坑夫

夏目漱石「坑夫」も小林多喜二「蟹工船」も描いている世界は同じ、作家によって描き方はだいぶ違うがな~と思った。

どうも夏目漱石の「坑夫」というのは、反小説だとか、漱石作品中では異質な存在だとか、取材してたまたま他に題材がなくてうっかり使っちゃっただけとか、軽視される傾向にあるが、私は夏目漱石の中では一番好きかもしれない (他を全部読んだわけじゃないが)。 で、ごくかいつまんでいうと「比較的育ちがよく教育もきちんと受けた自意識過剰な若者が若気の至りで失敗する」という、「坊ちゃん」「三四郎」「こころ」などと共通のパターンでできていて、おそらく一連の自画像的作品の一つであって、特に「坊ちゃん」とはうり二つな構造になっている。夏目漱石はああいう偏屈な人だから、あまりに小説っぽくないんで、実は小説のつもりで書いたのでないとか言い訳してるのに過ぎない。これだけの長編を時間と労力かけてただ埋め草に書くはずはなく、やはり自分でおもしろいと思い人にも読ませたくて書いたに違いない、と思う。虚心に読めばただそれだけのことに思えるのだが、そういう読み方をした人はあまりないようだ。

昭和史発掘その2

昭和史発掘を未だに読んでいるのだが。ていうか昭和史を全然知らなかったことに愕然とするよ。だいたい小中高で昭和史なんてやらんし。やれないし。トラウマだし。日本人の。石原完爾は大それたやつくらいの印象しかないだろ普通。東条英機は無能だから首相になってA級戦犯になったのだな。だから彼がほんとうのA級戦犯じゃないというのは明らか。田中義一はかなりやばい。というか松本清張はよほど田中義一に恨みがあるのだろうな。その怨念が伝わってくるよ。今は戦争前の世相に似てるとか言うが、似てなくはないと思うが、深刻さの度合いがまるで違うよね。当時はプロレタリア運動やるのもそれを弾圧するのもどちらも理があった。今は無い。明らかに無い。どちらでも良い。

小林多喜二「蟹工船」が無性に読みたくなってきた。ていうかすでに映画化されているよね。今更入手困難だと思うが。

昭和史発掘

松本清張「昭和史発掘」など読む。面白いがねちっこい。さすがに元朝日の記者…。本田勝一よりはましだが。

昔の日本は農村だったわけですよね。株式会社とか大企業というものはない。ほとんど自営農家。もしくは小作。もしくは個人商店。田舎で一番大きな会社というのは役場か学校か郵便局。戦後なら農協や漁協。地方自治体くらいしかまともな雇用環境を提供できなかった。民間企業の力が今ほど強くないから、田舎の人間はみんな地域ごとにコミュニティを作って生きていくしかなかった。今は違う。民間の大企業がどんどんでかい店舗や工場を建てていく。そういうところのサラリーマンになればとりあえず安泰。車社会になったから4車線以上のでかい道路沿いが栄え、或いは特急や急行が止まる駅の周辺の住宅地に人が住み着く。人間関係も町の構造もどんどん変わっていく。

個人商店は赤字でも黒字でもないから法人税は払わない。土地ももってりゃ家賃も払わない。冒険もしないから急に倒産もしない。年金もそれなりにもらえる。となればこれは民間企業の形はしているが公務員と大した違いはない。いや本質的にはニートと変わりない。淘汰圧にさらされることなく滅びることもないが発展もない。特に悪いことをしているわけではないが社会に貢献しているわけでないのは確か。そういう個人経営の商店や農家が日本中の田舎にものすごくたくさんある。ほんとはそれがすごい問題なんじゃないかという気がする。

1929年世界恐慌の頃農村の収入の4割は絹だったそうだ。今じゃ考えられないな。絹のような輸出用の高級消費財が一番打撃を受けたわけだ。たしかに田中義一から226事件までの話は面白いな。浜口雄幸についてはほとんど書いてない。城山一郎は「男子の本懐」で浜口雄幸についてかなりポジティブに書いているが、松本清張は農村を困窮させクーデターを招いたダメな宰相という書き方しかしてない。まー結果的にはそうだな。しかし田中義一はひどい。こんだけ失政に汚職だらけじゃ国会が荒れ右翼が暴れ、首相がばたばた暗殺されるわけだよなあ戦前の日本って。

