文学全集を立ち上げる

以前に京極派 で、丸谷才一は京極派というものがまるでわかってないんじゃないかと疑いを持ったのだが、この「文学全集を立ち上げる」という本を読んでますます疑念は深まった。

日本文学全集に古今集と新古今集と風雅集と玉葉集を入れるという。なぜよりによって21代勅撰集からこの4つを選ぶのか。

p124

三浦 「玉葉」「風雅」は「新日本古典文学大系」にも入っていないでしょう?
丸谷 あの二つはいまだに虐待されているだよ。なぜ虐待されるかというのは、二つ理由が考えられる。一つは、折口信夫が絶賛したから(笑)。
三浦 本当の話ですか(笑)。
丸谷 それと、あの二つは北朝の文学なんです。「風雅」は明らかに北朝、「玉葉」も北朝の色が濃厚ですね。国文学者たちは北朝には触れたがらないんだよ。
鹿島 いまだにそんなことがあるんですか。
丸谷 少なくとも僕は、そうなんじゃないかなと思うんだ。岩佐美代子さんのように、「北朝が正統なんだということを政府ははっきりせよ」と言う学者もいる。でも、男の国文学者でそんなこと言う人は誰もいないんだよ。国文学者はつまり官僚なんだもの。仕方ないさ。

つまり丸谷才一は「玉葉」「風雅」は北朝の勅撰集で虐待されている。北朝が正統だと言っているのは岩佐美代子くらいで男にはいない。だから男の自分がやってやる、そう言っているだけにしか読めないのである。

一応丸谷才一は京極派を研究している岩佐美代子という人を知っているらしい。しかしほんとに理解しているのだろうか。岩佐美代子が北朝が正統だなどとほんとに主張しているのか。そう言いたいのは丸谷才一だけなんじゃないのか。南朝とか後醍醐天皇とか楠木正成とか太平記が嫌いで抹殺したいだけじゃないのか。当時の二条派とか京極派とかいうコンテクストを無視して単に政治的理由で北朝を応援したいだけなんじゃないの?まさに邪道。

丸谷才一という人はやっぱり和歌なんて何もわかってないんじゃなかろうか?

「玉葉」「風雅」が異端視されたのは、京極派だからだ。伝統を破壊する、前衛だったからだ。主流は保守的な二条派に収束していった。なぜ二条派が主流になったか。北朝が正統でなく、南朝が正統だからなのか?そんなこと考えてた江戸時代までの国学者は一人もいないと思う。宣長はそんなこと一言も言ってない。

ついでに皇統の正統性 というのも読んでみてほしい。

日本に学者はいなかった

丸谷才一「文学のレッスン」のp152に「日本に学者はいなかった」という章がある。非常に困惑する章題なのだが、本文を読んでみると、「近代日本文学では学問が軽蔑されていた」、とか、「小林秀雄は明治憲法で中村光夫は現行憲法だ」などと書いている。

小林秀雄は気持ちの良い歯切れの良い文体だがしかし何を言っているのかさっぱりわからない。

中村光夫の文章にはそういう爽快さがないけれど内容を伝達する能力は高い。

で、世の中の人は小林秀雄みたいな人を優れた批評家だと思い込んでしまったので、批評は訳がわからなくてよい、みたいな話になっている。訳がわかる評論とは論文であって評論ではない、そういうものは学者が書けば済む話だ、というわけだ。

いやまあ言いたいことはわかる。小林秀雄は朦朧体みたいなもので、至る所かすんでいる。でもときどきすごく論理的でほかのどの論文よりも明晰で説得力があるところがある。そういう意味ではフロイトに似ている。でも論文じゃないんだな。そこが天才的なところだわな、他人にはまねできない、学者にはそういう仕事はできない、という意味で。小室直樹もそれに近いかもしれんね。小室直樹は(一応)学者だけどね。

「日本に学者がいなかった」なんてどこにも書いてない。困った表題だ。

文学のレッスン2

文学のレッスンの続き。長くなるので記事をわける。

p151

色好みの話で、こういうエピソードがあります。本居宣長が亡くなったとき、弟子たちが本居家に集まって、酒を飲みながら口々に先生の偉大さをたたえ、あんな偉い学者はもう出ないみたいなことを語りあっていた。そしたらお酒を運んでいた本居家の女中の一人がワーッと泣きだした。みんながどうしたんだと問いただしたら、その女中いわく、「そんなに偉い先生だとはわたしは知りませんでした。毎晩のようにわたしの部屋に来て、一緒に寝ようというのを、わたしは邪険に断ってばかりいました」って。

