柳橋

柳橋新誌を読んでもよくわからんことが多い。木村荘八 柳橋考 など参考にする。

神田川がお茶の水を開削して隅田川に流れ込むようになったのは第二代将軍秀忠のときだというから、ずいぶん古い。

神田川の万世橋から隅田川の合流地点までかつては「柳原堤」と言う堤防があり、柳並木があったという、その末端にあったので、柳橋という名前になったとか。元禄10年 (1697)、柳橋架橋。

日本橋の魚河岸は今の三越の当たり、日本橋川に沿ってあったものと思われる。柳橋からおよそ 2km くらいか。

東日本橋の日本橋中学から南西方面にかつては薬研堀というものがあって、矢ノ倉という米倉に米を運搬するためのものだった。「旧柳橋」というのはかつてこの、隅田川端の薬研堀に架かっていたもののようだ。ここらを米沢町とも言う。

さて、それで再び柳橋新誌を見ると、柳橋には四区があって、「柳橋表町」「柳橋裏河岸」「米沢表町」「旧柳橋河岸」。「柳橋表町」は柳橋の東側の神田川沿いと、南詰めの辺りを言うようだ。「裏河岸」は西側。「米沢表町」は柳橋の東南の米沢町にあったというが、ちょうど両国橋西詰めの繁華街辺りということだろう。「旧柳橋河岸」はそこからさらに南の薬研堀辺りにあったものと思われる。これを「米沢裏河岸」とも言う。この四区に33件の船宿があり、互いに親戚のようであり、他に柳橋北詰めにも数軒の店があったが、疎遠だったという。

柳橋の船宿の発祥は、渡し船だったというが、両国橋は1660年頃に架かっているから、もしそうだとすれば、ほんの江戸初期から船宿はあったということになろう。

船宿ごとに亭主がいて、その妻が女将となる。

酒家は船宿とは別に描いてある。柳橋の北と南、米沢町などに分散していたようだ。

柳橋の妓は芸を売るものなり。女郎にあらざるなり。而して、往々色を売るものあり。何ぞや。深川の遺風あるをもってしかるか。而して深川は公に売り、此は私に売る。
公なるものは常になしてなしやすく、私なるものは変にしてなしがたし。

凡そ人の女郎を買うや、もってともに寝るべし。芸者を招くや、もってその技を聞くべくして、ともに寝るべからず。而してその寝るべからざる人と寝、そのあへて売らざるの色を売らしむ。これを「転ばす」と言う。

興味深すぐる。

日本橋河岸

柳橋新誌。

およそ酒楼各家、あしたに起き、若い者をして日本橋に赴いて魚を買わしむ。
帰って客を迎ふ。 客知らずして早くに至れば、すなわち辞して曰く、 「河岸がまだ帰りません」と。 故に客の来たる、四つ(午前十時)に始まる。 士あり商あり、豪農あり、良工あり。

なるほど、このころ江戸の魚河岸は、やはり日本橋にあったのだなあ。

夏は、湯殿で汗を流してから酒を飲む。 銭湯のようにやかましく穢れてはいない。 おのおのの店の紋や名を染めた浴衣を着せる、とある。 今のスーパー銭湯のようなものか。

いやあ。面白いわこれは。

遊郭と岡場所

メモ。

遊郭というのは、幕府公許の遊女屋を一箇所に集めたもので、江戸には吉原だけ。 一箇所に集めたのは統制するため。 これに対して、岡場所はそれ以外の私娼窟のこと。 品川・内藤新宿・板橋・千住の宿場町以外、天保の改革で取りつぶしになった。 天保の改革では深川の門前仲町にあった辰巳芸者などが弾圧された。

柳橋は、天保の改革がゆるんだ後に、おそらくはそれ以前からあった船宿街をよりどころとして、 芸者たちが集まってきて、嘉永(1848-)・安政(1854-)以後、次第に岡場所のようになったところのようである。

