鉢木

鉢木という謡曲がある。

のうのう旅人、お宿参らせうのう、あまりの大雪に申すことも聞こえぬげに侯、痛はしのおん有様やな、もと見し雪に道を忘れ、今降る雪に行きがたを失ひ、ただひと所に佇みて、袖なる雪をうち払ひうち払ひし給ふ気色、古歌の心に似たるぞや、駒留めて、袖うち払ふ蔭もなし、佐野のわたりの雪の夕暮れ、かやうに詠みしは大和路や、三輪が崎なる佐野のわたり

これは東路の、佐野のわたりの雪の暮れに、迷ひ疲れ給はんより、見苦しく侯へど、ひと夜は泊まり給へや。

げにこれも旅の宿、げにこれも旅の宿、假そめながら値遇の縁、一樹の蔭の宿りも、この世ならぬ契りなり。それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて、憂き寝ながらの草枕、夢より霜や結ぶらん、夢より霜や結ぶらん。

観阿弥、もしくは世阿弥の作とされるが、不詳であるという。 世阿弥が「駒とめて」について言及しているので、それにもとづき、観阿弥もしくは世阿弥の作とされているだけなのではなかろうか。 このころはもう、「一樹の蔭の宿り」「それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて」などのように風雪や雨をしのぐための「蔭」という使い方が定着していたと見える。

古今集、神あそびのうた、ひるめのうた

ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む

ひるめは天照大神であるという。おそらく万葉時代の古歌であろう。 夫を見送る女の歌であるという。 夫が馬に乗って出かけていく。急がず、川で馬に水を飲ませよ、姿をしばらく見ていたい。 という意味らしい。

河原にいでてはらへし侍りけるに、おほいまうちぎみもいであひて侍りけれぱ
あつただの朝臣の母

ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む

藤原敦忠の母ということは時平の妻、ということだろう。 おほいまうちぎみとは、時平のことか。 明らかにひるめの歌から派生している。 というより、古歌を手直しして藤原敦忠母の歌ということにしただけであろう。

俊成

こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは

これもやはりひるめの歌を受けている。

東の方へ罷りける道にて詠み侍りける 民部卿成範

道の辺の 草の青葉に 駒とめて なほ故郷を かへりみるかな

これはごく普通の歌ではあるが、ひるめの歌を受けて、 自分が馬で旅立っていく立場で詠んだ返歌とも言える。

寄獣恋 為家

駒とめて 宇治より渡る 木幡川 思ひならずと 浮名流すな

成範の歌の続編と見えなくもない。 俺がいない間に浮気するなよ、と。 俊成、定家、為家と親子三代「駒とめて」の歌を詠んでいるからには、 為家には何か思い入れはあっただろう。

「こまとめて」「かげをだに見む」とあるのだから、

駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

の本歌がひるめの歌であるとしてもおかしくはない。「こまとめてしぱし水かへかげをだに見む」と古歌にはあるが、 そのかげさえ無い、という意味かもしれん。 いや、それが案外正解かもしれん。 「かげ」という単語がここで唐突に出てくる理由がそれで説明がつく。 新古今に採られているからには、俊成のお墨付きであるはず。 おそらくは俊成の歌を踏まえて、 佐野の渡し場で船を待つ間、しばし馬を駐めて水を飲ませ、自分は袖に積もった雪を打ち払う、 そんな景色すらない、 ということを言いたかったのではなかろうか。

一緡の青蚨

一緡(いちびん、もしくは、ひとさし)の青蚨(せいふ)、と読む。穴の開いた銅銭に通して百銭、または千文単位で結ぶひもが緡。青蚨とは銭のこと。一緡の青蚨とはつまり、ひとまとめにした銅貨のことを言う、らしい。銭緡(ぜにさし)、銅貨一緡、青蚨半緡などとも。