― それはどこかに書いてあるんですか(笑)。

岡野弘彦さんから聞いたんです(笑)。

岡野弘彦は三重県の神主の家に生まれたので、もしかすると実話かもしれない(笑)。 丸谷才一より一才年上で存命。 でもなんとなく、 国学者や神道家のコミュニティーの中で自然と広まったゴシップのような気がするなあ。本人ご存命なのだから聞いてみたい気はする。

私は、宣長の恋歌をみていて、ただ観念的に恋を歌ったのではなかろうとは思っていた。ある程度事実に基づく心情が盛り込まれているのではないかと。ただ、七十近くのおじいさんが毎晩女中をくどくということと、青年時代に色好みであったということは必ずしも結びつかないと思う。

いずれにしてもどうでもよい話ではある。単なるエピソードとして紹介してみたかったのだろう。

文学のレッスン

丸谷才一「文学のレッスン」を読んだ。丸谷才一はもうなくなってしまったが、ものすごい長寿で、死ぬまで執筆活動をしていた幸運な人だ。この本もインタビューという形で2007年頃から始めて2010年に出たものだが、80才をとっくに越えていた。「文学概論」のようなものというのをうたっているが、いろんな作家や作品が羅列されているがその一つ一つについて解説しているわけでなはい。体系的とも言いがたい。エッセイのたぐいというべきだろう。

短編小説のことをスケッチと言うと書いてある。私も「川越素描 (a sketch of kawagoe)」というのを書いた。しかし私の書いたものの中では「川越素描」は一番の長編と言ってよい。長編だけど普通の長編小説みたいな構成にはなってない。千一夜物語のようなつもりで書いたもので、その個々の要素は素描にすぎない、と言いたいわけである。長編小説というのは今で言えば指輪物語やハリーポッターみたいなのを言うのだろう。どちらもイギリス人の作家だ。丸谷才一もフランスは短編、イギリスは長編が発達したと言っている。なるほどなと思う。ましかし、フランスでも「レ・ミゼラブル」やスタンダールなんかは長編だわな。私はたぶん、長編を書こうとしても書けないんだと思う。書こうとすると「川越素描」や「司書夢譚」のような短編を束ねたようなものになるか、束ねきれずに「エウドキア」「ロジェール」のような中編小説の集合体のようなものになってしまうだろう。書こうとしたけど書けなかったというのは一つの成果だと思う。

丸谷才一はモーパッサンは短編(どの作品がとは言ってない。脂肪の塊や女の一生は明らかに短編ではない)、永井荷風の「墨東綺譚」を中編と言っていて、私にしてみるとどちらも短編のような気がするが、気分としてはたしかにモーパッサンは短編であり永井荷風は中編の人な気がする。志賀直哉がスケッチがうまいというのは分かる気がする。「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」「剃刀」「万暦赤絵」・・・。

p117

「太平記」という歴史物語が日本の国運を左右したというのが僕の前々からの説なんだけれども、「太平記」というのは、怨霊がいかに世の中を乱すか、要するに後醍醐天皇や楠木正成の怨霊が怖いという話ですよね。それを読んだ人たち、階層的にいうと一番上の徳川光圀や頼山陽から、「太平記読み」の講釈を聞いた庶民まで、みんなそろって正成は偉いし南朝は尊い、彼らの怨霊は怖いから大事に祀らなくちゃね、そういうイデオロギーを持っていた。

丸谷才一は戦後民主主義の文化人で、太平記とか頼山陽とか徳川光圀とか本居宣長などを徹底的に抹殺しなきゃならないと考えていた一人だ。むろん現代的な意味において太平記や日本外史や大日本史や古事記伝などはナイーブで脚色されているわけだが、それを言うなら源氏物語だって平家物語だってそうだ。太平記のせいにして議論を終わらせるのは単なる思考停止にすぎぬ。

南北朝や室町時代は難解だが非常に重要な時代である。それがわからんから降参しますというのが嫌で全部太平記のせいにする。太平記に影響を受けたであろう徳川光圀や頼山陽のせいにしようとする。それではだめだ。南北朝がわからねば天皇はわからん。南北朝がわかってる日本人がどれほどいるか。だから日本人のほとんどは天皇とは何かがわかってない。天武天皇や天智天皇とか古代の天皇のことをいくら学んでも天皇のことはわからん。藤原、北条、足利、徳川がどのように天皇を利用してきたかということがわからんと天皇はわからん。天皇がわからんというのは南北朝がわからんというのとだいたい同じだと私は思う。太平記のせいにしないでほしい。

