草枕5

渡部昇一『漱石あれこれ』で

高校生ぐらいで漱石の『草枕』や『吾輩は猫である』が面白いというのは天才か、早熟か、ハッタリに違いないと思ってしまうのである。

(若い頃は)みんながよく読んでいるらしい漱石は通読できない。これは読者の側である私の方が少しおかしかったのか、それとも漱石がそれほど難しかったのだろうか。それは後者であったのだと私は断言する。というのは、それから二、三年して私は漱石を読まない日はないほど熱中しはじめるからだ。

とあるのだけど、この渡部昇一という人は、確かに面白いことを書く人だけど、ときどき変なことも言う人だ。少なくとも漱石のどこが(自分にとって)難しくどこが面白いのか説明してもらわないと、他人には余計にわからないではないか。

たぶん渡部昇一は適当に斜め読みすることができない人なのだろう。夏目漱石という文豪に向かい合うとその書いたものをすべて読み解かなくては読んだ気になれず、書かれたものにはすべて何か意味が、寓意が込められていると考えてしまい、自分の中にもう一人の漱石を造り上げてその像を自分なりに補い完成させなくては気が済まない人なのではなかろうか。

『草枕』『吾輩は猫である』は、渡部氏が書いているように、漱石が気分転換に数日か一週間、或いは十日程度で一気に書いた、つまり思いついたことを書き殴ったものにすぎまい。それは確かに漱石の俳句に似たものであった。『猫』は『猫』で猫が出てくる小説と思って読めば良いのであり、『草枕』は温泉旅館のちょっと風変わりな美人女将が出てくる小説と思って読めば良いのであり、まずはその表面をざっと眺めてみて、それで面白ければ精読したければすればよかろう。

江藤淳も夏目漱石について随分書いているが、

「草枕」という、この奇妙な小説の中で最も人口に膾炙されているのは、恐らく冒頭の、「
に働けば
かど
が立つ。
じょう

さお
させば流される。意地を
とお
せば窮屈
きゅうくつ
だ。とかくに人の世は住みにくい。」という一節であろう。(中略)『猫』のそれと同様に数多い『草枕』の読者は、作者の「非日常」芸術論などを素通りして、この名文句だけを心にとどめるのだ。作者が、これに続けて、「住みにくさが
こう
じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと
さと
った時、詩が生れて、
が出来る。」といおうがいうまいが、そのようなことはさしたる問題ではない。このような名文句によって最もよく記憶されているということは、非常に重大であって、要するに尋常な『猫』の読者はこの作品をそのような読み方で読んだのである。

などと言っている。実際『猫』の読者は冒頭の「吾輩は猫である。名前はまだない」まで読んでそれで満足しきって、ろくに本文など読んではいるまいと思う。渡部昇一はこの冒頭の文句と同じテンションで最後まで読み切らねばならぬと思うから途中で疲れて通読できなかった。そして多少年を取ったあとで無理矢理通読できるようになったということだろう。

漱石はちょうど発句あるいは漢詩を作る気分でああいう出だしで書き始めた。読者受けを狙ってあの冒頭の文句を書いたのではあるまい。漱石にはそうした書き出し方しかできなかった。しかし小説を全文、俳句や漢詩と同じ調子で最初から最後まで書き通すことはできないし(しかしゲーテがファウストを全部韻文で書き直したように、絶対できないともいえないかもしれないがそれには数十年の歳月を要する)、読者も読むことはできない。だからなにやら冒頭だけ名調子のようになった。

漱石は新聞に発表してみて初めて自分の文章のどこが読者に受けるか気付いたのに違いない。そうするとますます漱石は読者に受けるために(つまり原稿料や印税を稼ぐために)、読者が好むような要素を自分の作品に盛り込まざるを得なくなったに違いない。

 彼は髪剃かみそりふるうに当って、ごうも文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。あげの所ではぞきりと動脈が鳴った。あごのあたりに利刃りじんがひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱しもばしらを踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。
 最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙なにおいがする。時々は瓦斯ガスを余が鼻柱へ吹き掛ける。これではいつ何時なんどき、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。得心ずくで任せた顔だから、少しの怪我けがなら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って咽喉笛のどぶえでもき切られては事だ。

こうした口調はまさに『猫』の口調そのものだ。熊本の田舎にわざわざ東京神田から都落ちしてきた髪結床職人にこうした江戸弁で語らせている。一種の即興演奏に近い。一気に書いたものに違いないのである。おそらく実体験をそのまま写したのだろう。漱石はまだ江戸の雰囲気が残る東京でふだん自分が面白いと感じたものをそのまま作品に取り入れていた。こういうものをただああ面白いと思って読めば良いだけの作品に思える。このくだり、志賀直哉の短編『剃刀』に良く似ているのだが、志賀直哉が『草枕』のこの箇所を意識して『剃刀』を書いたのはほぼ間違いないように思える。『剃刀』には床屋が「癇の強い男で、撫でて見て少しでもざらつけば毛を一本一本押出すやうにして剃らねば気が済まなかった」とあり、『草枕』には「
わっち
癇性
かんしょう
でね、どうも、こうやって、逆剃
さかずり
をかけて、一本一本
ひげ
の穴を掘らなくっちゃ、気が済まねえんだから、――なあに今時
いまどき
の職人なあ、
るんじゃねえ、
でるんだ。」とある。似すぎている。絶対にこれはオマージュだ。癇癪持ちの床屋にヒゲを剃ってもらうのは確かに恐ろしい。

狂印きじるしと云う女は聞いた事がない」
「通じねえ、味噌擂みそすりだ。行くのか、行かねえのか」
狂印きじるしは来んが、志保田の娘さんなら来る」
「いくら、和尚さんの御祈祷ごきとうでもあればかりゃ、なおるめえ。全くせんの旦那がたたってるんだ」
「あの娘さんはえらい女だ。老師がようめておられる」
「石段をあがると、何でも逆様さかさまだからかなわねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂きちげえ気狂きちげえだろう。――さあれたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いやもう少し遊んで行ってめられよう」
「勝手にしろ、口のらねえ餓鬼がきだ」
とつこの乾屎橛」
「何だと?」
 青い頭はすでに暖簾のれんをくぐって、春風しゅんぷうに吹かれている。