青蚨は青鳧とも書く。蚨は水棲の虫で蝉に似るという。鳧はケリという鳥。

青蚨がなぜ銅銭なのか。よくわからない。

南方有虫名敦禺、一名則蜀、又名青蚨,形似蝉而稍大,味辛美,可食。

南方に敦禺(とんぐう)、あるいは則蜀(そくしょく)、または青蚨(せいふ)という名の虫がいる。形は蝉に似ているがやや大きい。辛いが美味で、食べられる。

生子必依草叶,大如蚕子。

卵は必ず草の葉に付き、育つと蚕のようになる。

取其子,母即飛来,不以遠近。

その幼虫を取ると、母は遠近にかかわらずすぐに飛んでくる。

雖潜取其子,母必知処。

こっそりその子を取っても、母は必ずどこかわかる。

以母血塗銭八十一文,以子血塗銭八十一文,毎市物,或先用母銭,或先用子銭,皆復飛帰,輪転無已,名曰「青蚨還銭」。

母の血で八十一文の銭に塗り、子の血で八十一文の銭に塗る。市場で売り買いするとき、母の銭から先に使っても、子の銭から先に使っても、皆まだ再び返ってきて、繰り返し終わることがない。そこで「青蚨還銭」という名がついた。

由此,古之銅銭常以「青蚨」或「蚨钱」代指。

そこで「淮南子・万華術」では、昔の銅銭を代わりに「青蚨」或いは「蚨銭」という。

らしいですよ。なぜ81文で束にするのだろう。9×9=81というつもりだろうか。

子母銭ともいうらしい。「青蚨術」。ま、要するに、ただの銅銭ではなくて、一つづりになった銅銭の束、ということであろう。

捜神記というものに書かれているらしい。

原勝郎

足利時代を論ず

足利時代が多くの歴史家からして極めて冷淡な待遇を受け、單に王室の式微なりし時代、將た倫常壞頽の時代とのみ目せられて、甚無造作に片付けられて居つたのは、由來久いことである。

すでに戦前から室町時代はそんなふうに見られていたのかとあきれる。

されば若し此時代に特有なる出來事として、後世の研究者の注意を惹いたものがあるとすれば、それは書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

今の財界人も同じことをいう。司馬遼太郎やドナルド・キーンの発明でもない。

換言すれば足利時代史の眞相といふものが未だ充分に發揮せられて居なかつたと云つてよい。

これまでも室町時代は何度も発見され、何度も誤解され、何度も忘れ去られたのだろう。

史學上久しく荒蕪地となつて居つた足利時代

ひどいな(笑)。そんなひどいかな。ていうか何か独自の発見でもあるのかと思い読んでみたが特に何も書かれてなくてあきれた。

東山時代における一縉紳の生活

将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。

幕府が京都に戻ることにより、世の中も平安時代に戻ったと言っているのである。なんと近視眼的な。

群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。

はたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とはならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。

少しまともなことを言っている。今の時代でも、平成の今より昭和のほうがのどかで犯罪が少なかったなどと本気で信じている老害じいさんがたくさんいるのに比べれば、まともな感覚の持ち主である。ちゃんと統計を取れば、昭和のほうがはるかに犯罪は多かった。明治や江戸時代とさかのぼるほどに多くなるだろう。

約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。

だーかーらー。室町時代が京都が唯一の日本の中心だった時代だと考えるのがそもそも間違いなんだってば。封建社会なのに中央集権なわけないじゃん。

一縉紳とは三条西実隆のことであるらしい。

国枝史郎

いろんな意味でいろいろひどい。

天草四郎の妖術。天草四郎の臨終の言葉がイエスと同じく 「われ渇く」「事畢りぬ」 だったというのだが、作り話にもほどがある。

ヒトラーの健全性。 たわいないとしか言いようがない。 戦中の日本人がみなこんな馬鹿だったとは思えないが、 こういう人はたくさんいたのだろう。

ローマ法王と外交。これも戦中、日独伊三国同盟絡みの話と思われるが、 いろいろつっこみどころがある。

法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行とりおこない、 「汝を神聖ローマ皇帝となす」 と宣言し、その冠を頭上に置き、 「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至ないしは攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。

