成り行き上、仕方なく『草枕』を通して読むことにした。予想とは少し違ってけっこう面白かった。この小説が一部の人(主に一般大衆)には受けがよく、また一部の人(主に評論家など)にはわからない、難しい、よみにくいと言われる理由もだいたいわかった。面白いというのはこの小説が案外通俗的だからだ。第五章の床屋と主人公の掛け合いなどはまるで漫才だ(『坊っちゃん』や『我が輩は猫である』に通じるところがある)。『草枕』が難しくてよくわからんという人はたぶんだらだら長くて蘊蓄ばかりで読む気にならないのだろう。それなら第五章だけをまず読んでみるとよい。
温泉旅館の出戻りの女将というのは、地元の人々には狂女のように言われているが、実際はまったく正常な精神の持ち主であって、自分の生きたいように生きようとしているだけの女のように思える。元の夫は銀行家だったが破産したので、元妻に金をもらって満州に行ってなんとか再起しようとしている。日露戦争の頃にはそういう人が多くいたのだろう。夫が破産したから離婚して実家に帰ってきた女というのは不義理な、不人情な、気が狂った女だと当時の人には見えたのだ。ストーリーとしてはただそれだけのことで、そこに芸術論のごときものがやたらと盛られているに過ぎない。
没落した夫を捨てた女は「不人情」なのだが、俗世間のごたごたを離れて絵を描いたり詩を作ったりする主人公は「非人情」だという、対比の構図になっているのも、普通に読んでみればわかるんで、ただそれだけのことだ。
日露戦争のころ、30歳の洋画家である主人公が、山中の温泉宿に宿泊する。やがて宿の「若い奥様」の那美と知り合う。出戻りの彼女は、彼に「茫然たる事多時」と思わせる反面、「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」でもあった。そんな「非人情」な那美から、主人公は自分の画を描いてほしいと頼まれる。しかし、彼は彼女には「足りないところがある」と描かなかった。
などとウィキペディアに書いてあるが、主人公の画工(えかき)が非人情であり、若奥様の那美は不人情なのである。これを書いた人は明らかに『草枕』を読み間違えている。
漱石の妻、鏡子はこの温泉場に行ったことはないが、那美のモデルとなった女から直接話を聞く機会があってそれを『漱石の思ひ出』に書いている(「前田(案山子)さんのお宅の姉さん」の名で出てくる。前田卓(つな)という人でウィキペディアにも項目が載る。この前田卓という人はごく普通の女性に過ぎない)。
漱石本人が書いた書簡や『余が草枕』も読んでみた。漱石は「坑夫」も小説になってない、と言っているけれども、「草枕」も「こんな小説は天地開闢以来類のないものです(天地開闢以来の傑作と誤解してはいけない)」「野間先生が草枕を評して、明治文壇の最大傑作だというて来ました。最大傑作は恐れ入ります。寧ろ最珍作と申す方が適当と思います。実際珍という事に於いては珍だろうと思います。」「この種の小説は、従来存在していなかったようである。」などと言っている。
それというのは、那美という主要人物は結局何もせず、それゆえストーリーも展開しない、それを主人公の画工があちこちから観察しているだけなので、今までこういう小説はなかったはずだ、などと言うのである。普通の小説というものは、主人公が動きまわってそれで話が展開していくものだ、そう言うのだ。一人称の主人公と別に主要人物がいて、主人公は主要人物の観察役に徹している。しかも主要人物は結局何もしないのでストーリー展開もない。漱石はそう言いたいのである。
一人称視点で見て語っていく小説があって、しかし実際の主役は主人公とは別の、主人公が観察した三人称の人物である、という小説は確かにあまり無いかもしれないが、私が書いた「エウメネス」はまさにそういう仕立てになっている。一人称のエウメネスが三人称のアレクサンドロスを観察する。実際の主人公はエウメネスではなく、エウメネスは読者がアレクサンドロスを観察するための視点役になっているにすぎない。真の主人公はアレクサンドロスなのである(少なくとも当初はそんなふうに書いていたのだが、いつのまにかエウメネスが本物の主人公のようになっていった)。私はこの書き方を Half-Life: 2 から思いついた。主人公の Gordon Freeman は一人称なのだが、Alex Vance という味方の NPC が一緒に行動する。Gordon は自ら行動もし、同時に Alex を観察する視点にもなっている。Alex を主人公にして、First Person である Gordon が読者の目や耳の代わりに徹するようにして、実際の活躍はすべて Third Person の Alex がやるようにすればそれは「エウメネス」になる。なんでそういうややこしいことをするかといえば単なる三人称よりは一人称のほうが没入感が高いと思うからだ。
そんな具合に確かに「草枕」は普通の小説とは異なる視点というか、一種独特な人称で書かれている。それが読者にとってつまらなくともよい。「草枕」はただ美しい感じがすればそれで良い、「ただ、読者の頭に美しい感じが残りさえすれば、それで満足なのである。もし「草枕」がこの美しい感じを、全く読者に与えないとすれば、即ち失敗の作、多少なりとも与えられるとすれば、即ち多少の成功をしたのである。」などとも書いている。私はしかし別に「草枕」を読んで、案外面白いなとは思ったが、特別美しいなとは思わなかった。漱石がなんか世の中の評論家かキュレーターみたいな、中二病的な、文学少年か文学少女みたいなことを臆面もなく、本気で語っているなとしか思えなかった。こういうことを言う人は世の中にはいくらでもいる。全然珍しくない。ごく普通の一般人でもこういう蘊蓄を語りたがる人、知識をひけらかしたがる人はいくらでもいる。漱石もまた全然特別な存在ではなく一般人と同じじゃん、としか思えなかった。