の「咄この乾屎橛(乾いた糞の棒)」というのは当時の禅宗の坊さんが言っていた悪口なのだろうが、漱石の面白いのはおよそこうしたところにあるんだと思う。

草枕4

成り行き上、仕方なく『草枕』を通して読むことにした。予想とは少し違ってけっこう面白かった。この小説が一部の人(主に一般大衆)には受けがよく、また一部の人(主に評論家など)にはわからない、難しい、よみにくいと言われる理由もだいたいわかった。面白いというのはこの小説が案外通俗的だからだ。第五章の床屋と主人公の掛け合いなどはまるで漫才だ(『坊っちゃん』や『我が輩は猫である』に通じるところがある)。『草枕』が難しくてよくわからんという人はたぶんだらだら長くて蘊蓄ばかりで読む気にならないのだろう。それなら第五章だけをまず読んでみるとよい。

温泉旅館の出戻りの女将というのは、地元の人々には狂女のように言われているが、実際はまったく正常な精神の持ち主であって、自分の生きたいように生きようとしているだけの女のように思える。元の夫は銀行家だったが破産したので、元妻に金をもらって満州に行ってなんとか再起しようとしている。日露戦争の頃にはそういう人が多くいたのだろう。夫が破産したから離婚して実家に帰ってきた女というのは不義理な、不人情な、気が狂った女だと当時の人には見えたのだ。ストーリーとしてはただそれだけのことで、そこに芸術論のごときものがやたらと盛られているに過ぎない。

没落した夫を捨てた女は「不人情」なのだが、俗世間のごたごたを離れて絵を描いたり詩を作ったりする主人公は「非人情」だという、対比の構図になっているのも、普通に読んでみればわかるんで、ただそれだけのことだ。

日露戦争のころ、30歳の洋画家である主人公が、山中の温泉宿に宿泊する。やがて宿の「若い奥様」の那美と知り合う。出戻りの彼女は、彼に「茫然たる事多時」と思わせる反面、「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」でもあった。そんな「非人情」な那美から、主人公は自分の画を描いてほしいと頼まれる。しかし、彼は彼女には「足りないところがある」と描かなかった。

などとウィキペディアに書いてあるが、主人公の画工(えかき)が非人情であり、若奥様の那美は不人情なのである。これを書いた人は明らかに『草枕』を読み間違えている。

漱石の妻、鏡子はこの温泉場に行ったことはないが、那美のモデルとなった女から直接話を聞く機会があってそれを『漱石の思ひ出』に書いている(「前田(案山子)さんのお宅の姉さん」の名で出てくる。前田卓(つな)という人でウィキペディアにも項目が載る。この前田卓という人はごく普通の女性に過ぎない)。

漱石本人が書いた書簡や『余が草枕』も読んでみた。漱石は「坑夫」も小説になってない、と言っているけれども、「草枕」も「こんな小説は天地開闢以来類のないものです(天地開闢以来の傑作と誤解してはいけない)」「野間先生が草枕を評して、明治文壇の最大傑作だというて来ました。最大傑作は恐れ入ります。寧ろ最珍作と申す方が適当と思います。実際珍という事に於いては珍だろうと思います。」「この種の小説は、従来存在していなかったようである。」などと言っている。

それというのは、那美という主要人物は結局何もせず、それゆえストーリーも展開しない、それを主人公の画工があちこちから観察しているだけなので、今までこういう小説はなかったはずだ、などと言うのである。普通の小説というものは、主人公が動きまわってそれで話が展開していくものだ、そう言うのだ。一人称の主人公と別に主要人物がいて、主人公は主要人物の観察役に徹している。しかも主要人物は結局何もしないのでストーリー展開もない。漱石はそう言いたいのである。

一人称視点で見て語っていく小説があって、しかし実際の主役は主人公とは別の、主人公が観察した三人称の人物である、という小説は確かにあまり無いかもしれないが、私が書いた「エウメネス」はまさにそういう仕立てになっている。一人称のエウメネスが三人称のアレクサンドロスを観察する。実際の主人公はエウメネスではなく、エウメネスは読者がアレクサンドロスを観察するための視点役になっているにすぎない。真の主人公はアレクサンドロスなのである(少なくとも当初はそんなふうに書いていたのだが、いつのまにかエウメネスが本物の主人公のようになっていった)。私はこの書き方を Half-Life: 2 から思いついた。主人公の Gordon Freeman は一人称なのだが、Alex Vance という味方の NPC が一緒に行動する。Gordon は自ら行動もし、同時に Alex を観察する視点にもなっている。Alex を主人公にして、First Person である Gordon が読者の目や耳の代わりに徹するようにして、実際の活躍はすべて Third Person の Alex がやるようにすればそれは「エウメネス」になる。なんでそういうややこしいことをするかといえば単なる三人称よりは一人称のほうが没入感が高いと思うからだ。

そんな具合に確かに「草枕」は普通の小説とは異なる視点というか、一種独特な人称で書かれている。それが読者にとってつまらなくともよい。「草枕」はただ美しい感じがすればそれで良い、「ただ、読者の頭に美しい感じが残りさえすれば、それで満足なのである。もし「草枕」がこの美しい感じを、全く読者に与えないとすれば、即ち失敗の作、多少なりとも与えられるとすれば、即ち多少の成功をしたのである。」などとも書いている。私はしかし別に「草枕」を読んで、案外面白いなとは思ったが、特別美しいなとは思わなかった。漱石がなんか世の中の評論家かキュレーターみたいな、中二病的な、文学少年か文学少女みたいなことを臆面もなく、本気で語っているなとしか思えなかった。こういうことを言う人は世の中にはいくらでもいる。全然珍しくない。ごく普通の一般人でもこういう蘊蓄を語りたがる人、知識をひけらかしたがる人はいくらでもいる。漱石もまた全然特別な存在ではなく一般人と同じじゃん、としか思えなかった。

