反実仮想まとめ

「まし」「ましものを」「ましを」の使い方だがいろんなバリエーションがあることがわかったので、まとめてみる。

まず、一番確実でわかりやすいのは「AましかばBまし」または「AましかばBましものを」というパターンで、「もしAだとしたらBなのだが」となる。 Aは今の現実をあえて否定し無視した別の仮定。つまり反実仮想。 現実はAではないので、Bが導かれることもあり得ない。

あるいは、Aはほぼあり得ない、可能性がありそうもない、絶望的な希望。 つまり反実希望。 実際にはAはありえないので、Bが実現することもない。

もし宝くじにあたったら遊んでくらせるのに、 もし私が宇宙人なら人間をこらしめてやるのに、 もし私が男なら私は女を捨てないのに(笑)のようなもの。 実際はAは単なる仮定ではなく好悪の感情が込められることが多い。 ファンタジー系の実現不可能な願望とか。
逆に強烈な嫌悪からくる拒絶とか。

山里に 散りなましかば 桜花 匂ふ盛りも 知られざらまし

桜の花が山里に散ってしまったとしたら花の盛りも人に知られることはなかっただろうに。 たわいない例ではあるが、実際には花は山里ではなく人目につくところで咲きそして散ってしまったので人に知られてしまった、ということ。 もちろん桜の花にわが身をなぞらえた比喩であって、 失恋かなにかが人目について知られてしまった、というような意味だろう。

暁の なからましかば 白露の おきてわびしき 別れせましや

暁というものがなければ、別れなどしないのに。実際には暁があるので別れもある。 最後に「や」が付くので反語的に「別れなどしようか、いやしない」と訳すとよいかも。

「Aましかば」だけのパターンもあるが、これは「よからまし」「よからましものを」「あらましものを」「うれしからまし」などが省略されたと見て良い。

春くれば 散りにし花も 咲きにけり あはれ別れの かからましかば

春が来て去年散った花もまた咲いた。別れというものがこのようなものであったなら(よかったのに)。

「Aましかば」の部分が単なる疑問形となった「AばBまし」というものも多いが、「AましかばBまし」とほぼ同じ。 互いに代用がきくと考えてほぼ間違いない。

恋せずば 人は心も なからまし もののあはれも これよりぞ知る

冗長ではあるが「恋せざらましかば人は心もなからましものを」でも意味は同じわけだ。
もし恋をしなければ人には心もないだろう。 ふつうは恋の一つや二つはするので人には心がある、となる。

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

世の中に桜がまったくなかったとしたら、春の心はのどかだろうに。 世の中には桜があるから春の心はのどかではない、という意味。

待てと言ふに 散らでしとまる ものならば 何を桜に 思ひまさまし

待てと言えば散らずにとまるものであれば、桜の花に対する思いがこれほどまさることもないのに。 実際には散るなと言っても散るので思いがまさる、という意味。

うれしくば 忘るることも ありなまし つらきぞ長き かたみなりける

うれしい思いは忘れることもあるだろうが、辛い思いは長く忘れないものだ。

夢ならば また見るよひも ありなまし 何なかなかの うつつなるらむ

夢ならばまた見る宵もあろうが、どうして現実ではとうてい会うのがむずかしいのだろう。 「何」があるので疑問として訳してみた。 小野小町のなかなかおもしろい歌。 上の二例は、自分の当面の関心事とは正反対の場合を仮定しているので、反実仮想という範疇に入るのだろう。 別にふつうに「ありなむ」でも意味は通じるわな。 あるいは「ありやせむ」とか。

「Bまし」「Bましものを」だけのパターン。

ひとりのみ ながむるよりは をみなへし 我が住む宿に うゑてみましを

「ひとりのみながむるよりは」が架空の前提になっている。 女郎花を独りでながめるよりも、自分の家に上でみなで見ればよいのだが。 植えてないので実際には見れないのだが、しかし不可能な絶望ではない。 むしろじゃあ植えればいいだろと思う。 どうしても植えられない理由でもあるかのようだ。庭がないとか、家が狭いとか、借家なので大家さんに怒られるとか(笑)。

疑問の助詞が混じると不可能性が減り、不確実さが増す。 単なる希望や、のぞみのありそうな希望に近づくようだ。

秋の野に 道もまどひぬ 松虫の こゑするかたに 宿やからまし

秋の野で道に迷ったので、松虫の声のする方に宿を借りたいのだが。 宿はあるかもしれないしないかもしれない。

いづくにて 風をも世をも 恨みまし 吉野のおくも 花は散るなり

これも「いづくにて」が付くことによって、不可能ではなく不確定、疑問になっている。 吉野の奥でさえ花は散るのに、いったいどこで風や憂き世を恨めばよいのだろうか。 「いづくにて風をも世をも恨みばや」でも良さそうなものだが、 この定家の歌は、定家というのは仏教的諦念というか無常観というかそういうものが、 西行と同じくらいに強い傾向があるのだが、結局生きてこの世にいる限りどこへ行こうと世を捨てて世を恨むなどということはできない、 というのが結論なわけであり、 不可能の形をとった疑問のような結局は不可能、ということを表したいのだろう。 だから「ばや」ではなしに「まし」が使われている、と考えると納得がいく。

