ポントスとボスポロス

へレースポントスにポントスは固有名詞なんじゃないかと書いたのだが、 昔黒海にはポントス王国というものがあったようだ。 またアゾフ海からクリミア半島あたりにボスポロス王国があった。 イスタンブルの海峡をボスポラスというのだが、どういうつながりがあるのだろうか。

wikipedia

ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。

bous βοῦς ‘ox’ + poros πόρος ‘means of passing a river, ford, ferry’, thus meaning ‘ox-ford’,

よくわかんねえ。 英語の ox-ford と同じとか言ってる。

また、ポントスというギリシャ神話の海の神がいるようだ。

クリミアという地名はロシア語で、ギリシャ語ではタウリカというようだ。 またケルソネソスという言い方もある。 c.f. パンティカパイオン、スキュタイ。

本居宣長27回

小林秀雄の本居宣長の27回。ここにはほとんど宣長のことは出てこない。 業平と紀貫之のことばかり書いてある。 たぶん小林秀雄は宣長の「あしわけをぶね」を読んでいて、古今集について語りたくなったのだろう。

古今集真名序に出てくる「続万葉集」を貫之が編纂したかどうかはかなりあやしい。 古今集の前の段階、宇多天皇の時代(醍醐天皇が即位するまえ)に編纂されたと思われるからだ。 「新選万葉集」「続万葉集」などは、はっきりとは書かれてないが、 宇多天皇、もしかすると光孝天皇が企画したものだったかもしれない。

小林秀雄は貫之が古今集仮名序を、土佐日記を書く30年ほど前に書いた、と言っているのだが、 私が「古今和歌集の真相」に主張したこととは全然違う。 それは(延喜五年に最初から今のような貫之による仮名序が古今集についていたとする)定説だが、しかし、古今集研究はまずその定説を疑うところから始めなくてはならない。 小林秀雄はそこに踏み込んでない。 「古今集の歌風を代表するのは、六歌仙と言われているひとたちの歌」だと言っているのも、 私の主張とはかなり違う。 六歌仙はどちらかと言えば貫之らよりも数世代前の伝説の人たちであり、 業平は確かに最も重要な古今歌人だが、彼は別格であって古今集の歌風を代表するとは言いがたい。 当代の歌人としては、貫之はともかくとして、紀友則とか源融、伊勢などに焦点を当てるべきである。 そこが少し物足りない。はがゆい気持ちがする。書くなら書くでもう少しつっこんでほしい気がする。 そしてさらに、なぜか歌がまったくでてこない宇多上皇の存在に気づくべきなのだ。

思うに、この小林秀雄の本では、当たり前のことだが、 宣長については非常に詳しく緻密に、網羅的に調べて独自の意見を書いている。 しかし、それ以外に脱線した話題に関しては、随想のように、 割と一般に知られている意見をそのまま紹介している箇所があるようにも見える。 彼に特有のむらっけのようなものを感じる。 小林秀雄という人が、主菜を前にして、それ以外のいろんなサイドメニューをつまみ食いしている感じが見える。 もともとこの本が長期連載の随筆をまとめたものであったから、どうしてもそのような体裁になってしまうのだろう。

日の神論争2

久しぶりに小林秀雄の本居宣長を読んでみたのだが、なるほど、本居宣長と上田秋成の論争のことは、第40回あたりにちゃんと書いてある。しかし、小林秀雄は「日の神論争」などという言葉は一切使ってない。

「日の神論争」という言葉には「治天の君」と同じような気持ちの悪さを感じる。たぶんこれらの用語を使い始めた仕掛け人は同じ世界にいる。私はそこになにか戦後左翼の悪意のようなものを感じるのだ。私は自分の嗅覚には自信がある。日本戦後民主主義の欺瞞には敏感だと自負する。