漱石の漢詩は同時代の漢詩人たちから異端視、白眼視されていた、ということを書いている人は多いのだが、では具体的に誰がそういう批判をしていたのかという記述がどこにもない。漱石贔屓な人たちの被害妄想のようなものなのではないか。漱石も決して下手ではないのだが、漱石程度、或いはそれ以上の漢詩を作る人は当時はいくらでもいたから、たとえば伊藤博文や乃木希典なんかも漢詩はうまかったし、正岡子規の漢詩も相当なものだったから、漱石の影がかすんでもまったくおかしくない。また頼山陽のファン(詩吟好きとか)から見ると漱石の山陽批判は苦々しかったと思う。

一般大衆に「草枕」の人気が高いというのは、まず一つは、冒頭の「山路やまみちを登りながら、こう考えた。 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。」という出だしが面白くて、それで満足してそれ以上読まない人が多いのだろうと思う。「トンネルを抜けると雪国だった」「メロスは激怒した」と同じで、たいていのひとにとっては最初だけ読んで残りも全部わかったつもりになればそれで十分なのである。江藤淳も似たようなことを言っている。

また一つは、温泉場の女将が気が狂っていて、間違えて風呂場に裸で入ってきて「ホホホホホ」と笑う、などという展開がエロチックで良いのだろう。

頸筋くびすじかろく内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指とわかれるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、またなめらかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張るいきおいうしろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前にかたむく。ぎゃくに受くる膝頭ひざがしらのこのたびは、立て直して、長きうねりのかかとにつく頃、ひらたき足が、すべての葛藤かっとうを、二枚のあしのうらに安々と始末する。世の中にこれほど錯雑さくざつした配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほどやわらかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
 しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛れいふんのなかに髣髴ほうふつとして、十分じゅうぶんの美を奥床おくゆかしくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗へんりん溌墨淋漓はつぼくりんりあいだに点じて、虬竜のかいを、楮毫ちょごうのほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥邈なる調子とをそなえている。六々三十六りんを丁寧に描きたるりゅうの、滑稽こっけいに落つるが事実ならば、赤裸々せきららの肉を浄洒々じょうしゃしゃに眺めぬうちに神往の余韻よいんはある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、かつらみやこを逃れた月界げっかい嫦娥じょうがが、彩虹にじ追手おってに取り囲まれて、しばらく躊躇ちゅうちょする姿とながめた。
 輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥じょうがが、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那せつなに、緑の髪は、波を切る霊亀れいきの尾のごとくに風を起して、ぼうなびいた。渦捲うずまく煙りをつんざいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第にむこう遠退とおのく。余はがぶりと湯をんだままふねの中に突立つったつ。驚いた波が、胸へあたる。ふちを越す湯泉の音がさあさあと鳴る。

こういうあたり。漱石の小説はあんまりない描写だ。官能小説作家なら参考にするに違いない。

また、俳句好きな人ならば漱石の俳句がたくさんちりばめられているから面白いかもしれない。

西洋美術や西洋文学の蘊蓄が好きな人にも衒学的な良さがあるかもしれない。骨董趣味のある人にも面白みがあるに違いない。

日本の近代化や西洋文明を批判しているようにみえるのも一部の人には愉快かもしれない。

「草枕」が最初に私の興味を引いたのは、それらとはまったく違う。漱石があからさまに頼山陽をけなし、荻生徂徠を持ち上げているのが異様だったからだ(※追記。これは吉川幸次郎「漱石詩注」序で指摘されている)。私は頼山陽の漢詩は好きなので、なぜ漱石が山陽を嫌うのか、それをまず知りたいと思った。しかしそういう動機で「草枕」を読もうという人はいまだに見かけたことがない。さらに漱石が自分の詩を小説の中に埋め込んでいるのを見て余計に興味が出た。

漱石はよくわからん人だ。なぜか大衆受けする。彼は表向きは高踏的、高等遊民的なふりをしているが、それと真逆なことを平然とする人だ。通俗小説は嫌だと言い、小説らしからぬ小説とやらを書きながら、しかもその中に大衆に迎合するあざとさがどこかにあるのだ。男女の三角関係を描いた「こころ」にさえ、どこか媚びがある。わかりにくそうで実は非常にわかりやすい、受けやすい要素があるのに違いない。そういう相矛盾した、一種の嘘というか、虚勢というか、本音と建て前というか、好きな人に見え透いた嘘をつかれてあえてだまされみたいということをみな好み、それゆえ漱石という大文豪にそれを無意識のうちに期待しているのではないか。流行作家の小説を読むとか遊園地や映画館にわざわざ行ったりする人はみなそうだ。さあうまく私をだまして喜ばせてくださいと、自らだまされたがっている人ほど虚構を楽しめるはずなのだ。落語だってそうだ。笑わせられるものなら笑わせてみろとけんか腰で、ハスに構えた人は落語を楽しめない。娯楽に飢えている人、笑って気分を晴らしたい人ほど楽しめるのではないか。人を楽しませ喜ばせられる文章を自然に書ける人は少ない。ましてそんな仕掛けを思いつく人はいない(英文学からヒントは得たかもしれないが)。多くの場合編集者などがアドバイスして読者に受けるようなものを書かせるんだが、漱石の場合はなぜか書いたものが、著者の意図思惑とは直接関係なく、そのまま読者受けするのだろう。結局そういう人が文豪と呼ばれる。漱石は新聞連載小説を嫌い、詩など作りながらも、彼ほどそうした商業媒体にぴったり適応した人はいないのだろうと思う。どんな言い訳をしようと、本人にも自覚はあったはずだ。

