上田秋成の誤解

願はくは 花のもとにて 千代も経む そのきさらぎの 盛りながらに

これは宣長の歌で、明らかに西行の歌

願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃

を本歌としたものである。宣長らしいおもしろい返し方だ。上田秋成が、宣長の

敷島の 大和心を ひと問はば 朝日ににほふ 山桜花

を批判しているのだが、

大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。 おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。 おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。

宣長は、賀茂真淵や平田篤胤とはまったく違う意味に「大和心」「大和魂」という言葉を使っていた。「大和心」「大和魂」がもともと源氏物語や赤染衛門の歌に出てくるように、それはもとはといえば女言葉であり、平安時代の日本の女性的な心をさすものであった。特に「漢学」に対する言葉だった。宣長はもちろんそういう意味で使っている。漢心(からごころ)、漢才(からざえ)に対して大和心という言葉を使っている。そのことを指摘したのは小林秀雄だったと思うが今ちょっと良く思い出せない。

宣長が「大和魂」などという言葉を使ったのだろうか。使った可能性もあるが、それは「たをやめ」の「弱く女々しい心」という意味に使ったはずだ。敷島の大和心とは何かと人に問われれば、それは「朝日ににほふ山桜花」をひたすら愛でる、私のような、女々しい心のことだ、と解釈しなくてはならない。宣長が詠んだ大量の桜の歌をみればその気持ちを補完できるだろう。

宣長は復古神道の創始者(の一人)ということになってしまった。だから「敷島の」の歌も誤解されている。秋成も誤解した。ただし秋成は「正しく誤解」している。つまり宣長があんまり外国よりも日本を崇拝するのが気持ち悪いという意味で言っている。宣長にしてみれば国学の重要性を強調したいが故に、極端な表現をした。それくらい当時の漢学崇拝は空気のように自然であり、宣長は孤立無援だった(ある意味今も宣長はほとんど誰にも理解されていないという意味で孤立無援である)。

しかし宣長の弟子の国学者たちは「間違って誤解」した。大和心、大和魂を日本男子の猛々しい心だと考えた。平安時代より前の武人の心だと解釈した。

そしてその誤解が宣長を余計に有名にしてしまった。すべては後の世の人たちの仕業である。

ちなみに和歌のことを「敷島の道」などと詠み始めたのは足利尊氏ではないか。少なくとも彼がその一人であるのは間違いない。尊氏も武士からぬ女々しい和歌を詠んだ。大量に詠んだ。室町時代に勅撰集がやたらと作られたのは尊氏のDNAのせいだろう。彼が和歌好きだったのは間違いない。実は周りの武士団が勇ましいだけで、その真ん中にいた尊氏はほんとに女々しいだけの人だったかもしれないと思う。

追記:昔の記事を読み返すとほとんど同じことを書いていた。国意考。ついでに敷島の道。

娑羅双樹の花

西行の歌に

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃

というのがあるのだが、旧暦2月15日はおよそ春分の日のことであり、桜が咲くには早すぎる、と以前から思っていた。旧暦2月15日は釈迦涅槃の日でもあって、娑羅双樹の木の下で死んだことになっているから、ここで花というのはおそらく娑羅双樹の花をさしている。こんなことを私が初めて発見したわけはないと思いググってみると、川田順という人が「古典日本文学全集西行集」の中で言及しているらしい。

娑羅双樹なんて日本に生えているわけがない。また娑羅双樹の花が咲くのは初夏であり、
涅槃日とされる春分の日には絶対に咲かない。また桜の花でもあり得ない。つまり、「願はくは」は完全に空想の歌であり、何か具体的な花をさしているのではなく、ある抽象的・観念的な死の花を言っている。あるいは死後の西方浄土の世界を詠んでいる。現実の、春分の頃に咲く梅とか桃とかの花ですらない、ということになる。

おそらく後世の人があやまって(あるいは故意に)山家集の桜の歌の中に「願はくは」の歌を混ぜてしまったのだろう。特にその次に

仏には桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば

をもってきたのはまずかった。当然「願はくは」の花は桜だという誤解を定着させた。しかるに、もしこの花が娑羅双樹の花だとわかるように歌集の中に配置されたり詞書がついてたりしたら、このように有名になることも、西行の代表歌になることもなかっただろう。

西行と桜のイメージの相乗効果によってこの歌も西行も有名になったのだ。こういうふうに後世の人の誤解(脚色)のせいで有名になることはたくさんあると思う。そもそも釈迦の涅槃が春分の日であるというのも根拠がない。後世の人がえいやっと春分の日を涅槃日ということにしたのにすぎない。クリスマスがちょうど冬至の日にあたっているようなものだ。当然、西行が春分の日に死んだことになってるのもただの伝説にすぎない。人は真実を知るよりもむしろ美しい嘘にだまされたいものなのだ。