「AともBまし」。 「とも」と組み合わさると「ば」「ましかば」のような単純な反実ではなくて、 逆説的な強い願望と解釈した方が良い用例が少なくない。 つまり、「たとえAだとしてもせめてBであってほしいのだが」と訳すとぴったりくるパターン。 Aは受け入れねばならないつらい現実、或いは譲歩可能な条件。 Bはぎりぎり叶って欲しい願望。 もともとの「まし」の意味合いを考えれば強い意志というよりは、 実現が怪しく疑わしいが切実に望む感じではあるまいか。

梅が香を 袖に移して とどめては 春は過ぐとも かたみならまし

たとえ春は過ぎても形見になって欲しいのだが。

片糸の 思ひ乱るる 頃なれや ことづてすとも あはましものを

六条修理大夫。たとえ伝言を頼んででも逢いたいのだが。

急ぐとも ここにや今日も 暮らさまし 見て過ぎがたき 花の下かげ

たとえ急ぐとしてもここに今日も暮らしたいのだが。 上、三例、いずれもどのくらい不可能性が高いのか、定かでない。 急ぐというのがとても緊急であれば限りなく不可能に近い、とも言えるし、 ことづてするのが事実上不可能なのかもしれない。 いずれにしても不可能性が限りなく強い事案に対してその逆を強く願望する、と理解すべきだと思う。

春浅き 飛ぶ火の野守り 点けずとも 雪間の若菜 まづやつままし

春が浅く、たとえ野守が飛ぶ火に火をつけなくとも、雪間の若菜をさっそくつんでみたいのだが。

散りぬとも 面影をだに 山桜 忘れぬほどや 花になれまし

たとえ散ってしまったとしても、山桜のおもかげを忘れないほどに花に馴れておきたいのだが。

用例探しはこれくらいで十分だろうか。結論として

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂

は「たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしてもせめて大和魂だけは留めおきたいのだが」と訳すのが正解、ということになろうか。「身が武蔵野の野辺に朽ちてしまう」というのがまだ実現してないが、近い将来確実に来ることの仮定。たとえそうだとしても、とどめ置きたいものだ、ということになろう。「必ずとどめ置くぞ」というような固い決意ではあり得ないだろう。そういう用例は、探せばあるのかもしれないが、一般的ではない。吉田松陰のような人がそんなトリッキーな和歌を詠むとは思えない。もっと複雑で、「CばAともBまし」という形もあって、「とも」が薄まり、上の逆説願望よりも反実的要素が強く、「もしCならばたとえAだとしてもBだっただろうに」となる。このパターンは割と多い。和泉式部とか。

待つ人の なきよなりせば 聞かずとも あめふるめりと 言はましものを

待つ人が居ないならば、たとえ聞かれなくても、雨が降るようだと言っただろうに。 実際には待つ人がいるので聞かれてから言った、ということか。 待つ人のあてがないので振るとは言いたくなかったということだろうか。よくわからん。

霞だに 立ち遅れせば 新しき 春の来るとも 知らずぞあらまし

もし霞が立つのでさえ遅れたならばたとえ新しい春が来たとしても知らないでいるだろうに。 実際には霞がたったので春が来たことを知った、となる。

わかるべき わかれなりせば 思ふとも 涙の道に むせばましやは

「やは」が付いているので反語的に訳し、 もし当然別れるべき別れだとしたらたとえ思いつづけていたとしても涙にむせんだでしょうか。 ややこしいな。別れるべくして別れるのであればこんなに泣くことはなかっただろうという意味だろうな。

ときはなる 峯の松原 春くとも 霞たたずば いかで知らまし

これも「いかで」が付くので反語的に訳し、 峯の松原は常緑なので、たとえ春が来たとしても、霞が立たなければ、春が来たことをどうやって知るだろうか。 いやはやややこしい。

補足。
「まし」は助動詞「む」から来ているのはまあ間違いなく、 「む」は単なる推測のようなものから強い願望まで意味する。したがって「まし」が「のどけからまし」のように単なる推測として訳せば良いこともあるが、「やどやからまし」のように願望として訳すべきときもある、ということだろう。 だから「AともBまし」は願望として訳して正解なのだ。

さらに補足。
「ば・・・まし」や「とも・・・まし」などの用例は古語辞典にも載ってない。 少し困った。

さらに補足。
「もしCならば、たとえAだとしても、Bしただろうか、いやしない」などという複雑な文法構造の歌を31文字で詠めるというのは驚異。 高度な修辞技法と重層的なオマージュによって屈折した心理を短い詩形に読み込むのが和歌。 しかし俳句にはそれは無理だ。 俳句は文法をあらかた捨てた。 正岡子規の