和歌の詠み方

和歌の詠み方に関するメモ というものを読んだ。 なるほど確かによくまとめてある。 だが一方で、これでは結局現代人が歌を詠もうと思って詠めるようにはならんと思う。 頭でっかちになるだけで、今の時代を生きる自分が、どのような歌を詠めばよいのかという指針にならない。 これはどちらかと言えば和歌の詠み方というよりは和歌の鑑賞の仕方というべきだろう。 実際に和歌を詠まない人が古典的な和歌を鑑賞するにあたり、 知っておくべき歌論というのにすぎない。 歌論を知った上で歌人は実際に自分の歌を詠まねばならぬ。

戦後和歌はあまりにも変わってしまった。 現代短歌と古典的な和歌は別物といってよいほど違う。 まず、自分は、現代短歌を詠みたいのか。それとも古典的な和歌を詠みたいのか。 その選択をしなくてはならない。 現代短歌にも良いものはある。 たとえば俵万智を評価しないわけにはいかない。 私も俵万智には大いに影響されたが、しかし、結局はそこから離れた。 現代短歌を詠みたい人は詠めば良い。

で、古典文法に則った古典的和歌を詠みたいのだと覚悟を決めたとしたら、 アララギ派(万葉調)が好きなのか、 それとも桂園派(古今調)が好きなのか、 どちらかを選択しなくてはならない。

和歌とはまず第一にやまと歌である。 古典的な大和言葉で詠むものがやまと歌である。 五七五七七の定型詩を和歌ということはできない。 それは必要条件に過ぎない。 古い言葉を用いて新しい心を詠むのがやまと歌である。 敷島の道である。 和歌を詠むということは、歌道というものは、国学の一部である。 国学を学ぶ気がないのなら最初から和歌など詠まない方がよい。 国学の要素がほとんど完全に欠落しているのが現代短歌である (左翼は国学が嫌いだ)。 国学を尊重していてもアララギ派には古今調がよくわかってない正岡子規みたいなやつが多いので要注意だ。

では古ければ古いほどよいのかとか、中世や近世の言葉がよいのかというと、 そのどちらもよくない。 古典的な大和言葉が一番充実し厚みがあるのは源氏物語が成立した時代である。 古今と新古今の間だが、どちらかと言えば古今に近い。 韻文も散文もこの源氏物語の時代が一番用例が多く、完成度が高い。 用例が多い、つまり、サンプリング数が多い、ということは非常に重要である。 言語というものは曖昧だが、用例が多ければ、正しい用法を確定できる。 奈良調以前の言語ではそれが難しい。 あまり古すぎる言葉を無造作に使うのは危ない。

我々は古典語の基準をこの平安朝中期に求めるべきである、と私は思う。 この時代にも奈良時代の言葉遣いが残存している。 そのある種のものは不協和音になるので、使わないほうがよい。 奈良時代と平安時代ではすでに母音や子音などが変化しているので、 文法的にも無理のある言葉(特に助詞や助動詞)が少なくない。私が万葉調を敬遠するのはまず第一にこの平安朝の言葉遣いとの不整合にある。

奈良朝の言葉と平安朝の言葉を完全に分離して操れる人だけが、つまり、奈良朝の和歌を完全に再現できる人だけが万葉調で歌を詠む資格がある。しかし万葉調を好む人というのは往々にして見境無くいろんな時代の言葉を混ぜ合わせ、それだけでは飽き足らず、自分で勝手に新しい言葉を造ったりする。そのだらしなさ、無節操さが気持ち悪いのだ。新しい言葉を造ることは凡人には無理である。なぜ無理かがわからぬから凡人なのだ。

たとえば、助動詞は、 なんでもかんでも「り」を使うのではなく、 状況に応じて「ぬ」「つ」「たり」を使い分けるべきであり、 それが平安朝の大和言葉というものだ。 平安朝の助詞や助動詞をうまく使いこなすということは極めて重要だ。 俳句にはそれがない。というのは、俳句は体言の配列によってできていて、 用言の組み合わせに無頓着だからだ。
正岡子規もそこがよくわかってない。 なんでもかんでも「り」を使うのは例えば文語訳の聖書などがそうだ。 もし「ぬ」「つ」などをうまく使いこなしていたらもっと王朝文学のような訳になっていただろう。

