人工知能と和歌

chatGPTなどはすでにかなりまともな和歌を詠めるようになっているようだ。少なくともふだん歌に嗜みの無い一般人が詠むよりはずっとましな、素人に毛が生えた程度の歌は詠めるらしい。そして一般人はそもそも、(五七五七七に整えられぬというだけでなく)良い歌と悪い歌の見分けがつかないし(だから歌が詠めないのだが)、さらにいえば世の中には良い歌と悪い歌を判別する基準すらないから(それは世間の評論家や歌人らのご高説をみれば明らかで、人間の怠慢とも言えるし限界ともいえる)、和歌などというものはchatGPT に詠ませておけばそれでたいてい用は足りる、ということになる。作曲もそうだろう。ゲームのBGMに使うような、なんとなくそれっぽい歌ならもう人工知能に作曲させておけばことたりる。キャラクターデザインも。背景のマップも。

では人工知能はこれから自学自習して、良い歌とは何か悪い歌とは何かまで理解するようになって、人間を超えて、ますます良い歌を詠むようになるだろうか。これはわからない。

もし、良い歌を詠む人がさらに人工知能に教育を施し、または良い歌を詠む人を人工知能が自分で見分けてさらに学習したとしたら、もっと良い歌を詠むようになるだろう。しかしそれは可能だろうか。

人工知能はなんらかの評価関数が無くては学習できまい。

人工知能は和歌のルールとパターンはだいたい把握してきたようだ。五七五七七で詠む。大和言葉だけで詠む。古典文法に乗っ取って詠む。ここまでは教えることのできる人はいる。これが現在の評価関数だ。ある種の状況設定も追加することができる。これもまた別種の評価関数だ。複数の評価関数を組み合わせてそれらの総合点を最適化するような答えを出してくる。なんとなくちぐはぐな、どこかでみたようなみたことないような、適当に混ぜ合わせたコラージュのような歌を出してくる。

しかし世の中には人工知能に和歌を教えられる人間がそろそろいなくなるだろう。もしいたとして、その人の和歌がほんとうに優れていると誰が決められるのだ。新聞やテレビの歌壇で講師をしている人たちの歌がほんとうに優れているのか?(今の評論家や知識人のほとんどすべては大衆の無知故に存在し得ている。彼らがこれまで人類の進歩を阻害してきたように、人工知能の発展をもまた妨げることも十分あり得る)それとも過去の膨大な和歌のデータベースや、歌学に関する評論や論文があればそこから良い歌とは何かということを判定できるのか。さらにそれらから類推してもっと良い評価関数というものを獲得していけるのか。そしてその人工知能が自ら獲得した価値観を、人工知能は人間に対して納得させられるかどうか。

いやそもそも、人工知能が詠んだ歌を見て、良い歌だ悪い歌だと人間が判定できず、人工知能が良いと言い張ったとき、それは人間にとって適した回答と言えるのだろうか。

わからん。人間が無限に賢ければ人工知能も無限に賢くなっていくだろう。しかし人間の賢さは明らかに有限だ。人間はいつまでたっても進歩しない。いつも同じような過ちを繰り返す。それは歴史が証明している。天才はたまには現れるかもしれないが、天才を凡才から見分けることは難しい。その見分けられるということがそもそも人間の賢さの一部であり、限界でもあるのだ。

人工知能が人間を追い越して賢くなっていくということはあり得るのだろうか。ある種の分野、たとえばプログラミングなどではあり得るかもしれない。評価関数がきちんと決められていて、その評価関数にさえ従えば、人間に教わることなく、どんな複雑な解でも計算できるとすれば。

しかし和歌はどうだろうか。私自身どんな歌が面白い歌か、いまだに知らない。いままでにみたこともないような歌が良い歌だとしたら、いろんな条件でランダムに生成した歌を取捨選択するなどしなくてはなるまい(無限の計算量があればある程度成果を出すことは可能かもしれない)。ましかし人間と人工知能が互いに影響し合ってだんだんに新しい評価関数を作っていくという未来は予測可能だ。

俳句は難しいと思う。何しろ短すぎて良いか悪いかそもそも誰にもわからない。

和歌は研究対象にするにはちょうど良い短さだと思う。プログラミングのような明確な解もなければ評価関数もない。そういうものをどうやって人工知能で解くか。

和歌を生成する評価関数はもうほぼ完成している。というより、近々完成するだろう。そうして生成された和歌が良いか悪いかというのは別の評価関数が決めることだろう。しかし、良い人生と悪い人生が決められないように良い和歌と悪い和歌も決められないのではないか。そんな評価関数は無いのかもしれない。しかし良い歌と悪い歌の違いは明らかにあるのだが。

というわけでchatGPTに質問してみた。

三島由紀夫が割腹自殺するときに詠むような辞世の歌を詠んでください。

ChatGPT:

三島由紀夫の辞世の歌を詠むとなると、その激しい精神性や、彼が抱えていた美学や思想が色濃く反映されることになるでしょう。彼の作品には、死や美、そして日本文化に対する強い思いが込められており、辞世の歌もそれらを反映したものとなるはずです。

例えば、次のような歌がふさわしいかもしれません。


「天地(あめつち)の
運命(さだめ)を知りて
命尽きぬとも、
我は今日も
美しきものを見し」


この歌には、彼が抱いた運命観や死に対する覚悟、そして美へのこだわりを込めています。「命尽きぬとも」という部分は、死が訪れようとも、自らの美学や世界観を貫き通す覚悟を表しており、最後の瞬間においても美しいものを見続けようとする彼の意志を示しています。

三島由紀夫のような人物の辞世の歌は、しばしば哲学的であり、自己の死をただの終わりではなく、何か壮大な意味を持つものとして捉えていたように思います。

三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。

ChatGPT:

なるほど、11月25日という日は、三島由紀夫の死に深い意味を持たせるためにも、その季節感を取り入れることが大切ですね。11月は晩秋、枯れ葉が舞い散り、冬の足音が近づく時期です。そんな季節に合わせて、三島由紀夫が詠むような辞世の歌を考えるならば、彼が生きた美学や、秋の切なさを感じさせる言葉がふさわしいでしょう。

例えば、こんな感じの歌が思い浮かびます:


「秋風の
吹く空に舞う
枯葉一枚
命もまた
風にゆらめけり」


この歌には、秋風に舞う枯葉のように、命が無常であることを示唆しています。三島由紀夫は、自らの死を「風にゆらめけり」と表現することで、自己の運命に対する覚悟を感じさせ、同時にその儚さと美しさも強調しています。秋の風に舞う枯葉は、彼の死を迎えるにあたっての心情にぴったりの象徴となるでしょう。

また、11月という季節の冷たさや、静かな死を暗示する要素も取り入れられています。三島由紀夫は、自然との一体感や、日本的な美を重んじる人物でしたから、こうした自然の中に自らの死を見出すことは、彼らしい表現と言えるでしょう。

どうかな。まだまだ全然ダメだけど、これから先どうなるかわからん感じはある。私も課金してみたくなってきた。

Grokにも同じ質問をしてみた。

三島由紀夫が割腹自殺するときに詠むような辞世の歌を詠んでください。

三島由紀夫の精神や美意識を汲み、武士道や日本の伝統に根ざした辞世の歌を以下に詠みます。彼の劇的で荘厳な世界観を反映し、短歌の形式で表現します。

辞世の歌
散る桜
剣に魂
宿しつつ
大和の空に
消ゆともよし

解説(ご参考までに):
この歌は、三島が愛した桜の美と刹那、武士の精神、そして祖国への深い思慕を象徴しています。「剣」は彼の武人としての理想、「大和の空」は日本の精神性を表し、命を捧げる覚悟と美学を込めました。三島の割腹自殺(1970年11月25日)の際、彼は具体的な辞世の歌を残しませんでしたが、その行動自体が彼の美意識の結晶でした。この歌は、彼の生き様を想像し、敬意を込めて創作したものです。

もし特定のトーンや追加の要素をご希望でしたら、お知らせください!