ローマ皇帝がローマ教皇に戴冠されるというのはカール大帝に始まる権威付けであり、 オットー一世はそれをなぞったのにすぎない。皇帝と教皇は持ちつ持たれつ。つづくグレゴリウス七世とヘンリー四世の破門がどうのこうのと言うのも同じ話。誰が皇帝となり誰が教皇となるか、誰を担ぎだれを蹴落とすか。皇帝を戴冠するのも破門するのも教皇の自由だが、皇帝はその教皇をローマから武力によって追い、或いは枢機卿を味方につけて、自分に都合の良い教皇を立てることができる。複数の皇帝と複数の教皇が権威と武力を駆使して駆け引きをしているというのが実態なのであり、ローマ教皇が神聖ローマ皇帝より偉いというのは全然間違った見方である。

ペーターという狂信家を利用してウルバヌス二世が第一次十字軍を招集した。まあそこまでは良いとして、

私が何故法王ウルバン二世を大外交家であるというかというに、当時の封建武士がこの時代に流行した騎士道に心酔し、兎ともすると法権を侵す態の行動をし英気を他に洩らす術なき脾肉の嘆をかこっていたのを認め、この十字軍の挙によってその英気を宗教戦に洩らさせ、キリスト教興隆に役立てようとしたその点からである。

その観察は明らかに間違っている。確かにウルバヌス二世は第一次十字軍の重要なロールプレイヤーの一人だが、それ以上ではない。十字軍は、少なくとも第一次十字軍は、東ローマが衰退し、相対的にトュルク人とノルマン人の勢力が東欧に伸張したことによって起きた。ただそれだけだ。キリスト教とはほとんど関係ない。その後の十字軍はヨーロッパのキリスト教国の勝手な暴走であったかもしれないが。

ヴイナス戦記

「アリオン」「クルドの星」の続編だというので、気になったのでアマゾンでポチって読んでみたが、あまり面白そうではない。どうも安彦良和が自分で書きたくてかいたストーリーではないと思うんだ。たぶん、アニメ化、映画化するための原作として仕方なく書いた。映画監督になるために自分が原作者になった。そりゃそうだわな、「クルドの星」じゃアニメ化できんわな。それで無理矢理SF仕立てにしたかんじだわ。

アニメは、まあ、良く出来てはいるようだが。だがこれは(CG使ってなかった頃の昭和の)メカの動きが面白いのであり、キャラクターの作画が安彦良和である必然性がほとんどないわな。

やっぱ安彦良和で面白いのは「クルドの星」「王道の狗」「虹色のトロツキー」とか、近代アジア史ものなわけだが。異論はあるだろう(実際ここらが好きだという人を見たことがない)。今連載している(らしい)「麗島夢譚」まで時代をさかのぼるとかなり変な癖が出て、「神武」とかはもう全然つまらない。不思議な人だわな。要するにフィクションが下手な人だと思うんだ。いや、フィクションにする元ネタがフィクションだとめろめろになってだめな人というべきか。フィクションの元ネタが史実だったり近代だったりするとすっと一本筋が通って面白い、というか。「三河物語」もまあまあ面白い。これも大久保彦左衛門という原作者の強い個性がうまく安彦良和を制御できている感じ。「アレクサンドロス」も見たが、これはもう安彦良和自身が言っているように完全な企画倒れ。そう簡単に描けるわけがないんだよな、アレクサンドロスを。老臣パルメニオンを妙に持ち上げていたあたりが少しおもしろい。

巨神ゴーグ。出だしが「Cコート」っぽくて良い(笑)。これぞまさしく純粋な動く安彦良和。つか、「Cコート」アニメ化した方が絶対良いと思う、こんなロボットものより。ロボットじゃないとスポンサー付かないんだなあ。不毛だよな、安彦良和イコールガンダムという発想。まあ入り口はガンダムで良いとして他にいろんなことをやらせてあげれば良かったのに。で、安彦良和も最後は諦めて(開き直って)ガンダムオリジンとか描き始めたのな。全く興味ないがな、ジ・オリジン。