本居宣長と上田秋成の論争はつまりは、宣長は天照大神は人格神ではなくて太陽そのものであると言いたいわけである。秋成は、古代の神話は不可知であるから、太陽そのものであるとか実はなにかの人格神を太陽になぞらえたとか、そんなことには言及しないのが良い、と言っている。つまりは、天照大神が人格神か太陽そのものかという論争。秋成には宣長への愛を感じる。宣長はたぶん秋成を好きではなかっただろう。秋成の宣長への片思い。私にはほほえましく思える。

しかし、それに「日の神論争」という名前を与えた誰かがいる。大きなお世話である。宣長も秋成も、愛するものたちが交わした恋文のような、二人の論争にそんなへんてこな名前を付けられるのは嫌だろうと思う。不愉快だろうと思う。秋成にはたしかに「日神」という文字は見える。しかしそれを「日の神論争」という言い方をするのに、少なくとも私は不快を感じる。

私は宣長の原理主義は間違っていると思うし、秋成の方がまともなことを言っていると思うが、しかし、宣長の弁護もしたいと思う。つまり、当時の人たちは、新井白石もそうだが、何かといえば、神話を自分の考え方で解釈しようとする。それは戦後日本においてもそうだし、平成26年の今日でもそうだ。そのときどきの時代の常識で神話を解釈しようとすれば必ず間違う。秋成は、だから、神話は不可知であると言う。いろいろと判断を加えてはならないと。宣長は、神話は神話としてそのまま記紀に書いてある通りに解釈すべきだという。私にはその二つは似ていてどちらも好ましく感じる。宣長は、神話を勝手に解釈するくらいならそのまま書いてある通りに信じる方がましだと言っているだけに思える。

戦後日本が戦前の日本の国学を否定して、源平合戦を治承・寿永の乱とか言い直したりする。治承・寿永の乱、くらいまではまだ許せる。そう言いたければ言えばいい。しかし、治天の君は私にはただ不愉快なだけだし、おそらく仕掛け人は同じところにいると思うと、日の神論争という言い方にも同じ不快感を感じざるを得ない。宣長が反発したのと同じことを今の学者もやっているのだ。昭和や平成の解釈で神話をいじくるくらいなら、宣長のようにそのまま神話を信じる方がましだと言いたい。ずっとましだ。或いは秋成のスタンスも私は好きだ。或いは、小林秀雄のように批評とはアートであり直感だから、好きに言いたいように言えばよい、というアプローチも好きだ。この三つは私には好ましいし似通ってみえる。一番遠いのは、分かったような用語を後付けして、分かったようなカテゴライズをして、分かったような解釈をすることだ。そんな解釈は100年もたない。判断しないこと、そのまま信じること、アートとして鑑賞すること、これらは100年でも1000年でも保つのだ。

池田雅延氏 小林秀雄を語る

小林秀雄の『本居宣長』について今までいろいろ書き散らしてきたのだが(小林秀雄でこのブログを検索してもらったほうが話は早い)、担当編集者池田雅延氏の詳しい講演があり、『本居宣長』がどのように執筆されて成立したかがわかる。130分もあるので、ゆっくり聞くことにする。もともとは茂木健一郎がソニーのサイトにアップしたものらしいが、その大もとのMP3はもはやなく、適当に検索したら見つけたのが上のリンク。

単行本では50章に分かれているが、もともとは『新潮』に64回連載された記事であり、11年半も連載した。と、いうことは、2ヶ月に1回程度の寄稿であったか。それを1/3くらいに縮めて、最後に1章新たに付け足して、単行本にしたのだそうだ。ふーん。すごく削ったな、もったいないな、というより、そんなに削ったのにまだあんなに冗長なんだ、というのが素直な感想なんだが。