三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。

三島由紀夫が1970年11月25日に自殺した際の晩秋の情景を反映し、彼の美意識と武士道精神を込めた辞世の歌を短歌の形式で詠みます。

辞世の歌
散る紅葉
剣に魂
宿しつつ
大和の秋に
消ゆともよし

解説(ご参考までに):
11月25日は晩秋で、紅葉が散りゆく季節です。「散る紅葉」は三島が愛した美と儚さの象徴であり、彼の劇的な最期を映します。「剣」は武人としての誇り、「大和の秋」は日本の精神と季節感を表し、命を捧げる覚悟を表現しました。三島の行動に呼応する荘厳さと哀愁を意識しています。

ご希望のトーンや追加の調整があれば教えてください!

桜を紅葉に変えただけというのがGrokらしくてすがすがしい!あと三島由紀夫が辞世を詠まなかったというのは嘘だ。これまた実にすがすがしい!

どうもchatGPTは形式をないがしろにし内容にこだわる傾向があり(そして形式の間違いを指摘してもかたくなに直さない)、grokは形式さえ整っていればそれでよしとする傾向があるように思う。それにしてもchatGPTもgrokもいちいち和歌を改行するのはどういうわけか。

文法的語彙的に間違いなく和歌を詠めているかどうかを判定してくれるだけでかなり実用性はあると思うんだが、まだそこまで来ていない。

一夜

若い頃は昼夜逆転と言えば夜更かしをしすぎて昼間寝ているようなことであった。私が京都駿台予備校上賀茂寮に住んでいたときはまさにそれで、朝5時まで烏丸鞍馬口にあったゲーセンで遊び、6時まで四条河原町辺りの喫茶店でだらだらして、上賀茂に戻ってまかない飯も食わずに夜まで寝て、夜が更けたらまた烏丸鞍馬口まで遊びに行く、などという無茶なことをしていた。しかし今から思えばめちゃめちゃ有意義な京都暮らしであったとも言える。一生のうちで一度くらいはそういう生き方をしてもよい。

今はまったく別の意味で昼夜逆転している。テレビ業界で夕方はゴールデンタイムというのかもしれないが、私にはまったく無価値な時間帯であって、さっさと酒を飲んで寝てしまいたい。朝は3時くらいに起きて風呂に入り5時の始発で移動して、夕方はできるだけはやく帰宅して寝る、というのが肉体的にも精神的にも一番楽な生き方なので今はそうしている。とにかく人間社会というものが嫌で嫌で仕方ない。年を取ったから早起きになるというのは実はそういうものであったかといまさら思い至った。

夏目漱石はいきなり長編小説を書いたと以前書いた。それで嘘ではないのだが、短編も書いてないわけではない。たとえば「倫敦塔」。しかしこれを短編小説といってよいのかどうか。小説というよりエッセイのようなものではなかろうか。

『猫』を読んでいたら、

せんだっても私の友人で送籍
そうせき
と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧
もうろう
として取り留
と
めがつかないので、当人に逢って篤
とく
と主意のあるところを糺
ただ
して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡
たんかん
に送籍君を打ち留めた。

というくだりがあって、送籍とは漱石、つまり夏目漱石本人のことで、「一夜」という小説も青空文庫にあって読むことができる。

この「一夜」だが、誰も話題にもしないので私も今の今まで読んだこともなく、その存在も知らなかった。朦朧としてとりとめの無い話。まさにそうで、これに何か意味があって解読してみようと思った人もほとんどいないようだ。

普通小説家になろうという人はまず短編を書いてみてだんだん長くしていくものだ、と以前に書いた。その通りだと思う。夏目漱石はまず「猫」という長編小説を書いたように言われているが実はこの「一夜」が処女作なのではないかとまずは疑ってみた。

しかしたぶん違うだろう。では「猫」のあとに「一夜」を書いたのか。そうかもしれない。しかし思うに、漱石はたぶん誰か(子規であった可能性が高いがそうではないかもしれない)に、小説を書いたらホトトギス辺りに掲載しても良いよなどということを言われたに違いない。それで小説なんて書いたことないんだからどう書けば良いかわからない。適当に何本か、いろんな種類のものを書いてみた。漫談みたいなもの、留学の体験談みたいなもの、朦朧としたもの、などなど。それらが「猫」の第一話と「倫敦塔」、「幻影の盾」、「琴のそら音」「一夜」などの短編群だった。というあたりが当たりではないか。

それでそれらを読み比べてみて、とりあえず「猫」は一般受けしそうだからホトトギスに掲載してみたら非常に受けた。「猫」は連載が決まり、漱石は突然流行作家の道を歩き始めた。

朦朧としているあたりが詩人の特色である、などと書いているが、実際漱石は詩人、つまり漢詩人になりたかったのに違いなく、小説家なんぞになりたいわけではなかった。この「一夜」にも、「坑夫」にも、「草枕」にも、小説ではないという言い訳が書いてある。小説の書き方を知っていたわけでもなかった。ただ「猫」を書いたら偶然売れたのであとから小説というものはどう書いたら良いか試行錯誤したというのが当たっているのに違いない。そしていつの間にか、漱石は偶像化して、最初から小説家になろうとして、イギリス留学仕込みの英文学の素養を活かした小説を書き始めたということになってしまった。それはたぶん村上春樹には当てはまるけれども漱石はそんな人ではまるでなかった。漱石がもしそんな人であれば森鴎外と同じ頃から小説を書いていなくてはなるまい。

今と同じく当時も小説家になりたい人はたくさんいた。樋口一葉も生活の足しにするために半井なんとかという新聞作家の弟子になって小説の書き方を学んだ。漱石はそれすらしていない。いきなり小説を書き始めた。今の人は小説家の型というものがあってそれを学ばなくては小説家にはなれないと思っている。ほとんどの人はそう思っているだろうが、夏目漱石はそうではなかった。小説のようなものを書いてみたら売れたから小説家になったのだ。出版社の編集者はああ書けこう書けという。それはただライターの都合だから、ほんとうに小説家になれるか、書いた物が小説になるか、書きたいものが書けるかということとはあんまり関係ないと思う。

「一夜」「二百十日」「草枕」はよく似ている。これらは実は三つとも同じモチーフから出てきたものではなかろうか、「一夜」をリライトしたものが「二百十日」「草枕」となったのではないか、という仮説を立ててみる。