斗、俵、石

なんかややこしいので、まとめてみる。

まず、石高だが、太閤検地では、1石で5斗が良い田んぼ、1石で3斗が普通の田んぼ、1石で1斗しかとれないのが悪い田んぼ、と決めたそうだ。まあだいたい1石当たり2斗ないし4斗換算か。

本来は1石=10斗なのだろうが。10合が1升、10升で1斗、10斗で1石。なので1000合が1石に相当する。1年365日三食1合ずつ米を食うとだいたい年に1石になる。そこで人間が1年に食う米の量がだいたい1石、と見積もられた。

だいたい3.5升が1俵なので、年に30俵ほど食べることになる。

町奉行所与力は最初のころ知行を与えられてそこから得られる年貢がそのまま俸禄となっていたが、途中から蔵米の支給になった。つまり、最初は領地を持った殿様だったのがサラリーマンに変更になった。そのとき知行地取り200石が蔵米80石に変更になっている。幕府標準のレートでは1俵=0.35石=3斗5升なので、蔵米80石とは、約230俵。知行地で200石取れるということは、その内の0.65が農民の取り分、0.35が支配の取り分になるので、200×0.35=現米70石=200俵となる。まあだいたい同じ。

この石高と現米の換算比率と、石と俵の換算比率がどちらも0.35なのがややこしい。

ようするに知行1石と蔵米1俵はほぼ同じということだな。あと、金1両もだいたい米1俵と同じ。

ここで、町奉行所与力の大塩平八郎と、将軍侍講の成島柳北の俸禄を比べてみると、大塩は200俵で、成島は家格300俵+役料200俵=500俵。おおよそ与力は今の警部のような仕事で年収で言えば1000万円くらいだろうか。とすると成島の年収は2500万円くらい。大企業の取締役くらいの収入はあったことになる。多少家来を養ったりしなくちゃならなかっただろうが、軽く妾の一人二人は囲えたろうな。父子鷹には岡野孫一郎という1500石の旗本が出てくるが、これだと年収7500万円に相当する。家来を養わなくてはならないからすべてが個人収入ではないが、さすがにお殿様だな。

文学部唯野教授2

引き続き、第2講「新批評」。

マックスウェーバーが「典型的かつ大量に行われる社会的闘争はながい間には結果的に、重要な個人的性質を持つものを淘汰するに至る」と言っているらしいのだが、これは ピーターの法則 のことではないのか。よくわからんがとりあえず備忘録代わり。

うーむ。ヴィトゲンシュタインという哲学者は「すべてのものを正確にあるがままの形でほったらかしておくものだ」と言っていて、それはつまり「文学作品を解剖するのは人間の体を切り刻むのと同じ非道な行為」だからで、「ちょい本居宣長」だと言っている。なぜそこでまた本居宣長。本居宣長は、そんなこと言ってないよ全然。筒井康隆の中では本居宣長っていう人はどういう人ということになっているのかなあ。「ちょい小林秀雄」、という意味でなら少しは当たってるのかな。小林秀雄は、よくわかりません、なんでゴッホとかモーツァルトとかまで口出ししてるのか。全然わからん。で、小林秀雄と本居宣長は全然別の人格だと思うんだけど。

「新批評」は「科学合理主義のパロディ」「技術優先」「判断停止」ふーん。とりあえずメモ。

文学部唯野教授

なんとなく手持ちの本を読み始める。

『文学部唯野教授』第一講「印象批評」。

ここで、筒井康隆は、「印象批評」とは、「神様並みの常識持」つ人にしか出来ないことで、日本人ならば小林秀雄や本居宣長くらいだ、などと言っていて、妙に感心してしまったので、久しぶりにここに書いているのだが。