追記 wayback machine

Basilis

この写真によれば、ローマノスは ΡΩΜΑΝΟС ΒΑСΙΛΕҰС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれていて、エウドキアは ЕҮΔΟΚΙΑ ΒΑСΙΛΙС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。ローマ字表記すると、それぞれ、ROMANOS BASILEUS ROMAION、 EUDOKIA BASILIS ROMAION となる。 つまり、東ローマの皇帝はバシレウス、女帝はバシリス、というのが当時の正式な呼称であった。また、すでにギリシャ文字が一部キリル文字化しつつあるのが見てとれる。ΣではなくСが使われ、また、ユプシロンに当たる文字がҰとҮの二つあるように見える。オメガが、小文字の形をそのまま大きくして大文字として使っているが、これも珍しい。というかそういう文字がユニコードにあるのだろうか。

エウドキアの表紙は再び描き換えることになると思う。

英語のウィキペディアにはAugustaとして戴冠されたと書かれているが、実際にはBasilisだったわけで、ギリシャ語のウィキペディア見ても、皇帝 (Autokratoras) とかしか書かれてなくて、ほんとうはなんと呼ばれていたのか、当時の彫刻とかモザイク画くらいしか信用できない。しかもこんな鮮明に文字が残されているのは珍しい。他のはもっと読みにくい。

王冠の形だが、ゾーエーのモザイク画に似ているが微妙に違う気もする。

ところで女帝と皇后はほんとうに区別されていたのだろうか。よくわからん。

コンスタンティノス9世モノマコスでは、ゾーエーがΑҰΓΟҰСΤΑ (AUGOUSTA) と書かれていて、コンスタンティノスは単に ΒΑСΙΛΕҰСΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。もしかしてアウグスタというのは単に皇帝の后、皇后という意味だったかもしれん。アウグストゥスの妻がアウグスタと呼ばれたように。てことは、おそらくエウドキアは皇后の頃からアウグスタと呼ばれていて、その後バシリスとして即位したというのが正しいのではないか。

へレースポントス

『エウドキア』に「ヘーレスポントス」と書いていたのは「へレースポントス」の間違いだった。 修正せねばならない(※追記 より正確にはヘッレースポントスだろう)。 へレースポントスは海峡に名付けられた名ではなく、あの細長い海に付けられた名のようである。意味はずばり「ギリシャの海」。ヘラス、ヘレニズム、ヘレニカなどはすべてギリシャ人が自分らの国や言語のことを言う言葉だ。つまりへレースポントスという名は、ギリシャ人にとって非常に重大な意味を持っている。

黒海は単にポントスと呼ばれたらしい。ポントスとへレースポントスの間の海がプロポンティスだが、これはポントスの手前の海と解釈できる。へレースポントスからプロポンティスを経てポントスに入る、というニュアンスがそこにはある。っと細かく言えば、ボスポラス海峡は紛れもなく海峡である。プロポンティス海は海である。そして、へレースポントス海峡は、海峡ではなくて、古代ギリシャ人の感覚では、へレースポントス海と呼ぶべきだろう。

ではエーゲ海はなんと呼ばれていたかというと、この海はエーゲオペラーゴあるいはアルキペラーゴと言って、ポントスではない。ギリシャ語で「海」をペラーゴといったりポントスと言ったりするわけだが、もとは両方とも固有名詞であったか。あるいはポントスだけが固有名詞だったか。どういう使い分けか、よく分からない。ギリシャ人がいつから自分たちのことをヘラスとかヘレニカと言い出したのだろうか。その中心的な部族や土地はどこだったのだろう。

いやはや。しかし、昔書いたものを手直しすることの大変さと言ったら。

国語教科書の闇

ついでに読んでみた。

これを読んでまず思ったのは、小説を読んでもらうなら、高校国語までの教養で理解できる範囲のことを書かなきゃならないということだ。普通の日本人は「こころ」「羅生門」「山月記」を読む。そこから先は読まない。大学に入ると専門に分かれるから、定番の読み物なんてものはない。大学に行かないひとも多いし、行っても勉強しない人が大半。だから、(総体としての)日本人の教養といっても高校止まり。

