逍遥院実隆

古今伝授の祖とされるのが室町末期・戦国初期の武将の東常縁。
本家は関東の千葉氏であるという。
お家騒動があって千葉氏が下総千葉氏と武蔵千葉氏に分かれて戦った。
東常縁は将軍足利義政に派遣されて、大石氏を頼り葛西城に居た武蔵千葉氏の実胤、
太田道灌と同盟して赤塚城に居た実胤の弟の自胤と共に戦ったという。
東常縁の父は素明法師と呼ばれる東益之で、
最後の勅撰集・新続古今集に歌が採られ、またその祖先・東胤行は藤原為家の娘婿であり、
母方が定家の血を継いでおり、
常縁は頓阿の曾孫・堯孝の弟子で、また冷泉為尹の弟子・正徹にも学んだそうだ。

常縁によれば、この古今伝授なるものは、紀貫之以来の相伝が、
藤原基俊から弟子の俊成へ、俊成から子の定家へ、
定家から子の為家へ、
為家から二条家の祖・為氏へ、
為氏から子の為世へ。
為世の時代には二条家は漸く衰微して、定家の子孫の中では冷泉家だけがなんとか命脈を保った。
そこで為世の弟子の中でもっとも有力だった頓阿に古今伝授が伝えられ、
頓阿の子孫の堯孝から常縁に伝えられた、と言いたいらしい。
頓阿もまた藤原氏の末裔であるというが、ほんとうだろうか。
後世の人の願望が込められてはいないか。

東常縁は宗祇に古今伝授を伝え、
宗祇は三条西実隆に伝え、実隆は子の公条に、公条は子の実枝に伝えた。
実枝は細川幽斎に伝え、幽斎は実枝の孫の実条に伝えた。
あるいは幽斎は八条宮智仁親王に相伝し、智仁親王は兄・後陽成天皇の皇子・後水尾天皇に伝授し、
後水尾天皇は皇子の霊元天皇に伝授した、ということになっている。

それで、『排蘆小船』を読むと、

> 西三条殿三世を、世には道の中興のやうに思ひて、この人々を神のやうに敬へども、
実は歌道の中興にはあらで、此の時より歌道大いに衰えたり。

などと書かれている。
西三条殿とは三条西実隆のこと。三世とは、実隆、公条、実枝のことだろう。
江戸後期の歌壇の雰囲気がやや伝わってくる。
また、

> 西三条殿逍遥院実隆公、和漢の才ありて、ことに歌学に達し、詠歌もすぐれたまへり。
この人まことに歌道の中興にして、今に至るまで仰ぎ信ずることかはらず。

などと言っているので、宣長は実隆を一定に評価していることがわかる。
[実隆公記](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E9%9A%86%E5%85%AC%E8%A8%98)
など読むと、実に多芸多趣味な人だったことがわかる。

実隆は応仁の乱で勅撰集というものが途絶した後に出た歌人なので、
当然勅撰集には採られてない。この時代から以降は勅撰集という基準がないので、
誰がその時代を代表する歌人かがわからずやっかいだ。
ちなみに東常縁について宣長は

> もとよりいふにたらぬおろかなる人

とまったく評価していない。

ついでだが、明治天皇の和歌指南役に三条西季知がいるが、季知はむろん実隆の子孫である。
冷泉家が定家子孫直系。三条西家が古今伝授の総本家。
他には最後の勅撰集の選者を出した飛鳥井家などが和歌の堂上家の代表。

改めて高崎正風の『歌ものがたり』を読みなおしてみると、初期の御歌掛には、
季知の他に福羽美静、渡忠秋が居たとある。
季知と美静はいずれも孝明天皇の近習であるから、明治天皇が京都で皇太子だった頃から、
和歌を教えていた可能性が高い。
渡忠秋は香川景樹の弟子、正風と同様桂園派である。
季知と美静は孝明天皇派であると同時に長州派でもあり、
ふたりとも七卿落ちのメンバーだ。
正風と忠秋はどちらも明治七年とかそのくらいから出仕したのだと思われる。

そのほか、西四辻公業や有栖川宮幟仁親王も明治天皇に歌を教えたとある。
西四辻公業は高松公祐の子。
高松公祐は季知の歌の師とのこと。

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