病中手記

『安藤レイ』は『病中手記』というタイトルに変えようと思う。
最初はたわいない闘病記のようなものが次第にSFになっていく、という意外性のためだ。
「病中記」「病中日記」などは、事例が多い。
「病中手記」だと、少なくともすでに有名なものはないようだ。
「獄中手記」に似ているのもよい。
また、詳しく書きこんでいるところとさらっと流しているところの差が大きいのだが、
さらっと書いているところは、さらっとしか書けない、よく知らないからなのだ。
それをごまかすには、やはり闘病記の体裁にしておくのがよいかとおもう。

けっこういろんなしかけをしかけてあって、なかなか収束しない。
重複してる記述箇所を整理したり。
すでに二百枚超えた。でも三百枚にはならないと思う。
も少ししたら公開できると思う。

たぶん世間一般ではSFと風俗小説をミックスしたようなものは誰も読みたがらない、
というかこれまでなかったのではないか。
SFを読みなれた連中は中年のどろどろした恋愛を気持ち悪く思うだろうし、
逆に私小説風味な風俗小説好きには、科学とかフィクションのあたりに虫酸が走る思いだろうと思う。
女子供向けの漫画やアニメ、ラノベ全盛の今、
だから私がそれをわざとやってやる。そういうところが自分では痛快なのだが。
わかってもらえるだろうか。
潜在的なファン層はいるはずだが。

「SFと風俗」の延長という意味でも、『スース』に一番似ている。
『スース』を実体験を元に闘病記にしてフィクション要素を加えた感じ。

「歴史小説と現代小説のミックス」というのがこれまでのマイブームだったが、そちらはしばらくお休みする。
壮大な歴史小説をいくつか構想中だが、ちゃんと調べないと書けないんだよな。
一つは、美濃の外様大名と、関東の旗本(元は下総千葉氏)と、板橋の町人と医者が出てくるという話。
そのうち幕末になって長州や薩摩もでてくる。
むずい。書けないよ。

自転車

思うに、自転車は当然車道を走るべきだ。自転車がどんどん車道を走ることによって、自動車は街中では「徐行」するのが当たり前になるだろうが、そもそも歩行者や自転車乗りが多い町中では自動車は徐行したり、あるいはそういう道を迂回するのが当然だ。それがそうなっていなかったというのは、社会が自動車に有利にできていたからだろう。歩行者も自転車乗りも自動車税を払わない。ガソリンも買わない。道路は自動車税でできてるから、自然と、歩行者の発言権は弱くなる。歩行者は自分の権利を「政治的」に守らねばならないが、それはなかなか難しい。だいたいこれまでは普通の市民も「自動車に乗ってる俺様の方が貧乏で車にも乗れない歩行者より偉い」という発想であり、歩行者に対して冷淡であった。

私も最近ただ普通に歩道を歩いていて自転車にぶつかれたことがある。運転していたのは若い女性だったようだ。向こうが100%悪くこちらにはなんの落ち度もないのだが、私は別に平気で、向こうは転んでしまった。面倒なので「許してやる」というつもりで無言で通りすぎようとしたら、小声で「ふざけんなばか」と捨て台詞を吐かれてしまった。私にどうしろというのだろうか。「大丈夫ですか」の一言でもかけて欲しかったのか。それを言うべきは相手のほうだと思うのだが。

歩行者と共用のスロープを自転車を降りずに乗るやつが未だにたくさんいる。どんどん取り締まって留置所に入れるくらいの嫌がらせはしてもよいのではないか。免許更新の時に自転車事故の悲惨なビデオも流した方が良い。


ずっと気になっていることがあります。私はただ普通に歩道を歩いていて自転車にぶつかられました。運転していたのは若い女性のようでした。向こうが100%悪くこちらにはなんの落ち度もないのだけれど、私は別に平気で、向こうは転んでしまった。面倒なので「許してやる」というつもりで無言で通りすぎようとしたら、小声で「ふざけんなばか」と捨て台詞を吐かれてしまいました。どうしたらよかったのでしょう。

