文学のレッスン

丸谷才一「文学のレッスン」を読んだ。丸谷才一はもうなくなってしまったが、ものすごい長寿で、死ぬまで執筆活動をしていた幸運な人だ。この本もインタビューという形で2007年頃から始めて2010年に出たものだが、80才をとっくに越えていた。「文学概論」のようなものというのをうたっているが、いろんな作家や作品が羅列されているがその一つ一つについて解説しているわけでなはい。体系的とも言いがたい。エッセイのたぐいというべきだろう。

短編小説のことをスケッチと言うと書いてある。私も「川越素描 (a sketch of kawagoe)」というのを書いた。しかし私の書いたものの中では「川越素描」は一番の長編と言ってよい。長編だけど普通の長編小説みたいな構成にはなってない。千一夜物語のようなつもりで書いたもので、その個々の要素は素描にすぎない、と言いたいわけである。長編小説というのは今で言えば指輪物語やハリーポッターみたいなのを言うのだろう。どちらもイギリス人の作家だ。丸谷才一もフランスは短編、イギリスは長編が発達したと言っている。なるほどなと思う。ましかし、フランスでも「レ・ミゼラブル」やスタンダールなんかは長編だわな。私はたぶん、長編を書こうとしても書けないんだと思う。書こうとすると「川越素描」や「司書夢譚」のような短編を束ねたようなものになるか、束ねきれずに「エウドキア」「ロジェール」のような中編小説の集合体のようなものになってしまうだろう。書こうとしたけど書けなかったというのは一つの成果だと思う。

丸谷才一はモーパッサンは短編(どの作品がとは言ってない。脂肪の塊や女の一生は明らかに短編ではない)、永井荷風の「墨東綺譚」を中編と言っていて、私にしてみるとどちらも短編のような気がするが、気分としてはたしかにモーパッサンは短編であり永井荷風は中編の人な気がする。志賀直哉がスケッチがうまいというのは分かる気がする。「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」「剃刀」「万暦赤絵」・・・。

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「太平記」という歴史物語が日本の国運を左右したというのが僕の前々からの説なんだけれども、「太平記」というのは、怨霊がいかに世の中を乱すか、要するに後醍醐天皇や楠木正成の怨霊が怖いという話ですよね。それを読んだ人たち、階層的にいうと一番上の徳川光圀や頼山陽から、「太平記読み」の講釈を聞いた庶民まで、みんなそろって正成は偉いし南朝は尊い、彼らの怨霊は怖いから大事に祀らなくちゃね、そういうイデオロギーを持っていた。

丸谷才一は戦後民主主義の文化人で、太平記とか頼山陽とか徳川光圀とか本居宣長などを徹底的に抹殺しなきゃならないと考えていた一人だ。むろん現代的な意味において太平記や日本外史や大日本史や古事記伝などはナイーブで脚色されているわけだが、それを言うなら源氏物語だって平家物語だってそうだ。太平記のせいにして議論を終わらせるのは単なる思考停止にすぎぬ。

南北朝や室町時代は難解だが非常に重要な時代である。それがわからんから降参しますというのが嫌で全部太平記のせいにする。太平記に影響を受けたであろう徳川光圀や頼山陽のせいにしようとする。それではだめだ。南北朝がわからねば天皇はわからん。南北朝がわかってる日本人がどれほどいるか。だから日本人のほとんどは天皇とは何かがわかってない。天武天皇や天智天皇とか古代の天皇のことをいくら学んでも天皇のことはわからん。藤原、北条、足利、徳川がどのように天皇を利用してきたかということがわからんと天皇はわからん。天皇がわからんというのは南北朝がわからんというのとだいたい同じだと私は思う。太平記のせいにしないでほしい。

和歌の詠み方

和歌の詠み方に関するメモ というものを読んだ。 なるほど確かによくまとめてある。 だが一方で、これでは結局現代人が歌を詠もうと思って詠めるようにはならんと思う。 頭でっかちになるだけで、今の時代を生きる自分が、どのような歌を詠めばよいのかという指針にならない。 これはどちらかと言えば和歌の詠み方というよりは和歌の鑑賞の仕方というべきだろう。 実際に和歌を詠まない人が古典的な和歌を鑑賞するにあたり、 知っておくべき歌論というのにすぎない。 歌論を知った上で歌人は実際に自分の歌を詠まねばならぬ。

戦後和歌はあまりにも変わってしまった。 現代短歌と古典的な和歌は別物といってよいほど違う。 まず、自分は、現代短歌を詠みたいのか。それとも古典的な和歌を詠みたいのか。 その選択をしなくてはならない。 現代短歌にも良いものはある。 たとえば俵万智を評価しないわけにはいかない。 私も俵万智には大いに影響されたが、しかし、結局はそこから離れた。 現代短歌を詠みたい人は詠めば良い。

で、古典文法に則った古典的和歌を詠みたいのだと覚悟を決めたとしたら、 アララギ派(万葉調)が好きなのか、 それとも桂園派(古今調)が好きなのか、 どちらかを選択しなくてはならない。

和歌とはまず第一にやまと歌である。 古典的な大和言葉で詠むものがやまと歌である。 五七五七七の定型詩を和歌ということはできない。 それは必要条件に過ぎない。 古い言葉を用いて新しい心を詠むのがやまと歌である。 敷島の道である。 和歌を詠むということは、歌道というものは、国学の一部である。 国学を学ぶ気がないのなら最初から和歌など詠まない方がよい。 国学の要素がほとんど完全に欠落しているのが現代短歌である (左翼は国学が嫌いだ)。 国学を尊重していてもアララギ派には古今調がよくわかってない正岡子規みたいなやつが多いので要注意だ。

では古ければ古いほどよいのかとか、中世や近世の言葉がよいのかというと、 そのどちらもよくない。 古典的な大和言葉が一番充実し厚みがあるのは源氏物語が成立した時代である。 古今と新古今の間だが、どちらかと言えば古今に近い。 韻文も散文もこの源氏物語の時代が一番用例が多く、完成度が高い。 用例が多い、つまり、サンプリング数が多い、ということは非常に重要である。 言語というものは曖昧だが、用例が多ければ、正しい用法を確定できる。 奈良調以前の言語ではそれが難しい。 あまり古すぎる言葉を無造作に使うのは危ない。

我々は古典語の基準をこの平安朝中期に求めるべきである、と私は思う。 この時代にも奈良時代の言葉遣いが残存している。 そのある種のものは不協和音になるので、使わないほうがよい。 奈良時代と平安時代ではすでに母音や子音などが変化しているので、 文法的にも無理のある言葉(特に助詞や助動詞)が少なくない。私が万葉調を敬遠するのはまず第一にこの平安朝の言葉遣いとの不整合にある。

