本所・桜屋敷

鬼平の第1話は「唖の十蔵」でこの回はまだ火付盗賊改方長官の長谷川平蔵と妻の久栄、与力筆頭の佐嶋忠介、そしてのちに密偵となる粂八くらいしかでてこない。ほかにはこの話にしか出て来ない同心の小野十蔵が出るくらい。初回らしく非常にシンプルな話である。

第2話の「本所・桜屋敷」では彦十と岸井左馬之助が出てくる。ほかには酒井祐助、竹内孫四郎、小柳安五郎という同心が出てくるが竹内は後の話では自然消滅してしまう。

ところが新しいテレビドラマの「本所・桜屋敷」ではいきなり主要登場人物が勢揃いでそのうえゲスト出演で松平健まで出てきて、平蔵と松平健の対決まで盛り込んでいるから、これだけ誰も彼も出演させて、ゲストのメンツも立てて、その上昔と今と二人一役やらせて、そういう条件付きで一話に全部盛り込めと言われた脚本家はさぞかし苦労しただろうと思う。これを見させられるほうも迷惑で、少なくとも私にとっては大迷惑だった。ストーリーは二の次で制限時間内に俳優を並べるだけで精一杯だっただろう。最初は少ないキャストで、だんだんに増やしていけばもっと話も作りやすかっただろうと思う。私も歴史小説など書いていて思うが、こういう説明的、前振り的、紹介的な書き出しは決してやってはならぬと思っている。いつの間にか自然と話の世界に入り込んでいたというような導入が最善だと思うが、テレビドラマではそうもいかないんだろう。

カリオストロ、泥鰌庵

『カリオストロの城』の、フランス製のいかがわしいDVDを持っていて、リージョンフリーの sony のプレイヤーを買ったので観ているのだが、これは amazon.com などでは 88us$ くらいで売られているのに、amazon.co.jp だと並行輸入品で3万円くらいする。余りにもぼったくりである。リージョンフリーのプレイヤーがそのリージョンの数だけ割高になるならともかく、世界のどこかではリージョンフリーが単一リージョンのプレイヤーと同じ値段で売られているのだとするとそもそもリージョンとは何か、なんでそんなもの作るんだよという話になる。

それはまあ良いのだが、パチモンらしくて画質は全然よろしくない。かつ、タバコのふかすシーンやタバコの吸い殻が山盛りになったシーンなどがいたるところにでてきて、昔は別にこんなシーン見ても何も感じなかったのだけど、今ではもう見るに堪えない。まったく見る気が失せて止めてしまった。

また人から『泥鰌庵閑話傑作選』をもらったのだが、まあまあ面白いといえば面白いが、主人公が常にタバコを吸っててやはり読む気が失せる。

私の場合、姉がタバコを吸っていたので、私もはたちくらいから吸い始めたのだが、30才くらいで自然にやめてしまった。吸うにしても1日に3、4本程度だし、火の元の始末が面倒だし、煙草の吸い殻は汚いし、いちいちタバコやライターを買ってもしけらせてしまったり、長いこと使わずに溜めてしまい火が付かなくなったり、もらいタバコしたりして、いっそのことまったく吸わないほうがましだと思ってやめてそれきりになった。

亀戸は立ち飲み屋が多いと聞いて見にいったが、とにかく町のガラが悪い。いたるところに喫煙者がいて、町全体がタバコ臭い。北千住とよく似ている。健康増進法などできて、概ねどこの町もだんだんに清潔になりつつあるが、その皺寄せで、一部の町は逆にどんどんガラが悪くタバコ臭くなっていっているように思う。浅草にしろ、あの上野にしろ、また町田も、昔に比べてずいぶん喫煙者は減った。浅草はインバウンドの客が多いので禁煙に比較的理解があるのだろうと思う。