さらに「神様並みの常識持」つ「印象批評」をする人でも「小説は無秩序だから面白い」とか「登場人物の性格が行き当たりばったりだからこそ自然に見える」などと言っている。うーむ。たぶん、いや確実にだが、筒井康隆は、きちんとプロットを考えて、登場人物の性格もきちんと設定して、小説を書いているにもかかわらず、「あなたの小説はカオスなところが面白いですね」とか「登場人物の性格が破綻しているから面白いですね」などと言われて頭に来たのだろうな。はははわかるわかる。

国文科は小林秀雄の『本居宣長』を半強制的に読まされるのか。以前この部分を読んだときは、そもそも小林秀雄も本居宣長も読んではいなかったので、ちんぷんかんぷんだったのだが、今ならだいたいわかる。小林秀雄の『本居宣長』も、本居宣長の著作も、精読した(つもり)だからだ。

で、本居宣長の「されば、緒の言は、その然云フ本の意を考えんよりは、古人の用ひたる所を、良く考へて、云々のことは、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし」を原文密着主義、などと筒井康隆は言っているのだが、はて、そうだろうか。まず、もとの本居宣長の引用だけど、「用ひ」などの仮名遣いが間違っていて、しかも送りがながひらがななところを見ると、たぶん岩波文庫版の『排蘆小船』から引いたものだろうと思うのだが、だとしても、宣長が言いたかったことは単に、古語で意味の通らない言葉が出てきたときには、その事例をできるだけたくさん調べて、意味を解読する必要があるよ、ということだろう。言葉の意味の本質などというものをいくら考えても無駄で、できるだけたくさんの文献に当たって用例を調べて類推しろと言っているだけだ。これをひとことでなんと言い表すかは知らんが、それを「神様並みの常識を持つ人の印象批評」とか「原文密着主義」などと言ってよいのだろうか、と疑問に思ってしまうわけだ。

子母沢寛

相変わらず、子母沢寛「新選組始末記」を読んでいるのだが、この、芹沢鴨や坂本龍馬などの暗殺の描写というのは、おそらくは子母沢寛が新聞記者時代にこつこつやってきた独自取材なのであって、新選組始末記が初出であって、他の時代小説や漫画などはみなこれを典拠にしているものと思われる。つまり、暗殺などがあって50年近く後に聞き取り取材したわけだから、相当な誇張や脚色、思い違いや聞き違いが混じっていただろうけど(成立時期のタイミング的には平家物語などに近い)、真実はともかくとして、いやむしろ漫画や小説のネタとしては、子母沢寛の残した資料は非常に便利なものだったに違いない。

「座頭市」ももともとは子母沢寛の書いた簡単なメモ書きまたはごく短い小説に由来するという。

子母沢寛と司馬遼太郎 2

思うにこれまで、子母沢寛と司馬遼太郎というのは、あまり対比して語られることはなかったと思うのだが、比べてみるといろいろと面白い。境遇が似ている。何度か面談もし、対談も残している。どちらかと言えば、司馬遼太郎が一方的に慕ったかたちだ。子母沢寛は1892年生まれ、司馬遼太郎は1923年生まれ。約30才離れている。司馬遼太郎は、燃えよ剣など書いてみて、幕末維新を取材するには直接の関係者はもう死に絶えていて、不可能だと気づいたと思う。たとえば土方歳三が死ぬのは1869年。しかし乃木希典が死ぬのは1912年。ざっと40年後だ。司馬遼太郎は、戦国時代とか幕末維新などの時代が好きで良く小説に書いたわけだが、子母沢寛のように、取材に基づいた歴史物も書いてみたいと思ったに違いない。そうすると子母沢寛が取材して書いた時代から30年から40年ほど後となると日清日露の時代であり、このころだとまだ関係者で生きている人がたくさん居るわけだ。そこでまず実験的に「殉死」を書いてその後「坂の上の雲」を書いたのではなかろうか。実際「殉死」の後書きには、それっぽいことが書かれている。まだ関係者が生きている生々しい時代の歴史小説を彼は狙って書いたのだが、しかし自分が参加した戦争については敢えて小説には書かなかった。風景画も静物画も対象からある程度離れないと描けないが離れすぎると見えなくてやはり描けない。そんなふうなものか。自分の祖父の時代の歴史というのが一番小説には書き良いのかもしれん。ここらは子母沢寛の方法論だと言えると思う。