釈教歌などでは古くから漢語も容認されていた。 外来語は絶対和歌に使ってはならない、とは言わない。 しかし普通は使わない。 純血主義というのとも少し違う。 平安朝の口語との相性が悪いからだとしか言いようがない。

では平安朝の言葉を用いて五七五七七の定型で詠めば和歌かと言えばこれも違う。 春夏秋冬花鳥風月を詠めば和歌かと言えばそれも違う。 情と詞と体に書いた通りなので繰り返さないが、 今まで歌に詠まれたことのないような心情を敢えて古い詞で言い表すのが和歌である、 と私は思う。 古い心を古い言葉で歌ったり、 新しい心を新しい言葉で歌うのは和歌ではない(それを現代短歌だと言ってもよい)。 たとえば新しい心を現代語で歌うには私は都々逸が比較的適していると考えている。

平安朝に日常的に使われていた言語に対するリスペクトがなければ和歌は詠めぬ。 赤染衛門の歌が非常に役に立つ。 当時の俗語を使って、極めて俗物的な歌を詠んだのが赤染衛門であるが、 彼女の歌にはまれにたまたま風雅な歌が混じっていた。 ただの偶然だろう。 浪速のおばちゃんでもたまにどきっとするようなうまいことを言うことがあるようなものだ。 少し時代が下るが、俊成や定家は言葉を巧まずにうまい歌を詠む人だった。 参考になる。

現代語で現代の心を詠んだってそれは普通だ。 あえて古語で現代の心を詠むからそれは和歌となるのだ。 そのためには当時の言葉で自然に歌を詠んだ人たちの詠み方にひたすらなじむのがよい。 それが風体というものだ。 ひたすら赤染衛門や西行や俊成の歌を学ぶ。 そのうちふと巧まずにそういう歌が詠めれば完成である。

歌を詠もうと思うと歌は詠めない。 まず何かに心が動かねばならない。 つまりは写生だ。 実体験、実景に基づかない歌はすなわち自分の頭の中から出てきたものであり、 限られた狭い世界から無理矢理こしらえたものであり、たいていつまらない。 外の世界の方がずっと情報量が多くて意外性があり、新しい発見があり、 新しい可能性がある。 心が動いたらそれをなんとかして歌という形に整えてみる。 それが詠歌というものだ。

鎌倉時代や室町時代ともなると、すでに、 みな大和言葉を自然に話すことも、和歌を自然に詠むこともできなくなっていた。 すでに大和言葉は古典語になっていたからだ。 このころの和歌を見るとどれも詠み手の苦心がにじんでいる。 だからこそ、たとえば江戸時代に巧みに古語で歌を詠む人はさすがにひと味違う。 上田秋成などは実に巧みだった。 要するに、国学者でなくては歌は詠めないのであり、 ただ学問好きなのではなく感動することのできる心と表現力がなくては歌は詠めぬ。 本物の国学者だけがその苦心のあとを残さず、 まるで平安時代の庶民が現代にタイムスリップしたかのような自然な和歌が詠めるのである。

日常語から離れて古典語で歌を詠むのは難しい。 美しいと自分が思ってないことを美しいと歌に詠むのは歌では無い。 そんなものはすぐにばれる。 感動の少ない人、というより、感動というものを誤解している人には歌は詠めぬ。 美しいと思ったことをそのまま言葉に表すのではなく、 定型の古典語に翻訳してみるのが和歌だ。

安積

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。

安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

極めて古い歌である。

安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國
右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日

この葛城王とは橘諸兄のことであるという。 聖武天皇の時代。 ほかにも、古今集に

みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ

とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。 芭蕉の奥の細道で有名。

伊勢物語の

みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

これも相当な古歌であろう。安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。

みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ

みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも

弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。「反る」は「せる」。安達も信夫も安積もほとんど同じところ。

これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、 聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。 白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、 安積や信夫はすでに前線基地というよりはそれより後方の兵站基地であったろう。 このみちのく征伐に常陸や下野の関東武士が動員されたのは当然あり得ることである。 将軍クラスは大和の人たちであり、和歌くらいは詠めたのに違いない。