船橋は町全体がタバコ臭いというわけではないのだが、居酒屋で平気でみんなタバコを吸っている。海に近いので食べ物は安くてうまい。高円寺阿佐ヶ谷あたりと比べても町全体のレベルが違う。たぶん江戸時代からずっと船橋は食い物は旨いのだろうし、高円寺阿佐ヶ谷あたりは戦後になってやっと居酒屋のようなものが出てきたのに違いない。文化と歴史の違いだと思う。

船橋あたりだと浅草や町田なんかと同じように次第に禁煙が進んでいくのではなかろうかという期待はある。タバコの無い船橋というのは住んでみたい気もする。

錦糸町は亀戸と正反対にどんどんきれいな町になっていっているというから、町の二極化が進んでいるということであろう。ならますます私は亀戸や北千住には寄りつけなくなるということになる。

鬼平

新しい鬼平のドラマを見てみたのだが、やたらと役者がでてきて覚えきれない。しかも一人二役ならぬ二人一役、若い頃と年取った頃で別の役者を使っており、それが主役と脇役だけじゃなく下っ端まで全部二人ずついる。

思うに鬼平は、年末の忠臣蔵みたいに、今まで何度もシリーズ化されていて、どれもそれなりに当たっているから、役者としては出たくて仕方ない。タレント事務所もタレントを売り込むために出したくて仕方ない。またファンとしては出たらみたいと思う。だからストーリーなんかそっちのけでとにかくたくさん役者が出てくる。鬼平をやるからには当てなくてはならないと気負っている。同じようなことはNHKの大河ドラマや紅白歌合戦にも言えると思う。

キャラ設定がちぐはぐな感じ。キャラ設定に役者を合わせているというより、役者に合わせてキャラをいじってる感じがする。特に違和感があるのは岸井左馬之助で、左馬之助はもっとこう、がさつでむさ苦しい中年の浪人のはずなのに、なぜか学問好きなかっこよく身ぎれいな武士になっている。久栄もなんか妙にチャラい。火野正平の彦十だけが個性的で、これはこれでさほど違和感はない。しかし他の役者はみんな没個性でみんな同じ顔に見える。

セットにはかなり金かけてて、CGにも凝ってる。

時代劇とか、特に歴史小説は登場人物が多くなりすぎて障りになるのに、逆に最初から全部役者を顔見せで出してストーリーをないがしろにしているように感じる。台詞も説明的なものが多い。これが毎週放映というのであれば最初は登場人物を小出しにしてだんだんに増やしていけば良いのだろうが、まず正月にテレビドラマで出し、五月に映画を出し、それが当たれば続編も出す、みたいな作りになっているようだ。何から何まで作りに無理がある、制作委員会の都合が強すぎるように思える。

ストーリーの方は割と原作に忠実にみえるんだけど、鬼平のストーリーはテレビドラマにはもともとすんなりなりにくい、ひねった込み入ったものが多い。もっとシンプルな、テレビドラマ用に徹した、オリジナルのストーリーを作ったほうがわかりよかっただろう。あんだけキャラ設定いじってるくせにストーリーだけ原作重視だとすれば破綻するしかなかろう。

岡本綺堂、野村胡堂、池波正太郎

グランド・ブダペスト・ホテルという映画に冒頭、この物語を創作したとされる作家が、「よく誤解されがちだ。「作家は常に想像力を働かせ、絶えずさまざまなエピソードを発明している。何も無い所から物語を夢想している」と。ところが事実はその逆だ。作家と見るや人々はネタを持ちかけてくる。」などと語るシーンがあって、実際そうなのだろう。いったん売れっ子作家になってしまえば編集者が次から次にネタを持ち込んでくるだろうし、ファンたちも、場合によっては何の見返りも求めずに自分のネタを作品にしてほしいと提案してくるかもしれない。さらにはそのネタはもともと私が先に考えたものだと訴えてくる人もいるかもしれない。