子母沢寛と司馬遼太郎

1967年に子母沢寛と司馬遼太郎が対談している。子母沢寛は1968年に死んでいるので最晩年だが、司馬遼太郎は44才、「燃えよ剣」や「殉死」など、初期の作品を書いたばかりの頃だ。司馬遼太郎ははたちくらいに子母沢寛の「新撰組始末記」を読んで、どうしてもこれは超えられないと思い、子母沢寛に会いに行って教えを請うたという。両者とも新聞記者から歴史小説家になったのだから似た境遇ではある。

「新撰組始末記」を改めて読むとこれは小説とかそんなものではなくて、大論文だ。これをおもしろがって読んだ人がいるとは思えない。ただ学術的、歴史的にはそうとう重要な本であろうとは思う。司馬遼太郎はしかしそもそもこんな小説を書こうなどと思ったはずはない。最初からもう少し色気のあるものを書こうと思っていたに違いない。それに、大正時代には生き証人に取材もできるが司馬遼太郎の時代にはできるはずもない。ただ謙遜して自分には書けないと言ったのではなかろう。司馬遼太郎はあまり謙遜するような人でもない。

対談は「幕末よもやま」というタイトルでそんな長いものではなく、しかも司馬遼太郎が勝手に一方的にしゃべっている感じ。ときどき子母沢寛も発言している、という程度。ほとんど新撰組と彰義隊の話で、龍馬の話でもしていてくれると面白かったのだが、司馬遼太郎が遠慮したのか。

紀貫之と吉田松陰と坂本龍馬

坂本龍馬の有名な歌

世の中の 人は何とも 言はば言へ 我がなすことは 我のみぞ知る

については以前も考察した[1,2]。
これは直接には、吉田松陰の歌

世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が心は 神ぞ知るらむ

を本歌とするものだと思っていたのだが、紀貫之の歌に

人知れぬ 思ひのみこそ わびしけれ わが歎きをば 我のみぞ知る

というものがある。古今集に収録されていて、坂本家は一族全員が和歌をたしなんだというから、 坂本龍馬がこの歌を知らなかったはずはなかろう。 紀貫之と吉田松陰の歌から、ほとんど自動的に坂本龍馬の歌が出てくるのは誰の目にも明らかだ。

大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです

どうなのかなあ。 大岡信という人がどうなのか、はなはだ懐疑的なのだが、 ざっと坂本龍馬の歌を見る限りでは、吉田松陰の影響がかなり強いと思えるし、 たとえば

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

これなんかはまったく吉田松陰の歌

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

そのままだし(しかも「なほやむべきか」は意味不明)、 それ以外ではいわゆる月並な古今調というか、つまりは江戸後期から幕末に流行した桂園派そのもののように思える。 勝海舟もけっこう和歌を詠んだ方なので、多かれ少なかれ影響はあるに違いない。 ただまあ詠草にあれこれ文句を言っても仕方ない。 歌集を出版したというならともかく、詠草というのは未発表の草稿というほどのものだろうから、 それが松陰や貫之の歌にそっくりだったとしても、龍馬が悪いわけではない。

大岡信という人は何を根拠に新葉集やら新古今やらを持ち出してきたのだろうか。 新葉集については龍馬がそれをほしがったという逸話に引っ張られているだけではないか。 具体的に、新葉集のどの歌、どのような歌風と似ていると言いたかったのだろうか。

龍馬と言えば誰もかれも無批判にほめる風潮の昨今。 龍馬は、「文盲」ではなかったかもしれないが、かなりそれに近かった可能性が高い。