上記の歌は本来はえぞみちのくという外征先から大和にもたらされた音信のようなものであっただろう。 光孝天皇によって平安朝に和歌が復活した以後には単に歌枕となってしまい、 実景を詠む人はいなくなってしまった。 いたとしても頼朝くらいだが、 頼朝は自分で白河の関を越えてはいない。

西行は信夫佐藤氏であろうとされている。 佐藤は藤原氏である。 関東や陸奥の藤原氏はみな藤原秀郷の子孫を称するが、 秀郷は下野の人である。 下野を拠点とした藤原氏が朝廷の外征に従って、 白河の関を越えて安達、安積、信夫と勢力を広げていった、 と考えられる。

西行は二度も京都からみちのくに下っているのだが、単なる郷愁であったのか。 それとも何かの仕事か。 二度目は東大寺の大仏が焼けたので平泉に大仏を再建するための金を勧請に行ったのだという。 しかしこのころ安達・安積・信夫は奥州藤原氏の支配であって、 頼朝とは白河の関で対峙し、京都とつながり、義経を匿っていた。 頼朝は藤原氏によって背後をうかがわれていたのである。 結局頼朝と京都は和解し、孤立した奥州は頼朝に討たれてしまう。

西行は奥州藤原氏に連なる人なのだが、 頼朝はよく彼を通したと思う。 西行は明らかに頼朝の敵である。 西行が京都・頼朝連合側の間諜だった可能性もあるかもしれん。

美知乃久能みちのくの 安太多良末由美あだたらまゆみ 波自伎於伎弖はじきおきて 西良思馬伎那婆せらしめきなば 都良波可馬可毛つらはかめかも

弓の弦をはずしてそらしっぱなしにしておくと弦が付けられなくなるよ、 あまりほったらかしておくと、元の仲に戻れないよ、という意味。 安達太良真弓は非常に強い弓であったとされる。 「めかも」は反実仮想だわな。

著者不在読者万能

私の小説の中では「エウメネス」「エウドキア」がよく売れている方なのだが、比較的マイナーなはずのエウドキアが売れている理由がよくわからなかった。だがオタクの世界では、エウメネスほどではないにせよ、エウドキアはよく知られたキャラであり、エウドキアがどんな人であったか知るために(もしかすると二次創作のための設定資料として)ポチる人が多いのではないか。私以外の全然別の人が全然別の話を書いても同じくらいには売れたのではないか。とすれば私という書き手は不要であり、不在であり、存在するのは読者だけということになる。私が書かなくてはならない必然性がない。

本を売るということは、それを買う読者がいるということであり、ようは読者万能ということである。同じ事はすべてに言える。政治家にしろ君主にしろ、近代・現代は国民万能時代だからどうしてもそうなる。売れっ子ライターやアルファブロガーなどみんなそうだ。ツイッターではそういうよく読まれる人のことは、なんと呼ばれているのだろか。

私は話の中で登場人物を死なせるのが嫌いだ。もちろん歴史小説では死ぬが、それはその人が死ぬことが歴史的に確定しているからだ。私が勝手にこしらえた人物を殺すのは忍びない。ほとんど唯一の例外は墨西綺譚に出てくる乾長吉だが、墨西綺譚は今は非公開にしている。

石原慎太郎、村上龍、山田詠美、村上春樹などの流れをみると、読者はあきらかに暴力やセックスを求めている。ラノベにすらその傾向はある。ミステリー・ホラー小説もつまるところ人が殺されるからおもしろがって読むのだ。人が死なないミステリーなどほとんど見向きもされないだろう。

私の場合、男女が恋愛関係に至る過程を書くことはあっても、恋愛関係そのもの、つまり情事を書くことはほとんどないが、それも一般読者には不満だろう。

村上春樹から暴力やセックスを差し引いたらあんなに売れると思うかね?


追記20260928

エウドキアは今は全く売れてない。エウメネスは kenp で少し読まれている。

夢

ウィキペディア「夢」 にも、

夢を見る理由については現在のところ不明である。

などと書かれているのだが、どうも夢というのは、外部からの感覚が遮断された状態の脳の活動そのものではないか。私たちは夢というものを寝ている間に見る不思議な演劇のようなものだと考えがちだ。

睡眠というものは、脳を休ませるためのものというよりも、身体や、視覚や聴覚などの感覚器官を休ませるものだとしよう。眠ると脳は感覚が遮断される。脳もまた眠るが、身体よりも先に脳は目を覚ましてしまう。外部からの刺激がまったくない状態の脳は幻覚を見る。それが夢である。

