松平上総介

海舟座談については前にも書いたのだが、松平上総介とは松平忠敏のことで、石高はよくわからないが、およそ二千石くらいの旗本であったらしい。明治になると御歌所の歌道御用掛となって、ウィキペディアには高崎正風を投げ飛ばしたなどと書かれているが出典が良くわからない。

松平忠敏はまた勝海舟に歌を詠むよう盛んに勧めたというがこれも明治になってからのことだろう。いろいろ調べてみるとなかなか面白い歌を詠んでいるようだ。たとえば、

事(こと)しあらば 草(くさ)むす屍(かばね) 事(こと)しあらば 水漬(みづ)く屍(かばね)と 思(おも)ふばかりぞ

何事(なにごと)も 憂(う)しと思(おも)へば 憂(う)かりけり 楽(たの)しとのみや 思(おも)ひ渡(わた)らむ

などなど。

五月雨の頃

「さみだれのころ」を最初に詠んだのは西行であろうと思う。それを俊成が真似て、さらに後鳥羽院や良経が真似た歌が『新古今』に採られることで世間に知れ渡ったのだと私は推測する。まずは西行の歌を見るが、それらはほぼ、彼の家集『山家集』に見られるだけで、『新古今』には採られていない。

西行は明らかに「水」が大好きだった。西行は「花の歌人」として名高いが、実は「水の歌人」と呼んでも良いくらい水の歌を多く詠んでいる。雨、五月雨、時雨、初時雨、村時雨、冬時雨、嵐、雫、雲、雲居、白雲、八雲、雲路、浮雲、横雲、瀧、滝川、瀧枕、池、沼、沢、川、入江、菖蒲(あやめ)に真菰(まこも)。春夏秋冬、ありとあらゆるパターンの水に関わる歌を詠んでいる。清少納言が「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬は早朝(つとめて)」というなら、西行は「春は春雨」「夏は五月雨」「秋は時雨」「冬は雪」と言うに違いない。

「五月雨の頃」以外に「五月雨の空」「五月雨の晴れ間も見えぬ雲路」「五月雨に水まさるらし」「その五月雨の名残りより」「五月雨は野原の沢に水越えて」「五月雨に小田の早苗やいかならむ」「五月雨に山田の畦の瀧枕」「五月雨は行くべき道のあてもなし」「五月雨の軒の雫に玉かけて」「五月雨の頃にしなれば」「五月雨に干すひまなくて」「五月雨はいささ小川の橋もなし」「水底に敷かれにけりなさみだれて」「五月雨の小止む晴れ間のなからめや」「五月雨に佐野の浮橋うきぬれば」「五月雨の晴れぬ日数のふるままに」「五月の雨に水まさりつつ」「五月雨の晴れ間たづねてほととぎす」などなど。いやはや驚くべき執念だ。

秋の夕暮れ

小沢正夫氏は『古代歌学の形成』で『古今』の序について網羅的に分析している。彼の説を要約するならば、『古今』の序はまず「真名序」が書かれ、これをもとに紀貫之が「仮名序」を書いた。「真名序」に関しては藤原公任が著した『和漢朗詠集』にも裏付ける記述がある。また、その内容は「仮名序」が「『古今集』の内容に精通し、これに愛情をもった文章」であるのに対して、「真名序」は「事務的・官僚的」で「微温的でよそよそしい態度」であって、「貫之以外の人、例えば普通に言われている淑望あたりが書いたと考えてさしつかえない」と言っている。「仮名序」に関しては壬生忠岑が書いた『和歌体十種』に貫之が序を書いたという記載があり、「六義」にこだわるなどの特徴が見える。私も小沢氏に概ね同意する。なるほど、貫之は「真名序」を和文にして、「仮名序」を書き、六義について若干敷衍したであろう。しかし貫之がやったことはそこまでで、今に残る「仮名序」はそこから誰かがさらに大幅に書き足したもののように私には思える。なぜならその書き足したとおぼしき部分に疑惑の文言「あきのゆふくれ」が含まれるからだ。