「古今和歌集の真相」の記述も少し書き換える必要がある。「西行秘伝」はもともとフィクションだからいじる必要はない。

そうして疑ってみると「願はくは」の一つ前の歌

はなにそむこころのいかで残りけむ捨てはててきと思ふ我が身に

これも実景を詠んだのではなく、釈迦入滅の心境を詠んだものかもしれない、とも思える。釈迦が死の直前に弟子のアーナンダに「この世界は美しい。そして、人生は甘美である」と言ったとあるが、この時釈迦が見ていた花はマンゴーの花であったかもしれない。そして西行はこの臨終の際に釈迦が言った言葉を和歌に翻訳してみたのかもしれない。


追記: 娑羅双樹の花が咲くのはインド暦で2番目の月だそうだ。

西行秘伝レビュー

『西行秘伝』にレビュー を書いてくださった方がいて、 その方が書いた他のレビューも読ませていただいたが、 日本史の専門家の方というよりは一般の読者のようにお見受けしました。

非常に的確なご指摘で、感謝しております。 「確かな歴史観に裏打ちされた良質なフィクション」とは私には最高の褒め言葉です。 「歴史に基づかないいいかげんなドキュメンタリー」の逆ということですよね。

私自身は理系なので歴史の高等教育を受けたわけではなくて独学なのだけど (古文と漢文はIIまでやったけど)、 ごく普通の読者が一気に読めてしまったというのに驚いている。 もちろん私も誰にも読めないような難解な話を書くつもりはなく、 「読んで楽しくためになる」ものを書いているつもりだけど、 たぶん一般読者には読めないのだろうなと尻込みしていた。 たとえば和歌や古文に特に現代語訳を付けてないところがあって、 高校古文II程度の学力があれば普通に読めるとは思うが、 世の中そんな人ばかりではないはず。

『将軍家の仲人』なども読めない人とさらっと読んでしまうひとがいる。 読める人のために信じるように書けばよいということだと思った。

追記: 今ちょっと読み返してみたのだが、 最後の、後白河院に頼朝が謁見するあたりが、かなりわかりにくい。 もう少しなんとかしなきゃならないなと思う。 まあ、これはこれで、このまま放置するという手もあるのだが。

石垣山と石橋山

たまたま小田原に行く機会があったので石垣山に行こうとおもった。一日空いていたから、時間があれば石橋山にも行こうとおもった。石垣山は有名な観光地であろうから、さくさくいけると思ったら甘かった。頂上までは農道しかなく歩行者ではなく農耕車が優先だなどと書いてある。こんな観光地はない。登り口の表示もわかりにくく結局は google maps に頼ることになった。できれば箱根登山鉄道の、博物館辺りから遊歩道が欲しいところだ。そしたらすごく良い観光地になるだろうにと思う。史跡はすばらしいのだから。
どうもこの自治体はやることがいろいろとちぐはぐだ。言いたいことは山ほどあるが、文句を言うのはこのくらいにしておこう。

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本丸跡からの眺め。小田原市街、相模湾が見える。酒匂川河口だけ砂浜が突起しているのがわかる。手前の芝生は二の丸跡。

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本丸跡の石垣。だいぶ崩れているが、これはすごい。こんなすごい山城跡は滅多にない。

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秀吉一夜城ともいうこの小田原攻めの主城は石垣山というだけあって、石垣がものすごくたくさん残っている。山城でこんだけ石積みがあるのは珍しいのではないか。まあ、熊本城とは比べものにならないかもしれないが。一応はテンポラリーな作りの城のはずだが、数年がかりの長期戦を予測していたのか。あるいは土木技術を見せつけた、ブラフのたぐいなのか。

本丸跡も天守台跡もなかなか立派だが、圧巻なのはこの写真にみるような井戸曲輪跡というもので、すり鉢状になった一番底の穴にはまだ水が湧いている。おそらく地形を利用して雨水を溜める機能もあったのだろう。

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海側に山を下りて石橋というところまでは国道沿いに歩道があったが、歩道はここまでで、あとは山の中の農道しかない。農道しかないのでは田舎と同じだが、田舎なんだから仕方ない。もう観光者気分はやめた。佐奈田霊社はそういう田舎のミカン畑の真ん中にある。おそらくみんな車で来るのだろう。小田原から歩いてくる人は皆無に違いない。いるとしても小田原市が作成した山歩きの地図を持っているはずだ。道ばたにたてられていたこの地図を写真に写して手がかりとし、あとはgoogle mapsを頼りになんとかたどりついた。

佐奈田霊社は石橋山の戦いという古戦場にあって、これは頼朝が伊豆で挙兵して最初に敗北し、佐奈田与一という味方を討たれて、いったん房総半島に逃げたという歴史的には非常に重要な場所なのだが、実にもったいないというかなんといえばよいのかわからない。鎌倉の混雑っぷりとここの過疎っぷりを見ると、観光業とはいったいなんなのだろうと思う。

