蘆庵2

この人の言う「ただ事の歌」というのも、江戸時代に相当に流行っていた狂歌や、俳諧などとの棲み分けが難しいところがあり、蘆庵の歌にも狂歌とも言えるきわどいものもあるが、まあそれだけ和歌が江戸時代に多様性を獲得しつつ成熟していたことを表すものとも言える。探せばもっとこういう人は居るのかも知れない。こういう少なからぬ数の、浪人だか乞食同然の人たちが学者もしくは芸人として生涯を全うできたという意味では江戸時代はやはり画期的だったのでは。

無常
さざれ石の 巌となるも とどまらで 移り行く世の 姿ならずや

小さな石が成長して大きな巌になるという変化も、とどまることなく変転してやまないこの世の現象の一つではないのか、と訳すべきだろう。

はかなさは いづれまさらむ よひの間に 見えける夢と まぼろしの世と
酒
世の憂さも 忘るる酒に ゑひしれて 身の愁へそふ 人もありけり

わろす。自分のことだろうか。

吹く風も待たでけぬべき露の身を千年のごとく思ひなれぬる
おろかにてかよわきものの老いたればとりどころなき我が身なりけり
つくづくとひとりしものを思ふには問はず語りぞ常にせらるる
昔見しいもがすみかは田となりて野はたは今の人の家々
花咲かで七十ぢあまり五とせになりぬと言ふもはづかしの身や

ことのはの道はことわざしげき世に住みて心に思ふことを言ひいづるならひながら、塵を離れたるものぞをかしと思ふことのありて
世の塵にうづもれながらうづもれぬ大和言葉の道ぞ正しき

「今ははや浜のまさごの道絶えて寄るかたもなきわかの浦波」に返し
この国はことばの海の大八島いづくによるもわかの浦波

このみちもすゑの世の姿に心寄する人のみ多ければ、それを嘆きて詠める
いかばかりいひちらすともことのはの花を思はば実はなかるべし

ことの葉は人の心の声なれば思ひを述ぶるほかなかりけり
鳥すらも思ふおもひのあればこそかたみにねをば鳴きかはしけれ

歌は見聞き覚え知るより出づるものなるを、ひたすらにほかを求むる人の多ければ
何をかは あぜ倉かへし 求むらむ 見聞きに満てる 言の葉の種

今の世の歌は言えりのみして、常に見聞くものおほくは詠まずなりにたり
いにしへはおほねはじかみにらなすびひるほし瓜も歌にこそよめ

ひとふしと思ふややがてすなほなる心のゆがむはじめならまし
おろかにも千代よろづ代と祈るかなここはとこよのやまとしまねを
西に入り東に出でて天津日の幾夜千巡り世を照らすらむ

伊勢の宣長が七十を祝いて
七十ぢは人かずならぬ我も経ぬ君はちとせのよはひ重ねよ

老いたるどちの別れに
もろともに老いにけるかなますらをの別れにかくや袖しぼるべき

心
言ふことはみな心より出でながら心を言はむ言の葉ぞなき

はかなくあかしくらすことをおもひて
西に暮れ 東に明けて 出づる日の 今いくめぐり 我を照らさむ

良い歌だなあ。これが辞世の歌か。蘆庵の辞世の歌とは

入相の かねて惜しみし 年なれど 今はとくづる 声の悲しさ

か

波の上を 漕ぎ来と思へば 磯際に 近くなるらし 松の音高し

などを言うらしいが、あまり良い出来ではないなあ。

返歌

西に入り 東に出づる 日の本に 我がいくばくの 歌を残さむ
いたづらに 明け暮れはせじ 西に入り 東へ巡る ただのひと日も

小沢蘆庵の歌

江戸時代の知らない人。でもなかなか良い。宣長とほぼ同世代の人で交流もあったらしい。

よしさらば こよひは花の 蔭に寝て 嵐の桜 散るをだに見む

これは良い。

けさよりは 吉野の山の 春霞 たが心にも かかりそむらむ
あともなき 朱雀大路の 古き世を 思ひ出でつつ 雪やわくらむ
何ごとの はらだたしかる 折にしも 聞けばゑまるる うぐひすの声
春雨の 音きくたびに 窓あけて 軒の桜の木の 芽をぞ見る

良い。江戸時代にここまで高いレベルに達し、また公家だけでなく武士や庶民にまで広く普及していた和歌がなぜあれほどまでに無残に破壊されねばならなかったのか。実に悔しい。
なるほど、「ただごとの歌」か。すばらしいなこれは。

行く春を うぐひすの音は 絶えぬるに はかなくもなほ 鳴くひばりかな
鳴くひばり さのみな鳴きそ 暮れてゆく 春は惜しめど かひなきものを
かひなしと 言へども我も 行く春を 惜しとぞ思ふ 泣きぬばかりに
泣くばかり 惜しとはなにか 思ふべき また来む春を 頼む身ならば
頼まれぬ 老いの身をもて 限りなき 春を惜しむも かつははかなし