奈良朝の言葉と平安朝の言葉を完全に分離して操れる人だけが、つまり、奈良朝の和歌を完全に再現できる人だけが万葉調で歌を詠む資格がある。しかし万葉調を好む人というのは往々にして見境無くいろんな時代の言葉を混ぜ合わせ、それだけでは飽き足らず、自分で勝手に新しい言葉を造ったりする。そのだらしなさ、無節操さが気持ち悪いのだ。新しい言葉を造ることは凡人には無理である。なぜ無理かがわからぬから凡人なのだ。

たとえば、助動詞は、 なんでもかんでも「り」を使うのではなく、 状況に応じて「ぬ」「つ」「たり」を使い分けるべきであり、 それが平安朝の大和言葉というものだ。 平安朝の助詞や助動詞をうまく使いこなすということは極めて重要だ。 俳句にはそれがない。というのは、俳句は体言の配列によってできていて、 用言の組み合わせに無頓着だからだ。
正岡子規もそこがよくわかってない。 なんでもかんでも「り」を使うのは例えば文語訳の聖書などがそうだ。 もし「ぬ」「つ」などをうまく使いこなしていたらもっと王朝文学のような訳になっていただろう。

釈教歌などでは古くから漢語も容認されていた。 外来語は絶対和歌に使ってはならない、とは言わない。 しかし普通は使わない。 純血主義というのとも少し違う。 平安朝の口語との相性が悪いからだとしか言いようがない。

では平安朝の言葉を用いて五七五七七の定型で詠めば和歌かと言えばこれも違う。 春夏秋冬花鳥風月を詠めば和歌かと言えばそれも違う。 情と詞と体に書いた通りなので繰り返さないが、 今まで歌に詠まれたことのないような心情を敢えて古い詞で言い表すのが和歌である、 と私は思う。 古い心を古い言葉で歌ったり、 新しい心を新しい言葉で歌うのは和歌ではない(それを現代短歌だと言ってもよい)。 たとえば新しい心を現代語で歌うには私は都々逸が比較的適していると考えている。

平安朝に日常的に使われていた言語に対するリスペクトがなければ和歌は詠めぬ。 赤染衛門の歌が非常に役に立つ。 当時の俗語を使って、極めて俗物的な歌を詠んだのが赤染衛門であるが、 彼女の歌にはまれにたまたま風雅な歌が混じっていた。 ただの偶然だろう。 浪速のおばちゃんでもたまにどきっとするようなうまいことを言うことがあるようなものだ。 少し時代が下るが、俊成や定家は言葉を巧まずにうまい歌を詠む人だった。 参考になる。

現代語で現代の心を詠んだってそれは普通だ。 あえて古語で現代の心を詠むからそれは和歌となるのだ。 そのためには当時の言葉で自然に歌を詠んだ人たちの詠み方にひたすらなじむのがよい。 それが風体というものだ。 ひたすら赤染衛門や西行や俊成の歌を学ぶ。 そのうちふと巧まずにそういう歌が詠めれば完成である。

歌を詠もうと思うと歌は詠めない。 まず何かに心が動かねばならない。 つまりは写生だ。 実体験、実景に基づかない歌はすなわち自分の頭の中から出てきたものであり、 限られた狭い世界から無理矢理こしらえたものであり、たいていつまらない。 外の世界の方がずっと情報量が多くて意外性があり、新しい発見があり、 新しい可能性がある。 心が動いたらそれをなんとかして歌という形に整えてみる。 それが詠歌というものだ。

鎌倉時代や室町時代ともなると、すでに、 みな大和言葉を自然に話すことも、和歌を自然に詠むこともできなくなっていた。 すでに大和言葉は古典語になっていたからだ。 このころの和歌を見るとどれも詠み手の苦心がにじんでいる。 だからこそ、たとえば江戸時代に巧みに古語で歌を詠む人はさすがにひと味違う。 上田秋成などは実に巧みだった。 要するに、国学者でなくては歌は詠めないのであり、 ただ学問好きなのではなく感動することのできる心と表現力がなくては歌は詠めぬ。 本物の国学者だけがその苦心のあとを残さず、 まるで平安時代の庶民が現代にタイムスリップしたかのような自然な和歌が詠めるのである。

日常語から離れて古典語で歌を詠むのは難しい。 美しいと自分が思ってないことを美しいと歌に詠むのは歌では無い。 そんなものはすぐにばれる。 感動の少ない人、というより、感動というものを誤解している人には歌は詠めぬ。 美しいと思ったことをそのまま言葉に表すのではなく、 定型の古典語に翻訳してみるのが和歌だ。

安積

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。

安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

極めて古い歌である。

安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國
右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日

この葛城王とは橘諸兄のことであるという。 聖武天皇の時代。 ほかにも、古今集に

みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ

とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。 芭蕉の奥の細道で有名。

伊勢物語の

みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

これも相当な古歌であろう。安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。

みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ

みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも

弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。「反る」は「せる」。安達も信夫も安積もほとんど同じところ。

これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、 聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。 白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、 安積や信夫はすでに前線基地というよりはそれより後方の兵站基地であったろう。 このみちのく征伐に常陸や下野の関東武士が動員されたのは当然あり得ることである。 将軍クラスは大和の人たちであり、和歌くらいは詠めたのに違いない。

上記の歌は本来はえぞみちのくという外征先から大和にもたらされた音信のようなものであっただろう。 光孝天皇によって平安朝に和歌が復活した以後には単に歌枕となってしまい、 実景を詠む人はいなくなってしまった。 いたとしても頼朝くらいだが、 頼朝は自分で白河の関を越えてはいない。

西行は信夫佐藤氏であろうとされている。 佐藤は藤原氏である。 関東や陸奥の藤原氏はみな藤原秀郷の子孫を称するが、 秀郷は下野の人である。 下野を拠点とした藤原氏が朝廷の外征に従って、 白河の関を越えて安達、安積、信夫と勢力を広げていった、 と考えられる。

西行は二度も京都からみちのくに下っているのだが、単なる郷愁であったのか。 それとも何かの仕事か。 二度目は東大寺の大仏が焼けたので平泉に大仏を再建するための金を勧請に行ったのだという。 しかしこのころ安達・安積・信夫は奥州藤原氏の支配であって、 頼朝とは白河の関で対峙し、京都とつながり、義経を匿っていた。 頼朝は藤原氏によって背後をうかがわれていたのである。 結局頼朝と京都は和解し、孤立した奥州は頼朝に討たれてしまう。

西行は奥州藤原氏に連なる人なのだが、 頼朝はよく彼を通したと思う。 西行は明らかに頼朝の敵である。 西行が京都・頼朝連合側の間諜だった可能性もあるかもしれん。

美知乃久能みちのくの 安太多良末由美あだたらまゆみ 波自伎於伎弖はじきおきて 西良思馬伎那婆せらしめきなば 都良波可馬可毛つらはかめかも

弓の弦をはずしてそらしっぱなしにしておくと弦が付けられなくなるよ、 あまりほったらかしておくと、元の仲に戻れないよ、という意味。 安達太良真弓は非常に強い弓であったとされる。 「めかも」は反実仮想だわな。