佐奈田与一が討たれたという場所は普通のミカン畑だった。お土産に現地販売のミカンを買ってくるのを忘れた。

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小田原から根府川まで歩こうという人にはこの地図はあまりにも重要なので、まあフェアユースだと思うので掲載させてもらう。歩いてみて思うにハイキングコースとして悪くない。いや、かなり良いほうだと思う。景色もいいし。しかし何度も言うがこれは農道以外の何物でもない。農道でかつほとんど車が通らないので歩くのは快適だったがさんざん迷った。

根府川は駅前にコンビニすらない田舎の駅だった。

今回気づいたのだが、androidタブレットのgoogle maps は自分の wifi ルータが電池切れしても、自分が今いる位置がわかるのだ。つまりandroid端末は常に利用可能な周囲のwifiルータを検索しているから、その複数のルータから三角測量的に位置を推定している。検索機能などは使えないものの、位置だけはわかるのである。すごい。おそらくこれがkindleにはない。あるのかもしれないがgoogle mapsと連携してなくて非常に遅くなるのだろう。今回歩いたのは主に山道だったが、近くを東海道線とか西湘バイパスなどが走っているので、アンテナはたくさんあったのに違いない。

小田原城

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小田原城はきれいなんだが、木が天守閣を隠しているのはよくないと思うんだ。城というモノは威厳を示すものだから、東海道筋を通ってきた旅人たちにも、堀と、櫓と、天守閣が見えるようになっていたと思う。決して木で隠すなんてもったいないことはしなかったはず。


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本丸のすぐ下、というか、本丸の一部に図書館と文化館があるのだが、それはまあ良いとして、そこまで電信柱と電線が通っているのはいかがなものか。こういう現代建築こそ木で隠すなどの配慮をしてほしいものだ。特に電線は地中に埋めるとか。そのくらいの配慮がなぜできないのかと思う。城は堀の外から眺めた姿も大事だと思う。特に櫓や橋が壕に逆さまに移り込んでるのが絵的に極めて貴重なのだ。


後拾遺集

結構百人一首に採られてるな。

43 心あらん 人にみせばや 津の國の 難波わたりの 春のけしきを

能因法師。ジャストシステム様、能因法師を一発変換できるようにして欲しいです。

46 立はなれ 澤べになるゝ 春駒は おのがかげをや 友とみるらん

着眼点がおもしろい。公任。

52 春の夜の やみにしなれば 匂ひくる 梅より外の 花なかりけり

これも公任

55 我やどの 垣根のうめの うつり香に 獨ねもせぬ 心地こそすれ

詠み人知らず

57 春はたゞ 我宿にのみ 梅さかば かれにし人も 見にときなまし

和泉式部の歌。すばらしい。

62 我宿に うゑぬばかりぞ 梅花 あるじなりとも かばかりぞみん

主でさえこれほどに見るだろうか。

89 いづれをか わきてをらまし 山櫻 心うつらぬ えだしなければ
93 白河院にて、花を見てよみ侍りける 民部卿長家
あづまぢの 人にとはばや 白川の 關にもかくや 花はにほふと

これはおもしろい。感動した。

160 聲絶ず さへづれ野べの 百千鳥 殘りすくなき 春にやはあらぬ
165 四月ついたちの日、よめる 和泉式部
さくら色に そめし衣を ぬぎかへて やま郭公 けふよりぞまつ
214 さみだれの 空なつかしく にほふ哉 花たちばなに 風や吹らん

相模。さらりと。

216 おともせで おもひにもゆる 螢こそ なく虫よりも 哀なりけれ

重之

217 宇治前太政大臣卅講の後、歌合し侍りけるに、螢をよめる 藤原良經朝臣
澤水に 空なる星の うつるかと みゆるは夜はの ほたる也けり
229 夏の夜凉しき心をよみ侍りける 堀河右大臣
ほどもなく 夏の凉しく 成ぬるは 人にしられで 秋やきぬらん
265 秋も秋こよひもこよひ月も月ところもところ見る君も君