敦盛の 鎧に似たる 桜哉

を例に挙げるまでもないが(余談だが、しだれ桜が全体に釣り鐘のように垂れていて、鎧直垂のように見えるという意味かと思ったのだが、須磨で詠んだ句らしく「敦盛の鎧に似たり山桜」「敦盛の鎧に似たる山桜」の形もあり、では山桜を詠んだかとも思うが、題が「糸桜」つまり「しだれ桜」だからややこしい)、 いくつかの名詞、あとは形容詞か動詞が一つかせいぜい二つ。あとは助詞。 俳句には圧倒的に助動詞が少ない。 助動詞の役割の重さというのが和歌と俳句の違い。 助動詞が生きるには17文字3句では足りず31文字5句が要る。

今の短歌というのは俳句をのばしたようなもの、冗長な俳句のようなもので、 17文字で足りないから31文字にしたようなものが多い。 一度、和歌から俳句になるときに捨てたものをもう一度学び身につけるのはおそらく不可能。 俳句のような「単純明快な文形」をただ文字数を増やしただけでは「高度な修辞技法と重層的なオマージュ」には出来ない。 ただ文字数を増やすだけだとリフレインくらいにしかならない。「塔の上なるひとひらの雲」とか「針やはらかく春雨のふる」とかがそう。 あるいは上の句と下の句が別々の俳句になっているがごとき。

さらに追記。
「まし」はもともと事実と反することを述べるが、 「や」「か」「やは」「かは」「いかに」などの疑問や反語の助詞などが付くと意味がそちらにひっぱられて、 もともとは「あるとよいのに」という諦めにもにた境地だったのが、 「ありえるかもしれないよね」「ないといえるだろうか、いやある」のような意味になる。 「とも」がつくと「あるとよいのに」が「ありたいのだが」まで変わってくる。 このように組み合わせによってはかなり本来の意味から離れた使い方をする、 ということが用例を調べることでわかってくる。 おそらく「あるとよいのに」「ありたいのだが」くらいまでが安全圏で、 「きっとあるぞ」とか「かならずある」「ゆめうたがうことなかれ」などと訳すとやり過ぎなのに違いない。

とも・・・まし

竹取物語を読んでいたら

いたづらに 身はなしつとも 玉の枝を 手折らでただに 帰らざらまし

という歌があり、これは松陰の辞世の歌にそっくりだ。「たとえ死んだとしても玉の枝を取らぬままに帰ることはなかっただろうに」とでもなるか。つまり「帰らなかったかもしれない」が実際には「生きていたので帰ってきた」のである。反実仮想である。同じ具合に

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂

は「たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしても大和魂だけは留めおくだろう」となるか。
事実に反することを言っているとしたら、「留め置きたい」かったが「留め置けなかった」というのが結論にならざるを得ないが、他の用例などみると上の程度に訳しても良さそうな気がしてきた。

「たとひAともBまし」という用例があって、「たとえAだったとしてもBしただろうに」または「たとえAとなろうとBだろう」などと訳せばよいか。

梅が香を 袖に移して とどめては 春は過ぐとも かたみならまし

梅の香りを袖に移して留めたので、たとえ春が過ぎたとしても形見になるだろう。 春が過ぎたころには梅の香りも消えてしまって形見にはならない、と反実仮想に訳すまでもなく、 逆接的な強い願望として訳せば良いのではないか、少なくともこの用例では。

住吉の 岸におひたる 忘草 見ずやあらまし 恋ひは死ぬとも

たとえ恋しくて死んだとしても見ないでいただろうか。

風だにも 吹き払はずは 庭桜 散るとも春の ほどは見てまし

和泉式部。 風さえ吹き払わなければ、庭桜がたとえ散ったとしても、(散った花びらが残っているので)春のようすは見ただろうに。 実際には風に吹き払われてしまったので、春のようすは見れなかったのである。 これは割とわかりやすい。

命だに はかなからずば 年ふとも あひみむことを 待たましものを

命さえはかなくなければたとえ年を経ても逢い見ることを待っただろうに。 実際は命がはかないので待たなかった。 これもわかりやすいな。

まし

ふと思ったのだが、吉田松陰の留魂録冒頭の

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂

ここで「まし」というのは通常は事実と反することを想像したり希望したりするものなので、 「まし」を古典文法どおりに解釈すれば「たとえこの身がくちても私の魂をとどめおけたら良いのに(実際には留めることはできない)」 となる。
しかし通常は 「この身がたとえくちても魂は留めおくぞ」 のように解釈されるだろう。
「たとひ・・・とも」はふつう逆接的に解釈されるからだ。
この、「たとひ・・・とも」と「まし」はあまり相性が良くはない。 逆接と反実仮想は素直につながらない。
いろいろ悩んだが、うまくなじませるため「この身が武蔵の野辺に朽ちたあとにも、私の大和魂はとどめておきたいのに。いやたとえ身は朽ちても魂だけはきっと留めてみせる。」
ややくるしいが、歌全体を「たとひ・・・とも」による強い希望とし、 その中に「まし」は、未来への不安やためらい、自分の欲しない未来を否定したい強い希望として反語的に挿入されているという重層構造に解釈してみたわけだが。

