「項羽と劉邦」後書き

司馬遼太郎は「項羽と劉邦」の後書きで次のように書いている:

日本史においては、大流民現象がなかったために、それに見合う首領もいなかったし、従って政治哲学や政策論の過剰な生産もなかった。有史以来の最大の乱世といわれる室町期にあっては、政治とかかわりなく農業生産が飛躍した。

こういうことを書くのはまずいと思うんだよなあ。「日本史においては、大流民現象がなかったために、それに見合う首領もいなかったし、従って政治哲学や政策論の過剰な生産もなかった。」ここまでは良いとして、「有史以来の最大の乱世といわれる室町期にあっては、」これは嘘だ。日本の歴史は過去に遡ればさかのぼるほどに乱世であって、でなければ前九年後三年の役なんてものが起きるわけがない。日本は全国で一斉に武装蜂起が起きるほど開けてなかった。未開拓の原野だらけだったのだ、室町時代までは。日本全土に兵隊を動員できたのは頼朝が最初だ。「政治とかかわりなく農業生産が飛躍した。」ここに至っては意味不明。

司馬遼太郎が中国史を書いたのは珍しくてたぶん「項羽と劉邦」しかなくて、それを書いた後書きで気分が大きくなってこういうことを書いたのだと思うのだが、原野の開拓とか開墾というものは高度に政治的なものであって、少なくとも領国単位では極めて政治的な事業だったはずで、「政治とかかわりなく農業生産が飛躍」することなんてあり得ない。

たぶん守護大名や戦国大名が領国内で行った政治は政治とは言わないと、司馬遼太郎は言いたいのだろう。いやそんなものが政治と呼ぶに値するとは気づかなかったのだろう。中国皇帝の独裁政治と比較すれば確かにとるにたりないほど小規模な政治かもしれんが。

司馬史観

いちいちいろんな人の批評を見ずに wikipedia の記述などでだいたいしか知らないで言うのもなんだが、司馬史観と言われるものは確かにある。司馬遼太郎が書いた小説は、小説はフィクションだからそれをどうこう言うつもりはないが、しかし後書きや対談などで彼ははっきりと自分の歴史観について語っているのだから、それについて彼は、自己の意見に対して他人から批評を受ける責任があろう。また彼は作家なのであるから、作家が抱いていた歴史観という観点で批評されて当然だと思う。

代表的な歴史作家、時代小説作家、たとえば吉川英治や新田次郎らと比べたときに、司馬遼太郎には明らかな特徴がある。吉川英治や新田次郎は日本の古代から現代まで比較的均等に、好き嫌いなく勉強し、取材し、題材にしている。しかし、司馬遼太郎は幕末・明治、戦国時代のものがほとんどである。南北朝や室町は嫌いだと明言もし、一つも小説は書いてない。これが司馬史観の第一の特徴だと私は思う。

日本人の多くは司馬史観論者である。たとえばある財界人のスピーチで私は聞いたのだが、室町時代は政治は混迷していたが、文化や産業が栄えた、これは戦後の日本と同じ状況だなどと言っていた。これとまったく同じことを司馬遼太郎も言っている。これを意識的に司馬史観だとわかって言っているなら良いが無意識に言っているようだ。聞いている側も無意識にその通りだと思って聞いているが、非常にまずい、危険な状況だと思う。

司馬遼太郎はまた、近世日本から近代への連絡を、また同時に近代から現代への連絡を、 意図してかせずにかは知らないが、分断してしまった。まるで、幕末維新の頃だけを劇場の中に祭り上げてしまい、その前もその後も出来損ないの無用の時代のようにしてしまった。幕末維新の偶像崇拝、特に坂本龍馬など。これが第二の特徴なのだが、第一と同じで、要するに、司馬遼太郎がまんべんなくすべての時代の歴史を公平に描写していれば、 そういう誤解を生むことはなかったのだ。歴史は本質的には連続なものであり、因果関係によってできている。むやみに切り取ってはならない。一部を切り出して誇張するならその副作用についても考えないと。もう彼は死んでしまったのだから彼だけの責任ではないのだが。