詠み人しらず。

379 大井川ふるき流れをたづね来て嵐の山のもみぢをぞ見る

白河天皇御製。宇多上皇が御幸した大井川(大堰川)とはやはり嵐山あたりの桂川のことを言うわけだ。

390 さびしさに煙をだにもたたじとて柴折りくぶる冬の山里

和泉式部。

404 いづかたと甲斐の白根はしらねども雪ふるごとに思ひこそやれ
539 立ちのぼる煙につけて思ふかないつまた我を人のかく見む

和泉式部

607 かくなむと海人のいさり火ほのめかせ磯べの波のをりもよからば

源頼光。これは珍しい。頼光が歌を詠むというのが珍しいし、「なむ」が歌に使われるのが珍しい。

611 おぼめくなたれともなくてよひよひに夢に見えけむわれぞその人

和泉式部。これも珍しい。「おぼめくな」などという口語的な言い方をするとは。

624 こほりとも人の心を思はばやけさ立つ春の風にとくべく

能因法師。貫之の、袖ひちて結びし水の凍れるを春立つけふの風やとくらむ、が本歌であろうが、うまくひねってある。

625 満つ潮の干るまだになき浦なれやかよふ千鳥の跡も見えぬは
635 したきゆる雪間の草のめづらしくわが思ふ人に逢ひみてしがな

和泉式部。序詞がうまく効いてる。

646 つれもなき人もあはれといひてまし恋するほどを知らせだにせば

赤染右衛門。どうかこれは。

657 恋死なむいのちはことの数ならでつれなき人のはてぞゆかしき
658 つれなくてやみぬる人にいまはただ恋死ぬとだに聞かせてしがな

陳腐ではあるがなかなかおもしろい。

664 ほどもなく恋ふる心はなになれや知らでだにこそ年はへにしか
678 たのむるをたのむべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせん

相模。期待させるあなたに期待はしないが待つとはなしに待つかもしれません。なんかな。

708 風の音の身にしむばかりきこゆるは我が身に秋やちかくなるらむ

詠み人知らず

712 明日ならば忘らるる身になりぬべしけふを過ぐさぬ命ともがな

赤染右衛門。忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな、の本歌か。赤染右衛門のやけくそな感じがおもしろい。君がため惜しからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな、の真逆を言っているのがおもしろい。

753 来じとだにいはで絶えなばうかりける人のまことをいかで知らまし

相模。もう来ないといって来なくなった人へ。来ないとすら言わず来なくなったなら、つらい人の本心をどうやって知ることができよう (来ないと言い残したので本心は知っている)。 なんかもうね。

754 たが袖に君重ぬらむからころもよなよな我に片敷かせつつ

これも相模。すごい歌だな。中島みゆきみたいだな。

755 黒髪のみだれも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき。

和泉式部。これ有名。これ知ってる。

779 こひすとも涙の色のなかりせばしばしは人に知られざらまし

良い歌だなこれ。弁乳母。

790 世の中に恋てふ色はなけれどもふかく身にしむものにぞありける

これも和泉式部。さらっと。でも良い歌。「恋てふ色」なかなか詠めそうで詠めぬよなあ。

796 荒磯海の浜のまさごをみなもがなひとり寝る夜の数にとるべく

相模。荒磯海の浜の真砂を全部欲しいと。

797 かぞふれば空なる星も知るものをなにをつらさの数にとらまし

藤原長能。星の数は数えられても、つらさの数をどうやってはかればよいのか。

798 つれづれと思へば長き春の日にたのむこととはながめをぞする

眺めているしかない。つまり期待できることはない。

801 君こふる心はちぢにくだくれどひとつも失せぬものにぞありける

和泉式部。

810 君がためおつる涙の玉ならばつらぬきかけて見せましものを

ありがち。

811 契りあらば思ふがごとぞ思はましあやしや何のむくいなるらむ
812 けふ死なばあすまでものは思はじと思ふにだにもかなはぬぞうき
816 神無月よはのしぐれにことよせて片敷く袖をほしぞわづらふ

相模

820 人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ

和泉式部。夏の虫が燃えて死ぬように、人の身も恋に燃やして代えてしまおう。

826 うしとてもさらに思ひぞかへされぬ恋は裏なきものにぞありける
831 白露も夢もこの世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり

和泉式部。これもなんか知ってるな。

とりあえずこのへんにしとく。

後拾遺集はやっぱすごいわ。とくに和泉式部。相模もすごい。選者に共感するところがある。

でね、後世まあ定家とかがつまみぐいした百人一首が流行ったおかげで、定家的に解釈される傾向があるのだが、つまみぐあいによれば後拾遺集は写実的な歌ばかりのようにもみえ、定家みたいにつまめば幽玄有情みたいにみえなくもない。どちらともとりえる。

少なくとも後拾遺集は古今集の影響はそれほど無いとみた。もちろんだじゃれや掛詞だけのうたもあるからそれが貫之の二番煎じだというようにピックアップすることもできるのだが、それはあまりにも後拾遺集というものをゆがめてみすぎだと思う。

陽成天皇暴君説

陽成天皇が暴君だったかどうか、判断するのは難しい。同時代資料としては『日本三代実録』があるが、これには大したことは書かれてないようだ。ぼかして記述してあるというが、陽成天皇に不利な部分がぼかしてあるのか、有利なことがぼかされているのか、どちらとも解釈できる。