外界を見たり、音を聞いたり、他人と話をしたり、食事をしたりすることによって、脳は情報を得て、外界や他者に対して反応しなくてはならない。外から得られるバイアスによって人は、いや、動物というものは、正常に行動できる。というよりも、バイアスのもとに行動が最適化されるように進化し、淘汰されている。外界からの刺激がない場合の脳の働きは定義されてない(する必要がない)から、幻覚となり、夢となる。

人も動物も無重力ではうまく動き回ることができないが、重力下では歩いたり座ったり寝転んだりすることができる。それと同じだ。凧は糸が切れると制御不能になる。糸というバイアスがあるからこそ凧は安定して浮かんでいられる。

外界からの刺激がない状態では脳はうまく動くことができず、浮遊し、くるくる回って飛んでいってしまう。それが夢なのだ。動物の見る夢もそれで説明つくのではないか。

つまり、人工知能とか人工の自我とか、自我エンジン、意識エンジンというものが発明されたとしよう。外部からの刺激がまったく無い状態で、それはただ空回りするしかない。
それが夢だ。逆に言えば、人工知能を作りたければまず無入力状態で夢を見る機能を持たせなければならない。そこに外部から刺激を与えることによって反応するように仕込む。意識というものはただそれだけなのではないか。夢にも、それ以上の意味もそれ以下の意味もないのではないか。だから、クラウドの中に人工知能だけが存在していても役に立たない。それはただクラウドの中を浮遊しているだけだ。人工知能は個体の中に入れてやり、目を付け耳を付け手足を付けて、自己存続のモチベーションを与えてやらないと、知能として成立しないのではないか。

で、夢というものがそういうものだとして、では夢から小説のネタができるか。うーん。場合によっては偶然できるかもしれない。

ある種の薬物は感覚を狂わせたり遮断したりするのかもしれない。だから脳は幻覚を見る。脳が麻痺したり興奮したりするから幻覚を見るのではないのかもしれない。脳とはもともとそうしたものなのだ。

釣月耕雲と禁葷食

相変わらず「山居」が良く読まれているのだが、 それでいろいろ人とも話をしてみて、
果たして道元は魚を釣って食ったのか、ということを、 もすこし突き詰めて考えてみる必要があるなと思った。

道元の時代、親鸞も日蓮も末法無戒を主張し、肉食を禁じなかった。 一休も、また、済顛も肉を食べた。 道元だけがどうして食べなかったと言えるだろうか。 我々は道元を今の永平寺のイメージでとらえるから、肉など食べたはずがないと思う。 しかし、当時中国でも日本でも、 僧侶が肉を食べてはいけないという規範はなかったのではなかろうか。

どうもwikipediaの禁葷食 など読むと、 中国仏教における菜食主義というのは、道教の影響によるものではないか。 というのは、肉だけでなく、ニンニクやニラなどの臭みの強い植物を食べないというのは、 中国の神仙思想から来ているように思えるからである。 カレーとスパイスの国インドでニンニクを食べないはずがない。

宋の時代には新仏教のようなものが生まれただろう。 日本にだけ新たに鎌倉仏教が出てきたのでなく宋の影響。 インドから伝来したナイーブな大乗仏教と中国古来の道教が習合して、 独自の中国仏教というものが出来てきた。 私は武漢の五百羅漢寺というところで精進料理を食べたことがあるのだが (寺の中にわざわざ観光客向けのレストランがある)、 あの、野菜を使って卵や肉にそっくりの食材を作るというのはやはり道教的発想であり、 中国の寺というのは孔子廟のような廟堂と極めて雰囲気が似ていると思う。 ともかくそういう中国土着の信仰と混淆した仏教を刷新して、 仏陀の教義の本質に迫ろうとしたのが当時の新しい仏教であったはずで、 その祖を達磨に求め禅宗という形で現れてきたはずであり、 そのリーダーシップを取ったのが臨済や済顛らの「風狂」な禅僧たちであり、 道元は曹洞宗だけども、やはり臨済らの影響を受けたはずだ。 日蓮や親鸞や法然もそういう新しい仏教の影響を受けたはずだ。 そして禅宗は中国では廃れてなくなってしまい、 今の中国の仏教を観察してもそのような痕跡はないのである。 曹洞宗や臨済宗というものがもともとどんなものだったかは実はよくわからんとしか言いようがないのではないか。 日本は中国の文化が無くなってからも何百年も残るところだから、 むしろ日本の禅宗を見た方が当時の中国の雰囲気はわかるかもしれん。原始仏教でももともと肉食は禁じられておらず、
インド土着の宗派の多くが菜食主義に固執したのに対して、仏教は中庸を唱えた。

