改めて、後醍醐天皇という人はよくわからん。
中継ぎで31才で即位したのだが、
似たような例では後白河天皇がいる。
後白河天皇はすぐに譲位して上皇になってしまった。
しかし、後醍醐天皇は決して譲位しない。
三種の神器とともに逃げ出してしまう。
宮中祭祀を自ら行うことに異様に執着したようにも見える。
天皇のうちは神事にたずさわるため、仏事を行うことはできない。
上皇になれば神事から離れて、出家するのも自由。
当時の天皇は、ほとんど全員、すぐに譲位してそのうち出家している。
その方が気楽だからだろう。
でも、後醍醐天皇は、そうしなかった。
後醍醐天皇をわかりにくくしているのは、やはり、歴代天皇に類例がないからだ。
後鳥羽天皇とも、似てない。
後鳥羽天皇は、まあわかる。西国の武士を糾合したら鎌倉に勝てるかもしれないな、
と思っちゃったのも、まあ理解できる。
後醍醐天皇は、たぶん、倒幕運動などといえるような、組織的なことはなにもしてない。
比叡山や南都の僧兵を味方にすれば幕府を倒せると思ったのか。
そんなはずはない。その可能性は平清盛の時に否定されている。
西国武士では板東武士は倒せないことも、承久の乱でわかっている。
じゃあ、後醍醐天皇は何をしようとしたか、というと、ただひたすら、譲位を拒んだ、
というくらいしか思い当たらないのだ。
皇位継承は天皇の宣旨もしくは上皇の院旨によって決まるというのは、
天智天皇が定めた律令制以来のシステムであって、それまでは「三種の神器」こそが皇位継承の絶対的権威だったと、
思いがちなのだが、実はそうではなく、
天皇もしくは上皇の意志こそが、古来の素朴な家父長制の名残であって、
それを天智天皇が律令とか詔勅という形で制度化しただけなのかもしれない。
「三種の神器」は、皇位継承の象徴、イコンの一種であり、それに何か神秘的な意味合いを持たせ始めたのは案外後世のことではないか。
後鳥羽天皇は「三種の神器」なしに即位したと騒ぐ向きもあるが、後白河法皇の院宣によって即位したのだから、律令的にはまったく合法だ。
承久の乱では、逆に、「三種の神器」はあったが、宣旨も院旨もなかったのだから、律令的には違法だ。
ということは、「三種の神器」に絶対的権威が必要となったのは、実は承久の乱以降ということなのだ。
後醍醐天皇は、「三種の神器」が天皇しか所持できない、
ということに、最初に着目した天皇だったに違いない。
インフレを起こしていた上皇ではなく。
「三種の神器」という神話的権威を最大限に利用したのも後醍醐天皇だ。
だから彼は、決して譲位しようとしなかったのだ。
そのヒントは、承久の乱にあったに違いない。
北畠親房がその理論構築に関与した可能性は、きわめて高いと言えるだろう。
一方、上皇がたくさんいる方が北条氏にとっては都合がよかった。
そのうちの誰か一人を傀儡にすることに成功すれば、皇位継承をコントロールでき、
未だに厳然たる律令国家だった日本で、合法に、宣旨も院旨も発令できるし、官位官職も思いのままになったのだから。
両統迭立、十年おきに皇位継承というのは北条氏が定めたわけだが、
これは二十年おきの伊勢神宮の式年遷宮にも似た、当時としては、きわめて合理的なシステムだったと思う。
天皇家にとっても、必ずしもメリットのないやり方ではなかったと思う。
結局、皇位継承というのは、天皇家、公家、武家の合議でやるより他なかったのだから。
両統迭立が後の南北朝の対立につながったとして批判するのは、結果論に過ぎないし、
その原因を後嵯峨天皇の優柔不断さのせいにするのは安易だと思う。
衆議院と参議院の二院制のようなもので、幕府との分権ができて、
たまたま後醍醐天皇という人が現れなければ、あと百年くらいはうまく機能したのではないか。
逆に、「三種の神器」こそ絶対だという考え方は、当時普及していた院政とも幕府とも真っ向から対立する。
それは天皇親政というのを通り越して、神政、神道というのにきわめて近い。