おそらく放送業界や出版業界のマーケティングもそうなっているはずだ。無難に高校教育までの範囲で本を出していきましょう。それ以上の冒険をしても売れませんよ、と。日本の高校教育までで必要十分な教養が身に付くという考え方もあるが、それはあまりにも狭い世界で、定番で、既視感で、予定調和で、昨日もどこかのテレビでみたような話、となる。そこから一歩出れば新しい珍しい話もいろいろある。しかし、結局、発展途上国へ旅行するのを取りやめて、せいぜい海外といっても先進国、或いは国内旅行に切り替えるようなもの。

別にね、ハリーポッターとか、シャーロックホームズとか、高校生の男子と女子がどうしたこうしたなんて話を、私は読みたくはないんです。そういうラノベを中学生や高校生が読むのはいい。ラノベは読みやすい。読者も多い。従ってそういうのの作者になろうとかそういうのを商売にしようという人も多いだろうと思うよ。

私が書いているものは、そんなに難しいものじゃあない。半導体理論や量子力学に比べればはるかに簡単だ。それでも理解できないのは、普通の人の教養が、高校教育までで閉じていて、その外の世界の存在を想定してないからだろう。

それから今回初めて森鴎外の舞姫を読んでみたのだが、なんじゃこりゃという感じ。

げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。

は?それが何か、としか言いようのない陳腐な擬古文。擬古文を読ませたいならば、他にもいくらもあるだろうが、擬古文はたいてい国学つまりは右翼思想が混じっている。やはりこれも戦後、GHQのチェックが入って、なんとなく鴎外ならよかろうということになっただけの話じゃないのか。こんなもの勉強させられても何のやくにもたたないよ。

たぶん、検定教科書作ってる出版社の人も、検定している文科省の人も、そんなことは言われなくてもわかっている。しかし、教科書を最終的に採用するのは地方自治体の教育委員会とか日教組とかPTAとか校長先生だろ。そうすると「舞姫」みたいな、衒学的な話を好む。なんかかっこよさそう。それから、なんかよその学校も同じこと教えてるから安心、みたいな。鴎外の雅文体教えられる俺かっこいい、みたいな。「山月記」あるいは「羅生門」「こころ」にも、そんなところはあるだろう。そんで戦後GHQの時代のことはともかくとして、教員もPTAも世代交代して、俺が私が子供の頃はこんなの読まされました、だからうちの息子娘にも読ませよう、みたいな怪しげな一子相伝・免許皆伝みたいなものが形作られてくる。時代に合わせて変えるのは大変だがそのまま残すのは簡単だから出版社もじゃそれでいいわとなる。

「舞姫」と「山月記」に共通するのは、頼山陽や本居宣長といった本物を隠蔽して、その代用品を提供するというところにあるわけ。最初から頼山陽や本居宣長を読めばいいんだよね、明治時代みたいにさ。或いはそういう右翼思想が嫌なら、永井荷風がやったように、為永春水や山東京伝を読めばいいんだけど、仮名遣いがむちゃくちゃだし、しょせんは江戸時代のラノベだから、教材にはなりにくいわな。

さらに、菊池寛とか楽しくておもしろいのにわざわざ「こころ」とか「羅生門」を読ませたがる。ねじけてるよね。戦後左翼思想だよね、典型的な。そこまでねじけたければ葉山嘉樹でも読ませりゃいいのに。

今年のセンター国語、センター試験「国語(古文)」を解いてみる。などにも書いたことだが、今の高校国語なんてセンター試験で高得点出すための手段にすぎないわけ。だから教材も定番なほうがいいに決まってる。どれが正解でもいいようなどうでも良い選択肢のうち一番間違ってないやつを選ぶ技術を競うだけ。法律や契約書の文言解釈にはこういう技術が必要なんだろう。或いは特許とか?曖昧に書かれた文言の中にある真意を読み取る駆け引き。実用性はあるっちゃあるが、しかし文芸とは関係ない。そんなら最初から民法や刑法の条文を試験に出せばいい。著作権関係の法律なんか特に役立つに違いない。あるいは本物の契約書を読み解く試験をすればいいだけじゃんか。最初からそう割り切らないと良い点取れないんだわ。