著者がなかなか自分の思い通りのものを書いてくれないとき、読者は著者と決別し、作品を自分の側に取り込んで、二次創作という形でその思いを果たす。或いはシリーズものという形で、読者全体の総意というか嗜好を実現するために、原作者の個性からどんどん離れて、共同作業で自分たちにとって理想的な世界観を構築していく。著者と読者は普通は対立している。しかしながら漱石は自分の中に矛盾を抱え込むことによって読者を喜ばせる方法を会得しているのではないか。

草枕3

草枕草枕2の続き。

「草枕」だが漱石が自分で作った詩がまだあった。

青春二三月 青春二三月
愁隋芳草長 愁ひは芳草に隋ひて長し
閑花落空庭 閑花は空庭に落ち
素琴横虚堂 素琴は虚堂に横たふ
蠨蛸挂不動 蠨蛸(あしたかぐも)、挂(かか)りて動かず
篆烟繞竹梁 篆烟(篆書のようにくねくねと立ち上る煙)、竹梁を繞(めぐ)る
獨坐無隻語 獨坐し隻語無し
方寸認微光 方寸、微光を認む
人間徒多事 人間、徒(いたづ)らに事多し
此境孰可忘 此境、孰れか忘るべけむ
曾得一日靜 曾て一日の靜を得て
正知百年忙 正に百年の忙を知る
遐懐寄何處 遐懐(遠く眺める)、何處にか寄せむ
緬邈白雲鄕 緬邈(はるかかなたに)、白雲の鄕

墨場必携:漢詩 春日靜坐 夏目漱石

きたね白雲きたね。

これも押韻はしているが平仄はけっこう適当(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.73に五言古詩として載る)。

たぶんこの出来だと平仄警察がわらわらわいてきて漱石は相当、詩人としてのプライドを傷つけられたと思うなあ。

夏目漱石が「草枕」を書いたのは明治39年、処女作「我が輩は猫である」は明治38年。しかしこれらの詩は明治31年、漱石が31才の時に作ったという。つまり「草枕」に出てくる画家と同じ年に作ったものだということになる。正岡子規が死ぬのは明治35年なので当時子規はまだ生きていた。

ウィキペディアによれば(書簡を見ればわかるというがそこまで調べるのはめんどくさい。よっぽどヒマがあったら調べてみるか)、熊本で英語教師をしていた漱石は、明治30年の大晦日、つまり明治31年の正月に、友人であった山川信次郎とともに熊本の小天温泉に出かけ、そのときの体験をもとに『草枕』を執筆したとある。漱石の誕生日は2月9日なので、明治31年正月の時点で彼はちょうど30才だった。まさに当時「三十我欲老」という心境だったのだ。やはり漱石は売れっ子作家になる以前の自分に回帰しようとして、自分自身をモデルとして、『草枕』を書いたのであろう。

漱石は「正岡子規」と題する談話で、「大将(子規)の漢文たるや甚だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いたようなものであった。けれども詩になると彼は僕よりもたくさん作っており、平仄もたくさん知っておる。僕のは整わんが、彼のは整っておる。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼のほうがうまかった。」などと評している。つまり若い頃漱石はあまり平仄の整わない漢詩を作っていた、それに対して子規の漢詩はきちんと整っていたのだった。だいたいつじつまが合う。

漱石が本気で(まじめに)漢詩を作り始めたのは、明治43年、修善寺で喀血した後のことだろう。『こころ』なんかを書いたのはさらにあと、大正3年頃。

岸には大きな柳がある。下に小さな舟を
つな
いで、一人の男がしきりに垂綸
いと
を見詰めている。一行の舟が、ゆるく波足
なみあし
を引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた両人
ふたり
の間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の
ふな
宿
やど
る余地がない。一行の舟は静かに太公望
たいこうぼう
の前を通り越す。(中略)
かえ
り見ると、安心して浮標
うき
を見詰めている。おおかた日露戦争
にちろせんそう
が済むまで見詰める気だろう。

といった具合に日露戦争中であるような記述がある。日露戦争は明治37年から38年にかけてだから、その正月あたりの状況を写したものだろう。つまりちょうど203高地が陥ちた頃だ。久一さんとは徴兵で取られていく人のように思われる。「草枕」の発表は明治39年だから、執筆中、その頃の記憶も新しかったはずだ。つまり「草枕」は7年ほど前の30才の時の自分を日露戦争当時の世相に埋め込んで作られた話だということになる。

「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つがるくなりゃ、切ってしまえば済むから」
 この田舎者いなかものは胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風のにおいも知らぬ。現代文明のへいをも見認みとめぬ。革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。余は写生帖を出して、二人の姿をき取った。

これは主人公の画家がスケッチした町中の人だが、胃病なのは漱石のほうだ。漱石はやはりこのころすでに胃潰瘍で苦しんでいた。

漱石の妻、鏡子が書いた『漱石の思ひ出』の中に

俳句には随分と熱心で、松山時代から熊本に居る間の五年間ばかりが、一番俳句の出来た時で、生涯の句の殆んど三分の二はこの五年間に出来たもののやうです。それには中央を離れて熊本のやうな田舎に居りまして、自然文学の話などする友達もなかつたので、ただ子規さんあたりに動かされて、一生懸命で句作したといふことがあづかつて力がございませう。後には漢詩も作りましたが、とても俳句程の熱心は見られませんでした。

などとあるが、漱石の日記などみるに、確かに俳句は数は多いが、思いつくまま詠みちらかしているといったふうで、中には面白い、よく出来たものもあるようだが、どちらかと言えば単なる気晴らし、気分転換、多くはちょっとしたメモかなにかのようなものだったと思う。真剣に身構えて詠んだものではあるまい。『草枕』にも

