宣長の結婚2

やっと図書館が開いたので大野晋『日本語について』岩波書店同時代ライブラリーと、丸谷才一『恋と女の日本文学』講談社、を借りてきた。 大野晋が宣長と草深多美の再婚について言及しているのは、宣長全集に挟み込まれている記事で知り、 さらにネットで検索してだいたいのことはわかったのだけど、ともかく原著にあたってみようと思ったのだ。

まず、『恋と女の日本文学』の方だが、こちらは「恋と女と本居宣長」という文があり、何かの講演のような体裁になっているが、 1995年2月号の「群像」に直接掲載されたもののようだ。 その9の中の「大野晋さんの説を紹介することになるでせう。」(p80)から以降の部分に記述してある。

『日本語について』の方はI語学と文学の間―本居宣長の場合―「美可」と「民」という箇所だ。 こちらの初出は 1976年日本書籍社版『日本語について』らしい。

大野晋は、

外にとりたてた証拠はないのです。

と断っているし、丸谷才一もまた、

小説家らしい想像力の働かせ方と笑はれるかもしれませんが、しかしここからの展開ぶりはちよつと小説的である。

と言い訳めいたことを書いている。 つまり、ふたりとも、是が非でも真実であると主張したいわけではない。 でも、一つの可能性として、仮説として、世に問うに値する、といいたいらしいのだ。 特に大野晋の場合には1994年に再度岩波書店から同じ内容で出しているのだから、自分の説にそれなりの自信があるということだ。

私は子供の頃から丸谷才一も大野晋も大ファンで大きな影響を受けたから、むしろ、 なぜ彼らはそのように判断し、しかし私はそうは思わないのか、という点に非常に関心を持った。 きっと私以外の人たちはふーんそうなの、と考えてそれ以上追求したりしないだろうと思う。

宣長は京都から松坂に帰郷してから三年間結婚しなかった、いかにも不思議だ、何か未練でもあったのだろう、 と彼らは考えているのだが、それはどうでもよいことだ。 宣長は二十二歳と、学問を始めるにはかなり遅い時期から遊学している。 無論彼は松坂でずいぶん早い時期から学問をしていて、その結果意を決して京都に上ったのだろう。 さらにそれから五年間も京都にぐずぐずして、師匠が死んでやっと帰郷していて、しかも三年間も結婚していない。 私が思うに、この二十二歳から八年間の長い長いモラトリアムは、 単に宣長が学問好きだったからとか、独身でいたかったからではなくて、 結婚したかったけどなかなかうまい縁談がみつからなかったからだろうと思う。 京都ではどこか医者の娘のところへ婿入りできないか探していた。 松坂に帰ってからも、一年か二年の間はその運動を続けていた。 それらがすべてうまくいかなかったから、地元の有力者の娘と結婚したが、それもうまくいかなかった。 仕方なく知り合いの妹の後家の女と結婚した。 そう考えるのが一番自然だ。

大野晋は日記の文体のリズムが、最初の妻の美可(旧名ふみ)のときと、二度目の多美のときで違う、などと書いている。 しかし、それにしても、美可のときは初婚で大家との縁談なので緊張していただけかもしれんし、 多美のときは再婚で気負っていただけかもしれん。それだけのことのような気がする。

さらに、大野晋と丸谷才一が言いたいのは、宣長が仏教や儒学からの呪縛から逃れて、 『源氏物語』を読み解く目を持ち得たのは、多美への未練を三年間持ち続けていたからだ、などと言っているのだが、 そんな重大な結論が導かれるには、これだけの状況証拠では足りなすぎる。

宣長が儒教や仏教などの呪縛から自由だったのは、なぜかだが、この問は、 信長がなぜ比叡山を焼き討ちして本願寺を武装解除できたのか、という問と同じだ。 白河天皇が手を焼き、清盛が甘やかした寺社勢力というものを、なぜ突然信長が中世の宗教的桎梏から解き放たれて、 徹底的に弾圧し得たのか。 信長が天才だったからだろう。 そうとしか言いようがない。

宣長の場合、自ら歌を詠み、古今集や新古今集、伊勢物語や源氏物語を「原著」で読んだであろう。 さらに定家や契沖の歌論書など片っ端から読んだ。 その経験が「国学」というものを突然創始させたようにみせた。 少なくとも定家や後鳥羽院の頃までは、日本人は儒教や仏教にとらわれず、自由に歌を詠んだ。 そこから直接学べば、外来思想の影響は受けにくい。 また、国学の祖といわれる契沖は、 定家よりも古く、万葉集や日本書紀、古事記などを研究していたから、 宣長もまた、定家の頃にはすでに忘れられていた古い古典にさかのぼって国学というものをうちたてねばならないと考えていた。 宣長が古事記の研究をライフワークとしたのも、契沖がそのとっかかりを与えてくれたからだろう。 源氏物語を読めるようになったのも、第一には契沖の影響だろう。

蘭学の影響もまったくなくはなかったかもしれない。 医者にとって、少なくとも医者のコミュニティの中では、蘭学の影響は無視できないはずだ。 仏教があり、儒教があり、それとは別にキリスト教というものがある。 学問の世界はすでにいろんな説に分かれて相対化しつつあった。 宣長も京都に上っていろんな学問のうちどれをどのくらい学ぼうかと品定めくらいはしただろう。 そういう雰囲気の中に第四の学問として国学を創始するべき時運が整っていたのだろうと思う。

さらにいえば、戦国時代や江戸初期の歌人、とくに武将などは、わりと自由に歌を詠んだ。 必ずしもイデオロギーに囚われてはいなかった、と思う。 誰も彼もが心を縛られているのではない。 宣長はもともと浄土宗だが、自らそのくびきから逃れている。 ただ、仏教や儒教から逃れて国学に徹したのではなかった。 仏式と国風の二つの墓を作ったくらいだ。彼は宗教というものを相対化していた。

宣長もまったく恋愛を経験しなかったわけではなかろうが、それは草深多美への片思いだった可能性は低い。 一番可能性が高いのは、日記にも記されていない、あるいは記したが後世には残されなかったところにあるかもしれない。 それはたぶん五年間という長い長い京都遊学時代のどこかだと思うが、何も証拠は残ってない。

