熊手

源氏前記平氏の平治の乱の辺りを読んでいた。「平将軍再生すと謂ふべし」というくだりがある。ここの「再生」も「死んだ人がよみがえる」という意味だな。また八町二郎という者が「鉄搭を以て」平頼盛のかぶとを「鉤す」とあるがこの搭もやはり「熊手」なのだろう。wikipedia にも「熊手」の中に「武器としての熊手」という項目があるが、どうやら長い柄がついた鉤鉾のようなもの、あるいは今でも漁港や釣りで使われる打ち鉤のようなものだったのではないかと推測されるのだが、よくわからんな。水上の戦闘では敵の船に打ち付けて引き寄せるのに使ったそうだから、必需品だったようだ。「熊手」というのは軍記物にそのままそう書いてあるのだろう。実際熊の手に似せて作ったのかもしれん。

しかし我ながらこんなにボロボロになるまでよく読むなと思う。この岩波文庫の日本外史など絶版なので、無くすと古本をamazonかなんかで買うしかなく、たいへん困る。

曽我兄弟

日本外史を読んでいて、やはり、予備知識がないとわからんところはどうしてもわからん。例えば曽我兄弟のことを「二孤」などと書いてあるのだが、曽我兄弟を知らない人が、ここの漢文だけを読んで、何を言おうとしているのかわかるだろうか。どうひねくり返してもわからんときには、頼山陽が参照した原典を読んでしまった方がずっとわかりやすい。

たとえば腰越状などにしても、「先人の再生にあらざるよりは、誰か為に分疏せん」などと書いてあるがちんぷんかんぷんだ。これは「亡き父・義朝がよみがえるようなことでもなければ誰が私のために申し開きをしてくれるだろうか」という意味だ。がんばって解読するよりはさっさと古典を読んだ方がまし。

「疏」というのもわかりにくい漢字だが、箇条書きのようなものを言うらしい。「分疏」では細かく説明する、弁解するの意味になり、「疏状」は告発書、訴状のようなものを意味するらしい。わからんよなあ。

壇ノ浦の戦いで「鉤」または「搭」などの語が出てくるが、これらはいずれも「鉄の熊手」のことで、「鉤」はまあ鉄のかぎ爪だとわからんでもないが、「搭」に至っては、たぶん漢和辞典でなく中国語辞典でも引かないとこれが「熊手」であることはわからんのだな。

「法皇弗予」なども「弗予」が謎である。読み仮名の「ふよ」と、文脈的に「不予」(天皇の病気)だろうと推測できるが、そもそも不予という言葉を知らなければ予測もつかない。

で、結局、日本外史を読むということはその出典もすべて読まないと完璧とは言えない、ということだろう。幕末維新の武士たちが日本外史を読んで勉強したというがどの程度彼らは読めていたのだろうか。たぶん、日本外史以外の書籍が相当にちんぷんかんぷんで、日本外史はそれらよりはましという状況だったのではないか。まあ、今の教育が進んだ情報化社会と比較しても仕方ないわけだが。

google日本語入力だが、固有名詞には非常に強い。マイナーな登場人物の名前もばんばん変換できる。しかし、当然変換できるはずの単語がうまく変換できなかったり(たとえば「頼家」とか)。atokの手書き文字入力も捨てがたい。なんで結局atokとgoogleを切り替えながら書いている。

袈裟御前

袈裟御前については、平家物語には出てこず、源平盛衰記が初出と思われる。第十九 文覚発心附東帰節女事。おそらくは後世の創作か。他人の妻を殺害して出家しただけで咎めがないのはちとおかしいだろう。

愚管抄:
コノ頼朝コノ宮(以仁王)ノ宣旨ト云物ヲモテ来リケルヲ見テ。サレバヨコノ世ノ事ハサ思シモノヲトテ心ヲコリニケリ。又光能(藤原)卿院(後白河)ノ御氣色ヲミテ。文覚トテ余リニ高雄ノ事ススメスゴシテ伊豆ニ流サレタル上人アリキ。ソレシテ云ヤリタル旨モ有ケルトカヤ。但是ハ僻事也。文覚、上覚、千覚トテ具シテアルヒジリ流サレタリケル中。四年同ジ伊豆國ニテ朝夕ニ頼朝ニナレタリケル。其文覚サカシキ事共ヲ。仰モナケレドモ。上下ノ御・・・ノ内ヲサグリツツイヒイタリケル也。

まあ、この文章を普通に読めば、以仁王の令旨とは別に、後白河法皇の「御気色」を読んだ藤原光能が、伊豆へ流される文覚に言付けて、頼朝へなにやら言い遣ることがあったというが、しかしそれはうそだよ、と読める。
平家物語のように文覚がいきなり福原まで訪ねてきて後白河法皇の宣旨をもらって伊豆に戻ってきたとはならんわな。しかもたったの八日で往復とかありえん。
文覚は弟子の上覚、千覚とともに伊豆に流されたことになっている。
まあそれはあり得るのかもしれん。

