皇統の正統性

状況証拠的に見ると大化の改新というものはなかった、と言って良いだろう。中大兄皇子と中臣鎌足が謀り、皇位簒奪をもくろんだ蘇我氏を滅ぼしたことになっている。

皇族と蘇我氏の間で紛争があって、蘇我氏が排除され、孝徳天皇が即位した、という以上の意味はないと思う。

大化の改新は、天武天皇のもとで最初の太政官となった藤原不比等の創作であろう。私が思いついたというより、wikipediaに挙げられている説の中で、私が一番もっともらしいと思うものである。

なんと言えばよかろうか。皇族というか、天皇家というか、王家といおうか。おそらく、天武天皇までは、日本の王というのは、抜き身の武力に基づく勝者以外の何物でもなかっただろう。強い者が王となる。強い一族が王家となる。日本で一番金をもって土地をもったものが王となる。それがなんとなく天照大神の時代までさかのぼることができるが、連綿と続いてきたものなのか、いろんな断続があったものなのか、確かな記録がなくてよくわからない。ただまあ継体天皇以後はだいたい続いているらしい、ということがわかるだけだ。

藤原不比等は、皇統というものをコントロールして、自らを天皇の第一の臣下と位置づけることによって、大陸から輸入した舶来文明を模倣することによって、自分の一族を安定にすることを発明した最初の人だったはずだ。藤原氏が天皇家に対して行ってきたことは結局はそれだ。つまり、万世一系とか皇統というものは、藤原氏によって初めて創作されたのである。天皇が自らそう主張したというよりも、藤原氏が天皇家と外戚関係を結んで自分の地位を確立するために皇統というものを必要としたのである。

力が強いものが天皇になれば良いのならば外戚なんて無意味だ。皇統と外戚は同時にできた。外戚を藤原氏が独占したから他の氏族は枯死してしまった。というより、藤原氏が一族を挙げて守った皇子が皇統ということになってしまう。それ以外の皇子やそれ以外の氏族は死んでしまう。それだけ藤原氏の一族の結束は強かった。当時、政治的に結束できる一族は藤原氏以外いなかった。天皇家にも藤原氏以外の氏族にも、そんな強固な団結なんてものはまるで見られなかった。藤原氏以外の王家や氏族はみな砂のようにばらばらだった。藤原氏に匹敵する結束というものは、のちに在郷武士の間から芽生えてくる。

王家だけを他の氏族より突出させるというマジックを演出したのは藤原氏であった。天皇家はこの時代そんな器用なことはできない。とにかくやたらとたくさん妃を持ってたくさん皇子や皇女を生ませた。皇子は父親に似てみな遊び人でやはりたくさん妃をもってたくさん皇子や皇女を生ませた。まさにカオス。源氏物語の光源氏をみよ。嵯峨天皇や文徳天皇や清和天皇や陽成天皇らの皇子たちを見よ。天皇家が子孫を自分でコントロールできるようになったのは白河天皇になってから。白河天皇は皇太子以外の皇子をみんな出家させてしまう。法親王というやつ。法親王は一生独身。彼一人多少贅沢したところでたかが知れている。皇室財産は自然と本家に集約し、分家は消滅する。皇太子が誰を妃とするかもコントロールできる。つまり外戚をコントロールできる。白河院は天皇家の長老として完全に一家をコントロールする。気づいてみれば当たり前のことだ。なんだ自分でやればできるんじゃないの、ってことは白河天皇になってからで、それ以前はそんな当たり前なことすらやってなかった。

ともかく、奈良平安時代に、外戚と皇統をリンクさせて臣下として権力を握るってことを明確に意識していたのは藤原氏だけだった。天皇家すらそんなことは考えすらしなかった。だから、皇子たちは一致団結することなく、藤原氏によって各個撃破されてしまった。

天武天皇は戦争ばかりやっている人だった。嵯峨天皇はやたらと皇族を増やして分家を作った。清和天皇もかなりむちゃくちゃだ。陽成天皇までの天皇というのは、ただ日本の王様というだけであり、何か具体的に世の中を治めたり、王位継承や皇統というものをコントロールしたという形跡がない。王位継承に介入し、王位というものに権威付けをしたのはもっぱら藤原氏である。

天皇家の皇統に着目して藤原氏がその外戚となって権力をふるったのではない。藤原氏が皇統を発明したのである。その戦略は嵯峨天皇の皇統に介入した藤原冬嗣、その子の良房、その養子の基経らによって確立された。つまり摂関政治というやつだ。藤原氏は天皇家を搾取しつつ、天皇家にとって変わることはしなかった。そのかわり一族を挙げて自分らと血縁関係のある皇子を守り、それ以外の皇子を排除した。そうして実利を得た。この構図はおおよそ道長の時代まで続いた。

白河院はおそらく藤原氏を観察した結果、皇統というものを天皇家が自分で管理すれば藤原氏要らなくね?ということに皇族で初めて気がついた人だっただろう。このとき初めて自分の一家は自分で制御しなくちゃならないという意識が天皇家に生まれたのだ。つまり天皇家は皇統とはどうあるべきかということを外戚の藤原氏から学んだということになる。

それ以前の宇多上皇は白河院ほどではなかったにしろある程度その必要性には気づいていたと思う。宇多上皇は自分の皇子の醍醐天皇に確実に皇位を伝えるために生前に譲位した。平城天皇や嵯峨天皇も上皇になったのだが、そのことをわかってやったのかどうかよくわからない(皇統は決して安定せずコントロールもできてなかったから)。後三条天皇や二条天皇も、取り巻きの下級公卿と組んで藤原氏を排除し、中央集権を目指した形跡がある。この二人は名君であった可能性もあるがその治世はあまりに短すぎた。

藤原氏の次に皇統を管理しようとした臣下は北条氏だった。北条氏は三種の神器に皇位の正統性があると主張した最初である。そんなことは藤原氏は発明してない。藤原氏にとって自分たちの権力の正統性とは、先祖の中臣鎌足と天智天皇が起こした大化の改新というもの、藤原が天皇家の外戚であること、皇統は大事ですよということ、ただそれだけだ。そして藤原氏は自分たちが拠って立つところの大化の改新なるものが、まったくの虚構であることも十分承知していたはずである。