となると「一夜」に出てくる二人の男と一人の女は、夏目漱石、山川信次郎、そして前田卓だったのではなかろうか。漱石にとってこの一夜のことは一生の思い出となるような興味深いものだったのではないか。しかし漱石は当時すでに結婚していたし、体験をそのまま書いては小説にもならないし、プライバシーもへったくれもない。しかし小説を書いた経験もほとんどない漱石としてはどう脚色すれば小説になるかもわからない(漱石は絵の描き方も知らずに水彩画を描き始めたり、バイオリンをいきなり弾き始める人だった)。そんなテクニックはまだ身につけていないのだ。だから詩人か画家の書いた朦朧とした小説、ということにした。漱石としてはもう少しまともな作品に書き直そうと思って、「二百十日」「草枕」ができたんだけど、この二つもなにやら怪しげな、小説らしからぬ小説になってしまった。世間一般では漱石といえば『猫』に『坊っちゃん』というイメージが定着してしまっていた。それと外れたものは無視され、存在すらしないものにされてしまった。というあたりが真相なのではなかろうか。

「一夜」にも漱石の詩が出てくるのだがこれは「草枕」にも出てくる。

春日静座
青春二三月 愁随芳草長
閑花落空庭 素琴横虚空
蟰蛸挂不動 篆烟繞竹梁
独坐無隻語 方寸認微光
人間徒多事 此境孰可忘
会得一日静 正知百年忙
遐懐寄何処 緬邈白雲郷

よほど好きな詩なのだろう。白雲という語は漱石や徂徠の詩にしばしば出る。荒井健・田口一郎 訳注『荻生徂徠全詩』によれば白雲は清浄な隠棲の象徴であるというが、漱石の場合それは具体的には熊本県天水町のことである、ということになる。遐懐、緬邈とは遠い熊本時代の思い出ということになる。独坐隻語無く、方寸微光を認むとあるが、必ずしもこれを信じる理由もない。彼の傍らには二人の友がいたはずだ。

人生は徒らに忙しい、山の中でたまたま一日静かに過ごすことができたがまた人の世界へ戻って行かなくてはならぬ。三十才頃の漱石の述懐だ。

蟰蛸挂りて動かずとは「一夜」に出てくる蜘蛛のことであろう。

「蓮の葉に蜘蛛下くだりけり香を焚たく」と吟じながら女一度に数弁すうべんを攫つかんで香炉の裏うちになげ込む。「蟰蛸懸かかって不揺、篆煙てんえん遶竹梁ちくりょうをめぐる」と誦じゅして髯ひげある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。
「夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ」と丸い男が笑うと、「そうじゃ夢に画えを活いかす話しじゃ。ききたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。

私の本業は一応CGということになっている。世間一般が言うCGとは少し違うかもしれないが、CGを仕事にして生きている人の一人であるには違いない。私が若い頃CGはまだ未発達で、個人レベルでも新しい仕事が出来もしたのだが、今は何もかも発達してしまって、私一人いようがいまいが、CG業界には何の影響もない。私がやるよりもうまくできる人がいくらでもいるのに老い先短い私がわざわざやる必然性はまったくない。私は私にしかできない仕事がしたい。だからはやくCGの仕事なんてやめてしまって執筆活動に専念したいのだが(笑)、あいにく売文では食っていけないから仕方なく昔覚えた仕事を続けている。

私もまた小説でも書いて生活の足しにしようとかつて考えた一人であったから、漱石の気持ちを詮索したりしている。たぶんだいたい当たっているだろうと思う。こういう考察をした人はあまりいない、というか、全然いないのではないか。ちょっと調べれば「一夜」と「草枕」がこれほどまで類似していることはすぐに知れる。

こないだ書いたけどいつ出版されるかわからない本、というものがあって、もうこれ以上書くこともないのだが、書いたことが間違ってちゃいけないから出版されるまでにいろいろ調べているところだ。今の所大して訂正することはないと思っている。

八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜いちやを過した。彼らの一夜を描えがいたのは彼らの生涯しょうがいを描いたのである。
 なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性すじょうと性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。

髭のある人というのは明らかに漱石だ。

小説家が初期作品をリライトして長編に仕立て直す、ということはよくあることのように思われる。ヨハンナ・シュピリも「フローニの墓に一言」をリライトして「ハイディ」を書いたのだと私は思っている。

吾輩は猫である

仕方ないので『吾輩は猫である』を頭から通して読み始めた。

つい最近草枕4というものを書いたが、『草枕』が温泉旅館の女将を画工の目から見て描いた、当時流行っていた一種の暴露小説というか、自然主義小説というか、私小説の類いであって、また画工も漱石自身のカリカチュアであって、要するに『草枕』は漱石の自分語りというか、自分の実生活から取材してそれをそのまんまネタにした(当時の)現代小説である。

これに対して森鴎外の『阿部一族』などは全く別種の、純粋な歴史小説であり、ある対象を客観的に(あたかも医者が患者を観察するかのような視点で)記録したドキュメンタリーである。

『猫』は『草枕』とまったく同じで、猫の視点から描いた漱石そのものだ。漱石は教師をやったり、正岡子規と一緒に俳句を詠んだり、水彩画に凝ったり、新体詩を作ったり、バイオリンを弾いたりと、いろんなことを試してみるがどれも世間で評判になることはない、要するに世間によくいる、人よりもちょっとばかり高級な教育を受けたおっさんの一人、教養人の一人であった(そういう人を高等遊民というのはちょっと間違っていると思う)。それで、世間ではやはり小説を書くのが流行っていたので、ホトトギスを主宰している子規から勧められて小説を書いてみることになった。そしたら非常に好評だったので八話まで連載することになった。『猫』はただそれだけのものだ。

『猫』を読めば漱石が常日頃持病の胃弱に苦しめられており、知人にいろいろ勧められて試してみてもどれも効果がなかったことなど、彼の日常がそのまま書かれている。彼の妻、子供たち、使用人ら、付き合いのある友人ら、彼の仕事、日露戦争当時の世情などが、多少おもしろおかしく改変されてそのまま出てくる。なんのことはない、これは田山花袋の『蒲団』と同じでただの私小説だ。むしろエッセイに近い。ホトトギスという雑誌は新聞のように一般大衆が読むものではなかったのに違いない。それでも当時文芸に携わっている人はほとんどもれなく読んで、それでやっと漱石が世間に知られたというわけだ。そのことまでが全部第二話には書かれている。

国会図書館デジタルライブラリでホトトギスの誌面も見てみたのだが、筆名は「漱石」とだけ書かれていて、これが子規の友人である夏目金之助という人だとはすぐにはわからない、最初はほとんど匿名に近い投稿だったと思われる。挿絵が入っているのだが、これがまた話とは何の関係もない、日露戦争とか朝鮮の絵なのがおかしい。この挿絵、とっくに著作権保護期間は過ぎているはずだが、公開範囲は「送信サービスで閲覧可能」になっているからここに貼ることはできない。

漱石は私小説『猫』を書いてそれがたまたま当たったので『坊っちゃん』を書いた。『坊っちゃん』もまた私小説ではあるが、だいぶ脚色されている。それで『坊っちゃん』も当たったので今度は少しひねって『草枕』を書いたがこれまた一種の私小説であった(『草枕』はモデルとなった女性については漱石の妻が詳しく記述しているし、漱石が温泉を訪れた時のことも詳しく調べられているから、どういう素材をどういうふうに加工してああなったのか、分析するのにちょうど良い)。『草枕』も、評判は悪くはなかったがそれほど当たらなかった。自分自身のネタがだんだん尽きてきたので今度は他人を取材して『坑夫』を書いた。しかし『坑夫』にもある程度漱石自身が投影されているように思える。たぶん自己の体験と取材対象からの聞き取りを適当に混ぜ合わせて話を作ったのだろう(私が一番しっかりと、たびたび読み返したのは漱石の作品は『坑夫』である。だから『坑夫』のことは漱石の作品の中では一番良く知っている)。