安彦良和は、キャラが命の人なのだが、そこにガンダムテイストのSFを混ぜると、肝心のキャラが死んでしまう。「王道の狗」なんてほんとによくできた話で、架空の人物、加納周助、風間一太郎のコンビはすごく良く出来てるし、実在の陸奥宗光なんかも良くかけてる。「虹色のトロツキー」も主人公の日本人とモンゴル人のハーフのウムボルトや、その他の脇役ジャムツや麗花などの中国人も、よく思いつくもんだと思う。ていうか明らかに私が書いた「特務内親王遼子」なんてのは「虹色のトロツキー」の影響だしな。東洋のマタハリとか(笑)。近代アジア史物はもっと書きたいが、いろいろアレがアレなので書きにくいものはあるわな。

ま、私もいろんなジャンルを書き散らすほうではあるが、安彦良和の統一感のなさははんぱない。

龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

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そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

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材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

漫吟集

契沖の「漫吟集」なんだが、これ読むのはかなり骨が折れる。たまに秀歌が混じるが他は凡作としかいいようがない。数が多くてきちんと分類されているから、読んでいるとだれる。全体的に退屈と言われても仕方ないと思う。

菅の根に 雪は降りつつ 消ぬがうへに 冬をしのぎて 春は来にけり

悪くない。「菅の根の」が「長き」にかかる枕詞だと知っていればすんなりわかる。古今集の

奥山の 菅の根しのぎ 降る雪の 消ぬとかいはむ 恋の繁きに

の本歌取りだわな。

うぐひすも 鳴かぬかぎりの 年のうちに たが許してか 春は来ぬらむ

これもまあ、悪くない。「たが許してか」が珍しい。

宿ごとに いとなみたてし 門松の まつにかならず 春は来にけり

どうやらこれも本歌取りらしい。藤原顕季

門松を いとなみたてる そのほどに 春あけがたに 夜やなりぬらむ

ときどきすごく良いのがある。

ねや近き 葉広がしはに 音立てて あられし降れば 夢ぞやぶるる

「夢ぞやぶるる」が良く効いている。

軒ばなる 蛛のいがきは 知らねども 山の嵐に 夢ぞやふるる

なんとこの正徹の歌の本歌取りらしい。

踏めば消え 消ゆれば摘みて 春の野の 雪も若菜も 残らざりけり

少し面白い。

立ち出でて 涼むそともの 木陰より かへりもあへぬ 夕立の空

木陰で涼んでいたら夕立がふりそのまま雨宿りした。なかなか良い歌。

しづのをが 刈りにし跡の 日だに経ず 一つに茂る 野辺の夏草

「一つに茂る」が面白い。

池の上の 菱の浮き葉も わかぬまで 一つに茂る 庭のよもぎふ

この良経の歌の本歌取りか。

おほかたの 常は水無き 山川も 石さへまろぶ 五月雨の頃

「石さへまろぶ」が斬新。

春雨は 今年のみやは 花散らす 昔をかけて 今日は恨めり
霜の上に 寝るここちして 夏の夜の 床に影しく 月ぞ涼しき
なには潟 堀り江にのぼる ゆふ潮の 限り知らるる 朝氷かな
水のおもに 散りて浮かべる 木の葉より まさりて薄き 朝氷かな
諏訪の海の こなたかなたに あひおもふ あまもこほれば かちよりぞ行く

少し面白い。

続後撰集

続後撰集 だが、西園寺入道前太政大臣というのが西園寺実氏で、単に前太政大臣というのが若死にした九条良経であろうか。この二人は太政大臣だから入選が多いのだろうが、非凡な歌もあるようなので、よく調べてみる必要がある。定家がダントツに多いように見えるが、定家は巻頭・巻末には一つもないのにたいして、俊成はなんと春上巻頭、春中巻末、春下巻末、夏巻末、冬巻末に置かれていて、別格の扱いを受けていると言ってよい。