「まし」は通常なら「もしこうだったならこうするだろうに、しかし実際にはできない」という形になる。 たとえば

もしわれに 死ぬまで足れる 金あらば 明日よりつとめ やめましものを

ひとしげく ことまたしげき みやこより のがれましかば うれしからまし

のように。だが、

もし身が朽ちなば魂を留め置かましものを

では意味をなさない。身に朽ちて欲しいわけではなく、たとえ身は朽ちてもせめて魂だけは残したい、と言いたいわけだから。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かばや 大和魂

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かなむ 大和魂

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めて置かむ 大和魂

とか、或いは多少口語調だが

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置きたし 大和魂

などだとすっきりする。 だが「まし」にはある心理的な屈折がないわな。 「まし」を生かすとすれば、字数合わせは難しいが、「身が武蔵の野辺に朽ちしのちまで 大和魂だに 留め置かましかば うれしからましものを」とでもなろうか。

「たとひ・・・とも」「まし」という文法的な危うさが普通でない感じを出していると言えば言える。しかし普段の詠歌でそういう冒険をするかというと、難しい。「まし」とか「ましものを」「ましかば・・・まし」は難しいから、つい無難な使い方しちゃうよね。

古典的な用例だと、

見る人も なき山里の 桜花 ほかの散りなむ のちぞ咲かまし

他が散ったあとに咲けば良いのに。 これは事実に反することを想像して、そうなってくれたら良いのにと希望している。 普通の使い方。

うぐひすの 谷よりいづる こゑなくば 春来ることを 誰か知らまし

これなんかは反語的に使われている。 誰が知るだろうか、誰も知りはしない。 事実に反することを想像し希望しているといえば言える。

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

これも事実に反することを想像し希望している。「いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。」源氏物語によく出るパターンだが、訳としては「どうしたらよかろうか」だが、「いかにせむ」とどう意味が違うのか説明するのは難しい。ああしようか、こうしようか、どうしようか、というように、ひとつに定まらず、いろいろとできるかどうかわからないことを仮定し想像しながら悩んでいるときに使うのかもしれん。

ほにはいでぬ いかにかせまし 花すすき 身を秋風に 捨てやはててん

小野道風。 迷い、ためらいの例。

あらはれて 恨みやせまし 隠れぬの みぎはに寄せし 波の心を

小式部内侍。少し面白い歌。

六条前斎院にうたあはせあらむとしけるに、みぎにこころよせありとききて、小弁がもとにつかはしける

と詞書にあるので、歌合わせは右と左に分かれて戦うが、水際(みぎは)に右をかけて、右をひいきにしているというので恨んで、という意味になる。 わけがわかるとかえってつまらんな。

国意考

真淵が「にひまなび」と同じ頃に書いた國意考というものがあるが、 真淵の「大和魂」とはこの「国意」つまり「日本精神」というものを大和言葉に訳しただけのものではないか。 宣長がやった(と思われる)方法で、日本の古典の「大和魂」という用例からその意味を解釈したのではなく、 北畠親房や山鹿素行などに由来する当時の(反儒学的な)武家の思想から来たものだと思う。 なので、中世の「大和魂」の用例と相違があっても特に意に介さなかったのだろう。

「にひまなび」はその題名からしてできるだけ大和言葉で論じようとして、 用語も出来る限り大和言葉に翻訳しようと考えて、そのために「大和魂」という言葉を作り出したのではないか。 たまたま、それだけだったのではなかろうか。

とりあえず、wikipedia などの記述を参考にすれば、 当時は仏教や儒教が伝来する以前の、日本古来の思想や精神というものを、それらの影響を排除して、 できるだけ昔のままに再現し復活させることが国学の目的だと考えられていた。 江戸時代になって幕府によって儒学、特に朱子学が官学と位置づけられ、 急激に隆盛したことに対する心理的反発もあったのだろう。

そこで当然、仏教や儒教に対立する概念としての国意というものが理論武装のために用意され、確立されねばならない。 平安王朝というのはすでに仏教や儒教などによって古来の日本精神というものが変容し、廃れて衰えており、 参考にするに足りず、それらの影響を受けていない記紀万葉などから復元されねばならないというのが、真淵の考え方だったのではなかろうか。

小林秀雄は、「大和魂」という言葉を「発明」したのが真淵であるところまでは突き止めた。 しかし、宣長がやったような古文辞学的な方法をとらず、源氏物語に初出のこの「大和魂」という言葉を、 自分の都合の良いように、中世の用例を無視する形で使ったことを批判している。 しかし、それは現代人から見たときの結果論であり、 というか、「大和魂」の初出を源氏物語に見いだしたという方法論や論法自体が極めて戦後的であって、 当時の真淵にしてみると、 武家政権によって官学とされた朱子学に対抗するための国学というものを打ち立てるというのが緊急の課題であって (それは古今集の選者となった紀貫之と似たような使命感だっただろう)、 そしてそれは儒学との対抗上、武士の精神としてふさわしい「高く直き」「ますらお」ぶりの「もののふ」というものが、 万葉時代からすでに日本古来の美風として存在しており、外来の学問の存在は不要だというような論法に傾かざるを得なかった。