何でも
でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、
かわや

のぼ
った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直
あんちょく
に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の
さと
りであるから軽便だと云って侮蔑
ぶべつ
する必要はない。軽便であればあるほど功徳
くどく
になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人
ひとり
が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや
いな
やうれしくなる。涙を十七字に
まと
めた時には、苦しみの涙は自分から遊離
ゆうり
して、おれは泣く事の出来る男だと云う
うれ
しさだけの自分になる。

などとある。要するに俳句は詩の中では最も簡便なわけだ。

「後には漢詩も作りましたが」というのはほんとうに晩年の『こころ』なんかを書いてた頃のことを言っているのだと思う。鏡子さんが自分で書いているように漱石は子供の頃から漢詩に志があって、若い頃からけっこう作っていたはずで、日本人が漢詩を一つ作るというのは俳句を百詠むより難しいし、随分心構えが必要で、てまひまがかかるものであるから、そんなに量産できるはずがない。鏡子はその数だけを言っているように思える。

※追記。吉川幸次郎「漱石詩注」序に、「漢詩は夏目氏の文学において、相当の比重を占める。おそらくは俳句よりも、より多くの比重を占める。少なくともその自覚においては、そうである。」とある。

草枕2

先日、漱石は

自分の詩を自分の小説の中に入れて抱き合わせにして人に見せたりすることもできたろう

などと書いたのだが、気になって『草枕』を読んでみると、実は漱石は自分の漢詩を『草枕』に埋め込んでいたのだった。

出門多所思 門を出でて思ふ所多し
春風吹吾 春風、吾が衣を吹く
芳草生車轍 芳草、車轍に生え
廃道入霞 廃道、霞に入りて微かなり
停筇而矚目 筇(杖)を停めて目を矚(そそ)げば
万象帯晴 万象、晴暉(明るい青空)を帯ぶ
聴黄鳥宛転 黄鳥の宛転たる(ウグイスのなめらかな声)を聴き
観落英紛 落英の紛霏たる(花が散り乱れる)を観る
行尽平蕪遠 行き尽くして平蕪遠く
題詩古寺 古寺の扉に詩に題す
孤愁高雲際 孤愁、雲際に高く
大空断鴻 大空、断鴻帰る
寸心何窈窕 寸心、何ぞ窈窕たる (自然の景観に対して自分を卑下する意味か)
縹緲忘是 縹緲(広く果てしない)にして是非を忘る
三十我欲老 三十にして我、老いむと欲す
韶光猶依 韶光、猶ほ依依たり(うららかな春の日差しがなごりおしい)
逍遥随物化 逍遥して物化に随(したが)ひ
悠然対芬 悠然として芬菲(草花の香り)に対す

春興

ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を
て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と
うな
りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払
せきばらい
が聞えた。こいつは驚いた。

この無邪気な自画自賛ならぬ自詩自賛は微笑ましくすらある。

漱石は売れっ子作家になって、そろそろ自分の「地」を出してもよかろうかと思い、詩を披露した。しかるにおそらく、その評判は決して良くはなかっただろう。世間が漱石に求める「文学的役割」から離れすぎていて、反発をくらったと思う。なんだその、盆栽をいじり詩吟をうなる年寄りのような趣味はと言われたに違いない。詩のできもあまり良いとはいえない。

「聴 + 黄鳥 + 宛転」「観 + 落英 + 紛」などは変則的だし、「停筇 + 而 + 矚目」のように「而」を長さ合わせに使うのはあまりかっこよくない。押韻はしているが平仄はけっこういい加減。たとえば「三十我欲老」は平仄仄仄仄だし、「韶光猶依依」は平平平平平。実際若い頃(三十才くらい?)の作なのかもしれない。こうなってくると本職の漢詩人からはヤイヤイ言われて漱石はけっこうへこんだかもしれない(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.66に五言古詩として載る。つまり平仄は守らなくてよく、2 + 3 のリズムも守らなくてよい、ということか。18行というのも変則的。一韻到底は守っている)。

私も『安藤レイ』や『紫峰軒』に自分が作った漢詩をしれっと入れたりしたので、漱石の気持ちはよくわかる、つもりなのである。まあ私は売れっ子作家ですらないが。

古寺の扉に詩を書き付けるというのは、そんなヤンキーみたいなことして良いのかなと思ってしまうが、題壁(壁に題す)というのはよくやられることのようだ。もしかすると「題詩古寺壁」としたかったのかもしれないが、それでは韻が踏めぬから「題詩古寺扉」としたのかもしれない。