夢

ウィキペディア「夢」 にも、

夢を見る理由については現在のところ不明である。

などと書かれているのだが、どうも夢というのは、外部からの感覚が遮断された状態の脳の活動そのものではないか。私たちは夢というものを寝ている間に見る不思議な演劇のようなものだと考えがちだ。

睡眠というものは、脳を休ませるためのものというよりも、身体や、視覚や聴覚などの感覚器官を休ませるものだとしよう。眠ると脳は感覚が遮断される。脳もまた眠るが、身体よりも先に脳は目を覚ましてしまう。外部からの刺激がまったくない状態の脳は幻覚を見る。それが夢である。

外界を見たり、音を聞いたり、他人と話をしたり、食事をしたりすることによって、脳は情報を得て、外界や他者に対して反応しなくてはならない。外から得られるバイアスによって人は、いや、動物というものは、正常に行動できる。というよりも、バイアスのもとに行動が最適化されるように進化し、淘汰されている。外界からの刺激がない場合の脳の働きは定義されてない(する必要がない)から、幻覚となり、夢となる。

人も動物も無重力ではうまく動き回ることができないが、重力下では歩いたり座ったり寝転んだりすることができる。それと同じだ。凧は糸が切れると制御不能になる。糸というバイアスがあるからこそ凧は安定して浮かんでいられる。

外界からの刺激がない状態では脳はうまく動くことができず、浮遊し、くるくる回って飛んでいってしまう。それが夢なのだ。動物の見る夢もそれで説明つくのではないか。

つまり、人工知能とか人工の自我とか、自我エンジン、意識エンジンというものが発明されたとしよう。外部からの刺激がまったく無い状態で、それはただ空回りするしかない。
それが夢だ。逆に言えば、人工知能を作りたければまず無入力状態で夢を見る機能を持たせなければならない。そこに外部から刺激を与えることによって反応するように仕込む。意識というものはただそれだけなのではないか。夢にも、それ以上の意味もそれ以下の意味もないのではないか。だから、クラウドの中に人工知能だけが存在していても役に立たない。それはただクラウドの中を浮遊しているだけだ。人工知能は個体の中に入れてやり、目を付け耳を付け手足を付けて、自己存続のモチベーションを与えてやらないと、知能として成立しないのではないか。

で、夢というものがそういうものだとして、では夢から小説のネタができるか。うーん。場合によっては偶然できるかもしれない。

ある種の薬物は感覚を狂わせたり遮断したりするのかもしれない。だから脳は幻覚を見る。脳が麻痺したり興奮したりするから幻覚を見るのではないのかもしれない。脳とはもともとそうしたものなのだ。

釣月耕雲と禁葷食

相変わらず「山居」が良く読まれているのだが、 それでいろいろ人とも話をしてみて、
果たして道元は魚を釣って食ったのか、ということを、 もすこし突き詰めて考えてみる必要があるなと思った。

道元の時代、親鸞も日蓮も末法無戒を主張し、肉食を禁じなかった。 一休も、また、済顛も肉を食べた。 道元だけがどうして食べなかったと言えるだろうか。 我々は道元を今の永平寺のイメージでとらえるから、肉など食べたはずがないと思う。 しかし、当時中国でも日本でも、 僧侶が肉を食べてはいけないという規範はなかったのではなかろうか。

どうもwikipediaの禁葷食 など読むと、 中国仏教における菜食主義というのは、道教の影響によるものではないか。 というのは、肉だけでなく、ニンニクやニラなどの臭みの強い植物を食べないというのは、 中国の神仙思想から来ているように思えるからである。 カレーとスパイスの国インドでニンニクを食べないはずがない。

宋の時代には新仏教のようなものが生まれただろう。 日本にだけ新たに鎌倉仏教が出てきたのでなく宋の影響。 インドから伝来したナイーブな大乗仏教と中国古来の道教が習合して、 独自の中国仏教というものが出来てきた。 私は武漢の五百羅漢寺というところで精進料理を食べたことがあるのだが (寺の中にわざわざ観光客向けのレストランがある)、 あの、野菜を使って卵や肉にそっくりの食材を作るというのはやはり道教的発想であり、 中国の寺というのは孔子廟のような廟堂と極めて雰囲気が似ていると思う。 ともかくそういう中国土着の信仰と混淆した仏教を刷新して、 仏陀の教義の本質に迫ろうとしたのが当時の新しい仏教であったはずで、 その祖を達磨に求め禅宗という形で現れてきたはずであり、 そのリーダーシップを取ったのが臨済や済顛らの「風狂」な禅僧たちであり、 道元は曹洞宗だけども、やはり臨済らの影響を受けたはずだ。 日蓮や親鸞や法然もそういう新しい仏教の影響を受けたはずだ。 そして禅宗は中国では廃れてなくなってしまい、 今の中国の仏教を観察してもそのような痕跡はないのである。 曹洞宗や臨済宗というものがもともとどんなものだったかは実はよくわからんとしか言いようがないのではないか。 日本は中国の文化が無くなってからも何百年も残るところだから、 むしろ日本の禅宗を見た方が当時の中国の雰囲気はわかるかもしれん。原始仏教でももともと肉食は禁じられておらず、
インド土着の宗派の多くが菜食主義に固執したのに対して、仏教は中庸を唱えた。

ただまあ釣りというのは直接的な殺生に相当するから道元がそこまでやったとは考えにくい。 そもそも「釣月耕雲」とは道元ではなく済顛の言葉なのだから。 「釣」を「鈎(かぎ)」と見て、 「鈎月」は月夜に刈り取りをすること、 「耕雲」は山上の畑を耕すこと、かと解釈してみたこともあるのだが、 済顛の詩にはっきり「釣月」とあるからにはもともと 「川面に浮かぶ月影を釣る」「月夜に魚を釣る」という意味だったとしかいいようがない。

そもそも道元が済顛のような「瘋癲漢」の詩からこのような文言を引用したこと自体が問題である。 道元は済顛を尊敬していたとしか思えない。 そう思って読むと、 「山居」の詩のそれ以外の部分はごく普通な日本人が作りそうな詩文である。 「釣月耕雲」だけが異様な雰囲気を持っている。

済顛は中国では日本の一休さんのようにテレビドラマ化されてけっこうな評判らしい。でまあ、私のブログで良く読まれているのが臨済関連の「裏柳生口伝」と済顛関連の「山居」なのは単なる偶然ではないのかもしれん。誰なんだ読みに来ているのは(どうも中国から来ているのではないか。最近中国語のスパム多いし)。

ちなみに私が書いた「超ヒモ理論」はよく知られてないと思うが仏教小説なので、ついでに宣伝しておく。

ところで臨済という人は、 というか臨済の知り合いの禅宗の僧侶たちはみなやたらと人を殴ったらしいのだが、 それが今の禅宗では、座禅を組んでるときの警策となったのか。 警策自体は江戸時代以来らしいが、 それより前はもっと厳しい体罰があったかもしれんじゃないか。 そもそも僧兵を武装解除したのは信長だしな。


