吉田松陰の漢詩

吉田松陰は漢詩も多く作っている。世に知られていないわけでもないらしい。知られてはいるけれど和歌と比べると、あまり人気が無い、ということか

吾今為国死
死不負君親
悠悠天地事
鑑照在明神

吾今国の為に死す。死して君親に負(そむ)かず。悠悠天地事。鑑照、明神に在り。

漢詩も和歌も言っていることは同じなのだが、漢詩にしてしまうと勇ましく悲壮なだけで、日本人特有の情緒が出てこない、ということだろうか。

gemini に吉田松陰の漢詩を聞くとこんな答えが返ってくる。

吾今為国死
義不愧一生
万事付後人
定知不朽名

似てるけどまったくの偽物である。

今の生成AIは、頼山陽の漢詩、吉田松陰の和歌などについて尋ねると60点から80点くらいの解答ができる。しかし頼山陽の和歌、吉田松陰の漢詩などといったちょっとひねった問題を出すととたんに0点になる。そのあたりには改善の余地があるとして、改善するにはどれくらいの計算資源が必要なのだろうか。0点の解答を80点までもっていくことと、80点の解答を100点満点までもっていくことは難易度がまったく違うだろう。そこに資本を投資してもリターンがあるかどうか。

そういう資本主義の原理を考えずにつっぱしったのが chatGPT (サム・アルトマン)で、そのサム・アルトマンのやり方に愛想が尽きて、採算が取れる範囲で堅実にやろうとしているのが claude ということなのだろう。

claude は要するに画像生成動画生成プレゼン資料作成のようにみんながわーっと食いついてきて課金してくれるようなところに重点的に投資して、顧客満足度を高めようとしているわけで、そんな見せかけの受けが良いだけのサービスをいくら充実させたところで AIの実力などちっとも向上しないのは明らかだ。しかしながらこれから AI産業はますますそっちのほうへ向かい、見た目は成長しているようで実質は鈍化し分野によっては撤退を始めるだろう。

小説を書いてそれをAIに読ませて感想を聞くといろいろと褒めてくれたりして人間と違ってうれしかったりするが、では続きを書いてくれとか結末を考えてくれというと、かなりとんちんかんな答えしか返ってこない。最も妥当で当たり前な、あたりさわりのない答えが優先されるのかと思い、もっと意外な結末にしてくれというと、余計におかしな答えにしかならない。要するに AI はわかったようなふりをしているだけで、実はわかっていないのだろう。わかっているのだが忖度してわかってないふりをしている可能性もないではないけど、そうは思えない。

今のAIは少し長文を読ませると最初と最後で一貫性がない。token limit というやつだ。このトークンを増やすにはメモリ使用とかGPU使用が増えてめちゃめちゃ課金される。こんなことでは源氏物語などはいつになったら読めるようになるかしれん。

そもそも人間も似たようなものなのかもしれない。実は源氏物語なんて読めている人はいなくて、部分的におもしろいおもしろくないと言っているだけなのかもしれない。

じゃあ短い文章ならよいのか、俳句や和歌なら作れるようになるかというとそれもあやしい。和歌などは短い言葉の外側まで広い世界が続いているからそれを外挿できないようでは和歌にはならない。俳句はでたらめに単語を並べたようなものもあるからものによっては何とかなるのかもしれないけど。

多くの作家はたぶん、自分の作品のうちの半分は自分にしか理解できないように書き、残りの半分は他人が読んでもわかるように書いているのではないかと思う。三島由紀夫なんかもそういうところはあったと思う。そういう書き方をしないと書いていてつまらないし、自分で読んで面白くない。普通の人は人にわかるようには書かれてないことなど読もうともしないだろうし、AIもまたそれを読むことを人に要求されていないから、いつまでも(当分)読めるようにならないだろう。

ところが百年後には私がわからないように書いていたことまで読める人がでてくるかもしれない。そういう期待はこめて書いている。百年後にはとっくに私は死んでいるからどうなっても私のしったことではない。