室町幕府や足利将軍というのは非常に面白いのだが、通常は、司馬遼太郎も言っているように、吉川英治や新田次郎がやったように、太平記を下敷きに書いてしまっている。新田次郎はくどくどと独自取材をやった上で書いたんだなどと言い訳しているが、それでもやはりおおよそは太平記に沿って書いている。太平記の時代のことを太平記によらずに書くのはもちろん非常に難しい。公家の日記などの一次資料を丹念に読めば可能かも知れない。室町時代まで下ってくるとこの手の資料は探せばいくらでもあるはずだ。しかし、歴史小説家は歴史研究者ではないから、だいたい太平記を読んでざっと現地取材して小説にしてしまった方が楽だろうと思うし、おそらくその程度のことしかしてないだろう。吉川英治や新田次郎はそこまでしかやらなかったし、司馬遼太郎はそこから先に行こうとさえしなかった。

平家物語の時代には一次資料がおそらく圧倒的に少ない。その代わり、文芸作品としての平家物語のできが良い。となると、平家物語から離れて小説を書くことは不可能だろう。しかし、室町時代ともなると、太平記のような読み物もあるがそれ以外の資料もある。資料に当たり出すときりがない。だから、たぶん普通の小説家はやらない。もっと派手な、戦国時代とか、あるいはもっと身近な江戸時代など書いた方がましだということにならんか。

室町時代は政治が混迷していたのではない。一次資料が多すぎて、互いに矛盾しあっていて、小説として、歴史としてまとめにくいのだ。政治的にはだから現代と同じくらい豊かな時代だったのだと思う。つまり、政治というものは当然錯綜するものであり、きちんと誰かが統治していたなどというのは嘘八百に違いないからだ。文化や産業が栄えた時代にそれなりの政治がなかったはずがない。単に将軍家の権力が衰えたというだけで、領国ごとに政治はあったはずなのだが。司馬遼太郎はそこをあえて無視する。おそらくはそのおもしろさに気づいてなかった。ある意味「もののけ姫」はその辺に気づいてあえて挑戦している。司馬史観の本質はそこだと思う。宮崎駿がそこまで考えて「もののけ姫」を作ったかは知らん。

享和元年宣長上京の理由

あいかわらずのネタ。
宣長日記享和元年三月十六日(グレゴリオ暦1801年4月28日)、

公卿勅使花山院右大将殿(愛徳卿)御参向、今夕当所御泊。
藤浪殿亦御参向、一時許先給、同泊。
抑、公卿勅使参向者、去寛保元年有之(庭田宰相殿)。
其後今度也、尤珍。

さらに十八日

公卿勅使御還向、当所御休。

この十日後の二十八日に宣長は京都に向かっている。

花山院愛徳は当時、右近衛大将、従三位くらいだったと思われる。藤波家もまた公家。御参向、御還向とは、伊勢神宮に勅使が行き帰りしたという意味だろう。「当所御泊」の「当所」とは文脈的に宣長宅とは考えにくく、単に松坂のどこかの宿に宿泊したということだろう。「一時許先給同泊」とは、一時的に先に行くことを許されたがやはり同じく泊まった、というような意味か。

勅使が松坂を行き来したことは書かれているが、勅使と宣長が面会したかどうかまでは書いてない。 面会したとしてどちらがどちらを訪れたか。 だが、宣長の上京がかなり長期にわたり、また入門や講義などの準備がかなり周到で、 公卿らの表敬訪問や歌会などもあったことを思えば、 ただ単に京都から来た勅使を見て宣長が急に京都行きを思い立ったというよりも、 京都の公卿か富裕な町人たち(富小路貞直、服部敏夏らか)から勅使に託して宣長宛の招待状のようなものがもたらされて、 もともとそういうことは好きなたちの宣長が、では京都にいこうかとなった、というのが真相なのではないか。 当時の宣長の名声からしてあり得ないことではない。 だが、日記にもどこにも明記されてはいない。 なんか微妙な事情があってその辺は日記に残したくなかったのかもしれんし。 宣長が、松坂に宿泊した勅使のもとをおとづれて、宣長の京都での評判などを聞いて、その気になった、という可能性もあるし、 逆に、勅使が行き返りわざわざ宣長に念押しした、とも考えられるわな。

