台東区には台東区の巡回バスというものがあり、墨田区には墨田区の巡回バスというものがあるが、隅田川を挟んで墨田区と台東区を行き来するバス路線がまったくと言って良いほどない。たとえばだが、白鬚橋を渡って東向島、曳舟、押上を経て、言問橋を渡って鶯谷、三ノ輪へ回ってまた白鬚橋に戻るのような巡回バスがあると非常に便利だと思うのだが。
ともあれ、浅草から白鬚橋を渡り鐘ヶ淵から東向島あたりを散策してみた。
鐘ヶ淵は墨田区というより南千住、北千住あたりと雰囲気が近い。かなりさびれた感じ。東向島は比較的栄えていて、東武博物館などもあり、路傍に鉄道車両などが展示されていて、なにやら楽しげな町だ。まいばすけっとがあちこちにあったのでカラヒグ麺の在庫も確認してみた。あまり売れてなさそうだった。私がこれまでみた限りでは雷門のまいばすけっとが一番賞味期限が新しい。やはりあのへんがよく売れているのだろう。
隅田川神社はもとは水神と呼ばれて、もっと木母寺の近くにあったらしい。今の隅田川神社は隅田川の間に高速道路が走っていてまったく情緒が無い。木母寺には初めて来たんだと思うんだが、なかなかすごいところだった。
謡曲「隅田川」は世阿弥の作とも、世阿弥の子の観世元雅の作とも言われる。後崇光院の「看聞日記」にも演じられたと記載があるという。世阿弥、観世元雅、後崇光院はほぼ同じくらいの時代の人。将軍でいうと足利義教くらい。
一人子が人商人(ひとあきびと)に誘われて東国に下ったと聞いて、京都北白川に住んでいた女が物狂いとなって隅田川の渡しまでやってきた。
我もまた いざこと問はむ 都鳥 いざこと問はむ 都鳥 我が思ひ子は 東路に ありやなしやと 問へども問へども 答へぬは うたて都鳥 鄙の鳥とや いひてまし
ここ隅田川の渡しの地の人が言うに、「人商人の都より、年のほど十二、三ばかりなる幼き者を買ひ取つて」陸奥へ連れて行こうとしたが、馴れぬ長旅に疲れたのか病んで一歩も歩けなくなり、この地にひれ伏して、商人はその子を見捨てて陸奥へ下っていったという。その子は父には先立たれて母と二人で暮らしていたが、商人にかどわかされた、都の人が通りがかるのを見たいのでこの道ばたに埋めて目印に柳の木を植えてくれと遺言して死んだという。謡曲「隅田川」の中には
たづねきて 問はば答へよ 都鳥 すみだ川原の 露と消えぬと
という辞世の歌は見えない。梅若丸という名は出てくる。物狂いした母が子の死を知って出家し、妙亀尼と名乗ったという話も出て来ない。出家前の名、花御前という名も出て来ない。
徳川家綱の時代に成立した木母寺に伝わる「梅若権現御縁起」に梅若の父の名は吉田少将惟房、その妻は花御前、近江国坂本の日吉山王に願掛けして梅若が生まれる。梅若五才の時に父が死に、七才の時に比叡山月林寺に入る。おなじく稚児の松若丸との稚児争いで山道に迷い、人買いの信夫藤田というものにかどわかされる(信夫(しのぶ)というのは欧州の地名であろう)。梅若を葬ったのは忠円阿闍梨という僧侶、などとかなり詳しくいきさつが記されているらしい。花御前は梅若の塚の側に庵を建ててそこに住んで梅若を供養していたが鏡が池に入水して死んでしまった。死体を載せた亀が浮いてきたので、忠円阿闍梨が墓を建てて妙亀大明神として祀ったのだそうだ。
稚児争いとか僧侶と稚児の関係などあやしげだが、要するに比叡山で起こった痴話喧嘩のために梅若丸ははめられて陸奥に連れ去られてしまった、陰湿ないじめや抗争のようなものがかつては良くあって、それが伝説として残り、謡曲となった、のかもしれない。
ともあれこの梅若伝説というものはいろんな形のいろんな言い伝えがあって江戸時代になって余計に手が加えられているらしく、誰かがきちんと総括したほうが良いんじゃないかと思った。そういう論文が既にあるのかもしれんが。


天下之糸平の石碑は実際に見てみなくては大きさが良くわからないと思うが、とにかくめちゃくちゃでかい。畳でいうと10畳くらいの広さ。それが5.45m × 3.6m でどーんと建っている。



初代三遊亭のために山岡鉄舟が揮毫したという石碑も、くねっとした形で、なんかあかちゃけてて味がある。



Instagram を使ってみたのだが、みんなスマホでしかやらないせいかしらないが、PC版(Web版)だとどこをどういじっていいのかよくわからない。ストーリーとか作れないんじゃないかと思う。ストーリーを作れないとハイライトも作れないらしいんだが、スマホで作業する気は1ナノメートルもないので、やる気が起きない。
その上、Web 版でブックマークしようとするとタイトルがバグるので余計につかいにくい。とにかくInstagramは自分がみたいものをすぐにみることができないし、レイアウトしたいようにもできないし、Instagramすらつかいこなせないのかとはがゆくなるが、私の場合は結局wordpressで物を書いて写真を載せた方がずっと気が楽だということがわかった。
人商人というのは漱石の「坑夫」に出てくる周旋屋のことだろう。日本にはずっとそうやって孤児などを拾って売り飛ばす商売人がいたものとみえる。
東向島から東武で浅草へ戻る。向島で飲むときは一軒に限る。どうせ浅草に戻ってきてもう一軒くらい行きたくなるのだから。ましかし大人しくタクシーで帰るというのも悪くはない。せいぜい1500円か2000円で帰れるのだから。
浅草の某商店街は雑貨屋も飲食店も道にはみ出して品物を並べたり椅子やテーブルを置いたりして、それを観光客が立ち止まってぼーっと眺めていたりして、そうすると余計に人だかりがして、自転車が大量に路駐してたりしてまさにカオス。歩きにくくて仕方ない。駅に急いで行こうとするときなど非常にイライラする。ここを避けて裏道を通るしかない。あといまだに「コロナ対策にご協力ください」などとアナウンスするのはやめてほしい。