北条氏はこんどは三種の神器という虚構を創作して、仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てた。今度もまた、皇統というものをコントロールし、皇統のルール付けをしたのは臣下の北条氏であった。天皇もしくは上皇による宣旨以外に、神器の正統性というものが北条氏によって追加されたのである。当時の天皇や上皇が神器は大事だよ、なんて言うはずがない。後白河法皇は神器など無視して後鳥羽天皇を立てたではないか。だが、北条氏にしてやられた天皇は、今度は神器を逆手にとって北条氏に楯突いた。俺は神器を持ってるし譲位もしないよと言ったのは後醍醐天皇である。いや、おそらくはそのブレインであった北畠親房である。神器に権威が生まれたのは北条氏と北畠親房のせいだ。そして神皇正統記は親房のプロパガンダだ。北条氏は自分が作った虚構に縛られて滅亡した。

次に皇統のルールを書き換えようとしたのは足利尊氏である。尊氏は後醍醐天皇から没収した三種の神器の権威によって北朝第一代光厳天皇を立てる。ここまでは北条氏と同じである。北畠親房も困った。権威の源泉と自ら認めた神器をとられちゃったんだから。神皇正統記にもそのへんのことはしどろもどろ。「神器?神器にも権威はあるよ、もちろん」みたいな書き方をしている。

その後、神器は南朝に奪われ、上皇も天皇もみな南朝に連れ去られた。尊氏は、北朝第四代後光厳天皇を、神器もなく、天皇もしくは上皇による宣旨もなしに即位させたのである。廷臣に擁立されて即位した継体天皇の先例に倣う、という理屈しか付けられなかった。説得力ゼロ。いくらなんでも、継体天皇の前例持ち出されても誰も納得しない。このことが北朝にとっては致命的な痛手となる。

北朝第六代後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器と皇位を譲られる。これによって南北朝の合一はなったのであるが、北朝第四代後光厳天皇と第五代後円融天皇には皇統の正統性がない。このことは明治になって蒸し返されて、北朝ではなく南朝が正統であるとされた。北朝すべてに正統性がなかったというよりも、後光厳と後円融に正統性がなかったというべきだ。

ここで勘違いして欲しくないのは、国権というものをマネージメントしていくために皇統というものが必要とされたのであり、万世一系の皇統から国権が派生したのではないということである。国権とは日本の政治的権限の中心をどこにどういう形で定めるかということであり、そのために皇統というものが長い年月をかけてじっくりと形成されてきたのである。イングランド王の王位継承ルールが異様に複雑なのは、イングランド王国の国権がどのように継承されていくかを明確に定める必要があったからである。ルールが不確かだとすぐに国王が複数立って継承戦争がおきてしまう。血統が大切なのではない。継承戦争が起きないようにするために血統がその根拠とされたのである。欧州の継承戦争を良く学ぶと良い。南北朝の騒乱を良く学ぶと良い。そうすれば血統がなぜ重要かわかる。他にとって代わる土地相続の方法論が、当時はなかったのだ。欧州ではキリスト教というファンタジーが血縁をオーバーライドしてくれたがその実効性にも限度があった。ヨーロッパ人もそこまで信心深くもなかった。他にはもう切り札はない。

藤原氏によって王家から大臣や官僚というものが分離され、北条氏によって皇統というものが「血の通わぬ」神器というアイコンに移された。要は、天皇の歴史とは、武家の歴史とは、皇位継承というものが王族の恣意によるものから、政治権力に関わるもの全体のパワーバランスと、合議と、客観的な手続きに移行していくという、至極当然な過程なのだ。

国権に皇統なんて必要ないと言ったとたんに日本の歴史は天智天皇や天武天皇より前にさかのぼってしまう。奈良平安時代に営々と築き上げた王朝の伝統はすべてご破算になる。
強いやつが自分の都合で天皇になればいいといったとたんに継体天皇の時代まで戻ってしまう。さもなくば中国の易姓革命の思想を輸入する必要があっただろう。日本人はそのどれも採用しなかった。自らの国に続く皇統というシステムを現実に即するよう作り替え整えていくことにしたのである。

こうしてみていくと、皇統の正統性は、いつの場合も、天皇や上皇が自ら主張しているというよりは、皇室を擁立する公家や武家がルール作りをし、コントロールしようとしていることがわかるのである。藤原氏は天智天皇までさかのぼった。北条氏は天智天皇より昔の皇室伝来の神器に正統性を求めた。足利氏は仕方なくそれよりもまえの継体天皇までさかのぼって正統性を求めたが結局うまくいかなった。後からルールを追加する者ほど古い神話時代の権威を掘り起こしてこなくてはならなかった。本居宣長の国学はある意味で神話時代を掘り返した北条氏や足利氏などの武家の理論武装に利用されたのである。藤原氏にとって神話時代のことなどどうでもよかったと思う。藤原氏には天智天皇という自分たちだけの偶像がいればそれで十分だったのだ。それ以外の権威を持ち出されても藤原氏には不利なだけだ。

明治維新はさらに神武天皇や天照大神まで皇室の権威をさかのぼろうとする。別に近代人のほうがそれ以前の封建時代の人より信心深いというわけではない。新しい時代ほど、まだ手垢のついていない古い権威を必要としただけのことである。また古い権威を創作するための学問や想像力も、それ以前の時代より発達していた。

藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などは、神武天皇や天照大神がどうこうなどということは考えてもみなかっただろう。どんなものか想像すらできなかったし想像してみる必要性も感じなかった。空想力がそこまでいたらなかったはずだ。家康は自らを東照神君と呼んだ。明らかに天照大神とタメをはろうとしている。家康はまた天台宗にも凝った。かなりやばい人だが要するに宗教も神話もよくわかってはいなかったのだろうと思う。周りの人もやはりわからなかった。誰もわからないからダメだししなかっただけだと思う。