熱烈な恋愛を経験したから源氏物語が読めるようになるのであれば、そんな人間はいくらでもいるだろう。 しかし当時の多くの日本人は、仏教や儒教に囚われた、曽根崎心中のような浄瑠璃に感情移入したのであり、 当時すでにあまりにも浮世離れした源氏物語に結びつけるには飛躍がありすぎる。

宣長の歌

宣長が和歌に志し、『和歌の浦』を執筆し始めたのは延享4 (1747)年11月14日のこと。 生まれた日は享保15 (1730) 年5月7日なので、満17歳の時。 『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」

十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、 よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、 人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき

宣長が初めて歌を詠んだのは、延享5 (1748) 年正月のこと。

此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける
新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空

寛延2年3月20日 (1749/5/6)
> 同二年【己巳】従三月下旬、詠和歌受宗安寺〔中ノ地蔵立〕法幢和尚之添削【自去年志和謌、今年ヨリ専寄此道於心】また、三月下旬ヨリ、宗安寺ヨリ歌ノ直シヲ受ル、「杉ナラハ、「ハル/\ト、「カクヲシム、「ナニハヱノ、「池水ノ、始テ五首ヲツカハス

この法幢和尚というのが、初めて宣長が歌を添削してもらった人、 つまり最初の師匠ということになる。 どんな人かはそれ以上はわからない。

寛延2年9月10日 (1749/10/20) 定家の歌論書『詠歌大概』『秀歌体大略』などを筆写する。

なぜ和歌に興味を持ったのか、いろいろ理屈を考えてみたが、京都に行ったり、 父が商売していた江戸に行ったり、 また吉野や伊勢神宮に参拝したりなどして、自然と和歌に関心をもった、 という程度のものなのだろう。

宝暦2(1752)年3月上京。上京というのはこの当時は当然京都へ行くこと。

母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒学をもせむとてなりけり
景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす

堀景山とは儒学者で医師。 また、契沖の研究者で、景山の紹介で契沖の『百人一首改観抄』を読む。 宣長は契沖を高く評価しているがそれは師匠景山の影響だろう。

宝暦2年9月22日、新玉津嶋社を訪い社司森河章尹に入門、 新玉津嶋社和歌月次会に約1年ばかり出席するようになる。 この森河章尹という人が、法幢に続いて宣長の二番目の和歌の師範となる。

宝暦2年11月 (1753/1/3)

年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉もはか/\しくよしあし見わくる人もなき事をうらみて同し題(浦千鳥)にておもひをのへ侍りける/和歌浦たちよるかたを浪間にそ夜半の千鳥の鳴あかすなる/浜千鳥鳴こそあかせ和歌の浦やたつらんかたもなみのよる/\

と言った具合に、宣長は森河章尹という人が歌の良し悪しもわからぬ人だと言っている。 森河は藤原氏であり、冷泉為村の弟子である。 為村(正徳2年1月28日(1712年3月5日) – (安永3年7月29日(1774年9月4日))は正真正銘、 堂上家の歌人であり、霊元天皇(承応3年5月25日(1654年7月9日) – 享保17年8月6日(1732年9月24日))に古今伝授を受けた。 霊元天皇が添削した詠草が現存するらしい。 冷泉家というのは定家の唯一の直系の家系でもある。

宣長が、『排蘆小船』で古今伝授のことを激しく攻撃しているのは、 この森河や為村のことを指している、と言って間違いなかろう。 古今伝授がでっちあげだと初めて主張したのは契沖で、 宣長も全面的に賛同している。

小沢蘆庵は為村の弟子だったが破門された。 宣長と蘆庵は、宣長が京都遊学中、宝暦7年8月6日(1757/9/18)出会っている。 蘆庵と宣長の接点は森河か為村しかない。 為村は当時まだ存命中だ。 新玉津嶋社和歌月次会で顔見知りになったと考えるのが自然だ。 この年には師匠の景山が死去し、宣長はただちに帰郷している。

宝暦8年2月11日地元松坂の嶺松院歌会に初めて出席し、有賀長川に添削を受けている。 つまり彼が宣長の三番目の歌の師範となる。 長川は有賀長伯という比較的有名な二条派の歌人の嗣子。 松坂に住んでいたのでなく、おそらく大阪か京都に居て、宣長は書簡で添削を受けたのだろう。

宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう。

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

パルムの僧院

『パルムの僧院』を読もうと思うのだが、なかなか進まない。『赤と黒』とあわせてよんでみるとわかりやすいのだが、スタンダールで出てくる「私」というのは作者自身のことだ。今の小説で「私」というのは主人公の一人称であることが多い。全然違う。

それから、当時のオーソドックスな小説というものは、主人公が生まれる二、三年前から書くものだったらしい。そういえば源氏物語もそんな構成になっているわけだが、これも現代の読者にしてみればわけわからない。今の小説は多くの場合、いきなり主人公が現れて、主観視点的に語り始めるからだ。桐壺を飛ばしていきなり箒木から始まるようなものだ(実際、箒木の成立が一番古く、桐壺は一番最後に付加されたという説がある)。たとえ記述は三人称的であったとしても。

私も、最初は誰が主人公かわからない書き出しをするのが好きだ。最後まで読まないと実は誰が主人公かわからない。あるいは、冒頭で主人公の役割を持たされているが、実は本論は別にあると言うような。

例えば『千夜一夜物語』の主人公は、一見シャフリヤール王とシエラザードのように見えるが、本論はシンドバッドの冒険だったりする。『千夜一夜物語』のあらすじは、王様とお姫様が千と一日の間、物語をして暮らしました。で終わりだが、それではこの話の内容を何も反映していない。つまり、入れ子の枠構造になっているから、一番外側の枠について説明しても、物語の内容を表したことにならないからだ。

しかし、現代の読者はそういう物語には慣れてない。いきなり主人公が現れて、彼もしくは彼女に感情移入できないとそれ以上読者はついてこない。そういうごくシンプルなわかりやすい構造になってないとついてきてくれない。漫画やテレビのドラマと同じだ。嫌な時代である。