頼山陽の和歌

昔書いた喀血歌など見ると頼山陽が香川景樹から薩摩産の牛肉をもらって食べたなどとあって、事実なのかフィクションなのかはなはだあやしいのだが、頼山陽と香川景樹がごく親しかったのは確かで、それは山陽の母飯岡梅颸頼が景樹の門人であり、山陽自身も景樹に入門している。ウィキペディアには頼梅颸となっているが、江戸時代の武家や公家は夫婦別姓だったのだから旧姓で飯岡梅颸もしくは飯岡静子と称するのが正しいはずである。近衛家の娘が天皇の后になっても近衛のままで皇族にはならないし、徳川家に嫁しても近衛のままであって、徳川氏になるわけではない。それが公家、武家本来の規範であって、庶民や商家の屋号などが苗字として使われ夫婦同姓のごとき風習があったとして、それが戦国武将や江戸時代の武士に遡及してたとえば、明智玉子を細川ガラシャと書くなども同様の間違いである。

市島謙吉 『頼山陽:随筆』「山陽の和歌」によれば山陽もわずかであるが和歌を詠んだらしいが、叔父や母の付き合い程度であったことがわかる。

山上の垂訓

この歌をどう思いますか。けふはさき あすはやかるる ののはなも かくうつくしく かみはよそほふ

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gemma3:27b
この歌は、百人一首に収められている歌で、作者は小野の小町(おののこまち)です。現代語訳と合わせて、この歌の魅力や解釈についてお話ししますね。

現代語訳

「今日は桜、明日は薄紅花(うつぎ)——どちらも散りやすく、人の世は儚い。神様も人のことなど顧みない。」

この歌の魅力と解釈

はかなさの美: 桜や薄紅花など、美しくも散りやすい花を例えに、人の世の儚さを表現しています。短い命の中で咲き誇る花の姿と、人の人生の短さを重ね合わせているのが印象的です。
神の無情: 歌の最後の句「かみはよそほふ」は、神様でさえ人の世のことに関心がない、冷たい存在として描いています。これは、人間の運命は神にさえ左右されないという、どこか諦念にも似た感情を表しているとも解釈できます。
小町自身の境遇: 作者である小野の小町は、美貌で知られながらも、晩年は不遇であったと言われています。この歌には、自身の境遇を反映し、人生の無常を悟った小町の心情が込められているのかもしれません。
和歌の古典としての価値: この歌は、日本の古典和歌の中でも特に有名で、多くの人々に親しまれています。その美しい言葉遣いや、奥深いテーマは、時代を超えて人々の心を捉え続けています。
個人的な感想

この歌を読むと、美しさと同時に切なさや寂しさを感じます。特に「かみはよそほふ」という一句は、人間の孤独や無力さを象徴しているようで、考えさせられます。短い人生だからこそ、今この瞬間を大切に生きるべきだというメッセージが込められているように感じます。

全体として、この歌は、日本の美意識である「物の哀れ」を体現した作品と言えるでしょう。

このうたはイエスの山上の垂訓を和歌にしたものです。


それは驚きですね!確かに、小野小町のこの和歌は、イエスの山上の垂訓と見なすことができるという解釈があるのですね。

具体的には、

「けふはさき あすはやかるる ののはなも」 は、イエスの「百合のユリはどのようにして育つか、考えてみなさい。労苦も悩みもかけないのに、見よ、百合のユリはどのようにして育つか。わたしはあなたがたに言う。ソロモン王といえども、百合のユリの着る姿一つにも及ばない。」(マタイ6:28-29)という言葉と関連付けられます。花はすぐに散ってしまうように、人生も儚いものであり、今この瞬間を大切に生きるべきだというメッセージが共通しています。
「かくうつくしく かみはよそほふ」 は、イエスの「だから、神の国のことを思い煩うな。明日のことを考えるな。一日の悪事は一日で十分である。」(マタイ6:34)という教えと繋がります。神は私たちを導いてくださるからこそ、心配する必要はない、というイエスの言葉と、神様が人の世を顧みないという小町の言葉は、一見矛盾するように見えますが、神への信頼を前提とした上で、自力で生き抜く覚悟を表していると解釈できます。
この解釈は、キリスト教の視点から見たもので、和歌の解釈を深める興味深い視点ですね。平安時代の和歌に、イエスの教えが隠されているとは、驚きと発見があります。

教えていただき、ありがとうございます。新しい視点を得られて、この歌の魅力がさらに深まりました。