私はおそらく、『日本三代実録』は、宇多上皇が編纂させたものであり、藤原時平の関与はさほどなかったように思う。つまり事実が淡々と書かれているだけであって、暴君というのは隠されたというよりは、もともとなかっただけじゃないかと思う。

それでまあ、状況証拠だけから言えば、清和天皇を子供の頃から面倒見てきたのは藤原基経・高子兄妹なわけだが、清和天皇の皇子・皇女の数というのは、成人してから死ぬまでの間がほんの短いことを考えると、異常なまでに多い。子供が生まれてないケースを考えれば、そうとう多くの女性に手をつけているはずである。天皇の場合、養育費や扶養の費用を天皇自身が負担するわけではなく、女性の親族が負担するわけだが、それにしてもあれだけ遊ぶには膨大な金がかかっただろうと思う。どうように膨大な時間もかかった。政治なんかやってらんない。

天皇のお小遣いを出したのは当然基経なわけだが、すべては、基経・高子としては清和天皇が子供を産んで高子が国母つまり皇太后になるための投資なわけである。つまり皇太子貞明が即位してくれないことには、元手が回収できない。大損なわけである。おそらく実務は摂政である基経がこなしたのだろう。どういう実務だったかは知らないが、律令国家というものが今の法治国家のように法律だけ決めれば官僚組織によって自動的に動く、はずもない。いまの法治国家ですら裏で賄賂が横行するのだから、平安時代に理想的な律令国家があったとするほうがおかしい。となると、全権を委任された基経はありとあらゆる手段を使って日本全国から税金を集め、官僚を搾取し、私有地を開墾し、寄進を募る。そのお金で主君を養い、その遊興費を捻出し、面倒みてあげて、その代わりに自分の懐にもしこたま金を入れる。すべては必要経費に計上。そうやってひたすら金と権力の日々を送る。一方、天皇は外を出歩いてひたすら愛人を作ってきままにくらしている。

ある日とつぜん、清和天皇は言ったかもしれない、基経、おまえもういいわ、俺成人したから全部自分でやる。あるいはこういったかもしれない。高子、俺兄さん(惟喬親王)に譲位して隠居するわ。俺の子供、まだ若すぎるから、後は兄さんに頼む。

いずれにしても基経・高子には許されない話である。これまで一生けんめいにがんばってきたことがすべて無駄になる。特に高子としては、自分の息子を即位させる、ただそれだけのためにしんぼうしてきたのに、今更他人に譲位されちゃこまると。

ま、そんなわけで清和天皇に非があったかどうかしらんが、彼はひどい死に方をした。
兄の惟喬親王もまた、悲惨な末路に。

ところが高子の子・陽成天皇も基経・高子をないがしろにしただろうね。もう成人したから摂政いらんわ、とか、藤原氏の女御なんかいらんわ。そう言った可能性が高い。基経出仕拒否の時期が元服以後で、また女御・后に基経の関係者がいない。陽成天皇ってもしかするとけっこう男気あふれる名君だったのかもしれんが、それは基経・高子には許容できないことだった。今までいくらおまえに金貢いできたと思っているの。どうしてもそうなる。

言い方はいろいろできるがだいたいそういうことだったろうと思う。

嵯峨天皇、清和天皇、陽成天皇と、コントロール不可能な天皇が続いたのだろうと思う。天皇何もしない。陽成天皇が藤原氏を切って親政をしていたら。外戚の紀氏とかがうまく仕事をした可能性もあるが、どっちかと言えば、いきなり国家破綻したかもしれん。しかしまあ、藤原氏に任せても遅かれ早かれ律令制は崩壊したんだけどね。

誰かが何かしないといけないのだが、その仕事を一手に引き受けたのが藤原冬嗣、良房、基経。ある意味、頼朝、頼家、実朝のころの北条氏に似たような立場だっただろう。うまみがなくちゃやってられないという気持ちはあったと思う。

仁明天皇、文徳天皇なんかは割とまとも、コントロールしやすい天皇だったと思う。
そういう系統で光孝天皇が選ばれたのではなかろうか。

宇多上皇

古今集読んでるとわからんことがわらわらわいてくる。

光孝天皇は、即位するとき、基経に、まずは固辞したが、それでもどうしても即位しろと言われて、じゃあ私は一時的な中継ぎなんで、私の息子たちはみんな源氏にしちゃいますね、皇統は文徳天皇か清和天皇か陽成天皇の皇子に戻してくださいね、とかいう条件を付けた。で、ご丁寧に自分の皇子を陽成上皇の侍従にして、業平と相撲をとらせたりした。

その侍従というのが宇多天皇なのだが、宇多天皇が陽成上皇の侍従だったというのは、十五歳から二十歳くらいまでの期間だろう。父・光孝天皇からは、帝王学ならぬ、臣下学を学ばされた、ということだ。業平は宇多天皇よりも四十歳以上年上だから、当時もう六十くらいのおじいさんで、まともに相撲をとったはずがない。神遊びの神事として相撲をとったはず。にしても相撲を取るくらいだから、親密な間がらだっただろう。