追記。wikipedia を読んでも禁葷食のことはさっぱりわからない。改めてAIにも聞いてみた。思うに、wikipedia はもう時代遅れだ。AI を導入すべき時代が来ている。

京都巡り

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旅行に出かけて寺や神社に詣でるときには、
寺では鐘楼を、
神社では舞殿を撮るようにしている。
鐘楼を撮るのは「巨鐘を撞く者」を書いたからであるし、
舞殿を撮るのは「将軍放浪記」を書いたからである。

[鐘](/?p=12653)については以前も書いた。
上の写真は相国寺の鐘楼だ。
相国寺の近所に一泊した。
特に新しいとか珍しいものではなさそうだ。
相国寺は金閣寺や銀閣寺の総本山らしい。


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この写真は上賀茂神社の摂社の新宮神社というもので、
たまたま第二日曜日に参拝したので中まで見れたのである。
なかなか一般人が見る機会はないと思うが、
舞殿なのか拝殿なのかよくわからん。
というか、本殿があってそのそばに拝殿が作られ、
拝殿が舞殿としても機能するというのが古くからの使われ方だったと思う。

舞殿は、もともとは四本の柱で囲って〆縄をめぐらすものであったはずだ。
薪能の舞台もそうなっているし、相撲の土俵も古くはそうなっていたはずである。
石清水八幡宮で奉納される舞楽は今もそのようになっているようである。

したがって舞殿の柱は四隅に四本あるのが正しいのだということを、
これも以前[舞殿](/?p=12046)というのに書いた。
なぜそこにこだわるかというと頼朝、政子そして鎌倉武士らに囲まれて静御前が舞を舞ったのは、
鶴岡八幡宮の回廊の真ん中に設置された、
四隅に柱を立ててしめ縄を引き回した一種の結界であったはずだと思うからだ。
それが舞殿の原点であるはずだ。

本殿は神の依り代であり、
人にとっては神の表象である。
神の依り代はかつては自然そのものであり、人の手によるものではなかった。
後に鏡などがご神体というアイコンとなり、本殿に納められた。
上賀茂神社では神山が、後にはそれを模した砂の山が神のアイコンであり、
社殿ができたのはずっと後のことである。
といってもその社殿の創建も奈良時代のことであるという。

拝殿は神に対面する人間のための結界なのである。
結界に入って神に対面する人は当然貴人である。
貴人というのはつまり特に選ばれて潔斎したものという意味である。
そして拝殿に神遊びする貴人の姿を周りの一般人が眺めるから拝殿は舞殿ともなるのだ。
本殿と拝殿がこのように位置しているのが本来の姿なのではなかろうか。
舞殿はしばしば参道のど真ん中に本殿を遮るように建てられている。
我々はしばしば舞殿を迂回して本殿に進まねばならぬ。
本殿、拝殿、舞殿が直列に分裂してしまったからである。
社殿や伽藍建築が次第に宗教的な権威となってしまった。
いずれにしても「本殿を拝む」とか「本殿が依り代」という感覚は本来おかしいわけである。
将軍放浪記冒頭、

> 段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。

結局人間中心に考えれば、神社の中心は舞殿なのである。
それほど重要なものだからあのようにわざと邪魔なところにあるのだ。

この新宮神社の拝殿がまさに四本柱なので私はうれしくなったのだ。
しかも、四本では強度が不足するためにか、柱に添え木がついている。
面白い。

上賀茂神社は平安京遷都前からある由緒のあるもので、
京都が世界遺産になる理由の一つともなったのだが、
北のはずれにあるせいか観光客はほとんどいない。
ていうか、上賀茂・下鴨神社だけでなく、八坂神社、上御霊神社、下御霊神社、平安神宮など、
神社はいずれも修学旅行の定番ルートから外れているのだが、
いったいどういうわけなのだろうか。
そういや京都御苑もルートから外れているわな。
あ、北野天満宮はかろうじて入るのか、修学旅行だけにな。
今回はたまたま気が向いて清水寺にも行こうかとしたのだが、
あんなひどいところはない。
五条からの参道は狭くて車が多いし、
建物も江戸時代のものなのに国宝になっている。
見た目が京都っぽいってことだろうか。
京都七不思議の一つにすべきだ。
上賀茂神社などにお詣りしたほうがずっと気持ち良いはずだが、
逆に中学生や高校生がわらわらたかってないほうが良いともいえる。
実際ああいう連中は太秦の映画村あたりに連れまわして、
京都御苑や上賀茂神社からは隔離したほうが良いとはいえるのだが、
教育効果的にはどうかと思う。

上賀茂神社は日曜日だからか、のんびり結婚式などやっていた。

銀閣寺にも行ったが、ここも参道も中もかなりひどい。
しかし建物はよかった。
義政の時代のものが珍しく残っていて地味だが面白い。


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これはどこで撮ったのだったか。
たぶん下鴨神社に隣接するなんとかという末社だったと思うが、
やはり柱は四本のみ。


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三十三間堂には今まであまり興味がなかったのだが、
「西行秘伝」を書いたので見に行った。
法住寺。
すごいなこれは。
清盛が後白河に建ててやったものだが、
京都にはこういう平安時代の建築は案外残っていないものだ。
他に何かあっただろうか。
まったく思いつかない。
後白河が大喜びしているのに息子の二条天皇が落成式に来なかったのでがっかりしたという逸話を思い出す。


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中は撮影できないから外だけ写したが、
ここで矢通しをしたわけだ。
不思議なことをしたものである。
西行の時代に通し矢があったかどうか。
たぶんなかっただろう。


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寺町通の三嶋屋というところですき焼きを食べたのだが、
ランチだったが、ずいぶん散財した。
よくよく考えると京都はすき焼き発祥の地ではない。
牛肉を食うのは横浜が先だし、
それよりか前は両国広小路でももんじ屋というのが鹿や猪などの肉を食わせたはずなのだ。
だからわざわざ京都ですき焼きを食う必要はなかった。
上野のガード下でもつ焼きでも食ったほうが正統な気もするのだが、
なんか京都的大正ロマンみたいなものを満喫できたので良かったということにしておく。
両国広小路のことは成島柳北を主人公とした「江都哀史」というものを書こうとしていろいろ調べた。
そのことは「川越素描」にちょっとだけ出てくる。
いずれほんとに書いてみたいとは思ってる。


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ついでにどうでも良いことだが、
鴨長明の方丈というのが下鴨神社の隣の河合神社にあったので、
めずらしくて撮影した。
鴨氏というのは平安京遷都前から鴨川流域、つまり京都盆地に住んでいた豪族だろう。
鴨長明はその子孫だからこんなところに家が復元されているわけである。
河合とは賀茂川と高野川が合流する地点だからそういう名なのだろう。


皇統の正統性

状況証拠的に見ると大化の改新というものはなかった、と言って良いだろう。中大兄皇子と中臣鎌足が謀り、皇位簒奪をもくろんだ蘇我氏を滅ぼしたことになっている。

皇族と蘇我氏の間で紛争があって、蘇我氏が排除され、孝徳天皇が即位した、という以上の意味はないと思う。

大化の改新は、天武天皇のもとで最初の太政官となった藤原不比等の創作であろう。私が思いついたというより、wikipediaに挙げられている説の中で、私が一番もっともらしいと思うものである。