『パルムの僧院』だが、ナポレオン戦争やイタリア統一戦争に予備知識や関心がないと、読むのは辛いだろうと思う。さっぱりどこが良いのかわからないはずだ。逆にあると、とても面白く読めるだろうと思う。

リソルジメント

イタリア統一戦争はイタリア語では il Risorgimento と言い、英語で The Resurgence (再起、復活) と言う意味であり、Italian unification と訳されることもあるようだ。英語版 wikipedia を良く読むと、ガリバルディ軍は、イギリスによるサポートを受けていた。

イギリスはなぜスペイン・ブルボン家が治める両シチリア王国ではなくて、ガリバルディを助けたのか。これも英語版には書いてある。まず、シチリアのブルボン家は地中海に進出してこようとしていたロシア帝国とつながろうとした。ロシアが黒海から地中海へ出てシチリアを拠点とすると、イギリスは困る。スエズ運河の権益は絶対手放せない。シチリア島は、地中海の戦略的拠点であるから、イギリスはガリバルディに恩を売ろうとした、ブルボン家を懲らしめた、ということらしい。もしかするとロマノフ家とブルボン家の間に縁組でもあったのかもしれんが、よくわからん。


イギリスはガリバルディを援助して彼に両シチリア王国を攻めさせました。なぜイギリスはガリバルディに加担したのですか。何か密約のようなものがありましたか。イギリス海軍に対する利権とか?

1860年、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊(赤シャツ隊)がシチリアに上陸して両シチリア王国を打倒した際、イギリスが彼らを暗黙のうちに支援・保護したのは歴史的事実です。

しかし、ガリバルディとイギリスの間で特定の密約や海軍基地などの利権取引があったわけではありません。イギリスの支援は、より広範な地政学的・経済的戦略と、当時の世論・自由主義的同情に基づいたものでした。

イギリスがガリバルディ(イタリア統一)を後押しした理由

1. 地政学的なパワーバランス(フランスとロシアへの牽制)

当時のイギリス(パーマストン男爵内閣、パーマストン首相とパーマストン外交を主導したパーマストン/パーマストン卿・パーマストン伯ではなく、首相パーマストン卿と外相ジョン・ラッセル卿)にとっての最重要課題は、地中海における覇権の維持でした。

  • フランス(ナポレオン3世)の拡大阻止: サルデーニャ王国は1859年のイタリア統一戦争でフランスの支援を受ける見返りに、サヴォイアとニースをフランスへ割譲しました。イギリスは「このままではイタリア全土がフランスの傀儡(かいらい)になる」と強く警戒しました。自立した強い親英的な統一イタリア王国が誕生すれば、地中海でのフランスの勢力伸長を食い止める防波堤になると考えたのです。
  • ロシアの地中海進出阻止: 両シチリア王国(ブルボン家)はロシア寄り・親オーストリア的な姿勢をとっており、イギリスにとっては都合の悪い存在でした。

2. イギリス海軍の直接的介入(マルサラ上陸時)

1860年5月11日、ガリバルディ隊がシチリア島のマルサラに上陸した際、イギリス海軍の軍艦2隻(「インテリジェント」と「アルゴス」)が港のすぐ近くに停泊していました。

両シチリア王国の海軍警備艇はガリバルディの船を砲撃しようとしましたが、「港にいるイギリス艦やイギリス人の命・財産を傷つける恐れがある」として攻撃をためらいました。結果としてガリバルディ隊は無傷で上陸を完了できました。これは公式には「自国国民保護のための駐留」ですが、実質的にはガリバルディを援護する意図的な示威行為でした。

3. 硫黄(硫黄鉱山)の経済的利権と貿易問題

質問にある「利権」に最も近いものとして、シチリアの硫黄問題(Sulfur Crisis)があります。

  • 当時、シチリアは火薬や化学工業の原料となる硫黄の世界的な一大産地でした。
  • 1830〜1840年代、両シチリア王国が硫黄の専売権をフランス企業に与えようとしたため、イギリスとの間で激しい外交摩擦が起きていました(イギリス海軍による封鎖手前まで発展)。
  • ブルボン家の旧態依然とした保護貿易や独裁体制に対し、イギリスの産業界・商人層は強い不満を抱いており、自由貿易を推進する新しい政権の誕生を望んでいました。

4. 世論と親英派ガリバルディの人気

イギリス国内では、ブルボン家による両シチリア王国の専制政治(政治犯への苛烈な弾圧など)が「欧州で最も野蛮な政権」と激しく批判されていました。

対してガリバルディは、自由と民主主義のために戦う「2つの世界の英雄」としてイギリス国民から絶大な人気を集めていました(後に彼がロンドンを訪問した際は数十万人の群衆が歓迎しました)。民間からの義援金や義勇兵も多く集まり、政府もこれを公然と容認していました。

まとめ

ガリバルディとイギリスの間に「海軍基地を与える」といった具体的な密約があったわけではありません。むしろガリバルディ自身は共和主義的な熱情で動いていた人物であり、個人的な利権のために動くタイプではありませんでした。

イギリス側から見れば、「ガリバルディを利用してブルボン家を倒させ、サヴォイア家(カヴール男爵)のもとで親英・自由主義的な統一イタリアを作らせることが、地中海での自国の覇権と貿易益に最も叶う」という計算が合致した結果の支援だったと言えます。

両シチリア王国はスペインブルボン家ですよね。ブルボン家はイギリスに非協力的だったのでしょうか。

はい、おっしゃる通り両シチリア王国を治めていたのはスペイン・ブルボン家の分家(シチリア・ブルボン朝)です。

そしてご推察の通り、両シチリア王国のブルボン家はイギリスに対してきわめて非協力的かつ対立的でした。イギリスがガリバルディの征服運動を暗黙のうちに後押しした最大の動機は、まさにこの「反英的なブルボン政権を退場させたかったから」にあります。

両シチリア王国のブルボン家がなぜイギリスと決定的に対立するようになったのか、その背景には歴史的経緯、経済対立、そして政治体制の相違という3つの大きな理由がありました。