「秋の夕暮れ」を最初に歌に詠んだ人は平兼盛。光孝天皇の子孫で、村上天皇の御代に臣籍降下して平姓を賜った(光孝平氏)。赤染衛門は兼盛の娘であるという説もある。

浅(あさ)茅(ぢ)生(ふ)の 秋(あき)の夕(ゆふ)暮(ぐ)れ 鳴(な)く虫(むし)は 我(わ)がごと下(した)に ものや悲(かな)しき

(秋の夕暮れに茅(ちがや)の原で鳴いている虫は私のように、心の中で悲しんでいるのだろうか)

兼盛の次の世代の人、和泉式部は「秋の夕暮れ」がかなりお気に入りだった。

ゆふぐれのしかのこゑ

四方山(よもやま)の しげきを見(み)れば 悲(かな)しくて 鹿(しか)なきぬべき 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

太宰帥敦(あつ)道(みち)の親王(しんわう)、中絶えける頃、秋つ方、思ひ出でてものして侍りしに

待(ま)つとても かばかりこそは あらましか 思(おも)ひもかけぬ 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

あはれなる事

あはれなる ことを言(い)ふには 人(ひと)知(し)れず もの思(おも)ふときの 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

八月ばかり、人のもとへ

音(おと)すれば 訪(と)ふか訪(と)ふかと 萩(をぎ)の葉(は)に 耳(みみ)のみ留(と)まる 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

(秋の夕暮れに、萩の葉の音を聞くたび、あなたが訪れたかと耳が止まります)

どちらかといえば和泉式部が『枕草子』の「秋は夕暮れ」というフレーズを気に入って、これらの歌を次から次へと詠んだように思える。というのは、和泉式部は「秋は夕暮れ」の他にも

夜(よる)睡(い)も寝(ね)ぬに、障(さう)子(じ)を急(いそ)ぎ開(あ)けて眺(なが)むるに

恋(こひ)しさも 秋(あき)の夕(ゆふ)べに 劣(おと)らぬは 霞(かすみ)棚引(たなび)く 春(はる)のあけぼの

のように「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそく棚引きたる」を丸パクリしたような歌を詠んでいるのである。この「春のあけぼの」を最初に詠んだのも和泉式部らしく、『千載集』以後盛んに詠まれるようになった。和泉式部は清少納言より十才くらい年下だが、逆に、和泉式部の歌を見て清少納言が『枕草子』を書いた、ということは、ちょっと考えにくい。

『古今』「仮名序」に「春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞き」とあるのはおそらく曽祢好忠の長歌の一部、

‥ はなのちる 春(はる)のあした 葉(は)のおつる 秋(あき)のゆふべ ‥

(または、はなちる 春のあした この葉のおつる 秋のゆふべ)

からきていると思われる。好忠は『小倉』の「由良の門を渡る舟人梶を絶え行く方も知らぬ恋の路かな」で知られるが、彼も『拾遺集』時代の人である。

貫之が仮名序に「あきのゆふくれ」と書いたことで平兼盛が「秋の夕暮れ」を歌に詠み込み、清少納言が「秋は夕暮れ」と言い、みなが「秋の夕暮れ」を使うようになったのだろうか。実際「しきしまのみち」は俊成が『千載集』の序で用いたのが初出で、歌として使われ始めたのは『玉葉集』以降という事例もある。「敷島の道」とは「歌道」のことだ。もともと「歌」そのものや「歌道」は歌に詠むものではなかったから、まず『勅撰集』の序に使われ、歌に使われるまで準備期間が必要だった。

貫之が「秋の夕暮れ」を発明したのだろうか。ではなぜ貫之は「秋の夕暮れ」を自分の歌に一度も使わなかったのか。「古の世々の帝」が「さぶらふ人を召して、ことにつけつつ歌を奉らせ給ふ」例を列挙している中にわざと「秋の夕暮れ」を混ぜる必要があるか?