なんと言えばよかろうか。皇族というか、天皇家というか、王家といおうか。おそらく、天武天皇までは、日本の王というのは、抜き身の武力に基づく勝者以外の何物でもなかっただろう。強い者が王となる。強い一族が王家となる。日本で一番金をもって土地をもったものが王となる。それがなんとなく天照大神の時代までさかのぼることができるが、連綿と続いてきたものなのか、いろんな断続があったものなのか、確かな記録がなくてよくわからない。ただまあ継体天皇以後はだいたい続いているらしい、ということがわかるだけだ。

藤原不比等は、皇統というものをコントロールして、自らを天皇の第一の臣下と位置づけることによって、大陸から輸入した舶来文明を模倣することによって、自分の一族を安定にすることを発明した最初の人だったはずだ。藤原氏が天皇家に対して行ってきたことは結局はそれだ。つまり、万世一系とか皇統というものは、藤原氏によって初めて創作されたのである。天皇が自らそう主張したというよりも、藤原氏が天皇家と外戚関係を結んで自分の地位を確立するために皇統というものを必要としたのである。

力が強いものが天皇になれば良いのならば外戚なんて無意味だ。皇統と外戚は同時にできた。外戚を藤原氏が独占したから他の氏族は枯死してしまった。というより、藤原氏が一族を挙げて守った皇子が皇統ということになってしまう。それ以外の皇子やそれ以外の氏族は死んでしまう。それだけ藤原氏の一族の結束は強かった。当時、政治的に結束できる一族は藤原氏以外いなかった。天皇家にも藤原氏以外の氏族にも、そんな強固な団結なんてものはまるで見られなかった。藤原氏以外の王家や氏族はみな砂のようにばらばらだった。藤原氏に匹敵する結束というものは、のちに在郷武士の間から芽生えてくる。

王家だけを他の氏族より突出させるというマジックを演出したのは藤原氏であった。天皇家はこの時代そんな器用なことはできない。とにかくやたらとたくさん妃を持ってたくさん皇子や皇女を生ませた。皇子は父親に似てみな遊び人でやはりたくさん妃をもってたくさん皇子や皇女を生ませた。まさにカオス。源氏物語の光源氏をみよ。嵯峨天皇や文徳天皇や清和天皇や陽成天皇らの皇子たちを見よ。天皇家が子孫を自分でコントロールできるようになったのは白河天皇になってから。白河天皇は皇太子以外の皇子をみんな出家させてしまう。法親王というやつ。法親王は一生独身。彼一人多少贅沢したところでたかが知れている。皇室財産は自然と本家に集約し、分家は消滅する。皇太子が誰を妃とするかもコントロールできる。つまり外戚をコントロールできる。白河院は天皇家の長老として完全に一家をコントロールする。気づいてみれば当たり前のことだ。なんだ自分でやればできるんじゃないの、ってことは白河天皇になってからで、それ以前はそんな当たり前なことすらやってなかった。

ともかく、奈良平安時代に、外戚と皇統をリンクさせて臣下として権力を握るってことを明確に意識していたのは藤原氏だけだった。天皇家すらそんなことは考えすらしなかった。だから、皇子たちは一致団結することなく、藤原氏によって各個撃破されてしまった。

天武天皇は戦争ばかりやっている人だった。嵯峨天皇はやたらと皇族を増やして分家を作った。清和天皇もかなりむちゃくちゃだ。陽成天皇までの天皇というのは、ただ日本の王様というだけであり、何か具体的に世の中を治めたり、王位継承や皇統というものをコントロールしたという形跡がない。王位継承に介入し、王位というものに権威付けをしたのはもっぱら藤原氏である。

天皇家の皇統に着目して藤原氏がその外戚となって権力をふるったのではない。藤原氏が皇統を発明したのである。その戦略は嵯峨天皇の皇統に介入した藤原冬嗣、その子の良房、その養子の基経らによって確立された。つまり摂関政治というやつだ。藤原氏は天皇家を搾取しつつ、天皇家にとって変わることはしなかった。そのかわり一族を挙げて自分らと血縁関係のある皇子を守り、それ以外の皇子を排除した。そうして実利を得た。この構図はおおよそ道長の時代まで続いた。

白河院はおそらく藤原氏を観察した結果、皇統というものを天皇家が自分で管理すれば藤原氏要らなくね?ということに皇族で初めて気がついた人だっただろう。このとき初めて自分の一家は自分で制御しなくちゃならないという意識が天皇家に生まれたのだ。つまり天皇家は皇統とはどうあるべきかということを外戚の藤原氏から学んだということになる。

それ以前の宇多上皇は白河院ほどではなかったにしろある程度その必要性には気づいていたと思う。宇多上皇は自分の皇子の醍醐天皇に確実に皇位を伝えるために生前に譲位した。平城天皇や嵯峨天皇も上皇になったのだが、そのことをわかってやったのかどうかよくわからない(皇統は決して安定せずコントロールもできてなかったから)。後三条天皇や二条天皇も、取り巻きの下級公卿と組んで藤原氏を排除し、中央集権を目指した形跡がある。この二人は名君であった可能性もあるがその治世はあまりに短すぎた。

藤原氏の次に皇統を管理しようとした臣下は北条氏だった。北条氏は三種の神器に皇位の正統性があると主張した最初である。そんなことは藤原氏は発明してない。藤原氏にとって自分たちの権力の正統性とは、先祖の中臣鎌足と天智天皇が起こした大化の改新というもの、藤原が天皇家の外戚であること、皇統は大事ですよということ、ただそれだけだ。そして藤原氏は自分たちが拠って立つところの大化の改新なるものが、まったくの虚構であることも十分承知していたはずである。

北条氏はこんどは三種の神器という虚構を創作して、仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てた。今度もまた、皇統というものをコントロールし、皇統のルール付けをしたのは臣下の北条氏であった。天皇もしくは上皇による宣旨以外に、神器の正統性というものが北条氏によって追加されたのである。当時の天皇や上皇が神器は大事だよ、なんて言うはずがない。後白河法皇は神器など無視して後鳥羽天皇を立てたではないか。だが、北条氏にしてやられた天皇は、今度は神器を逆手にとって北条氏に楯突いた。俺は神器を持ってるし譲位もしないよと言ったのは後醍醐天皇である。いや、おそらくはそのブレインであった北畠親房である。神器に権威が生まれたのは北条氏と北畠親房のせいだ。そして神皇正統記は親房のプロパガンダだ。北条氏は自分が作った虚構に縛られて滅亡した。

次に皇統のルールを書き換えようとしたのは足利尊氏である。尊氏は後醍醐天皇から没収した三種の神器の権威によって北朝第一代光厳天皇を立てる。ここまでは北条氏と同じである。北畠親房も困った。権威の源泉と自ら認めた神器をとられちゃったんだから。神皇正統記にもそのへんのことはしどろもどろ。「神器?神器にも権威はあるよ、もちろん」みたいな書き方をしている。