国粋主義によって国家が生まれるのではない。産業革命によって近代国家がうまれ、近代国家というのは王室を持つにせよ共和国であるにせよ、国民万能主義であるから、国民の要請によって国粋主義が生まれるのである。国粋主義は往々にして太古の昔の神話を必要とする。近代考古学によって箔付けされた神話を。ヒトラーが「アーリア人がー」と言ったのにも似ている。イタリアルネサンスもキリスト教以前の多神教を必要とした。トルコからギリシャが独立するのにもヘレニズムやそれ以前のギリシャ神話を必要とした。国粋主義者は国粋主義がどのようにして生まれてきたかをしらない。国粋主義者は国粋主義に「酔う」が故に国粋主義の本質が見えぬ。国粋主義とは何かということは覚めた目で見なくてはわからぬ。本居宣長の理論も、日本に産業革命がおき、近代国家が成立したから必要とされたのである。国学という国粋主義が発展して国民国家ができたのではない。国民国家ができたから国粋主義が必要になったのである。たぶん日本の国をありがたがっている人たちはなぜ日本という国がありがたいのかよくわかってない。天皇をありがたがってる人たちも、ほぼ誰も天皇を知らない。天皇を知るには藤原氏や北条氏や足利氏を知る必要がある。南北朝の歴史を知る必要がある。しかし日本人のほとんどは南北朝音痴なのだ。歴史はつねに緩慢に連続的に進化していく。あるとき急に完成した形で生まれるのではない。急に過渡的に突然変異したように見えても、そう見えるのにはしばしば何か見落としがあるのだ。ちゃんと調べれば連続性はあるものだ。些細で不確かなものが、次第に明確でしっかりしたものに成長していくのだ。日本はその歴史を一応独力で今日まで、地道に地道に、積み重ねてきた。しかしその長い長い過程をきちんと連続して観察し理解するのは一般人には無理だ。だから学者が要領よく整理して見せてやらねばならぬ。しかし現代の学者は通史というものが苦手であり、日本史なら日本史、世界史なら世界史。その中の特定の時代しかやらない。完全にたこつぼにはまってる。司馬遼太郎の如きは幕末維新と戦国時代しかやらない。歴史のつまみ食い。これでは歴史はわからない。

明治天皇や昭和天皇も、また敗戦当時の右翼(山本七平の言説を見よ)らもみな、いわゆる「天皇制」というものが一種のファンタジー(虚構)であることは十分承知していた。従って、人間宣言というものがあのような形で出た。その内容は極めて妥当なものだった。昭和天皇は「天皇制」にまとわる虚飾を捨て去りたかった。

朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス
(We stand by the people and We wish always to share with them in their moments of joys and sorrows)。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ (The ties between Us and Our people have always stood upon mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths)。

朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
(We expect Our people to join Us in all exertions looking to accomplishment of this great undertaking with an indomitable spirit)。

これが天皇と日本国民の間で新たに結ばれた契約であって、またしても敗戦とGHQという外圧によるものであったのは皮肉であるが、皇統のルールが更改(再認識)されて、明文化されたのだ。しかるに右翼はこの人間宣言を認めず過去のファンタジーに固執し、左翼は鬼の首を取ったように勝ち誇って「天皇制」という右翼を攻撃するための偶像を捏造しようとし、今日に至っているのである。

これでも国家と呼べるのか

小室直樹は預言者である。彼の預言で最も有名なのは「ソビエト帝国の崩壊」だが、他にもいろんな重大な預言を遺している。

「これでも国家と呼べるのか」は平成八年、つまり、今から18年前、1996年に出た本だが、恐るべき預言をしている。

日本人はまだ「土下座外交」の本当の恐ろしさを理解していない。国際法上、みずから謝罪するとは責任を取ることである。責任を取るとは補償に応ずるということである。このとき、挙証責任はこっちに押し付けられてしまうのだから、相手の言いなり以外にどうしようもない。挙証責任とは何か。分かりやすい例を挙げておこうか。

あなたがある日突然、見ず知らずの他人から「借金を返せ」と訴えられたとしよう。挙証責任がこちらにあるということは、裁判でその見ず知らずの他人から金銭を借りた事実が存在しないことを、あなたが挙証・立証しなければならないということである。もしあなたが大金持ちで、次から次へと見ず知らずの他人から裁判を起こされたらどうしますか。

国際法上、講和条約またはそれに該当する条約(例、日中共同声明、日韓基本条約など)を結べば、それ以前のことは一切なかったことになる。もはや賠償の義務はない。それなのに、日本の方から謝罪したので、一切が蒸し返されてしまった。佐藤内閣の日韓基本条約や田中角栄が周恩来に賠償を放棄させた日中共同声明など、せっかくの努力がみんな無駄になった。

諸外国もその国民も、あることないこと、いやあるはずのないことを言い立てて日本に補償を要求してくるに決まっている。戦争責任に時効はないとばかりに。日本は挙証責任をひっかぶってしまっているんだから逃げられない。「ヒロシマ、ナガサキ」に対して “I’m not sorry” と言ったアメリカとはわけが違うのだ。

今のネトウヨがツイートしたりブログに書いていることはすべて小室直樹が30年前から言っていることの焼き直しに過ぎない。田母神俊雄などは現場の将官だったから少しは新しいことを言っているが、ほとんど同じ。細川政権や村山政権は比較的最近なので、小室直樹が書いたことの中ではごく新しいが、それでもインターネットに民間プロバイダが現れるよりも前の論説であるからネトウヨよりずっと古い。今は石原閣下以下いろんな人がそういうことを公の場で言うようになり、飲み屋の親父も昔から知ってましたとばかりに韓国・中国批判をするが、正直なところ「おっさん、ほんとにわかってんの」と言いたい。
テレビでわいわい言ってることを反復するのは飲み屋の親父だってできる。実際飲み屋の親父なわけだが。

小室直樹は誰よりも早く、リアルタイムに指摘していた。二番目ですらなかった。誰よりも早く、一番にだ。そして誰も当時小室直樹を理解する人はいなかった。小室直樹が如何に偉大だったか!私も小室直樹のようになりたい。

道元 永平広録 巻十 偈頌

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最近このブログで山居がよく読まれているようだが、これは、tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、かなり古い。どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。興味ぶかい。