義仲ハワヅカニ四五騎ニテカケ出タリケル。ヤガテ落テ勢多ノ手ニ加ハラント大津ノ方ヘ落ケルニ。九郎追カケテ大津ノ田中ニ追ハメテ。伊勢三郎ト云ケル郎等。打テケリト聞ヘキ。頸モチテ参リタリケレバ。法皇ハ御車ニテ御門ヘイデデ御覧ジケリ。

江ノ島弁財天

吾妻鏡 養和二年(1182)四月小五日乙巳。武衛令出腰越辺江嶋給。・・・是高雄文学上人。為祈武衛御願。奉勧請大弁財天於此嶋。江ノ島の弁財天は吾妻鏡によれば1182年に文覚が頼朝に勧請したものだという。へええ。

文覚が頼朝に与えた影響について。なるほど。ではやはり文覚は頼朝配流時代に伊豆で会っていたわけだ。頼朝とも親しく、しかも平家の残党とも親しい。実に不思議な人だな。

玉葉寿永二(1183)年九月二十五日「伝聞、頼朝以文覚上人令勘発義仲等云々」なるほど、頼朝から義仲への使者として文覚が遣わされているんだ。そんなこともやってたんだなあ。

平維盛

すげえ面白い人だな。

たぶんこの人は、長男ではあったが嫡嗣ではなかったのだろう。平氏は清盛の代で初めて摂関家よりも朝廷で権力を握ったが、長年の姻戚関係で藤原氏と天皇家は親戚同然。平氏も嫡男は後見役として藤原氏と婚姻関係を持たないと、何かと形見が狭かったろう。維盛は平氏の中でも都でもかなり浮いた存在だったのではないか。

富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いでは総大将ということになっている。富士川の戦いほどよくわからん戦いもないだろう。一応平氏の長男として維盛が総大将だが、目付役として藤原忠清が付いている。まあ二人とも公家だわな。物見遊山気分で遊女など連れて繰り出したんだろうな。まあ負けそうだよな。倶利伽羅峠に至っては野人のごとき木曽源氏の本拠地で公家が戦ってはまあ負けるわな。

平家都落ちの際には妻子を都に残し、一の谷の合戦の頃に敵前逃亡。自殺したことになっているが果たしてどうか。ま、ともかく、平氏の一門として闘争心があったかどうかはかなり疑わしい。運命共同体的なものは、感じてなかったに違いない。

ある意味ダメ平氏の象徴みたいな人ではある。

維盛の子どもが六代で、清盛の血筋では最後まで生き残ったが、結局殺されてしまう。平家物語では重盛-維盛-六代の血筋がかなりひいきされているようにも見える。

文覚

文覚という僧侶は、平家物語によれば、京都高尾山にある神護寺を復興し、平家の嫡流を保護し、源頼朝に後白河法皇の宣旨をもたらして決起を促したとある。しかし、令旨を書いたのは以仁王とその謀臣の源頼政、その令旨を頼朝にもたらしたのは源行家であり、行家は頼朝だけでなく甲斐や木曽の源氏にも令旨をもたらしている。平氏に反発する親王と源氏という構図であって文覚が入り込む余地はない。文覚に関する平家物語の記述はあまりにも誇張されているし、捏造にも度が過ぎている。

客観的な史実としては、頼朝の勝利の後、後白河法皇や頼朝の援助で神護寺を復興したということ。平氏の嫡流「六代」を神護寺に保護したということ。鎌倉幕府側の勢力として後鳥羽天皇に疎まれていたということ。頼朝の死後、政争に巻き込まれ、佐渡、対馬などに流されて死んだということ。そのくらいではないのか。頼朝との関係は平氏追討後からと考えた方がずっと自然だ。

平家物語は高尾山にかくまわれていた六代が処刑されたところで終わっている。ここでもやはり神護寺が関わっている。思うに平家物語は、もっとシンプルな(長々しい言い回しや余計な漢籍の引用がなく、仏教色が少ない)「治承物語」という原型があって、それに文覚と六代に関わりのある神護寺の関係者が大幅に加筆したものではなかろうか。また、平重盛を過度にひいきしていることも何か理由があるかもしれない。重盛が頼朝、藤原光能とともに神護寺に肖像画が伝えられていることも何か意味深ではある。藤原光能は文覚を頼朝のために後白河法皇に取り次いで平清盛追討の院宣を出させるように迫ったとされている。あり得ないことだ。どうも陰謀めいている。

五位鷺伝説

またしても平家物語をだらだら読んでいたのだが、五位鷺という名前の由来が醍醐天皇の時代の出来事に由来するのだという話がある。これまた平家物語の本筋とはまったく関連がなく、後から追加された逸話だと思う。ゴイサギは頭の後ろに長い毛が生えていて、それが水の中の魚をついばむのはなかなかかわいらしい仕草である。日本中どこにでも水辺に見られる鳥だと思うのだが、それはともかくして。