理不尽で胸くそ悪い思いをされましたね。ただ歩道を歩いていただけなのにぶつかられた上、倒れた相手を咎めもせず通り過ぎようとしたあなたの大人な対応に対し、その捨て台詞はあまりにも筋が通りません。不快な気持ちになるのも当然です。

結論から言うと、「その場から何も言わず離れた」あなたの判断と行動は、ご自身の身を守る危機管理の観点から満点・正解でした。

もしあの場面で「どうすればよかったか(より最善の選択肢があったか)」を整理すると、以下のようになります。

1. 「無視して離れる」(今回のあなたの対応:最善策)

相手は自分の不注意で事故を起こし、パニックや恥ずかしさ、あるいは自己防衛本能から「逆ギレ」している状態です。加害者でありながら被害者ぶるような精神状態の人間と関わると、暴言だけでなく逆上して襲いかかってきたり、後から「怪我をした、当て逃げだ」と警察に虚偽の通報をされたりするリスクがあります。関わらないのが一番の自己防衛です。

2. 「その場で警察を呼ぶ」(正論としての完全な対応)

過失割合としては間違いなく「自転車 100:歩行者 0」です(歩道は歩行者優先)。相手が転倒して逆ギレするようなタイプであれば、その場で警察(110番)を呼び、人身事故・接触事故として処理させるのが法的・社会的には正しい対応です。
相手は警察が来れば自分の立場(歩道での前方不注視・歩行者妨害)を思い知ることになりますが、これには「自分の貴重な時間や労力を大幅に奪われる」というデメリットがあります。

3. 「一言釘を刺す」(リスクを伴う対応)

「歩道ですよ」「警察呼びますか?」と冷たく一言告げて立ち去る方法もありますが、逆ギレしている相手をさらに刺激し、面倒な口論に発展する危険性があります。


相手が捨て台詞を吐いた心理
相手(若い女性)は、自分の下手な運転で転倒した恥ずかしさと惨めさ、そして「怒られるかもしれない」という恐怖の裏返しで、立ち去るあなたに対してしか強気になれなかっただけです。典型的で浅はかな「逆ギレ」であり、あなたに落ち度は1ミリもありません。

災難でしたし、後味の悪さは残るかと思いますが、「関わったらさらに時間と気分を害されるような迷惑な存在を、うまくスルーして回避した」と捉えて、どうか頭の中から追い出してください。あなたは100%正しく、そして大人の対応をされました。

成島柳北

岩波書店、新日本古典文学大系『漢詩文集』の中の、『新編成島柳北詩文集』を読んでいる。柳北が書いた漢詩と、朝野新聞に主筆として書いた社説(抜粋?)からなる。他に、入手しやすいものとしては、同じく新日本古典文学大系の『柳橋新誌』『航西日乗』。柳北、47歳で胸の病気で早死にしている。嫌な死に方をしやがる。死んだ年にしても病気にしても、今の自分に近い。

朝野新聞は日本ジャーナリズムの黎明期に、柳北を主筆として流行り、柳北の死去によって衰退した。その社説は、なかなか面白い。主筆自ら社説を書き、おかげで牢屋に入れられたり、その話をまた茶化して書いたりしている。実に軽い。今とは時代が違ったといえばそれまでだが。

柳北の文章で手に入るものは、とりあえず全部読んでみることにする。

ここにもややまとまった文章が置いてある。『硯北日録』の一部、柳北が18歳の時の日記があるが、はてこれはどうだろう。

十八歳の時の漢詩を見るに、ちゃんと偶数句の終わりは押韻していて、感心だ(まあ、それが当たり前なのだろうが)。

古詩とかは、字数も韻も好い加減で、だいたい陶淵明くらいの漢詩。楽府にいたっては民謡なので、ルールがほとんどない。頼山陽も最初は韻や字数にこだわった詩を作っていたようだが、だんだん楽府とか古詩とか言い出して適当になっていたったように思われる。というか、江戸時代の漢詩人の中では頼山陽はかなりいい加減な方に入るようだ。

しかし、この人の名が今日まで残って、新日本古典文学大系に採られているのは、明治初期に大新聞の主筆となったからだろう。或いは永井荷風の影響か。『柳橋新誌』や漢詩は面白いが、このくらいの人は当時いくらでもいたに違いない。

Chronographia Book 7

エウドキアの話はクロノグラフィア第七巻に出てくる。

On this occasion he entrusted all his duties to his wife, Eudocia. In his opinion, she was the wisest woman of her time and he thought that no one was better qualified to educate his sons and daughters.