宣長のような、非常な時間と努力を必要とするような方法は、あまりにも回りくどくて、取りえなかっただろうなと思う。 しかも宣長が至った、「大和魂」とは源氏物語や新古今集などに代表されるような「もののあはれを知る」的なものだという結論は、 国学のためには有害無益だと見えたに違いない。

wikipedia や今のネットの「大和魂」説はだいたい小林秀雄の「本居宣長」か、広辞苑に基づいている。広辞苑の方が常に新しく改訂されているだけあってより正確だ。だがおおむね、議論は小林秀雄時代で完結してしまっていて、それからたいして進んでない。しかし、真淵がなぜ「大和魂」という造語を作ったかという考察が抜けているため、話は混乱してしまっている。

さらに、真淵と宣長の立場の違いというものも、小林秀雄を良く読んでない人はたいてい混同してしまっており、またほとんどすべての人たちは「大和魂」について新渡戸稲造的なイメージしか持ってない。一番良くわかっている人でも大野晋、小林秀雄らの説までだ。

こんな具合で「やまとだましい」について正確に把握している「やまとびと」は実はほとんどいないという状態になってしまっている、というおそるべき結論に達してしまう。

賀茂真淵の大和魂

賀茂真淵にいまなびによれば、

女の歌はしも、古は萬づの事丈夫に倣はひしかば、萬葉の女歌は、男歌にいとも異ならず。

かくて古今歌集をのみまねぶ人あれど、彼れには心及さく巧みに過ぎたる多ければ、下れる世人よひとの癖にて、
その言狹せばく巧めるに心寄りて、高く直き大和魂を忘るめり、とりてそれが下に降くだちに降ち衰えつゝ、終に心狂ほしく、言狹小ささき手振となん成りぬる。

女の歌も古い時代には何事も丈夫であって、万葉の女歌は男歌と大した違いはなかった。古今集の時代によると言葉を狭く巧むようになって高く直き大和魂を忘れ、だんだんと衰えて言葉狭く小さくなっていった、とある。

末の世にも、女をみなにして家を立て、鄙つ女にして仇あたを討ちしなど少なからず。かゝれば、此の大和魂は、女も何か劣れるや。まして武夫ものゝふといはるゝ者の妻、常に忘るまじき事なり。

末の世でも女が家を建てたり、田舎女で仇討ちをしたりするものが少なくない。このように考えれば大和魂というものも女が劣るというものではなく、まして武士の妻というものは常に忘れるべきではない、と。

こうしてみると、「大和魂」「大和心」という用例は源氏物語や赤染衛門が初出であるのに、その精神は万葉時代からすでにあったという論法だ。確かにそのようなますらおぶりな、高く直き心というものは、古くからあり、また近世の武士にもあるかもしれないが、それを「大和心」「大和魂」と呼んでしまうと、中世の用例と齟齬ができてしまう。

いったい全体、賀茂真淵のような用例はいつ頃から誰が言い始めたのだろうか。賀茂真淵がいきなり始めたこととはとても思えないのだが。「にひまなび」は1765年成立とあるから、宣長が35才のときにはすでにこのような説があったということだな。真淵と宣長がはじめて松坂で面会するのは1763年。国学者が「大和魂」などと言い始めたのはいつかってことは、たとえば小林秀雄の追求も真淵までで止まっており、そこからさかのぼってはいない。北畠親房「神皇正統記」、山鹿素行「中朝事実」あたりが怪しいと思うのだが。

うーん。やはり、それらしい思想はすでにあったけれど、その思想にそのものずばり今日の意味の「大和魂」という言葉を「発明」し当てはめたのは、やはり賀茂真淵なのかもしれない。そういうことはうまい人だったのだろう。宣長は真淵の弟子ということになっているので、宣長も真淵と同じような意味に「大和魂」という言葉を使ったに違いない、という誤解はあり得ただろうし、宣長よりは真淵の意味の「大和魂」の方が勇ましくてわかりやすいので、宣長の主張はかすまざるをえなかったということかもしれん。

敷島の大和心の謎まとめ暫定版

結局、「敷島の大和心」に類する宣長の言い回しは発見できず。 とりあえずのまとめ。

44才の時の自画像には

めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり」

とある。鈴屋集など自選集にもたびたび掲載されている。こちらには山桜も描かれてる。 この年、ものぐるおしいほど異様な桜に対する執着を歌った歌がたくさんある。この歌と同工異曲だとして補助線としてこの歌を利用することが許されれば、「珍しい外国の花よりも朝日に匂う日本古来の山桜を愛するのが洋才漢才でなく和魂というものだ」と解される。特に「やまと」を「こまもろこし」に対比させる意味に使っている可能性は宣長自身の用例からかなり高い。漢意に囚われず大和心をしっかり固めれば外国の花より桜の花の方がずっと良いのだ、ということ。つまり、自分の桜に対する異常なまでの愛着と国学への心構えを同時に述べたものと考えられなくもない。たまたま花が例に挙げられているが、さらに広く解釈すれば、珍しい舶来ものをありがたがらず、日本古来の独自のものを愛するのが大和心だよという、宣長らしい教えにたどり着く。