雲母や金銀箔を押した料紙に流麗な仮名文字で筆記された国宝元永本古今和歌集。これにはっきりと「はるの朝に花のちるをみ、あきのゆふくれにこのはのおつるをきき」と書いてある。この元永本は、俊頼が白河院の歓心を買うため献上したものと思われるが、これを見るたび、ああ、俊頼が言う『金葉』とはこんな金ぴかのこけおどしみたいな歌のことを言うのだなと興ざめする。

そして曽祢好忠の歌との類似性は?これも貫之の仮名序を見た好忠が真似たのだろうか?それは相当不自然ではないか。そうやって疑いの目で見ると、仮名序の前半部分と後半部分で、どうも文体やテンポに統一感がなく、ちぐはぐな感じを受けないだろうか。例えば「鏡の影に見ゆる雪と浪を歎き」とは紀貫之自身の歌「しはすのつごもりがたに、年の老いぬることをなげきて」と詞書きした「むばたまの 我が黒髪に 年暮れて 鏡の影に 降れる白雪」を参照しているのは明らかだが、もし貫之が「仮名序」を書いたとして、古歌を並べている中にいきなり自分の、しかも晩年に詠んだ歌を入れるだろうか?おかしいではないか。

明治という元号

明治という元号は籤(くじ)で決まった。後にも先にも日本の元号が籤で決められたのはこの時だけだ。贈正一位太政大臣岩倉具視の日記『岩倉公実記』によれば、具視は、選んだ字が吉か凶かなんて煩雑な議論をするのは時代遅れだしもうやめましょう、ついでに一世一元の制度にしましょうと提案した。中国ではとっくに明朝から一世一元であり、清朝もそうだった。

具視は越前国福井藩主松平春嶽に二、三の候補を選ばせて、天皇が自分で籤を引き、それが「明治」だったので新元号を「明治」に決めてしまった。ずいぶん乱暴な話だ。有職故実を何より重んじる公家の岩倉具視がそんなぞんざいなことをするとは。

宮中で行われる占いとしては大嘗祭で行われる卜(ぼく)定(じょう)が有名だ。亀の甲羅を灼(や)いて占うのだが、これも天皇が自ら行うものではなく、神祇官(卜部(うらべ))が占って天皇に上奏するだけだ。天皇自ら獣骨や亀甲を火に炙り吉凶を占う。あり得ない。卑弥呼じゃあるまいし。記録が残っていない古墳時代とか飛鳥時代ならともかく、全くあり得ない。

なぜ岩倉具視と松平春嶽が二人で決めたのか。春嶽は佐幕派だが、具視は倒幕側だったはず。この二人の間でなんらかの取引が行われたのだろうか。普通そう疑うだろう。

改元の詔に列挙された臣下の名を見てみよう。

筆頭は「正二位内大臣 臣源朝臣」となっている。ちょっとわかりにくいがこの人は徳川慶喜だ。

慶応三年十二月八日、徳川第十五代将軍慶喜の上奏を受けて大政返上を天皇が許可。これを受けて翌日天皇は王政復古の大号令を発する。この時点で慶喜は将軍職を辞すが、いまだ「徳川内府」、つまり内大臣と呼ばれている。

王政復古の同日、小御所会議が開かれる。ここでは内覧、摂政関白、守護等の職を廃止するとは言っているが、太政官を廃止するとは言ってない。それはそうで、岩倉具視にとって敵は幕府そのものというよりは、幕府の武威を笠に着て、宮家や公家を支配してきた摂家、そして摂家支配の根拠となっていた「禁中並公家諸法度」だったからだ。具視が倒幕に与(くみ)した理由はそこだ。具視が属する中・下流公家階級にとって倒幕とは倒摂家に他ならなかった。摂家、つまり摂政関白は常に佐幕派で、幕府老中と緊密に連携していた。