漱石の漢詩は同時代の漢詩人たちから異端視、白眼視されていた、ということを書いている人は多いのだが、では具体的に誰がそういう批判をしていたのかという記述がどこにもない。漱石贔屓な人たちの被害妄想のようなものなのではないか。漱石も決して下手ではないのだが、漱石程度、或いはそれ以上の漢詩を作る人は当時はいくらでもいたから、たとえば伊藤博文や乃木希典なんかも漢詩はうまかったし、正岡子規の漢詩も相当なものだったから、漱石の影がかすんでもまったくおかしくない。また頼山陽のファン(詩吟好きとか)から見ると漱石の山陽批判は苦々しかったと思う。
一般大衆に「草枕」の人気が高いというのは、まず一つは、冒頭の「山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」という出だしが面白くて、それで満足してそれ以上読まない人が多いのだろうと思う。「トンネルを抜けると雪国だった」「メロスは激怒した」と同じで、たいていのひとにとっては最初だけ読んで残りも全部わかったつもりになればそれで十分なのである。江藤淳も似たようなことを言っている。
また一つは、温泉場の女将が気が狂っていて、間違えて風呂場に裸で入ってきて「ホホホホホ」と笑う、などという展開がエロチックで良いのだろう。
頸筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢を後ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につく頃、平たき足が、すべての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗を溌墨淋漓の間に点じて、虬竜の怪を、楮毫のほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥邈なる調子とを具えている。六々三十六鱗を丁寧に描きたる竜の、滑稽に落つるが事実ならば、赤裸々の肉を浄洒々に眺めぬうちに神往の余韻はある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂の都を逃れた月界の嫦娥が、彩虹の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。
輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾のごとくに風を起して、莽と靡いた。渦捲く煙りを劈いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く。余はがぶりと湯を呑んだまま槽の中に突立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る。
こういうあたり。漱石の小説はあんまりない描写だ。官能小説作家なら参考にするに違いない。
また、俳句好きな人ならば漱石の俳句がたくさんちりばめられているから面白いかもしれない。
西洋美術や西洋文学の蘊蓄が好きな人にも衒学的な良さがあるかもしれない。骨董趣味のある人にも面白みがあるに違いない。
日本の近代化や西洋文明を批判しているようにみえるのも一部の人には愉快かもしれない。
「草枕」が最初に私の興味を引いたのは、それらとはまったく違う。漱石があからさまに頼山陽をけなし、荻生徂徠を持ち上げているのが異様だったからだ(※追記。これは吉川幸次郎「漱石詩注」序で指摘されている)。私は頼山陽の漢詩は好きなので、なぜ漱石が山陽を嫌うのか、それをまず知りたいと思った。しかしそういう動機で「草枕」を読もうという人はいまだに見かけたことがない。さらに漱石が自分の詩を小説の中に埋め込んでいるのを見て余計に興味が出た。
漱石はよくわからん人だ。なぜか大衆受けする。彼は表向きは高踏的、高等遊民的なふりをしているが、それと真逆なことを平然とする人だ。通俗小説は嫌だと言い、小説らしからぬ小説とやらを書きながら、しかもその中に大衆に迎合するあざとさがどこかにあるのだ。男女の三角関係を描いた「こころ」にさえ、どこか媚びがある。わかりにくそうで実は非常にわかりやすい、受けやすい要素があるのに違いない。そういう相矛盾した、一種の嘘というか、虚勢というか、本音と建て前というか、好きな人に見え透いた嘘をつかれてあえてだまされみたいということをみな好み、それゆえ漱石という大文豪にそれを無意識のうちに期待しているのではないか。流行作家の小説を読むとか遊園地や映画館にわざわざ行ったりする人はみなそうだ。さあうまく私をだまして喜ばせてくださいと、自らだまされたがっている人ほど虚構を楽しめるはずなのだ。落語だってそうだ。笑わせられるものなら笑わせてみろとけんか腰で、ハスに構えた人は落語を楽しめない。娯楽に飢えている人、笑って気分を晴らしたい人ほど楽しめるのではないか。人を楽しませ喜ばせられる文章を自然に書ける人は少ない。ましてそんな仕掛けを思いつく人はいない(英文学からヒントは得たかもしれないが)。多くの場合編集者などがアドバイスして読者に受けるようなものを書かせるんだが、漱石の場合はなぜか書いたものが、著者の意図思惑とは直接関係なく、そのまま読者受けするのだろう。結局そういう人が文豪と呼ばれる。漱石は新聞連載小説を嫌い、詩など作りながらも、彼ほどそうした商業媒体にぴったり適応した人はいないのだろうと思う。どんな言い訳をしようと、本人にも自覚はあったはずだ。
著者がなかなか自分の思い通りのものを書いてくれないとき、読者は著者と決別し、作品を自分の側に取り込んで、二次創作という形でその思いを果たす。或いはシリーズものという形で、読者全体の総意というか嗜好を実現するために、原作者の個性からどんどん離れて、共同作業で自分たちにとって理想的な世界観を構築していく。著者と読者は普通は対立している。しかしながら漱石は自分の中に矛盾を抱え込むことによって読者を喜ばせる方法を会得しているのではないか。