61才の時の自画像には

敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」とある。

還暦を迎えて功成り名を遂げて、弟子も増え、自分の学問も広く世の中に知られるようになり、ライフワークにも一区切りついて(とは言っても「古事記伝」はまだ脱稿してない)、後世に残すというつもりで書いたものだろう。自選集にはない。ここで、この歌には特に重要な意味があり、またその自画像と切り離せない意味があるために、自選集に載せなかったという解釈もできるが、どちらかと言えば、大して重要ではなかった、大してうまいできではなかったので、自選集に入れなかった、と考えた方が良いのではないか。およそ宣長の歌は読めばすぐに納得の行くわかりやすい歌がほとんどであり、何かをほのめかしたような、禅問答のような、意味不明な歌というものは一生懸命探しても滅多には見つからない。意味がすっと通らないという意味において、良い歌ではないと判断した可能性が高い。44才の自画像の歌の補足として考えると極めてわかりやすいのだが。なので、それ以上の意味はないのかもしれない。

大和心、大和魂などの用例は古くは大鏡、赤染衛門の歌などにある。源氏物語と今昔物語にも一例ずつある。学問として学んで得た漢籍仏典などの「机上の空論」に対して、日常生活から得られた実体験に基づく「生きた知恵」、機転や工夫、世の中で生きていく上での才覚、甲斐性みたいな意味に使われている。具体的には商才、実務を裁く能力、戦争を指導し遂行する能力、災難や危害から逃れる機転や深慮、家事をやりくりする能力、などのこと。「やまとうた」は古今集の時代にはすでに表向きの「朝廷における漢学の素養」に対する「日常生活の仲間や親子や男女の間でやりとりされる歌」という意味に使われていた。というかそもそも古今仮名序に初めて使われた用語で、漢詩に対してわざわざ断る意味で、「やまと」歌と呼んだわけだ。ここでもまた外国と日本の対比として使われているが、明らかに宣長の使い方とは違う。違うけれども、宣長という人は、過去の用例というものに極めて神経質で、最大限に配慮した人だから(つまり「語釈は緊要にあらず」として、古語を自分の都合の良いように解釈せず、用例を最優先した)、「外国と日本の対比」という意味合いだけは決して外してないものと考えて間違いないと思う。

近世では滝沢馬琴の椿説弓張月に「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂なれど多くは慮の浅きに似て、学ばざるの誤りなり」とある。発刊は宣長の死後10年くらい。歌舞伎となった。また桜に対する武士の愛好もまた歌舞伎の忠臣蔵による。これらのことから「桜のように命を軽んじる」という風潮は遠くは中世の仏教的厭世思想や、葉隠などの武家の思想や、水戸学や国学などが理論的背景にあるが、主に歌舞伎によって「国民精神」として定着し、宣長の歌もまたそれに飲み込まれていったものと思われる。宣長の正確で緻密な学術考証はいろんな「思想」に便利に利用されていったが、彼自身の「思想」はほとんど万人には理解されず受け入れられなかった、と言える。宣長にとって桜はあくまでも愛でるものであり

もののふの たけき心も 咲く花の 色にやはらぐ 春の木のもと

というようなものだった。大和魂を「清く直き心」などと言ったのは賀茂真淵であり、宣長の考え方とは異なる。宣長は桜に心があるなどとは一度も言ってない。また、宣長は桜が散るのが嫌いで一年中咲いていれば良いと考えていた。

願はくは 花のもとにて 千代も経む そのきさらぎの 盛りながらに

平田篤胤以降の国学は宣長の考えた「大和心」とは根本的に異質なものである。

やまとごころ

検索してみた。

赤染衛門

さもあらばあれ やまとごころし かしこくは 細乳(ほそち)につけて あらすばかりぞ

(外国渡来の)学がなくとも利口な人ならば、の意味。

からくにの もののしるしの くさぐさを やまとごころに ともしとやみむ

舶来の種々の物を、日本人の私の心は、うらやましいと思う、という意味。

はじめから やまとごころに せばくとも をはりまでやは かたくみゆべき

上の歌の次の歌なのだが、難しい。「心狭し」か。 はじめのうちは度量が小さいが終わりまでは続かないの意味か。

建保名所百首(順徳天皇が催した歌会)

もろひとも けふこそここに たつのいちや とりどりみゆる やまとごころを

たくさんの人が辰の市に立っている。さまざまに(学問ではない日常的な)工夫が凝らされている、の意味か。

赤染衛門の歌が三つ。後一つは誰かわからん。

大鏡

あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、このおとどの御末は御座せぬなり。さるは、大和魂などは、いみじく御座しましたる物を。