勅使が寛保元年以来だと書いているが、1741年から1801年まで、60年もの間、 京都と伊勢神宮との間の勅使の往来が途絶えていたという意味か、 単に松坂を勅使が行き来したのが60年ぶりという意味か。 京都・松坂・伊勢の位置関係からして、伊勢に行くには必ず松坂を通るに違いなく、 わざわざ松坂を迂回する意味も見あたらないし、「尤珍」という言い方からしてどちらかといえば前者の意味か。庭田宰相とは時代的には庭田重熈か。

宣長の遺品は奇跡的にほぼ100%残されているそうだ。 なので、普通なら残ってないようないろんなディテイルまでわかってしまう。 だが、ディテイルがわかればわかるほどさらにその先のディテイルまで知りたくなる。 宣長上京については、いろんな日記が残されているが、 当たり前のことだが、自分の関わった部分、自分に関心のある箇所しか残ってない。 香川景樹とやりとりした歌は景樹の歌集や遺稿にしか残ってない。 ホスト役の公卿や町人の日記も当時は存在していたかもしれないが、今は残ってない。 それらをすべてつきあわせたらきっともっといろんなことがわかるのに。

桂園遺文

景樹の「桂園遺文」に、

文句は古今に従ひ、都鄙によりてかはりゆくものなれば、たのみがたきものなり。この調べのみは古今を貫徹するの具にて、いささかもたがはざるなり。ひとり大和言葉のみならず、からもえぞも変はらぬものなり。

などと言っている。ここで古今と言っているのは古今集のことではない。語彙や言葉遣いは時代や場所で変わってしまうので、頼りないものだが、調べ(リズム)というものは、時代や地域の違いはなく、言語の違いすらない、などと言っている。

思うに、景樹の歌論にはかなり無理がある。景樹の歌が当時の京都の人々の話し言葉で詠まれているとは誰も思ってないだろう。景樹は確かに俗語や口語を和歌に取り入れてみたが、100%俗語口語で歌を詠んだのではない。今日の、現代短歌のような意味での口語の和歌ではないのは明らかだ。また、誠実に歌を詠めば自然と良い調べの歌になる、というのも単なる精神論にしか思えない。結局何を言いたいのかがわからない。景樹は、歌人としての天性の才があったのは間違いないが、いろんな人の影響を受け、またいろんな人の批判も受け、そのため歌論のようなものを主張しては見たが、そもそもあまりロジカルな考え方をする人ではない、というのがまあ、だいたいの結論と言ってよかろう。

その時代にしか通じない言語で歌を詠んでしまうと、その歌はたちまちに陳腐化する。わずか50年後に見ても何か違和感を感じるだろう。明治期の万葉調の和歌や、戦後の左翼歌人らの和歌、俵万智の模倣者らの歌などがまさにそうだ。ところで景樹の歌などは今から200年ほど前の歌なわけだが、それなりに今でも鑑賞できるし、古今集なども多少古典文法を学んでおけば何の説明もなしにわかる平易なものが少なくない。それは、古典文法や文語文法というものがそのような時代を超えて生き続ける生命力を持っているからであり、だからこそ和歌を文語文法に則って詠む必要があるのだと思う。

Serious Sam HD The 2nd Encounter クリア

クリアと言っても一番簡単な tourist でさらっと最後までいっちゃった感じ。やりこむような時間もなし。昔やったときを思いだしつつ。

最初がマヤ、次が古代メソポタミア、最後が西欧の大聖堂。それぞれ特に脈絡なし。それぞれにラスボス戦あり。1st Encounter がひたすらエジプトだったので、それと同じ要領で三倍にふくらました感じではある。