十年一日のごとき授業

筒井康隆の小説のモデルになった某大学文学部の教授会は、事実しゃべりたい人だけが延々としゃべり続け、途中退席して喫茶店で休憩してもよく、戻るとまだ同じ話が続いているらしい。

e-Learningの授業を未だに手書きOHPシートでやっているという某教授によれば、授業をやっている時が公務の中で一番楽な時間なんだそうで、なぜかといえば授業中だけは電話もかかってこず、学生に向かって自分がこれまでずっとやってきたことを語る場だからだそうだ。
何十年も大学教員をやっているとそんな境地に達するのだろうか。

放送大学は編集も取り直しも一切やらず本番撮りっぱなしなんだそうだ。講師が収録までに十分に練習しておくということなのであろう。落語の寄席と同じで学生が聴講する実際の授業を収録しないとライブ感がなくておもしろくないという。放送大学の授業は講演会を15回やるのと同じ程度に周到に準備されているように見える。

落語のネタを15本しかもってなかった名人の話があるけれども、また十年一日のごとき授業という言い方もあるが、授業というものは同じ内容でも毎回毎年違うというのも真実なのであって、同じ授業も回を重ねれば次第に密度が増し話芸としての完成度も高まり、学生への教育効果も高まるのかもしれん。そうやって年月を経て練り上げられた授業というものは、独り講師から学生への一斉授業というにとどまらず、むしろ講師と学生との合作というべきものであって、まさしく古典落語のような名人芸へと昇華するのかもしれん。
そこまで練られた授業であればこそライブ収録する価値もあろうと思う。

実際には単に十年一日同じことを繰り返す授業の方が多いのだろうが。

鳩のように

霊感というものは空から鳩が飛んできて頭に止まるようなものだ、
とは誰が言ったのか。

鳩のようにというのは福音書の話でした。

> マタイ 3:16
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。
そのとき、天がイエスに向かって開いた。
イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

> ヨハネ 1:32
そしてヨハネは証しした。
「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

> マルコ 1: 10
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

> ルカ 3:21~22
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、
天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た。

仕事は、整理しようとするとふくらむ。
i.e.、
仕事は寝た子と同じ。起こしてはいけない。
起こすときには十分用心しなくてはいけない。

なんか仕事ないかな~と思っているのは、
無意識に仕事から逃げているか、
緊急の仕事も重要な仕事もないと思いこみたいだけである。
仕事がないと思ったら、まず To Do List を作り、
優先順位でソートしましょう。


日本離島センターの本

ほとんど品切れ。
どこか図書館に行けば全冊そろってるとか?
まー、ばんばん売れるようなものでもないし、
儲かりもしないのだろうが。
そして日本離島センターの
しましまネット、
名前が脱力。
そして話題の(?)
シマダス。
なんかおもしろそうだよねぇ。
南大東島とかさ。

毒ガス島歴史研究所。
なんなんだこれは。

日本の山。
なごむね。

最近またオートミールを食べるようになったが、
これはみるからに原始的な食べ物のように思われるが、
Wikipediaによれば
カラス麦
は歴史的に比較的最近栽培されるようになったという。
しかも、夏が冷たくて湿った地方、北西ヨーロッパ、
特にイギリスやスコットランドなどで栽培されるという。
ふーん。

氷川清話

氷川清話もじっくり読むとなかなか面白い。勝海舟も面白いが、江藤淳の意気込みがまたすごい。

> 全体大きな人物といふものは、そんなに早く顕れるものではないヨ。通例は百年の後だ。今一層大きな人物になると、二百年か三百年の後だ。それも顕れるといつたところで、今のやうに自叙伝の力や、何かによって顕れるのではない。二、三百年も経つと、ちやうどそのくらゐ大きい人物が、再び出るぢや。其奴が後先の事を考へて見て居るうちに、二、三百年も前に、ちやうど自分の意見と同じ意見を持つて居た人を見出すぢや。そこで其奴が驚いて、成程えらい人間が居たな。二、三百年も前に、今、自分が抱いて居る意見と、同じ意見を抱いて居たな、これは感心な人物だと、騒ぎ出すやうになつて、それで世に知れて来るのだヨ。知己を千載の下に待つといふのは、この事サ。