分別のある人だったのに、のような意味か。

かの国に御座しまししほど、刀伊国の物にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、筑紫には、かねて用意もなく、大弐殿、弓矢の本末も知り給はねば、いかがと思しけれど、大和心かしこく御座する人にて、筑後・肥前・肥後、九国の人をおこし給ふをばさることにて、府の内に仕うまつる人をさへおしこりて、戦はせ給ひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高く御座します故に、いみじかりしこと、平げ給へる殿ぞかし。

機転の利く人、のような意味か。

源氏物語

なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。

学問を基礎とした方が才能も発揮できる、という意味だろう。

ま、いずれにしても、民族精神というような意味合いはないな。 同様に宣長の用法とも違う気がする。

民族精神

新渡戸稲造は「武士道」の中で「武士」ではなく「平民」の「民族精神 (フォルクスガイスト)」として、本居宣長の歌

敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花

を紹介している。さらに西洋の薔薇と日本の桜を対比させて、薔薇は「複雑」「甘美の下に刺を隠せる」「生命に執着すること強靱」で、花が枝に残ったまましおれるので「あたかも死を嫌ひ恐るるが如く」であるのに対して、「我が桜花」は「その美の下に刃をも毒をも潜めず」「自然の召しのままにいつなりとも生を棄て」「色は華麗ならず」「その香は淡くして人を飽かしめない」とする。

少なくとも宣長にとって「自然の召しのままにいつなりとも生を棄て」るのが桜の美徳ではなかっただろう。この日本銀行券に肖像が乗るくらいの人がすでにこのような誤解をしていたということは、日本人共通の観念があって無意識に宣長の歌を誤読し、一人歩きしていったと解釈することもできよう。そこには平安歌人 (紀友則とか) や西行 (もとは中世仏教的な無常観) や歌舞伎の忠臣蔵 (花は桜木、人は武士、うんぬん)、滝沢馬琴(椿説弓張月)、 幕末の平田篤胤、吉田松陰らの複合的な影響があったのだろう。

願はくは花のもとにて

西行

願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃

宣長

願はくは花のもとにて千代も経むそのきさらぎの盛りながらに

特徴出てるなあ。西行の方がはるかに厭世的で破滅的。宣長はあくまでも現世肯定的だし、花の盛りが永遠に続けば良いというところなどは相当ファンタジー入ってる。

いまだにうだうだ考えているが「大和心」というものを掘り返したのは宣長で、「敷島の大和心」などという言い回しを使い始めたのも宣長で、しかも「敷島の大和心」という言い回しを宣長は他の歌には使ってない。従ってこのフレーズを宣長がずばりどういう意味で使ったかという確証がなかなか得られない。

外国との対比で使っている可能性は高く、また

めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり
さくらなきこまもろこしの国人は春とて何に心やるらむ

これらの歌から推測すれば、「敷島のやまとごころを人とはば朝日に匂ふ山桜花」は「桜を好むのが日本人の性格なのだ」などという解釈も成り立つわな。

敷島のやまとごころ、の謎

岩波古語辞典を見ると、「やまとだましひ」「やまとごころ」の意味として 「(漢詩文の能力に対する)実務処理能力」のことと書いてある。敢えて意訳するとそうなるわけだが、今で言えば、いわば、学校で習う語学や数学などの学問としての知的能力に対して、学校では教わらないが、世の中をわたっていくうえで必要な、人が人としてそなわっているべき基礎的能力のことを言うわけだ。学習で獲得するリテラシー能力に対して、リテラシー以前の能力と言うべきか。「腹芸」とか「胆力」とか「人の器」とか「対人交渉力」とか「地頭(じあたま)」などと言うようなものに近い。それを具体的に「実務処理能力」と言えばそうなる。儒教で「仁」とか「徳」というのがそれだろう。それがかつては舶来のもの(漢才)と日本古来のもの(倭心)という対比でとらえられていたところがややこしいが、近代でも和魂洋才などと言ったわけでそれと同じとも言える。宣長の

敷島の やまとごころを 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花

だが、宣長は近世において大和心を上記の意味で正確に理解した(というより発見した)最初の人だが、
この歌はそういう意味ではかなり謎だ。誤解に満ちている。なにしろ幕末の時代にすでに宣長のイメージはかなりゆがんでしまっている。

敷島の やまとごころを 人とはば 蒙古の使ひ 斬りし時宗

という替え歌まで出来ているくらいだから。戦後はなおさら戦時中のフィルターを通してしか宣長は見えない。そのフィルターを通すと、上の歌は「日本精神」とは「桜花」だとしか解釈できないが、そういう解釈は、宣長を知れば知るほど不可解だ。

ある人は、宣長は里桜よりも山桜が好きで、野性的で潔く清楚な桜が好きで、それが大和心に通じるのだと、解釈したがるだろうが、そういう人はイメージで、ステレオタイプで、自分を投影して宣長を解釈しているだけで、宣長って人は全然そんな人ではない。山桜の特徴は、山野に自生している野生種だということ。花の色はほとんど白く、花と芽が同時に出る。しかしそういう山桜の特徴が特に好きだと宣長が言っている歌はない。たぶん一つもないと思う。逆に葉桜が嫌いだとか花が散った後の葉だけになった桜が嫌いだとか、葉桜を見ると花の時期が待たれるとか、花が散って葉ばかりになるのが憎らしいとか、そんな歌ならいくらでもある。