御衣黄

飯田橋で電車を降りて、東京大神宮、靖国神社、千鳥ヶ淵、皇居御苑などをぶらぶら歩く。
気持ちの良い一日だった。
最近は、テレビも「パワースポット」などという言葉を流行らせようとしているが、
これは要するに新手の霊感商法のようなもので、
こんなものに荷担するのはいかがなものかと思う。

飯田橋から東京大神宮の間にバーガーキングがあり、昼飯代わりに食べる。
日本で簡単にワッパーが食べられるようになり幸せ。
肉はニュージーランド産なのだな。

それはそうと東京大神宮はもともとは明治政府が作った伊勢神宮の遙拝所から始まり、今のところに移転したものらしい。
昔は高台にあったもののようだが、今やビルに囲まれて伊勢神宮の方角など見えないわけだが。
かつては、神社の前の、南西方向に延びた道が伊勢神宮を遙拝する目的の表参道だったのかもしれない、
今神殿は南面しているので、礼拝する人は伊勢神宮に背を向ける形になる。
遙拝所という意味ではかなりおかしいが、神明神社だと思えば別に変ではない。
神前結婚式がここで始まったというのもなんとなくそんなものかもしれんと思った。
もとは伊勢神宮の出張所で首都布教の拠点だったわけだからな。
その後大正時代になると明治神宮が出来、東郷神社や乃木神社などが出来ていく過程で広まっていったのだろう。
赤福を食べた。
東京大神宮を詠める:

> 武蔵野の原より はるか神風の 伊勢のやしろを 拝む丘かな

靖国神社は新緑がきれいだった。
八重桜がまだ咲いていた。
いろんな種類の桜があるようだが、花が咲いてないとよくわからない。
特に「吉野桜」というのがソメイヨシノを言うのかヤマザクラを言うのかがわからない。
ソメイヨシノという名前が紛らわしすぎる。
ここの桜は、ぎりぎりまで植え替えないのだろう。
またおそらくは、あまり農薬などは使わないのだろう。
かなり年を取った桜が見られる。
街路樹や公園の桜などは幹が黒々として太くごつごつしている。
ここの桜はどちらかと言えば細く、幹は苔むしていて緑色である。
育て方が根本的に違うと見える。

植ゑられし 古きさくらは 苔むして 朽ち折れてゆく やすくにの庭

苔むして 蟻むれたかる 一筋の 道さへとほる 朽ち桜かな

老いにける 桜なれども 宮人に まもられ保つ 命なるかな

朽ち木立つ このやすくにの 宮の庭 かたへに苗ぞ かつ植ゑらるる

植ゑられて あるがまにまに 生ひ育ち 老い朽ち果つる 宮桜かな

元宮と鎮霊社にもお参りする。
元宮は、京都に作られたほこらを移したというもので、特に問題もないが、
鎮霊社は、「靖国神社本殿に祀られていない霊と、諸外国の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている」
とのことでなにやらただ事ではない。
調べてみると賊軍として死んだ白虎隊の隊員や、西南戦争で死んだ西郷隆盛らが祭られているとのことだった。
靖国神社の献木としては桜が多いとは思うが、そうでない木、たとえばモッコクなどがたくさん植えられている。
何かいわれがあるのだろうか。

鎮霊社を詠める:

> やすくにの 庭居に百千 植ゑられし 木の間に暗き 隠れ宮かな

千鳥ケ淵戦没者墓苑。ほとんどひとけがない。比較的新しい施設のように思われる。

御製:

> 戦なき 世を歩みきて 思ひ出づ かのかたき日を 生きし人々

昭和天皇御製:

> 国のため いのちささげし 人々の ことを思えば むねせまりくる









千鳥ヶ淵沿いにかえで、西洋かえで、八重桜などが植えてあり、これがまた美しい。
皇居御苑には「御衣黄」という珍しい桜が咲いていたので、
少し写真を撮った。

花の形から八重桜の一種であることがわかる。
花びらに葉緑素があるので、黄色または黄緑色に見えるが、花心はピンク色。
栽培種で、日本全国の庭園など100箇所くらいで見られるという。