結構長いな。冊子印刷してじっくりと読むか。英語版 wikipedia のソースに相当するのだろうが、今更 wikipedia の記述とそんなに差がないことを祈る。

エウドキアの叔父

久しぶりのエウドキア・マクレンボリティサのネタ。

紛らわしいがエウドキアにはミカエルという叔父が一人いて、それと別に、叔父のように親しかったミカエルという歴史家がいる。

本当の叔父は総司教ミカエル一世ケールラリオス。ケールラリオスはエウドキアの母方の家系。エウドキアの母の弟もしくは兄だったろうと思われる。

歴史家のミカエルは、エウドキアから、叔父と親しまれていた、ミカエル・プセロス。Michael Psellos。プセロスというのは、口ごもるという意味らしい。そのあだ名はなんとなく控えめで人付き合いが苦手そうな印象だ。

皇帝コーンスタンティノス九世モノマコスのとき宮廷に出仕する。政治を嫌って1054年にオリンポス修道院に入る。モノマコスが死去すると女帝テオドラに呼び戻される。この女帝テオドラというのは、エウドキアなんかよりずっと話題性のある人らしい。で、皇帝が1年か2年くらいでおおぜいめまぐるしく交代し、マケドニア朝からドゥカス朝に代わると、
コーンスタンティノス10世ドゥカス(エウドキアの夫)にそのまま政治顧問として仕え、さらにローマノス4世やミカエル7世にも個人教師のような立場で仕える。

プセロスは当時もっとも学識のある人と見なされていたらしい、プラトンくらいに。クロノグラフィアという書を残した。直訳すれば、年代記ってとこか。彼が史料を残さなければ、エウドキアというマイナーな女帝の話はほとんど後世に残らなかっただろう。それどころかバスィレイオス二世や女帝テオドラ、ドゥカス朝やローマノスやマラズギルト戦役の話も残らなかったのに違いない。

『セルジューク戦記』に出てくるエウドキアの叔父のルカスはこの二人のミカエルが合わさったような人物として出てくる。

『セルジューク戦記』では、エウドキアは、父母が離婚し、孤児となって修道院に入れられて、叔父ルカスの養子になって、貧しく育てられる、という話になっているがこれはまったくのフィクションである。もし叔父の養子になっていたら、彼女の名前は、エウドキア・ケールラリオサとなっていただろう。たぶん彼女はマクレンボリティサ家の貴族の娘であり、コーンスタンティノスとの結婚が初婚だとすれば、貴族故に晩婚だったのだろうと考えるしかない。きっとプセロスの書を読めばもっと詳しいことが書いてあるのだろうけど、と思ったらクロノグラフィアのオンライン版があった。
うーむ。これ読むのかぁ。

勝海舟の和歌

八田に歌を見てもらふと、少しも直さなかったよ。アナタ方のは別だからと言ふた。然し、一字二字の所を、これではかういふ意味になります、と言はれると、実に一言もないネ。それから高崎正風に見せると、じきに、コレがいけぬ、アレがいけぬと言ふて、直すから、馬鹿にしてやった。お前の師匠の八田さんは少しも直さないよつてネ。それから大分遠慮しだしたよ。
松平上総介が始終来て、歌をおよみなさい、およみなさいと言つて、せめかけたものだから、その頃はよんだのサ。
千陰は、目明かしの御用達で、あのせはしい中で、あの筆と歌だ。実に驚いたものサ。

などと言っているのだが、松平上総介とは松平忠敏 (主税助)のことらしい。維新後も宮内省に出仕して御歌所の歌道御用掛となり、御歌所所長の高崎正風の部下になっている。明治15年まで生きている。なので、勝海舟にいつ和歌を勧めたのかはよくわからん。ただ、勝海舟の和歌集を見ると、戊辰戦争より前のは皆無である。やはり和歌は明治になってからさかんに詠み始めたのではなかろうか。漢詩よりはだいぶ遅れたようだ。
松平上総介と高崎正風は職場でずいぶんぶつかったようである。