今の人間はどうだ、そんな奴は、一人も居るまいがノ。今の事は今知れて、今の人に誉められなくては、承知しないといふ尻の孔の小さい奴ばかりだらう。
…

まったくそのとおりだヨ(笑)。中途半端に有名になって、数十年で忘れられるくらいならば、あくせくせず自分の好き勝手やった方がましだろう。

白南準は「芸術家には誰でもなれる」と言ったが、誰もが白南準になれるわけではないのだがノー。

モーセと一神教

ジークムント・フロイト著、渡辺哲夫訳「モーセと一神教」筑摩書房、 勝海舟著, 江藤淳, 松浦玲編「氷川清話」講談社、など読む。

「モーセと一神教」はずっと読みたいと思っていたのをたまたま電車待ちの時間に本屋で見つけて買ったもの。フロイトは80才過ぎてからモーセ論に凝り始めたが、その主張するところは、「モーセはエジプト人」「主(アドナイ)はエジプトのアトン神」「出エジプトはアメンホテプ4世(イクナートン)以後の無政府状態のときにおこった(従ってエジプトの軍勢に追われたり、紅海が割れたというのはすべて作り話)」「ユダヤ教はアトン神(エジプト起源の唯一神)とヤハウェ神(火山の神)の融合」「モーセはユダヤ人に殺された」「割礼はエジプトの古い風習」などなど。アトンは、エジプトの歴史の中で現れた唯一神で、イクナートンの時代に完成され、一旦は破綻した。もともとは無色透明無形な抽象神なのだが、一方でヤハウェは怒りの神、嫉妬の神、えこひいきの神。その本来全く異なる相容れない二つの神が融合したことによって、精神性が非常に高められた一神教が生まれたのだという。フロイトの学説はすべてうさんくさいのだが、モーセ論だけはほんとうじゃないかと思う。多神教でも、すべての神様すべての神話を統合しようとして抽象的な神様を付け足すことはあって、日本神話だと天の御中主の神がそうで、具体的な人格もなければ自然現象や動物や植物などとも関連がない、ただ名前だけがある。しかし名前だけの存在だから、生き生きと動き出すことはまずないし、そもそも後世に人工的に作ったものだから、個別の神話から遊離している。抽象神なのに具体的で強烈な個性というか自我を持った神がどうやってできたのか、というのは実はまだよく解明されてないようだ。

未来少年コナンDVD

なぜか未来少年コナンDVD全7巻購入。絵コンテ担当が最初とか最後はさすがに宮崎駿で固めているが、途中がけっこう違う人。高畑勲も混ざってたりする。その気になって観察したらけっこう違うのかも。

中東の地図を見てて、カラチャイ・チェルケス共和国とか、カバルダ・バルカル共和国とか、一度も聞いたことないような長い名前の国を発見。チェチェンやアゼルバイジャンほど暴れないので注目もされないのだろう。キヨスミ・シラカワとかアンナカ・ハルナとかキョウドウ・ミヤノサカみたいなものか。けっこう地名の括りがアレというか。ウラジカフカースという名前の町も。これはウラジヴォストークが「東方を支配せよ」という意味のように、「カフカスを支配せよ」という意味のようだ。カフカスにしてみれば迷惑な話だな。同じようなロシア語名に「ウラジミール」(世界を支配)、「ウラジスラブ」(スラブを支配)、などがあるようだ。

今昔物語

平凡社東洋文庫の今昔物語集を読破しようとしているのだが、なんかヤバイ本だよねこれ。インド、中国、日本、のいろんな説話を集めたものなんだが、執筆者はおそらくヒマを持て余した僧侶だろう。それも共同執筆かな。

インドもひどいが中国もひどい。日本の説話に至ってはこれはもう日刊ゲンダイか夕刊フジかというレベル、しかしインドや中国の説話にくらべればまだかわいげがある。中世の仏教が、いかにして恐怖と罪悪感によって純真爛漫な庶民を改宗させようとしたか、中国の儒教が、いかに孝行を絶対視して人間性をゆがめてきたか、今昔物語集をとばさず全部読むとわかるだろう。魯迅が中国や儒教を批判したのがピンと来ない人は今昔物語集を読むときっとわかる。魯迅の副読本というのかな。