なかなか良いなこの連作。

今は世に 心とめじと 思ひしを 花こそ老いの ほだしなりけれ

良い。

良寛の歌

良寛の歌は僧侶らしい静かな美しい歌だ。明らかにわかるレベルの差。

あしびきの深山を出でてうつせみの人のうら屋に住むとこそすれ
しかりとてすべのなければいまさらになれぬよすがに日を送りつつ
はなかつみかづにもあらぬしづが身を長くもがもと祈る君はも

はなかつみと数がかけてある。明らかに万葉調が見てとれる。しかし武士のような勇ましさはない。

深山木も 花咲くことの ありといふを 年経ぬる身ぞ はるなかりける
年月の 来むと知りせば たまぼこの 道のちまたに 関据ゑましを

このクオリティの高さはすごい。すべてただたまたま開いた一ページの中にある歌なのだが。すごいな。こういう歌が詠みたいとさえ思う。

賀茂真淵の歌

本居宣長全集を読んでいると、村岡典嗣の評として(やや抜粋)

歌人としての宣長は、遺憾ながら第二流、もしくは以下の評価を甘受せねばなるまい。
文学や詩歌に対する、未曾有のすぐれた理解や見識を示した彼にして、なにゆえにかくのごときであったかは、あるいは不思議としうるくらいであり、学者と作者は必ずしも一致しないとはいいながら、この点賀茂真淵などと比較して、全く違っている

が紹介してあり、では賀茂真淵には秀歌があるかと思って、岩波書店日本古典文学大系「近世和歌集」を読んでみる。確かに面白い歌もある。

大魚(おほな)釣るさがみの海の夕なぎに乱れていづる海士小舟(あまをぶね)かも

いにしへのしづはた衣きし世こそおりたちてのみしのばれにけれ

沖つ舟手向けすらしも岩浪のたてるありそにかかるしらゆふ

雲のゐるとほつあふみのあはは山ふるさと人にあはでやまめや

故郷にとまりもはてず天雲の行きかひてのみ世をば経ぬべし

もののふの恨み残れる野辺とへば真葛そよぎて過ぐる秋風

見わたせば天香具山うねび山あらそひたてる春霞かな

むらさきの芽もはるばるといづる日に霞色濃き武蔵野の原

つくば山しづくのつらら今日とけて枯生(かれふ)のすすき春風ぞ吹く

さくら花花見がてらに弓いればともの響きに花ぞ散りける

山ふかみおもひのほかに花をみて心ぞとまるあしがらの関

かげろふのもゆる春日の山桜あるかなきかのかぜにかをれり

しなのぢのおきその山の山ざくらまたも来て見むものならなくに

しかし特に驚いたのは次の二首

うらうらとのどけき春の心よりにほひいでたる山さくら花

もろこしの人に見せばやみよしののよし野の山の山さくら花

「うらうら」の方は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の本歌ではないかというくらい似ているし、「もろこし」の方も「もろこしの人に見せばや日の本の花の盛りのみよしのの山」にクリソツ。 もちろん、真淵は宣長の33才の年長であり、宣長が39才のとき(1769)に真淵は亡くなっており、先に詠んだのは真淵である。宣長も、わかった上でまねて詠んだのだろう。

世の中によしのの山の花ばかり聞きしに勝るものはありけり

みよしのをわが見に来れば落ちたぎつ瀧のみやこに花散り乱る

これらも真淵が吉野山を詠んだ歌。

宣長は43才のとき(1772)吉野に桜を見に行っている(菅笠日記)。猛烈に桜の歌を詠み出したのは44才の時からだ。思うに宣長の山桜好きは真淵から受けた影響(あるいは師・真淵を慕う気持ち)と、実際に吉野山を訪れたことによるのはほぼ間違いないし、「敷島の」の歌が真淵へのオマージュであることも確かだろうと思う。

真淵の歌を全体としてみれば、宣長と大した違いのない古今調だが、中にはわざと万葉調に詠んだものもある。田安宗武ら武士の師となったこともあり、武家の影響もみられる。一方、宣長は青年期から老年まで歌の傾向はまったく変動がない。二十台後半に書いた「おしわけをぶね」において彼の思想と学問の方針は完全に完成されているのは見事である。しかしゆえに十年一日のごとく「ほとんど生長も発展もみられないことも、やがて彼が真の詩人でなかったゆえとすべき」などと言われる始末だ。

「近世和歌集」の真淵の歌は抜粋なのでこれ以上なんとも言えないのだが、宣長に比べて真淵の歌が優れているとするのは単なるアララギ史観に過ぎないと思う。

酒を詠んだ戯れ歌

飽き果てぬ 酒に心の 失せぬ間に 酒なき里に うつり住ままし
あさか山 かげさへ見ゆる 山の井の 浅くぞ酒は 飲むべかりける
ゑはばとて 秩父の山の いはが根の いはずもありなむ よしなし事は
雨降れば 湯気にくもれる 窓の戸の ゑひて心の などか晴れざる
春の日に 酒てふものの なかりせば 花は咲くとも のどけからまし
いづこにか 酒をのがれむ みよしのの 奥にも酒は ありてふものを
けふも酒 明日もさけさけ むらぎもの 心のぬしは 酒にこそあらめ