薩長は慶喜に即時領地を返納し内大臣を辞めろ、と主張する。

内大臣慶喜もいずれは「辞官納地」するだろうと春嶽は言う。しかしそれは律令制そのものが西洋式の議会制君主政に倣った新制度に置き換り、維新政府が樹立された後に、徳川家以下全ての諸侯が同時に官位官職を辞し、領地を返納する、という意味だ。徳川家としてはそれまで官位官職、そして封地を保持する必要がある。しかし薩長は徳川家だけ先に、ただちに辞官納地するよう主張する。なぜなら徳川は「朝敵」だからだ、と言いたいのだ。 勤王の志篤(あつ)い慶喜は言うだろう、「天皇に委任された大政は喜んで返上する。しかし朝敵になるのは絶対に嫌だ、」と。徳川は朝敵ではないから徳川だけ先に辞官納地はしない。そのため正二位徳川内大臣慶喜が筆頭で改元の詔を発布する。薩長が同意するはずがない。絶対なんだかんだと揉める。だからこの詔はできるだけ速やかに出す必要があり、天皇に籤を引かせてえいやっと改元した。こうして具視と春嶽は共謀して、慶喜がいまなお内大臣であり、太政官筆頭である証拠を残した。改元の詔勅という紛れもない公文書によって。うさんくさい討幕の密勅などこれで吹き飛んでしまった。

前島密

最初は切手と言わないで郵便印紙と名づけようかと思ったが、その頃は印紙などという文字は一般の人には新規であって、郵便という名すら既にわかりにくい上に、また印紙という新奇な名を加えた日には、所業創始のために不利益であると思って、多くの人の耳慣れている「切手」という名にしたのです。

もっとも、本省中には切手という名は余り俗で鰹節屋か何かのようだという非難もありましたが、私は賃銭という文字と好一対ではないかと答えたので、まず大笑いで済んだのです。その後、郵便賃を税と改称した時、切手を印紙と改めようかと思ったが、事に害のない以上は既に一般に知れ渡った事を変更するにも及ばないと思って、依然、切手の名を用いる事にしました。

私は郵便為替という名称は穏やかでないと思ったが、郵便切手と同じように最も当時の人の耳に慣れているのを適用したのだ。しかし「為換」の字がむしろ妥当であると言った人もあったが、「換」の字も俗眼にはやはり新奇の感があるだろうと思ったから俗向きのよい「替」の字を襲用したのです。

郵便創業談 : 郵便の父前島密遺稿集
著者 前島密
出版者 逓信協会

前島密年譜

デモ

常々日本人はなぜデモをやらなくなったのかと思っていたが、最近のツイッターではしばしばデモが起こるようになってきた。おそらくこれからますますSNSがデモに利用されるようになり、私はますますSNSが嫌いになると思う。

昔は労働組合が人を組織して公安と対立しつつも共存してデモを主催していた。今もその名残で、路上のデモはたいてい労働組合が組織しているから一般人はばかばかしくてデモなんかやってられない。そこへいくとツイッターなどは自宅に居ながらにして自分の正体を明かす必要もなくデモに参加できるのだから便利だ。

じゃあ自分もデモやったりクラウドファンデングやったりするかと言えば私はやらんだろうと思う。私の場合はますます孤立感を深めるだけだし、私がいくら旗振り役をやっても誰も言うことはきかんだろう。デモやめろとも思わないけど、なんて馬鹿な主張をしてるんだろうなあとは思いながら眺めている。

腹が張る

たぶん年を取って胃腸の働きが弱ってきたせいではないかとおもう。以前のように暴飲暴食はできぬ。腸内細菌を整えるためには味噌、納豆、ヨーグルトなどを食べると良いらしい。ほかにもヤクルト1000を飲むようにしている。食物繊維などは逆に腹を膨らましてしまうらしい。