1. 経済的対立:シチリア「硫黄危機」(1838年〜1840年)

最も露骨に利権が衝突したのが、火薬や工業原料として当時絶大な価値を持っていたシチリア産の硫黄をめぐる対立です。

  • イギリスの利権確立: 19世紀前半、イギリス企業はシチリアの硫黄採掘に巨額の投資を行い、事実上の独占的取引権を握っていました。
  • 国王フェルディナンド2世の反発: 1838年、両シチリア国王フェルディナンド2世は、イギリスの経済的影響力を排除して自国の収入を増やすため、イギリスとの条約を一方的に破棄し、フランスの商社に硫黄の専売権を与えてしまいました。
  • 軍事衝突寸前の危機: これに激怒したイギリス首相パーマストン卿は、軍艦を派遣してナポリ湾を海軍封鎖し、両シチリア王国の船を拿捕・押収する強硬手段に出ました(最終的にはオーストリアの仲裁でフランス専売が撤回されました)。

この事件以降、ブルボン家は「イギリスは自国の主権を脅かす強圧的な存在」とみなし、イギリス側も「ブルボン家は約束を守らない不誠実な政権」と深く敵視し合うようになりました。

2. 外交的対立:親ロシア・親オーストリア路線

当時のヨーロッパ地政学において、イギリスの最大のライバルはロシア帝国とフランス(および旧態依然としたオーストリア)でした。

両シチリア王国は、イギリスやイギリスの主導する自由主義勢力に対抗するため、ロシア帝国やオーストリア帝国との関係を急速に深めました。

特にクリミア戦争(1853–1856年)において、英仏がロシアと戦っている際、両シチリア王国は中立を装いつつロシアに好意的な態度をとりました。地中海の要衝であるナポリ・シチリアが親ロシア的な拠点となることは、地中海の覇権を握りたいイギリス海軍にとって耐え難い安全保障上のリスクだったのです。

3. 政治体制の対立:「ヨーロッパで最も野蛮な専制政治」

イギリスは立憲君主制と自由主義貿易を推進していましたが、両シチリア王国は厳格な絶対王政(暗黒政治)を貫いていました。

  • 1848年の革命を、フェルディナンド2世は自国市民への艦砲射撃によって凄惨に鎮圧しました(これにより彼は「爆撃王=Re Bomba」と悪名高く呼ばれるようになります)。
  • 政治犯に対する凄惨な拷問や投獄が横行し、後にイギリス首相となるウィリアム・グラッドストンは1851年にナポリの刑務所を視察した後、両シチリア王国の統治を「神に対する冒涜を制度化したもの(The negation of God erected into a system of Government)」と痛烈に批判する公文書を発表しました。

イギリスの世論や政治家にとって、ナポリのブルボン家は「打倒されるべき野蛮で不快な絶対君主」であり、彼らを追い払うことは国際政治上の正義でもあったのです。

まとめ

もともとナポレオン戦争期(19世紀初頭)には、イギリス海軍はブルボン家を保護してナポレオンからシチリアを守ってあげた経緯がありました。

しかし、その後のブルボン家が「反英・親ロシア」「自由貿易の拒否」「凄惨な弾圧政治」へと舵を切ったため、イギリスにとって両シチリア王国は「地中海における邪魔者」へと変わってしまいました。

だからこそ1860年、ガリバルディがブルボン家を倒すためにシチリアへ乗り込んだ際、イギリスは待ってましたとばかりに彼を後押ししたのです。

イギリスがシチリアにいやがらせをしたので、シチリアはロシアを頼らざるを得なかったのではないでしょうか。

非常に鋭く、歴史の本質を突いたご指摘です。

おっしゃる通り、歴史を「シチリア(ナポリ・ブルボン家)の視点」から捉え直すと、「イギリスの強権的な外交圧力(イギリス側から見れば利権の防衛、シチリア側から見れば強圧的な嫌がらせ)によって追い詰められた結果、生き残りのためにロシアを頼らざるを得なかった」という側面は間違いなく存在します。

歴史はどうしても勝利者(イギリスや統一イタリア王国)の記録や視点で語られがちですが、当時の両シチリア王国の立場に立つと、状況は以下のように見えていました。

1. 「恩人」から「支配者」へと変貌したイギリス

ナポレオン戦争期、ナポリを追われたブルボン家は、イギリス海軍の保護のおかげでシチリア島だけは死守できました。この時、イギリスはシチリアに駐留し、実質的な保護国のように振る舞いました。

しかしナポレオン敗北後、イギリスはシチリアの自治を認めた「1812年憲法」の維持を反故にし、ブルボン家がナポリとシチリアを統合して絶対王政(両シチリア王国)に戻るのを容認・放置しました。ブルボン家から見れば、イギリスは「助けてくれたと思ったら、都合よく自国の地中海戦略に利用し、経済的に買い叩いてくる圧迫者」と感じられるようになっていきます。

2. 硫黄問題に見る主権の侵害

「硫黄危機」の際、国王フェルディナンド2世が目指したのは、自国の資源(硫黄)をイギリスに安く買い占められる構造から脱却し、フランス企業も参入させて競合させることで「国家の自主権と財政収入を取り戻すこと」でした。

しかし、これに対するイギリスの反応は、外交交渉ではなく「軍艦を派遣して港を封鎖し、民間船を拿捕する」という露骨な砲艦外交でした。小さな独立国であった両シチリア王国にとって、超大国イギリスのこの態度は「横暴な嫌がらせ・主権侵害」そのものであり、絶大な恐怖と激しい反英感情を植え付けることになりました。

3. 大国間のバランスを取るための「ロシア接近」

イギリスから軍事的な圧力をかけられ、なおかつ北からはオーストリアの影響力に脅かされていた両シチリア王国にとって、自国の独立とブルボン家の王座を守るための選択肢は多くありませんでした。

当時、地中海への進出(南下政策)を狙っていたロシア帝国は、イギリスに対抗できる唯一の超大国でした。

ブルボン家にとってロシアに頼ることは、単なる反英感情だけでなく、「イギリスという巨大な覇権国に対抗するために、別の超大国(ロシア)を引き入れてパワーバランス(勢力均衡)を保つ」という、小国として生き残るための合理的な外交戦略だったと言えます。