年のうちに 春たちぬとや 吉野山 かすみかかれる みねのしら雪

これはまあ巻頭歌なんでこんなもんだろうが、

つらきかな などてさくらの のどかなる 春の心に ならはざりけむ
ゆく春は 知らずやいかに 幾かへり 今日のわかれを 惜しみきぬらむ
鳴る滝や 西のかは瀬に みそぎせむ いは越す波も 秋や近きと
なかなかに 昔は今日も 惜しかりき 年やかへると 今は待つかな

そうそう。これが俊成。平明で抒情的で優美。さすがに為家はわかっている。でもなんで「西の川瀬」なんだろう。深い意味はないのか。たまたま滝の下流が西だったのだろうか。てことは東山だろうか(追記。鳴滝とは京都の西、嵐山のことであろう。愛宕山の中腹に鳴滝という地名がある)。

思うに、定家は俊成の子だから、俊成のような素直な歌も割と詠んでいる。為家はわざと父のそういう歌ばかりみつくろったのではなかろうか。たとえば

こころあてに わくともわかじ 梅の花 散りかふ里の 春のあはゆき
あとたえて とはれぬにはの 苔の色も 忘るばかりに 花ぞふりしく
小倉山 しぐるる頃の あさなあさな 昨日はうすき よものもみぢ葉

など。あまり定家らしくない(追記。いや、かなりひねくれていると解釈することもできる)。「見渡せば花も紅葉もなかりけり」とか「駒とめて袖打ち払ふかげもなし」みたいに、ひねくれてもいないしいじけてもないし世をはかなんで落ち込んでもいないし、モノトーンでも幽玄でもない。いわゆる、素直な「優なる姿の歌」である。俊成の歌に似ている。

後鳥羽院ほか、順徳院、土御門院など、承久の乱で流された人たちの歌が多いほか、選者の為家、為家の子の為氏の歌も若干入る。

はる風の ふかぬ世にだに あらませば 心のどかに 花はみてまし

これを入れているのもうれしいよね。これ宇多上皇の歌なんだよね、醍醐天皇に間違われてるけど。

ざっと見ただけだが、センスの良い歌の選び方だと思う。さらに詳しく読んでみる。

家康転封

秀吉が家康を東海道から関八州に転封したのは左遷であるとか、居城を鎌倉や小田原ではなく辺鄙な江戸にしたのも秀吉の指図であるとか、いろいろ言われているわけだ。しかし、頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、日本は近畿と関東の二箇所に拠点を置くのが常態となった。室町時代は足利尊氏の子孫を鎌倉公方とした。近畿は西日本から中部まで、関東は甲信越から奥州までを支配下に置く。

これらの流れでみるとき、秀吉が近畿を、家康が関東を押さえるという二局体制にしようと考えたとすべきである。もし家康に異心があれば、彼を関東に放つのは極めて危険である。関東は常に騒乱の拠点となってきたからだ。であればやはり秀吉は生前ずっと家康を信頼し評価していたとすべきではないか。

家康は戦功があるから、三河・遠江・駿河の三国で足りなければではどうするかというときに、関東をまとめて与えようと考えても不思議ではなく、左遷とは言いがたい。秀吉の狙いは明や朝鮮であっただろうし、関東には苦手意識があったと思う。江戸は上杉氏や後北条氏の頃からすでに関東の要衝となりつつあった。小田原や鎌倉は関東全域を治めるにははずれすぎる。室町時代関東は、西の上杉氏と東の古河公方に分かれて対立した。その最前線に太田道灌が築いたのが江戸城と川越城。その前例がある。つまり、関東全域を治めるには、パワーバランス的に江戸川越のラインに主城を置かねばならぬが、江戸は海に面していて物資を調達しやすい。やはり江戸でなくてはならなかった。世田谷城では内陸すぎる。それらの判断はやはり小田原攻めの最中、石垣城において、秀吉と家康の間でなされたのであろう。

なるほど、近畿と関東の二局分割を解消するために、たとえば愛知とか岐阜に首都をもってこようというアイディアもある。しかし今までそれは一度も歴史上実現しなかった。橋下市長のように大阪都を作って二都態勢にするというのが、結局東京一局集中を回避するための現実策ではなかろうか。