宮城の 千鳥が淵に 春たけて 散りそめにける 八重桜かな

大君の 千代田の宮の 苑におふる 浅葱桜の 盛りなるかな

九重の 千代田の苑も いにしへは 日比谷の海の 入り江なりけむ

今に見る 千代田の城の 石組みに もののふの世の いにしへを思ふ

もののふが 開きし海の あとなれや 千鳥が淵の 深き濃緑

春たくる 千鳥が淵を 見渡せば 水面も岸も みな青みたり

花散らす 風は吹けども 夏近き 千鳥が淵に さざなみもなし

城の濠 巡りて走る 外つ国の人は やまとの春を知るべし

外つ国の 人にみせばや 武蔵野の 千代田の城の 春の盛りを

永福門院

伏見天皇の中宮で、天皇と共に京極為兼に学ぶ。京極派最高の歌人の一人とも。

過ぎ移る時と風とぞ恨めしき花の心は散らむともせじ
風に聞き雲にながむる夕暮れの秋の憂へぞたへずなりゆく
夕暮れの庭すさまじき秋風に桐の葉落ちてむらさめぞふる
川千鳥月夜を寒みいねずあれや寝覚むるごとにこゑの聞こゆる
音せぬがうれしき折りもありけるよたのみ定めて後の夕暮れ
たまづさにただ一筆と向かへども思ふ心をとどめかねぬる
過ぎて行く月日を返すものにあらばこひしきかたをまたもみてまし
むら雲に隠れあらはれ行く月のはれもくもりも秋ぞかなしき
月の姿なほありあけのむら雲にひとそそぎするしぐれをぞ見る
むらむらに小松混じれる冬枯れの野辺すさまじき夕暮れの雨
寒き雨は枯れ野の原に降りしめて山松風の音だにもせず
鳥のこゑ松の嵐の音もせず山しづかなる雪の夕暮れ
荒れぬ日の夕べの空はのどかにて柳のすゑも春近く見ゆ
さても我が思ふ思ひよつひにいかに何のかひなきながめのみして
あやしくも心のうちぞ乱れ行くもの思ふ身とはなさじと思ふに
とはぬかなとふべきものをいかにあればきのふもけふもまた過ぎぬらむ
山あひにおりしづまれる白雲のしばしと見ればはや消えにけり

うーん。ふつう? 確かに京極為兼の影響は見えるが。 伏見天皇の歌も見たが、こちらもごくふつう。だいたいこの三人しかいないんだよな、京極派って。結局、為兼が突然変異だった、ということだろう。

二条為世の歌

たくさんあるのでとりあえず新千載集から為世の歌。

明けやすき空に残りて夏の夜は入ること知らぬ月のかげかな

夏は月が入るより先に夜が明けてしまう。

あくがるるものと知りてや秋の夜の月は心をまづさそふらむ
恨み侘び夕べは野辺にこゑたてて来ぬつまこひに鹿ぞ鳴くなる
音たててこずゑを払ふ山風もけさよりはげし冬や来ぬらむ
ひさかたの空に積もると見えゆるかなこ高き峰の松の白雪
白波も寄せつるかたにかへるなり人をなにはのあしと思ふな

白波でも心を寄せる方に帰るのだから人を悪く思うな、と。まあ縁語などがそこそこ面白い。

言ひ初めて心変はらばなかなかに契らぬ先ぞこひしかるへき
したもえの我が身よりこそ立てずとも富士のけぶりのたく人は知れ

うーむ。

うつつには また越えも見ず 思ひ寝の 夢路ばかりの 逢坂の関
おのづから いつはりならで 来るものと 思ひ定むる 夕暮れもがな

うーむ。

同じ江の 葦分けを舟 押し返し さのみはいかが 憂きにこがれむ
長き夜も ひとり起きゐて まどろまぬ 老いの友とは 月を見るかな
いく夜かは 見果てぬ夢の さめぬらむ 松の戸叩く 峰の嵐に
月かげの 夜さすほかは みなと江に 行くかたもなき あまの捨て舟
さかのやま 照る日のかげの 暮れしより 同じ心の 山に迷ひき