その後、神器は南朝に奪われ、上皇も天皇もみな南朝に連れ去られた。尊氏は、北朝第四代後光厳天皇を、神器もなく、天皇もしくは上皇による宣旨もなしに即位させたのである。廷臣に擁立されて即位した継体天皇の先例に倣う、という理屈しか付けられなかった。説得力ゼロ。いくらなんでも、継体天皇の前例持ち出されても誰も納得しない。このことが北朝にとっては致命的な痛手となる。

北朝第六代後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器と皇位を譲られる。これによって南北朝の合一はなったのであるが、北朝第四代後光厳天皇と第五代後円融天皇には皇統の正統性がない。このことは明治になって蒸し返されて、北朝ではなく南朝が正統であるとされた。北朝すべてに正統性がなかったというよりも、後光厳と後円融に正統性がなかったというべきだ。

ここで勘違いして欲しくないのは、国権というものをマネージメントしていくために皇統というものが必要とされたのであり、万世一系の皇統から国権が派生したのではないということである。国権とは日本の政治的権限の中心をどこにどういう形で定めるかということであり、そのために皇統というものが長い年月をかけてじっくりと形成されてきたのである。イングランド王の王位継承ルールが異様に複雑なのは、イングランド王国の国権がどのように継承されていくかを明確に定める必要があったからである。ルールが不確かだとすぐに国王が複数立って継承戦争がおきてしまう。血統が大切なのではない。継承戦争が起きないようにするために血統がその根拠とされたのである。欧州の継承戦争を良く学ぶと良い。南北朝の騒乱を良く学ぶと良い。そうすれば血統がなぜ重要かわかる。他にとって代わる土地相続の方法論が、当時はなかったのだ。欧州ではキリスト教というファンタジーが血縁をオーバーライドしてくれたがその実効性にも限度があった。ヨーロッパ人もそこまで信心深くもなかった。他にはもう切り札はない。

藤原氏によって王家から大臣や官僚というものが分離され、北条氏によって皇統というものが「血の通わぬ」神器というアイコンに移された。要は、天皇の歴史とは、武家の歴史とは、皇位継承というものが王族の恣意によるものから、政治権力に関わるもの全体のパワーバランスと、合議と、客観的な手続きに移行していくという、至極当然な過程なのだ。

国権に皇統なんて必要ないと言ったとたんに日本の歴史は天智天皇や天武天皇より前にさかのぼってしまう。奈良平安時代に営々と築き上げた王朝の伝統はすべてご破算になる。
強いやつが自分の都合で天皇になればいいといったとたんに継体天皇の時代まで戻ってしまう。さもなくば中国の易姓革命の思想を輸入する必要があっただろう。日本人はそのどれも採用しなかった。自らの国に続く皇統というシステムを現実に即するよう作り替え整えていくことにしたのである。

こうしてみていくと、皇統の正統性は、いつの場合も、天皇や上皇が自ら主張しているというよりは、皇室を擁立する公家や武家がルール作りをし、コントロールしようとしていることがわかるのである。藤原氏は天智天皇までさかのぼった。北条氏は天智天皇より昔の皇室伝来の神器に正統性を求めた。足利氏は仕方なくそれよりもまえの継体天皇までさかのぼって正統性を求めたが結局うまくいかなった。後からルールを追加する者ほど古い神話時代の権威を掘り起こしてこなくてはならなかった。本居宣長の国学はある意味で神話時代を掘り返した北条氏や足利氏などの武家の理論武装に利用されたのである。藤原氏にとって神話時代のことなどどうでもよかったと思う。藤原氏には天智天皇という自分たちだけの偶像がいればそれで十分だったのだ。それ以外の権威を持ち出されても藤原氏には不利なだけだ。

明治維新はさらに神武天皇や天照大神まで皇室の権威をさかのぼろうとする。別に近代人のほうがそれ以前の封建時代の人より信心深いというわけではない。新しい時代ほど、まだ手垢のついていない古い権威を必要としただけのことである。また古い権威を創作するための学問や想像力も、それ以前の時代より発達していた。

藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などは、神武天皇や天照大神がどうこうなどということは考えてもみなかっただろう。どんなものか想像すらできなかったし想像してみる必要性も感じなかった。空想力がそこまでいたらなかったはずだ。家康は自らを東照神君と呼んだ。明らかに天照大神とタメをはろうとしている。家康はまた天台宗にも凝った。かなりやばい人だが要するに宗教も神話もよくわかってはいなかったのだろうと思う。周りの人もやはりわからなかった。誰もわからないからダメだししなかっただけだと思う。

国粋主義によって国家が生まれるのではない。産業革命によって近代国家がうまれ、近代国家というのは王室を持つにせよ共和国であるにせよ、国民万能主義であるから、国民の要請によって国粋主義が生まれるのである。国粋主義は往々にして太古の昔の神話を必要とする。近代考古学によって箔付けされた神話を。ヒトラーが「アーリア人がー」と言ったのにも似ている。イタリアルネサンスもキリスト教以前の多神教を必要とした。トルコからギリシャが独立するのにもヘレニズムやそれ以前のギリシャ神話を必要とした。国粋主義者は国粋主義がどのようにして生まれてきたかをしらない。国粋主義者は国粋主義に「酔う」が故に国粋主義の本質が見えぬ。国粋主義とは何かということは覚めた目で見なくてはわからぬ。本居宣長の理論も、日本に産業革命がおき、近代国家が成立したから必要とされたのである。国学という国粋主義が発展して国民国家ができたのではない。国民国家ができたから国粋主義が必要になったのである。たぶん日本の国をありがたがっている人たちはなぜ日本という国がありがたいのかよくわかってない。天皇をありがたがってる人たちも、ほぼ誰も天皇を知らない。天皇を知るには藤原氏や北条氏や足利氏を知る必要がある。南北朝の歴史を知る必要がある。しかし日本人のほとんどは南北朝音痴なのだ。歴史はつねに緩慢に連続的に進化していく。あるとき急に完成した形で生まれるのではない。急に過渡的に突然変異したように見えても、そう見えるのにはしばしば何か見落としがあるのだ。ちゃんと調べれば連続性はあるものだ。些細で不確かなものが、次第に明確でしっかりしたものに成長していくのだ。日本はその歴史を一応独力で今日まで、地道に地道に、積み重ねてきた。しかしその長い長い過程をきちんと連続して観察し理解するのは一般人には無理だ。だから学者が要領よく整理して見せてやらねばならぬ。しかし現代の学者は通史というものが苦手であり、日本史なら日本史、世界史なら世界史。その中の特定の時代しかやらない。完全にたこつぼにはまってる。司馬遼太郎の如きは幕末維新と戦国時代しかやらない。歴史のつまみ食い。これでは歴史はわからない。