最初に書いたのは釣月耕雲慕古風というものなのだが、1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、そうざらにはいないはずである。いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで耕雲、鉤月などを書いた。2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、今見るとけっこう面白い。こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。うまい字というより、面白い字だ。全体のバランスがなんか微妙。メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。当時58才だったはずだ。装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。永平広録、読みたい。アマゾンでも売っているがかなり高い。たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」というものがあるらしいことがわかった。済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。
兩隻帚眉、但能掃愁;
一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚;
未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。
睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。
寒くてもいつも裸足。
年は取ってないのに白髪。
無頓着。
何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。
桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。
後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。検索してみると、図があった。能面。まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、左右一対の両方、という意味だろう。「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、
日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。後は読めばわかる平易な句だ。「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊

忘却山行困暑氛

宿鷺不驚人對語

跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。
山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。
棲み着いたサギは人が話しても驚かず、
魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。「雰」でも韻は踏める。平仄は完璧と言って良いのではないか。さすが菅茶山。

王

ふと「エウメネス」の最初の頃のバージョンを読み返してみた。それはこんな具合に終わっている。

兜の持ち主は、王の手から空の兜を受け取り、元のようにそれをかぶった。
私は驚嘆した。王はまさしく世界の王である。この世に人類が生まれて何千年、何万年が経っただろうか。これから何万人、何百万人の王が地上に生まれるだろうか。しかし、私は彼以上に偉大な王はかつても、これからもいないと確信する。
そんな惚けた私の顔を見て、私の心を見透かしたのか、王は照れくさそうに言った。
「エウメネスよ。おまえは私がやることなすことを一つ漏らさず後世に伝えたいと言っていたから、今私が兵士らの前でやったことも、一つの美談として書き残すに違いない。
よろしい。私が死ぬまでは真実を語ってはならない。しかし私が死んだら、ありのままにこう記してほしい。
おまえは、私があの水を飲まなかったことが、きわめて立派なことのように思っていよう。しかし違うのだ。私は用心していたのだ。私は素性の知れない水は飲まぬ。奉られた食べ物も食べぬ。兵士らが食らっている食い物を横から手を伸ばして食い、兵士らが飲んでいる水を分けてもらって飲む。毒を盛られるのを怖れているのだ。
また、仮に、兵士に悪意なくして、水を献上したとしてもだ。砂漠の案内人が飲んで良いと言った水しか飲まぬのだ。岩山の洞窟にたまっていた水など、得体の知れないものを飲んで腹を壊してはならぬ。遠征途中で病気になってもいかぬ。だから飲まなかっただけなのだ。
だが、兵が王に献上してくれた水をただ捨てたのでは、兵は腹を立て、私が兵を信頼しないように、兵も私を信頼しなくなってしまうだろう。だから私は少し演出を加えて、私がたぐいまれな克己心によって、水を飲むことを拒否したように思わせたのである。」

わかりやすい。エウメネスは明確に王の書記官として、史官として現れていて、王がときおりエウメネスに自分の真情を語って聞かせるのは、エウメネスに託して後世に伝えるためだ、と書かれている。まだアマストリーもラオクシュナもここには現れない。

さらに古いバージョンではタイトルは「メガス・バスィレウス」となっており、

アフガンの山岳地帯を抜け、ペルセポリスへ向かう途中に、ペルシャ高原でも一番に過酷な砂漠が横たわっている。その東半分は塩の平原。太古の昔、カスピ海やアラル海のような、閉ざされた塩辛い海が広がっていたのだろう。さらに西へ進めば、砂の砂漠。塩と砂の他には、不毛の岩山がそびえているだけ。あとは何もない。

といきなり沙漠の話から始まり、

「では我らマケドニア人がはじめてこの砂漠を越えてみせようではないか。キュロス王やダレイオス大王よりも、我らが偉大で強いことを後世に伝えるために。」

と言わせている。これまたわかりやすい。そして最後にエウメネスに「バスィレウス(王よ)!」と叫ばせてしめくくっている。

だが私はその後エウメネスに絡ませるため、また王が兜の水を捨てるシーンをよりドラマティックに演出するため、アマストリーというヒロインを登場させ、さらに男女関係を複雑にするためにアパマまで追加して、ガンダーラから話を始めることにし、スーサ合同結婚式を後書き代わりに付けたした。またエウメネスの主観視点(一人称)の話にした。「バスィレウス(王よ)!」というしめの台詞も省略し、

「私が今言ったことはアマストリーには秘密だ。他の誰にも秘密だ。なぜだかふいに、おまえにだけは打ち明けてみたくなったのだ、エウメネスよ。」

と、王はただの気まぐれでエウメネスを自分の独り言の聞き役にしたことにしてしまった。わかりにくい。なぜこの話はここでいきなり終わっているんだ?と不思議に思うだろう。読者はこれはエウメネスの物語だと思うだろう。よく読めばそうではないことがわかるが、読まない人はエウメネスが主人公でアマストリーがヒロインのはずだが、なんかおかしな話だなと思うだろう。

今から思えば私はアマストリーのキャラを立てすぎた。しかもエウメネスは他のマンガの主人公になっていて、やはり余計にキャラが立ちすぎた。ほとんどの読者はその先入観なしでこの小説を読まない。本来、王の観察者にして読者の代理人にしかすぎないキャラが立ちすぎて、ほんとの主人公みたいになってしまった。書いてるうちに脇役が勝手に暴走し始めるのは私の小説ではよくある。いつの間にかメインのキャラの一人になってしまうことがあるが、それはそれで面白いのでほうってある。

もともとこの小説は、アレクサンドロス大王が主人公の話であった。アレクサンドロスというよりは、アノニマスな「王」について語る話だった。歴史上もっとも王らしい王、典型的な王、誰もが知っている有名でわかりやすい王という意味でアレクサンドロスを選んだが、しかし、作中ではずっと「王」で通した。「王とは何か」ということを読者に問う作品だからなのだ。

「王とは何か」とは私の中では「天皇とは何か」という問題であって、それはより根源的には「武士とは何か」という問題である。武士と天皇は相対的なものである。その二つはもとは「王」という一つのものであった。私はずっとこの問題について考えてきた。私の歴史小説は要するにその問いに対する解答を記述しているものだ。