八田というのは、八田知紀で、この人は明治6年までは生きた。やはり宮中の御歌所に出仕していた人。八田は薩摩人であり、京都で香川景樹に学んだのだから、れっきとした桂園派である。

一方勝海舟は幕臣であって、加藤千陰や松平上総介らに影響を受けたのだから、江戸風の和歌、つまり、どちらかと言えば、万葉調の賀茂真淵、田安宗武らの影響を、最初は受けたのだろう。

八田知紀にしてみれば「アナタ方のは別だから」直しようがないということだろう。 しかし高崎正風はどんどん直したというのだから面白い。 薩閥の八田と幕臣の勝が出会うのは、明治維新以後としか思えないし、 高崎と出会うのは、西南戦争より前であることはあり得ないだろう。

目明かしの御用達というのは町奉行与力であったということ。与力はよほど忙しい役職なのだろう。千蔭は字はうまかったらしい。樋口一葉の字も千蔭流で、中島歌子から習ったという。ほんとだろうか。これも怪しい。どうも一葉に関しては中島歌子の影響が強調されすぎているように思う。字がうまい、特に和歌を書くときの字がうまいのはみんな千蔭流と言われるのではないか。誰かちゃんと検証した人はいるのだろうか。

千蔭の歌は全然良いとは私には思えないのだが勝海舟は評価していたということか。勝の歌のほうがずっと面白いと思うが。

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

裏柳生口伝

小池一夫原作の漫画「子連れ狼」(1970-1976)には主人公・拝一刀の

仏に逢うては仏を殺し、父母に逢うてはこれを殺し、祖に逢うては祖を殺し、しかして、何の感情も抱かぬ、無字の境地に至れぬものか!

というセリフがある。こちらのサイトにはその英訳も掲載されている。

Meet the Buddha, kill the Buddha. Meet your parents, kill your parents. Meet your ancestors, kill your ancestors.

などと訳されているのがわかる。映画「子連れ狼」(1972-1974)にも同様のセリフが出る。いくらおにぎりブログ。

阿弥陀如来に申し上げる。我ら親子、六道四生順逆の境に立つもの。父母に会うては父母を殺し、仏に会うては仏を殺す。喝!

深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』(1978年)では、柳生宗矩役の萬屋錦之介が

親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す。

と言い、同年テレビドラマ版『柳生一族の陰謀』では、柳生十兵衛役千葉真一の冒頭のナレーションで、

裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや。

とある。テレビドラマで「親に会うては親を殺し」は刺激が強すぎるのかもしれん。「神に逢うては神を斬り」はこれが初出か。いかにも日本的な言い回しではある。

『魔界転生』(1981年)では

神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。

という言い回しがあり、『キル・ビル』ではやはり千葉真一がハットリハンゾウ役で

自惚れではなく、これは私の最高傑作。

旅の途上で、神が立ちはだかれば、神をも斬れるであろう。

などと言っている。これの源流は、臨済宗の祖、臨済の言葉を記した『臨済録』の中に出てくる以下のくだりであると思われる。

爾、如法の見解を得んと欲せば、但、人惑を受くること莫れ。
裏に向かい、外に向かひて、逢著せば、便(すなは)ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん・親族)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。

道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。

臨済という人はずいぶん過激な人だったようだが、禅宗由来と言われればたしかにそんな気がしてくる。

戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。

ここは深作欣二のオリジナルらしいが、孫子の兵法形篇

勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝。

「勝兵は先づ勝ちて而る後に戦ひを求め、敗兵は先づ戦ひて而る後に勝ちを求む」が出どころであろう。

ところで頼山陽には「兵児の謡」という詩があって、前後に分かれているが、その前半は

衣至骭 袖至腕
腰間秋水鉄可断
人触斬人 馬触斬馬
十八結交健児社
北客能来何以酬
弾丸硝薬是膳羞
客猶不属饜 好以宝刀加渠頭

衣は骭(すね)に至り 袖腕に至る
腰間の秋水 鉄断つ可し
人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を斬る
十八交を結ぶ健児の社
北客能く来らば何を以って酬いん
弾丸硝薬是れ膳羞
客猶ほ属饜(しょくえん)せずんば 好(かう)するに宝刀を以て渠(かれ)が頭に加えん