ただまあ釣りというのは直接的な殺生に相当するから道元がそこまでやったとは考えにくい。 そもそも「釣月耕雲」とは道元ではなく済顛の言葉なのだから。 「釣」を「鈎(かぎ)」と見て、 「鈎月」は月夜に刈り取りをすること、 「耕雲」は山上の畑を耕すこと、かと解釈してみたこともあるのだが、 済顛の詩にはっきり「釣月」とあるからにはもともと 「川面に浮かぶ月影を釣る」「月夜に魚を釣る」という意味だったとしかいいようがない。

そもそも道元が済顛のような「瘋癲漢」の詩からこのような文言を引用したこと自体が問題である。 道元は済顛を尊敬していたとしか思えない。 そう思って読むと、 「山居」の詩のそれ以外の部分はごく普通な日本人が作りそうな詩文である。 「釣月耕雲」だけが異様な雰囲気を持っている。

済顛は中国では日本の一休さんのようにテレビドラマ化されてけっこうな評判らしい。でまあ、私のブログで良く読まれているのが臨済関連の「裏柳生口伝」と済顛関連の「山居」なのは単なる偶然ではないのかもしれん。誰なんだ読みに来ているのは(どうも中国から来ているのではないか。最近中国語のスパム多いし)。

ちなみに私が書いた「超ヒモ理論」はよく知られてないと思うが仏教小説なので、ついでに宣伝しておく。

ところで臨済という人は、 というか臨済の知り合いの禅宗の僧侶たちはみなやたらと人を殴ったらしいのだが、 それが今の禅宗では、座禅を組んでるときの警策となったのか。 警策自体は江戸時代以来らしいが、 それより前はもっと厳しい体罰があったかもしれんじゃないか。 そもそも僧兵を武装解除したのは信長だしな。


追記。wikipedia を読んでも禁葷食のことはさっぱりわからない。改めてAIにも聞いてみた。思うに、wikipedia はもう時代遅れだ。AI を導入すべき時代が来ている。

京都巡り

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旅行に出かけて寺や神社に詣でるときには、
寺では鐘楼を、
神社では舞殿を撮るようにしている。
鐘楼を撮るのは「巨鐘を撞く者」を書いたからであるし、
舞殿を撮るのは「将軍放浪記」を書いたからである。

[鐘](/?p=12653)については以前も書いた。
上の写真は相国寺の鐘楼だ。
相国寺の近所に一泊した。
特に新しいとか珍しいものではなさそうだ。
相国寺は金閣寺や銀閣寺の総本山らしい。


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この写真は上賀茂神社の摂社の新宮神社というもので、
たまたま第二日曜日に参拝したので中まで見れたのである。
なかなか一般人が見る機会はないと思うが、
舞殿なのか拝殿なのかよくわからん。
というか、本殿があってそのそばに拝殿が作られ、
拝殿が舞殿としても機能するというのが古くからの使われ方だったと思う。

舞殿は、もともとは四本の柱で囲って〆縄をめぐらすものであったはずだ。
薪能の舞台もそうなっているし、相撲の土俵も古くはそうなっていたはずである。
石清水八幡宮で奉納される舞楽は今もそのようになっているようである。

したがって舞殿の柱は四隅に四本あるのが正しいのだということを、
これも以前[舞殿](/?p=12046)というのに書いた。
なぜそこにこだわるかというと頼朝、政子そして鎌倉武士らに囲まれて静御前が舞を舞ったのは、
鶴岡八幡宮の回廊の真ん中に設置された、
四隅に柱を立ててしめ縄を引き回した一種の結界であったはずだと思うからだ。
それが舞殿の原点であるはずだ。

本殿は神の依り代であり、
人にとっては神の表象である。
神の依り代はかつては自然そのものであり、人の手によるものではなかった。
後に鏡などがご神体というアイコンとなり、本殿に納められた。
上賀茂神社では神山が、後にはそれを模した砂の山が神のアイコンであり、
社殿ができたのはずっと後のことである。
といってもその社殿の創建も奈良時代のことであるという。