散るべきときに清く散り御国に薫れ桜花

と歌う『戦陣訓』という軍歌があるが、宣長は散るべきときに清く散れなどとは一言も言ってない。まして特攻機に「桜花」などという名前をつけようという発想も絶対ない。

桜は咲いてすぐ散るので、武士道のように未練がなくて良いなどというのも、少なくとも宣長の趣味ではない。宣長は、一年中咲いている桜があれば常世の国にでも行って種を取ってきたい、などと言っている。

花咲きて 散らぬさくらの 種しあらば とこよの国も 行きてもとめむ

たづね見む 死なぬくすりの ありと聞く 島には散らぬ 花もあるやと

つまり、宣長にとって桜は咲いていることが一番重要であり、それが日本の山野に自生している必要など全くなく、外国産の種を栽培して育ててもよいとすら言っている。潔く散るすがたもあっぱれだなどと言ったことは無い。たぶん一度もない。

宣長は、桜は、日本にしか咲かないと思っている。それはある意味真実で、日本以外の野生種は日本の桜とはかなり異なっているし、さほど多くも見られず、さらに山桜と言っているものもおそらくは栽培によって人為的に繁殖しまた改良したものであり、さらには日本固有の野生種から派生した数多くの里桜があり、このような現象は決して日本以外ではあり得なかったのであり、また桜に対する熱狂も日本にしかない。宣長が桜を好むというのもおそらくはその辺りにあるのかと思う。宣長はつまり江戸時代の桜好みの日本人のやや人なみ外れた典型であり、宣長がいようがいまいが江戸時代までにすでに日本人は桜が大好きで、それは日本人が和歌などの公家文化を好んだこととだいたい同じようなことだっただろうと思う。

「敷島のやまとごころ」と言っているところがやはりヒントであり、これはつまり「やまとうたを詠む心」と解釈すべきで、宣長は桜とともに和歌が大好きで、従って敢えて意訳すれば「敷島の道の心を人に問われたら、私にとってそれはたとえば、朝日に匂う山桜花を詠むことだ、と答える」と解釈すべきではなかろうか。いや、すなおに解釈すればこうとしかとりようがない。これが自画像に対して自ら冠したタイトルだと考えれば、「「敷島のやまとごころ」を問われれば「朝日に匂ふ山桜花」だねと答える私」と解釈すべきで、するともっと具体的に「歌と桜を愛する私」と超訳してもよい。これこそまさに宣長という人を一言で言い表した言葉だと言える。宣長が大好きで、人にも繰り返し勧めた「桜の花」と「大和心」と「敷島の道」がこの歌には同時にこめられていると考えたい。あるいは、歌から離れたとしても、「日本人固有の心とは、桜をめでることだ」とでもなろうか。

そもそも、「大和心」が「桜花」だというような禅問答的な返答を宣長がするわけがない。宣長にとって「大和心」は儒学や仏教などと離れた日本固有のものの考え方とらえ方処し方のこと、「桜花」とは宣長にとってはこよなくいとしいもの、めでるものであり、ときとしては「心なく散る」ものであり、自分の意思ではどうにもできないものである。「桜花」に人間同様の「心」があるなどという思想が宣長から(或いは伝統的公家文化から、といっても良い)出てくるとはちと考えにくい。「心あらば」「心あれや」などとは言うかもしれんが。さらに「敷島の大和心」を「和歌を嗜む心」ととれば、もはや上記の解釈以外にはありえない。思うに「敷島」を単なる枕詞として使っていた古代はともかくとして、南北朝以後、江戸時代ともなると歌に詠み込まれた「敷島」はずばり「敷島の道」「歌道」を指していると言って良いと思う。そういう用例がほとんどだ。

そして傍証として、宣長には、圧倒的な数の桜の詠歌がある。あわせて「うひやまぶみ」を見よ。きっとそう確信できる。また、この歌は、宣長の自画像に付けた歌、しかも自画像にしか書かれなかった歌である。だから、「私という人間は」「あなたがどう思うか知らないが、私は・・・」という言外の意味があると思う。私はそういう趣味の人間なのですよ、と少しはにかみながら告白している歌なんだよ。ちょうど漫画に吹き出しを付けるようにね。

小林秀雄も宣長の自画像は自分を聖人化するための宗教画のような意味で描いたものでは決してないと言っている (後世の国学者や神道家ならともかく)。逆に、自分とはこういう人間なんですよと告白している気持ちで書いたものだと思う。宣長という人は、いろんな人が自分の思想を補強するのに使いたがる、そのため勝手に拡大解釈され、結局意味を欠落させた普遍化された聖人としての像だけが利用されるが、その実体は純朴で等身大の学者なのだ。