醍醐天皇の時代は西暦930年までで、平家物語の成立は鎌倉時代中期の1250年から1300年くらいだと思われるのだが、およそ300年前の伝承が途中まったく他の文献にも見えずいきなり現れたというのはもうこれは当時の民間伝承か何かと思わざるを得ない。能の演目にもなっているがそれは後に室町時代になってから平家物語にあるんで能になっただけだろう。

平家物語は今昔物語的なところがあり、当時のいろんな説話が無造作に取り込まれている感じだ。

燃えよ剣下巻

本棚を整理していたら燃えよ剣の下巻が出てきたので読み始めた。もともと私の本ではなく死んだ祖父の本を拝借したもの。うーん、なんちゅうか、七里研之助を倒し、伊東甲子太郎を暗殺したところまでは、面白かったんだが、その後は史実をなぞるだけな感じでどうでしょう、という。

うすうす感づいてはいたがやはり七里研之助は架空の人物だったのだな。こちらはまあ良く書けてるとして、妻として出てくるお雪とのあれこれというのは、もうはっきり言って邪魔。下巻読む気を失わせる一番大きい原因かも。

やはり、鳥羽伏見の戦い辺りからもう新撰組がどうこうという話ではなくなってしまうので、小説としては書きにくかったのではないかなとか。

後書きが陳舜臣で割と面白い。司馬遼太郎がこれを執筆したのが昭和三十年代後半というのだから、ちょっと驚く。当時三十才後半くらい。まだ私は生まれてない。そのころは調布も府中も八王子もあの辺一帯まだまだ田舎で桑畑だらけだっただろう。ちょうど、今で言う所沢あたりのように、冬は畑から土埃がもうもうと舞ったのだろう。初夏には竹のささらで地面を叩きながらマムシを避けないと歩けなかったのだろう。気性も荒く、殺伐としていて、子供の喧嘩も酷かったのだろう。という多摩の風土を書いたものとして読めば面白いのだが、維新後に北海道に渡って独立国家を作ろうなどというのはどうも私にはただの茶番に思えて仕方ない。結果論というやつかもしれんが。

内村鑑三「代表的日本人」の「上杉鷹山」のところを読む。山形県的には偉人、というか昔の日本人的には偉人なのか。江戸中期くらいに藩の財政改革として荒れ地に桑を植え始めたのかな。

マルコ福音書

マルコ福音書は最初に13章までが書かれたのだという。つまり受難の前まで。さらに受難の章14,15が書かれた。復活について書かれた16章目は、もともとマルコには含まれていなかったという。

ということはだ、マルコの最初の形は、冒頭ヨハネの話がちょっと出てくるが、いきなりイエスのガリラヤ布教の話に移る。そしてほとんどがガリラヤでの布教活動の記述の列挙で終わる、ということだ。つまり、マルコ福音書というのはもともとは「イエスのガリラヤ布教伝」 というものだったらしいのだ。

「イエスのガリラヤ布教伝」というテクストがまずあって、これに若干加筆してマルコとなり、また「ガリラヤ布教伝」または「マルコ」を参考にして「マタイ」と「ルカ」が出来た、ということらしい。

「マタイ」が現在の新約聖書の冒頭に配置されているのは、「マタイ」がダビデからイエスまでの系譜やら、イエスの誕生などを時系列で丁寧にまとめているからだろう。

新約聖書

新約聖書の中では、福音書よりも、パウロの書簡の方が先に成立したというので、まあ、そりゃそうだわなと思い、パウロの手紙を読み始める。文章として後世に残るというのは、古代にあっては特に、リテラシーのある人たちまで広まってからでなくてはおきなかった。たとえば日本の歴史で言えばだが、源義家の時代、彼の周りには特に、実時間で文書を記録する人がいなかった。だから一次資料もほとんどなく、二次三次資料、後世作られた伝説しかない。しかし、源頼朝までくると、公家らがほとんど実時間に日記に記録している。第三者の視点で記録された一次資料というものがある。平家物語ですら、歴史というにはあまりにも一次資料に欠けている。たまたま琵琶法師の平曲でそう言ってたというだけで歴史扱いされているのだが、平家物語は実時間の記録ではなく、50年近くかけてだんだんにできたものであり、史実とは言い難い。

新約聖書にも一次資料などというものはない。パウロ書簡からがほんとうに後世に残された資料で、福音書はその後に教団ごとに整理されたもの。当時リテラシーがあった人など人口の1%もいたかどうかだろう。初期の使徒らはみな文盲だっただろう。教団ができてから、その中のほんの一部の人が、文字を読めて書けたのだろう。で、パウロという人は、おそらくは、キリスト教団の中で初めて文字を読めて書けた人だったのだろう。

つまり、文書として後世に残った時期にはすでに相当に世の中に広まった後だということ。キリスト教は実はパウロ教だというのもまあわかった気がする。

ウィキペディア英語版では Jesus だけなのに、対応する日本語版には「イエス・キリスト」「ナザレのイエス」「史的なイエス」などと項目が細かく分かれる。ドイツ語版は Jesus Christus と Jesus von Nazaret に分かれていて、やや日本語版に似ている。