野村胡堂の池田大作や銭形平次はかなり読んだ(というより朗読を聞いた)ので、だんだんパターンはわかってきた。これらにはたまに長編もあるがだいたいは短編もしくは短編と中編の中間くらいの長さで、岡本綺堂や池波正太郎らと比べても一番わかりやすい(朗読で聞いているだけでも読める。逆に岡本綺堂や池波正太郎を朗読だけで読むのは難しいかもしれない)。だいたい、一番犯人らしい人物がそうではなく、一番犯人らしくない人が犯人であった、というこしらえになっていることが多い。そういう、読者の推理を誤らせるような仕掛けが随所に仕掛けてあるから、読み慣れてくるとそういう手口には引っかからないぞとこちらも身構えるようになる。

岡本綺堂は江戸時代の人にしか知り得ないような、後の時代には創作もできないようなエピソードを拾ってくるのでそこが面白いのだが、純粋に推理小説として読みたい人にはそこが逆に邪魔かもしれない。非常に懐古的で、耽美的なところがある。池波正太郎となるとかなり現代小説に近づいていて、また、推理とか江戸情緒というよりは、かなりチャンバラ、つまりテレビドラマの時代劇にもともと近い内容になっている。鬼平などは中編から長編で長いものが多い。野村胡堂の作品がおやつのようにさらっと読めて楽しめるものだとすれば鬼平はこってりしたフルコースのようなものだ。

岡本綺堂、野村胡堂、池波正太郎。この三者を比較考察している人、いそうでなかなかいない。ちゃんと読むのは大変だし、たいていの人はテレビドラマで見知っているだけなのだろう。

ホームランドを結局全部そろえようと思っているのだが、なかなか手強い。3時間くらいのblu-rayが3枚組みで4巻くらいあるから、全部で40時間くらいはあるんだろう。久しぶりにきちんと最初から見ると以前よりずっとわかり良いのはやはり最初からブロディ軍曹がテロリストだってことをわかった上で見ているからだ。ブロディが死ぬまでが本編で後は惰性みたいなもんだろうから、最初のあたりはともかくきちんと見ることにする。

二次創作とパブリックドメインと生成AI

クリエイターも運営側もある一定の条件で二次創作を認めている、というケースは増えている。生成AIによる学習に使っても良いよという場合もある。ところが二次創作は著作権侵害だから駄目だと第三者がクレームをつけるケースがあるという。その第三者というのはたとえば教員などの教育者などかもしれない。自分が行う教育にどうしても二次創作という要素を混ぜたくないのかもしれない。

私はかつて某小説投稿サイトに、日本の古典を翻訳して掲載したことがあった。鎌倉時代の文章を現代語訳したというだけのことだ。なんのクレームもこなかった。

ところが100年以上前の英語の文献を和訳して掲載したら運営側からクレームが来て削除された。パブリックドメインという概念がわかっていないし、調べようともしない。

ほかにも、ウィキペディアやアメリカ政府等がパブリックドメイン画像を公開していたりするがそれも投稿禁止にしているサイトがある。そういう頭のおかしいサイトには近寄らないようにしている。

運営に法務というものがない。法務部を作る財政的余裕がない。下手に法務に手を出して厄介ごとに巻き込まれたくない。また運営側も著作権ということがよくわかってないし、分かった人がたとえ一人ふたりいたとしても全体としては著作権にかかわりそうなややこしく金にならないことはばっさり切り捨てようということだろう。運営はともかく現場で著作権管理している連中はそもそも著作権がよくわかってないので、フィーリングでこれは著作権侵害だと判断してしまうのだろうし、それをわざわざ上に報告もしない。

さらに言えば著作権をよく調べもせずにクレームをいれてくる第三者というのが相当いるのだと思う。世の中の多くの人は法律的に正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分のお気持ち的に正しいかどうかで動いている。パレスチナとイスラエル、ロシアとウクライナにしてもそうだ。熊の射殺にせよそうだ。