詠歌一体2

詠歌一体の前半部分は単に題詠の作法のようなことをうだうだ述べているだけである。藤原清輔が「和歌一字抄」という、一字題の詠み方について書いているのに対して、「池水半氷」のような長い具体的な題をどう詠むか。題のすべてを詠み込むのでなく全部あるいは一部を連想させるようにするとか。初句や上三句にすべての題を詠み込むのは良くないとか。そんな技巧上の話をしていて、為家の趣味や嗜好とは直接関係ないように思えるが、

からにしき 秋のかたみを たちかへて 春はかすみの ころもでのもり

これは「すべて歌がらもこひねがはず、衣手の森をしいださんと作りたる歌なり」と手厳しい。誰の歌かと調べてみると、明日香井雅経。父定家の親友である(雅経は一時鎌倉に住んだので、源頼家、実朝とも親しい。実朝と定家に交流があるのも雅経のおかげである)。定家と雅経は歌風も近い。どちらかと言えばなんかもやっとした、作った歌を詠む人である。これはやはり遠回しに定家を批判していると言えないだろうか。これに対して次の二首

春がすみ かすみていにし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に

これは古今集に出る詠み人知らず。

ほととぎす 鳴く五月雨に 植ゑし田を 雁がね寒み 秋ぞ暮れぬる

こちらは新古今に載る善滋為政の歌。これら二つは雅経の歌と同様に春と秋を一つの歌に詠み込んでいるが、雅経の歌ほどはわざとらしくないから良い、などと言っている。まあそう言われればそうかもしれない。

善滋為政はよくわからん人だが、幸田露伴連環記によれば、善滋は「かも」と訓み、文章博士・陰陽師の賀茂氏で、父賀茂忠行はおよそ醍醐・村上天皇の頃の人、兄慶滋保胤はこれも名字は「かも」と訓むらしく、道長の頃の人。為政の歌は拾遺集に初出だから、やはり道長よりかすこし前の人ではなかろうか。このあたりの時代背景を調べ出すと切りがないな。

中宮の内におはしましける時、月のあかき夜うたよみ侍りける 善滋為政

九重の 内だにあかき 月影に あれたるやどを 思ひこそやれ

宮中ですらこんなに月が明るい夜は、粗末な我が家などはさらに明かりが漏って明るいですよ、というかなりふざけた歌。

「泉」という題で「木の下水」、鹿を「すがる」、草を「さいたつま」、萩を「鹿鳴草」、蛍を「夏虫」などとわざと変名で詠むのは良くないと。なるほどまったくそのとおり。

名所の地名を詠み込むときには必ず有名な地名にしなさい、ただし、旅で実景を詠む場合にはそれほどこだわる必要は無い。これも素直に同意できる。

百首など定数の歌合で最初のとっかかりとなる歌を「地歌」というらしい。歌合の歌はその場の即興で詠むべきものであり、たとえ秀歌であってもあらかじめ用意しておいてはいけない(どうしても場の雰囲気とは違う内容になってしまうからだろう)が、地歌だけはその性格上、先に詠んでおかなくてはならない。後拾遺の能因の歌

ほととぎす 来鳴かぬよひの しるからば 寝る夜も一夜 あらましものを

このようなものが地歌だという。確かに歌合の即興というよりは巧んだ歌な感じだ。

やはり為家はわざとらしく作った歌が嫌いである。雅経や定家の歌風を嫌っていたはずである。そして小倉百人一首は定家の原型を為家が完成させたというのもなんか違う気がしてきた。小倉百人一首はあきらかに為家の趣味ではない(かといって定家の趣味でもない)。

為家が選んだ「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の傾向を見ればもっとはっきりしてくるはずだ。それでなんとなくだが、小倉百人一首は定家・為家の二代で完成したのではなく、もう少し後の世に、つまり為氏・為世の時代に、なんとなくもやっと成立したのではないかと言う気がする。