でまあこのあたりで教員をやめて朝日新聞専属の作家になったりしたもんだから、まじめに(?)小説を書き始めた結果が『こころ』などになった。夏目漱石という人はただそれだけの人だったように思う。

それで、普通の人は、高校生くらいで教科書で『こころ』を読まされて、それで『猫』の冒頭部分やら『坊っちゃん』などをちょろっと読んで、あー俺も夏目漱石わかるわかると思って、夏目漱石という人は偉い人だな、俺にもわかるわーとか思って、それ以上漱石とはどんな人だったかなんてことは深くは考えない。『猫』にしても全部を通して読んだりしない。読んだとしてもさらっと流し読みしてそのまんま忘れている。要するに社会的に記号化された、記号としての漱石は知っているが、漱石とは何かというところまでは考えたりしない。試験に出るから覚えているだけのことだ。小林秀雄にしてもそうだ。世間で偉い文芸評論家だというから、ちらりと読んでみて、記号としての小林秀雄を知っているだけで、なぜこの人はこんなことを書こうと思ったんだろうというところまでは考えない。小林秀雄は漱石ほど頻繁に名前が挙がることはなく試験に出る頻度も少ないから知らない人は知らない。逆に漱石はみんなが知っている。ただそれだけのことなのではないか。

ほとんど無名時代の漱石が、ほとんど匿名で寄稿したこの一話読み切りの『猫』を当時の感覚で読んでみないことには『猫』を玩味することはできないと思うのだ。予備知識や先入観をできるだけ捨てて。そうしないと漱石という人がわかってこない。

『猫』で、猫の絵を描いているのだが目が描かれてないとか、猫なのか熊なのかわからないとか、色も全然違うとか、人の描いた絵を見ても何が描かれているか察することができないとか、そういうのは漱石が自分の絵を人に見せて言われたことをそのまま書いているのだろう。実際漱石は目を描くのが下手だと思う。目を描けない、顔や表情を描けないのでは絵描きになることはできまい。

日本文化の恣意的な切り取り

ドナルド・キーンに「三島由紀夫」という文があり、その中で彼は三島が自決に際して詠んだ辞世の歌2首を紹介している。

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

キーンは

この二首は彼の最後の短歌であると同時に、昭和十七年(一九四二)、十七歳の吟以来、最初の短歌でもある。

と言う。この十七歳の吟とは「大詔」という詩のことであろう。

やすみししわご大皇(おほきみ)の
おほみことのり宣へりし日
もろ鳥は啼きの音をやめ
もろ草はそよぐすべなみ
あめつちは涙せきあへず
寂としてこゑだにもなし
朗々とみことのりはも
葦はらのみづほ国原
みなぎれり げにみちみてり
時しもや南(みんなみ)の海 言挙(ことあげ)の国の首(かうべ)に、
高照らす日の御子の国 流涕の剣は落ちぬ
時しもや声放たれぬ 敵共(あだどち)の船人
玉藻刈る沖にしづめぬ、
かちどきは今しとよめど
吉事(よごと)はもいよゝ重(し)けども
むらぎものわれのこころは いかにせむ
よろこびの声もえあげずたゞ涙すも

祝詞かなにかのように、古語で、大和言葉だけで詠まれているようにみせて実は「寂として」「朗々と」「流涕」は漢語である。

三島が割腹自殺したのは11月25日である。しかし「散るこそ花」とは桜であろう。季節があってない。またキーンによれば「今日の初霜」と詠んだのは3ヶ月前の7月であったらしい。要するに三島はその場で歌を詠んだのではなくて、かなり久しい以前からこれらの辞世の句を準備していた、ということになろう。長い時間をかけて巧んだ結果がこれだ、ということだ。

三島はたぶん居合刀のことを言っているのだと思うが、私は、そんな鞘鳴りするような刀を見たことがない。居合の演武で、刀が鞘とぶつかってカタカタ音がするなどというぶざまなことはほぼあり得ないと思うのだ。けなしているというより、違和感を感じるというか、何かぎこちない、ちぐはぐな、作り事めいたものをこれらの歌から感じるのである(おそらくそれは三島作品すべてに言えることだろう)。

歌の嗜みがない人が辞世の歌だけはあらかじめ用意しておく。さいとうたかをの『鬼平犯科帳』には磔になる罪人が辞世を代詠してもらう話があるけれども、そういうことはあっても良いと思う。その上で敢えて言わせてもらうが、和歌というものは、無意識のうちにその場ですっと出てきたものが良いのである。巧んで時間をかけた作り事はすぐに見破られる。異臭がするのだ。作為の後が残る歌はダメだ。そのため歌人はふだんから歌を詠みならして、口慣らしをして、自然と歌が出てくるようにしておく。そうしていくつもいくつも歌を詠んでいって詠草がたまっていって、その中にたまたま良い歌が混じる。歌とはそうしたもののはずだ。

三島はおそらく居合を習ったのだろう。腰に刀をさすようになった。試し斬りもしたであろう。鞘が鳴るたびに(おそらくそれは幻聴であろうが)、自決を、あるいは蹶起をうながされているような気持ちになる。その誘惑に、その衝動に、もう何年も耐えてきた。そしてついに今日自決するのだ。今朝、目の前には白い霜がおりている。もちろん腹を切るのも日本刀。介錯で首を落とすのも日本刀。私には戯画としか思えない。

三島由紀夫という人は歌人ではなかった、彼が生涯で詠んだわずか2首の歌、それも辞世の歌をドナルド・キーンがわざわざ取り上げるということに私は嫌な気分がしてならない。世の中にはいろんな歌人がいていろんな歌がある。ドナルド・キーンは日本文学の研究者だ。その彼がなぜこんな特殊で奇妙な歌をわざわざ論じなくてはならないのか。たまたま目に付いたからか。たまたま気になったからか。違うだろう。ある種の悪意、あざとさ、とでもいえそうなものを私は感じる。そこに私は恣意的な切り取りを感じざるを得ないのだ。

この世に存在したすべての日本人のうち、三島由紀夫はおそらく世界で最も有名な日本人であろう。

三島由紀夫はネイティブ並に英語が話せたのでそりゃあ外国人には受けが良かったであったろう。しかもハラキリ自殺までしたのだ。それがキーンの執筆動機か?

キーンは石川啄木についても書いている。キーンが歌人について一番まとまった文章を書いているのは啄木だ。なぜ啄木だったのだろう。啄木は日本を代表する歌人であろうか。最も偉大な歌人であろうか?