結論:卵が先か、鶏が先か

イギリスと両シチリア王国の関係は、相互の不信感が螺旋のように深まっていった結果でした。

  • イギリス側の言い分: 「ブルボン家が不当に約束を破り、親ロシア路線をとって地中海の安全保障を脅かしたから圧力をかけた」
  • シチリア側の言い分: 「イギリスが経済利権を振りかざして主権を脅かし、不当な圧力をかけてきたから、ロシアに助けを求めざるを得なかった」

歴史の客観的な構図としては、「イギリスによる過度な干渉と圧力が、両シチリア王国を反英・親ロシアへと追いやった」という見方はきわめて妥当であり、当時のブルボン家が抱いていた強い被害意識と危機感を的確に捉えた視点だと言えます。

そういえばサヴォイヤ公国はイギリス側について露土戦争に兵を送っていますよね。ということは、カブール首相も、ガリバルディがシチリアを攻めることに同意または許容していたのでしょうか。

結論から言うと、カヴール首相はガリバルディのシチリア遠征を公式には「黙認・表面上は制止」、裏では「許容・利用」という二枚舌の態度をとっていました。

サルデーニャ王国(サヴォイア家)がクリミア戦争(露土戦争の局地戦)に参戦した経緯と、ガリバルディの遠征に対するカヴールの計算は、すべて彼の徹底した現実主義(リアリズム)外交という一本の糸でつながっています。

1. クリミア戦争への参戦(1855年)と英仏への「貸し」

サルデーニャ王国が直接的な利害のないクリミア戦争に1万5,000人規模の軍隊を派兵したのは、イギリスやフランスに大恩を売り、イタリア統一問題(オーストリア排除)を国際社会の議題に乗せるための壮大な投資でした。

この参戦によって、カヴールは以下の手札を手に入れました。

  • パリ講和会議(1856年)での発言権: イタリアの統一を求める主張を英仏に公式にアピールできた。
  • イギリス・フランスとの信頼関係: 特に親英・親仏のポーズを深め、列強の好意的な中立(あるいは裏での支援)を確保した。

2. カヴールとガリバルディの複雑な「確執と共犯関係」

1860年春、ガリバルディがジェノバからシチリアへ向けて千人隊(赤シャツ隊)を出航させようとした際、カヴールはきわめて複雑な立場に置かれました。

【カヴール(冷徹な政治家・外交家)】
  ├─ 共和派のガリバルディを警戒(独走されて共和制国家を作られるのを恐れる)
  ├─ 列強(フランス・オーストリア等)に「無許可の侵略行為だ」と批判されるのを恐れる
  └─ しかし、成功すればサヴォイア家のもとで南イタリアを併合できる最大のチャンス

【ガリバルディ(情熱の革命家・軍人)】
  ├─ ニースをフランスへ割譲したカヴールを激しく憎悪
  └─ カヴールの意向は無視し、独自に千人隊を率いてシチリアへ進撃

カヴールがとった「二重の戦略」

カヴールは表向きと裏で正反対の対応をとりました。

  • 表向き(外交ポーズ):「サルデーニャ政府はガリバルディの無謀な遠征とは一切無関係である」「海軍に遠征船を阻止するよう命じた」と列強(特にオーストリアや両シチリア王国)に釈明しました。
  • 裏側(本音と許容):実際には出航を力づくで止めることはせず、武器の入手などを暗黙のうちに容認・放置しました。さらに、イギリス海軍がマルサラ港周辺に展開してガリバルディの上陸を実質保護することも事前に想定・織り込み済みでした。

3. 「ガリバルディが勝ったら横取りする」カヴールの土壇場での逆転劇

ガリバルディが予想以上の大勝利を収め、シチリアからイタリア本土(ナポリ)へと破竹の勢いで進撃すると、カヴールは焦り始めます。ガリバルディがそのままローマ(教皇領)まで攻め上ると、カトリック国であるフランス(ナポレオン3世)が介入して統一事業が崩壊する恐れがあったためです。

そこでカヴールは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ正規軍を南下させ、ローマの手前でガリバルディと合流させました。

ガリバルディは個人的な野心を捨て、「私たちが勝ち取った南イタリアを、国王陛下(サヴォイア家)に捧げます」として征服地を献上しました(テアーノの会見)。

まとめ

サヴォイア公国(サルデーニャ王国)がクリミア戦争でイギリス側について戦ったことで、「イギリスの地中海戦略」と「カヴールのイタリア統一戦略」は見事な利害の一致を見せました。

カヴール自身はガリバルディの独走に戦々恐々としていましたが、「ガリバルディが成功すれば南イタリアを獲得し、もし失敗したら『狂信的な革命家が勝手にやったこと』として切り捨てる」という計算のもと、イギリスの援護射撃を利用しながら遠征を黙認・許容していたのです。

カヴールとガリバルディの対立のきっかけとなった、フランスへのニース割譲(サヴォイア・ニース割譲条約)について詳しく教えてください。

カヴールとガリバルディの確執を決定的なものにした「サヴォイア・ニースの割譲(トリノ条約)」は、冷徹な外交官であるカヴールの「現実主義(リアリズム)」と、熱血な愛国者であるガリバルディの「情熱と故郷愛」が真っ向から激突した、イタリア統一史最大のドラマの一つです。

1. なぜ割譲されたのか:プロンビエールの密約(1858年)

1858年、カヴール首相はフランス皇帝ナポレオン3世と密かに会談(プロンビエールの密約)を行いました。

当時、北イタリアを支配していたオーストリア帝国を追放し、サルデーニャ王国(サヴォイア朝)主導でイタリア統一を進めるには、どうしてもフランス軍の強大な軍事力が必要でした。

  • ナポレオン3世の要求: 「オーストリアとの戦争でフランス軍を出す見返りに、サルデーニャ王国の領土であるサヴォイアとニース(ナッツァ)をフランスへ割譲せよ」
  • カヴールの決断: カヴールにとって、この条件はきわめて苦しいものでした。しかし「イタリア統一という大事業を成し遂げるためなら、一部の領土を差し出すのもやむを得ない」と割り切り、この密約を結びました。