光孝天皇は、自分の意思に反して即位したのだから、自分の意思に反して後継者が決まるだろうと覚悟していた。基経が先に死ねば別だったろうが。だから後継者を指定しなかった。

ともかく、光孝天皇にしてみると、陽成天皇の正統性にはまったく疑いがなく、陽成天皇が廃位されたことにもなんの正当性もない、と考えていた。態度にそれがあらわれている。

光孝天皇は崩御するまで、後継者指名に関しては何もしなかった。基経が適当に裁いて、皇籍復帰した宇多天皇が即位するが、まあ、帝王学は学んでないわけで、いきなり位を継いだわけです。で、父はもういない。しかも二十歳そこそこの若さ。さてどうしようかと途方に暮れただろう。もうなんでもかんでも摂政関白に任せちゃおうと思ってもおかしくないんだが、そこはたぶん何かしらの反骨精神、自立心があった。というより摂関家に対する対抗心とか復讐心がめらめらわいてもおかしくない。

親子二代天皇を継いでしまったわけだから、いまさら陽成天皇に皇統を戻さなきゃとは考えなかった。せっかく天皇になったんだから、努力して良い天皇になろうと思ったと思う。それで源氏だった頃に生んだ皇子がいて、後の醍醐天皇だけど、その息子になんとしても皇位を継がせられるようにしようと宇多天皇は思ったと思う。

光孝天皇と宇多天皇はほとんど接点がなかったと思う。だけど宇多天皇としてみれば光孝天皇がやりかけていた文芸復興ということを引き継ぎたいと思ったと思う。父親の遺志を継ぐというのが宇多天皇のやりかただった。

宇多天皇という人は、基本的には典型的なプランナータイプの人だったと思う。アイディアマンといってもよい。アイディアは自ら出すが、あとは臣下や息子になんでも丸投げする。政治は菅原道真に、和歌は紀貫之に、天皇という仕事は醍醐天皇に。割と放任しちゃうタイプだったと思う。

そう考えると宇多上皇と醍醐天皇と菅原道真の関係もなんとなくわかる気がする。醍醐天皇は宇多上皇の留守中に菅原道真を左遷してしまう。宇多上皇はその決定を覆すこともできたはずだ。太宰府に流されてから道真は二年以上生きていたのだから。

でもそれをしなかったというのは、さほど道真を大事に思ってなかったということじゃないか。好き嫌いで取り立てたというよりは、才能を買ったと。で道真はおそらくは才におぼれるタイプだった。どんどん一人でつっぱしって周りの忠告も耳に入らないタイプ。まあ太宰府辺りでのんびりしてろよというつもりではなかったか。太宰府権帥というのは当時そんな低い官職ではない。遣唐使盛んな頃は非常な重職で、遣唐使の大使になったりする職。遣唐使廃止されたあとも、太宰府で交易品の管理とかしなきゃならない。左遷ではあったかもしれないが、島流しというようなニュアンスはそれほどなかったのではないか。菅原道真については、彼の漢詩をじっくり読んでみようと思う。

宇多上皇という人と道真の関係は、貫之との関係とも、醍醐天皇との関係とも似ていたと思う。割とドライな感じだったと思う。そうかじゃあそうしろと。そうしたけりゃそうすりゃいいでしょ、みたいな。

宇多上皇はいろいろやりたいことがあった。日本国中御幸したかったし、法皇として仏教にも励んでみたかったし、延喜式も整備したし、和歌集も編纂したかったし。やりたいことが多すぎて自分だけじゃできないってこともあったろうし。わざわざ自分でやってたら切りないって思っただろうし。でもちゃんとプロジェクトのマネージメントはする、みたいな人ではなかったか。

そんで宇多上皇は古今集の中では法皇という名前ででてくるんだが、詞書きにしかでない。歌が一つも採られていないのだが、これはいかにも不自然だ。たとえば亭子院歌合というのがあって主催者が宇多上皇で判者も宇多上皇。すると、宇多上皇は自分では歌は詠まない。判定する側だから。でも一個だけ自分の歌を紛れ込ませた。えへ。じつはこれは私の歌だよんとか、詞書きに残している。

古今集についても同じような気分だったのではないか。宇多上皇はスーパーバイザーであるから、自分の歌は載せない。ほかにもいろいろ遠慮した理由は考えられるが、ともかく、もし、宇多上皇が何か紀貫之に注文をつけたとすれば、自分の歌は載せるな、ということ。あるいは、載せても良いが詠み人知らずにしとけということ。

古今集には詠み人知らずとして宇多上皇の歌がいくつか混じってるんじゃないか、という気がしてくる。いや、もしかすると詠み人知らずの歌の大半がそうなんじゃないかという気がしてくる。たとえば