啄木は大和歌の破壊者であった。彼は最初まともな古語で和歌を詠んでいたのだが、途中から疑似文語とでもいおうか、へんてこりんな言葉で歌を詠むようになった。彼がきっぱりと因習を離れ、すなおに現代口語で歌を詠むならそれはそれでよかったのだが、大和言葉を変に改造した、気持ちの悪い人工言語を発明した。それは大和言葉をゆがめ、その血管に毒を流し、死に至らしめる作用をする。啄木は意図的に大和言葉を殺そうとしてああいう歌を詠んだし、だからこそ啄木は名声を博したのである。おそらくドナルド・キーンはそのことを十分に察知していた。啄木という腹黒い男のことを熟知していたからこそ、ほかの歌人はほっといて、この明治の文明開化期に出てきた旧時代の破壊者啄木を取り上げたのだ。啄木だけを取り上げるということは啄木と対極にいる保守的な歌人らを暗に否定しているのだ。キーンもまた啄木の一味だということだ。

世間ではメディアの切り取りということがしばしば問題視されるが、ドナルド・キーンが、さまざまな日本の文物を見渡した上で、三島由紀夫とか、足利義政とか、石川啄木のような、尋常ではない部分を敢えてピックアップして蒸し返し、さも普遍的な日本文化であるかのように紹介することは、日本文化というものを奇形たらしむることになりはしないか。

実朝

小林秀雄はともかくたくさんものを書いているから、それらに一通り目を通さぬことには、小林秀雄について語ることはできまい。しかしながら、彼が歌人について書いたのはどうやら西行と実朝の二人だけらしい。昭和17年から18年にかけて、つまり戦争の真っ最中に。私は和歌についてはそれなりに学んできたと思っているので和歌について彼が語っている部分には多少口出ししても差し支えあるまい(和歌についてはもちろん彼は宣長のことも多く語っている)。

この西行と実朝の二人について書いたのは、芭蕉が弟子に「中頃の歌人は誰なるや」と問われて言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたからであるらしい。実に不純な動機である。まず芭蕉がほんとうにそういうことを言ったかどうか。小林秀雄は話のネタにするためにはどんな怪しげな伝説でも採り入れて勝手に話を作る。実際、

文学には文学の真相といふものが、自ら現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もつと深いところに行かうとする傾向があるのはどうも致し方ない事なのである。

などと言い訳している。なるほど小説などのフィクションならばそれでよかろうが、評論はどうか。時代小説なら?歴史小説なら?小林秀雄はその線引きを意図的にごまかし曖昧にして話を盛ろうとしているようにもみえる。と思えば別の所では

僕には、実朝が、そんな役者とはどうも考へられない。「吾妻鏡」編纂者達の、実朝の横死に禁忌の歌を手向けんとした心根を思つてみる方が自然であり、又、この歌の裏に、幕府問注所の役人達の無量の想ひを想像してみるのは更に興味ある事である。

などとしれっと書いていたりする。信じてみたり疑ってみたり変幻自在だ。

で、「西行」に比べれば「実朝」は割としっかり書かれた文章であって、やはり、小林秀雄はある程度まで和歌のことはわかっている人である、と思われる。

出でて去なば 主無き宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

が贋作なのは明白だが、私はかつて

もののふの 矢なみつくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

も贋作なのではなかろうか、と疑っていた。実朝がこんないかにも武士らしい、武張った歌を詠むとは思えなかったからだ。正岡子規もこの歌をべた褒めしていてますます怪しい。しかしいろいろ調べてみるに、これはそんな、いわゆる武家の棟梁が冬の那須高原で巻き狩りなぞをしている(父頼朝が富士の裾野でやったような)ところを目の当たりにして詠んだ歌ではなくて、単に人の歌を本歌取りにしただけの、宮廷趣味的な、或いは習作的なものであったのだろう、ということがわかってくる。おそらくこれはただ単に定家の

大空に たがぬく玉の 緒絶えして あられ乱るる 野辺の笹原

を多少アレンジしたものであったに違いなく、また、

時雨降る 大荒木野の 小篠原 濡れはひづとも 色に出でめや

わが恋は あはでふる野の 小篠原 いくよまでとか 霜の置くらむ

雪深み 深山の嵐 さえさえて 生駒の岳に あられふるらし

笹の葉の 深山もさやに あられ降り 寒き霜夜を ひとりかもねむ

笹の葉に あられさやぎて 深山辺の 峰のこがらし しきりて吹きぬ

などといったよく似た歌もある。あられの歌をあれこれ詠んでいたときにふと弓場で矢を射る武者の姿が目に入り、歌に採り入れてみただけだったかもしれない。まあしかし、いきさつはどうであれ、よく出来た歌だと思うし、実朝の真作であるとすればすごいことだと思う。

思うに小林秀雄は歌人について何かおもしろおかしく書いてほしいという依頼があって西行と実朝を取り上げて論じてみただけだと思う。あまり深読みしても仕方ないし、それほど歌人や和歌に興味があったとも思えない。彼は彼の書きたいようにものを書けば良いのであってそれは彼の自由であってそれに対してあれこれ言っても仕方ないのだけれど、世間一般の西行像、実朝像が、小林秀雄の言っていることとにたりよったりの焼き直しばかりなのは腹立たしい。もっと全然違う角度からいくらでも眺められるのに。ウィキペディアにせよ、ブログにせよ、AIにせよ、小林秀雄の個人的感想をそのまんま再生産している。

西行再説2

鳥羽院に出家のいとま申すとてよめる

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ

この歌は『山家集』には採られていない。

西行こと佐藤義清は北面の武士であった。鳥羽離宮北の詰め所に彼は伺候していたわけだが、要するに御所の裏口、勝手口であって、彼がその職を辞するとき鳥羽院にこのような歌を奉っていとまごいとしたというのだが、ほとんどあり得ないだろう。謁見の機会すらほぼありようがなかったと思う。まして顔や名、詠んだ歌など覚えられてもいるまい。そういう関係で、こういう無礼な物言いの歌を院に詠むはずがない。さらに鳥羽院はまったく歌を残さない人だった。歌を詠まないか、歌に関心がない人だったはずだ。その鳥羽院にわざわざこんな過激な内容の歌を西行が詠んで出家した。後足で砂をかけるような勢いで。などということはどうみても創作、おそらく山伏か僧兵のごとき者たちが口ずさんでいたような当時の歌謡ではなかったか。

この歌に対して小林秀雄は

決して世に追いつめられたり、世をはかなんだりした人の歌ではない。出家とか厭世とかいふ曖昧な概念に惑はされなければ、一切がはつきりしてゐるのである。自ら進んで世に反いた廿三歳の異常な青年武士の、世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望の飾り気のない鮮やかな表現だ。彼の眼は新しい未来に向つて開かれ、来るべきものに挑んでゐるのであつて、歌のすがたなぞにかまつてゐる余裕はないのである。

自分の運命に関する強い或は強過ぎる予感を持つてゐたのである。

などと言っている。なるほど上に掲げた歌は確かに当時抑圧され鬱屈していた若侍たちの荒ぶる心理を代弁したものに違いない。しかしそれを西行本人が詠んだかどうかということは別問題だ。

西行の真作とみておよそ間違いないと思われる歌を眺めてみて、この歌を見るといかにも異様で異常である。

小林秀雄は西行が出家するときには何かしら激情に駆られてこのような異常で苛烈な表現をとったのだと思ったのかもしれない。だがそれは非常に無理がある。平安朝末期の歌人とはいかような人種であるか、ということがわかってないのではないか。