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

私は中島敦が好きなのでこの本を読ませてもらったのだが、まず、高校国語教師というのは、おおよそただの人である。指導要領もなしに授業などできない。では指導要領を作るひとたちはどうかと言えば、別に彼らが特に中島敦を理解できるわけではないだろう。だから「山月記」が高校の国語の教材として採録されれば、このような「誤読」や間違った「教育」が行われうるのは当たり前であって、国語教育批判はたとえば丸谷才一の『日本語のために』などが古くからあるのに、今更わざわざ怒ってどうするのかと思う。

次にこの作者は『山月記』がわかっていてこれを書いているのか。いや、わかる必要はない。自分なりの解釈、自分なりの思い込みがあればそれでよい。しかし、結局言っていることはこれは古潭という連作の中から切り取られて、わざと短編小説となって、わざとらしいお説教臭い教材に仕立てられたというだけだ。

中島敦生誕百年やガス抜きとしての中島敦に書いた通りだが、ドナルド・キーンがなんといおうと中島敦の作品は戦争小説ではない。あれは、南洋の現地人に日本語を教育するための教科書の教材として自ら書いてみたものだ。

「山月記」がなんで漢文調かっていえば、それは漢文をいきなり教えるのは難しいが、
漢文は日本語教育に不可欠だから、わざと漢文調の文章をこさえたのである。

それからみんなだまされているが中島敦は必ずしも漢文は得意じゃない。漢学の家に生まれたわけでもない。商人の祖父が趣味で漢詩をかじってただけで、中島敦よりも漢詩がうまい人は明治時代にはざらにいるし、江戸時代ならもっといる。昭和だとそんな多くなかったかもしれないが、少なくとも永井荷風は中島敦よりちゃんとした漢詩を作った。中島敦も彼の叔父も漢詩は平仄がむちゃくちゃ。「山月記」に出てくる漢詩も中島敦には決して作れないまともな詩だ。

それでまあ考えられるのは中島敦は、山月記とか李陵なんかは、わざと、擬古文みたいにして、難しい和漢混淆文を書いたのだということ。もともと教科書の教材として書いたものだから教科書と相性が良くてもおかしくない。

山月記自体は面白い教材だと思うが、私ならちょっと悪趣味だが「山月記」と一緒に原作の「人虎傳」を読ませるだろうと思う。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

というところは

隴西李微博學弱冠從州府貢焉時號名士天寶十五載春於尚書右丞楊門下登進士第後數年調選補尉江南微性疎逸恃才倨傲不能屈跡卑僚

の訳である。「才穎」「虎榜に連ね」などという表現に若干のオリジナリティーがあるが、
だいたいは同じである。いきなり「人虎傳」を教材にしては難しすぎるから、中島敦が多少現代風にアレンジした、というあたりが真実だと思う。

追記: 人虎伝、中島敦の書簡と日記。

留置まし

反実仮想まとめが良く読まれているのがおかしいのだが、 たぶん「反実仮想」「まとめ」でググって来ているのだろう。 記事のタイトルに「まとめ」といちいち入れるとアクセスが増えるかもしれない(笑)。

これは先にまし、 とも・・・まし、 というのを書いてさらに調べたものを追加してまとめたという意味。もとはといえば、 吉田松陰の

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

という歌の解釈が難しいからである。 それでまあ、今改めて考えてみるに、 幕末は武士の勇ましい和歌が流行していて、 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも」「大和魂」などはまさに当時の志士が好んだ言い回しなのだが、 なぜか「留め置かまし」の部分だけが非常に雅びで女々しい。 そうするともしかして「大和魂」もまた、 源氏物語に出てくるような女々しい意味で使われているのではなかろうかという疑いが出てきて、 この歌は実はかなり弱音を吐いた歌なんじゃないかと思えてくるのである。

