引き続き、第2講「新批評」。
マックスウェーバーが「典型的かつ大量に行われる社会的闘争はながい間には結果的に、重要な個人的性質を持つものを淘汰するに至る」
と言っているらしいのだが、これは
[ピーターの法則](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87)
のことではないのか。
よくわからんがとりあえず備忘録代わり。
うーむ。
ヴィトゲンシュタインという哲学者は「すべてのものを正確にあるがままの形でほったらかしておくものだ」と言っていて、
それはつまり「文学作品を解剖するのは人間の体を切り刻むのと同じ非道な行為」だからで、
「ちょい本居宣長」だと言っている。
なぜそこでまた本居宣長。
本居宣長は、そんなこと言ってないよ全然。
筒井康隆の中では本居宣長っていう人はどういう人ということになっているのかなあ。
「ちょい小林秀雄」、という意味でなら少しは当たってるのかな。
小林秀雄は、よくわかりません、なんでゴッホとかモーツァルトとかまで口出ししてるのか。全然わからん。
で、小林秀雄と本居宣長は全然別の人格だと思うんだけど。
「新批評」は「科学合理主義のパロディ」「技術優先」「判断停止」ふーん。とりあえずメモ。
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