もしエウメネスが「王よ!」と叫ぶ台詞であの小説をしめくくっていれば、或いは「メガス・バスィレウス」というタイトルであれば、私の意図はもっとわかりやすかっただろう。しかし私は読者をもっと作中に没入させ、自分の問題として考えさせたかった。FPS (first person shooter) の手法を借りて。つまり作者はどうしても神の視点から物語を作ってしまう。神がいろいろ親切にヒントを与えてしまう。それは避けたい。プレイヤーはノーヒントでいきなり現実の中に投げ込まれる。そして自分で答えを見つける。そういう小説にしたかったのだ。そう、ハーフライフ2のように。

もし王がそういうふうに自分だけに真情を吐露したときに、自分ならそれに対してどう思うか。怒るかもしれない。あきれるかもしれない。がっかりするかもしれない。余計に王を好きになるかもしれないし、嫌いになるかもしれない。だが、エウメネスに「王よ!」と叫ばせてしまうと、その答えを作者が提示してしまうことなる。それは避けた。読者に私とは違う解釈をする余地を残したつもりだった。

だが、そこまでたどり着けた読者がいただろうか。そう、私自身、当初の意図がわからなくなりかけている。まして私以外の人が正確に読み解くことができようか。

エウドキアや江の島合戦はもっと読者に親切に書いてある。私が読者というものを以前より信頼しなくなったからでもある。

もしおまえが苦痛に快楽を覚え、快楽に苦痛を感じるようになれば、おまえもまた王の仲間入りをしたのである。
王は、戦場にいて、勝ち続けているうちだけが安全なのである。
王は、自ら偶像を演じねばならぬ。

だが一方ではこんな具合に「王とは何か」という答えを王に言わせてしまったりしているから、難易度はいくぶんか下がっているはずだ。たぶんこれも読者にはわかりにくいと思う。私はバブルの絶頂期に隠者のような仕事を選んだ。世の中が安定を求めるようになると転職した。他人と逆のことをやるのが正しいと信じているところがある。それが「王」に対するシンパシーになっているのだが、多くの読者には共感できないだろう。こんなふうに種明かししない限りは。

なぜこの話はこんな中途半端な終わりをしているんだろう。作者の意図は何か。作者はたぶん読者を突き放して、ラストは自分で考えよと言っているらしいな。読者はそこまではたして気づくものだろうか。私自身久しぶりに読むとそこがとても心許ない。

ジグソーパズルは途中まで組み立てれば何の絵が描かれているかはわかる。残りは読者の想像に任せよう、自分と同じように補ってくれるかな。それとも全然違う絵で補間してしまうだろうか。そんな楽しみはある。「川越素描」も長編なのに「素描」と言っているのは、書かれていないことの方がずっと多いからだ。ある意味私の作品はすべて素描だ。細密画のようにすべてを緻密に描きこんでいるわけでない。

情と詞と体

定家「詠歌大概」冒頭、

情以新為先、詞以旧可用。風体可効堪能先達之秀歌。

情(こころ)は新しきを以て先と為し、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用うべし。 風体は堪能なる先達の秀歌に効(なら)ふべし、と訓めばよかろう。
割註があり、

求人之未詠之心詠之 (人が未だに詠まない心を求めて、これを詠む)
詞不可出三代集先達之所用、新古今古人歌同可用之

古今・後撰・拾遺に先達が用いた言葉以外を用いてはならない。 ただし新古今に採られた古い歌は同様に用いることができる。

不論古今遠近、見宣歌可效其体 (古い新しい、遠い近いをあげつらわず、良い歌を見て、その体に倣うべし)

情と詞の関係はつまり古今集仮名序 「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」 と同じである。 真名序の 「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」 とも同じである。

為世はさらにわかりやすく、「和歌秘伝抄」に 「心は新しきを求むべき」「詞は古きを慕ふべき」と解いている。

思うに、油彩画は油絵の具とキャンバスを使って描く物である。 油絵の具はゴッホの頃は近代化学の最新の産物であったかもしれないが、 今では古典的な画材である。 だがいったん油彩というジャンルが確定したからには油彩画は油絵の具を使い続ける。 アクリルを使えばもはや油絵ではない。

イエスは「新しき酒は新しき革袋に盛れ」「新しき酒を古き革袋に入れるな」という。 新しい酒というのはまだ発酵が終わらず、炭酸ガスを吹き出しているから、 古い革袋にいれると膨張できずに破裂てしまうという意味だ。 まあそれはそれでいい。 新しい思想は新しい技術と相性が良い。それはけっこう。 しかし和歌をたしなむ目的の一つは、古い言葉を通じて古人の心を現代に甦らせることにある。 今の世の中では忘れ去られ感じることが困難になってしまったことでも、 和歌を見ることで古人の心が手に取るように読み取れる。
西行や、実朝や、後鳥羽院や宇多上皇の心までも。

和歌に関して言えば、為世の言うように、

誠に月氏漢朝のわざをよむべきにあらず、 広学多聞を事とすべきにもあらず。 ただ大和言葉にて見る物聞く物について言ひ出だすばかりなり。

という考えに尽きている。 また、

いなおはせ鳥は鳥なりけりとも、雀なりけりとも、 よまぬ上はただ知らず。 よみによみたりとも何の苦しみかあらん

と定家自身が言っていると為世は言っていて、 これ完全に古今伝授を定家自身が否定してるわな。 でまあ為世は割とまともな人だなと思った。 むしろ為兼の歌論はひどい。 歌がつまらぬ人の歌論が優れていて、 歌がおもしろい人の歌論は出来損ないというのは困ったことである。

それはそうと、 「情」「詞」は明らかだが「風体」というのがよくわからん。 「歌風」とも「風姿」と「歌体」もいい、 ただ「体」とも言うのだが、 これがよくわからない。 古今集真名書にも出てくる。