1859年のイタリア統一戦争(第二次イタリア独立戦争)を経て、1860年3月のトリノ条約により、サヴォイアとニースのフランス割譲が正式に決定・実行されました。

2. ガリバルディ激怒の理由:「故郷を外国に売り渡した」

この割譲に誰よりも激怒したのがガリバルディでした。理由は単なる政治的対立にとどまらない、個人的かつ象徴的なものでした。

① ニースはガリバルディの「生まれ故郷」だった

ガリバルディは1807年、ニースで生まれました。彼にとってニースは愛する故郷であり、自らが命をかけて戦ってきた「イタリアの土」そのものでした。それをカヴールがフランスとの外交取引の手札としてあっさり手放したことは、「故郷を外国に売り渡された」という深い侮辱と裏切りに感じられたのです。

「カヴールは私を外国人に仕立て上げた」

(※ニースがフランス領になったことで、イタリアの英雄である自分が、書類上「フランス生まれ」になってしまったことを嘆いたガリバルディの有名な言葉)

② サヴォイアは王家の発祥地だった

サヴォイア(サヴォワ)は、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の家系(サヴォイア家)の千年の発祥地でした。王家の祖先の地すら取引材料にしたカヴールの冷徹さに、ガリバルディをはじめとする多くの愛国者・共和派が強いショックを受けました。

3. ガリバルディの反撃と「シチリア遠征」への転換

激怒したガリバルディは、ニースを力ずくで奪還しようと計画します。彼は義勇兵を集め、ニースへ乗り込んでフランスによる併合住民投票を力ずくで阻止しようと動きました。

もしガリバルディがフランス兵の駐留するニースを襲撃していれば、できたばかりのフランスとの同盟関係は崩壊し、ナポレオン3世の怒りを買ってイタリア統一事業そのものが潰れていたでしょう。

この危機的状況の最中、シチリアでブルボン家に対する反乱が起きたという報が届きます。

カヴールや側近たちは、ガリバルディの意識をニースから逸らすためにも、「ニースではなく、南のシチリアへ向かってブルボン家を倒してくれ」と彼のエネルギーを南へと誘導しました。

こうして結成されたのが、あの「千人隊(赤シャツ隊)」であり、ガリバルディは故郷ニース奪還を断念してシチリア遠征(1860年5月)へと舵を切ることになったのです。

まとめ:二人の対立がもたらした帰結

人物立場ニース割譲に対する考え
カヴール冷徹な現実主義者(外交官)大業(イタリア統一)のためには、フランスへの領土割譲という外交的コスト(犠牲)は不可避である。
ガリバルディ情熱的な理想主義者(革命家)1インチたりともイタリアの土を外国に渡すことは許されない。故郷を売るなど政治的背信行為である。

ガリバルディはその後、南イタリアを征服して国王に献上し、イタリア王国成立(1861年)に決定的な貢献をしました。しかし、彼がカヴールに抱いた激しい嫌悪感と不信感が消えることはなく、二人が和解することはついにありませんでした(カヴールは統一直後の1861年6月に50歳で急逝します)。

ニース割譲という「泥をかぶる決断」をしたカヴールと、それに激怒しながらも南イタリアを勝ち取ったガリバルディ。この二人の強烈な対立と互いの役割分担こそが、皮肉にもイタリア統一という奇跡を完成させる推進力となったのです。

ブルボン家とハプスブルク家

今のスペインの君主もスペイン・ブルボン家。フランス革命でブルボン家は滅んだのではなかった。では、ハプスブルク家はどうなかったかというと、現在のオーストリア・ハプスブルク家の当主は、カール・ハプスブルク=ロートリンゲンという人で、1961年生まれ、50歳、「元オーストリア皇太子の長男」「オーストリア皇帝、ハンガリー国王などの君主位の請求者」「欧州議会議員」「金羊毛騎士団長」「オーストリア国民党所属」「ザルツブルク在住」だそうだ。ふーん。

イタリア統一戦争

調べれば調べるほど、ナポレオン戦争からイタリア統一戦争までのイタリアの歴史は面白いのだが、なぜ塩野七生は小説に書かないのか。十字軍書くよりずっと良いと思うが。いや、つまり、古代ローマの話はイタリア視点で書いてもいいかもしれん、ヴェネツィアとオスマントルコの戦いも。しかし、十字軍は、それよりずっとでかい話で、イタリア史観に無理やり押し込めて書くことは不可能だと思うのよね。

それはそうと、ガリバルディはなぜあんな短期間に両シチリア王国を滅ぼせたのか。英語版の wikipedia を読むと、シチリア島の首府パレルモに進軍するときに、イギリス軍が休戦を調停したとある。また、シチリア島からメッシーナ海峡をイタリア本土に渡るときに、イギリス海軍が助けた、とも書いてある。つまり、ガリバルディは、たった千人のイタリア人の義勇軍で両シチリア王国を倒したのではなく、当時の超大国であるイギリスの支援を受けたから成功したのである。なんだ普通のパワーポリティクスじゃんか。日本語版を読んでいるだけではその辺の事情がよくわからない。

ところで英語版では、イタリア統一戦争を Italian War of Independence と表記している。イタリア独立戦争。いったい何が何から独立するというのだろうか。どうもアメリカ人は、ひとつの国家ができる戦争を独立戦争と呼びたがるようだ。実に funny だ。そんなら、プロイセンが主導したドイツ統一はなんというかと調べると今度は Unification of Germany とある。意味わからん。

ふむ。イタリアはオーストリアから独立したことになっているのか。違うだろ、それは。
それは北イタリアの一部の話であり、全体としてみるとイタリア統一戦争と言うしかないだろ。そんなこと言うのならドイツ統一だってオーストリアからの独立戦争じゃんか。