確かに平坦、確かに平凡。幽玄とか有情とか言えばそうかも。題詠なんだろう。これが二条派なんだな。なんか、ドリルを解いてるみたいだよな。頓阿、契沖、宣長に通じる。

定家の前衛的なところとか西行や和泉式部の情熱的なところとかは京極為兼に行き、定家や西行の無情感とかわびさびは二条為世に受け継がれた。こってりと情緒的な京極派は仏教、とくに禅宗が流行った中世の雰囲気には合わずに衰退した。文芸の担い手に僧侶が多かったことも、京極派には災いしただろう。そういう芸術家肌のこってり情緒的な公家文化を担っていけるような余力のある公家というものも、もはや存在しなかった。武士にも愛好されることがなかった。狩野派の絵や茶道のように家元の言う通りに作法を学べば万人にも嗜むことができる、それが二条派。陶芸や書道のように希少性(カリスマ性や芸術性)を要求されるのが京極派。前者をデザインと言えば後者はアートだ。あるいは、前衛的実験的なデザインがアートであり、逆に定型化し普遍化したアートがデザインといえようか。そんなところだろうか。

京極為兼の歌

玉葉集や風雅集などは、なかなか図書館にもない。けっこう困る。十三代集などはだいたいが入手困難。しょうがないので21代集データベースから。

為兼の歌。すこし面白い。玉葉から

冴ゆる日の しぐれののちの ゆふ山に うすゆき降りて 雲ぞ晴れゆく
ねやの上は 積もれる雪に 音もせで 横切るあられ 窓たたくなり

ここらの冬の叙景がなかなか良い。屋根に積もる雪は音も無いが窓を叩く霰の音がうるさいという。雪と霰が同時に降るというのはどうかとも思うが。

泊まるべき 宿をば月に あくがれて 明日の道行く 夜半の旅人

まるで敦煌の駱駝の旅のようだな。

旅の空 あめの降る日は 暮れぬかと 思ひてのちも 行くぞ久しき

雨の日の旅は空も暗く、もう暮れたかと思いながら久しく行くという意味か。面白い。

さらにまた 包みまさると 聞くからに 憂さ恋ひしさも 言はずなるころ
人も包み 我も重ねて 問ひ難み たのめし夜半は ただ更けぞゆく

相手がへそを曲げてふさぎ込んでいるのでとやかくものも言えない。

恨み慕ふ 人いかなれや それはなほ 逢ひみてのちの 憂へなるらむ
言の葉に 出でし恨みは 尽き果てて 心にこむる 憂さになりぬる

恨み言は言い尽くして今は内にこもっている。

辛きあまり 憂しとも言はで 過ぐす日を 恨みぬにこそ 思ひ果てぬれ

こちらはあまりにもつらいので、なんとも言わずに過ごしているのを、 恨まないというのはもう気持ちが離れてしまったからだろう、と。

もの思ひに けなばけぬべき 露の身を あらくな吹きそ 秋の木枯らし

面白いじゃないか。風雅集から

春のなごり ながむる浦の 夕凪に 漕ぎ別れ行く 舟も恨めし

春の叙景。

松を払ふ 風はすそのの 草に落ちて 夕立つ雲に 雨きほふなり

夏の叙景。「(峰の)松を払う風が裾野の草に落ちる」とか「夕立ち雲に雨が競う」とか、映像に立体的な動きがある。なかなか良い。本歌取りや縁語などの仕掛けがまるで見られないのも気持ちよい。ただもう、情景を言葉で巧みに表現したというもの。

秋風に 浮き雲高く 空すみて 夕日になびく 岸の青柳

「秋風に浮き雲高く空すみて」辺りの叙情が現代的。 また秋の叙景に青柳というのが新鮮。「夕日になびく岸の青柳」こういう言い回しは現代では当たり前だが、中世では珍しかったに違いない。