明治天皇や昭和天皇も、また敗戦当時の右翼(山本七平の言説を見よ)らもみな、いわゆる「天皇制」というものが一種のファンタジー(虚構)であることは十分承知していた。従って、人間宣言というものがあのような形で出た。その内容は極めて妥当なものだった。昭和天皇は「天皇制」にまとわる虚飾を捨て去りたかった。

朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス
(We stand by the people and We wish always to share with them in their moments of joys and sorrows)。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ (The ties between Us and Our people have always stood upon mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths)。

朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
(We expect Our people to join Us in all exertions looking to accomplishment of this great undertaking with an indomitable spirit)。

これが天皇と日本国民の間で新たに結ばれた契約であって、またしても敗戦とGHQという外圧によるものであったのは皮肉であるが、皇統のルールが更改(再認識)されて、明文化されたのだ。しかるに右翼はこの人間宣言を認めず過去のファンタジーに固執し、左翼は鬼の首を取ったように勝ち誇って「天皇制」という右翼を攻撃するための偶像を捏造しようとし、今日に至っているのである。

道元 永平広録 巻十 偈頌

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最近このブログで山居がよく読まれているようだが、これは、tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、かなり古い。どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。興味ぶかい。

最初に書いたのは釣月耕雲慕古風というものなのだが、1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、そうざらにはいないはずである。いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで耕雲、鉤月などを書いた。2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、今見るとけっこう面白い。こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。うまい字というより、面白い字だ。全体のバランスがなんか微妙。メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。当時58才だったはずだ。装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。永平広録、読みたい。アマゾンでも売っているがかなり高い。たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」というものがあるらしいことがわかった。済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。
兩隻帚眉、但能掃愁;
一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚;
未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。
睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。
寒くてもいつも裸足。
年は取ってないのに白髪。
無頓着。
何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。
桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。
後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。検索してみると、図があった。能面。まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、左右一対の両方、という意味だろう。「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、
日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。後は読めばわかる平易な句だ。「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊

忘却山行困暑氛

宿鷺不驚人對語

跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。
山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。
棲み着いたサギは人が話しても驚かず、
魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。「雰」でも韻は踏める。平仄は完璧と言って良いのではないか。さすが菅茶山。

情と詞と体

定家「詠歌大概」冒頭、

情以新為先、詞以旧可用。風体可効堪能先達之秀歌。

情(こころ)は新しきを以て先と為し、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用うべし。 風体は堪能なる先達の秀歌に効(なら)ふべし、と訓めばよかろう。
割註があり、

求人之未詠之心詠之 (人が未だに詠まない心を求めて、これを詠む)
詞不可出三代集先達之所用、新古今古人歌同可用之

古今・後撰・拾遺に先達が用いた言葉以外を用いてはならない。 ただし新古今に採られた古い歌は同様に用いることができる。

不論古今遠近、見宣歌可效其体 (古い新しい、遠い近いをあげつらわず、良い歌を見て、その体に倣うべし)

情と詞の関係はつまり古今集仮名序 「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」 と同じである。 真名序の 「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」 とも同じである。

為世はさらにわかりやすく、「和歌秘伝抄」に 「心は新しきを求むべき」「詞は古きを慕ふべき」と解いている。

思うに、油彩画は油絵の具とキャンバスを使って描く物である。 油絵の具はゴッホの頃は近代化学の最新の産物であったかもしれないが、 今では古典的な画材である。 だがいったん油彩というジャンルが確定したからには油彩画は油絵の具を使い続ける。 アクリルを使えばもはや油絵ではない。

イエスは「新しき酒は新しき革袋に盛れ」「新しき酒を古き革袋に入れるな」という。 新しい酒というのはまだ発酵が終わらず、炭酸ガスを吹き出しているから、 古い革袋にいれると膨張できずに破裂てしまうという意味だ。 まあそれはそれでいい。 新しい思想は新しい技術と相性が良い。それはけっこう。 しかし和歌をたしなむ目的の一つは、古い言葉を通じて古人の心を現代に甦らせることにある。 今の世の中では忘れ去られ感じることが困難になってしまったことでも、 和歌を見ることで古人の心が手に取るように読み取れる。
西行や、実朝や、後鳥羽院や宇多上皇の心までも。

和歌に関して言えば、為世の言うように、

誠に月氏漢朝のわざをよむべきにあらず、 広学多聞を事とすべきにもあらず。 ただ大和言葉にて見る物聞く物について言ひ出だすばかりなり。

という考えに尽きている。 また、

いなおはせ鳥は鳥なりけりとも、雀なりけりとも、 よまぬ上はただ知らず。 よみによみたりとも何の苦しみかあらん

と定家自身が言っていると為世は言っていて、 これ完全に古今伝授を定家自身が否定してるわな。 でまあ為世は割とまともな人だなと思った。 むしろ為兼の歌論はひどい。 歌がつまらぬ人の歌論が優れていて、 歌がおもしろい人の歌論は出来損ないというのは困ったことである。

それはそうと、 「情」「詞」は明らかだが「風体」というのがよくわからん。 「歌風」とも「風姿」と「歌体」もいい、 ただ「体」とも言うのだが、 これがよくわからない。 古今集真名書にも出てくる。

華山僧正、尤得歌躰。然其詞華而少実。

対応する仮名序の箇所は

僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し

あるいは

文琳巧詠物。然其躰近俗。如賈人之着鮮衣。

文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず。 いはば商人のよき衣着たらむがごとし

また、

大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而躰甚鄙。如田夫之息花前也。
大友黒主は そのさまいやし。
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

「歌体」は「さま」と訳されていることがわかる。 あえて現代語で表せば「表現」とでもなるか。

つまり、新しい思いつきを古い言葉を使って、先達の表現(本歌取りを含む)に倣って詠め、ということであろうか。

香川景樹

香川景樹の「新学異見」、ここで新学というのは賀茂真淵の「にひまなび」のことであり、 景樹がそれに反論を試みたものである。 四十代半ばに書いたものらしい。

真淵は例によって万葉集はすばらしい、万葉集をまねて歌は詠め。 古今集をまねてはいけない。 実朝のような歌を詠め、などと言っている。 正岡子規が「歌詠みに与ふる書」に書いているのとまったく同じ論調。 子規がまねたわけだが。 景樹はそれに対して反論する。実朝の歌などは、こころざしあるものは決して見るべきものではない。まして倣ってはいけない、という。 その理由がつらつら書いてあり面白い。 適当に意訳すると、

人が古歌に感動するのは、その言葉がひとえにまごころから出ているからである。 その古人の偽りなきにならうのである。 ところが、実朝の歌は、古調・古言をかすめとったものであり、 古人のように真心を歌ったのではない。 後の人が見れば、ある人は藤原京や平城京の古代の歌に似ていると貴び、 ある人は真情を偽って世を欺く作だと卑しむであろう。 卑しむのはともかくとして、貴ぶなどもってのほかだ。 漢詩を作る人たちが我が国の言葉を捨て我が国の調べを捨てて、 ひたすら外国風に似せようとするのと同じことだ。