西行とて当時の歌人の一人であった。ふだん穏やかな、どちらかといえば感傷的で耽美的な歌ばかり詠んでいる人がいきなりこんな歌を詠む、というような事例はない。ふだんから変な歌を詠む人は変な歌しか詠まないし、平凡な歌ばかり詠む人は平凡な歌しか詠まない。

西行のごくありきたりな、おもしろくもおかしくもない歌をたくさん見てみるとよい。そういう歌は他人がわざと西行の名をかたって詠んだりしないから、西行本人の歌である可能性が高い。逆に奇抜でなんだかおもしろそうな歌は、他人が西行の名で詠んだのではないかと疑ってみなくてはなるまい。『御裳濯河歌合』『宮河歌合』『山家心中集』などは西行本人の自選集とみなしてほぼよかろうと思うから、そうしたところを中心に見るとよい。『山家集』もまあ信じてよかろう。『異本 山家集(西行上人集)』には頓阿の跋があるが、西行の時代から離れすぎていて信じがたい。拾遺や追加などはほぼ信用できないと言って良いと思う。

そうしてだいたい西行が詠んだとして間違いなさそうな歌ばかりを見ていけばその全体像がわかってくるはずだ。そうしてたとえば「花の歌あまた詠みける中に」などという連作の中に出てくる

おしなべて 花の盛りと なりにけり 山のはごとに かかる白雲

などはどう考えても西行の歌に違いあるまい、と思えてくる(『御裳濯河歌合』にも出てくるから真作に違いないのだが)。こうした歌はどれも一見平凡だが、テンプレがなく、簡単に詠もうと思っても詠めない歌ばかりであることがわかる。言葉も平易で無理がなく、調べも整っている。癖が無くひっかかるところがないので見過ごしてしまいがちだ。ふだん和歌に親しんでいない人には単なる凡作にしか見えないだろう。それが西行の歌の特徴であって、逆に何か違和感(荒さとか雑味、と言っても良い)のあるものは偽物である可能性が高い。

風になびく 富士の煙の 空にきえて 行方も知らぬ 我が思ひかな

西行は京極派のような、字余りの多い歌人だと言われているのだが、こんなふうに露骨に字余りのある歌を西行が詠むとはとても思えない。京極派の歌人が西行の歌を偽造したのではなかろうか、とさえ思える。

この歌に対して小林秀雄は

これを、自讃歌の第一に推したといふ伝説を、僕は信じる。

この歌が通俗と映る歌人の心は汚れてゐる。

などと言っているのだが、彼はどうしてこの歌をそれほどまでに気に入ったのだろうか。私にはまったく理解できない。私はこの歌を通俗とは思わない。ひどく不細工で、西行に全然似つかわしくないと思えるのである。こういうひどくいびつ(というかぞんざい)な歌は京極為兼以降に出てきたものであって、西行の時代にはまったく許容されていなかった。西行だから敢えてそれをしたのだという人もいるかもしれないが、私にはあり得ないと思う。

どうも西行という人はとんでもなく誤解されている。誰も西行のことを知らないし、まともに解説もできていない。

西行本人にまとわりついている、西行以外のなにか。西行はあまりにも有名で、あまりにも人気が高くて、その割に身分が低く、歌の真贋を確かめるすべがない。そこが利用されたのだ。もっと具体的に、ありていにいえば、当時の仏教徒たち、平家物語なんぞを創作した坊主たちによって好き勝手に脚色されているのだろうと思われる(ほとんど同様のことが太田道灌の歌にも言える)。それを今日の骨董趣味の連中がやはり自分たちの好き勝手に利用してきたのだ。西行、道灌ばかりではない。定家しかり。百人一首しかり。何もかも今一度きれいに洗濯してみてはどうか。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

この歌はもともと『詞花集』に採られた詠み人知らず、題知らずの歌であったが、『西行物語』に採られたために西行の歌ということになったらしい。「惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ」と口ぶりが非常に良く似ている。桑原博史編『西行全歌集 』新典社には「別本山家集にはあって筑波大本には無い歌」の中に載る。要するに鎌倉時代になってから、適当に『詞花集』などからそれっぽい歌をみつくろって、「文武に秀でた青年であったが,25歳のとき友人の死を身近に見て無常の思いを強め,袂にすがる娘を縁側から蹴落として西山に走り,出家する。」などというドラマチックな物語をでっち上げたのであろう。実に馬鹿げたことだ。そして小林秀雄もかなりそのイメージに引きずられているように感じられる。というより、わざわざ西行が詠んだかどうだか疑わしい歌ばかりピックアップして虚構の西行像を造り上げようとしているようにも見える。

繰り返しになるがその当時そのように世の中に絶望し、やけくそになって出家した若者は実際に数多くいたのであろう。だからこそそんな物語が作られて世に流布した。しかしその主人公が西行であった可能性は低いと私は思う。

日本文学とか日本史とか、ちょっと冷静に客観的に考えてみれば、何もかも嘘っぱちだらけなんだが、みんななんでこの現状に耐えられるんだろう。そうか、みんな真実よりも伝説のほうが好きなんだな。リアリズムよりフィクションやファンタジーのほうが楽しいんだ。誰かにだまされているほうが幸せになれるんだ。そうに違いない。当時西行は身分が低すぎたから詞花集には詠み人知らずで採られたのだと。なるほど無名の武士が出家して詠んだ歌ではあったかもしれないが、それが西行とは限るまい。

西行再説

西行の歌、西行などを読み返しているのだが、

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

または

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

または

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

などはおそらく後世、西行の名をかたった偽作であろう。西行は民衆に仏道を説くような人ではなかったし、こういう露骨に抹香臭くお説教臭い歌を詠む人ではなかったはずだ。西行は悟りを開いて魂を救済されたい、現世は嫌だ、死後の世界で救われたい、などと思っていたのではないはずだ。俗世に未練たらたらな人だったはずだ。たとえば

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

などのような歌こそが西行の歌であるようにおもわれる。

「俗世を捨てて出家する人は、自分を捨てたのではない。後の世で救われるのであるからむしろ自分を拾ったのである。自分を助けたのである。現世で世を捨てぬ人は、あの世で自分を捨てているのである」とか。「この世は惜しむほどのものだろうか。この世を捨てて、出家して、身を捨てればこそ自分を助けることになるのだ」とか。こうした厭世観というか現世否定とか浄土思想とかあるいはあからさまな布教活動というものは西行には似つかわしくない(西行という名前には明確な浄土思想を感じるけれども)。だがたとえば兼好ならこんなふうな歌を喜々として詠むに違いない。

日本仏教は聖徳太子、役行者、弘法大師の頃から有名人を使ってやたらと奇跡や伝説をでっち上げて布教活動に利用してきた。キリスト教の聖遺物や聖者と似たようなものか。

小林秀雄はもしかすると、出家した直後の西行は俗世に対する執着心が捨てきれずに、それゆえ「馬鹿正直な拙い歌」を詠んだりもしたのだが、修行して悟りを開いてからは達観した歌を詠むようになったのだ、世の無常を知り悟りを開いたので、はかなく散る花や空を流れる雲の美しさを詠めるようになったとでも思ったのだろうか。