色よりも かこそあはれと おもほゆれ たが袖ふれし やどの梅ぞも

詠み人知らずの古歌というものは、もう少しわかりやすいものだと思う。この歌はわかりにくく、従ってある個性を感じる。

この歌の解釈はこうだ。誰が私の家の梅に、袖をふれただけで去っていったのだろう。一本くらい折り取っていけば良いのに。色よりも香りのほうが優れている、とでも思ったのだろうか。

梅ノ花ハ色モヨイガ 色ヨリ香ガサ ナホヨイワイ アヽハレヨイニホヒヂヤ 此ノヤウニヨイニホヒノスルハ タレガ袖ヲフレタ此庭ノ梅ノ花ゾイマア

これは宣長の解釈。

多くの場合、だれかの袖が触れたせいで、梅にこのように良い香りがついたのだ、と解釈されるのだが、かなり無理がある。普通は梅から袖に香りが移るものであって、その逆というのはあり得ない。そこを無理に解釈しようとしてはいけない。

丸谷才一は、触れただけではなく実は折り取ったのだ、と解釈しているが、これもかなり無理がある。折り取ったのであれば、香りだけでなく色もあわれだと思ったのである。香りだけで色がないということは枝は折ってないはず。

おそらくこの歌を詠んだ人は、だれかが自分の家の軒先まできて梅の花を見ていったのを目撃したのだろう。普通は来訪のしるしに一枝折っていくものである。当時の習慣では、いろんな人がやいやい指摘するように、実際そうだったかもしれない。やあこないだ君の所から一本梅をもらったよ、今うちの瓶に差してあるんだ、へえそうかい、みたいな会話のきっかけになる。

しかし、折らなかった。だれかもわからなかった。誰だったのだろう、ずいぶん中途半端なことをして。当時の社交辞令的にはかなり不完全で不審な行動だったわけだ。それで怪しんで詠んだ。という意味だと思う。

小料理屋の女将さんが、店先をふと立ち寄って通り過ぎた客を恨んで詠んだような、そんなニュアンスの歌だと思うんだよね。そう解釈すべきなんだが、そこまで読み取るのはかなりたいへんだ。

こういうひねった歌というのは、詠み人知らずにないとは言い切れないが、どうも身分を隠しただれかの作のようにおもえてならない。貫之が詠んだ歌だとしても不思議ではないが、貫之が名を隠す必要性がない。

宇多上皇と醍醐天皇の中は決して良好でなかったのは確かである。醍醐天皇にもたくさん弟たちがいて、いつそっちに皇位が移るかしれない。しかもお父さんは教育熱心。いつまでも政治やらなにやらに口出ししてくる。邪魔くさいお父さんだったと思う。ある意味、光孝天皇と宇多天皇の関係とは真逆。

醍醐天皇がどんな性格の人だったかはさっぱりわからない。醍醐天皇がもすこし長生きして宇多上皇が崩御して、父親の影響なしでどんなことをしたかわかればいいんだが、先に死んでしまった。どうも病弱だったらしい。なんとなく気が弱く反抗的な息子、という感じがする。まあイメージだが。

亭子院歌合

勝、負、持(ぢ)は引き分け。

左の奏は巳時にたてまつる。方の宮たち、みな装束めでたくして、州浜たてまつる。
大夫四人かけり。
右の州浜は午時にたてまつる。おほきなるわらは四人、みづらゆひ、しがいはきてかけり。

かけり、というのは担いだという意味で、神輿のようにして四人がかりで州浜を担いだ、と言っている。州浜が未だによくわからんが、やはり巨大な生け花のようなものだったように思う。寛平菊合でも州浜に菊を挿すなどという話がでてくる。

左 貫之
さくらばなちりぬるかぜのなごりにはみづなきそらになみぞながるる
右 貫之
みなぞこにはるやくるらんみよしののよしののかはにかはづなくなり
みぎかつ。うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける。

州浜が入るのも、奏楽があるのも、歌を詠むのも左→右の順番のようである。

左も右も同じ歌人なのはどうなのかと思うのだが、同じ亭子院歌合ではそういう例がいくつもあるので、同一人物が判者(この場合は宇多上皇)にどちらが良いか決めてもらうという意味か。「うちの御うた、いかでかはまけむ、となんのたまひける」がわかりにくい。 貫之の、右の方が良いが、私の歌なら負けなかっただろう、という意味か。この詞書きのせいでこの歌が宇多天皇の御製に間違われ、さらに醍醐天皇の歌に間違われたのだろう。 思うに、貫之の歌というのが一番自然だ。宇多天皇はこういう、見もしないみよしのの歌なんて歌わない気がする。気がするだけだが。