  • 秋水 よく切れる剣。日本刀の美称
  • 健児の社 薩摩藩が青年藩士のために設けた教育機関。
  • 膳羞 ごちそう
  • 属饜 飽きる

薩摩男子は、裾は脛まで、袖は腕までの短い粗末な服装だが、腰に差した剣は鉄も切れるほどに鋭利である。立ち向かってくるものがあれば、人だろうと馬だろうと何でもかまわず斬る。十八歳になると健児の社に加わって同志と交わる。薩摩の北から客が訪れれば、何をもって応対しようか。弾丸や硝薬、これごちそう。客がそれでも飽き足りないときには、頭に宝刀を加えて引き出物としよう。

ここで、人でも馬でも斬る、という形になっている。もともと薩摩の民謡を漢詩に翻案したもので、そのオリジナルは

裾は脛まで 袖は腕 腰の剣は鉄も断つ

人が触れば 人を斬り 馬が触れば 馬を斬る
若さを誓ふ 兵児仲間

肥後の加藤が来るならば 煙硝(えんしょう)肴に弾丸(たま)会釈

それでお客に足らぬなら 首に刀の引き出物

というようなものであったらしい。

「兵児の謡」の後半は、しかし、

蕉衫如雪不愛塵
長袖緩帯学都人
怪来健児語音好
一操南音官長瞋
蜂黄落 蝶粉褪
倡優巧 鉄剣鈍
以馬換妾髀生肉
眉斧解剖壮士腹

蕉衫雪の如く塵をとどめず
長袖緩帯都人を学ぶ
怪しみ来る健児語音の好きを
一たび南音を操れば官長瞋る
蜂黄落ち蝶粉褪す
倡優巧みにして鉄剣鈍し
馬を以て妾に換え髀肉を生ず
眉斧解剖す壮士の腹

  • 蕉衫 芭蕉布の服
  • 蜂黄落蝶粉褪 蜂の黄色い色は落ち、蝶の粉は色褪せてしまった。女色に退廃したようす。
  • 倡優 芸能
  • 眉斧 美人

衣服は真っ白で一点のちりも無く、袖は長く、帯は緩く、都人の流行を真似ている。健児らの言葉遣いも都びていて、薩摩弁で話しかけると官長が怒り出すしまつ。女色に溺れ、芸事は旨くなったが鉄剣は鈍い。馬を妾に換えて股に贅肉が付く。美人が壮士の腹を割いてしまった。

頼山陽は1818年、37歳頃に九州各地を漫遊している。長崎から雲仙、熊本、薩摩と移動したようだ。諸国を観察して、詩を作ったり、それを揮毫して小遣い稼ぎしたり、歴史を学んだりしたかったのだろう。「肥後の加藤」とは清正のことだろうから、秀吉の時代の歌であったのが、山陽が薩摩を訪れた江戸半ばすぎには、島津家中の武士ですら、贅沢に馴れていた、というふうに鑑賞すべきである。

時に薩摩藩は島津重豪の時代で、開明的だが浪費家で、死後大赤字を残したことで有名だ。鎌倉宮の謎参照。

五摂家と両統迭立

『日本外史』によれば、いわゆる「五摂家」(近衛・九条・二条・一条・鷹司)というのは北条時頼 (第5代執権1246-1256)が定めたのだという。両統迭立というシステム、つまり持明院統と大覚寺統で、一方に天皇を立てるとき、同時に他方に皇太子を立て、十年おきに交代するというシステムは、この「五摂家」にならって北条貞時 (第9代執権1284-1301)が考案したのだという。実にシステマティックで合理的な考え方だし、また、北条氏が、天皇家は二家、公家は五家で十分で、それらが代わる代わる、天皇を出し、摂政関白をだせば良かろうという程度しか、考えてなかったことがわかる。というかそういう発想が少なくとも江戸時代の武家の間にはあった。北条氏はたぶんものすごいリアリストでどちらかと言えば理系な考え方の人たちだったのではないか。北条氏から見れば、天皇家も摂関家も、国政という実務をほったらかして、統治すべき国家や人民の実情から乖離し、何の原則もなく皇位継承戦争やら権力争いをしているように見えたのではないか。