両シチリア王国

『アルプスの少女デーテ』を手直ししているのだが、『ハイジ』は1880年に書かれていて、この年にハイジが10歳くらいだとすると、トビアスが生まれたのは1850年くらいとなる。
アルムじいさんはナポリで傭兵になったというが、このときナポリは両シチリア王国の首都。君主はブルボン家。このブルボン家はスペイン・ブルボン家だが、もとはフランスのブルボン家の分家。フランスとスイスは深い関係があり、スイスから直接ナポリに傭兵になりに行ってもおかしくはない。

しかし、両シチリア王国ではこの時期何も戦争が起きてない。近いのは1816年、ナポレオンの没落とウィーン体制確立のとき。次は1860年、ナポリがガリバルディ軍によって陥落してイタリア統一がなった時。

ナポリはそんな大きな国ではない。平時からうじゃうじゃ常備軍や傭兵が居たとは思えない。ガリバルディが攻めてきたときの負けっぷりからして、よほど油断していたか、そもそも軍備らしきものがなかった、とさえ思える。

それで、仮にボナパルト失脚時にアルムじいさんが従軍したとすると、ハイジがフランクフルトに行って帰ってきたのは1850年くらいのことになる。ちと時代設定が古すぎる。また、1860年に従軍したとすると、ハイジのフランクフルト行きは1890年くらいのことになり、時期的に遅すぎる。

それで、ハイジの作者は、執筆時の20年くらい前に起きた、比較的記憶に新しいイタリア統一戦争を漠然とイメージして書いたのではないか、時期的に合わないけど、という仮説が成り立ち得ると思う。そうすると、アルムおじさんの祖先がナポレオンのアルプス越え(1799年)に参加して傭兵で成り上がった、という話につながりやすい。先祖が1848年のウィーン体制崩壊のとき、ルイ・ナポレオンに従ったとすると、アルムじいさんのお父さんの時代になってしまう。まあ、それでも話は作れるのだが、ちとせわしすぎる。

アルムおじさんが1860年に両シチリア王国の傭兵だったとすると、ガリバルディによって征服される敗軍の中にいたことになる。それも話としてはおもしろい。今は、最初フランス・サルディーニャ連合軍に居て、それからサルディーニャ軍に編成された、という設定になっているのだが。さて、どうしたものか。

そもそも、アルムおじさんとハイジは1830年に書かれた別の話から借用したものであり、おじさんが傭兵にいこうがいくまいが、時代が合わないのは当たり前であるといえる。

私は『ハイジ』の中でデーテだけが実在のモデルに基づいて書かれている、と思っている。つまり、『ハイジ』は1880年当時のデーテ系のソースと1830年当時のアルムおじさん系のソースをミックスして作ったものなのだ。そうすると、1860年代にナポリで生まれた傭兵の子供というのが実はハイジなのではないか。傭兵に行ったのはトビアスなのではないか。デーテは何かの理由で、トビアスからハイジを預かることになり(トビアスが死んだので遠縁ということで引き取ることになったのかもしれない)、10歳くらいのその子をフランクフルトに連れていったけど、都会生活にうまくなじめなかった、その話を聞いたのがだいたい1875年頃、とすればうまく辻褄があう。

京極派

引き続き、丸谷才一『新々百人一首』。

庭の虫は なきとまりぬる 雨の夜の 壁に音する きりぎりすかな (京極為兼)

為兼を選ぶのはよい。なぜこの歌なのか。他にいくらでも為兼には良い歌があるのに。しかも、「庭の虫は」が字余りで、しかも字余りの例外まで丁寧に解説している。だが、それ以外の説明がまるでない。

京極派の歌には字余りが多い。というより、字余りということを始めたのは京極派なのだ。なぜそのことを言わぬ。丸谷才一は定家が好きで、二条派が好きなのである。京極派は嫌い。だからわざと沈黙しているように思える。

「なきとまりぬる」もおかしい。連体形になっている。「なきとまりぬる雨」か「なきとまりぬる雨の夜」か。そうかもしれぬ。そうとも解釈できなくはない。だとするとそうとう変な歌だ。普通に考えて終止形にしないとおかしい。普通なら、素直に「なきやみにけり」「なきとまりけり」などとするだろう。「なきとまりぬる」という言い方は、異様だ。「なきとまる」などという言い方は普通和歌ではしない。現代語でも「なきやむ」としか言わない。もしかすると当時の口語的な表現かもしれん。それもまた京極派の特徴だが、それもなぜか指摘しない。

それをしないでおいて、王朝和歌では、秋の虫の鳴き声というのは、恋が成就しなかった悲しみの声だ、などということを延々と主張している。京極派は、そういう定型や通念を無視し、感情のままに、印象派のように、歌を詠むものだ。京極派の歌は、新古今や二条派の歌論では説明できないはずなのだ。それをむりやり宮廷文学の尺度にあわせて解釈しようとしている。これでは、京極派とは何か、ということが、読者にはまったくわからないはずだ。

咲きそむる 梅ひとえだの 匂ひより 心によもの 春ぞみちぬる (伏見院)

説明わずか四行。「まさしく国王の歌である。おっとりとしていて、しかも美しい。」などと言っているが、なぜこれを選んだのか、理解に苦しむ。なるほど、そういうものか、とただわけもわからず読まされる読者が気の毒だ。ちなみに伏見院は、為兼に勅撰集を編纂させた京極派の歌人。

うれしとも 一かたにやは ながめらるる 待つ夜にむかふ 夕ぐれの空 (永福門院)

この歌は、確かに優れている。「ながめらるる」は字余り。明らかに京極派特有の、破調の妙をねらったものであろう。しかし、丸谷才一は、これが新古今集より時代が下ったために規則が崩れてきた、と解釈している。それは違う。京極派以外で字余りするのは少なくとも江戸時代までは、ただのへたくそだけだ。「当代随一の女流歌人」が「歌道の約束事を乱したことはすこぶる興味深い」などと言っているのは、ほんとうに京極派というものを、丸谷才一が知らなかったのか、と怪しまれる。宣長ですら京極派が異様で異端であることは知っていたのになぜ丸谷才一がそれを知らないのか。仕方なく余ったのではなく、わざと余らせたのだ。それを勅撰集に採ることで、為兼はオーソライズしようとした。永福門院は、京極派で一番有名な女流歌人であり、伏見院の中宮。歌の師は為兼その人だ。