適当に有名なやつだけ拾い読みしたり、子供向けに脚色したやつ読んだのではわからないだろう。

ひとつだけ例を挙げておこう。

あるところに天真爛漫な漁師が住む島があった。そこに魚がたくさん押し寄せてきて人間のように「阿弥陀仏」としゃべるので、漁師たちはわけもわからず「阿弥陀魚」という名前をつけた。「阿弥陀仏」と呼ぶとさらにたくさん押し寄せてくる。捕まえて殺して食べたが逃げもしない。「阿弥陀仏」と唱えれば唱えるほどおいしく感じる。あまり唱えない人は少し辛く感じる。そこでみんな味の良さに夢中になって「阿弥陀仏阿弥陀仏」と唱えまくる。そのうち最初にその魚を食べた人の一人が寿命で死んで、三ヶ月してから紫の雲に乗って戻ってきて人々に告げるには「魚は阿弥陀仏が姿を変えたものである。私たちが仏の教えも知らず愚かなのを憐れんで、念仏を勧めにやってきてくれたのだ。この縁によって私は浄土に生まれ変わった。」これを信じた漁師たちはみんな慈悲の心を起こし、永久に殺生をやめて阿弥陀仏を念じ奉った。やがてみんな浄土に生まれ変わって、島には一人も人が居なくなった。
(今昔物語集巻4第37)

うーむ。私には、狂信的宗教のために島民が全滅した話にしか思えないのだが。

清朝末期の改革

1894年の日清戦争から1911年の辛亥革命までの清朝末期の改革は、よく調べるとけっこう面白いのかもしれん。キーワードは、戊戌維新、百日維新、康有為、梁啓超、光諸帝、変法維新、章炳麟、etc。西太后は当時の中国社会そのもので、「もし西太后がいなければ」という仮定は無意味だと思う。西太后が居なくても他の皇族が担ぎ出されただけだろう。1898年、光諸帝が康有為や梁啓超らにうまく立憲君主制を作らせていれば、1900年の義和団事件も1911年の辛亥革命も未然に防げたかもしれない。そうするとそもそも日露戦争も起きなかったかもしれないし、そうなると韓国は一時的に日清の保護下に置かれたかもしれないが、韓国併合はなかったかもしれないし、そのうち日清韓同盟が力を付けていけば、遼東半島もロシアから取り戻せたかも。というか日本が遼東半島を割譲して三国干渉を招いたのがまずかったのかなぁ。とかいまさらどうにもならんことではあるが。

呉智英「犬儒派だもの」比較的新しい本だが、世田谷中央図書館にあった。すばらしい。
冒頭「声に出して笑いたい誤文・悪文」で長尾真の岩波新書「「わかる」とは何か」がやり玉に挙げられている。きわめて普通の工学書で、それ以上でも以下でもない。が、彼はどういうわけか京大総長になった。たぶん理系人間が京大総長になったのが気に入らなかったのだろう。岩波新書か何かに科学論めいたことを書かされて、わざわざ批判の矢面に立って、呉智英に馬鹿にされるとはあわれなことだ。どうも工学者は偉くなると哲学をほいほい語り出すのだが、専門となんの関係もなく実にナイーブだ。岩波新書なんてものに書くから読者も期待して読む。岩波の編集者も偉い人だからとほいほい書かせる。書けば中身に関わらず買うやつは買う。
そして皆が不幸になる。

Linus の Just For Fun(和訳)を読むと、世の中にはやはり文系と理系の厳然とした違いがあるなと思う。フィンランド人でも日本人でも違いはない。背が高い低いとか太ってるとかやせているというのは外見だから、見てすぐにわかる。しかし、文系理系というのは脳の中身のことなので、見ただけではわからん。そんな区別はないものだと言いたがる人もいる。しかし状況証拠から見ればやはり明らかにあるように思われる。

理系文系の違いは、理系は数学や物理に美しさを感じるということ。数学に心地よさを感じる人たちが集まった集団が理系。まあ、そういって間違いない。芸術学部の連中は、なるほど彼らは確かに美しさということに敏感であるし、関心が高いのであるが、数や数式が美しいとは決して考えない。いや、数を美しいと感じないからこそ、それ以外のものを美しいと感じる能力が発達しているのだと思う。数を美しいと感じる人は逆にそれだけで満足できてしまい、それ以外のものをわざわざ追求しないのだろう。

Linus が成功したのはタイミングが良かったからだろう。Linus と同程度の才能と意欲を持つ人間はいくらでもいたが、成功するには何か新しい流れが生まれるその現場に居合わせなくてはならない。Linus のような人材はつまり理系であり、オタクである。そういう人間を芸術学部の中で育てるのは不可能だ。そういう人材が欲しければ募集を工夫するしかない。カリキュラムでどうにかなるレベルを超えている。