老人が紫檀したんの書架から、うやうやしく取りおろした紋緞子もんどんすの古い袋は、何だか重そうなものである。
「和尚さん、あなたには、御目にけた事があったかな」
「なんじゃ、一体」
すずりよ」
「へえ、どんな硯かい」
山陽の愛蔵したと云う……」
「いいえ、そりゃまだ見ん」
春水の替えぶたがついて……」
「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
 老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色あずきいろの四角な石が、ちらりとかどを見せる。
「いい色合いろあいじゃのう。端渓たんけいかい」
「端渓で鸜鵒(くよく)眼がここのつある」
「九つ?」と和尚おおいに感じた様子である。
「これが春水の替え蓋」と老人は綸子りんずで張った薄い蓋を見せる。上に春水の字で七言絶句しちごんぜっくが書いてある。
「なるほど。春水はようかく。ようかくが、しょ杏坪の方が上手じょうずじゃて」
「やはり杏坪の方がいいかな」
山陽が一番まずいようだ。どうも才子肌俗気があって、いっこう面白うない」
「ハハハハ。和尚おしょうさんは、山陽きらいだから、今日は山陽ふくを懸けえて置いた」
「ほんに」と和尚さんはうしろを振り向く。とこ平床ひらどこを鏡のようにふき込んで、錆気を吹いた古銅瓶こどうへいには、木蘭もくらんを二尺の高さに、けてある。じくは底光りのある古錦襴こきんらんに、装幀そうてい工夫くふうめた物徂徠大幅たいふくである。絹地ではないが、多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく、紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える。あの錦襴も織りたては、あれほどのゆかしさも無かったろうに、彩色さいしきせて、金糸きんしが沈んで、華麗なところが滅り込んで、渋いところがせり出して、あんないい調子になったのだと思う。焦茶こげちゃ砂壁すなかべに、白い象牙ぞうげじく際立きわだって、両方に突張っている、手前に例の木蘭がふわりと浮き出されているほかは、とこ全体のおもむきは落ちつき過ぎてむしろ陰気である。
徂徠かな」と和尚おしょうが、首を向けたまま云う。
徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠の方がはるかにいい。享保頃の学者の字はまずくても、どこぞに品がある
広沢をして日本の能書のうしょならしめば、われはすなわち漢人のせつなるものと云うたのは、徂徠だったかな、和尚さん」
「わしは知らん。そう威張いばるほどの字でもないて、ワハハハハ」
「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしか。禅坊主ぜんぼうずは本も読まず、手習てならいもせんから、のう」
「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若い時に高泉こうせんの字を、少し稽古けいこした事がある。それぎりじゃ。それでも人に頼まれればいつでも、書きます。ワハハハハ。時にその端渓たんけいを一つ御見せ」と和尚が催促する。
 とうとう緞子どんすの袋を取りける。一座の視線はことごとくすずりの上に落ちる。厚さはほとんど二寸に近いから、通例のものの倍はあろう。四寸に六寸の幅も長さもまずなみと云ってよろしい。ふたには、うろこのかたにみがきをかけた松の皮をそのまま用いて、上には朱漆しゅうるしで、わからぬ書体が二字ばかり書いてある。
「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
 老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる因縁いんねんがあろうと、画工として余はあまり感服は出来んから、
「松の蓋は少し俗ですな」
と云った。老人はまあと云わぬばかりに手をげて、
「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。山陽が広島におった時に庭に生えていた松の皮をいで山陽が手ずから製したのですよ」
 なるほど山陽俗な男だと思ったから、
「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこのうろこのかたなどをぴかぴかぎ出さなくっても、よさそうに思われますが」と遠慮のないところを云って退けた。
「ワハハハハ。そうよ、このふたはあまり安っぽいようだな」と和尚おしょうはたちまち余に賛成した。
 若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌のていに蓋を払いのけた。下からいよいよすずり正体しょうたいをあらわす。

漱石があからさまに荻生徂徠を持ち上げて頼山陽をこきおろしている箇所。「一座」とあるが、僧と老人と若者と一人称の主人公の四人くらいが会話している。春水は山陽の父。杏坪は春水の弟で、山陽の甥。広沢とは江戸初期の書家、細井広沢のことであるらしい。とにかく漱石は山陽の俗で才気走ったところが気に入らない。上方の俗儒が嫌いで、下手でも「品がある」江戸の官儒が好きなのだ。「多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく」とはつまり古いものだから文字の良し悪しなど論じるまでもないなどと言っているからには決して字がうまいと褒めているわけではないのである。もともとそれほど「ゆかしい」ものではなかったけれど経年変化のために派手さがなくなり渋さが増して良くなった、などとも言っている。とんだ骨董趣味だ。それはそのまま漱石本人の趣味でもある。彼は通俗小説は書きたくないのである。「草枕」のような漢学の蘊蓄を語りたいのだ。素人が自分で作るなら下手に巧まずに不器用に作れ、とまで言っている。

思うに漱石はかつて熊本を旅行したときの体験を小説に仕立てようとして、そこになにやら怪しげな女の話やら、西洋文学の話題などを入れて通俗小説を書いてもらいたい新聞の編集者のリクエストに応えつつ、自分の漢詩趣味をむりやりねじ込んでこの「草枕」を書いたのではなかったか(英詩や俳句などをちりばめたのは照れ隠しか目くらましだったのではないか。)。しかし世間は漱石にそんなものを期待してはいなかったのである。新聞の娯楽小説でなければバタ臭い西洋風な小説を書いてほしかった。

草枕

夏目漱石『草枕』の冒頭は有名な

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

であるがその数パラグラフ後に

あらゆる芸術の士は人の世を長閑
のどか
にし、人の心を豊かにするが
ゆえ

たっ
とい。

住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、である。あるは音楽と彫刻である。こまかにえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もく。着想を紙に落さぬとも璆鏘のおん胸裏きょうりおこる。丹青たんせい画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさい絢爛けんらんおのずから心眼しんがんに映る。ただおのが住む世を、かくかんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収めればる。この故に無声むせいの詩人には一句なく、無色むしょくの画家には尺縑なきも、かく人世じんせいを観じ得るの点において、かく煩悩ぼんのう解脱げだつするの点において、かく清浄界しょうじょうかい出入しゅつにゅうし得るの点において、またこの不同不二ふどうふじ乾坤けんこん建立こんりゅうし得るの点において、我利私慾がりしよく覊絆きはん掃蕩そうとうするの点において、―― 千金せんきんの子よりも、万乗ばんじょうの君よりも、あらゆる俗界の寵児ちょうじよりも幸福である。

などと芸術論を語っているかのごとき部分がある。

人の世は住みにくい。その住みにくさを少しでもやわらげて住みよくするものが芸術である、芸術とはたとえば詩であり、絵画であり、音楽であり、彫刻である、などと言っている。

しかし漱石は決して、一般論としての芸術のことをここで論じたかったのではあるまい。まして西洋美術、西洋音楽などのことを言いたかったわけではあるまい。詩とはすなわち漱石が愛した漢詩のことであり、自ら作詩することであったに違いない。そうしてみると絵というものも実は漱石はプライベートに描いていたのではないかと調べてみると、けっこう描いていたということがすぐにわかるのである。