庭の虫は 鳴き止まりぬる 雨の夜の 壁に音する きりぎりすかな

「庭の虫」「壁のきりぎりす」の対比が面白い。

野分立つ 夕べの雲の あしはやみ しぐれに似たる 秋のむらさめ

秋の台風による驟雨と冬の時雨が似ているという、おもしろい歌。なかなか楽しそうだな。「足が速い」という言い回しが、当時にもあったのだろうか。

朝嵐の 峰より降ろす 大井川 浮きたる霧も 流れてぞ行く

「あさあらし」とか「浮きたる霧も流れてぞ行く」とかなんか表現が独自で面白い。

降り晴るる 庭のあられは 片寄りて 色なる雲に 空ぞ暮れ行く

「ふりはるる」とか「あられ」が「かたよる」とか「色なる雲に空ぞ暮れ行く」とか実に技巧的。

ふるさとに 契りし人も 寝覚めせば 我が旅寝をも 思ひやるらむ

ふつうに面白い。

結び捨てて 夜な夜な変はる 旅枕 仮り寝の夢の あともはかなし

ふつうに面白いだろ。

初しぐれ 思ひそめても いたづらに まきの下葉の 色ぞつれなき

まあ普通。

大井川 はるかに見ゆる 橋の上に 行く人すごし 雨の夕暮れ

いやあこれはまるで浮世絵の風景のようだ。大雨の中、遠景に橋がかかりその上を人が渡っていく。なるほど「異端」とされるのもわからんでもない。叙景にしろ描写にしろ、なにか若々しい躍動感がある。若い頃の定家や実朝にも通じる何か。これの対極にあるのが二条派の「平坦」とか「わびさび」とか「伝統墨守」というものだと言われれば、妙に納得がいく。

大空に あまねく覆ふ 雲の心 国土(くにつち)潤(うる)ふ 雨くだすなり

何か物狂おしいような。雨乞いの歌だろうか。「大空をあまねく覆う雲の心」が「国土を潤す雨をくだす」とかすごいな、自然賛歌。まあ、たぶん一種の天才肌だったんだろうな。他人は真似しにくいわ、これは。

新類題和歌集

ふーむ。 霊元天皇も後水尾天皇に続いて「新類題和歌集」という勅撰和歌集を編纂させている。 21代の勅撰和歌集から通算で数えれば、 22代が後水尾天皇の「類題和歌集」(1703年)、 23代が霊元天皇の「新類題和歌集」(17??年)、 となる。

歌集のこと 参考:吉川弘文館発行「古事類苑」

但し後水尾天皇の朝に「類題和歌集」あり、霊験天皇の朝に「新類題和歌集」あり。 共に勅撰なれども、一題の下に衆多の歌を載せたるものにて、 勅撰の春夏秋冬等を以て分類し、毎首に題を加へたるものとす。 自ら其の撰を異にする所ありて、古より勅撰の中に算入せず。

うーん。 おそらくは、題詠の手本のために、同じ題の歌をたくさん、昔の勅撰集との重複も含んで集めたもので、 確かに21代集までとは性格の違うものかもしれないが、 時代が変われば編纂方針も変わるし、時代に即していく必要もあるだろうし。 つまり、21代集までは「秀歌の選抜」という意味があったのだろうが、 類題和歌集では「和歌の分類と習得」という意味の方が濃かったのだろう。 あるいは先行する「夫木和歌抄」などと類似する性質のものか。 あるいは当代の歌はごく少なくて、主に古い歌を類別すること、 或いは21代集の総集編たることが主たる目的だったか(確かにそういうものがあると便利だろうし、 そういう動機もわからんでもない)。

「類題和歌集」「新類題和歌集」を、勅撰集から排除する理由はあるのかないのかよくわからないが、 ともかく一度現物を読んでみる必要はあるな。 と、思ったがOPACでほとんどヒットしない。 あるのは国会図書館くらいか。 これは厳しい。


追記。おそらくこの勅撰類題和歌集というものはどこにも存在しないか、宮内庁の倉庫の奥底にまったく精査されることもなく雑然と置かれているだけなのだろうと思う。