丸谷才一は、だがたとえそうだとしても、勅撰集に醍醐天皇御製として採られているからには、醍醐天皇の作とすべきだ、などと言っていて、そんなはずはないと思う。どこからそんな考え方がでてくるのか。

室町時代の勅撰集はそういうことをよくする。詠み人知らずの歌を猿丸大夫の歌だとかよくわからんことをする。けしからんことである。「王朝文化」というのはそういう江戸時代や室町時代から古代を眺めたフィルターのかかったものではないはず。それは結局、王朝時代の価値観ではなく、江戸時代の価値観にすぎないからで、現代人が王朝時代を江戸時代の価値観で眺める必要などない。古いものが神秘的でありがたく見えるのは人間の習性にすぎない。実際昔の方が迷信深くて信心深かっただろうが、なんでもかんでもそんなふうに解釈するのは間違っている。丸谷才一も結局は「古今伝授」と同じ病気にかかっている。古今伝授といってもそれは紀貫之が考えていたこととは似ても似つかぬものだ。紀貫之をありがたがるなら古今伝授などというもので紀貫之の姿がゆがめられていることを排除し、当時彼らがどのようなものの考え方をしていたかを推し量るべきではなかろうか。

王朝とか新古今とかいいながら、実は江戸時代や現代人の価値観で王朝とか新古今とか言ってるだけではないか。だから、王朝文化は新古今で死んだとかいいたくなる。江戸時代にも王朝文化は続いていた。連続性はあった。古今伝授のような迷信のせいで不連続に見えるだけではないのか。

左 御
はるかぜのふかぬよひだにあらませばこころのどかにはなはみてまし
ひだりはうちの御うたなりけり、まさにまけむやは

「ひだりはうちの御うたなりけり」左は実は御製だったのだ、負けるはずがない。判定は誰が詠んだかわからぬ状態でやるらしい。ま、その方が公平だわな。詠み手とは別の人がよみあげ係をやる。で、判者が宇多上皇だから、本人は自分の歌が勝ちと判定するから負けるはずがない、とまあそんな意味だろう。

新々百人一首

古今集を調べている関係で丸谷才一『新々百人一首』を再読しているのだが、うーむ。

二条妃(藤原高子)の「雪のうちに」の解釈が異様に長い割には、何も言ってないのに等しい。最後に「高子のこの絶唱と並ぶほどの返歌は業平にもむづかしかったらう」などと書いている。

二条妃とか良房とか基経なんかというのは非常に政治色の強い人であり、基経は歌を一つも詠まなかったらしいんだが、そういう傾向は親兄弟に遺伝するものであって、基経の妹の二条妃こと高子も、実際に歌を詠んだか疑わしい。高子の歌も非常に少ない。

高子や良房を古今集に登場させたかった誰かが代わりに詠んだ歌である可能性が非常に高い。というより、その可能性を考慮したうえで読み解くべきなのである。

この歌はなんのことやらわからぬ、思わせぶりな歌であるというだけであり、新古今的、あるいは俳句的に解釈すれば「絶唱」かもしれんが、古今集では政治的寓意という意味以外は考えにくい。たぶん、高子が兄基経によって皇太后位を剥奪され、不遇のまま死んだことが暗喩されているだけだと思う。

また、光孝天皇「君がため」を「農民の持ち来つた若菜なのに自分が働いたやうに装つて詠じたのである」などと言っている。丸谷才一は徒然草の黒戸御所の逸話を知らないのだろう。光孝天皇は皇統からはずれて、55才まで親王のままで、息子たちは皆臣籍降下して、まさか庶民のように自分で若菜を摘んだり、炊事をしたりすることはなかったといえ、当時の人たちが抱いた光孝天皇のイメージは、庶民のような質素な暮らしをしていた人、なのであり、そのイメージに沿って、本人だか他人だか知らないが、詠んだ歌であり、そのように解釈された歌なのである。

それは呪術とまじりあつてゐる牧歌趣味であつた。

いや、そう解釈してはいけない。天皇とか、古代の和歌というのがいつもいつも呪術的で言霊思想だと考えるのはおかしい。醍醐天皇の歌

みなそこに 春やくるらん みよしのの 吉野の川に かはづ鳴くなり

「呪歌にふさはしい悠揚たるもの」「三句から四句にかけて、大味でこせつかない効果がいい」「職業歌人の詠とは違ふ帝王調の魅力を満喫」とあるのだが、これも誤読に近いのではないか。どちらかといえば丸谷才一が職業歌人と名指しした貫之の屏風歌に酷似している。何かの間違いなのではなかろうか。

「みよしのの吉野の川に」は単なる常套句であるのに、どうしてこれが帝王帳なのか。天皇だってわざと庶民のような歌を詠むことだってあるのに。

醍醐天皇の歌の多くは宇多上皇と間違われている危険性が高いと思う。