そうではあるまい。西行は出家する前も、出家した直後も、老いて死ぬ直前も、女々しい男であった。あくまでも人間的な、迷いを捨てきれぬ人だった。私はそう思う。そうでない歌は、西行の名を借りて仏教を広めようとする偽者が詠んだ歌であると思う。果たしてどちらが真実であろうか、悟ろうとして悟り得ない愚かな人間と、行いすまして悟りを目指し、人をも悟りへ導こうとする人と。他人の名声を盗用してまで己の教えを広めてもらいたいとは仏陀も思ってはいるまい。

阿部一族

武士にとって名前を残して死ぬことがすべてである。

私もなぜかいつの間にかその考え方に感化されていたようだ。森鴎外は明らかに武士であるが夏目金之助こと夏目漱石はその趣味や嗜好はともかくとして、まったく武士ではなかった。

森鴎外がなぜあれほどまで阿部一族で、いろんな人をサーベイして事細かに記録したかといえば、鴎外自身が武士であったからだ。彼は小説が書きたかったのではない。自分の小説が後世まで残る確証をすでに得ていた鴎外は、自分の小説に彼らの名前を記載し、彼らを永遠に人の記憶に残しておきたかったのだ。彼らを顕彰したかったのだ。

森鴎外にとって面白い小説を書くことなどなにほどのことでもなかった。おそらく鴎外は自分が売れっ子作家になろうという気持ちもなかった。彼はなすべきことは十分にやりすぎるほどなし終えていたから、さらに小説家として名声を得たいとおもっていたかどうか。

彼にとって、歴史に名を残すという仕事はもうし終えていた。だから、人に読まれ喜ばれる小説を書こうなどという気持ちはなかった。ただ阿部一族の人々を未来永劫、日本人の記憶にとどめる。そのためにだけあの小説書いたのだ。

二発目以降もよく売れた一発屋

森鴎外は長編も書くが短編も書いている。芥川龍之介だって、菊池寛だって、中島敦だって、志賀直哉だってそうだ。みんないろんなものを書いているが、夏目漱石はほとんど純粋に雑誌か新聞に連載する小説しか書かなかった。

普通小説家になろうとする人は短編か中編を書いてみて、だんだんに長くしていって長編小説を書くものだろう。漱石はいきなり長編を書いた。ずいぶんおかしな人だと思う。これもやはり連載小説という形であったからそうなっただけだとしかいいようがない。

漱石は『猫』以降も、基本的に長編小説しか書いてない。『猫』『坊っちゃん』が雑誌「ホトトギス」連載、『草枕』も雑誌連載、次の『二百十日』は『草枕』の続編か何かのような、熊本の山の中をただ歩きながら登場人物二人が会話ばかりしているへんてこな中編小説。その次の『野分』は「ホトトギス」連載。その後は全部朝日新聞連載。

処女作の『猫』がとにかくいきなり長い。最初は一話読み切りのつもりで、試しに書いてみたんだろうが、好評だったからなし崩しに連載になった。上巻、中巻、下巻と三部に分かれていて、猫が死んで終わりにしたのに、まだ続編を書いてくれと言われたと下巻の序に書いてある。とにかく読者からの要望が多かったからこんなに長い話になったのだろうが、これといってストーリーがあるわけでなく、だらだらと続く話だ。同じことは『坊っちゃん』にも『草枕』にも言えるだろう。

漱石も『こころ』あたりまでくるとちゃんとあらかじめしっかりストーリー構成して計画的に書いているが、『猫』はそうではない。まったく無計画に書いている。『草枕』もストーリーは基本なくて、書きたいことをただ書きたいように書いてみて、それで読者の反応を見ている感じ。『二百十日』はさすがに読者ももうわけがわからなくて、書いている本人もわからなくて、あんな落語か漫才の出来損ないみたいな話になった。

あとから朝日新聞に連載した作品群はともかくとして、基本的に漱石という人は一発屋である、というより二発目以降もよく売れた一発屋という性格の作家であって、人に言われるがままに書いて、それがなぜか毎度好評だったので、書き続けるしかなかった。彼はきっとなぜ自分が小説家のようなことをやっているのか最後までわからなかったのではないか。

当時は病弱で短命な人はいくらでもいたけれども、漱石もやはりそうした一人であって、小説を書き出した頃にはすでに相当病んでいたが、売れっ子作家になり、朝日新聞専属作家になったあとにますます症状が悪化して、死を意識しなくては作家活動もできなくなってしまっていただろうと思う。もしかして創作活動をきっぱりやめてしまえばもう少し長生きできたのかもしれない。そうした創作活動で精神をやられて体を壊してしまう人だったのではなかろうか。自分の好きな物を書くのでなくて、読者の評判を気にしすぎていたのかもしれない。一生熊本辺りで高校教師をしていたほうが楽しく暮らせたのではなかろうか。

自分の話をすると「エウメネス」も最初は、ゲドロシアの沙漠で兵士が捧げた兜一杯の水を捨てる話をメインにした短編だった。ところがこれが良く売れるので続編を3巻目まで出した。それでもまだ売れ続けたので切りのよい6巻目まで書いたのだった。必ずしも長編を書きたかったわけではなく、短編は中編も書いてはいたが、反応を見てだんだんに長編も書くようになった。逆に何の反応も無しに長編を書くことなんかできないと思う。

小説を書き始めたきっかけというのは、もう何度も書いているが、宮本昌孝『義輝異聞』を読んだからだった。ああこういうものを書いてもよいのか、こういう題材であれば私にも書けそうだという気になり、「将軍放浪記」というのを書いた。それより前に「アルプスの少女デーテ」などというものをちょこっと書いたこともあったのだが、何よりも私はたぶん、頼山陽とか本居宣長なんかにはまっていた頃だったから、そういうものをそのまま小説に書くのもありなんだなというとっかかりになった。一度書き始めると現代小説なども書いた。人が書いたものを読むだけというのにすっかり飽きてしまっていたから、自分が読みたいものを自分で書くようになった、というのが一番動機としては近いと思う。

それ以前はいろんなものを乱読していたのだが、久しぶりに部屋の片付けなどするとそうした乱読時代に買った本がたくさん出てきて、塩野七生なんかは今ではまったく嫌いになったけど昔は良く読んだよななどと思い返した。嫌いになったのはこの人が完全に西洋史観に完全に没入した人で、かつ歴史認識にもいろいろ問題があるからで、要するに、司馬遼太郎のたぐいで読めば読むほど嫌になるタイプの小説を書くからである。しかしながら彼女のハンニバル戦記などは「エウメネス」を書く上で大いに影響を受けているには違いない。昔自分が読んだ本を、自分が書いた物の原点を再確認する作業のつもりで読み直している。宮城谷昌光『重耳』は割と好きで読んだが、改めて読んでみてやはり面白いと感じる。他には子母沢寛、陳舜臣、酒見賢一などを読んでいた。宮崎市定は手に入るものはほとんど全部買ってあるのではないかと思う。そうしたものを読んだ上で次第に平家物語とか太平記とか吾妻鏡とか六国史や伊勢物語なんかの、より古いものを直接読むようになっていった。

幸田露伴『努力論』を読んでみたがまったく面白くない。こういう校長先生のお説教みたいな本をよくもまあ書いたもんだとしか思えない。幸田露伴ってどこが面白かったんだろう?