華山僧正、尤得歌躰。然其詞華而少実。

対応する仮名序の箇所は

僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し

あるいは

文琳巧詠物。然其躰近俗。如賈人之着鮮衣。

文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず。 いはば商人のよき衣着たらむがごとし

また、

大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而躰甚鄙。如田夫之息花前也。
大友黒主は そのさまいやし。
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

「歌体」は「さま」と訳されていることがわかる。 あえて現代語で表せば「表現」とでもなるか。

つまり、新しい思いつきを古い言葉を使って、先達の表現(本歌取りを含む)に倣って詠め、ということであろうか。

香川景樹

香川景樹の「新学異見」、ここで新学というのは賀茂真淵の「にひまなび」のことであり、 景樹がそれに反論を試みたものである。 四十代半ばに書いたものらしい。

真淵は例によって万葉集はすばらしい、万葉集をまねて歌は詠め。 古今集をまねてはいけない。 実朝のような歌を詠め、などと言っている。 正岡子規が「歌詠みに与ふる書」に書いているのとまったく同じ論調。 子規がまねたわけだが。 景樹はそれに対して反論する。実朝の歌などは、こころざしあるものは決して見るべきものではない。まして倣ってはいけない、という。 その理由がつらつら書いてあり面白い。 適当に意訳すると、

人が古歌に感動するのは、その言葉がひとえにまごころから出ているからである。 その古人の偽りなきにならうのである。 ところが、実朝の歌は、古調・古言をかすめとったものであり、 古人のように真心を歌ったのではない。 後の人が見れば、ある人は藤原京や平城京の古代の歌に似ていると貴び、 ある人は真情を偽って世を欺く作だと卑しむであろう。 卑しむのはともかくとして、貴ぶなどもってのほかだ。 漢詩を作る人たちが我が国の言葉を捨て我が国の調べを捨てて、 ひたすら外国風に似せようとするのと同じことだ。

実朝の歌にもとときどき良いものはあるが、 万葉調むき出しの詠草のようなものもあるから、 それを言うのだろう。 実際実朝の歌をまねしてはならない。 ろくなものはできないだろう。

万葉調を漢詩にたとえているのが面白い。 景樹が宣長の国学の影響を受けている可能性は非常に高い。 歌風はだいぶ違うが。

でまあ、景樹とか、古今とか、景樹の影響を受けた御歌所長の高崎正風などは、 まず正岡子規に叩かれ、 それからアララギ派の斎藤茂吉や土屋文明などに叩かれ、すっかり悪者になってしまった。 それで大正時代以後完全に香川景樹は廃れてしまったのだが、景樹の言うことはまったくもって正しい。 実朝あたりが遊びで万葉調の歌を詠んだ程度ならともかく、 実朝をまねた下手くそ、例えば田安宗武なんかが出てきて、 そうすると宗武は吉宗の息子だから、みんなそれをよいしょするから、 そもそも歌などわからんやつらがむちゃくちゃにまねし始めて、 まねをするやつほどもとよりは下手だから手がつけられない状態になった。 それで、万葉調の復興というのはおよそ失敗に終わった。

正岡子規は景樹をある程度評価しているのだが、 そのニュアンスは他人には通じなかったと思う。 これまた面白いので引用しておく。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌もこれ有り候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存じ候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太に比するが適当と思われ候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存じ候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申し候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣きにこれ有り候。

蓼太とは江戸時代の俳人で大島蓼太という人らしい。知らんな。昔は有名だったが、今は完全に忘れ去られた人、ということか。

苔よりも雪の花咲け塚の上
五月雨やある夜ひそかに松の月
つちくれにうごく物みな蛙かな
世の中は三日見ぬ間に桜かな
かりそめに降り出す雪の夕べかな

確かになんかやらしい感じのする俳句だわな。 都々逸みたいなものだったかもしれんね。
景樹の歌も都々逸っぽいよな。 江戸時代の和歌なんだから仕方ないわけで。

景樹に戻るのだが

歌は、おのが情を枉(ま)げて、古調に似せんとするばかり、巧みの甚だしきはあらざるをや。

自分の真心を曲げてまで古歌に似せるのは技巧がひどすぎると。

未だに解き得ぬ遠御代の古言を集めて、今の意を書きなさんには、違へることのみ多く、誰かはうまく聞きわく人あらん。彼は今にそむくをもて古へとよび、巧みのなれるをもて真心と示し、大御代の平言をばひたすら俗語といやしめて、ただ古き世にのみかへらんとす。そのうたへる歌、つくる文を見るに、もののわかれざるや、うるま人と語らふごとく、事のたがへるや、いるま詞聞くらんここちして、さらにこの大御代心の姿とも思ひなされぬは、浅ましからずや。

景樹の主張をそのまま受け取ると、現代人は現代語で自分の真情を述べるべきだ、 ということになるが、果たしてそこまで言っていたのだろうか。 「短歌」という呼び名は間違っていないが、 「和歌」を短歌というようになって、 「やまとうた」というニュアンスが失われた。 大和言葉だけを使った歌という大前提が失われて、 五七五で季語を入れれば俳句、 季語が入ってなければ川柳、 五七五七七と少し長くすれば短歌、 そんなふうな位置づけになってしまっている。 単なる定型詩の一カテゴリーにされてしまっている。 「和歌」の本質は「やまとうた」であることであり、 形式だけ「やまとうた」を借りた詩は「やまとうた」ではないのではないか。 「短歌」というものをそういうものだと言いたければ言えばよいと思うが、 私はそっちの世界に行くつもりはない。

景樹は「古今和歌集正義」で、紀貫之が

いにしへ今の大和歌をつどへて、それが中より勝れたるを選びて、千首廿巻となし、古今和歌集と名付けて、奉り給ひしより、大和歌の道再び古へに復りて、今におよべり

唐歌大和歌の同じからざるけぢめを知るべく、大御国は異邦の風俗といたく違へる事を知るべきなり

などと書いている。 ここでも和歌は漢詩と対比されているのだが、 今の言葉を無制限に使って良いとは言ってない。 和歌には和歌のけじめがあると言っている。 「大御国の風俗」を大事にすること、それが和歌を詠むということだ。 同じことは宣長にも契沖にも言えるわけだし、 蘆庵も明確には言ってないが同じ思いだと思う。 真淵や宗武はそこからかなり外れてしまっている。 古すぎたり新しすぎたり、外来語を多用して「やまとうた」から逸脱しては元も子もない。