でまあ吉田松陰がそこまで意図してこの歌を詠んだかどうかわからんのだが、 この歌は幕末の殺気だった雰囲気と平安朝の雅びな雰囲気が混在していて、すごく違和感がある。
すごく困惑させられる。 で、以前にも書いたように、私なら、「留め置かまし」ではなく「留め置かばや」とか詠むだろう。 「まし」だと「まほし」の誤用ではないかと誤解される可能性がある。 そう思われるのが怖いからたぶん私は「ばや」にするだろう。 「留め置かむ」が良いが字足らずで「留めて置かむ」ではなんか力が抜ける。 「留め置きてむ」は強いがちょっと違う。 「留め置かなむ」だと「留めおきたいなあ」みたいな感じで変。

川越素描では、吉田松陰の歌を元にしつつ、やはり「ばや」で受けた。

資長のアリア(I)
おお、佐枝、無念なり 忠勤尽くせし我が君に
謀反の疑念をいだかれて 今こそ我は討たれたれ
願はくはこの魂魄を 東(あづま)の国にとどめおき
憎(にっ)くき仇(かたき)上杉の 子孫の胤(たね)を絶やさばや

まあこれだと紛れもない武士の歌である。
でも完全な武士の歌にしてしまうと物足りなくもあり、味気なくもある。
だから、吉田松陰の歌は「留め置まし」でなくてはならず、
そうでなければ維新となって爆発する内部応力をこの歌は持ち得なかっただろう。

敷島の道

「敷島の道」なんてのは足利尊氏が歌に詠み始めた(流行らせた)なんて書いたのが気になって調べてみたのだが、「しきしまの」は「やまと」などに懸かる枕詞でこれは古語だ。
崇徳院御製に「しきしまのやまとのうた」というのがあるが、これは和歌のことであるが、貫之が「やまとうたは」などと言っているのとなんら変わらない。少なくとも古今集の時代にはあった言葉だ。宣長の「しきしまのやまとごころ」これもまた平安中期頃にあっておかしくない言い方。

しかるに「しきしまの道」を「歌道」という意味に用い始めたのは案外新しいはずだ。
たぶん初出はなんかの歌学書もしくは勅撰集の仮名序であろう。明らかに後世作られた「歌学用語」である。そもそも「道」なんてことぱには要するに宣長があまり好きではない漢才の匂いがする。

和歌に詠まれた「しきしまのみち」の初出は玉葉集らしい。九条孝博

おろかなる身をば知れども代々経ぬるあとをぞたのむ敷島の道

ただこれ、初出な上に「日本の道」と言ってるだけなんでほんとに歌道の意味で使ったかは不明。だんだんと定着していったんだろうけど。

冷泉為相

これのみぞ人の国より伝はらで神代を受けし敷島の道

二条為藤

住吉の松の思はむことのはを我が身にはつる敷島の道

住吉の松も花咲く御代にあひてとがへり守れ敷島の道

うーん。ほんとに和歌のことかどうか、あやしいよな。

為藤は為世の子だから明らかに二条派だろうな。為相はどちらかといえば京極派?

玉葉は伏見院の院宣による持明院統と大覚寺統に分かれて争っていた鎌倉後期の成立、
しかも京極派が優勢だったころで、かつ、九条孝博は玉葉集の選者の一人で伏見院の側近、どちらかといえば京極派だったかもしれない。いずれにしろ歌論というものがやかましく言われるようになったころに生まれた言葉だわな。時代的に足利尊氏がその影響をもろに受けたのは自然。ていうか東国の武士が朝廷に接近するためにはまずは和歌を学ばないと、敷島の道にはげまないと、と彼は考えただろう。尊氏が歌好きだから将軍はじめ武士はみんな和歌好きになってしまった。

なにごとも思はぬ中に敷島の道ぞこの世の望みなりける

すごいよなこの尊氏の歌。足利将軍の歌ですよといわれなきゃ誰もわかるまい。ましかし武士だからこそ逆にこんな言い方をしたのかもしれんが。

こういうの調べ始めるときりがないんだけど。

追記: 敷島の道2