純米酒

純米酒って昔はいろんな味があったけど、最近はみんな無難な上品な味に収束しつつあるように思う。一方、本醸造はいまだにいろんな味のものがある。土産物屋で売っている地酒(本醸造)とかそういうのはたいてい不味い。たぶん、どこかに外注して適当に名前だけ地酒っぽくしているのだと思う。本醸造はやはりどれも純米酒よりは雑というか、下品なというか、変な雑味があって飲みにくい味のものが多い。

吟醸酒が出たての頃は私もちょっと珍しさで飲んでたこともあったがすぐに飽きた。吟醸酒はあのわざとらしい香りが私は嫌だ。日本酒は米の香りだけあれば良い、吟醸香なんかいらんと私は思っている。

そんでまあ世間一般も最近は純米吟醸とかそういうキワモノは狙わずに普通の純米酒が主流になってきているように思う。

昔の立ち食い蕎麦とか立ち食いうどんはまずいものが多かったが、生そばに冷凍ものが使われるようになってぐんと味が良くなって、無難に上品になった。と同時に個性は失われたように思う。立ち食い蕎麦も純米酒もだんだんとうまくて上品な外れの無い味に収束していってるんだなあと思っている。

文字無き時代の淘汰圧

土屋文明も柳宗悦も、万葉集は歌人ではなく名も無い庶民が歌を詠んでいたのが良い、古代の詠み人知らずの歌のほうが後世の名のある歌人の歌より良いなどという。柳宗悦はまた沖縄の和歌のようにやはり無名の民謡のような歌のほうがよいという。しかし文字が無かった古代に残った歌というものは相当な淘汰圧がかかったはずであり、人から人へ口から口に伝えられるうちに最初に詠んだ人の歌とは似ても似つかぬほどに改変されてしまったはずだ。古代の詠み人知らずの歌というものはそうした淘汰改変の結果わずかに残った、つまり、選りに選って選抜され推敲された歌なのだから、良いのは当然なのである。ただの素人の歌がそのまんま残ったものではない。梁塵秘抄や平家物語のように自然発生的に生まれた文芸作品においても同様のことがいえるだろう。

だが現代の新聞歌壇のようなものは、素人が詠んで投稿し選者がきまぐれで選んだだけだから、だれが詠もうとそのまま文字になって残り、駄作は永遠に駄作のままなのである。

素人が自由に思ったことをそのまま歌に詠めば良いなどいうのが自然主義とか万葉調とかアララギとかいうのかしらんが、そんなのはまったく嘘だ。今の歌壇に一番近いのは万葉の詠み人知らずの時代ではなく、現代歌人が嫌っている、淘汰圧というものがほとんどかかっていなかった室町中期の続新古今集時代だろう。しかし続新古今集とても、素人がただ勝手に詠み散らかしただけの歌を採るなどという暴挙には出なかったはずだが。斎藤茂吉は良い歌人だが下手な歌人でもある。笑点の大喜利で落語家が良いことを言うこともあればつまらないことを言うこともある。あれと同じだ。だから、一般人が茂吉を見ていると歌なんてものはなんでもいいんだなとしか思えまい。ここまで混乱させておいて誰が責任を取り収拾するのか。

美濃焼

スーパーなどで、ちょっとおしゃれな柄物の洋食器があって、持ってみると軽くて薄い。裏返すと銘が入っているものもあるが、英語かURLのようなものが書いてあったりして調べてみると岐阜県の多治見市あたりの会社で、つまり美濃焼であることがわかる。そういう会社はだいたいそんな古くはなくて、とはいえ1960年頃に創業したものが多いようだ。つまり、戦後日本の庶民生活が洋風化して行く中で、洋食器に活路を見いだして、美濃焼というブランドを表に出さない形で売ってきたということだろう。

そういうことは有田や波佐見ではあまりやってないと思う。名古屋、岐阜あたりには、ノリタケ、カネスズ、ナルミなどかなり古い洋食器メーカーがあるようだ。中京地区では明治維新以後すぐに洋食器の製造が始まったということだろう。そういう風土というか慣習の違い、あと大消費地に近いという利点もあったのだろう。