拝殿は神に対面する人間のための結界なのである。
結界に入って神に対面する人は当然貴人である。
貴人というのはつまり特に選ばれて潔斎したものという意味である。
そして拝殿に神遊びする貴人の姿を周りの一般人が眺めるから拝殿は舞殿ともなるのだ。
本殿と拝殿がこのように位置しているのが本来の姿なのではなかろうか。
舞殿はしばしば参道のど真ん中に本殿を遮るように建てられている。
我々はしばしば舞殿を迂回して本殿に進まねばならぬ。
本殿、拝殿、舞殿が直列に分裂してしまったからである。
社殿や伽藍建築が次第に宗教的な権威となってしまった。
いずれにしても「本殿を拝む」とか「本殿が依り代」という感覚は本来おかしいわけである。
将軍放浪記冒頭、

> 段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。

結局人間中心に考えれば、神社の中心は舞殿なのである。
それほど重要なものだからあのようにわざと邪魔なところにあるのだ。

この新宮神社の拝殿がまさに四本柱なので私はうれしくなったのだ。
しかも、四本では強度が不足するためにか、柱に添え木がついている。
面白い。

上賀茂神社は平安京遷都前からある由緒のあるもので、
京都が世界遺産になる理由の一つともなったのだが、
北のはずれにあるせいか観光客はほとんどいない。
ていうか、上賀茂・下鴨神社だけでなく、八坂神社、上御霊神社、下御霊神社、平安神宮など、
神社はいずれも修学旅行の定番ルートから外れているのだが、
いったいどういうわけなのだろうか。
そういや京都御苑もルートから外れているわな。
あ、北野天満宮はかろうじて入るのか、修学旅行だけにな。
今回はたまたま気が向いて清水寺にも行こうかとしたのだが、
あんなひどいところはない。
五条からの参道は狭くて車が多いし、
建物も江戸時代のものなのに国宝になっている。
見た目が京都っぽいってことだろうか。
京都七不思議の一つにすべきだ。
上賀茂神社などにお詣りしたほうがずっと気持ち良いはずだが、
逆に中学生や高校生がわらわらたかってないほうが良いともいえる。
実際ああいう連中は太秦の映画村あたりに連れまわして、
京都御苑や上賀茂神社からは隔離したほうが良いとはいえるのだが、
教育効果的にはどうかと思う。

上賀茂神社は日曜日だからか、のんびり結婚式などやっていた。

銀閣寺にも行ったが、ここも参道も中もかなりひどい。
しかし建物はよかった。
義政の時代のものが珍しく残っていて地味だが面白い。


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これはどこで撮ったのだったか。
たぶん下鴨神社に隣接するなんとかという末社だったと思うが、
やはり柱は四本のみ。


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三十三間堂には今まであまり興味がなかったのだが、
「西行秘伝」を書いたので見に行った。
法住寺。
すごいなこれは。
清盛が後白河に建ててやったものだが、
京都にはこういう平安時代の建築は案外残っていないものだ。
他に何かあっただろうか。
まったく思いつかない。
後白河が大喜びしているのに息子の二条天皇が落成式に来なかったのでがっかりしたという逸話を思い出す。


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中は撮影できないから外だけ写したが、
ここで矢通しをしたわけだ。
不思議なことをしたものである。
西行の時代に通し矢があったかどうか。
たぶんなかっただろう。


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寺町通の三嶋屋というところですき焼きを食べたのだが、
ランチだったが、ずいぶん散財した。
よくよく考えると京都はすき焼き発祥の地ではない。
牛肉を食うのは横浜が先だし、
それよりか前は両国広小路でももんじ屋というのが鹿や猪などの肉を食わせたはずなのだ。
だからわざわざ京都ですき焼きを食う必要はなかった。
上野のガード下でもつ焼きでも食ったほうが正統な気もするのだが、
なんか京都的大正ロマンみたいなものを満喫できたので良かったということにしておく。
両国広小路のことは成島柳北を主人公とした「江都哀史」というものを書こうとしていろいろ調べた。
そのことは「川越素描」にちょっとだけ出てくる。
いずれほんとに書いてみたいとは思ってる。


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ついでにどうでも良いことだが、
鴨長明の方丈というのが下鴨神社の隣の河合神社にあったので、
めずらしくて撮影した。
鴨氏というのは平安京遷都前から鴨川流域、つまり京都盆地に住んでいた豪族だろう。
鴨長明はその子孫だからこんなところに家が復元されているわけである。
河合とは賀茂川と高野川が合流する地点だからそういう名なのだろう。