漱石の絵というものはしかしおそらくなにかの模写のようなものではなかったか。絵を描くのはもちろん難しい。しかしながら模写は割と誰でもできる。模写した絵は元絵があるのだが、その元絵から模写された絵というものはたいてい、構図とか画題は優れていても、なんとなくふんにゃりとしていてしまりがない。

画家が自分で描いた絵というものは、構図というか構成に主張があるし、何を描きたいかという画家の意思が見える。目の前の世界に対する感性がそこには表れている。模写にはしかしその意志がない。感性が鈍い。何を描きたいのか、その主張が弱い。個性が無い。そもそもこの人はなぜこの絵を描いたのか、描かねばならなかったのか、その必然性が伝わってこない。

写真もそうだが絵はまず世界から描きたい矩形を切り取らねばならぬ。写真と違い絵はその矩形を絵の具と筆で埋めねばならぬ。そうやって世界を解釈した結果が絵だ。その絵をみて感動した人がそれを模写する。漱石もそういうタイプの、絵を愛好する人だったはずだ。時間をかけて絵の修業をした人ではない。だからああいう、目力の無い、穴が空いただけのような目になったのだと思う。そう、人真似をして「絵」を描くことはできても「目」を描くのはむずかしい。

模写というのはつまり、私も画家のような絵が描きたいという願望だけがあって、絵そのものを描いているわけではないからだ。だから人物画でも目に力が無かったり、風景画でも配列が直線的であったりする。

漱石に画家の素養を求めるのは酷であろうが、詩は違う。漱石はかなり本気で詩を作っていた。自分の才能に密かに自信を持っていた。音楽と彫刻というのは単なる付け足し、目くらましであろう。要は、漱石は自分が漢詩を作る意味、意義というものをここで熱く語っているのである。漱石はイギリスで西洋文学を学び、それを日本に輸入し、それに基づいて小説を書く人だ、その規範となる人だと思われている。しかし漱石は江戸時代の荻生徂徠のような詩を作るのが好きであった。洋行するよりも作家になるよりもずっと前、子供の頃からそういう趣味があった。しかし漱石の詩を褒める人も、愛好する人もいなかった。漱石の描いた絵を珍重する人はいたが、漱石の詩は古めかしく退屈なもので、いわゆる旧時代の遺物のたぐいであって、何の価値もないものだとみなされていた。

漱石は漢詩はともかくとして自分の小説は誰もが注目していることを知っていた。その小説の中に、「草枕」の冒頭から少しずらして、読者がふと気を抜くあたりに、さりげなく、自分の熱い主張を埋め込んだのだ。漱石はさすがに自分の詩をそのまま小説に埋め込むことは控えた。しかし自分が詠んだ俳句はたくさんちりばめた。おそらく目くらましのためであろう、英語の詩さえ引用した。編集者に見せて、これは小説ではないと怒られただろうから、仕方なくストーリー性のある話にしたてて小説仕立てにして渡した。新聞社としては漱石先生が書いた紛れもない小説であるから掲載した。そんないきさつであったのではないか。

漱石にとって小説というものは世渡りのために書かねばならぬものであった。世の中は無理解なものであった。越すことのできぬもので、それを越してしまえば人でなしの国に行くばかりであって、人でなしの国は住みにくい今の世の中よりさらに住みにくいだろう。その住みにくい世の中で、自分にとって息抜きとなり、くつろぎとなるのが詩である。

明らかに漱石はそう主張している。

しかも、漱石はおそらく自分を芸術家だと思っている。小説家としてではない。詩人だと思っている。それが自分の天職だと思っている。人の心を豊かにするが故に尊いとまで言っている。なんという悲しい詩人ではないか。私たちは漱石のその悲しみを知っていただろうか。誰かそれを指摘した人が今までにいただろうか。

漱石は自分は王維や陶淵明のような詩人ではないと言っているがそんなことは当たり前で、どんな偉い詩人だって敢えて自分を王維や陶淵明と比較したり、まして張り合ったりしない。それ未満の、例えば日本の漢詩人とは比べようがあるくらいの詩人ではあるというプライドを持っていた。もしそんなプライドがなければ、自分の詩を自分の小説の中に入れて抱き合わせにして人に見せたりすることもできたろう(※追記あり)。編集者に頼んで新聞に載せてもらうこともできただろうし、無理強いすれば詩壇の講師にもなれたかもしれない。しかし彼はそうはしなかった。誰かが彼の詩を評価してくれるのを待っていた。小説家としてではなく、詩人として評価されるのでなければ詩を人に見せたくはないと思っていた。詩とは違い俳句は漱石にとって単なる遊び、日々の座興に過ぎなかったから、自分の俳句を小説に載せることにはなんの抵抗もなかったようにみえる。

西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛
ばんこく

うれい
などと云う字がある。詩人だから万斛で素人
しろうと
なら一
ごう
で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨
ぼんこつ
の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の
かなしみ
も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。

ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌
しいか
の純粋なるものもこの
きょう
解脱
げだつ
する事を知らぬ。
どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世
うきよ
勧工場
かんこうば
にあるものだけで用を
べん
じている。いくら詩的になっても地面の上を
けてあるいて、
ぜに
の勘定を忘れるひまがない。

うれしい事に東洋の詩歌しいかはそこを解脱げだつしたのがある。採菊きくをとる東籬下とうりのもと悠然ゆうぜんとして見南山なんざんをみる。ただそれぎりのうちに暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘がのぞいてる訳でもなければ、南山なんざんに親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的しゅっせけんてきに利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。ひとり坐幽篁裏ゆうこうのうちにざし弾琴きんをだんじて復長嘯またちょうしょうす深林しんりん人不知ひとしらず明月来めいげつきたりて相照あいてらす。ただ二十字のうちにゆう別乾坤べつけんこん建立こんりゅうしている。この乾坤の功徳くどくは「不如帰ほととぎす」や「金色夜叉こんじきやしゃ」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てたのちに、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気のんき扁舟へんしゅううかべてこの桃源とうげんさかのぼるものはないようだ。余はもとより詩人を職業にしておらんから、王維おうい淵明えんめい境界きょうがいを今の世に布教ふきょうして広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人ひとり絵の具箱と三脚几さんきゃくきかついで春の山路やまじをのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしのでも非人情ひにんじょうの天地に逍遥しょうようしたいからのねがい。一つの酔興すいきょうだ。