意味は、従って、古今集や新古今集などの通念から離れて、印象派的に解釈しなくてはダメだ。ざっくり意訳すると、今日は来るとあらかじめ知らせがあって、うれしいとは思うが、ほんとうに来るのかどうか、いつごろ来るかと待ちながら、夕暮れの空に向かってながめている気持ちは、ただうれしいというばかりではない、となる。丸谷才一の解釈でだいたいあっているのだが、彼は、当時の通い婚における女性の立場、歌に現れるその形態など、懇切に、王朝の女流和歌とはこういうものだ、こうあるべきだ、という理論で押し通そうとする。それでは、京極派の歌はわからない。パターンに当てはめようとしては楽しめない、それが、京極派の歌なのに。京極派だからこそ、「うれしとも一かたにやはながめらるる」などという屈折した心理を詠めたのだし、「(私が)待つ夜に(私が)むかふ」などというトリッキーな言い回しをしているのだ。

朦朧趣味

煮詰まるのでまた丸谷才一の『新々百人一首』など読んでいるのだが、

藤原家良
朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人
飛鳥井雅経
初雁の声のゆくへもしらなみの浜名の橋の霧のあけぼの
慈円
かへる雁の霞にかけるたまづさを浜名の橋にながめつるかな

などを取り上げているのだが、こういうのを幽玄の美的などと言っている。慈円のはいかにも屏風絵風だし、他のも良くできているが、単に貴族趣味という以上のものではない気がする。さらに、

藤原為氏
人とはば見ずとやいはむ玉津島かすむ入り江の春のあけぼの

玉津島はわざわざ観光に訪れるくらいの風景の名所で、それが春霞がかかってぼんやりと見えなかったから、土産話には、見えなかったと言おうかな、というような意味。これは良い歌というので、為氏の父で定家の子の為家の歌

ふるさとによく見ていかむ玉津島まちとふ人のありもこそすれ

はダサい、凡庸だ、などと言っている。さらに

藤原定家
見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

をさらに高度な達成、とほめている。しかし、定家のは単なる若者の前衛主義というかニヒリズム(虚無主義)に過ぎないのではないか。単に虚無や否定が面白いという趣向だろう、これは。その後の貴族等の幽玄の美意識と同一視するのはどうかと思う。為家の歌は、ある意味ひねりのないわかりやすい歌で、そんなに悪くないと思うし、為氏のはトリッキーで悪くはないが、幽玄というほどでもなく、どちらかと言えば古今調の機知に近い。新古今後の、南画調の朦朧とした歌が良いなどというのは、必ずしも和歌全般にいえる価値観とは言い難い、と思う。

江戸時代の文人は、和歌や漢詩を学ぶ際必ず自分でも和歌を詠み、漢詩を作った。現代人は、自分で作らず、批評だけする。和歌を詠む人は割といるが漢詩を自分で作ってブログに載せているひとはまずいない。だから勢い、漢詩というのは、杜甫だ李白だ陶淵明だという話になり、江戸時代の漢詩は和臭だからダメだ、というので思考停止となる。

和歌でもだいたい同じ。もし自分で和歌を詠むなら、本居宣長の歌などは、大いに役立つ。彼の歌論を具現化したものが彼の実作であり、特に彼の場合は理論と作品にまったく乖離がないからだ。多くの歌人は歌論を持たないか、抽象的で意味不明なことが多い。だから、自分で歌を詠もうかというときに、どうすれば良いかまるでわからない。さっぱり参考にならない。

「日曜美術館」で、さすがに俵万智の言っていることは割とわかるが、多くのアーティストの言っていることは「個人の感想ですね」以上まるでわからない、ようなものだ。アーティストのコメントはわからなくて良いことになっている。自分で苦労して詠んでみて結局宣長未満の歌しか詠めないことがわかったとき、初めて宣長の歌の価値に気付くのだと思うのだけど。

それに、新古今の価値観に照らして、別の時代の歌を凡庸だというのは当たらない。価値観が違うのは当たり前だ。しかし、丸谷才一は、新古今集の時代が和歌の絶頂であり、そこで完結完成したのであり、定家と後鳥羽院が最高であり、現代日本の美意識も結局室町前期のその頃に完成し、それが至上なのだ、と主張する。

しかし、それは丸谷才一の個人的な説に過ぎない。それはつまり、漢詩というのは盛唐が一番で、他の時代やまして日本の漢詩などはダメだ、という論法と同じだ。

現代では、また、歌人や詩人は小説を書かないし、小説家は歌も詠まない、詩も作らない。しかし、江戸時代までは、文人は文章も書き、その上で歌や詩も作った。まあ、たまたま、私が江戸時代的な詩や歌や小説を書きたがるジャンルの人間であり、それは小説だけ書く人、ラノベだけ書く人、和歌だけ詠む人、など同様に、現代の細分化され蛸壺化した趣味の領域の中の一つの形態に過ぎないのかもしれないが。

さらに言えば、春霞というものは、フィクションである。霞というのは、いつでも発生して、特に春に多いとは言えない。むろん、冬は空気が乾燥して澄んでいるから、霞は一年で一番立ちにくいだろう。また、秋は霞と言わず、霧というかもしれん。ともかく、春から秋までかすみとかきりとかもやというものは発生する。

春霞が実景であると断言できる歌はほとんどない。だいたいは、イメージで、屏風絵風に歌っているだけだ。だから私は春霞が嫌いだ。

思うに、南宋が滅びるのは元寇に前後するから、朦朧とした南宋画の影響が日本に入ってきたのは、早くても鎌倉時代後期からだろう。南宋画が元になって日本の南画になったのは江戸時代に入ってから。定家の時代にはそのような影響はなく、屏風絵をもやでぼかしたような絵はなかっただろう。最初期で、家定の弟子の家良くらいか。家定の虚無的な歌論に託して、自分たちの南画趣味を肯定しようとしたのは、かなり後世の文人たちではなかったか。少なくともそういう、幽玄と朦朧と虚無の解釈が混同されるようになったのは江戸時代に入ってからだろうと思う。