森鴎外の短編はまあまあ面白い。改めて不思議な人だなと思った。というより、鴎外もまた普通の人だし、漱石は漱石で普通の人であっただろうし、露伴は露伴で普通に真面目くさった人だったのだろう。

ドナルド・キーン再説

このブログはもうずいぶん昔(私が30才台の頃)から書き散らし書き殴っているもので、手直し・書き直しが必要なのだが(改編するというわけでなく書式などのメンテナンスが必要ということ)、ふと、25年も前(ということは35才の時)ドナルド・キーンついて批判している文をみつけた。

ドナルド・キーン、ドナルド・キーン2、ドナルド・キーン3、宣長の違和感、原勝郎、「山月記」はなぜ国民教材となったのか

どうであろうか。すでに書いたことはできるだけ繰り返さないが、司馬遼太郎がとんでもない歴史音痴なのは今更どうしようもないとして(そういえば合羽橋に行ったとき台東区立図書館の池波正太郎文庫に行ったら司馬遼太郎の本まで置いてあった。あれはけしからんことだ。ちゃんと分別してほしい。合羽橋には雨合羽は売ってなかった)、ドナルド・キーンはなぜよりにもよって、足利義政に興味を持ったのか。他に面白そうな人はいくらでもいるのになぜ義政の本をいくつも出したのか。

25年前の私は彼が先に、京都人か誰かに感化されて室町文化、東山文化に興味をもちそこから義政に興味をもったのではないか、と推測しているのであるが、それは原勝郎という人が

書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

と言っているのと同じだ。しかしそれだけでなく、今思うに、彼は義政を彼のライフワークである明治天皇にぶつけて、日本という国の典型的な最高権力者(しかも権威的な、象徴的な意味での)の、特に際立った、特徴的な二人を対比してみたかったのではなかろうか。

この、ドナルド・キーンという人に取り上げられたことは義政にとって非常に迷惑なことであった。同時に、足利義政の比較対象にされた明治天皇にとってもまったくありがたくはないことだったと思う。ドナルド・キーンによって日本史研究は多少とも進歩したのだろうか?非常に疑問だ。司馬遼太郎を引っ張り出してきてこんな対談をして合いの手を打たせたりするようでは、たかが知れている。むしろ日本史に対する誤解を再生産し変な箇所をことさら膨らませて奇形にしただけだったのではないか。

ドナルド・キーンという人が義政を「ろくでなし」「気違い」などと考えたということは(それを後白河法皇に対して言うのであればまだわかる気もする)、彼にそう思わせ、そう言わせた日本人が彼の周りに相当数いたということだ。また北条泰時のような天才に対して「鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。」などと発言していることも、彼がちゃんと自分で調べなかったせいというよりは、当時の日本の歴史観というものがそうしたものであった、特に、京都人はことさらに応仁の乱を馬鹿にして義政をあざけって悦にいり、鎌倉北条氏をおとしめて溜飲を下げていたのだろうと思われるのだ(ドナルド・キーンとどこかの公家の子孫が茶室かなんかでそんな話をしているシーンが目に浮かぶ)。足利氏にしても京都人にとっては北関東からでてきた野蛮人程度の認識なのだろう。

司馬遼太郎のように、室町将軍のことも応仁の乱の意味もなんにもしらずに、「どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが」と放言する輩が戦後日本には大勢いたのだろう(たぶん今もおおぜいいる)。

私は高校で日本史をとらず世界史を取った(とすでに書いているけれども)。どこかで日本史を小馬鹿にしていたのだと思う。当時の新聞が読むに値しなかったように、日本史などというものは学ぶに値しないものだと思っていたと思う。そしてのちに「日本外史」で日本史を一から独学した(これもすでに書いている)。江戸時代の人は室町時代を良く知っていた。今の私たちが明治時代を熟知しているように。

今の人たちはかつて関東で利根川を挟んで、西関東と東関東に分かれて戦争をしていた、なんて話をまったくしらない。は?それはいったいどんな歴史創作ものですか、何かちょっと面白そうですねなどと言われる。れっきとした事実である。そしてそれにそれを元ネタにした小説ももうある。江戸時代に滝沢馬琴が書いた南総里見八犬伝がそれだ。人は往々にして、太田道灌や、北条早雲やその子孫らがどういう経緯でどんな戦争を闘ったかなどということは把握しておらず、彼らの名前だけ知っているだけだ。江戸城も川越城も元はといえば、西関東を支配する関東管領上杉氏の家宰太田氏が、東関東の古河公方と対峙するために建てた城だ。

応仁の乱で京都が戦場になった、戦に焼かれてお寺もボー、などという話は良く知っているくせに。関東に生まれ育った人でもよっぽど郷土史に詳しい人しか南総里見八犬伝のベースとなった関東の歴史を知らない。自分が住んでいるところの郷土史としては知っていてもそれが日本史全体の中でどういう文脈にあるかを認識していない。

京都と関東は連動していた。京都しか見ていなくて応仁の乱がわかるはずがない。義教が関東をぶっ壊したせいで、関東は大乱となった。義政はそれをなんとか収めようとして余計火に油を注いだ。義政が何もしなかったのではない。無能だったのでもない。嫁の日野富子の尻に敷かれていたせいでもない。不可能だったのだ(もし義政が強権を発動すれば義教や義輝のように家臣に暗殺されるか義昭のように京都から追放されるおそれがあった。勢い合議制にならざるを得ず、細川、山名などの大族には遠慮せねばならぬ)。

京都の室町将軍と関東の鎌倉公方はもともと尊氏の息子たちだったがだんだんに血が遠くなり、足利本家の室町将軍と分家の鎌倉公方が対立するようになって(江戸時代に徳川氏が御三家、御三卿どうし対立しなかった(少なくとも戦争には発展しなかった)のは足利氏の前例を学んでいたからだ)、関東の方が先に幕府体制が崩壊していき、それが京都へ逆流してきて応仁の乱になった。足利将軍が守護を任命して日本全国を支配するという制度は東から西へと崩れていった。その全体的な流れを説明しなくては応仁の乱も戦国時代もわかるはずがない。日本外史を読めばその流れはわかる。南総里見八犬伝を読めばだいたいの雰囲気はわかる(あれを通読する人は滅多にいないとは思うが)。江戸時代の、京都の人はともかく、関東に住んでいた人たちはみんなわかっていたはずだ。ところが今の日本史では室町時代をほとんどまったく教えない。ただ京都室町御所で茶の湯がー、申楽がー、書院造りがー、連歌がーと芸能にうつつを抜かしていたら突然青天の霹靂のごとく応仁の乱が勃発し、義政は銀閣寺を建てて政治から逃避し、日野富子は義政を尻に敷き、ぐだぐだ戦争が続いて日本全体に波及して戦国時代になった、くらいのことしかいわない。で、司馬遼太郎の書いたものばかり読んでいる。室町時代がわかるはずがない。

私も関東に住み、東京神奈川、埼玉や千葉などあちこち経巡ってきたせいで、関東のことがだいぶわかるようになってきた。東京は日本の首都であるはずだが、日本人は関東のことをわかってない。

ともあれ。私が最近書いた本でも(いつ出版されるかわからないが)ドナルド・キーン批判をしたのだった。彼はいろいろわかってない。それはやむを得ないことだ。しかしながらみんなドナルド・キーンの研究はすごく優れたものだと思い込んでいて、実際にはろくに読んでもいないし、ちゃんとした検証などまったくされていない。これは困ったことである。