今の世の中外来語や漢語を使わないと詠めない歌はいくらでもある。 私はあえて使わない、敢えて詠まないだけだ。 和歌にはすでに定型詩という制約がある。 そこに語彙の制約を付け足すのになんの問題があるか。 定型が嫌ならやめれば良いだけだ。

歴史小説を書くのにも似ているかもしれない。 時代考証ができなくて歴史物など書けない。 それと同じではないか。

思ふこといはでかなはずそれいへばやがても歌のすがたなりけり

「桂園遺文」にある歌。景樹やっぱすごいな。 それが普通の人にはなかなかできぬ。 景樹の言いたいことを代弁してみると、 中世ヨーロッパには古代ローマ語に基づく正書法としてのラテン語があった。 ラテン語が共通語であった。 日本にも共通語と呼べるのは平安時代に確立した大和言葉であり、 古今集や源氏物語がその規範であった。 景樹にとってみれば正しい大和言葉を学んで真心をそのまま歌うのが、 大和歌だったのだと思う。 景樹の使う言葉は江戸時代の俗語ではない。 平曲や謡曲や俳句に使われるような和漢混交文でもない。 完全な和語である。 きちんと使い分けている。 古典語でもちゃんと熟達すれば話し言葉のように話すことができるし、 歌を詠むことができる。 そう言いたかったんだと思う。

江戸時代でも外来語や新語まじりの歌はいくらでもあった。 しかし和歌は大和言葉以外の語彙を使うことをかたくなにこばんだ。 俳句が語彙にアバウトになっていったのと違う。 ところが短歌というようになってからその制約をとっぱらってしまった。 それが良くない、と私は言いたい。 それはルール違反だ。 短歌は大和歌であることをとっくにやめてしまった。 和歌を大和言葉以外で詠んでいいのなら、 伊勢神宮だって鉄筋コンクリートで建てれば良いではないか。

大和言葉の語彙を広げようと新語や造語を乱造するのは無理があるかもしれない。 ただ大和言葉にも適当な新語はあってよい。 新語は漢語かカタカナ語に限る必要はない。 ただ、日本人にとって大和言葉の新語にはかなりの拒絶反応がある。 なじみ深いから新語は造りにくい。 だがそこはなんとかしなくてはならない。 香川景樹や上田秋成をみよ。 宣長だって、明治天皇が歌に使っている造語だって、そんなひどくはない。 みんな感覚で批判しているだけだ。

鉢木

鉢木という謡曲がある。

のうのう旅人、お宿参らせうのう、あまりの大雪に申すことも聞こえぬげに侯、痛はしのおん有様やな、もと見し雪に道を忘れ、今降る雪に行きがたを失ひ、ただひと所に佇みて、袖なる雪をうち払ひうち払ひし給ふ気色、古歌の心に似たるぞや、駒留めて、袖うち払ふ蔭もなし、佐野のわたりの雪の夕暮れ、かやうに詠みしは大和路や、三輪が崎なる佐野のわたり

これは東路の、佐野のわたりの雪の暮れに、迷ひ疲れ給はんより、見苦しく侯へど、ひと夜は泊まり給へや。

げにこれも旅の宿、げにこれも旅の宿、假そめながら値遇の縁、一樹の蔭の宿りも、この世ならぬ契りなり。それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて、憂き寝ながらの草枕、夢より霜や結ぶらん、夢より霜や結ぶらん。

観阿弥、もしくは世阿弥の作とされるが、不詳であるという。 世阿弥が「駒とめて」について言及しているので、それにもとづき、観阿弥もしくは世阿弥の作とされているだけなのではなかろうか。 このころはもう、「一樹の蔭の宿り」「それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて」などのように風雪や雨をしのぐための「蔭」という使い方が定着していたと見える。

古今集、神あそびのうた、ひるめのうた

ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む

ひるめは天照大神であるという。おそらく万葉時代の古歌であろう。 夫を見送る女の歌であるという。 夫が馬に乗って出かけていく。急がず、川で馬に水を飲ませよ、姿をしばらく見ていたい。 という意味らしい。

河原にいでてはらへし侍りけるに、おほいまうちぎみもいであひて侍りけれぱ
あつただの朝臣の母

ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む

藤原敦忠の母ということは時平の妻、ということだろう。 おほいまうちぎみとは、時平のことか。 明らかにひるめの歌から派生している。 というより、古歌を手直しして藤原敦忠母の歌ということにしただけであろう。

俊成

こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは

これもやはりひるめの歌を受けている。

東の方へ罷りける道にて詠み侍りける 民部卿成範

道の辺の 草の青葉に 駒とめて なほ故郷を かへりみるかな

これはごく普通の歌ではあるが、ひるめの歌を受けて、 自分が馬で旅立っていく立場で詠んだ返歌とも言える。

寄獣恋 為家

駒とめて 宇治より渡る 木幡川 思ひならずと 浮名流すな

成範の歌の続編と見えなくもない。 俺がいない間に浮気するなよ、と。 俊成、定家、為家と親子三代「駒とめて」の歌を詠んでいるからには、 為家には何か思い入れはあっただろう。

「こまとめて」「かげをだに見む」とあるのだから、

駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

の本歌がひるめの歌であるとしてもおかしくはない。「こまとめてしぱし水かへかげをだに見む」と古歌にはあるが、 そのかげさえ無い、という意味かもしれん。 いや、それが案外正解かもしれん。 「かげ」という単語がここで唐突に出てくる理由がそれで説明がつく。 新古今に採られているからには、俊成のお墨付きであるはず。 おそらくは俊成の歌を踏まえて、 佐野の渡し場で船を待つ間、しばし馬を駐めて水を飲ませ、自分は袖に積もった雪を打ち払う、 そんな景色すらない、 ということを言いたかったのではなかろうか。

