いたような精神のある面が、その面は詩には無関係のものだったが、とにかく、宣長の学者としての仕事を支えていたのだと思う。

だとか、大久保氏自身も

宣長の和歌は今日すでに文学の化石となっている
彼の夥しい作中から強いて秀作を拾おうとする試みは、ここでは、それほど意味があるとも思われない
宣長の詠風が十年一日の如くで、極めて変化に乏しかった

などとぼろくそと言って良いほどにけなしている。小林秀雄も

その歌の内容を問うよりも

などと暗に歌そのものとしての評価を避けようとしている。

本居宣長は自画像も描いているのだが、確かに平凡な絵ではある。 同じことは歌にも言えるのだろうとは思う。 また遺言書に自分の墓の絵まで描いて事細かに指示してあるのはやはり何か異様なものを感じる。

その歌というのが一万首近くもあって、多くの人にとってはそれは過ぎ去った過去の学者の習作か詠草であって、 詩的な、今日的な価値はない、と言いたいのだろう。

しかし、本居宣長の歌でおもしろいものはかなり多い。 少なくとも宣長よりも下手な歌詠みはたくさんいる。 なぜみんな宣長の歌をほめようとしないかというとただ単に戦後民主主義的な雰囲気が妨げているだけではないかとさえ思える。 宣長が、ことあるごとに「やまと」「こま」「もろこし」などを歌に詠みたがるのが煙たいのだろう。 国学として、歌論としてそういうことを言っている分には良いとして歌に詠まれるのが憎らしくはがゆいのではないか。

めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり
忘るなよわがおいらくの春までも若木の桜うゑし契りを
この花になぞや心のまどふらむわれは桜の親ならなくに
桜花ふかき色とも見えなくにちしほに染めるわが心かな
さし出づるこの日の本のひかりよりこまもろこしも春を知るらむ

小野小町を詠める:

今もなほながめせしまのおもかげは露けき花に見るここちして

紫式部を詠める:

言の葉に染めずばいかでむらさきのふかき心の色は見るべき
言の葉はたぐひなき名の立田姫いかに染めける錦なるらむ

確かに秀歌というかどうかはともかくおもしろい歌は多い。

待ちわぶる桜の花は思ひ寝の夢路よりまず咲きそめにけり
のどかなるあたら春日を花も見で咲くを待ちつついくか経ぬらむ

「のどかな春の日を、花も見ずに過ごすのはもったいない、もう何日花の咲くのを待ちながら日が経っただろうか」、 という実に素直な歌だ。

朝な朝な庭のもみぢの色見れば賤き心のはづかしきまで
いくばくもあらぬさくらの花ざかり雨な降りそね風な吹きそね

これはわざとこういうふうに詠んだのだと思うよ。 なかなか味があるじゃないか。どうよ。 宣長は学者だったから、素人が歌を詠む手本になるよう、 わざと教科書的な歌をを詠んだと思う。同じことは明治天皇にも言える。 自分で歌を詠もうと思ったときにこれほどたくさんサンプルがあると便利。

つまり、本居宣長とか明治天皇の歌というのは、純粋なミネラルウォーターのようなもので、 本人が詠んだことが確実で、文法的にも間違いがなく、かつ量が多い。 初学者がそのまま何の疑いもなく学ぶことができる。 こういう純度の高い歌集は勅撰集以来そうざらにはなかったものである。

ところが江戸時代の武士の歌などは個々の歌人のものはサンプル数も少ないし、 真作と偽作が混ざり合い、 文法もいい加減で、 見た目はとっかかりよさそうに見えて、 これらを手本にして和歌を学ぶなどということは不可能であり、 できは良くても狂歌や戯れ歌などであったり、 むしろ玄人が慎重により分けないとまともに鑑賞することすらできない、というわけだ。 だから私は、宣長の一万首の歌は今日的にも非常に価値が高く、 宣長の著述の中でけっして軽んじることのできない部分だと思う。

辞世千人一首

荻生待也「辞世千人一首」を読む。 千人といっても、 江戸時代の辞世の歌(狂歌)が充実しているようだ。

便々館湖鯉鮒(べんべんかんこうり)という狂歌師の歌:

三度炊く 米さへこはし 柔らかし 思ふままには ならぬ世の中

式亭三馬:

善もせず 悪も作らず 死ぬる身は 地蔵もほめず 閻魔叱らず

蜀山人:

生きすぎて 七十五年 食ひつぶし かぎりしられぬ あめつちの恩

魚屋北渓(ととや ほっけい、浮世絵師):

暑くなく 寒くなくまた 飢ゑもせず 憂きこときかぬ 身こそやすけれ

中山信名は幕臣で、国学者。塙保己一の弟子の一人。

酒も飲み 浮かれ女も見つ 文もみつ 家も興して 世にうらみなし

のんきだな。 とまあこんな感じで、江戸時代とは実際泰平な世の中だったのかもしれん。
幕末維新はうってかわって殺伐としていて、中山忠光:

思ひきや 野田の案山子の あづさ弓 引きも放たで 朽ちはつるとは

宮本大平:

えびす船 打ちもはらはで 白雪の ふり行く老いの 身ぞあはれなる

日本史百人一首

渡辺昇一「日本史百人一首」。 平凡な構成。
北条泰時:

事しげき 世のならひこそ ものうけれ 花の散るらむ 春も知られず

いやあ。京都で訴訟に忙殺されていたきまじめな泰時の姿が目に浮かぶような良くできた歌だけど、 本人が詠んだ歌じゃないよな。 太田道灌以来うたぐりぶかくなった。

徳川家康:

嬉しやと ふたたび起きて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空

辞世の歌というが、まあ、本人の歌じゃないよね。というかどう見ても江戸の町人が詠んだ歌だろこれは。

またまた徳川慶喜:

この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり

うーん。どうなのかこれは。いずれにせよ渡辺昇一という人は歌の真贋などまったく興味無く、ただ面白そうな歌をあれこれ集めたということだろう。狂歌とはそうした遊びかもしれんが、和歌の勉強にはならない。