プーさんの鼻

俵万智「プーさんの鼻」をさらっと読む。そうかあ。かつての学生歌人が20年経って今はこんな歌を詠んでるのか。我が子を「みどりご」と呼ぶシングルマザー。贈り物が

いるけどいないパパから届く

このあやうさがやはり俵万智なんだよなあ。ある意味20年前となんら変わらず歌を詠み続けているんだなと思った。

記念写真撮らんとするにみどりごは足の親指飽かず舐めおり

うーん。「それぞれの未来があれば写真はとらず」からこうなったんだなあ。大きなお世話だがけっこう高齢出産だな。

ねぢけゆくわが心

木の花の 咲くがなどかは めづらしき よそぢとしふる 我が身なりせば
木の花の うつしゑうつす はかなさよ よろづの人も ならふてぶりに
ねぢけたる 老い人なれや わこうどの いはふ日なれど たのしくもなし
春の日に ねぢけゆくわが 心かな おくりむかふる 人の世ぞ憂き
いはふとて 飽かざらましや 千とせふる つるかめの身の 我ならなくに
いはふべき 春の良き日に しかすがに ふさがりとざす 我が心かな
ねぢをれて ひねまがりたる 老いけやき 憂き世に長く ふればなるべし
浮かれ女や 浮かれ男つどふ 春の野辺 たまゆらにこそ 浮かれやはせめ

黄砂襲来

もろこしの 砂も降り来る 春の日の 夜半は嵐を 聞きつつぞ寝る
雨風はきのふの夜こそはげしけれけふはしづけく春ぞ更けゆく
をちこちの花咲く野辺にうたげせむ日どりばかりぞまづ決まりゆく
惜しまずやあたら月日を春さればつとめもしげくなりゆくものを
いにしへの大宮人よわれもまたいとましあらばうたげせましを
わが宿ののきばに出でて草まくら旅寝ごこちの春を楽しむ
ぼんやりとけふも暮らしつかかる日のあはれこのまま続かましかば
なりはひのわざにつとめばなかなかにいとまなくとも歌は詠ままし
うららかに晴れたる春を惜しむべしけふぞ過ぎなばいとまなからむ
つのぐみて咲かむとみゆるこずゑかなをみなをのこら日を数へてぞ待つ
ことしげき日々ぞ待ちぬる春過ぎてあはれ浮き世の夢も醒めなば
おもひやれ四十ぢのをのこいかばかり国に貢ぎて世を支へてむ
あしびきのやまどりのをのしだりをのしだれ桜をけふこそは見め

ますらを

和歌語句検索がおもしろい。

「ますらを」で検索すると一番古いので金葉集。つまり万葉集はともかく古今集辺りでは「ますらを」は一切歌に詠まれなかったということだ。

雨降れば小田のますらをいとまあれや苗代水を空にまかせて

勝命法師という人の歌。新古今集。苗代に水を引く農夫が、雨がふったので、その手間がいらず、ひまなのだろうか、というのんきな歌。

ますらをは同じふもとをかへしつつ春の山田に老いにけるかな

俊成の歌なのでだいたい新古今時代。同じ山のふもとを耕しつつ農夫は春の山田に年老いていくのだなあ。これまたのんきな農夫の歌。新古今時代は「ますらを」とは「農夫」「山人」「狩人」などを意味していたようだ。

ますらをもほととぎすをや待ちつらむ鳴くひとこゑに早苗とるなり

藻壁門院但馬(知らん人)。農夫もほととぎすの声を待っていたのだろうか、一声鳴いてから早苗をとった。これまたのんきな話だわな。

ますらをの海人くりかへし春の日にわかめかるとや浦つたひする

「ますらをのあま」で漁師。まあ「あま」だけでも大差ない。

ますらをも月漏れとてや小山田の庵はまばらに囲ひおくらむ

誰の歌かよくわからん。農夫も月の光が漏れるようにと小山田の庵はすきまだらけに作るのだろうか。ふーむ。どうも、「ますらを」「しづのを」「やまがつ」「あま」などは同じような意味だったようだな。農業や狩猟、漁労などの第一次産業に携わる男たち。万葉時代とはかなり違う使われかたのようだ。


追記20260927

「ますらを」は万葉集の時代からある。

語源は「増す」「勝る」「益々」などと同じ。「ら」がついて、勝った有様を言うのだろう。他より秀で優れ勝った、立派な男、「丈夫」という意味。

ますらたけを(勝ら武男)、ますらがみ(勝ら神)と言う言い方もあった。

しかしながらおそらく「古今集」辺りで歌語から外れた。「丈夫」という概念が少なくとも宮中から失われたのだろう。しかし言葉自体は残っていて、源俊頼の時代になって、農夫が農作業するようすを叙景として詠むようになり、「ますらを」が歌語として復活した、というような経緯であっただろう。和歌語句検索にひっかかりにくいのもそのためだ。


追記20261005

ますらを。ますらを。同じようなことを重複して書いている。