一緡の青蚨

一緡(いちびん、もしくは、ひとさし)の青蚨(せいふ)、と読む。穴の開いた銅銭に通して百銭、または千文単位で結ぶひもが緡。青蚨とは銭のこと。一緡の青蚨とはつまり、ひとまとめにした銅貨のことを言う、らしい。銭緡(ぜにさし)、銅貨一緡、青蚨半緡などとも。

青蚨は青鳧とも書く。蚨は水棲の虫で蝉に似るという。鳧はケリという鳥。

青蚨がなぜ銅銭なのか。よくわからない。

南方有虫名敦禺、一名則蜀、又名青蚨,形似蝉而稍大,味辛美,可食。

南方に敦禺(とんぐう)、あるいは則蜀(そくしょく)、または青蚨(せいふ)という名の虫がいる。形は蝉に似ているがやや大きい。辛いが美味で、食べられる。

生子必依草叶,大如蚕子。

卵は必ず草の葉に付き、育つと蚕のようになる。

取其子,母即飛来,不以遠近。

その幼虫を取ると、母は遠近にかかわらずすぐに飛んでくる。

雖潜取其子,母必知処。

こっそりその子を取っても、母は必ずどこかわかる。

以母血塗銭八十一文,以子血塗銭八十一文,毎市物,或先用母銭,或先用子銭,皆復飛帰,輪転無已,名曰「青蚨還銭」。

母の血で八十一文の銭に塗り、子の血で八十一文の銭に塗る。市場で売り買いするとき、母の銭から先に使っても、子の銭から先に使っても、皆まだ再び返ってきて、繰り返し終わることがない。そこで「青蚨還銭」という名がついた。

由此,古之銅銭常以「青蚨」或「蚨钱」代指。

そこで「淮南子・万華術」では、昔の銅銭を代わりに「青蚨」或いは「蚨銭」という。

らしいですよ。なぜ81文で束にするのだろう。9×9=81というつもりだろうか。

子母銭ともいうらしい。「青蚨術」。ま、要するに、ただの銅銭ではなくて、一つづりになった銅銭の束、ということであろう。

捜神記というものに書かれているらしい。

原勝郎

足利時代を論ず

足利時代が多くの歴史家からして極めて冷淡な待遇を受け、單に王室の式微なりし時代、將た倫常壞頽の時代とのみ目せられて、甚無造作に片付けられて居つたのは、由來久いことである。

すでに戦前から室町時代はそんなふうに見られていたのかとあきれる。

されば若し此時代に特有なる出來事として、後世の研究者の注意を惹いたものがあるとすれば、それは書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

今の財界人も同じことをいう。司馬遼太郎やドナルド・キーンの発明でもない。

換言すれば足利時代史の眞相といふものが未だ充分に發揮せられて居なかつたと云つてよい。

これまでも室町時代は何度も発見され、何度も誤解され、何度も忘れ去られたのだろう。

史學上久しく荒蕪地となつて居つた足利時代

ひどいな(笑)。そんなひどいかな。ていうか何か独自の発見でもあるのかと思い読んでみたが特に何も書かれてなくてあきれた。

東山時代における一縉紳の生活

将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。

幕府が京都に戻ることにより、世の中も平安時代に戻ったと言っているのである。なんと近視眼的な。

群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。

はたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とはならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。

少しまともなことを言っている。今の時代でも、平成の今より昭和のほうがのどかで犯罪が少なかったなどと本気で信じている老害じいさんがたくさんいるのに比べれば、まともな感覚の持ち主である。ちゃんと統計を取れば、昭和のほうがはるかに犯罪は多かった。明治や江戸時代とさかのぼるほどに多くなるだろう。

約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。

だーかーらー。室町時代が京都が唯一の日本の中心だった時代だと考えるのがそもそも間違いなんだってば。封建社会なのに中央集権なわけないじゃん。

一縉紳とは三条西実隆のことであるらしい。

国枝史郎

いろんな意味でいろいろひどい。

天草四郎の妖術。天草四郎の臨終の言葉がイエスと同じく 「われ渇く」「事畢りぬ」 だったというのだが、作り話にもほどがある。

ヒトラーの健全性。 たわいないとしか言いようがない。 戦中の日本人がみなこんな馬鹿だったとは思えないが、 こういう人はたくさんいたのだろう。

ローマ法王と外交。これも戦中、日独伊三国同盟絡みの話と思われるが、 いろいろつっこみどころがある。

法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行とりおこない、 「汝を神聖ローマ皇帝となす」 と宣言し、その冠を頭上に置き、 「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至ないしは攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。

ローマ皇帝がローマ教皇に戴冠されるというのはカール大帝に始まる権威付けであり、 オットー一世はそれをなぞったのにすぎない。皇帝と教皇は持ちつ持たれつ。つづくグレゴリウス七世とヘンリー四世の破門がどうのこうのと言うのも同じ話。誰が皇帝となり誰が教皇となるか、誰を担ぎだれを蹴落とすか。皇帝を戴冠するのも破門するのも教皇の自由だが、皇帝はその教皇をローマから武力によって追い、或いは枢機卿を味方につけて、自分に都合の良い教皇を立てることができる。複数の皇帝と複数の教皇が権威と武力を駆使して駆け引きをしているというのが実態なのであり、ローマ教皇が神聖ローマ皇帝より偉いというのは全然間違った見方である。

ペーターという狂信家を利用してウルバヌス二世が第一次十字軍を招集した。まあそこまでは良いとして、

私が何故法王ウルバン二世を大外交家であるというかというに、当時の封建武士がこの時代に流行した騎士道に心酔し、兎ともすると法権を侵す態の行動をし英気を他に洩らす術なき脾肉の嘆をかこっていたのを認め、この十字軍の挙によってその英気を宗教戦に洩らさせ、キリスト教興隆に役立てようとしたその点からである。

その観察は明らかに間違っている。確かにウルバヌス二世は第一次十字軍の重要なロールプレイヤーの一人だが、それ以上ではない。十字軍は、少なくとも第一次十字軍は、東ローマが衰退し、相対的にトュルク人とノルマン人の勢力が東欧に伸張したことによって起きた。ただそれだけだ。キリスト教とはほとんど関係ない。その後の十字軍はヨーロッパのキリスト教国の勝手な暴走であったかもしれないが。