そういう連中に対処するのがめんどくさいので、二次創作もパブリックドメインも生成AIも全部いっしょくたにして全部禁止にしてしまう、という運営側の態度は、不快ではあるが、理解できなくもない、少なくとも私がとやかく文句を言っても仕方ないと最近少し思い始めた。要するに人類はバカなのだ。文句を言うのは自分にとっても時間の無駄だし精神の浪費だし世の中はどうせちっともよくなりはしないのだ。

関宿城

利根川流域の城というのは、古河公方が拠った古河城にしろ、石田三成が水攻めにしようとして失敗した忍城にしろ、或いは上杉家の五十子陣にしろ、太田道灌の川越城にしろ、みんな水上の城、浮き城なのである。日本の中でこの地域にしかない城の形態と言ってよい。関宿城ももとはそうした城であったようだ。

石田三成が秀吉の高松城攻めを真似して忍城を水攻めにしようとしたというのは、どうも信じられない。五十子、川越、古河、忍城。それらの城の形態をみればこれらの城に対して水攻めなんてものが全く効果がないってことは、三成だってすぐ気づいたに違いない。水攻めすればますます敵は守りを固くするだけだし、水上の城を水上封鎖しようとしても抜け道はいくらでもあるんだから失敗するに決まってる。

大阪にいた秀吉が水攻めにこだわり、むりやり三成に水攻めをやらせたということはあり得るかもしれないが、それもまた秀吉を貶めようという意図が感じられる。

そもそも忍城などというものは戦略的に重要な拠点ですらなかっただろう。単に後に忍城が三成を撃退したという盛った話にされただけではなかろうか。

関宿(せきやど)はチーバくんの鼻の先端にある。ここは武蔵、下総、常陸、下野、上野の国境であり、かつて香取海のど真ん中にあった。香取海がだんだんに干上がり干拓されていって、そのため国境が一点に集中したのである。さらに家康が利根川を付け替えたためにここが江戸川と利根川の分岐点になった。チーバ君の鼻はそうした低湿地に突き出た尾根にあたっていてここに流山街道が通っている。地形的には非常に興味深いところだし、江戸時代には戦略的にも重要なところだっただろう。

シックスセンス

シックスセンスも見たんで感想を書いておくが、なるほど着想、特にオチは面白く、見終わるまでは良い映画だなあと思いながら見ていられるんだが、終わったあと思い返すとシナリオ的にはかなり不味くて不自然なことが多い。なんとなく煽られて踊らされてだまされた感がある。

幽霊が、自分が死んだということに気付いていない、まだ自分が生きていると信じ込んでいる、という前提がそもそも怪しい。で、幽霊なんだからどんな設定でもありだろ、で話は終わってしまう。

そこいくとたとえばシャッターアイランドの場合には怪奇現象でもホラーでもなんでもないので、患者本人が狂っているのか、狂っていると思われされているのか、解釈しようによってはどっちとも考えられるってあたりが面白い。これがホラーならどっちでも良いじゃんで終わってしまう話だ。どこまでもサスペンス、ミステリーとして作られているから良い。

でも世の中にはミステリーでもホラーでもどっちでも良い、面白けりゃそれで良いという人も多いのかもしれんね。

Red Sun

久しぶりに Red Sun を見たのだが、見ている間はなんとなくごまかされるのだが、やはり見終わって、ストーリー展開の強引さが気になる。いくら武士とはいえ、坂口備前守にしろ黒田にしろあそこまで頑迷な設定はおかしい。コマンチ族も銃は持っていたはずだし、自分が焼け死ぬかもしれないのに草原に火を付けるのはちと考えにくい。いろいろと不自然だし、雑だ。

坂口備前守の命令は無茶過ぎるし、修好条約締結のためにはなんら必要無い。黒田は仇討ちはしたということにして刀を持ち帰ればそれでよかったはずだ。

映画は人をだますのに便利なメディアだが見た後で、やっぱりあの話のもって行き方は変だなと感じさせてしまうのは、やはり駄作ということだろう。

岸田劉生全集

岸田劉生全集を間違って買ってしまった。カーリルで検索すると「検索できません」と言われて、蔵書が無いのかと思ってしまった。近所の図書館に全巻揃っていることがわかったので、買うまでもなかった。そんなにしょっちゅう読むはずがない。