実朝の歌にもとときどき良いものはあるが、 万葉調むき出しの詠草のようなものもあるから、 それを言うのだろう。 実際実朝の歌をまねしてはならない。 ろくなものはできないだろう。

万葉調を漢詩にたとえているのが面白い。 景樹が宣長の国学の影響を受けている可能性は非常に高い。 歌風はだいぶ違うが。

でまあ、景樹とか、古今とか、景樹の影響を受けた御歌所長の高崎正風などは、 まず正岡子規に叩かれ、 それからアララギ派の斎藤茂吉や土屋文明などに叩かれ、すっかり悪者になってしまった。 それで大正時代以後完全に香川景樹は廃れてしまったのだが、景樹の言うことはまったくもって正しい。 実朝あたりが遊びで万葉調の歌を詠んだ程度ならともかく、 実朝をまねた下手くそ、例えば田安宗武なんかが出てきて、 そうすると宗武は吉宗の息子だから、みんなそれをよいしょするから、 そもそも歌などわからんやつらがむちゃくちゃにまねし始めて、 まねをするやつほどもとよりは下手だから手がつけられない状態になった。 それで、万葉調の復興というのはおよそ失敗に終わった。

正岡子規は景樹をある程度評価しているのだが、 そのニュアンスは他人には通じなかったと思う。 これまた面白いので引用しておく。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌もこれ有り候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存じ候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太に比するが適当と思われ候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存じ候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申し候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣きにこれ有り候。

蓼太とは江戸時代の俳人で大島蓼太という人らしい。知らんな。昔は有名だったが、今は完全に忘れ去られた人、ということか。

苔よりも雪の花咲け塚の上
五月雨やある夜ひそかに松の月
つちくれにうごく物みな蛙かな
世の中は三日見ぬ間に桜かな
かりそめに降り出す雪の夕べかな

確かになんかやらしい感じのする俳句だわな。 都々逸みたいなものだったかもしれんね。
景樹の歌も都々逸っぽいよな。 江戸時代の和歌なんだから仕方ないわけで。

景樹に戻るのだが

歌は、おのが情を枉(ま)げて、古調に似せんとするばかり、巧みの甚だしきはあらざるをや。

自分の真心を曲げてまで古歌に似せるのは技巧がひどすぎると。

未だに解き得ぬ遠御代の古言を集めて、今の意を書きなさんには、違へることのみ多く、誰かはうまく聞きわく人あらん。彼は今にそむくをもて古へとよび、巧みのなれるをもて真心と示し、大御代の平言をばひたすら俗語といやしめて、ただ古き世にのみかへらんとす。そのうたへる歌、つくる文を見るに、もののわかれざるや、うるま人と語らふごとく、事のたがへるや、いるま詞聞くらんここちして、さらにこの大御代心の姿とも思ひなされぬは、浅ましからずや。

景樹の主張をそのまま受け取ると、現代人は現代語で自分の真情を述べるべきだ、 ということになるが、果たしてそこまで言っていたのだろうか。 「短歌」という呼び名は間違っていないが、 「和歌」を短歌というようになって、 「やまとうた」というニュアンスが失われた。 大和言葉だけを使った歌という大前提が失われて、 五七五で季語を入れれば俳句、 季語が入ってなければ川柳、 五七五七七と少し長くすれば短歌、 そんなふうな位置づけになってしまっている。 単なる定型詩の一カテゴリーにされてしまっている。 「和歌」の本質は「やまとうた」であることであり、 形式だけ「やまとうた」を借りた詩は「やまとうた」ではないのではないか。 「短歌」というものをそういうものだと言いたければ言えばよいと思うが、 私はそっちの世界に行くつもりはない。

景樹は「古今和歌集正義」で、紀貫之が

いにしへ今の大和歌をつどへて、それが中より勝れたるを選びて、千首廿巻となし、古今和歌集と名付けて、奉り給ひしより、大和歌の道再び古へに復りて、今におよべり

唐歌大和歌の同じからざるけぢめを知るべく、大御国は異邦の風俗といたく違へる事を知るべきなり

などと書いている。 ここでも和歌は漢詩と対比されているのだが、 今の言葉を無制限に使って良いとは言ってない。 和歌には和歌のけじめがあると言っている。 「大御国の風俗」を大事にすること、それが和歌を詠むということだ。 同じことは宣長にも契沖にも言えるわけだし、 蘆庵も明確には言ってないが同じ思いだと思う。 真淵や宗武はそこからかなり外れてしまっている。 古すぎたり新しすぎたり、外来語を多用して「やまとうた」から逸脱しては元も子もない。

今の世の中外来語や漢語を使わないと詠めない歌はいくらでもある。 私はあえて使わない、敢えて詠まないだけだ。 和歌にはすでに定型詩という制約がある。 そこに語彙の制約を付け足すのになんの問題があるか。 定型が嫌ならやめれば良いだけだ。

歴史小説を書くのにも似ているかもしれない。 時代考証ができなくて歴史物など書けない。 それと同じではないか。

思ふこといはでかなはずそれいへばやがても歌のすがたなりけり

「桂園遺文」にある歌。景樹やっぱすごいな。 それが普通の人にはなかなかできぬ。 景樹の言いたいことを代弁してみると、 中世ヨーロッパには古代ローマ語に基づく正書法としてのラテン語があった。 ラテン語が共通語であった。 日本にも共通語と呼べるのは平安時代に確立した大和言葉であり、 古今集や源氏物語がその規範であった。 景樹にとってみれば正しい大和言葉を学んで真心をそのまま歌うのが、 大和歌だったのだと思う。 景樹の使う言葉は江戸時代の俗語ではない。 平曲や謡曲や俳句に使われるような和漢混交文でもない。 完全な和語である。 きちんと使い分けている。 古典語でもちゃんと熟達すれば話し言葉のように話すことができるし、 歌を詠むことができる。 そう言いたかったんだと思う。

江戸時代でも外来語や新語まじりの歌はいくらでもあった。 しかし和歌は大和言葉以外の語彙を使うことをかたくなにこばんだ。 俳句が語彙にアバウトになっていったのと違う。 ところが短歌というようになってからその制約をとっぱらってしまった。 それが良くない、と私は言いたい。 それはルール違反だ。 短歌は大和歌であることをとっくにやめてしまった。 和歌を大和言葉以外で詠んでいいのなら、 伊勢神宮だって鉄筋コンクリートで建てれば良いではないか。

大和言葉の語彙を広げようと新語や造語を乱造するのは無理があるかもしれない。 ただ大和言葉にも適当な新語はあってよい。 新語は漢語かカタカナ語に限る必要はない。 ただ、日本人にとって大和言葉の新語にはかなりの拒絶反応がある。 なじみ深いから新語は造りにくい。 だがそこはなんとかしなくてはならない。 香川景樹や上田秋成をみよ。 宣長だって、明治天皇が歌に使っている造語だって、そんなひどくはない。 みんな感覚で批判しているだけだ。