文学部唯野教授

なんとなく手持ちの本を読み始める。

『文学部唯野教授』第一講「印象批評」。

ここで、筒井康隆は、「印象批評」とは、「神様並みの常識持」つ人にしか出来ないことで、
日本人ならば小林秀雄や本居宣長くらいだ、などと言っていて、妙に感心してしまったので、
久しぶりにここに書いているのだが。

さらに「神様並みの常識持」つ「印象批評」をする人でも
「小説は無秩序だから面白い」とか「登場人物の性格が行き当たりばったりだからこそ自然に見える」などと言っている。
うーむ。
たぶん、いや確実にだが、筒井康隆は、きちんとプロットを考えて、登場人物の性格もきちんと設定して、
小説を書いているにもかかわらず、
「あなたの小説はカオスなところが面白いですね」とか「登場人物の性格が破綻しているから面白いですね」
などと言われて頭に来たのだろうな。
はははわかるわかる。

国文科は小林秀雄の『本居宣長』を半強制的に読まされるのか。
以前この部分を読んだときは、そもそも小林秀雄も本居宣長も読んではいなかったので、ちんぷんかんぷんだったのだが、
今ならだいたいわかる。小林秀雄の『本居宣長』も、本居宣長の著作も、精読した(つもり)だからだ。

で、本居宣長の「されば、緒の言は、その然云フ本の意を考えんよりは、古人の用ひたる所を、良く考へて、云々のことは、云々の意に、用ひたりといふことを、
よく明らめ知るを、要とすべし」を原文密着主義、などと筒井康隆は言っているのだが、はて、そうだろうか。
まず、もとの本居宣長の引用だけど、「用ひ」などの仮名遣いが間違っていて、しかも送りがながひらがななところを見ると、
たぶん岩波文庫版の『排蘆小船』から引いたものだろうと思うのだが、だとしても、
宣長が言いたかったことは単に、古語で意味の通らない言葉が出てきたときには、その事例をできるだけたくさん調べて、
意味を解読する必要があるよ、ということだろう。
言葉の意味の本質などというものをいくら考えても無駄で、できるだけたくさんの文献に当たって用例を調べて類推しろと言っているだけだ。
これをひとことでなんと言い表すかは知らんが、
それを「神様並みの常識を持つ人の印象批評」とか「原文密着主義」などと言ってよいのだろうか、と疑問に思ってしまうわけだ。

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