芭蕉ばしょうと云う男は枕元まくらもとへ馬が尿いばりするのをさえな事と見立てて発句ほっくにした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、じいさんもばあさんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。

今の人は西洋の詩にかぶれている。西洋の詩は住みにくい世の中から解脱することができない。しかし東洋の詩は幸いなことに住みにくい人の世を解脱している。自分は詩人ではないけれども、すこしの間でも、非人間的な天地に逍遙したいから、絵を描いたり、詩を作ったりするのであると。馬がしょんべんするのを芭蕉が俳句にしたように私はありとあらゆるものを大自然の点景として詩にしてみよう。これが漱石の信仰告白でないとしてなんであろうか。

現代において詩作は睡眠と同じくらいに必要であると漱石は言う。

漱石はたぶん新聞社の編集者から、或いは読者から、或いは弟子から、徳冨蘆花の不如帰や尾崎紅葉の金色夜叉みたいな通俗小説を書いてくれとか、ファウストを書いたゲーテやハムレットを書いたシェークスピアのような文豪になってくれと言われた。あるいはそんな小説の書き方を教えてくれと頼まれたのだろう。そうじゃないんだよ、自分はそういうものが書きたいんじゃない。詩人になりたいんだ、俗世間から解脱したいんだ、そんな自分は常の人よりも苦労性で、神経が鋭敏なんだよ。漱石は明らかにそう言っているではないか。だからこんな「草枕」みたいなへんてこな文芸論のような芸術論のような小説を書いてみせたのだろう。

そういえば「坑夫」でも

自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

などと最後の最後に余計な言い訳を付け足している。編集者は漱石がなかなか(幸田露伴や尾崎紅葉のような)小説らしい小説を書かないのでじれていたに違いない。漱石はいつも小説ばかり書け書けと言われて困惑していたに違いない。そして漱石が書いた小説はなぜかいつもよく読まれた。読者がついた。当代一の売れっ子作家であった。なぜなのだろうか。小説の終わりに「これは小説ではない」と言われると小説のつもりで楽しく読んだ読者(私を含む)は困ってしまう。いったいそれはどういう意味なのかと。

ウィキペディア「草枕」を見ると、「草枕」は芸術論、西洋芸術と東洋芸術の比較であると言っているが、それには違いないが、もっと端的に、詩人になりたかったのにどういうわけか小説家として名を成してしまい、詩人としてはまったく評価されなかった漱石という人の憤懣をぶちまけたものだと考えるのが正解だと思う。

松岡正剛の千夜千冊 『草枕』夏目漱石。なるほど。小説として読めばそういうことになろうが、漱石が言いたかったこと(というか訴えたかったこと)は私の解釈でほぼ間違いないと思う。

『猫』『坊っちゃん』のソフィスティケーションの奥の奥には、もとから『草枕』の俳諧漢文めいた雅趣低徊が鳴っていた。「深淵」とはそのことだ。

そんなもって回った言い方をしなくても良い。漱石は通俗小説より漢詩が好きだった。それがそのものズバリなのだ。

夏目漱石『坑夫』

夏目漱石『坑夫』をkindle版で再読しているのだが、無駄に長い。冗長。こんなだらだらしたものを書きたいから書いたんだろうけど、付き合うほうはよほどおっとりした性格でなくてはなるまい。

昨夕東京を出て、千住の大橋まで来て

とあるから、おそらく日光街道を越谷、春日部あたりまでを二日がかりで徒歩で歩き、ここから鉄道で古河、小山、桐生、足尾とたどった、という設定だろうと思うのだが、越谷や春日部のあたりは一面の田んぼのはずであり、どこまでも続く松原、なんてものがあるとは思えない。

途中の街道の描写は川越街道、武蔵野の光景に酷似している。

だいたい二日もぶっとおし歩けば、川越か春日部あたりまでいけるだろう。

川越の手前は川越河岸というものがあって、ちょうど

いつの間まにやら松がなくなったら、板橋街道のようなけちな宿の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車が通る。

というのがこの川越河岸だか福岡河岸あたりの光景だろう。さらに進むと、

そのうちに人通りがだんだん多くなる。町並がしだいに立派になる。しまいには牛込の神楽坂くらいな繁昌する所へ出た。ここいらの店付や人の様子や、衣服は全く東京と同じ事であった。

これはおそらくは川越のことだろうと思う。春日部がどんなだかは知らない。

ここにはわざと云わない。

などと書いていて、しらばっくれているのは、ほんとうは春日部日光街道(奥州街道)なんだが、そっちは取材してなくて、たまたま知ってた川越街道のことを書いたんじゃなかろうか。或いはだれか(漱石本人か)が川越のあたりまで出奔したという話と、足尾銅山で働かされた誰か別の人からの取材があわさってできているのかもしれん。でないと、この前置きの冗長さを説明できん。

そういうどうでもいいごまかしのために、或いは文字数を増やすがために、やたらとだらだらわけのわからない文章を書かれては困る。川越なら川越、春日部なら春日部と書けば良いものを。わからんことは取材してから書けばよいのに、と思う。

きちんと実名を出し、余計な回想だかをくどくど繰り返さなきゃ、この鉱山行の話は十分の一ですっきり片付くだろうと思う。

板橋街道

というのがぽろっと出てくるがこれは中山道と川越街道が板橋で分かれる手前のあたりを言うと思われる。

追記あり