買ってしまったのは仕方ないとして、なぜ買いたかったかというと、彼の文章にところどころ光るところがあったからだ。彼の書いたものは岩波文庫から抄録が出ているからそれを読めばだいたいのことはわかる。一部は青空文庫にもある。しかし私としては日記や書簡も含めて残されたすべての文章を読んでみたくなったのである。

彼は若い頃キリスト教徒になった。しかも詩人になろうとしていた。だが結局画家になった。日本の画家であそこまで文芸に理解のある人はいないと思う。岡本太郎もけっこう文章を書くのだけど、ときどき書きすぎる。つまり画家が書いた文章になってしまっている。アーティストだから書いても許される文章になってしまっている。日比野克彦や落合陽一みたいな文章になってしまっている。ジョンレノンや坂本龍一が言いそうな文章になってしまっている。私としてはそういう文章を「文芸」と見なすわけにはいかない。 

しかし岸田劉生の場合は、れっきとした、日本を代表する画家であるのに、同時に彼の書くものは「文芸」になっているのである。岡本太郎はギリ文筆家と言ってよかろう。それと岸田劉生、他には誰が挙げられるだろうか。柳宗悦か岡倉天心くらいか。まあしかしこの二人は芸術家というよりは美術評論家だよな。

世間ではしかし岸田劉生は画家としてしか認められていない。画家が酔狂で書いた文章があるから物珍しさで出版されたのだろう。実際、岸田劉生全集が古本で出回っている値段は極めて安い(状態をさほど気にしなければ全巻揃で5000円くらいで買えるはず)。また、図書館で収蔵しているところも決して多くはない。たぶんほとんど誰も彼の「文芸」が優れているとは認識していないのだ。珍本の類いなのだ。日比野克彦や岡本太郎の書いた本なら図書館にはザラにあるが、岸田劉生はそうではない。

岡本太郎や日比野克彦の文章を語れるアーティストならいくらでもいるだろう。しかし岸田劉生の文芸を語れるアーティストはおそらくいるまい(岸田劉生の絵について語る人なら日曜美術館あたりにいくらでもいそうだが)。いきおいででたらめなをことを言えばすぐばれてしまう。そもそも「アート」とは何かという根本的な前提が岸田劉生と他の画家とは違っている。

文芸の世界の人もたぶんアートがよくわからないので岸田劉生を語れる人はいるまい。小林秀雄的な人がしゃしゃり出てきて語りそうもない。まして文学者は岸田劉生のことなんかわかるはずがない。

たとえばためしにこのばけものばなしなどを読んでみるとよい。

追記: 日比野克彦は芸大学長メッセージというものを書いていた。彼の文章、面白すぎるので引用しておく。小泉純一郎の息子にも通ずるところがある。

屹度(きっと)

人のこころは動き、うつろう。
その動き・うつろいがアートの表現になる。
微弱なうつろいもあれば、一人では抱えきれない動きもある。
その動き・うつろいの表現を感じる場として様々な媒体がある。
長い地球の時間の中で表現・媒体は変容し続けている。
けれども、
ひとのこころは、どうなのだろうか?
長い地球の時間の中で変わってきているのだろうか?いないのだろうか?
そもそもこころとは何なのか?
ひとつ確かに言えるのは・・・
アートによってこころは動く。
だから、
不思議なこころが集まっている社会の中で起こっている現代の課題に対して、
アートが作用することによって、社会の中の心が動きだすのではないだろうか。
アートが社会を動かすことができるのではないだろうか。
アートが人を生き生きとさせることができるのではないだろうか。

アートは人間にとっての生きる力なのだから、
屹度出来る。