菊池明「幕末百人一首」を読む。
なかなか面白い。
土方歳三は司馬遼太郎の「燃えよ剣」では下手の横好きの俳句詠みとして描かれているが、
> よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君や守らむ
とあってこれはどうにもこうにも、吉田松陰の辞世の歌
> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂
のもじりにしか見えない。
坂本龍馬の
> 世の中の人は何とも言はば言へ我がなすことは我のみぞ知る
だが、これもどうも松陰の
> 世の人はよしあしごともいはばいへ賤が心は神ぞ知るらむ
と似てる。というか、定家の基準から言えば完全に本歌取りのレベル。
「我のみぞ知る」は聖書の文句「神のみぞ知る」のもじりだろう。
また明智光秀の
> 心知らぬ人は何とも言はば言へ身をも惜しまじ名をも惜しまじ
とも似ている。
普通の武士や浪人ならこの程度で上出来か。
そういう意味では松陰の本歌はなかなかすぐれている。
いろんな影響を受けつつも「我がなすことは我のみぞ知る」の部分はまあ良い。
かなりまともな方としては、徳川慶喜
> 踏み分けて尋ぬる人のあとをこそ若菜の雪も下に待つらめ
あるいは林忠崇
> 真心のあるかなきかは屠りだす腹の血潮の色にこそ知れ
などだろうか。
他にも良いのがあるが、もう一つ挙げるならば、清水次郎長の辞世の歌
> 六でなき四五とも今はあきはててさきだつさいに逢ふぞうれしき
がなかなか博徒らしくて面白い。
四五六がチンチロリンを思わせる。
「さい」は妻と同時にサイコロをかけているのだろう。
だが、清水の次郎長時代にはたして丁半はあったとしてチンチロリンがあっただろうか。
あまりに良くできているので、後世の偽作もあり得ると思うのだが。
しかし今のところ確かめようもない。
なんと内村鑑三がこの清水次郎長の歌をほめているらしい。
> 私は近ごろ東海道の侠客、次郎長の辞世の歌が目に触れました。博徒の長の作ったものでありますから、歌人の目から見ましたならば何の価値もないものでありましょうが、しかし、もしワーズワースのような大詩人にこれを見せましたならば、実に天真ありのままの歌である、と言って大いに賞賛するであろうと思います。
> 多くの貴顕方の辞世の歌でも、文字こそ立派であれ、その希望にあふれたる思想に至っては、とてもこの博徒の述懐に及ばないと思います。彼、次郎長は侠客の名に恥じません。彼はこの世にありて多少の善事をなした報いとして、死に臨んで、このうるわしき死後の希望をいだくことができたと見えます。
ほんとかいな。
[山岡鉄舟研究会](http://www.tessyuu.jp/archives/2007/11/index.html)
参照。