両統迭立が伊勢神宮の式年遷宮にヒントを得たものではないかということは、このブログでかつて書いた。北条氏はかつて、承久の乱のときに、立てるべき皇太子が居なくてこまったことがあった。だから天皇家は二つに分かれて牽制しあっているくらいでちょうど良いと思ったのだろう。

徳川家の御三家とか御三卿も似たような発想かもしれん。


追記: 五摂家は、血が遠くなり過ぎないように、頻繁に養子縁組していた。血統が絶えたときにはすかさず他の摂家から養子をとり、摂家の数が減らないようにしたわけだ。

しかし、持明院統と大覚寺統のように、或いは足利氏の室町将軍家と鎌倉公方家のように、完全に二つの血筋に分かれてしまい、互いに養子を迎えることもなかった。

これは二つの血筋というのがよろしくないのであろう。二つだと互いに対立してしまい、どちらかが他から養子を迎えようという発想にならず、それぞれが本家と分家を作って血筋を保とうとして、遠からず互いに対立するようになる。

徳川はたぶんその問題を認識していて、しきりに御三家、御三卿の間で養子をとりあっていたのに違いない。

両統迭立は北条氏の立案で北条氏に責任があるのだろうか。それは違うような気がする。五摂家にしても北条氏が決めたんだという説は非常にあやしい。北条氏にも御三家や五摂家に相当する血筋があったのだろうか。得宗家とそれ以外、しかなかったのだろうか。

尊観

尊観という人を、ざっとネットに落ちてる情報だけで調べると、およそ二人いる。

一人は、1239-1316。名越朝時の子で浄土宗の僧侶。

もう一人は、1349-1400。時宗の遊行上人12世。時宗中興の祖。

この二人目の尊観は亀山天皇の孫で、亀山天皇が生前最後に西園寺家の娘に生ませた恒明親王の王子の深勝法親王と同一人物であるという説があるという。Wikipedia もこれに従う。

しかしながら『日本外史』では、尊観は南朝後村上天皇の子であると言っている。つまり、後村上天皇は最初皇子がなかったので、亀山天皇の孫(深勝法親王。外史では誤ってこれを恒明と呼んでいる)を養子としたが、後に実子が生まれたので、養子を僧侶とした。これが尊観であるという。

たぶんいずれも伝説なのだろう。高名な僧侶はこのようにして皇族のご落胤とされている可能性が高いとみなくてはならない。

尊観は、上野国祝人(はふり)村に隠れていた家康の遠い祖先で新田氏の末裔の有親(ありちか)を得阿弥という僧侶とし、連れていた二人の男子のうち長男を長阿弥とし、もう一人はまだ幼かったので僧侶とはならず、徳寿と呼んで、三河に逃れたのだという。徳寿は松平氏に養われてのちに松平泰親となり、これが三河の徳川家の遠祖となったというのだ。また長阿弥は後に親氏と名乗り、その子・広親は徳川譜代の酒井氏となったという。

Wikipedia によれば「徳阿弥」と名乗ったのは有親の長男の親氏の方であって、彼が松平家の祖だとなっている。

これらは、いずれにせよ、松平家と酒井家が清和源氏の血を引いているということをいうために作られた伝説に違いないわけだが。

Wikipedia では、松平泰親は長氏の嫡男であるともし、またやはり弟でもあると書いている。

以前にも似たようなことをうだうだ書いた。

徳川氏の歴史を読んでいると「上野」という地名が出てくる。これは「三河国碧海郡上ノ庄」もしくは明治以後の「三河国碧海郡上野村」のことらしい。紛らわしい。

また、「伊奈」という地名も出てくるがこれも信濃の天竜川の伊奈谷と紛らわしい。豊川市伊奈町(旧宝飯郡小坂井町伊奈)、本多氏の居城・伊奈城というものがあった。